しかし、高い政治力を誇(ほこ)っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化(しんこくか)したこともあって高橋内閣は短命に終わり、翌大正11(1922)年6月には政友会の支持を受けた海軍大将の加藤友三郎(かとうともさぶろう)が内閣を組織したため、本格的な政党内閣は一旦(いったん)消滅(しょうめつ)しました。
加藤友三郎内閣はシベリアからの撤兵(てっぺい)を実現させたり、普通選挙制への検討(けんとう)を始めたりしましたが、翌大正12(1923)年8月24日に加藤が病死し、後任者を選任中の9月1日に関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生しました(震災についての詳細はいずれ後述します)。
震災翌日の9月2日に山本権兵衛(やまもとごんべえ)が急きょ第二次内閣を組閣して震災後の処理(しょり)に奔走(ほんそう)しましたが、同年12月27日に帝国議会の開会式に向かわれた摂政宮裕仁親王(せっしょうのみやひろひとしんのう、後の昭和天皇=しょうわてんのう)が無政府主義者(むせいふしゅぎしゃ)の難波大助(なんばだいすけ)に狙撃(そげき)されるという虎の門事件(とらのもんじけん)が起きました。
摂政宮はご無事でしたが、第二次山本内閣は事件の責任を取って翌大正13(1924)年1月に総辞職し、普通選挙制の実施(じっし)は持ち越しとなりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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tnt こんにちは。
虎の門事件、wikipediaで調べてみましたが、なかなかに壮絶な事件のようでビックリしました。その後の政権の動きとかを見ると実は実は重大な節目だったようにも思います。
ショックです。
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
虎ノ門事件について、知りませんでした。
というか、
大正時代は、今よりも、国民の天皇にたいする
尊敬の意識が強いと思っていましたので
そんなことは、有り得ないと思っていました。
現在の今上天皇が、皇太子時代に沖縄にご訪問され、火炎瓶を投げつけられた『ひめゆりの塔』事件もそうですが、
天皇陛下の国民とともにあるという大御心は
それだけ、国民との距離が近いだけあり、
常に危険ですね。
それでも、天皇陛下のご行動には、頭が下がります。
◆ 関東大震災後の昭和天皇の御視察。
◆ 今上陛下の東北沖地震、今回の沖縄ご訪問。
現在は、馬鹿マスコミが、天皇陛下の沖縄ご訪問の報道を小さくしか扱っていないことに、怒りを感じますが。。
tntさんへ
黒田裕樹 仰るとおり虎の門事件は摂政宮殿下(後の昭和天皇)がご無事であられたのが不思議なほどの大事件でした。
それだけに各方面へもたらした影響の大きさがうかがい知れますね。
青田さんへ
黒田裕樹 大正時代の末期には無政府運動が活発化しますから、過渡期としての事件としてとらえるべきかもしれません。
最近の皇室のお姿に関する記事に対する憤りは私も同じ思いです。
ぴーち おはようございます!
普通選挙制度が施行されるまでには、紆余曲折があったのですね。
今は当たり前の様に選挙権をいただいていますが、こういう時代の苦労を垣間見ると、やはり一票を無駄にしてはいけないものだと有難味を深く感じます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な歴史の流れがありました。
これを踏まえてもう少し詳しく紹介することになりますので今しばらくお待ちください。
清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数ヵ月後に迫(せま)っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。
しかし、立憲政友会・憲政会(けんせいかい)・革新倶楽部(かくしんくらぶ)のいわゆる護憲三派(ごけんさんぱ)は清浦内閣に反発するかたちで憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)を展開しました。これは今日では第二次護憲運動(だいにじごけんうんどう)と呼ばれています。
清浦内閣は立憲政友会の脱党者(だっとうしゃ)で組織された政友本党(せいゆうほんとう)を味方につけて総選挙に臨(のぞ)みましたが、結果は護憲三派の圧勝に終わり、清浦内閣は総辞職しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
脱党者だけで・・
この部分は何とも意味深に感じました(^^ゞ
その場限りの付け焼刃的な政策、性急に体裁だけを取り繕って出来た政党はちょっとした弾圧に耐え切れずにすぐ粉砕してしまうものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに現在の状況(衆議院総選挙前)を考えれば意味深ですね。
今回は果たしてどうなるのでしょうか?
加藤高明内閣は大正14(1925)年に普通選挙法を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。
一方、加藤高明内閣は治安維持法(ちあんいじほう)も同時に成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結(ていけつ)してソ連との国交を樹立(じゅりつ)したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締(し)まることが目的でした。
なお、加藤高明内閣の成立以後、昭和7(1932)年の五・一五事件で犬養毅(いぬかいつよし)内閣が崩壊(ほうかい)するまで、衆議院で多数を占(し)める政党のトップが内閣を組織する慣例が約8年間続きました。これを憲政(けんせい)の常道(じょうどう)といいます。ただし、勢力争(せいりょくあらそ)いなどによって政党が分裂(ぶんれつ)や連合を繰(く)り返したこともあって、政党政治は次第に国民の信頼を失っていくことになりました。
政党政治が国民の信頼を失った理由としては他に「政治の腐敗(ふはい)」も挙(あ)げられます。確かに多額の金銭が飛び交(か)うような金権政治には問題が多いですが、こうした腐敗が普通選挙制度の実施後に「ある理由」で一気に拡大したという事実を皆さんはご存知でしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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中年の星 最近の大衆迎合的な政治家を見ていると、国民の側のレベルの低さの写し鏡のような気がしてなりません。制限選挙に戻したほうが良いような気がしてきました。
中年の星さんへ
黒田裕樹 仰るお気持ちはよく理解できます。
次回(1日)から「普通選挙の問題点」を指摘しますので、ぜひご覧ください。
ぴーち おはようございます!
ある理由・・?気になりますね^^
なんでもそうでしょうけれど
腐敗したものがひとつでもあると、周りもじわじわ腐り始めますからね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに腐敗は周囲にも影響を及ぼしますから危険ですね。
加えて根元がそうであるとすれば…という問題になると思います。
高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴(うった)えるのが通常となっていますが、確かに制限選挙よりも普通選挙のほうが制度として当然ではあります。
しかし、我が国で普通選挙の実施後に政治に、特に選挙に大変な費用がかかるようになったのもまた事実なのです。
そもそも我が国における納税や財産による制限選挙の時代は大掛(が)かりな選挙運動はほとんど必要がありませんでした。なぜなら、選挙権を持っている国民の多くが農村では地主、都会では会社の経営者といった層(そう)であり、彼らのほとんどが支持政党を決めていたり、また普段から収入があってプライドも高かったりしたことから、買収される恐(おそ)れがなかったからです。





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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この大正時代の普通選挙法の制定があったことを
知っている日本人は、少ないですね。
というのも、
今の80代、70代が小学生・中学生の時代
既に戦争が始まっていて、軍部の独裁のイメージが
強く、最初から、軍部が政治を握っていたという
思い込みがあるからです。
私の父親は、80歳、母親は、75歳ですが
最初から、軍国主義の国だったと思いこんでいて、
私が、『大正時代に普通選挙が、行われた。』と話しても信じてもらえません。
つまり、今の日本人の近現代史には
明るい時代の明治のイメージ
と
暗いイメージの昭和初期のイメージだけがあり
大正時代だけが、すっぽりと抜けいている気がします。
ただ、大正時代の歴史は、重要で
この普通選挙による政党政治の教訓は
現代の日本人に大きな課題を投げかけている気がします。
つまり、
普通選挙による政党政治が、100%、国民を幸福にする政治方式とは、限らないということです。
もちろん、民意を反映させるという意味では、
優れた政治体制ですが
民意とは、天気のようにいい加減で、コロコロ変わります。
その民意だけでは、長期的な戦略は、創りにくいですね。
まるで、今の時代を観ている気がします。
ぴーち おはようございます!
なるほど、確かにお金によって買収される
危険度は少ないですが、支持している政党が
最初から決まっているのなら、いくら他の政党が新たな方針を訴えたとしても、聞く耳も持たれずに、結局は選挙そのものの意味が無くなるような気がしますね(^^ゞ
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
時代は確実に進んでいるのですが、人間のやることは基本的に同じだということでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに支持政党が決まっていれば仰るとおりかもしれません、
ただ、それでもあえて反対票を入れるということで、支持政党に反省を促すという手段も考えられますね。
いずれにせよ、政治を真剣に考えての結果だとは思われますが…。
しかし、政党にそんな多額の費用を負担(ふたん)する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口(おおぐち)の献金(けんきん)に頼(たよ)るようになるのも当然の帰結といえますが、こうなると国民の生活よりも資金を提供している財閥の存在にどうしても政治が左右されるようになりますから、国民の目には「政治が腐敗(ふはい)している」ように見えることで彼らの怒りが政党や財閥などに向けられ、やがて政党政治が崩壊(ほうかい)していくというのも一つの「歴史の流れ」だったのです。
「政治の腐敗」に対して国民が怒り、またマスメディアが叩(たた)くのは無理もない話ではありますが、こうした問題は今から90年近くも前に普通選挙が実施されてからずっと続いているという現実も、私たち日本国民がしっかりと認識する必要があるのではないでしょうか。
今月16日には3年4ヵ月ぶりに衆議院総選挙が行われます。過去の歴史を振(ふ)り返るとともに我が国の今後の行く末(すえ)をしっかりと見極(みきわ)めたうえで、私たち有権者一人ひとりが確かな目で判断して貴重(きちょう)な一票を行使(こうし)したいものですね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[12月3日]からは第33回歴史講座の内容の更新を開始します)





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晴雨堂ミカエル 私も若い頃に同様の事を言ったら、護憲派の若者が目をむいて怒ってきました。さらに差別者よばわりもしてきました。
明治の有権者は、幕末の勤皇の志士たちを支えた気骨ある商人たちのようなもの。
民権派の衆議院議員の植木江盛が第一回衆院選に出馬するとき、なんの資産も無かった江盛に土地を譲渡して候補者の資格たる納税力を持った「地主」にしたのもそういった有権者たちでした。
そもそも圧倒的権力をもっている官権派を大差で破って当選できたのも、民権派が衆議院の過半数を制す事ができたのも、明治の選ばれた有権者である事を指摘すると、「納税額十五円でさえも過半数を占めたのであれば、全体の民意は藩閥や天皇制に反対だった」と怒鳴るばかり。
彼らのいう通りなら、とっくにフランスやロシアのような革命が起こっていますよ。
そんな彼ら自体が、東京で石原慎太郎が大勝したり、各地の選挙で投票率が低いと「民度が低い」とボヤく。イベントやアクションでは明らかに偉そう。
人民を見下しているのは、彼らのほうだと思ったりもします。
ぴーち おはようございます!
私個人の見解でコメントさせていただきますと、
支持政党を持つという事に対しては、予め自分はその政党の考え方に賛同し、何があってもその政党の味方であるという強い意志を感じ、それはそれで良いとは思いますが、デメリットとしては、もしもその政党がそれまでの路線から外れ、違った方向へ進んで行ったとしても、あくまでもその政党を支持する側の判断とすれば、政治方針よりも、政党という名前だけを支持するような考えに陥り、本来冷静に政治活動を見極めなければいけない立場を贔屓目で見てしまう所に大きな落とし穴が存在してしまうのではないかと懸念します。
費用に関しては、各政党統一の最大必要経費というのを定める訳には行かないのでしょうかね?
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 それはひどい話ですね。
民度の低さとは何かと考えさせられそうです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かに存在すると思います。
支持政党への盲信は我が国の道を見誤りかねませんし、有権者一人ひとりの自覚が問われそうです。
政党への公金支給として政党助成法が制定されておりますが、これもうまく運用されているとは言えないようですね。
政治家の資質
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、政党政治の宿命なのでしょうが、
この頃になると、政治家として
若者が憧れを持てるような政治家がいなくなった気がします。
人物よりも、政党人気のほうが優先されるようになったからでしょうね。
まだ、政党政治が始まってない明治初期には
伊藤博文、陸奥宗光、榎本武揚などは
若者が目指したい憧れを持てる人物だった気がします。
政党政治が開かれると真の民主主義になると考えていた末路が、こういう状況では、何ともやりきれなくなりますね。
不思議に今度の選挙でも、日本の今後の国家観・国家戦略をしっかりと持った政治家は、ごく一部を除いて、少なく、完全に人気取り選挙になっているのが、悲しく感じます。
(反原発、子供手当など言われれば、嬉しいですが、)
未来の日本像を語る政治家が少ないことには、驚きます。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
目先の利益ではなく、百年あるいは千年の国家としてのスパンを見極めるビジョンを持った政治家が現れてほしいものです。