翌1919(大正8)年1月に、フランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬(はらたかし)内閣が、西園寺公望(さいおんじきんもち)を全権として会議に派遣(はけん)しました。
会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれましたが、ドイツは全植民地を失ったほか本国領土の一部を割譲(かつじょう)させられたのみならず、軍事を制限されたうえに多額の賠償金が課せられることになりました。なお、この講和条約はヴェルサイユ条約と呼ばれており、また、ヴェルサイユ条約に基づく新たなヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制といいます。
ヴェルサイユ条約によって、我が国は山東半島におけるドイツの権益を譲(ゆず)り受けたほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。なお、このときに我が国が委任統治した島々の一つに、現在のパラオ共和国があります。
パリ講和会議は敗戦国となったドイツにとって非常に厳しい内容となりましたが、実は我が国にとっても、権益など得るものも多かった一方で、国際的に苦しい立場に追い込まれることになったというもう一つの事実があり、またそうなった原因をつくったのがアメリカと中国でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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オバrev この時既に日本は世界が大きく変わる中でグローバルに渡り合っていたんですね。何か現在のバブル景気、経済混乱、不景気、冷戦(中国)という状況と似ているように思います。
米中によって追い込まれる立場になるとは、具体的には次の記事を読まないと分かりませんが、こういう混乱の時には、船が沈まないように正しい状況判断をして引っ張ってくれるリーダーがいかに大事かということを感じます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の我が国は国際社会の中でどのように渡り歩いていくかということに常に神経をとがらせていく必要がありました。そこには平和ボケしている余地は全くなかったのです。
アメリカと中国の「横槍」については現代の教訓として絶対に理解すべきかと思います。
ぴーち おはようございます!
ドイツは負けた事により、悲惨な末路を強いられましたが、日本はアメリカに南北に分断されなかったということは、やはり天皇という存在や、お力の大きさが救われた一番の要因だったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 第二次大戦後のお話でしょうか。
この場合はアメリカの「天皇が存在した方が占領統治に都合がよい」という考えもあったと思われますね。
いずれにせよ、天皇陛下のご存在が我が国を救ったことは間違いありません。
非常に重要な歴史の流れ
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
正直、この時代の歴史は、学生時代、好きではありませんでした。
というのも
高校時代、この辺りから、
歴史の教師が、『日本が悪の国のような前提』で
話をしていたからです。
ただ、黒田先生の講座に通うようになって
思ったのは
『この辺りの歴史から、学ばないと自虐史観』から、日本人が
脱却できないと思うようになりました。
というのも
『大東亜戦争=日本だけが悪く、日本が一方的に起こした戦争』という考えから
『戦争とは、全体的にいろいろな複雑な要素が絡んでいる。』ということに気づかないといけないからです。
今の歴史教育は、
① 最初に、『日本=反省すべき悪の国だった。』があり
② それを正当化するために、断片的な情報(ねつ造も)を後付けしています。
そう考えると近現代史こそが、黒田先生の腕の見せ所ですね。(●^o^●)
それにしても、皮肉なものだと思うのは、
戦後、60年で、戦後、生まれの私や、黒田先生、並びに団塊世代の人間が、正しい近現代史を知ろうという活動が盛んになり、
逆に戦前の歴史を正しく観ようと思いが大きくなるんですから。。。
そう考えると
冷静に戦前の歴史を観なければいけないと
思えるのに60年かかったということですね。
歴史好きの私も、近現代史だけがすっぽりと抜けています。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、ここからが本当の勝負ですからね。
今まで培ってきた信頼感を失うことのない様、真実を追求していきたいと思います。
板東俘虜収容所
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この頃、日本で、ドイツ人捕虜1000人を
徳島県鳴門市の
板東俘虜収容所で、日本は、ドイツ兵の捕虜にたいして、公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を
したことが有名ですが、
そのことは、国際社会では、評価されなかったのでしょうか。
これは、推測ですが、
あくまでも、この当時の正義というのは
連合国側が、決めたことになるので、
国際的評価にはならなかったのでしょうか。
青田さんへ その2
黒田裕樹 ブログと直接関係ない話ではありますが、映画「バルトの楽園」でも有名な話ですね。
国際的評価と我が国の貢献度とは別だと思われます。
ただし、人道的な配慮があったことは間違いないようですね。
我が国は連合国の一員としてパリ講和会議に参加しましたが、会議において最も発言権が強かったのはアメリカでした。なぜなら、ヨーロッパ本土で多くの血を流して共に戦ったアメリカと、山東半島や地中海など限定的な戦闘に留(とど)まった我が国とでは、他の主要な連合国であるイギリスやフランスの感謝度が全く違ったからです。
かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは自国の立場を利用して、会議にオブザーバーとして参加した中国の発言権を認めました。
会議において、中国はドイツの旧権益を、我が国を通さずに直接返還することを申し出るなど強気な発言を繰(く)り返し、最終的にヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。また、中国国内における排日活動もアメリカの支持を得て激(はげ)しくなっていきました(詳しくは後述します)。
また、アメリカのウィルソン大統領が提案した十四ヵ条の平和原則に基づいて、国際紛争(ふんそう)の平和的解決と国際協力のための機関として、1920(大正9)年に国際連盟(こくさいれんめい)が設立されましたが、連盟で行われた会議において、日米両国がまたしても激しく対立することになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
この時から既にアメリカには軍事力、経済力の面から大きく水をあけられていた訳ですね。
貢献したくとも、国内の経済力がひっ迫していれば
協力の手を惜しんでしまうのは当然ですものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、国力の差が第一次大戦における貢献度の大きな違いにつながったことは間違いありません。ただ、大戦当時は空前の好景気でもあったので、もう少し考える余地があってもよかったような思いもあります。
決断というのはいつの世も難しいものですね。
我が国が提出した撤廃案は、会議に出席した16ヵ国中11ヵ国という多数の賛成を得ましたが、議長であったアメリカのウィルソン大統領が、「このような重要な事項は全会一致でないと認められない」と主張して強引に否決しました。
アメリカからすれば、日本人移民の迫害ができなくなることへの危機感もありましたし、何よりも欧米列強にとって、これまでの「白人を中心とする世界秩序」や「有色人種を奴隷扱(どれいあつか)いする植民地制度」を破壊する可能性が高い提案は、「危険思想」以外の何物でもなかったのです。
かくして我が国は、アジアやアフリカの独立諸国や植民地支配を受けていた有色人種の民族に大きな勇気を与えた一方で、欧米列強からますます警戒されるようになり、特にアメリカの日本敵視がさらに強くなってしまいました。
ちなみに、世界平和の実現に大きな期待が寄せられた国際連盟でしたが、常任理事国として日本・イギリス・フランス・イタリアが選ばれたものの、そもそもの提案国であったアメリカが上院(じょういん)の反対で加盟できなかったり、またロシア(=ソビエト)や敗戦国であったドイツが除外されたりするなど、運営は当初から順調ではありませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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オバrev アメリカが参加しなかった、ロシア、ドイツが除外されたことで、実力をもたない国際連盟になってしまいましたが、アメリカの責任は大きかったと思います。
現在、圧倒的な軍事力と経済力で世界の警察の役目を果たしているアメリカが、何故この時は不参加という決定をしたのか、本音の理由はどうだったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 アメリカの不参加の理由は上院の反対によるものですが、その背景としては当時のモンロー主義による外部不干渉があったとみられていますね。
いずれにせよ、アメリカの不参加が国際連盟を中途半端なかたちにしたことは否めません。
アメリカの虚像と実像
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この当時のアメリカについて
多くの日本人が誤解していることがありますね。
それは、この当時のアメリカは、平等な国ではなく
人種差別国家であったということです。
アメリカに黒人の奴隷制度が廃止されて、
まだ、50年しか経っていません。
つまり、わずか、50年前には、有色人種の黒人を人間ではなく、家畜扱いに考えていたのが
アメリカだったわけです。
そう考えると
アメリカの保守層は、日本の台頭を他のヨーロッパよりも、脅威に感じたのではないでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、アメリカは我が国への恐怖心から憎悪へと転じたと考えて間違いなさそうです。
ぴーち おはようございます!
肌の色の違いを理由に人間の優劣を勝手に判断し、奴隷扱いしようという考えは人間の最大の過ちですね。勿論、そういう理由付けでもしなければ、白人達は同じ人間を奴隷として働かせる事が出来なかったのでしょうけれど、必ずその報いは受ける事になるでしょう。
そもそも肌の色、顔の造作、髪、目などの違いが生じるのは地球上の何処に住んでいるかで長い年月の間にその土地で快適に生きていくために変化して来たことだけに過ぎませんから、差別の対象にもならない事なはずなんですよね。
きっとアメリカだとて、そもそもの理由を知らないわけはありませんから、そこにもっともらしい理由を付けて排除しようとする考えの裏には、それだけ弱腰なきもちが当時はあったのでしょうね。軍事力に関しても、弱い気持ちであるがゆえに、武装を強化したくなるものでしょうから。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。やたらと軍事力を強化したりするのは国家防衛のためだけでなく、自身の弱さもあるのでしょう。
我が国の場合は逆に本来和平を望んでいるのですが、周囲の国が軍事力を強化するためにある意味「仕方なく」増強しているようにも思えます。
また、それ以前の大正4(1915)年に、我が国が中国に対して行った提案を、袁世凱(えんせいがい)が「二十一箇条の要求」と捏造(ねつぞう)したばかりか、要求を受けいれた5月9日を「国恥記念日(こくちきねんび)」としたり、袁世凱亡き後の北京政府が、西原借款(しゃっかん)によって我が国と癒着(ゆちゃく)した格好となったりしたことも、中国国民の反発を招きました。
こうした流れの中で、1919(大正8)年5月4日に、北京で学生を中心に行われたデモ行進をきっかけとして、中国各地で学生・商人・労働者らによる激しい反日運動が起こりました。これを五・四運動(ご・しうんどう)といいます。
五・四運動は反日運動であるとともに、中国国内におけるナショナリズムを高めた効果があったとされていますが、実は、同じ年に同じ東アジアで広がった事件も大きな影響を与えていました。
その事件とは、当時我が国が併合していた朝鮮で起きた、三・一事件(さん・いちじけん)のことです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
今日のお話は、今現在の日本と中国の関係についてのあり方を書かれた文章かと勘違いをしてしまう程、この時と同じような事を今も日本と中国とは繰り返しているのですねぇ・・・。
それでも完全に関係を断ち切る事も出来ずに
隣国であるが故に、無視する事も許されず。
中国は常に好戦的な構えに対して、日本は逆に友好的な考えでいるところが今のところ、両国の間の関係が戦争に繋がらない理由なのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、全く変わっていません。
ただ現在と違うところは、当時の我が国は中国を相手に決して卑屈になっていないところです。
一見は戦争につながらなくても、精神面でやられていてはいつかは大きなしっぺ返しが来ますからね。
日本の知識人の責任
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
本当に現在の状況と似ていますが
黒田先生の言われる通り
その当時の日本は、卑屈になっていなかった
と思います。
その原因として、日本の知識者層が、
現在とは、違い有能だったと思います。
それにたいして
現在の日本の知識者層の罪は、重いです。
というのも
歴史・文化・民族性を知らずに、経済的な観念
から、『これからは、中国の時代』と喧伝したからです。
青田さんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
経済欲に目がくらんだ人間ほど愚かしいものはないですね。
大正8(1919)年3月1日、京城(けいじょう、現在のソウル)のパゴダ公園(現在のタプッコル公園)で独立宣言が読み上げられたのをきっかけとして、独立を求める大衆運動が展開されました。
運動はやがて朝鮮全土に広がりを見せ、示威行動(しいこうどう、示威とはいわゆるデモンストレーションのこと)の高まりによって警察との衝突が起こり、最後には軍隊も出動して流血の惨事となってしまいました。これを三・一事件、あるいは万歳事件(ばんざいじけん)といいます。
三・一事件は不幸な出来事でしたが、その後の裁判によって死刑を宣告された人間は一人もいませんでした。当時の朝鮮総督である斎藤実(さいとうまこと)が融和策(ゆうわさく)をとったからです。斎藤総督はその後も集会や言論、あるいは出版に一定の自由を認めるなど、事件の反省を受けて、朝鮮半島における統治政策を緩和(かんわ)しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
そうですか。
法的には、なんら間違いはなくとも
感情面からすると、朝鮮の人々の自尊心を
大きく傷つけてしまったのですね。
正しい事というのは、それだけで
大きな威力があるので、相手をねじ伏せるだけの
効力は多大ですが、それを更に高圧的に
行わなかった事が、その後の裁判での結果に
繋がった訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、民族運動への思いを理解したうえで正当な手段で臨んだ当時の朝鮮総督府の判断は正しかったと思います。
現代の教育では民族運送の「正義」ばかりがクローズアップされがちですが、当時の背景もしっかりと理解したいものですね。