このため、大正元(1912)年11月に、陸軍は朝鮮半島への駐留を目的として、二個師団(しだん)の増設を要求しましたが、第二次西園寺内閣が財政難を理由に閣議で拒否したため、これに怒った陸軍大臣の上原勇作(うえはらゆうさく)が、同年12月に大正天皇(たいしょうてんのう)に対して、内閣に相談なく単独で辞表を提出しました。これを帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)といいます。
上原陸相(りくしょう)の辞任後、陸軍は後任の陸軍大臣を推薦(すいせん)しなかったため、第二次西園寺内閣は総辞職せざるを得ませんでした。なぜなら、明治33(1900)年に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣が軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)を定めており、現役の大将や中将(ちゅうじょう)以外は陸・海軍大臣になれなかったからです。
軍部大臣現役武官制は、制定当時に勢いを増していた政党の軍部への影響力を抑えるためのものでしたが、軍部がまるで陸相を人質にとったような手法や、内閣や議会を軽視した帷幄上奏権の利用が問題となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
この当時は、政治を司る機関と軍の機関との2大勢力が支配していて、どちらかというと国は軍への待遇の方を優先させていたと解釈させていただいても良いのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この当時は、政治を司る機関と軍の機関との2大勢力が支配していて、どちらかというと国は軍への待遇の方を優先させていたと解釈させていただいても良いのでしょうか?
当時は政治と軍事が車の両輪のように我が国を支えていましたが、現場で命を懸けて戦い抜いた軍部の方に強烈な自負があったと思われます。
そんな考えがあったことから、必ずしも優先させていたわけではないですが軍部の意見が通りやすかったのは間違いないでしょう。
我が国での議会政治が誕生以来まだ日が浅かったことも大きかったといえます。
また、陸軍と同じように拡充計画を延期させられていた海軍では、大臣の斎藤実(さいとうまこと)が留任を拒絶していましたが、桂は大正天皇の詔書(しょうしょ、天皇の命令を伝える公文書のこと)によって強引に留任させました。
内閣の成立に際して天皇の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書の総称のこと)を利用したことは、議会の存在を軽視しただけでなく、大日本帝国憲法第3条における天皇の神聖不可侵(しんせいふかしん)、すなわち天皇に政治的責任を負わせないという精神にも反するものであったことから、第三次桂内閣に対する非難の声が成立直後から高くなりました。
こうした流れを受けて、立憲政友会の尾崎行雄(おざきゆきお)や立憲国民党の犬養毅(いぬかいつよし)らを中心に、実業家や都市の一般民衆も加わって、「閥族政治打破(ばつぞくせいじだは)・憲政擁護(けんせいようご)」をスローガンとする運動が全国に広がりました。これを第一次護憲運動(だいいちじごけんうんどう)といいます。
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ぴーち おはようございます
この頃の政治の動きというものが
どうも私の記憶の中では曖昧であって
モヤモヤしていた部分がありましたが、
こうして今日、お話を伺って
何やら霧が晴れた様にすっきりとさせられました^^
物事の原因、結果が分かり
ありがとうございますm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この辺りまで来ると高校でもなかなか学べない(=時間がない)ところですからね。
お役にたてて何よりですm(_ _)m
追いつめられた桂は再び議会を停会したほか、大正天皇の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書の総称のこと)によって事態を打開しようとしましたが、そんな桂の態度に激怒した国民の一部が暴徒と化し、東京や大阪で政府と関係の深い新聞社が襲われたり、国会を取り囲んだりする騒ぎが起きました。
こうした事態を受けて、一時は衆議院を解散して総選挙に持ち込もうと考えた桂もついに内閣総辞職を決断しましたが、それは組閣からわずか53日後のことでした。なお、これら一連の動きは、今日では大正政変(たいしょうせいへん)と呼ばれています。
第三次桂内閣の崩壊(ほうかい)後には、立憲政友会を与党として、薩摩出身の海軍大将の山本権兵衛(やまもとごんべえ)が第一次山本内閣を組織しました。山本は軍部大臣現役武官制を改正して、現役を引退した予備役(よびえき)や後備役(こうびえき)も、軍の意向とは無関係に首相が陸・海軍大臣に就任できるようにした(ただし、実際に選任された例はありませんでした)ほか、文官任用令を改正して、政党員が上級官吏(かんり)に任用される道を開くなど、政党の影響力を拡大しようとしました。
ところで、第一次護憲運動から大正政変までの流れは、「権力を持たない国民による運動で内閣を倒した歴史的な大事業」とされ、またいわゆる「大正デモクラシー」の幕開(まくあ)けとして高く評価されることが多いですが、その実情は果たしてどのようなものだったのでしょうか。
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ぴーち おはようございます!
こうして伺っていると
大正時代は、国民が政治に関して
こぞって皆関心が高かったのですね。
裏を返せば、それだけ政府に対しての期待度が
高かったのでしょうね。
何か政治家が失態を犯せば、直ぐ様
国民はそれを許しておくわけにはいかないと
立ち上がる姿は、現代に生きる人間としては
見習わなければいけない精神なのではないかと思いました。
個人主義が次第に定着して来てしまうと、
個人個人はそれなりに政治に対しての反論意見を
持っていても、広範囲には浸透せずに、同じ思いの人間が大きな束となって立ち向かっていくことは、なかなか実現出来ないのが今の状態であるように思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 明治憲法ができてから、この時点ですでに25年近くの歳月が流れています。
国民一人一人が政治に目覚めても決しておかしくはなく、むしろ当然と言えるかもしれませんね。
それだけに政治家の責任は重大です。
そしてそれは、クーデターともいえる大正政変の収束後こそ言える話なのですが―。
それなのに、第一次山本内閣の誕生後には、スローガンであった「閥族政治打破(ばつぞくせいじだは)・憲政擁護(けんせいようご)」の声がほとんど聞かれなくなり、第一次護憲運動の熱が一気に冷めてしまったのです。
その理由は、上記のスローガンを一番熱心に叫(さけ)んでいたはずの立憲政友会が、倒閣によって与党となり、多数の閣僚(かくりょう)ポストを得るなど大きな利権を得たからでした。こうした政友会の姿勢には、立憲国民党や一般国民、あるいは政友会内部からも大きな反発の声が挙(あ)がり、尾崎行雄が政友会を離党(りとう)するなどの混乱が続きました。
大正政変が起きた当時は、大日本帝国憲法が制定されてから25年近くの歳月が流れていましたが、政変前後における立憲政友会の動きは、我が国における政党政治の未熟(みじゅく)さを浮(う)き彫(ぼ)りにしていました。そして、第一次護憲運動によって誕生した第一次山本内閣も、この後に思わぬ方向から崩壊の危機を迎えることになってしまうのです。
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なるほど~
確かに野党の時には、やんややんやと騒いでいた政党も、いざ与党に躍進した途端に借りてきた猫の様におとなしくなってしまうのは世の常ですものね。きっとそこで大人しくなってしまうのは、
その政党はただ与党に成りたかったという
目標しか無かったのだと思います。
自分たちの成し遂げたい何か大きな目標があっての躍進ならば、例え与党であれ、なんであれ
それを実現出来るまでは落ち着いている暇など
ないはずでものね。
そう言えば・・。
やんちゃして、手を焼いていたある大物タレントが映画監督作品などでいきなり世界から注目を浴びてしまったが為に、急に落ち着き払ってしまいましたよね・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、自分たちの「本当の欲求」を満たされれば、表向きのスローガンなどどうでもよくなってしまうのでしょう。
「政権交代」をスローガンとしながら、実現後は無為無策(というより悪意悪策)でただただ与党として3年以上も居座り続ける某政党にも同じことが言えるかもしれません。まさに歴史は繰り返すー。
> やんちゃして、手を焼いていたある大物タレントが映画監督作品などでいきなり世界から注目を浴びてしまったが為に、急に落ち着き払ってしまいましたよね・・(^^ゞ
そういえばそうですね(笑)。
バラエティでは被り物をしていまだにはっちゃけておられるようですが(^^ゞ
その後も数々の不正が発覚して、大きな汚職事件(おしょくじけん)に発展したことで、海軍大将でもあった山本権兵衛首相は、責任を取って同年3月に辞任しました。これをシーメンス事件といいます。
第一次山本内閣の総辞職を受けて、長州閥(ちょうしゅうばつ)の元老(げんろう)や陸軍関係者らは、言論界や国民から人気があり、また自由党の流れをくむ立憲政友会とは長年の宿敵でもあった大隈重信(おおくましげのぶ)を首相として迎え、立憲同志会などを与党とした第二次大隈内閣を誕生させました。
第二次大隈内閣は、翌大正4(1915)年の総選挙で立憲政友会に圧勝し、かねてよりの懸案(けんあん)であった陸軍の二個師団増設案も議会通過にこぎつけることができましたが、シーメンス事件の際に見せた「相手方の弱みや失敗に付け込む」姿勢は、大正政変における立憲政友会と同じように、当時の政党政治に潜(ひそ)んでいた、「党益を最優先し、そのためには国益を軽視した政争をも辞さない」という危(あや)うさを感じさせるものでもありました。
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賄賂自体は勿論褒められる行為では断固ありませんが、ドイツが日本に対して賄賂をしてまでも・・という媚びた姿勢だったのは、意外な印象でした。この頃の日本は世界に対して破竹の勢いだった事を感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の日本は世界に対して破竹の勢いだった事を感じました。
今回の記事では書ききれなかったのですが、仰るとおりの見方も重要です。
軍艦は昔も今も軍事上貴重な存在ですから、少しでも良いものをという買い手側と売り手側の暴走も十分あり得ますね。
政党政治の危うさ
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
議会制民主政治は、選挙で、選ぶので
暴走はないと思っていましたが、
政党が政権を取るために
ネガティブキャンペーン(相手の弱点ばかりを攻撃する。)
ポピュラリズム(大衆迎合主義)
に走り、政治が前に進まないか、おかしな方向に進む危険性があるのですね。
それによって、国力が弱くなって、喜ぶのは
外国なのに。。
今も、同じですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、危険性が高いのは全く変わりません。
見本となる前例がいくらでもあるのですが…。