殖産興業(しょくさんこうぎょう)の観点から西洋美術教育の必要性を考えた政府は、明治9(1876)年に工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう)を開設しましたが、その後に起きた美術界における伝統回帰の風潮もあって、明治16(1883)年に廃止されました。
一方、哲学(てつがく)のアメリカ人教師として来日した、「お雇(やと)い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴(うった)え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年に開設された東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)の設立に尽力(じんりょく)しました。
このように、政府と民間とが一体となって伝統芸術を支えたことにより、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音(ひぼかんのん)」や橋本雅邦(はしもとがほう)の「竜虎図(りゅうこず)」などの優れた日本画(にほんが)が描(えが)かれたほか、明治31(1898)年には日本美術院(にほんびじゅついん)が設立されました。
このように、日本美術の再評価の気運が高まったことで、政府は明治30(1897)年に古社寺保存法(こしゃじほぞんほう)を制定し、いわゆる国宝(こくほう)の指定や保護に関する法的な根拠(こんきょ)が定められました。
なお、東京美術学校は現在の東京芸術大学(とうきょうげいじゅつだいがく)の前身にあたります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
先日、朝のテレビ番組を観ていましたら、
ブルーの色地に中心部分だけペチャッと白いインクをこぼした様な柄のハンカチが紹介されていて、道行く人にこれはどのようにして楽しむものかと訪ねていましたが、どなたも首をかしげていてわかりません。スタッフがこうやってみると分かりますと言って、真ん中の白い部分を指でつまみ上げ、円錐状に釣り上げてみると・・それはまさしく「富士山」の形に変化しました^^
その答えを再び道行く人に見せた所、日本人の方は一様に「なるほど~」とか「へぇ~」とかと、そのアイディアに感嘆していましたが、ある外国人の観光客の様な方は、その「富士山」を見て「あれ?宝永山が無いよ?」と言いました。
日本人でもなかなか出てこない富士山の隣についている山を外国人の方はよくご存知だなと感心させらましたが、案外、世の中そんなもので、
外国の方のほうがより日本文化や日本の事をよく勉強されていたり、その良さを理解なさっている方が多いものですね。外国人から逆に日本の良さを学ぶことも多く、また、その地へ出向くときに熱心に下調べをしてから出かける旅行者も、地元で暮らす方よりもより詳しくその土地の事を知っていたりするものですよね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るとおりですね。
外国人に我が国の文化が救われるということは案外多いようです。
その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同じ明治29年には、フランス印象派(いんしょうは)の画風を学んだ「読書(どくしょ)」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清輝(くろだせいき)が白馬会(はくばかい)を創立しました。
彫刻(ちょうこく)では、フランスのロダンに学んだ荻原守衛(おぎわらもりえ)が「女(おんな)」などの西洋風の彫塑(ちょうそ)を発達させた一方で、高村光雲(たかむらこううん)は「老猿(ろうえん)」などの伝統的な木彫(もくちょう)による作品を残しました。また、建築では優れた洋風建築が建てられましたが、なかでもイギリス人コンドルの「ニコライ堂」や、辰野金吾(たつのきんご)による「日本銀行本店(にほんぎんこうほんてん)」は有名です。
以上のように、明治期には伝統美術と西洋美術とがそれぞれ発展しましたが、両者の共栄共存(きょうえいきょうぞん)を考えた文部省(もんぶしょう)は、第一次西園寺内閣(だいいちじさいおんじないかく)の文部大臣であった牧野伸顕(まきののぶあき)の尽力(じんりょく)もあって、明治40(1907)年に文部省美術展覧会(もんぶしょうびじゅつてんらんかい、通称を文展=ぶんてん)を設けました。
なお、文展はその後大正8(1919)年には帝国美術院展覧会(ていこくびじゅついんてんらんかい、通称を帝展=ていてん)へと引き継(つ)がれ、現在の日本美術展覧会(にほんびじゅつてんらんかい、通称を日展=にってん)につながっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
美術の話を受けて・・
昨日ニュースで、ダビンチが描いた
「モナリザ」に新たにもう一枚、モナリザの若かりし頃であろう絵画が発見された様ですが、果たしてそれがダビンチが描いた作品なのかと物議を醸している様ですね^^
その前にも、モナリザと同じ構図で、同じように彼女を描いた作品が世に発表されましたが、その作品はダビンチの弟子の作品である可能性が高いと結論付けられただけに、真相が気になります。。
今日のお話の趣旨から外れたコメントで
失礼いたしましたペコロ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに興味ありますね。
ダビンチがあまりにも有名だけに模倣も多いですし、事の真贋をはっきりさせるのはいつの世も難しいようです。