それまでの徳川家(とくがわけ)による江戸幕府(えどばくふ)から政治の実権を奪(うば)って成立した明治新政府でしたが、その前途(ぜんと)は多難(たなん)であり、我が国が並(な)みいる欧米列強(おうべいれっきょう)による植民地化を防ぐために如何(いか)にして独立を守るかという大きな命題を突(つ)き付けられていました。
そんな中、明治天皇は我が国の元首(げんしゅ)として堂々(どうどう)と君臨(くんりん)され、海外においては近代国家の象徴(しょうちょう)として、国内においては慈愛(じあい)に満(み)ちた君主(くんしゅ)として我が国をずっと支(ささ)えてこられました。世界の平和と人々の安らぎを日々(ひび)お祈(いの)りなさった明治天皇の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)は実に10万首(まんしゅ)を数えています。
今回の歴史講座は、明治天皇のご遺徳(いとく)を偲(しの)びながらそのご生涯(しょうがい)をたどることで、崇高(すうこう、けだかく尊いこと)なる「明治の精神」に思いを馳(は)せると同時に、陛下(へいか)が現代の私たちに遺(のこ)された数々のメッセージを深く実感(じっかん)しながら行わせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。





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RALLY NEW WAVE こんにちは。
不適切な発言であればお許しを下さい。
選挙ムードたけなわです。更に加熱し投票当日を向かえる事になりそうですね!
実際に現状ある意味で無政府状態と云う事で、商談なんか決まらなくなっていると思います。大きな商談は当然として、日々の小さなものまで選挙結果まで様子見になるのでしょうね。
産業創造の観点から解散選挙は非常にマイナス効果です。
安心して暮らせる社会を国民は築く責任があります。
宜しくお願いを致します。
RALLY NEW WAVEさんへ
黒田裕樹 仰るご意見もその通りかと思われます。
いずれにせよ、次回の総選挙に注目ですね。
ぴーち おはようございます!
明治天皇の足跡を私は余り存じませんので、
実際的にどの様なお人柄でいらっしゃったのか、興味があります。
これからのお話、楽しみにさせていただきますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回から始まった明治天皇の話に最後までお付き合いいただければと思います。
祐宮さまは御年(おんとし)9歳の万延(まんえん)元年(=1860年)9月に父君(ちちぎみ)の孝明天皇から親王宣下(しんのうせんげ)をお受けになり、睦仁(むつひと)という諱(いみな、天皇など身分の高い人の実名のこと)を賜りましたが、当時はアメリカのペリーの浦賀(うらが)への来航(らいこう)がきっかけとなった開国をめぐって国内が混乱(こんらん)を極(きわ)めた真(ま)っ最中(さいちゅう)でもありました。
そんな中、孝明天皇は我が身を犠牲(ぎせい)になさるお覚悟(かくご)で我が国を守るためにひたすら祈られるとともに、多くの御製を詠(よ)まれましたが、睦仁親王はそんな父君の背中をご覧(らん)になられて成長されたのでした。
しかし、親王と父君との日々は長くは続きませんでした。慶応(けいおう)2年(=1866年)12月に孝明天皇が天然痘(てんねんとう)によって崩御されたのです。深いお悲しみの中、睦仁親王は翌(よく)慶応3年(=1867年)1月に御年16歳で践祚(せんそ、皇位の継承のこと)され、第122代天皇となられました。





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ぴーち おはようございます!
江戸時代末期の国内の混乱を目の当たりし、更に父君の苦悩を痛く心に刻んでいたからこそ、初心の決意も固かったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 父君であられた孝明天皇のご苦悩は本当にお深かったのではと思われます。
だからこそ、志半ばで崩御された父君にかわってご立派な君主になられようとされたのではないでしょうか。
新たに政治の実権を握(にぎ)った明治新政府には為(な)さねばならない課題が山積(さんせき)していましたが、なかでも最大の問題は「如何にして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということでした。
明治維新が始まった当時の19世紀後半のアジアは帝国主義(ていこくしゅぎ、政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)を標榜(ひょうぼう、主義や主張などをはっきりと示すこと)する欧米列強による植民地化が進んだ、いわゆる「草刈(くさか)り場(ば)」と化(か)していました。
何しろ東アジアの超大国(ちょうたいこく)と思われていた清(しん)ですらアヘン戦争の敗北(はいぼく)などによって、香港(ホンコン)などの主要都市を列強の支配下に置くことを認(みと)めざるを得ないという厳(きび)しい状況(じょうきょう)だったのです。





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ぴーち おはようございます!
仰るとおり、よくぞ日本はこれまで欧米諸国の事実上の植民地にならずに済んで来たものだと改めて感じました。やはりこの国には紀元前から脈々と受け継がれていきた天皇制という制度が存在していたからこそ、それぞれの時代で生じた国難を乗り越えて来られたというのが大きな要因なのでしょうかね・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室のご存在が我が国にとって大きかったと思われますね。
以前にご紹介した昭和天皇もそうですが、明治天皇に関してもそのご存在の素晴らしさをこれから紹介していきたいと思います。
このままでは我が国も他国の植民地とされてしまいかねないという危機感(ききかん)を持った明治新政府は、欧米列強と肩を並(なら)べるためにも一刻(いっこく)も早い近代国家としての確立を目指さなければなりませんでした。
しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比(くら)べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府がいくら優(すぐ)れた政策(せいさく)を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。
そこで、新政府は我が国の元首であり長い歴史を誇(ほこ)る天皇の権威(けんい)を活用し、天皇の名の下(もと)で政治を行うことで多くの国民の支持を得ようと考えたのです。折(おり)からの尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)によって、皇室(こうしつ)に対する崇敬(すうけい、あがめてうやまうこと)の思いが国民の間で高かった当時の世情(せじょう)も新政府を後押(あとお)ししました。





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ぴーち おはようございます!
そうですよね。
今日の記事を読ませていただいた限りでも
カリスマ性を持ち合わせたリーダー的な存在がいてこそ国民の結束力、団結力が強まるものですよね。一国の政治を司る政治家の手腕、或いはカリスマ性がいかに大事なことか、改めて思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人間が一致団結するためには良くも悪くもカリスマ性を持つリーダーが必須です。
今回の場合は見事にプラスに働くことになりますが、世の中にはその逆もありますからね。
五箇条の御誓文の主な内容としては公議世論(こうぎよろん、世の多くの人々の様々議論のこと)の尊重(そんちょう)や、攘夷(じょうい)をせずに開国和親を推進することなどが挙(あ)げられますが、これらは明治新政府にとってのいわゆるマニフェストでもありました。
五箇条の御誓文には明治新政府の当面の基本方針を天皇が神々(かみがみ)に誓われるというかたちにすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込(こ)められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは、21世紀の某政党(ぼうせいとう)のように簡単に破ることは許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。明治天皇ご自身も御誓文の後に「天皇自らが国難(こくなん)の先頭に立って我が国を護(まも)る」という内容のお言葉を発せられ、ご覚悟を明確に示されておられます。
五箇条の御誓文は明治以後の指導(しどう)精神として近代国家へ向けての様々な政策に受け継(つ)がれました。また、明治天皇の御孫(おんまご)にあたられる昭和天皇(しょうわてんのう)は、昭和21(1946)年元日の「新日本建設ニ関スル詔書(しょうしょ)」において五箇条の御誓文を引用され、御誓文の精神に立ち返って新たな国づくりに努めるご決意をなされておられます。
※以下のニコニコ動画は平成24年12月3日更新分「崩御100年にご遺徳を偲んで」~今回更新分「明治天皇のご誕生と激動の維新 その4」をまとめて映像化したものです。





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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この五箇条の御誓文は、中学時代に
歴史の授業で、学んだ時に、素直に感動できました。
① 天皇自らが、神に誓った約束であること。
それゆえ、絶対に実現するという重みが今の某政党のマニュフェストとは、違う。
② 非常にわかりやすく、普遍的である内容。
(長期的・根本的な内容であること)
未来の日本の青写真で
原理原則に近い普遍的なものなので、その土台の上に立って、世の中の状況の変化に応じても
実現していくことが可能。
某政党のマニュフェストのように今さえ良ければの具体的過ぎるマニュフェストでは、不確定要素が起きる世の中において、現実的ではない。(政治家は、預言者ではない。)・・地震・反日デモを予言した政治家はいない。
③ 5つと非常に少ないこと。
某政党のマニュフェストのように虫眼鏡で、わからないような細かいマニュフェストまで
読んでいるほど、国民は、暇ではない。
※ よく、選挙の時、政治家が演説で、『私は、このマニュフェストを実現するために命を懸けます。』と言いますが、実現しないで、切腹した政治家はいませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
命がけのマニフェストは単純明快でないと実行できるわけがありません。
公約を守らずして平気でいられる神経が信じがたいですね。
ぴーち おはようございます!
今日は何やら世論への批判的なコメントになってしまいまい、申し訳ありません。
最近特に感じるのですが、
現代に生きる人達は、口で言っている事と行動が一致しない人間が多すぎる様に思います。
自分の言葉に責任を持てない人間は、やがて信用を失うということは世の習いであり、信用を得るということは、どんな公約であれ、何が何でも命を掛けてもそれに向かって全力で努力し、行動していく姿が見られた時に初めて人は納得するものだと思います。
口と行動を一致させるのは簡単なもものでは無いですが、簡単では無い茨の道を自分の体を傷つけてまでも果たそうとする人間に人は感動し、ついていこうと思うものです。
大きな目標をわざわざ立てなくとも、どんなに小さな約束ごとでも、それを現実のものにしようと
する動きに大きな意義があるとおもいます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も同感です。
明治天皇が神々に誓われてまで果たそうと為された五箇条のご誓文の精神を今こそ思い起こさねばなりません。
明治天皇の存在の重さ
- 黒田先生
おはようございます。
青田です。
この明治天皇について、考えると
奇跡的な明治時代の日本の超スピードの近代化
は、明治天皇という存在なしには、有り得ませんね。
私は、現代の日本人の最大の問題は、中心である
天皇陛下、ならびに、皇室への軽視です。
というのも、今のいろいろな問題の根本は
日本人の精神的支柱がないと思うからです。
◆ 自殺率は、世界5位で、年間3万人です。
(東北沖地震よりも多い数の人が自ら、命を絶っています。)
◆ うつ病100万人。
◆ 消費者は、made in Japanの製品よりも
安ければ、中国産でもイイと思って買います。
◆ 企業は、儲かれば、中国に会社を移せばそれでイイと思い、『愛国万歳』と言われても経済人は、中国大使のパーティーに平気で参加します。
(戦後の日本の復興という共通認識で、頑張った経済人とは、全く、違います。)
◆ 東京は、本当は帝都東京であるはずなのに
バラバラで、混在しているだけの都市になっています。
もちろん、GHQが、太平洋戦争(本当は、大東亜戦争)で、日本に抱いた日本人の精神性への恐怖心の解体という意味では、GHQの目論見は、
成功したわけですが。。。
現代は、自虐史観を受けた現代人によって、皇室の存在を軽視する方向で進んでいること。
(但し、保守系の方が今、頑張ってらっしゃるのは、救いですが)
今、日本人は、明治時代になぜ、あれだけの奇跡を起こせたのかを真剣に考えないといけない時期に来ている気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりですね。
だからこそ今回の講座の意義を見出したいと思います。
西郷が改革を始めた理由には、まだお若(わか)かった明治天皇を全力で支えるとともに、天皇ご自身に君主として相応(ふさわ)しい力量(りきりょう)をお持ちになってほしいという西郷の切(せつ)なる願いがありました。
例(たと)えば、それまで天皇のそばには多くの女官(にょかん)が身の回りの世話をしていたのを退(しりぞ)け、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)など質実剛健(しつじつごうけん、飾り気がなくまじめでたくましくしっかりしていること)な旧武士たちが明治天皇に直接仕(つか)えるようになりました。
維新の大功労者(だいこうろうしゃ)である西郷だからこそ為し得た大改革ともいえましたが、明治天皇はご身辺(しんぺん)の大変化に見事に順応(じゅんのう)され、毎日のように乗馬(じょうば)を楽しまれるなどたくましく成長されたそうです。





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ぴーち おはようございます!
メダリストに一流の恩師あり・・・などという言葉がありますが、やはり、歴史に名を残す人物の影には一流の恩師の存在を見過ごしてはいけませんね。
そう言えば、昭和天皇の恩師にも乃木将軍がいらっしゃいましたね。
(と、黒田さんに教えていただいた記憶が(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
昭和天皇がご幼少の頃の乃木将軍とのご関係も同じですし、恩師との出会いは必須なのでしょうね。
天皇についての誤解
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦後教育とマスコミが生みだしたことだとは思いますが
まず、多くの国民が、知らないことは
① 明治天皇を始めとして、その後の昭和天皇、
現在の今上陛下、現在の皇太子
を含め、皇室の方々への教育は、非常にスパルタ教育であったということですね。
(明治天皇→西郷隆盛)(昭和天皇→乃木将軍)
② 天皇のご公務は、非常に激務であるということです。(明治天皇・昭和天皇・今上陛下)
③ 皇室の方々の生活は、非常に質素であり
どこかの国の独裁者とは、全く違うということです。
マスコミも、皇室にたいして、そういうことを
しっかりと報道せず、どうでもイイ低レベルなことを報道するのは、イイ加減止めて欲しいですね。
それと、教師の皇室批判を授業でするのは、止めて欲しいです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、悪意を持った洗脳はやめさせなければいけませんね。
山岡鉄舟
青田です。 黒田先生
青田です。
この山岡鉄舟が明治天皇の教育係というのは
当時としては、考えられない人事ですね。
山岡鉄舟は、身分も低く、しかも、政府の要職に就いても、超貧乏生活でした。
本人は何も気にしてませんでしたが、
山岡鉄舟の言葉です。
『自分の力で立てる人間は、必要ない。自分の力で立てないような人間こそ俺を必要としているだから世話をするのだ。』
そのため勝海舟は、『鉄舟のところにはガラクタのような人間ばかり集まってきた。』と言っていました。
勝海舟は、山岡の家は、『化け物屋敷』だと語っていました。
この山岡鉄舟が明治天皇の教育係をしたことは、後に
国民、前線の兵士達にキメの細かい優しさ(大御心)にも影響していると思います。
ちなみに、
明治2年(1869年)、山岡鉄舟は、明治天皇の京都行幸の際、明治天皇から手土産の相談を受けました。そして山本海苔店二代目山本德治郎に相談したことで、味付け海苔が創案されました。
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、山岡鉄舟の伝説は興味深いですね。明治天皇のお側に仕えたことが、我が国のその後に大きく貢献しているのかもしれません。
陸軍の演習が行われた後、夜になると天皇は他の兵士たちと同じようにテントで野営(やえい)されましたが、生憎(あいにく)の荒天(こうてん)でテントから雨水が漏(も)れるということがありました。
しかし、「戦場の兵士たちが現地でどのような境遇(きょうぐう)にあるのかを身を以(も)って知っていただくことも必要だ」と考えた西郷はそのまま明治天皇にご休息(きゅうそく)いただき、自らは万が一のために寝(ね)ずの番をしていたそうです。
その後、西郷は明治6(1873)年に征韓論争(せいかんろんそう)に敗(やぶ)れて下野(げや)し、明治10(1877)年に起きた西南戦争(せいなんせんそう)によって壮絶(そうぜつ)な自刃(じじん)を遂(と)げる運命となりましたが、明治天皇にとって西郷隆盛がご自身のご生涯に大きな影響(えいきょう)を与えた人物のひとりであることは間違(まちが)いないでしょう。
※以下のニコニコ動画は平成24年12月8日更新分「西郷隆盛とのお若き頃の日々 その1」~今回更新分「西郷隆盛とのお若き頃の日々 その2」をまとめて映像化したものです。





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ぴーち おはようございます!
そうですよね。
いくら「そうであろう」と想像力を働かせて
事実を把握しようとしても、実体験した時の思いに到達することは出来ないものですよね。
ヘレン・ケラーの恩師でもあるサリバン先生が彼女に水というもの理解させる為に冷たい井戸水を手で掬わせて何度も「Water」と言い聞かせて教えましたが、身を持って体験することはやがて大きな財産になるものですからね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
明治天皇のお若き頃の貴重なご体験が、この後のご自身とともに我が国の命運を決める重要なきっかけとなりました。
詳しくは後日紹介しますが、西郷の功績は偉大ですね。
明治15(1882)年、憲法制定の作業を本格的(ほんかくてき)に開始した明治政府は伊藤博文(いとうひろぶみ)をヨーロッパへ派遣(はけん)して憲法の研究を命じ、伊藤は最終的に当時のドイツ帝国の母体(ぼたい)となった旧プロイセン王国の憲法が我が国の国情(こくじょう)に照らして一番相応しいとの結論を得て帰国しました。
こうした事実から「明治憲法は外国の憲法の引き写しだ」という印象(いんしょう)が歴史教育などにおいて強くなっているようですが、実際に伊藤がベルリン大学教授(きょうじゅ)のグナイストやウィーン大学のシュタインなどから受けた教えは「日本の憲法は自国の歴史や伝統(でんとう)に立脚(りっきゃく)したものでなければならない」というものでした。
帰国した伊藤は井上毅(いのうえこわし)が作成した憲法草案(そうあん、下書きや原案のこと)をもとに井上らと検討作業(けんとうさぎょう)を行いましたが、その草案の第1条では「日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇ノ治(しら)ス所(ところ)ナリ」と書かれていました。
「治ス」とは「お知りになる=公平に治める」という意味であり、天皇による統治(とうち)行為を示した大和言葉(やまとことば)でした。条文(じょうぶん)そのものは最終的に「統治ス」に変更されましたが、明治憲法が決して外国の憲法の模倣(もほう)ではなく、第1条から我が国の国体(こくたい、国家としての体制のこと)を明確に意識(いしき)していたことを示したエピソードであるといえるでしょう。





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
明治憲法を考えるとまさに、
芸術ですね。というのも
① ヨーロッパの最先端の憲法を取り入れている。
② それを、日本流にカスタマイズしている。
(日本の天皇制を融合させている。)
これは、現代の感覚からすると、当たり前のように感じますが、ヨーロッパの王族と日本の天皇とは、全く、違うものなので、それを実現するのは
至難の技です。
グナイストやウィーン大学のシュタインなどから受けた教えは「日本の憲法は自国の歴史や伝統(でんとう)に立脚(りっきゃく)したものでなければならない」というアドバイスがなかったら
実現しなかったかもしれませんね。
※ 最先端の憲法でありながら、大和言葉まで
入れるとは、まさに芸術的な憲法です。
これは、個人的な意見ですが
明治憲法をカスタマイズした新憲法の制定が
今の日本に必要だと思います。
RALLY NEW WAVE こんにちは。不適切な発言であればご容赦を下さい。
選挙戦たけなわですね!!皆さんは今回の選挙どの様なご判断をなされてられますか。
私なりには今回の選挙、開国か鎖国かの国民投票(知ってなくとも)と思っています。
TPP参加=開国、TPP不参加=鎖国とも言えるのではないでしょうか。
民主自民とさわがれていますが、問題視する所この一点!開国か鎖国かの判断であるという事を是非考えて下さい!!
宜しくお願いを致します。頑張りましょう!!
有難う御座いました。
青田さんへ
黒田裕樹 その通りですね。
新憲法の制定に関しては明治憲法の存在を無視することは絶対にできないでしょう。
RALLY NEW WAVEさんへ
黒田裕樹 貴殿のご意見に関してのコメントは控えさせていただきますが、今回は掲載を許可しました。
ただ、今後の掲載については検討を重ねてまいりたいと思います。
ぴーち おはようございます!
批判するのは簡単ではありますが、
実際にわざわざ欧州に出向いて、色々な文献を調査し、更に日本の現状と照らしあわせながら微調整していった過程をこうして考えると、並々ならぬ苦労があったことに気付かされます。
口で言うのは容易いですが、実際に行動し
実現する事の大切さを見習いたいものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
こういった実行力や行動力こそ見習わないといけませんし、事情を知れば上っ面だけの批判ができるとは到底思えません。
伊藤らが完成させた憲法草案は、明治21(1888)年に創設(そうせつ)された天皇の最高諮問機関(しもんきかん、諮問は「意見を求める」という意味)である枢密院(すうみついん)で天皇ご臨席(りんせき)のもとで審議(しんぎ)されましたが、実は明治天皇はそれ以前から憲法に関する本格的な講義を受けておられました。
先述(せんじゅつ)のとおり、伊藤はシュタイン教授から憲法学について学んでいましたが、その内容に感激(かんげき)した伊藤はシュタインの憲法学を明治天皇にも是非(ぜひ)学んでいただきたいと考え、シュタインを我が国に招(まね)こうとしましたが、高齢(こうれい)を理由に固辞(こじ)されてしまいました。
そこで伊藤は、明治天皇の侍従(じじゅう、天皇のそばに仕える人のこと)でご学友(がくゆう)でもあった藤波言忠(ふじなみことただ)を天皇の名代(みょうだい、ある人の代わりをつとめること)としてウィーンに派遣してシュタインから直接憲法学の講義を受けさせ、その内容を明治天皇にご進講(しんこう)申し上げることにしました。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、何事もやはり下準備というは必要ですし、またその準備がなされていたからこそ、スムーズに事が成し遂げられたという訳ですね!
浮かんできたものだけを見るのではなく、前後で起きている事実を視野に入れないと間違った判断をしてしまいますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
憲法制定へ向けての下準備は一朝一夕ではなく、明治天皇ご自身も深くかかわっておられます。
この後も私たちは明治天皇の憲法に関するご認識の深さを理解することになります。
侍従であるとともにご学友だった藤波に対して心を許された明治天皇は講義を熱心にお聞きになり、お分かりにならなかったところはご下問(かもん)されるなど、シュタインの憲法学を懸命(けんめい)に勉強なさいました。
そして明治21年4月、このように憲法について徹底的(てっていてき)に勉学を重(かさ)ねられた明治天皇のもとに憲法の草案が捧呈(ほうてい、敬意を示して手でささげ持ち差し上げること)され、枢密院での審議にかけられることになりましたが、その開院式の行事をめぐって大きな事件が起きてしまいました。
開院式を前日に控(ひか)えた5月7日、枢密院の議長であった伊藤博文が開院式の勅語案(ちょくごあん、勅語とは天皇によるお言葉のこと)を宮内大臣(くないだいじん)を通じて差し上げたところ、明治天皇は激怒(げきど)なさり、次のように仰(おっしゃ)られました。
「勅語の下賜(かし、天皇が臣下に物を与えること)は極めて重大(じゅうだい)であるのに、博文(=伊藤)はなぜ自分でこれを奏上(そうじょう、天皇に申し上げること)しないのか。前日になって突然奏上して朕(ちん)にそのまま朗読させるとは何事か。博文がかくも不誠実(ふせいじつ)な態度をとるのであれば、朕は明日の開院式には臨(のぞ)みたくない。勅語の案文は博文に突き返しなさい」。





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ぴーち おはようございます!
全く無知の分野を9ヶ月もの間懸命に学び、それを天皇へ伝えた藤波の功績に心打たれますね。
こうした影の努力があってこその憲法だったのだと思うと、改めて頭が下がる思いがしました。
それにしても、伊藤博文には何か策略があったのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、藤波氏の影の努力は大いに称賛されるべきかと思われます。
伊藤の場合は「憲法を作ってきたのは自分だ」という考えが、直後を手渡すだけでしかも他人に任せるという傲慢な態度につながったのではないでしょうか。
天皇の憲法への強いご関心はそれだけではありませんでした。枢密院での審議は明治21年5月から翌明治22年1月までの8ヵ月間に49回行われましたが、明治天皇はその審議にほとんど出席されました。
審議において天皇は一言も発せられませんでしたが、それはご自身のご発言で審議における自由な言論が妨(さまた)げられることを好まれなかったため、敢(あ)えて一切(いっさい)の発言を控えられたからでした。
先述したように、明治天皇は事前に憲法学を究(きわ)められたことで審議の内容を詳(くわ)しく理解されており、また終了後には毎回のように議長の伊藤や草案をつくった井上毅をお呼びになって疑義(ぎぎ、疑問に思われる点のこと)のある内容を確認されたそうです。
枢密院における憲法審議の中心的ご存在として毎回出席され、その内容をすべて理解されておられた天皇の御前(ごぜん)でしたから、伊藤と始めとする枢密院の顧問官(こもんかん)らは常(つね)に緊張感(きんちょうかん)を持って審議せざるを得ず、それらが完成した憲法における権威や正当性を自然と高める結果につながったことは言うまでもありません。





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ぴーち おはようございます!
今日のお話で、明治天皇に日本人としての
本来のあるべき姿を見たように感じました!
例えば、世界へ出ていくにしても、英語を流暢に使いこなせるのは確かに良いことかも知れませんが、多くを語りすぎる事でフレンドリーな印象は与えても、信頼や頼もしさ、或いは威圧感という
意味ではかけ離れてしまうと思います。
何も語らずとも、そこに存在しているだけで
周囲に与える重々しさ・・勿論、そういう雰囲気を周囲に与える人格そのものも、中身の濃い人生を歩んで来たからこそ、醸し出せる印象なのだと思いますが、心の安定、平常心を養う為にも、常に勉学に励み、軽率な言葉を発しないように努力していきたいものだと、改めて感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
明治天皇のご姿勢が、私たちに日本人としての重要な何かを示してくださっておられるような思いがします。
そこまでの重責を感じておられたからこそ、明治天皇は枢密院での審議にほとんど出席を続けられました。長い審議の間も天皇は肘掛(ひじか)け椅子(いす)にじっとお座(すわ)りになり、背中を椅子の背に寄り掛からせることも、姿勢を崩(くず)されることもありませんでした。
さらには審議中のある日に天皇の第四皇子の昭宮猷仁親王(あきのみやみちひとしんのう)が薨去(こうきょ)されたという悲報(ひほう)が届いた際にも、伊藤による審議中止の進言に耳を貸されず、何事もなかったかのように審議がそのまま続行されました。
明治憲法の制定は、単なる「外国の真似(まね)をしてつくられた憲法」ではなく、我が国の伝統や文化に根差(ねざ)すとともに明治天皇による重大なお覚悟によって「君主が国民に下(くだ)された」欽定憲法という国家の一大事業だったのであり、それは明治天皇ご自身による後年(こうねん)の御製からも明らかでした。
「さだめたる 国のおきては いにしへの 聖(ひじり)のきみの み声(こえ)なりけり」(明治43年=1910年)





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ぴーち おはようございます!
そうですか・・
今日のお話を伺い、明治天皇の意志の固さを
改めて感じました。
一国の行く末を左右する大事な決め事ですから、
やはりそれくらいの慎重と緊張感を持って
挑まないと一寸先の未来のことさえも、想像出来ませんものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
明治天皇のご意志の固さに私たちは感謝してもしきれないですね。
もちろんそれは正解ではありません。明治憲法によって示された立憲君主制は、皇室をいただく我が国の伝統的な政治文化と、西洋を起源とする国家の基本法である憲法を中心とする政治体制とを調和させただけなのです。
神話の時代をさかのぼれば2670年以上も前から我が国にご存在され続けておられる歴代の天皇の皆様(みなさま)におかれましては、古代にこそ政治の実権をお持ちになられた方もおられましたが、時代が下るにつれ幕府の誕生などによって天皇お自らが権力を行使されることはなくなり、時の権力者をして天皇の権威によって政治を行わせしめる手法(しゅほう)が定着しました。
すなわち、我が国では「天皇は政治的責任を持たない」という形式が伝統であったところへ、西洋の政治体制の根幹(こんかん)をなす基本法として成文化(せいぶんか)されたのが明治憲法であり、これは我が国が得意とする「他の文化を我が国に根差した伝統と融合(ゆうごう)させて独自(どくじ)の新たな文化をつくりだす」という流れに沿(そ)ったものでした。
ただ、このようにして完成した明治憲法ではありましたが、そもそも法律であったがゆえにその内容には道徳(どうとく)に関する規定がありませんでした。折しも憲法制定当時は急激(きゅうげき)な近代化によって我が国の歴史や伝統が軽視(けいし)される傾向(けいこう)にあり、そのことを深く憂慮(ゆうりょ)された明治天皇は、大日本帝国憲法と並んで日本人の精神の拠(よ)り所(どころ)となった教育勅語(きょういくちょくご)を発表されるご決意をなさったのです。
※以下のニコニコ動画は平成24年12月10日更新分「明治天皇と立憲君主制 その1」~今回更新分「明治天皇と立憲君主制 その6」をまとめて映像化したものです。





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ぴーち おはようございます!
確かに、新鮮な空気を入れる事となると
国内の様相はたちまち、外からの色に染まって
行きますが、それまで長年培われて来た大切なものまで失われてしまう危険がありますものね。
変わって貰いたい所はどんどん変化を求めても、変わらないで貰いたい部分はしっかりと伝承していかなければ、風化するばかりですものね。
しっかりとした法の元ではそれになりに自由を謳歌出来ますが、法律が無い世の中は
返って不自由に感じるものです。
そういう意味では、明治天皇の教育勅語という決断は現代も見習うべき素晴らしい提案だったのだと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
教育勅語の意義については次回(16日)からの更新で明らかにしていきますのでよろしくお願いいたします。
教育勅語を失った現代
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
明治時代の人間は、現代よりもはるかに
貧しく、困難がありました。
それなのに、現代人は
・ うつ病100万人。
・ 自殺者数毎年3万人。
・ 幼児虐待数の増加。
があります。明治時代よりも、はるかに豊かで
はるかに便利になっているのに。。。
これは、私は、GHQが、日本人の精神性を壊すために教育勅語を廃止したことが大きいと思います。
アメリカの目論見通り
豊かなのに、ストレスに弱い日本人が出来上がったわけですから、
そう考えると、新政権がどんな政策を立てようと
世の中に順風満帆はなく、山あり、谷ありなので、教育勅語を復活させないと、このまま
ストレスに弱い日本人だと乗り越えられませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
教育勅語の復活が堂々と叫ばれる体制に持っていくには国民の熱意はもちろん、政治的な力も大きいと思われます。
しかし、余(あま)りに急速に近代化したことによって、我が国では西洋文化を重視(じゅうし)する一方で従来(じゅうらい)の伝統や文化を顧(かえり)みない風潮(ふうちょう)が見られるようになり、当時の大きな問題となっていました。
また、この傾向は教育界においても同様(どうよう)であり、特に道徳教育の基礎(きそ)を何に置くかという根本的(こんぽんてき)な問題について一致(いっち)した見解がなかったため、我が国伝統の倫理(りんり)や道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。
これらの事態(じたい)を重く受け止められた明治天皇は、井上毅と元田永孚(もとだながさね)に起草(きそう、案文を作ること)させ、天皇ご自身も熱心にお考えを示されたうえで、明治23(1890)年10月30日に「教育ニ関スル勅語」(通称:教育勅語)を発せられました。





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ぴーち おはようございます!
この当時では、教育勅語というしっかりとした指針が定められたお陰で、日本人古来の道徳心が守られたのでしょうけれど、現代の様に、ある特異な教育方針のお陰?で、道徳の時間も削られてしまう様な有様では、日本人たる意識は勿論、風紀が乱れて来るのは当然の事なのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってその通りだと思います。
このような教育体制はいい加減に変革しなければなりません。
今回の総選挙がそのきっかけになってくれればよいのですが。
ぴーち おはようございます!
今回また政権奪還に成功したのだから、過去に自分たちが蒔いた不名誉な教育制度のタネを刈り取る意味でも、名誉挽回する為のチャンスだと思いますので、心を入れ変えて教育の方の改革にも着手していただきたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 私も同感です。
政権交代はある意味チャンスでもあり、教育改革を成し遂げることは大きな意義があると思います。
なお、教育勅語は明治天皇が親しく国民に発せられたお言葉として御名(ぎょめい、公文書における天皇ご自身による署名のこと)だけが記され、国務大臣(こくむだいじん)の署名は副署(ふくしょ)されませんでした。
勅語は当時の国民世論から大いに歓迎(かんげい)され、小学校修身科(しゅうしんか)の教科書に掲載(けいさい)されたほか、学校行事において校長先生が奉読(ほうどく、つつしんで読むこと)するなど多くの児童(じどう)や生徒の日常の中にごく当たり前のものとして存在したほか、英・独・仏・中の各国語に翻訳(ほんやく)され、海外にも広く紹介(しょうかい)されました。
ところで、昭和に入ってから勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ」などの部分が軍部を中心に特に強調されるようになりましたが、これは勅語本来の精神とは全く別の問題であると解釈(かいしゃく)できます。
なぜなら、勅語が発せられた明治23年といえば国民の間でもようやく「幕府や藩への忠誠心」から「国家への忠誠心」へと明らかに変化した時期であり、それを踏まえて「これからは国の元首たる天皇の下で国家の繁栄(はんえい)のために力を尽(つ)くしなさい」という意味が勅語において伝統的で古風(こふう)な手法で述(の)べられているからです。





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晴雨堂ミカエル 善行から出発したものでも、それを悪用する者が必ず現れます。悪用されたからといって、善行そのものまで否定されてしまうのは世の常です。
これは教育勅語に限ったことではなく、生類憐れみの令しかり、後世は民主主義や人権も対象となるでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにありますが、だからこそ私たちは事の本質を見抜いて「ならぬものはならぬ」という精神を身に着ける必要があります。
相手の意見に唯々諾々と流される国民ばかりでは、その国はいずれ滅びることでしょう。
ぴーち 昭和に入ってからの軍部は破竹の勢いだったのですね。利用できるものはなんでも利用する。排除したいものは徹底的に弾圧する。悪く言えば、国を自由に操り、好き放題に仕切る事が出来た「癌」の様な存在に今更ながら、思えてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ちは私も理解できますし、戦後になって軍部がその様に判断されてしまうことも致し方ないかもしれません。
ただ、一方的にレッテル貼りをするだけではなく、それならそれで「なぜ軍部はそこまで追いつめられていたのか。本来軍部を抑えるべき政治は何をやっていたのか」ということも同時に考える必要があると思います。
戦前の歴史については来年に取り上げますので、その時に改めて一つの判断を下したいと思います。
おっ、来年に取り上げるとなれば・・。
晴雨堂ミカエル 二月に2・26事件を中心に取り上げるおつもりですね。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 来年2月は時期的に通史がまだ追いつかない可能性が高いです。
どの事件をいつ取り上げるかは当方で決めさせていただきます。
教育勅語しかり、軍人勅諭しかり、
てぃん 日本近代史の矜持として見直すべき、ステートメントだと感じます。
難しく考えるのではなく、その内容に先入観なく触れれば、素直にそう“感じる”のです。
既存の解釈や思想的バイアスを取り除いて、素直な歴史認識を教示くださる黒田先生の講座は、今の時代、特に必要だと応援申しあげます。
てぃんさんへ
黒田裕樹 応援くださり有難うございます。
ご高説、誠に仰るとおりです。
今後とも素直な歴史認識を心がけて講座を続けてまいりますので、どうぞよろしくお願いします。
教育勅語
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、教育勅語は、素晴らしいですし、復活させるべきだと思いますが
ただ、一つだけ引っ掛かる点があります。
それは、漢文であるということです。
漢文だと
① 内容がわかりにくい。(子供に)
② 中国の文化が入っている気がする。
中国の史記で、教育勅語のような漢文で、皇帝が部下に命令したり、部下が皇帝に進言したりする内容をよく、観たので、
個人的には、漢文調は、どうも抵抗があります。
平成の『教育勅語』は、現代語訳のものにしたほうがイイと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る気持ちはよく分かりますが、漢文の素養は幼少の頃から身につければ十分理解できます。
そのような教育をしてこなかったことに問題があるのです。
現代語訳も必要とは思いますが、漢文も同時に理解したいものですね。
ただし、排除・失効決議がなされたからといって、教育勅語そのものが「廃止(はいし)」されたわけではありません。そもそも天皇陛下のお言葉である「勅語」を廃止できるのは陛下ご自身のみであり、それを国民の立場で勝手に廃止する行為は「不敬(ふけい)」以外の何物(なにもの)でもありません。
事実、教育勅語は一部の幼稚園(ようちえん)などの教育機関において今もなお暗唱(あんしょう)されており、健全な青少年の育成において重要な役割を果たし続けています。
占領下(せんりょうか)という異常な事態においてGHQによって無理やり「排除・失効」させられたという現実を考えれば、独立を回復して半世紀以上も経(た)つ現在において国会で排除・失効決議を「無効化」して教育勅語を「復活」させ、勅語が再(ふたた)び私たちの日常生活に欠かせない存在となることに何の問題があるというのでしょうか。
※以下のニコニコ動画は平成24年12月16日更新分「教育勅語に込められた陛下の願い その1」~今回更新分「教育勅語に込められた陛下の願い その3」をまとめて映像化したものです。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、教育勅語はGHQによって排除されてしまったのですか・・。
けれど我が国に天皇がいらっしゃる限り、勅語は無くなってしまった訳ではなく、また復活する事も可能であるという訳なんですね。
それら思うとアメリカの占領下という足かせは今もずっと続いていると言う事実を嫌というほど、思い知らされます。。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、GHQが排除したからと言って我が国がいつまでもそれに従う理由などありません。
占領状態から回復して60年も経つのですから、教育勅語の復活を阻むものは本来は何もないはずなのです。
オバrev 教育勅語に関してはかなり誤解もあり、本来の意味が理解されていない・・・と言うか私もよく理解していませんが・・・という点をしっかり加味して、ぜひ復活させて欲しいですね。
本来の歴史と意味が理解されれば、国民の多くは賛成するんじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
GHQがなぜ教育勅語を廃止させたのか、あるいは教育勅語の復活を阻む勢力の本質がどこにあるのかを考えれば、おのずと一本の大きな筋が見えてきます。
もうそろそろ悪しき慣習を断ち切り、美徳ある我が国を再構築しなければならないでしょう。
改革の時間
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、いつも思うのですが、
この明治天皇の教育勅語が日本の道徳教育に
果たした役割は、非常に大きいと思います。
ただ、それが浸透するまで、ある程度の時間が
要したと思います。
なぜなら、自虐教育を受けた期間があまりにも
長く、その教育を受けた世代があまりにも、多いからです。(戦後65年間)
そう考えると、
今の日本において、現政権も教育改革(経済改革、外交改革など)さまざまな改革をするにしても、その芽がでるまで
ある程度の時間がかかると思います。
そう考えると、
今から、始めないと、それが芽を出すのは
さらに、遅くなります。
現代の日本の国民は、手品や魔法のように、政治家の力で、明日、スグに芽が出ると思いすぎのような気がします。
マスコミのマッチポンプのような偏向報道がそれを助長していると思いますが。。
やはり
有能な政治家がある程度の期間、じっくりと
腰を据えてしないと教育改革・道徳改革の芽がでませんね。(他の改革も同様ですが)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
来るべき新政権を長期化させようと思うのであれば、目先の政策に一喜一憂するのではなく、叱咤激励はあっても後ろから鉄砲を撃つこともなく、長い目で見守り続ける必要があるでしょう。
戦時に備(そな)えて陸海軍では軍事演習が度々(たびたび)行われましたが、明治天皇は大元帥(だいげんすい)として数多くの演習を直接統監(とうかん、全体をまとめて監督すること)され、その度毎(ごと)に将兵(しょうへい)の労苦(ろうく)を共(とも)に分かち合われるという大御心(おおみこころ)を示されました。
例えば、明治21(1888)年11月の埼玉県(さいたまけん)での近衛部隊(このえぶたい、天皇の身辺警護を担当する武装組織のこと)の秋季演習が豪雨(ごうう)の中で行われた際、明治天皇はいつもどおりの乗馬姿(じょうばすがた)で野外から演習に臨まれましたが、余りに激(はげ)しい雨にお付きの侍従が馬車(ばしゃ)をひかせたところ、明治天皇は「朕は乗らない」と仰られ、そのままの姿で最後までお過ごしになられたそうです。
また、明治27(1894)年に日清戦争(にっしんせんそう)が始まり、大本営(だいほんえい、戦時に設置される陸海軍の最高統帥機関のこと)が前線に近い広島(ひろしま)に移(うつ)されると、明治天皇は同年9月から翌明治28(1895)年4月まで半年以上もの間、大本営で日々を過ごされることになりました。





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ぴーち おはようございます!
先日私が軍は「癌」だとコメントさし上げた時に、そうとも限らないというお返事をいただいた理由はこちらでしたか^^
確かに発足した当初というのは、それが必要であったと思われたからこそ組織が生まれ、出だしは順風満帆であったのだとしても、その後の詳しい展開は存じませんが、同じ組織が長い間我が物顔に一国を統司する事となると、誰もそのものに楯突くものが居なくなると、そこには傲慢さや強引さという悪しき考えが生じて来てしまうのではないかと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る道理は確かにどの組織にも存在しますね。前回の総選挙で自民党が野に下らざるを得なかったのもそれが理由の一つでしょう。
軍部に関しては、明治の輝かしさが薄れていったことには軍部自身に責任があることは言うまでもありません。
ただ、それだけでないのもまた事実ですので、詳しいことは来年以降の通史で折に触れて紹介したいと思います。
西郷隆盛。
晴雨堂ミカエル 明治天皇は西郷隆盛の教えを律儀に守っている事を示すエピソードでもありますね。
戦があっても不浄の鎧兜は着ず、女官に囲まれ束帯や直衣姿で和歌を詠む帝から、自ら不浄の軍服を着て、体力が消耗しない輿や牛車や馬車には乗らず乗馬で臨まれる。
現代の感覚では「それがどないした?」でしょうが、皇室の歴史からすれば革命的変革、明治天皇の立場からすれば一大決心。
天皇が日本統合の存在であり続けているのは、この生真面目かつ果敢に責務を全うしようとする姿勢でしょう。
抜群の自制心は今上陛下や皇太子殿下にも引き継がれています。マリー・アントワネットのようなお馬鹿が君主だと連想する左翼は、まことの皇室の強さ恐ろしさを知らない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷隆盛の存在の大きさを示したエピソードだと思います。
陛下はお召(め)しの軍服が破れても「繕(つくろ)えば良い」と交換(こうかん)に応じられず、寒い冬にストーブを取り付けようとすると「戦地に暖炉(だんろ)があるのか」と許可されず、大本営が手狭(てぜま)なので増築(ぞうちく)しようとすると「出征(しゅっせい)した兵士が生命を犠牲にして困苦(こんく)しているのに比べれは此処(ここ)の不自由など何でもない」とお断(ことわ)りされたそうです。
また、野戦衛生長官(やせんえいせいちょうかん)が戦地の兵士たちの食事や健康状態などについてご報告した際に、陛下は真っ先に「兵たちの飯(めし)は日本米か、それとも外地米(がいちまい、日本産以外の米のこと)か。外地の米には小石が混(ま)じっているそうだが、兵たちはそれで歯を痛めたり、胃腸を悪くしたりしてはいないか」とお尋(たず)ねになりました。
長官が「外地米を食べておりますが、石を取り除(のぞ)く道具を使用しておりますので大丈夫(だいじょうぶ)です」と申し上げ、その道具をお見せしたことでようやく明治天皇はご安心なさったそうです。





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ぴーち おはようございます!
こうした天皇の姿勢を今の政治家サン達にも是非
見習っていただきたいと切に思いますね。
国民が第一だと看板を掲げて居ながら、私利私欲にまみれ、選挙の時にだけ平身低頭な素振りをする姿にはうんざりさせられます。何億、何百億というお金の単位しか知らない政治家さんたちに、1円、十銭の単位で一喜一憂している世界の人間の生活の感覚は到底想像すら出来ないでしょうね・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりと思います。
国民生活の感覚がわかっていない君主や為政者は身を滅ぼしかねませんね。善政を行うための必須条件だと思いますが…。
明治天皇はご苦悩(くのう)の末(すえ)に開戦にご同意されましたが、対ロシアへの宣戦布告(せんせんふこく)の詔(みことのり、天皇によるお言葉やその文書のこと)を発せられた際に、そのお苦しみのお気持ちを御製に詠まれておられます。
「よもの海 みなはらからと 思ふ世(よ)に など波風(なみかぜ)の たちさわぐらむ」(明治37年、「はらから」とは兄弟のこと)
以上の御製は後に昭和天皇が大東亜戦争(だいとうあせんそう、なお戦後にGHQによって太平洋戦争と名称を無理やり変更させられました)開戦時の御前会議の席上で詠み上げられたことでも有名です。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、天皇は人類は皆兄弟であると思っているのに、何故にこのような戦いをしなければいけないのかと嘆いていらっしゃったんですね。
天皇の慈愛に満ちた一句ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の皇室こそが最大の「慈愛に満ちた平和を望まれるお考え」の持ち主なのです。
それはもちろん昭和天皇も、今上天皇も全くお変わりではありません。
それだけに、明治天皇の今後のご苦悩はますます深くなられるのです。
「さ夜(よ)ふかく ゆめをさまして さらにまた 軍(いくさ)のうへを おもひつづけぬ」(明治37年)
「ゆくすゑは いかになるかと 暁(あかつき)の ねざめねざめに 世をおもふかな」(明治38年=1905年)
戦地のことが気になられて満足にご就寝(しゅうしん)がお出来(でき)にならないご様子がうかがえます。
「しぐれして 寒き朝かな 軍人(いくさびと) すすむ山路(やまじ)は 雪やふるらむ」(明治37年)
「ふる雪も またれざりけり つはものの ※たむろの寒さ おもふ今年は」(明治38年) ※たむろ=陣営のこと
日清戦争における広島の大本営と同様に、明治天皇は現地の兵士とお心を共にしたいという思(おぼ)し召しから開戦と同時にストーブを焚(た)くことをおやめになられたそうです。





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オバrev あるセミナーで、日々の一挙手一投足が人格を作るということを言われましたが、それを思いましました。
天皇家の方々の持っておられる気品といいますかオーラは、やはり一朝一夕に作られたものではないのですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
皇居での勤労奉仕で陛下がお越しになられると、そのオーラに圧倒されて何もできなくなってしまうらしいですからね。我々常人ではありえない気品をお持ちなのでしょう。
ぴーち こんばんは!
今日は奇しくも天皇誕生日ですね。
お昼の番組で、今上天皇が被災された
方達の事を思い、ご自分でも心臓の病を
押してまでも被災地をご訪問し、労いの
お言葉を掛けられているお姿をテレビは
写していましたが、やはり自分の命を削られながらも、この国の国民の事を一番に案じて
いらっしゃるお気持ちは、非常に慈悲深く
そのお気持ちを私達ももっと知るべきだと
思いましたね・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 昨日(23日)は仰るとおり天皇誕生日でしたね。私も近くの記念式典に参加してきました。
陛下の慈悲深いお気持ちは、今上陛下も明治天皇も、もちろん他の陛下の皆様も全く同じです。
一部の国民が陛下のお優しさを理解していないのは悲しいですね…。
「いさましく 進みすすみて くにのため たふれし人の おほくもあるかな」(明治37年)
陛下の大御心は現地の兵士のみならず国民一人ひとりまでに及ぶと同時に、多くの兵士が毎日のように尊(とうと)い命を散らしていくことを大変悲しまれておられました。戦争前には黒々としていた御髪(おぐし)も、戦争中にめっきり白くなられてしまわれたということです。
「さまざまに もの思ひこし ふたとせは あまたの年を 経(へ)しここちする」(明治38年)
やがて我が国は大変な苦労を重ねながら大国ロシアを相手に辛(から)くも勝利を収(おさ)めることができました。以下の御製は東郷平八郎(とうごうへいはちろう)連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん)による横浜沖(よこはまおき)での凱旋観艦式(がいせんかんかんしき)を思われて詠まれたものです。
「いさましく かちどきあけて 沖つ浪(なみ) かへりし船を 見るぞうれしき」(明治39年=1906年)
これらのように、明治天皇は将兵の労苦と常に共にあろうとするお気持ちをことある毎に示されておられました。我が国が明治期の数々の困難(こんなん)な戦争を勝ち抜(ぬ)くことができたのも、一兵卒(いっぺいそつ)までが陛下の大御心に触(ふ)れたり、また伝え聞いたりしたことによって勇気百倍し、それぞれが獅子奮迅(ししふんじん、獅子がふるい立って暴れまわるように激しい勢いで物事に対処すること)の働(はたら)きを見せたからではないでしょうか。
※以下のニコニコ動画は平成24年12月19日更新分「戦時における陛下の大御心 その1」~今回更新分「戦時における陛下の大御心 その5」をまとめて映像化したものです。





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ぴーち そうですよね。
家族だとてそうだと思います。
親元を離れ、社会の荒波に
揉まれ、子供は苦難を乗り越えていくものですが、
たとえ遠くに離れていようが、自分を
いつも暖かく見守ってくれている
親や家族が居るというだけでも
心が落ち着くものですし、そういう拠り所が
有ると無いとでは、その人の人生は
随分と変わって来ると思います。
精神的に常に落ち着いて行動することは
成功出来る人生の大きな要因でもあるように
自分にとって心の拠り所がある事は
それだけで心強く、精神的に路頭に
迷うことが無くなるという事だと思いますからね。
応援凸
オバrev 陛下の国をそして国民を思うお気持ちは、何があっても揺るぎなく、ぶれない、強いものだということがよく分かります。
ポピュリズムに走り、軸がぶれまくっている某政党(複数)の混乱を見ていると、政治家にも国のために芯がしっかりしてぶれないことが求められているように思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、精神的な拠り所の存在の大きさを実感します。
日本国民の、そして兵士の一人ひとりが陛下の大御心を支えとして苦境に立ち向かい、結果として我が国を繁栄に導いていく。
現代にもつながる教訓だと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
来るべき新政権には「国益」を第一に考え、我が国発展のためにぶれずに行動を続けてほしいものですね。