このため、大正元(1912)年11月に、陸軍は朝鮮半島への駐留を目的として、二個師団(しだん)の増設を要求しましたが、第二次西園寺内閣が財政難を理由に閣議で拒否したため、これに怒った陸軍大臣の上原勇作(うえはらゆうさく)が、同年12月に大正天皇(たいしょうてんのう)に対して、内閣に相談なく単独で辞表を提出しました。これを帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)といいます。
上原陸相(りくしょう)の辞任後、陸軍は後任の陸軍大臣を推薦(すいせん)しなかったため、第二次西園寺内閣は総辞職せざるを得ませんでした。なぜなら、明治33(1900)年に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣が軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)を定めており、現役の大将や中将(ちゅうじょう)以外は陸・海軍大臣になれなかったからです。
軍部大臣現役武官制は、制定当時に勢いを増していた政党の軍部への影響力を抑えるためのものでしたが、軍部がまるで陸相を人質にとったような手法や、内閣や議会を軽視した帷幄上奏権の利用が問題となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
この当時は、政治を司る機関と軍の機関との2大勢力が支配していて、どちらかというと国は軍への待遇の方を優先させていたと解釈させていただいても良いのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この当時は、政治を司る機関と軍の機関との2大勢力が支配していて、どちらかというと国は軍への待遇の方を優先させていたと解釈させていただいても良いのでしょうか?
当時は政治と軍事が車の両輪のように我が国を支えていましたが、現場で命を懸けて戦い抜いた軍部の方に強烈な自負があったと思われます。
そんな考えがあったことから、必ずしも優先させていたわけではないですが軍部の意見が通りやすかったのは間違いないでしょう。
我が国での議会政治が誕生以来まだ日が浅かったことも大きかったといえます。
また、陸軍と同じように拡充計画を延期させられていた海軍では、大臣の斎藤実(さいとうまこと)が留任を拒絶していましたが、桂は大正天皇の詔書(しょうしょ、天皇の命令を伝える公文書のこと)によって強引に留任させました。
内閣の成立に際して天皇の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書の総称のこと)を利用したことは、議会の存在を軽視しただけでなく、大日本帝国憲法第3条における天皇の神聖不可侵(しんせいふかしん)、すなわち天皇に政治的責任を負わせないという精神にも反するものであったことから、第三次桂内閣に対する非難の声が成立直後から高くなりました。
こうした流れを受けて、立憲政友会の尾崎行雄(おざきゆきお)や立憲国民党の犬養毅(いぬかいつよし)らを中心に、実業家や都市の一般民衆も加わって、「閥族政治打破(ばつぞくせいじだは)・憲政擁護(けんせいようご)」をスローガンとする運動が全国に広がりました。これを第一次護憲運動(だいいちじごけんうんどう)といいます。
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ぴーち おはようございます
この頃の政治の動きというものが
どうも私の記憶の中では曖昧であって
モヤモヤしていた部分がありましたが、
こうして今日、お話を伺って
何やら霧が晴れた様にすっきりとさせられました^^
物事の原因、結果が分かり
ありがとうございますm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この辺りまで来ると高校でもなかなか学べない(=時間がない)ところですからね。
お役にたてて何よりですm(_ _)m
追いつめられた桂は再び議会を停会したほか、大正天皇の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書の総称のこと)によって事態を打開しようとしましたが、そんな桂の態度に激怒した国民の一部が暴徒と化し、東京や大阪で政府と関係の深い新聞社が襲われたり、国会を取り囲んだりする騒ぎが起きました。
こうした事態を受けて、一時は衆議院を解散して総選挙に持ち込もうと考えた桂もついに内閣総辞職を決断しましたが、それは組閣からわずか53日後のことでした。なお、これら一連の動きは、今日では大正政変(たいしょうせいへん)と呼ばれています。
第三次桂内閣の崩壊(ほうかい)後には、立憲政友会を与党として、薩摩出身の海軍大将の山本権兵衛(やまもとごんべえ)が第一次山本内閣を組織しました。山本は軍部大臣現役武官制を改正して、現役を引退した予備役(よびえき)や後備役(こうびえき)も、軍の意向とは無関係に首相が陸・海軍大臣に就任できるようにした(ただし、実際に選任された例はありませんでした)ほか、文官任用令を改正して、政党員が上級官吏(かんり)に任用される道を開くなど、政党の影響力を拡大しようとしました。
ところで、第一次護憲運動から大正政変までの流れは、「権力を持たない国民による運動で内閣を倒した歴史的な大事業」とされ、またいわゆる「大正デモクラシー」の幕開(まくあ)けとして高く評価されることが多いですが、その実情は果たしてどのようなものだったのでしょうか。
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ぴーち おはようございます!
こうして伺っていると
大正時代は、国民が政治に関して
こぞって皆関心が高かったのですね。
裏を返せば、それだけ政府に対しての期待度が
高かったのでしょうね。
何か政治家が失態を犯せば、直ぐ様
国民はそれを許しておくわけにはいかないと
立ち上がる姿は、現代に生きる人間としては
見習わなければいけない精神なのではないかと思いました。
個人主義が次第に定着して来てしまうと、
個人個人はそれなりに政治に対しての反論意見を
持っていても、広範囲には浸透せずに、同じ思いの人間が大きな束となって立ち向かっていくことは、なかなか実現出来ないのが今の状態であるように思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 明治憲法ができてから、この時点ですでに25年近くの歳月が流れています。
国民一人一人が政治に目覚めても決しておかしくはなく、むしろ当然と言えるかもしれませんね。
それだけに政治家の責任は重大です。
そしてそれは、クーデターともいえる大正政変の収束後こそ言える話なのですが―。
それなのに、第一次山本内閣の誕生後には、スローガンであった「閥族政治打破(ばつぞくせいじだは)・憲政擁護(けんせいようご)」の声がほとんど聞かれなくなり、第一次護憲運動の熱が一気に冷めてしまったのです。
その理由は、上記のスローガンを一番熱心に叫(さけ)んでいたはずの立憲政友会が、倒閣によって与党となり、多数の閣僚(かくりょう)ポストを得るなど大きな利権を得たからでした。こうした政友会の姿勢には、立憲国民党や一般国民、あるいは政友会内部からも大きな反発の声が挙(あ)がり、尾崎行雄が政友会を離党(りとう)するなどの混乱が続きました。
大正政変が起きた当時は、大日本帝国憲法が制定されてから25年近くの歳月が流れていましたが、政変前後における立憲政友会の動きは、我が国における政党政治の未熟(みじゅく)さを浮(う)き彫(ぼ)りにしていました。そして、第一次護憲運動によって誕生した第一次山本内閣も、この後に思わぬ方向から崩壊の危機を迎えることになってしまうのです。
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ぴーち おはようございます!
なるほど~
確かに野党の時には、やんややんやと騒いでいた政党も、いざ与党に躍進した途端に借りてきた猫の様におとなしくなってしまうのは世の常ですものね。きっとそこで大人しくなってしまうのは、
その政党はただ与党に成りたかったという
目標しか無かったのだと思います。
自分たちの成し遂げたい何か大きな目標があっての躍進ならば、例え与党であれ、なんであれ
それを実現出来るまでは落ち着いている暇など
ないはずでものね。
そう言えば・・。
やんちゃして、手を焼いていたある大物タレントが映画監督作品などでいきなり世界から注目を浴びてしまったが為に、急に落ち着き払ってしまいましたよね・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、自分たちの「本当の欲求」を満たされれば、表向きのスローガンなどどうでもよくなってしまうのでしょう。
「政権交代」をスローガンとしながら、実現後は無為無策(というより悪意悪策)でただただ与党として3年以上も居座り続ける某政党にも同じことが言えるかもしれません。まさに歴史は繰り返すー。
> やんちゃして、手を焼いていたある大物タレントが映画監督作品などでいきなり世界から注目を浴びてしまったが為に、急に落ち着き払ってしまいましたよね・・(^^ゞ
そういえばそうですね(笑)。
バラエティでは被り物をしていまだにはっちゃけておられるようですが(^^ゞ
その後も数々の不正が発覚して、大きな汚職事件(おしょくじけん)に発展したことで、海軍大将でもあった山本権兵衛首相は、責任を取って同年3月に辞任しました。これをシーメンス事件といいます。
第一次山本内閣の総辞職を受けて、長州閥(ちょうしゅうばつ)の元老(げんろう)や陸軍関係者らは、言論界や国民から人気があり、また自由党の流れをくむ立憲政友会とは長年の宿敵でもあった大隈重信(おおくましげのぶ)を首相として迎え、立憲同志会などを与党とした第二次大隈内閣を誕生させました。
第二次大隈内閣は、翌大正4(1915)年の総選挙で立憲政友会に圧勝し、かねてよりの懸案(けんあん)であった陸軍の二個師団増設案も議会通過にこぎつけることができましたが、シーメンス事件の際に見せた「相手方の弱みや失敗に付け込む」姿勢は、大正政変における立憲政友会と同じように、当時の政党政治に潜(ひそ)んでいた、「党益を最優先し、そのためには国益を軽視した政争をも辞さない」という危(あや)うさを感じさせるものでもありました。
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ぴーち おはようございます!
賄賂自体は勿論褒められる行為では断固ありませんが、ドイツが日本に対して賄賂をしてまでも・・という媚びた姿勢だったのは、意外な印象でした。この頃の日本は世界に対して破竹の勢いだった事を感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の日本は世界に対して破竹の勢いだった事を感じました。
今回の記事では書ききれなかったのですが、仰るとおりの見方も重要です。
軍艦は昔も今も軍事上貴重な存在ですから、少しでも良いものをという買い手側と売り手側の暴走も十分あり得ますね。
政党政治の危うさ
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
議会制民主政治は、選挙で、選ぶので
暴走はないと思っていましたが、
政党が政権を取るために
ネガティブキャンペーン(相手の弱点ばかりを攻撃する。)
ポピュラリズム(大衆迎合主義)
に走り、政治が前に進まないか、おかしな方向に進む危険性があるのですね。
それによって、国力が弱くなって、喜ぶのは
外国なのに。。
今も、同じですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、危険性が高いのは全く変わりません。
見本となる前例がいくらでもあるのですが…。
イスパニア(=スペイン)やポルトガルによって始まった大航海時代は、やがてイギリス・オランダ・フランスによる海外進出をもたらしましたが、それらの国々には、大西洋(たいせいよう)に面して海に出やすいという共通点がありました。
一方、国が内陸に存在したドイツやオーストリア・イタリアは、列強による植民地の争奪戦(そうだつせん)に出遅(でおく)れていましたが、19世紀に入ると、国家の保護によって重化学工業を発達させたドイツが、産業革命においてイギリスを追い越さんばかりの勢いを見せるようになりました。
これに危機感を抱(いだ)いたイギリスは、「名誉(めいよ)ある孤立(こりつ)」(=Splendid Isolation)を捨てて日本と同盟を結んだほか、ロシアやフランスと三国協商(さんごくきょうしょう)を結びましたが、一方のドイツも、オーストリアやイタリアと三国同盟(さんごくどうめい)を締結(ていけつ)しました。
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ぴーち おはようございます!
今現在、尖閣諸島問題で中国が必死になって抵抗しているのも、結局は太平洋へ容易に進出出来る海路を確保することが目的で、ゆくゆくはアメリカとの交戦を視野に入れる為の魂胆であり、そこで我が国に対して有りもしない事実を捻じ曲げようと
している訳ですから、この時代と基本的な考え方は同じということになりますでしょうか(*_*;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今現在、尖閣諸島問題で中国が必死になって抵抗しているのも、結局は太平洋へ容易に進出出来る海路を確保することが目的で、ゆくゆくはアメリカとの交戦を視野に入れる為の魂胆であり、そこで我が国に対して有りもしない事実を捻じ曲げようと
> している訳ですから、この時代と基本的な考え方は同じということになりますでしょうか(*_*;
まさしくその通りです。
人間の考えることは基本的には変わっていません。だからこそ「歴史に学ぶ」必要があるのです。
目先の利害だけを考えた「安易な妥協」は国を滅ぼす元です。
日本のバランス感覚
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
以前、堺屋太一氏の本の中で、この日本の外交能力を評価していました。
というのも、
政治・陸軍のノウハウは、『ドイツから、ちゃっかり学んで、真似る。』をしながら
外交では、ちゃっかり、イギリスを中心とした国際派閥に属したからです。
おそらく、当時の日本政府は、事実上、海のない内陸部で、後進国であったドイツが近代化で、成功したことを尊敬しつつも、
世界のパワーバランスを見極めて、冷静に、日本にとって、どこと組むことが得かを考える力があったんでしょうね。
今もそうですが、国際社会では、一瞬の判断ミスが
そのまま亡国に繋がるから、常に命懸けの選択ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり様々なバランス感覚によって外交を積み重ねていくのが当然ですからね。
当たり前のように見えて命がけです。これが分かっている人がどれだけいるのでしょうか…。
1914(大正3)年6月、オーストリアの皇太子夫妻が、バルカン半島のボスニアの州都サライェヴォ(=サラエボ)で、セルビア人の民族主義者に暗殺されました。オーストリアが報復として翌7月末にセルビアに宣戦布告(せんせんふこく)をすると、同盟や協商関係によって、8月にはドイツとロシアの戦争に拡大し、さらにはイギリスやフランスもロシア側について、次々と参戦しました。
こうして、戦いはドイツ側の同盟国と、イギリス側の連合国とによって、ヨーロッパだけでなく世界へと拡大する空前の大戦争となり、4年3ヵ月にも及ぶ長期戦となりました。この戦争は、今日では第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)と呼ばれています。
さて、第一次世界大戦は、はじめのうちはドイツが優勢であり、苦戦していたイギリスは、同盟国である日本にもしきりに参戦を促(うなが)しました。しかし、日英同盟(にちえいどうめい)の範囲(はんい)がインドまでと定められていたこともあり、我が国の態度は慎重(しんちょう)でした。
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晴雨堂ミカエル ドイツ軍は参謀本部の強化に力を入れ、19世紀後半は大モルトケが鉄道や電信の整備と各部隊への参謀将校の常駐など、組織と軍用技術の発展普及に成功させました。
第一次世界大戦時、ドイツ参謀本部を仕切っていたのはたしかモルトケの甥だったと思います。
ドイツ軍は早くから機銃の普及や航空兵力強化に努めたのに対し、イギリスは基本的に騎士道精神が活きているナポレオン時代の感覚でした。
英軍が苦戦するのは当たり前、しかしドイツ参謀本部の権限強化も日本軍の統帥権問題と同じくやがては戦争指導の欠陥になっていきます。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、ドイツの軍事力はこういうところからも支えられていたんですね。
いずれにせよ、イギリスが我が国に救援を求めるのも確かに道理です。
ぴーち おはようございます!
戦いが勃発するきっかけというのは、
相手国に自国の要人が暗殺されるという
事件が発端である場合が多いのですね。
けれど、それが引き金であったとしても、
それ以前から、互いの国の関係に少しずつ
暗雲が立ち込め始めていたという事実が
あってこそなのですね。
いつもながら、その流れを丁寧に解説していただきありがとうございますm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 要人暗殺はむしろきっかけであり、それまでの深刻な対立が戦争をもたらすといったところでしょうか。
平和が一番なのは言うまでもないですが、一国の感情だけではどうすることもできないこともありますね。
中国大陸の山東半島(さんとうはんとう)に出兵した我が国は、ドイツが租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)していた膠州湾(こうしゅうわん)の青島(チンタオ)を占領したほか、太平洋へと逃(のが)れたドイツの東洋艦隊(とうようかんたい)を追撃(ついげき)して、ドイツ領だった南洋諸島(なんようしょとう)も占領しました。
また我が国は、海軍を地中海やインド洋・太平洋など各地へ派遣(はけん)して、連合国の商船や輸送船の護衛(ごえい)などを担当しましたが、ヨーロッパ戦線に陸軍を派遣することはなく、どちらかと言えば限定的な参戦に留まりました。
一方、第一次世界大戦が、イギリスなど欧州(おうしゅう)各国との友好関係構築の好機(こうき)になると判断したアメリカが、1917(大正6)年に参戦したことで、ヨーロッパ各地を転戦して多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を出しながらも、イギリスなどの連合国側に最終的に勝利をもたらすことに成功しました。
この結果、イギリスなどの連合国と、参戦に消極的な(と見られた)我が国と積極的に貢献したアメリカとの関係が、第一次世界大戦を通じて明らかに変化したほか、ヨーロッパにおけるアメリカの発言権が大きくなりました。そして、このことが結果として我が国に不幸をもたらすことになるのです。
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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この時の日本の参戦について、私が学んだ歴史の授業では、全く、黒田先生の内容とは、逆のことを教師が語っていました。
『日本は、全く、関係ないヨーロッパの戦争なのに日英同盟を口実に、参戦して、中国の権益を拡大させた。』
もし、陸軍をヨーロッパ戦線に派兵させていたら、その後の誤解もなかったと思うのですが、
黒田先生は、どう思われますか。
ぴーち おはようございます!
トップ記事の件ですが、昨日の夜はそんなアクシデントが起きていたのですね!私の所でも起きていた可能性があるという事は・・・
たまにありますよね(^^ゞ
早く復旧していただけるとと有難いです。
所でこちらの記事に関しての事ですが、
気の進まないうちに戦争に加担し、例えそこで勝利したとしても、その後に日本にとって不利益が襲いかかって来た際には、その戦争に加勢した事に対しての後悔が一度に押し寄せてきたことでしょうね・・。(^^ゞ
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 これは完全に「if」の問題ですから何とも言えませんが、少なくとも「中国の権益拡大のために参戦」という言われ様はなかったと考えられます。
ただし、アメリカとの対立がもっと激化していた可能性も高いでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当方のURLを外したら今回のように書き込みができるようです。
不思議な話ですね(´・ω・`)
仰るとおり、これは非常に難しい問題です。
ただ、初手の判断を結果として間違えたことがその後の運命を狂わせたことは疑いないのではないかと思われます。
正規の戦争において獲得(かくとく)した権益の返還を求められたのであれば、相手国に対しその代償(だいしょう)を求めるのは当然の権利です。かくして、我が国は大正4(1915)年1月に、袁世凱政府に対して、中国における満州(まんしゅう)や内蒙古(ないもうこ)などの、日本の権益の強化と保全を目的とした内容の文書を提出しましたが、これが後に「二十一箇条(にじゅういっかじょう)の要求」と呼ばれるようになりました。
提案した主な内容は、山東省(さんとうしょう)におけるドイツの権益を日本が継承(けいしょう)すること、南満州や東部内蒙古における日本の優越権の承認、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)および南満州鉄道の租借期間の延長、日中合弁事業の推進などでした。
中国との交渉は難航の末(すえ)に、我が国が最後通牒(さいごつうちょう、交渉打ち切りを視野に入れた最後通告のこと)を出したこともあり、同年5月に提案の大部分を中国に承諾(しょうだく)させましたが、これら一連の動きが捻(ね)じ曲げられて諸外国に伝えられたことが、我が国の立場を後々まで悪化させる原因となってしまったのです。





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ぴーち おはようございます!
さすが、中国。
自分の非を絶対認めようとしない往生際の悪さは今もこの頃も変わらない様ですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > さすが、中国。
> 自分の非を絶対認めようとしない往生際の悪さは今もこの頃も変わらない様ですね(^^ゞ
仰るとおり、全く変わっていません。
しかもこの後に「自分は被害者だ。相手が悪いんだ」と言うところも…(´・ω・`)
しかし、少しでも我が国からの干渉(かんしょう)を逃(のが)れたいと思った袁世凱は、極秘(ごくひ)のはずだった提案内容を外部へ漏(も)らしたほか、我が国からの提案を「要求」と捏造(ねつぞう)して、我が国の「不当」を喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)しました。
この動きに対して中国世論は敏感に反応し、袁世凱が「要求」を受けいれた5月9日を「国恥(こくち)記念日」としたほか、以後の排日(はいにち)運動の活発化をもたらしてしまいました。
しかも、こうした中国の「捏造」による悪影響が、日中両国間だけではなく、海外においても「欧米列強がヨーロッパ戦線にかかりきりになっていたことに乗じて、日本が中国に権益拡大要求を強引に押し付けた」という印象が定着してしまったのですが、その原因を中国とともにつくった国こそがアメリカだったのです。





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
今回の内容で、私は、世の中は、クリーンなことだけで、成り立っていないことを痛感しました。
というのも、アメリカと中国の謀略が
国際世論を創りだしてしまうのですから。
ただ、この外国によるプロパガンダ作戦に
弱い日本の体質は、今も変わっていないことを
考えると、日本人は、性善説を信じすぎる国民性なのかもしれませんね。
ただ、明治時代の政治家なら、国際世論を活用するのが
長けていた気がします。
(これは、『ないものねだり』を言っても仕方ないですが、)
青田さんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
明治の輝きを失いつつある悲哀をひしひしと感じますね。しかし、現状を考ええればいつまでも黄昏ているわけにはいきません。
初めてのコメントです
whitemoon こんばんは。
初めてコメントいたします。
子供の頃は漫画本を切っ掛けに、日本の歴史物
に興味を持っていました。
学生時代は受験勉強で用語等を覚えなくては
というプレッシャーから、次第に日本史から
遠ざかってしまいました。
また一から勉強し直すつもりで、黒田先生の
ブログを拝読させて頂きたく思っております。
whitemoonさんへ
黒田裕樹 初めまして、当ブログへのご訪問並びにお言葉ありがとうございます。
拙い内容ではございますが、今後ともご愛読くだされば幸いです。
アメリカの参戦理由
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、当初、アメリカの参戦理由が不思議で仕方ありませんでした。
というのも、アメリカは、モンロー主義であり、
国民は、基本的には、戦争参加には、大反対だったからです。
しかし、そのあたりは、アメリカ政府の巧みな
ところで
① イギリス・フランスとの経済的な結びつきが強く、武器を輸出していた。
② イギリス・フランスの債権国であり、負けてもらっては困る。
こう考えると、アメリカの参戦理由は、ビジネスそのもののような気がします。
ただ、こういうアメリカの『したたかさ』=(日本では、卑怯で、姑息さ)は、日本人も見習わないといけないですね。
現代に置き換えると、私は、TPPには、アメリカくらいの『したたかさ』を日本人が持っていると賛成ですが、『平和ボケ・平等ボケのお花畑思考』なら、反対です。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、当時のアメリカはしたたかでした。
とはいえ、外交にしたたかさがあるのが当たり前です。
我が国の現状を顧みれば情けない限りですし、TPP問題もおのずと結論が出ると思います。
ぴーち おはようございます!
アメリカという国は、自国の利益になる国でしたらすぐにでも手を伸ばして握手を求める傾向が強いですね(^^ゞ
少し前のテレビ番組で
日本人のアルバイトさんと中国のアルバイトさんの態度の比較を番組で検証したものを観ていましたら、皿を割ってしまった日本人のアルバイトさんはすぐに「すみませんでした」と謝罪したのに対して、中国人のアルバイトさんは、絶対謝罪の言葉を口にしませんでした。お国柄がよく表れていました。
中国は国民そのものの考え方が既に皆さん、そんな風なんですものね。
やはり宗教、環境、政治などの周りを取り巻くあらゆる事が日本とはまるで違うのが要因なのでしょうね・・。
確かに日本でも「誤ったら負け」という風潮が最近は大きくなりつつありますが
クレーマーと呼ばれる人たちの幅がどんどん広がりを見せているようです。
外国と対等に交渉するには、それくらいの厚かましさは必要かも知れませんが、
せめて同じ民族同士の間では「負けるが勝ち」も思い起こしていただきたいものです。
日本人はやはり基本的には「内弁慶」面も持ちあわせているのでしょうかね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
国際競争に勝てる努力は必要ですが、国内における「和」を失っては本末転倒ではないでしょうか。
内と外のバランスをとることは世界レベルで人間として当然だと思います。
しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感(けいかいかん)を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、さらに戦争後に鉄道王ハリマンの提案を我が国がはねつけたことも、満州など東アジアでの権益を狙(ねら)っていたアメリカの対日感情の悪化につながりました。
かくして、アメリカは我が国に対して敵意をむき出しにするようになり、アメリカ本土における日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになったほか、中国が喧伝(けんでん)した「二十一箇条の要求」を「利用」して、アメリカ政府が中国を支援することを表明したり、アメリカの新聞各紙もこぞって我が国を非難したりしました。
これらの「攻撃(こうげき)」に対して、我が国は明確な対策を講じることが結局はできず、我が国に関する「意図的につくられた不当なイメージ」だけが独(ひと)り歩きする結果を残してしまったのです。こうなった原因の一つとしては、元老(げんろう)がその威厳(いげん)によって我が国を支えていた明治の頃と比べ、政党が自己保全のために政争を最優先することが多かった大正時代には、軍事や政治の安定したバランスが崩(くず)れていたことが挙(あ)げられます。
それにしても、海外からの謂(い)われなき非難に対して明確に反論しないことが、いかに自国にとって命取りになるかということがよく分かる実話ですね。現代においても「南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)」や「従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)」といった荒唐無稽(こうとうむけい、言動に根拠がなく現実味のないこと)なでっち上げの話だけでなく、現実に危機となっている「北方領土(ほっぽうりょうど)」「竹島(たけしま)」「尖閣諸島(せんかくしょとう)」といった領土問題への杜撰(ずさん)な対応など、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないのが残念な話ではあります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この大正時代の外交の展開って、今の状況に酷似していて、ぞっとします。
(1) 政治家が政党の保持しか考えなくなる。
【大正時代】
明治時代の政治家が死に世代交代が起こる。
【現代】
戦前生まれの政治家がいなくなり、学生運動をしていた世代が政治の中枢にいる。
─────────────────────────────────
(2)最初良好だったアメリカとの関係が悪化。
【大正時代】
鉄道王ハリマンの提案の提案をはねつけて、
日米関係が冷却化。
【現代】
民☓党出身の鳩山総理が、沖縄基地の県外移転を言い出して、日米関係がギクシャクした。
但し、アメリカは東北沖地震の時、最大の支援をして、関係を修復しようと努めるが、
日本側は、全く、その努力をしない。
─────────────────────────────────
(3)中国のプロパガンダ作戦に振り廻される。→ 中国の『離間の策』は、お家芸です。
【大正時代】
中国がアメリカにたいして、プロパガンダ作戦をして
対華21ヶ条要求が一方的に日本が悪者にされる。
【現代】
従軍慰安婦、南京大虐殺、尖閣諸島など中国から、訴えられて、日本は、きっちりした態度が取れず、中国、韓国がアメリカ世論に訴える工作をしているのに、日本は、何も手を打てず。
─────────────────────────────────
※ 今の日本は、平和ボケ・豊かさボケ・平等ボケで、『大丈夫。大丈夫』と考えていますが
(ごく一部の憂いを持った日本人以外)
今の日本の決断が今後の日本を決めると思います。(状況が悪くなるのを、ココで、止めないと
本当にヤバイです。)
ぴーち おはようございます!
なるほど!どうしても私達日本人からすれば、
中国が悪い、アメリカが悪いと他の国の言い掛かりや、敵意に対する感情にばかりを批難しがちですが、結局は日本という国自体が自国の中で言い争いや揉め事が絶えず、まとまりがない状態であるからで、諸外国にとってはそこを上手く突けば、脆くも崩れ去るであろうという格好のチャンスだと捉えられてしまったのがそもそもの原因であると思います。
いじめられっ子がいつまでもいじめられるのは、毅然とした態度を示していかないから
であるのと同じように。
例えば、現代の与党である民主党政権内のまとまりのなさは、そのまま、今の日本国全体を象徴しているかの様でもあると思います。
そういう政党を選択してしまったのは紛れもなく、私達国民。
何かと政治のせいにばかりしている自分たちですが、
私達個人個人が周りと団結力を計り、互いを思いやり、相手の意見に耳を傾け、何とかこの国を盛り立てていこうという意識が芽生えて来た時には
この国は上向きに変化を遂げるのではないでしょうか。
そう有りたいと皆が強く願う気持ちが一つに集約した時には。
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 まさに「歴史は繰り返す」ですね。
仰るとおり、このままの状態が続くようであれば…。
「歴史を学ぶ」のは受験対策だけでは断じてありません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
次の総選挙が日本国民にとっての分水嶺になるでしょう。
そうはさせじと反対勢力は「人権」に関するとんでもない法案を準備しているようですが…。
寺内内閣は西原亀三(にしはらかめぞう)を北京に派遣(はけん)して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に対して巨額の借款(しゃっかん)を与えました。これを西原借款(にしはらしゃっかん)といいます。
借款の総額は当時の金額で約1億4,500万円にものぼりましたが、寺内内閣がこれほどまでの巨額を北京政府に貸し付けたのは、中国における政治・経済・軍事など様々な影響力を拡大しようとする思惑(おもわく)があったと考えられています。
しかし、その後に借款の大半が償還(しょうかん、金銭を弁済すること)されずに焦(こ)げついてしまったことで、我が国はほとんど成果が挙げられなかったどころか、北京政府と対立していた南方革命派(なんぽうかくめいは)の反感を買ってしまい、むしろ反日の風潮が拡大してしまいました。
西原借款は我が国の多額の財貨を消失させたばかりか、かえって中国における反日感情を高めるという散々な結果となってしまいましたが、我が国の歴史教科書多くが、なぜか借款が大失敗に終わったという事実を書いていません。約100年前の中国への投資が、結果として我が国を苦境に陥(おちい)らせたという史実を学ぶことは、今もなお続く中国(=中華人民共和国)への莫大(ばくだい)な投資に対する「貴重(きちょう)かつ重要な教訓」になるはずですが。





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晴雨堂ミカエル 日中国交正常化以降、日本は突出して多額のODA支援をしてきました。また松下電器は松下幸之助氏の肝煎りで中国を支援しました。
そのODAの一部が核兵器開発に使われ、そうやってできたミサイルの照準が日本を向いている。
一連の反日デモで中国の松下電器社屋や工場が破壊される。
面白い話です。
全く、同感です。
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この黒田先生の記事に全く、同感です。
私は、大正時代に
『なぜ、日本人は、中国にこだわるのか?』と不思議でした。
おそらく、この当時も、政府・マスコミも『中国には、
夢がある。』ような幻想を持ったからでしょうね。
それを信じて、日本が、どれだけ悲しくて、つらい末路を辿るかを考えずに。。。
そして、現代では、企業の中国依存が、深刻な問題を起こしています。というのも
日本の企業の中国頼みの経済発展だけに
中国の経済が発展しないと日本の企業も発展しない。
かといって
中国の経済が伸びると日本にとって、軍事的に脅威になる。
だから、経済界のトップは、領土問題に関心が薄くなる。
(某企業のトップは、『尖閣諸島を中国にあげたらいい。』と語っていました。
中国にある日本企業は
◆ 現地のトップの人間以外は、従業員は
全て、中国人。(→ 日本で雇用を生まず、中国の雇用を生んでいる。)
◆ お客さんも中国人。
(→ 日本で消費を生まず、中国で消費を生んでいる。)
しかも、撤退するとしたら、そこに残した設備投資は、損になる。
この前
『中国で、反日デモが起こった。』と日本の政府・企業がパニックになりましたが
私は、(おそらく、黒田先生も)
『そういうことは、起こるのが当たり前の国であり
何で日本の政府・企業が慌てている』のか不思議でした。
ぴーち おはようございます!
この時点で中国側から頭を下げて
「お金を貸してください」という申し出があったのでしょうか?
それがないままに、日本側の思惑を押し付けた様な形であれば、相手国側からすれば、何の理由もない、求めても居なかった大枚が舞い込んだとなれば、言い方は悪いですが、「良い金づる」が出来たと思われても仕方が無かった様に思います。
その昔から日本に対して良い印象を持っていなかった国なら、尚更の事だと思いますね。
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、まさに「歴史は繰り返す」ですね。
わずか100年前の「お手本」があるのですから、これを参考にしないのもおかしな話ですが…。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史に学んでいればそもそも防ぎ得た話です。
いつの日か西原借款と同じような目にあう私企業が続出するかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 西原借款にはいまひとつわからないところがあるのですが、一般的には「寺内内閣によるスタンドプレー」と言われていますね。西原亀三個人の暗躍もあったようですが…。
いずれにせよ当時の中国は軍閥割拠でしたから、今回のような結果になるのは目に見えていたともいえます。
大正5(1916)年、我が国とロシアは第四次日露協約を結び、極東における両国の特殊権益の擁護(ようご)を相互に再確認したほか、両国の軍事同盟的な関係を強化しました。また、翌大正6(1917)年にはイギリスとの間に覚書を交わして、山東省におけるドイツの権益を我が国が継承(けいしょう)することを承認させました。
一方、我が国の中国進出に対して最も警戒(けいかい)し、かつ批判的であったアメリカとの間においても、同じ大正6年に、前外務大臣の石井菊次郎(いしいきくじろう)とランシング国務長官との間で石井・ランシング協定が結ばれ、中国の領土保全・門戸開放の原則と、中国における我が国の特殊権益の保有とを確認しあいました。
しかし、この協定が結ばれた当時は、アメリカが第一次世界大戦に参戦している時期であり、アメリカが我が国と協定を結んだのは、自国が参戦中に中国大陸に対して日本が余計な手出しをしないように抑(おさ)え込(こ)もうと考えたのが主な目的でした。それが証拠(しょうこ)に、この協定は大戦終了後の大正12(1923)年に早くも破棄(はき)されています。
このように、我が国とアメリカとの関係は常に不安定であり、資源を持たない我が国にとって生命線であった満州など中国における権益を、アメリカが脅(おびや)かすようになりましたが、これらの権益は、「ある大国」が滅亡したことによって、さらに危機的な状況を迎えてしまうようになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
国際社会の現実を感じます。
いつの時代も
国際秩序は
パワーバランスで、決まっているのですね。
どこかの国が強くなれば、どこかの国が弱くなり、
そのパワーバランスで、国際的な善悪が決まっているような気がします。
(『友愛外交』なんて、通用しないのですね。)
ということは、今の日本もこのまま、国力が低下すると
国際社会で、悪者にされかねませんね。
(日本が何も悪くないの)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、外交に幻想は禁物です。
強い外交は強い国力にこそ宿るでしょう。
ぴーち おはようございます!
資源に乏しいというのはやはり大きなリクスでもあるのですね(^^ゞ
最近は、石油に変わるバイオ燃料の開発が
急速に発達し、日本でも藻の一種から燃料油が
作れるまでになりましたが、まだまだ日本では
それらを商品化するまでの
予算が足りず、世界各国からその技術を欲しがってオファーが盛んだと少し前伺った事がありました。
研究者達はどんなに高額のお金を提供されても、何とか日本でプロジェクトを進めて行きたいという思いがあるそうですが、国がしっかりバックアップしていけるような環境に早くなっていただかないと、いずれ痺れを切らした技術者は、海外へその高い技術を流出してしまわないとも限りません。
日本はそういう所の技術の高さはあるのに、それを国が生かし損ねてしまっては本当に勿体無いと感じます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も全く同感です。
世界との友好を視野に入れながらも、国益を第一に考える「当たり前の政府」を早く我が国も取り戻さないといけませんね。
三月(=二月)革命後のロシアは不安定な政治情勢が続きましたが、その中から勢力を拡大したのは、共産主義を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などをハッキリと表すこと)するレーニンでした。マルクスに由来する「貧富の差を憎(にく)むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という耳に心地よい思想が、それまでの長い帝政(ていせい)に苦しめられてきたロシアの民衆の熱烈(ねつれつ)な支持を集めたのです。
かくしてレーニンは、1917年11月にクーデターによって政治の実権を握(にぎ)ることに成功し、世界で初めての社会主義(=共産主義)政権であるソビエト政権を樹立(じゅりつ)しました。これを十一月革命(じゅういちがつかくめい)、またはロシアの暦に合わせて十月革命(じゅうがつかくめい)といいます。
ソビエト政権は、1922(大正11)年にソビエト社会主義共和国連邦(しゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)を成立させましたが、その裏でロマノフ王朝の一族をすべて処刑(しょけい)したばかりか、共産主義に賛同しないと見なした人民を数百万人も虐殺(ぎゃくさつ)するなど、血にまみれた恐怖政治を行い続けました。そして、広大な領土を持つ共産主義国家が突然誕生した現実は、我が国を含めた周辺諸国に甚大(じんだい、物事の程度が非常に大きいこと)な影響を与えることになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
ソ連は、人類史上で、決して、開けてはいけない
扉を開けてしまいましたね。
共産主義国家で、虐殺された人々の数は
戦争で、亡くなった数よりも、多いです。
『人間、みんな平等』というのは、『理想的』なように思いますが、
『平等の定義が曖昧』です。
結局は、一部の特権階級の主観で、処刑がおこなれ続けることになりました。
今の日本の国会で、
『人権救済法案』が提出されていますが、これも
『人権の定義が曖昧』です。
一部の人間の主観で、処罰されます。
100年前に戻るような時代錯誤の法案ですよね。(社会主義への扉)
(治安維持法は、大正時代です。)
さらに とっくの昔にソ連・東欧などの共産主義は
崩壊して、秘密警察も解体され、民主化されているのに
現代において、先進国で、そんな法案を通そうという国が日本しかないですよね。
こんな時代に逆行したことが現代の日本の政治で
行われていることを考えると、信じられないし
情けなくなります。(泣きたい気持ち)
ただ、唯一の救いは、野党が存在していることですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。
これで反対勢力が認められなければ一巻の終わりですからね。
ぴーち おはようございます!
戦争や、病気の蔓延、社会情勢の悪化、天候不良などで国民の生活が著しく低下し、ストレスが極限まで達すると、それが起爆剤となりある時一気に大きな不満となり爆発してしまうものですね。
その大きなエネルギーは時として、あらぬ巨大な憎悪の化身を生み出すことにもなり兼ねない。
そんな例をロシアに見たように思いました。
人の振り見て我が振り直せ。
世界の歴史を学ぶ事も大切な事ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
人々の怒りの爆発が、結果としてはるかに害悪な悪魔を生み出すこともあるのです。
恐ろしいですが、起きた歴史に学ぶ姿勢は重要ですからね。
ドイツに戦力を集中されることを恐(おそ)れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立(こりつ)していたチェコスロバキア軍を救援(きゅうえん)するという目的で、我が国にシベリアへの出兵を要請(ようせい)してきましたが、出兵によってアメリカをこれ以上刺激(しげき)したくなかった我が国はこれを拒否(きょひ)しました。
その後、チェコ軍が危機に陥(おちい)っているという情報が流れて、アメリカ国内でチェコ軍の救援に向けて派兵(はへい)すべしとの世論が高まり、アメリカが我が国に共同出兵を要請してきたことで、当時の寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣がようやく重い腰(こし)を上げて、大正7年8月にアメリカ・イギリス・フランスとともにシベリアへ派兵しました。これをシベリア出兵といいます。
しかし、出兵に際してそれぞれの思惑(おもわく)を持っていた各国は意思の疎通(そつう)を欠き、特に我が国はアメリカと激(はげ)しく対立しました。なぜなら、アメリカが出兵した本音(ほんね)が「日本が満州北部やシベリアに進出するのを防止すること」であったのに対して、我が国には「ソビエトによる共産主義支配の危機が迫(せま)った満州を守る」という強い意思があったからです。
シベリア出兵は思ったよりもはかばかしい効果があげられないまま、大正9(1920)年初頭(しょとう)には各国が撤兵(てっぺい)を開始しました。我が国もアメリカからの共同出兵打ち切りの報を受けて、撤兵への機運が高まりましたが、そんな折(おり)にとんでもない惨劇(さんげき)が起きてしまいました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
シベリア出兵に関して、それぞれの国が
こうもバラバラな思惑を抱いていたとは・・!
日本は直接ソビエトの動きを警戒しているのに対して、アメリカは日本の動きを封じ込める為に動いている所が、興味深いですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 各国がバラバラに動いていたのではまとまるはずがありませんからね。
大国のやることは今も昔も変わりません。
パルチザンは我が国の守備隊と一旦(いったん)は講和しましたが、やがて共産主義に同調しないニコライエフスクの市民を革命裁判と称(しょう)して次々に虐殺(ぎゃくさつ)するなど乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を繰(く)り返し、同年3月には日本軍守備隊を全滅(ぜんめつ)させ、また一部の日本人居留民を捕虜(ほりょ)としました。
日本政府は雪解(ゆきど)けを待ってニコライエフスクに救援軍(きゅうえんぐん)を派遣(はけん)しましたが、パルチザンは救援軍が到着(とうちゃく)する前に、捕虜としていた日本人をことごとく惨殺(ざんさつ)したほか、市民のおよそ半分にあたる約6,000人を反革命派として虐殺し、最後には市外に火を放って逃走(とうそう)しました。
ニコライエフスクにいた約7百数十名の日本人全員が、戦死あるいは虐殺されるという大惨事(だいさんじ)に対し、我が国内で「元寇(げんこう)以来の国辱(こくじょく)だ」と対ソ強硬論(きょうこうろん)が高まったのは当然でした。なお、この悲惨(ひさん)な事件はニコライエフスクの当時の呼称(こしょう)から、尼港事件(にこうじけん)と呼ばれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
戦争の悲惨さ、無情さが今日の記事を読ませていただくだけでひしひしと伝わって来ます。
人間は戦争という名を借りて、自分たちの野望や無念の思いを晴らそうとするのでしょうけれど、そこにはただ互いの国の人々の胸に「怨恨」という思いを残すだけですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、戦争は悲惨なものです。
できれば戦いたくはないものですが、今回のような事件を一方的に起されれば、人間として怒るのは当たり前です。
尼港事件の非道さを十分に認識していただいたうえで、今後の更新にご注目いただければと思います。
後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑(しょけい)しましたが、我が国が求めた賠償(ばいしょう)を革命政府が拒否(きょひ)したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は、大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませんでした。
シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費(つい)やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣(はけん)し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかりか、領土的野心を周辺諸国に疑われ、特に日米関係に大きな溝(みぞ)をつくってしまいました。
ところで、我が国の多くの住民や兵士が虐殺(ぎゃくさつ)された尼港事件ですが、これだけの大惨事(だいさんじ)でありながら、なぜか我が国の高校での歴史教科書の多くが取り上げていません。そればかりか、チェコ軍の孤立(こりつ)を自国の領土的野心を満たす好機として、我が国が進んで出兵したとか、あるいは我が国がシベリアでズルズルと駐留を続けたことで国際的な非難(ひなん)を浴びたというような、余りにも一方的な記述が見られる教科書もあり、当時の我が国が置かれた深刻な状況を判断することが極めて難しくなっています。
なお、我が国が保障占領した北樺太ですが、国家としてのソ連が成立した後の大正14(1925)年に日ソ基本条約が締結(ていけつ)され、両国の国交が樹立したのを受けて我が国が撤兵しています。





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ぴーち おはようございます!
同じ日本人としては、事実が捻じ曲げられて伝えられていることに遺憾を感じます。
他国が日本憎らしさに事実とは真逆な報道を
するのは気持ち的には理解できますが、日本人の起こした真の思惑が悪い方向へ解釈されてしまうほど、哀しい事はありませんね。
どうも現代でもそうですが、マスコミ、新聞等というのは、事実を隠蔽したりと、本当の事を世間に伏せてしまう傾向が強いですね・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も同感です。
昨日(16日)、衆議院が解散され総選挙が行われますが、マスコミは選挙期間中に間違っても嘘を垂れ流すのではなく、事実のみを追求してほしいですね。
しかし、共産党による一党独裁の政治を始めたソビエトは、共産主義社会の実現を名目として、反対する民衆を、裁判にかけることもなく有無を言わさず大量に虐殺(ぎゃくさつ)しました。政治や言論の自由を失った民衆からしてみれば、ロマノフ王朝以上に抑圧(よくあつ)された、非民主国家での圧政の日々と言えたかもしれません。
自国での革命に成功したソビエトは、世界の共産化をめざして1919(大正8)年にコミンテルンを組織しました。コミンテルンの主な目的は、各国の知識人や労働者をそそのかして、共産主義の革命団体を世界中に旗揚(はたあ)げし、そのすべてをソビエトからの指令によって動かすことで、各国の内部を混乱させて共産革命を引き起こそうというものでした。
コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広めたほか、我が国にもコミンテルン日本支部ともいうべき組織を、日本共産党(にほんきょうさんとう)という名で大正11(1922)年に秘密裏(ひみつり)に立ち上げました。
そもそも我が国は、ソビエトと国境を接した満州に権益を持ち、あるいは朝鮮半島を自国の領土としていましたから、ロマノフ王朝を皆殺(みなごろ)しにするなど、君主制の廃止を何とも思わなかった共産主義による脅威(きょうい)を、天皇陛下に万が一のことがあっては大変なことになると、世界で最も強く感じていました。共産主義への恐怖(きょうふ)と内部で密(ひそ)かに進んだコミンテルンの工作とが、大正時代以降の我が国の歩みを大きく狂わせる結果を招(まね)くようになるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
この内容を読むたびに、いつも、
『共産主義』の怖さを感じます。
社会主義思想の恐ろしいのは、
平等と平和ということをスローガンにしているのに、いつの間にか、
論理が摩り替っていることです。
しかも、今回の更新内容の中にもありましたが
知識者層(理屈だけは、上手い)が、話をするので
民衆が信じ込みやすいことです。
たとえば、歴史的な事実として
ソ連は、平等の名の下に
結局は、独裁主義の恐怖政治になりました。
さらに
日本人は、ナチスドイツは、右翼政党のように
勘違いしていますが
正式名称は、ドイツ、国家社会主義ドイツ労働者党です。
これだけ、聞くと左翼政党のように思いますが
実際には、ヒトラーは、社会主義者を嫌い
排除しました。
つまり、自分が権力を握るための旗が
『平和と平等』なだけです。
日本のリベラル派と言われる人間は
スグに
保守= 右 = 軍国主義
社会主義思想= 左 = 平和と平等な社会
という(単なる思いこみ)
レッテルを貼りますが、
保守とは、英訳すると
conservativeです。
中心(タガ)のある社会の実現であり、
(守るべきものは、しっかりと守る。)
軍国主義は、全く、違います。
今の日本もしっかりと、歴史の事実から、学ばないといけない時期になっているのかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
共産主義に傾倒し過ぎても、あるいは逆に自由過ぎても国家は衰退して行くように思いました。
そのバランスオブパワーを上手く取り持っていくべきなのが、政府の大きな役割であり、手腕が問われると思います。
日本の共産党が掲げるスローガンも確かに極端過ぎる主張が多いですが、この頃のソビエトの思想よりも
緩和されたものの様に思うのですが、いかがなものでしょう。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、私たちは共産主義社会の行き着くところをしっかりと見極めなければいけません。
憧れるのは個人の自由ですが、他人の自由を奪ってまで存在してよいはずがありません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 自由主義社会の中に共産主義的な発想を入れているのが今の我が国ですから、仰ることも考えられます。
ただ、我が国も歴史の流れ次第では虚化した可能性も十分考えられますので、その際に今回のような自由な意見の交換が出来るかどうかということも重要かもしれません。
このため、野党となった立憲同志会(りっけんどうしかい、後に憲政会=けんせいかいを結成)などの反発を受けましたが、翌大正6(1917)年の衆議院総選挙で第一党となった立憲政友会が、準与党的立場を維持しました。
寺内内閣は、軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)となった中国大陸における影響力の拡大を目指して、袁世凱(えんせいがい)の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に多額の借款(しゃっかん)を行いましたが(西原借款)、その大半が焦げ付いたり、あるいは他の軍閥の反感を買って排日(はいにち)運動の活性化をもたらしたりするなどして、失敗に終わりました。
大正7(1918)年、寺内内閣はアメリカの要請もあって、当初は消極的だったシベリア出兵を決断しましたが、第一次世界大戦中ということで、ただでさえ諸物価が値上がりしている中において、大規模な出兵を当て込んだ、米の投機的な買い占(し)めや売り惜(お)しみが横行したことにより、米価は天井知らずの高騰(こうとう)を続けました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
山縣有朋の気持ちは、痛いほど、わかります。
というのも、
この頃の日本の政治家、政党間の争いで
政権交代を繰り返し、全く、政権が安定していないからです。
トップの交代が多すぎます。
80年前の話なのに、今と状況が同じなのに
驚きますが。。。
青田さんへ
黒田裕樹 山県有朋の政党不信は我が国のことを真剣に考えてのことでしたからね。
当時の政情不安が山県自身には不服だったことは容易に想像できます。
ぴーち おはようございます!
白いお米は今では当たり前の様に
美味しくまた米が余るほどに豊富にいただける
時代となりましたが、この当時もまた、お米を口にできる日本人はごく少数派だったのですね。
昭和の時代の戦争中なども、お米に石油を掛けたものが横行し、(腐敗防止の為だと聞きましたが)お世辞にも美味しいと言えないお米を食べさせられたと父などの話から聞きますが、何も食べるものが無い時代にはそれでも食さなければいけなかった苦く苦しい経験が今の時代への原動力となっていったのでしょうけれど・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の我が国はまだ貧しく、白米が食事の中心だと聞いたことがあります。
その米が高騰で食べられなくなったとなれば、国民の怒りが頂点に達するのも無理はないと思います。
米騒動のうち、京都や神戸などで起きた暴動が大規模(だいきぼ)になったことで、政府は鎮圧(ちんあつ)に軍隊を出さざるを得なくなったり、騒動の余波(よは)を受けて、兵庫県で行う予定だった第4回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)が中止になったりしました。
寺内内閣は、米を安く売るなどして事態の鎮静化(ちんせいか)をはかりましたが、首相自身の体調悪化もあり、騒動の責任を取るかたちで、同年9月に総辞職しました。
なお、寺内自身が当時流行だったビリケン人形に似ていたことや、超然内閣で非立憲(ひりっけん)主義だったことに引っ掛(か)けるかたちで、寺内内閣や寺内本人が、当時は「ビリケン内閣」「ビリケン宰相(さいしょう)」と呼ばれていました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
ビリケンさんって、既に大正時代には
存在していたんですね!
昭和に入ってから作られたお人形かと思っておりました(^^ゞ
ちなみにいつ頃作られた人形なんでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ビリケン人形は20世紀初頭のアメリカ生まれで、我が国には明治末期に輸入され、人気を博したそうですね。
ちなみに大阪では通天閣に置かれているのが今でも大人気です(^ω^)
指名を受けた原は、陸・海軍大臣と外務大臣以外のすべての閣僚を政友会員で固めるなど、我が国初めての本格的な政党内閣を組織しました。また原自身が歴代の首相と異なり、爵位(しゃくい)を持つ華族(かぞく)でもなければ、藩閥(ばんばつ)出身者でもない平民であったため、当時の国民から「平民宰相(さいしょう)」と呼ばれて歓迎されました。
原内閣は様々な政策を行いましたが、政党の影響力を強めるのに特に効果的だったのは、大正10(1921)年に郡制(ぐんせい)を廃止したことでした。当時の郡は単なる行政の区分単位ではなく、郡長や郡役所・郡会が存在していましたが、郡長が政府の内務官僚(ないむかんりょう)であったため、藩閥政府の影響力が郡自体にまで及んでいたのです。
また原は、経済発展のために鉄道を積極的に拡張しましたが、なかでも地方への鉄道の敷設(ふせつ)に重点を置いたことによって、郡制の廃止とともに、政党の影響力を地方にまで幅広く拡大させることに成功しましたが、こうした卓越(たくえつ、他よりもはるかに優れていること)した政治力が、原内閣の大きな強みでもありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
原敬は、名も無き平民であった為に
国民が何に悩み、何を求めているのかという
同じ目線で考える事が出来たことが、成功の要因であった訳ですね。やはり上に立つものが、庶民と同じ目線で物事を考えられる様でなければ、本当の意味での改革には至らないという良い見本の様に思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、平民であるということを最大限に活用した政治を行っていますね。
原内閣時に政党の力が大きくなったのは効果的だと思います。