中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)を組織させたほか、大陸制覇(たいりくせいは)に何度も失敗していた孫文に対して言葉巧(たく)みに近づきました。
1923(大正12)年にコミンテルンのボロジンやヨッフェと次々に会談した孫文は、中国全土の統一のためにソ連の援助(えんじょ)を受けることを決断し、翌1924(大正13)年に共産党と連携(れんけい)しました。これを第一次国共合作(だいいちじこっきょうがっさく)といいます。
しかし、この国共合作はコミンテルンが仕組(しく)んだ巧妙(こうみょう)な罠(わな)でした。新たに孫文の顧問(こもん)となったボロジンは、中国共産党を裏(うら)で操(あやつ)りながら国民党をも動かす地位を得たことで、彼の指示によって多くの共産党員が国民党内に流れ込(こ)み、国共合作後の中国情勢に大きな影響(えいきょう)を与えてしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
孫文という方は、映画作品の中では(でしか、良くは存じませんが)
温厚で、常に冷静な判断で将来を見据えて居るような、いわゆる「切れ者」という印象を受けるのですが、実際的には人が良すぎて騙されやすい
性格であったのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 孫文については様々な評価がなされているようですが、仰るとおり彼の人の良さがコミンテルンに付け込まれたのかもしれませんね。
いずれにせよ、彼の決断が中国大陸のみならず、世界中に甚大な影響を与えてしまうことになってしまいます。
ソビエト連邦の謀略力
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
『孫文は、人は良かった。』とは、思いますが
やはり、ソビエト連邦の謀略力のほうが一枚も二枚も上手だった気がします。
① マインドコントールが上手い。
② 『漁夫の利』を得ることが上手い。
③ 出来るだけ、表には出ずに、水面下で、自国の利益になるようにする。
日本の毛利元就も謀略王ですが、ソ連のほうが
謀略に関しては、上です。
裏を返せば、自国の利益になることなら
どんな卑怯なことも平気で、できるしたたかさをもっています。
正直、日本の誠意と熱意を持って、話し合えば思考では、全く、太刀打ちできないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、孫文ならずともコミンテルンの謀略から逃れるのは至難の業ですね。
今は詳しくは明かせませんが、後の歴史でも証明されています。
いずれにせよ、我が国の「平和ボケ外交」では話になりません。
国民革命軍は南京(ナンキン)などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒(けいかい)した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海(シャンハイ)で多数の共産党員を殺害しました。この事件は今日では上海クーデターと呼ばれています。
上海クーデターの後に国民政府を立ち上げた蒋介石が共産党と対決する姿勢を明確に示したことで第一次国共合作は事実上崩壊(ほうかい)し、蒋介石が率(ひき)いた革命軍はその後も北伐に向けて進撃(しんげき)を続けましたが、中国内における大きな混乱は大陸に権益を持っていた世界各国に深刻(しんこく)な影響(えいきょう)をもたらしていました。
上海クーデターより以前の1927年1月、当時は租界(そかい)と呼ばれた外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)であった漢口(かんこう)や九江(きゅうこう)が革命軍に次々と襲(おそ)われ、多数のイギリス人が殺害されただけでなく租界そのものを革命軍に奪(うば)われてしまうという事件が発生しました。これをイギリス租界奪取事件(そかいだっしゅじけん)といいます。この非常事態にイギリスは自国内で多数の軍隊を動員するとともに、かつての北清事変(ほくしんじへん)にならって列強各国に出兵を要請(ようせい)しました。
しかし、我が日本は「外交上の理由」でこの要請を拒否(きょひ)してしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
外交上の理由とは、やはりアメリカ絡みの問題があるからでしょうかね?
この頃から、世界全体的な動きとして
大きな大戦への火種がくすぶり始めていたのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 外交上の理由とは、やはりアメリカ絡みの問題があるからでしょうかね?
今までの流れからすればそうお考えになるのもご無理はないと思いますが、実はそうではないんですよね。
どういうことかといえば…。
> この頃から、世界全体的な動きとして
> 大きな大戦への火種がくすぶり始めていたのですね。
仰るとおりです。第二次大戦への種はすでに蒔かれているのです。
我が国やドイツだけが引っ掻き回したわけではないんですよね。
中国の混乱
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
蒋介石にも、問題は、合ったとは思います。
ただ、蒋介石は、共産党員にたいして、非常に警戒心と
恐怖心を持ったことが一番、大きかったと思います。
清末期の時代も、混沌としていましたが
何とか、それなりの秩序を保っていた気がしますが
共産党員が入ってからは、もう、無警察状態の無茶苦茶な状態になっている気がします。
やはり、共産主義の考えが入ってからの中国と、
有史以来の中国とは、全く、別の世界のような気がします。
今の中国は、伝統・文化・宗教などを全否定し、権力とカネしかないモラルの崩壊した国(一番、タチが悪い)になった気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに共産主義の危険性に気付いた蒋介石が第一次国共合作を打ち切ったことは評価できると思います。
ただし、あまりにも遅すぎました(といっても孫文の段階ですでに手遅れでしたが)。
今の中国については全く同感です。
管理人のみ閲覧できます
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秘コメさんへ
黒田裕樹 【「国民党、中国国民党、国民革命党、北伐、北方軍閥、軍閥とは?」について】
まず、国民党と中国国民党は歴史教育上では同一と考えてよいでしょう。1912年に孫文によって設立され、長く蒋介石が党首を務めた後、現在の台湾の政権与党となっています。
「国民革命党」というのは中国史には登場しませんが、孫文が日本に亡命中に結成した「中華革命党」であれば、その後国民党に吸収されています。
北伐当時の中国大陸は各地で支配者が乱立した群雄割拠の時代でもありました。自己の支配力の拡大をめざした蒋介石は、国民党による全国統一のために北京政府や各地軍閥との戦争を続けましたが、これを北伐といいます。
軍閥は上記の支配者乱立の頃の支配者たちの総称で、また北方軍閥は文字通り中国北部を中心とする軍閥であり、袁世凱や段祺瑞、あるいは張作霖などがあてはまりますね。
森 こんにちは。森と申します。ふと秘コメさんの投稿を拝見して思ったのですけど、では国民政府といわれるものはなんなのでしょうか。例えば、「広州から国民政府を移動して」できたものが武漢政府ですよね。唐突な質問投稿で申し訳ありません。
森さんへ
黒田裕樹 「国民政府」は広義においては「中華民国における中国国民党による政府」全体を意味します。
仰るような「広州政府」や「武漢政府」は「広州国民政府」あるいは「武漢国民政府」と称することもありますね。
森 こんにちは。森です。先日は国民政府についての説明ありがとうございました。すごくわかりやすかったです。だからといってはなんですがもうひとつ質問へのお答えお願いできないでしょうか。「海水罷官」についてなんですが、文化革命時これの評論文を毛沢東は利用し奪権闘争時代に活用したと理解していますが,
具体的にはどのようにこれは使われて、なぜ毛沢東はこれが必要だったのでしょう。また、奪権闘争時代においてのこれの役割は何だったのでしょう。
このあいだの説明が本当にわかりやすかったので、申し訳ありませんがぜひともお願いいたします。
森さんへ
黒田裕樹 「海水罷官」ではなく「海瑞罷官(かいずいひかん)」ではないでしょうか。毛沢東による文化大革命の序曲となったものですね。
大変申し訳ないですが、皆様からのご質問に関しては原則として当該ブログ記事の内容に即したものだけとさせていただいております(前回のご質問は「国民政府」の延長線上だったのでお答えしました)。
従って、今回の「海瑞罷官」に関しても上記の内容の範囲内にてのお答えといたしますことをあしからずご了承ください。
幣原外相(がいしょう)による外交は今日では幣原外交、あるいは協調外交と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的(こうていてき)な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交(なんじゃくがいこう)」とも映(うつ)ったことで、結果として我が国の外交面での信頼を大きく損(そこ)ねることになったのです。
先述(せんじゅつ)したイギリス租界奪取事件(そかいだっしゅじけん)においても、協調外交の姿勢を重視した幣原外相はイギリスによる出兵要請を無視しましたが、これに味をしめた中国の革命軍は同じ昭和2(1927)年の3月に南京(ナンキン)の我が国を含(ふく)む外国領事館(りょうじかん)や居留民(きょりゅうみん)を襲撃(しゅうげき)し、これに怒(おこ)ったイギリスとアメリカの軍艦(ぐんかん)が砲撃戦(ほうげきせん)を行いました。これを南京事件といいます。
南京事件は在留(ざいりゅう)の日本人が殺害(さつがい)されるなどの大きな被害(ひがい)をもたらしましたが、事(こと)を荒立(あらだ)てるのを嫌(きら)った幣原外相が中国に対して一切報復せずに固く「平和」を守ったため、その「弱腰(よわごし)」ぶりがさらなる悲劇(ひげき)をもたらすことになってしまいました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
なるほど・・。
確かに日本の外交面は特に「弱腰」であると
現代でも揶揄されているくらいですからね(^^ゞ
普段は物分かりの良い顔をしていても良いかも知れませんが、理不尽な要求、或いは明らかに
暴力的な行為を受けた時には、盾ばかりではなく、鉾を使って抵抗するくらいの意思表示も必要ですよね。
どうしても日本人は、相手の良識を期待してしまう傾向が強いので、曖昧な態度で物事を回避しようとする傾向が見られますが、
日本のそうした特質は海外には通用しないという事を常に念頭に置いて置かなければいけないと思います。
せめて、相手の攻めに対して抗議すべき時に
しっかりと態度を明らかにしていかないと
相手には、「攻めてもどうせ怒らない」という間違った認識を与えてしまう事にもなり兼ねませんものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ること、全くもってその通りです。
「至誠は天に通ず」はあくまで日本人同士の間のみであるということを私たちは深く理解しないといけません。
幣原は、国賊のような気が。。
青田です。 黒田先生
青田です。
この時期の、日中関係を考えると、戦後の日中関係と同じような気がします。
幣原は、『支那と呼ぶのは、相手の嫌がることだからやめよう。中華民国は、これから中国と呼びましょう。』と言って、本当に閣議決定してしまいます。
中国は、国内の殺し合いが凄まじく、どうしても外に敵を創る必要がありました。(常にそうですが)
中国は、幣原の日中友好の『お花畑思考』にたいして、感謝するどころか、排英排ソで、失敗してから、排日(反日)に向かいます。
強いものには、どこまでも媚びへつらい、弱そうな態度の人間には徹底的に凶暴になるのがシナの歴史なのに、少しは、シナの歴史を学んでから、親中を叫んで欲しかったです。
ただ、これは、過去の話ではありません。
今の日本でも、どれだけ、日中友好を唱える親中派が政界だけではなく、財界にも、知識者層にも多くいます。
あまり、他人の誹謗中傷は嫌いですが
私のような馬鹿でもわかることが、なぜ、それがわらないか不思議です。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、国賊そのものでしょう。
今年(平成27年)に行います第50回歴史講座でも、彼の国賊ぶりを詳しく紹介する予定です。
イギリス租界(そかい)といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は不法そのものでした。しかし、我が国は中国に攻撃を仕掛けることで大陸中が大混乱になり、その結果多くの日本人居留地や居留民が被害を受けることを恐れるあまり、協調外交を口実(こうじつ)に一切の報復を行わなかったのです。
南京事件や漢口事件が起きたことで日本国内においても幣原外相の「軟弱外交」に対する批判がようやく高まりましたが、当時(昭和2年)は後述する金融恐慌(きんゆうきょうこう)によって内政が大混乱となっており、中国による度重(たびかさ)なる租界襲撃(しゅうげき)に対して一切の報復を行わなかった我が国が世界における信頼を失いつつあることにまで気が付いていませんでした。
「過ぎたる協調外交は結果として国を滅(ほろ)ぼしかねない」。これも歴史における大きな教訓ですが、実は幣原外交はこの2年後に復活して、我が国を更(さら)なる混乱に巻き込んでしまうのです(詳しくはいずれ後述します)。
なお、南京事件や漢口事件はいずれも中国共産党の扇動(せんどう)によって起きたとされており、これらが蒋介石による上海クーデターにつながったといわれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
恐るべし、日本人に組み込まれたDNAの記憶。
とも題したくなる今日の内容ですね。
ひどい目に遭わされても、裏切られても尚
再び「安定」路線に回帰してしまうという
なんとももどかしい結論に至ってしまう浅はかさは、今も脈々と受け継がれているように思います・・・(^^ゞ
一度失敗した事を二度と繰り返さない様にと心に
刻みこむには、自分自身が相当な打撃を受けないと感じられない事だと
思うのですが、異国で起きた日本人の事件など
本国では痛くも痒くも感じられなかったという
現実があると言う事なのでしょうかね・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
今回の件に関しては、本文にもあるように国内が大混乱で海外にまで気が回らなかったことが大きいですね。
幣原外交の失敗はその後国会で追及されるのですが、その流れも実は複雑なものがあって、海外の同胞のためとは言い難い側面もあるところが何とも言えませんね(詳しくはいずれ後述します)。
意外でした
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
幣原外交については、全く、知りませんでした。
というのも、この時代になると
歴史教育では
『イケイケどんどんの軍部の暴走を幣原外務大臣が、抑えようとして、強調外交をした。』と教えれられていたからです。
歴史の事実というのは、解釈に仕方で、いくらでも、善にも、悪にもなり、英雄にも、悪人にもなるので、恐いですね。
青田さんへ
黒田裕樹 本文にあるように、現実は一般的な歴史教科書とは全く逆となっています。
歴史の解釈にはある程度の自由があってもいいとは思いますが、健全な青少年育成に欠かせない教科書が歪んだ解釈をすることは許されません。
大正元(1912)年には11億円近い債務国(さいむこく)だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国(さいけんこく)となるなど、その影響は凄(すさ)まじく、日本国内は史上空前の大戦景気(たいせんけいき)を迎(むか)えることになりました。
特に造船業や海運業は、世界的な船舶不足(せんぱくぶそく)もあって、我が国は世界第3位の海運国となり、多くの船成金(ふななりきん)が生まれました。また鉄鋼業では、八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の拡張や民間製鉄会社の設立が進んだほか、満鉄(まんてつ)の鞍山(あんざん)製鉄所も設立されたことで、生産が飛躍的(ひやくてき)に増加しました。
また、これまでドイツからの輸入に頼っていた薬品・染料・肥料などの分野では、代わりに国産の化学工業が発達しました。輸入が途絶(とだ)えたからといって決してあわてることなく、国内の産業を活性化させて「ピンチをチャンスに変える」という芸当(げいとう)は、この頃(ころ)からすでに我が国のお家芸(いえげい)だったんですね。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、第一次世界大戦の時の
大戦景気を味わった事で、第二次世界対戦時にも
日本の世論は、戦争でもあってくれた方が良いなどと景気回復を祈る意味で、開戦当時は
好意的だったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 第一次世界大戦の際、主戦場がヨーロッパ大陸だったため我が国は戦争によって本土が被害を受けるという可能性はほとんどありませんでした。そのため、戦争の「プラス面」のみを享受したので大戦景気を迎えました。
しかし、第二次世界大戦の場合、エネルギー問題などで我が国が追いつめられていたため、景気回復というよりも「座して死を待つくらいなら」という、悲壮な覚悟をもっての「好意的」であったといえるかもしれません。
教訓から学ぶ
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この好景気は、有名ですよね。
神戸の鈴木商店は、成りあがりの象徴として、
語られています。
私は、この大正時代の景気、昭和のバブルの景気を考える時、好景気は、大事ですけど
常に精神性も大事にし、危機感を持たないといけないという気がします。
イギリスのチャーチルが、
『好景気は、全ての矛盾を覆い隠す。』という名言を残しています。
現在、安倍氏が、経済対策(景気対策)を中心にしていることは、大賛成です。
ただ、同時に日本人としての精神性も、政策としてやらないと、国として、弱る気がします。
(安倍氏なら、やってくれると信じていますが)
青田さんへ
黒田裕樹 大戦景気は昭和末期から平成初期にかけてのバブル景気と比較されることがよくありますからね。
仰るとおり、景気に浮かれるだけでなくその後の対策もしっかりとしておかなければなりません。
現政権がこういった「歴史に学ぶ」姿勢を見せてくれれば心強いですね。
管理人のみ閲覧できます
-
また電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占(し)めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。
大戦景気によって、工業生産額は約5倍に拡大し、大正8(1919)年には農業生産額を上回りました。また工場労働者数は、大正3(1914)年の約85万人から大正8年には約150万人にまで達し、重化学工業の発展に伴(ともな)って、男子労働者の数が大幅(おおはば)に増えました。
このように、第一次世界大戦は我が国内に大きな影響をもたらしたのですが、戦争というものは、いつかは終わります。それは大戦といえども例外ではなく、様々な需要(じゅよう)を生み出した戦争が終われば、やがて我が国の景気が後退(こうたい)してしまうのは必然(ひつぜん)でもありました。
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ぴーち こんばんは!
今日は帰宅後にパソコンの調子が悪く
シャットダウンしたり、立ち上げたりして
ようやく復旧致しました(^^ゞ
今の時間となってしまい、申し訳ありませんm(__)m
電気が開通した歴史とにはまだまだ浅いのですね。
そう言えば、我が県の西北に位置する温泉宿などもついこの間までは電気も通っておらずに「ランプの宿」として名を馳せていたものです。
昭和も終わりを迎える頃にようやく・・ですからね(^^ゞ
それでも電気が当たり前の様に使える様になった現代では、ランプやろうそくの火で過ごす夜など
逆に新鮮に感じて、風情がありますがね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうでしたか、それは大変でしたね。復旧なさって何よりでした。
電気は古いようで結構新しいものですよね。
風情も良いですが、安定した電気の供給こそ現代の生命線だとも思えます。
オバrev 昭和の激動は、この大戦景気から始まったんですね(*_*;
戦後恐慌と言っても、振り返って歴史をみれば当然の結果ですよね。でもその後も日本ではバブル景気とバブル崩壊を繰り返していますけど・・・
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりつながっていますし、好景気の後に不景気が来るのも歴史の必然です。
現代の我が国は出口の見えない不況に入っているといわれ続けていましたが、どうやら光が見えつつあるようですね。
そして大正9(1920)年には、株価の暴落(ぼうらく)をきっかけとして戦後恐慌(せんごきょうこう)が起こり、銀行で取り付け騒(さわ)ぎが続出したほか、綿糸(めんし)や生糸(きいと)の相場が半値(はんね)以下に暴落したことで、紡績業(ぼうせきぎょう)や製糸業(せいしぎょう)が事業を縮小(しゅくしょう)せざるを得なくなって失業者が増えたほか、物価の下落によって中小農民が没落(ぼつらく)しました。
さらには、こうした不況(ふきょう)に追い打ちをかけるかのように、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生し、東京を含む京浜地帯(けいひんちたい)は壊滅的(かいめつてき)な被害(ひがい)を受けて、日本経済は大きな打撃(だげき)を受けました。
震災によって多くの銀行の手形が決済不能となり、政府は日本銀行に約4億3,000万円という巨額(きょがく)の特別融資(とくべつゆうし)をさせて何とか一時はしのいだものの、不況の慢性化(まんせいか)でその後の決済が思うように進まず、3年後の大正15(1926)年になっても約2億円の未決済分が残っていました。
なお、関東大震災による混乱によって、無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)と伊藤野枝(いとうのえ)が憲兵大尉(けんぺいたいい)の甘粕正彦(あまかすまさひこ)によって殺害されたり、様々な事情によって多数の朝鮮人が生命の危険にさらされるといった騒ぎも発生したりした一方で、その朝鮮人を命がけで保護した民間人や警察官もいました。政府はこうした非常事態に対して戒厳令(かいげんれい)を出し、事後の対策を講じました。
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ぴーち こんにちは!
そうですか。
不運は一度起こると連鎖的にズルズルと
引きずられるように起きてくるものですね。
条件は違えども
何やら状況が今の日本と酷似しているようにも
感じられますが、止まない雨は無いと信じて
前進していけば、必ず道は開けるのだと
この時代と今の日本がこうしてあることに
希望を持ちたいと改めて思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに「負の連鎖」というのは続きますよね。
ですが、仰るように前進を続ければいつかは必ず道が開けるものです。
希望を持って毎日を過ごしたいものですね。
日本の宿命
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
よく、考えると
不況・天災は、常に前提として、考えていないといけないのかもしれませんね。
① 景気・不景気は、経済の流れとして
ある程度は、避けられい。
不景気をどれだけ、最小限に抑えるかが、重要。
② 日本は、台風と地震は、地理的に、地政学的に避けられない。
・ 台風は、毎年、来る。
・ 地震は、必ず、起きる。
(地政学上そうなっている。)
だからといって、日本生きているかぎり、座して、不幸が来ないのを祈っていても仕方ないので、
日本人自身が、知恵を絞って、前進するしかないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
避けられない運命であるのならば、いかに被害を最小限に食いとどめるかを真っ先に考えなければいけません。
大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅(おおはば)な増加をもたらしましたが、それは同時に賃金(ちんぎん)引き上げなどを要求する労働運動や労働争議(ろうどうそうぎ)の多発をも招(まね)くことになりました。
こうした流れを受けて、大正元(1912)年に鈴木文治(すずきぶんじ)らを中心に結成された友愛会(ゆうあいかい)は、当初の労資協調の立場から全国的な労働組合組織として急速に発展し、大正8(1919)年には大日本労働総同盟友愛会(だいにほんろうどうそうどうめいゆうあいかい)と改称(かいしょう)し、翌大正9(1920)年には我が国初のメーデーが実行されました。
さらに大正10(1921)年には日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)と改称し、階級闘争主義(かいきゅうとうそうしゅぎ)をめざす全国最大級の労働組合に発展しましたが、大正14(1925)年には議会主義の右派(うは)と共産主義の左派(さは)とに分裂(ぶんれつ)し、左派は日本労働組合評議会(にほんろうどうくみあいひょうぎかい)を結成しました。
なお、農村では小作料の減免(げんめん)を求めて小作争議が頻発(ひんぱつ)し、大正11(1922)年には賀川豊彦(かがわとよひこ)や杉山元治郎(すぎやまもとじろう)らを中心として小作人組合の全国組織たる日本農民組合(にほんのうみんくみあい)が結成されています。
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ぴーち こんにちは!
メーデーはこの時代から開始されたのですか。
初めて知りました。
やはりそこに人が増えると、様々な組織や派閥が生まれて来るものですが、大正時代もその動きが活発な時代だったのですね。
日本農民組合とは、現在の「農業共同組合」の
古称にあたるものなのですか?
応援凸
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-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 メーデーは確かに歴史が古いですよね。大正時代に様々な動きが活発になったのには、やはり明治憲法による法体系の整備が進んだからではないかと思います。
日本農業組合の流れをくんでいるのは、現在の全日農(全日本農民組合連合会)ですね。社民党との関係が深い組合です。
管理人のみ閲覧できます
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民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説(と)いた民本主義はいわゆる大正デモクラシーの先駆(さきが)けとなり、吉野が大正7(1918)年に黎明会(れいめいかい)を結成して自らの考えを広めると、知識人層を中心に大きな影響を与えました。
吉野の教えを受けた東大の学生たちは東大新人会(とうだいしんじんかい)などを結成し、労働運動への参加を通じて次第に共産主義的な傾向(けいこう)を持つようになりました。
こうした革新的(かくしんてき)な雰囲気(ふんいき)は大逆事件(たいぎゃくじけん)以来の「冬の時代」を余儀(よぎ)なくされていた社会主義者たちの活発な行動をもたらし、大正9(1920)年には様々な立場の社会主義者が結集して日本社会主義同盟(にほんしゃかいしゅぎどうめい)がつくられましたが、翌年には禁止されました。
社会主義の研究も制限されるようになり、大正9(1920)年には東京帝国大学助教授の森戸辰男(もりとたつお)による「クロポトキンの社会思想の研究」という論文が危険思想(きけんしそう)の扱(あつか)いを受けて休職処分(きゅうしょくしょぶん)となっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
所信表明の際というのは、誰しも襟を正し
真っ直ぐな思いを持つものですが、
いつの間にやら、その思いとは違う方向へ
世の中が進んで行ってしまうものですね。
常に「初心忘るべからず」
最初に掲げた目標から遠ざからないように
努力というものは常に必要ですね。
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いつの時代でも
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
いつの時代でも、国が貧しくなると
富を憎んで、格差社会=悪という風潮になるものなんですね。
これは、中国、ソ連だけかと思えば
日本でも、この時期に共産主義的な活動が起きましたし、
つい、2年前も
民◎党の元管総理は『最小不幸化社会』という
訳のわからないことを言っていました。
これは、個人的な意見ですが、
『平等』よりも『公平』ということが大事だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 自由な学問は結構ですが、世の中の流れにさらされやすいということは、学問の本質を分かっているのかということにもなりますね。
「初志貫徹」は重要です。気が付けば全く逆の方向へ突っ走っていたのでは話になりません。
青田さんへ
黒田裕樹 現実には「平等社会」なんてあり得ませんからね。
幻想に過ぎないものを追い求めようとすれば、訳が分からなくなるのは当然です。
学問は時として恐ろしいものとなります。
しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成後にコミンテルンから示されたいわゆる「22年テーゼ」に「君主制の廃止(はいし)」が求められていたことから、党内における議論すらまとまらない状態となりました。
その後、政府が過激(かげき)な社会主義運動の取り締(し)まりを強めて翌大正12(1923)年に一斉検挙(いっせいけんきょ)を行ったことなどもあり、日本共産党はいったん解散状態となりました。
一方、普通選挙法の成立後の大正15(1926)年には労働者や小作人などいわゆる無産階級(むさんかいきゅう)の意見を代表する無産政党(むさんせいとう)である労働農民党(ろうどうのうみんとう)が合法的に組織され、労働者の政治的主張が議会にも反映されるようになりました。
しかし、労働農民党は結成後まもなく共産党系の左派を中心とする内部対立によって分裂(ぶんれつ)し、中間派が日本労農党(にほんろうのうとう)を、右派が社会民衆党(しゃかいみんしゅうとう)をそれぞれ結成しています。
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ぴーち こんにちは!
共産党系というのは、私のこれまでのイメージでは、余り分裂せずに本則当時のそのまま今日まで存続して来ているのかと思っていましたが、それは浅はかな考えだったなと反省させられました。
何処もやはり、分裂したり、または結束したりを繰り返しながら勢力拡大を測っているものなんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 コミンテルンの指導下で誕生した日本共産党そのものは分裂がありませんでしたが、それ以外の無産政党や社会主義政党では共産党系の人物が乗っ取りや分裂を繰り返しています。
共産党員同士の対立も昔から絶えませんから、上からの強烈なリーダーシップがない限りは団結できないのかもしれませんね。無理に団結させようと思えば、それこそスターリンや毛沢東、あるいはヒットラーのように恐怖政治を行うしか方法がないのかもしれません。
青鞜社の活動は次第に文学運動の枠(わく)を超(こ)え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(いちかわふさえ)らが新婦人協会(しんふじんきょうかい)を結成し、当時は認められていなかった婦人参政権の要求など女性の地位を高める運動を進めました。
同じ大正9年には山川菊枝(やまかわきくえ)や伊藤野枝(いとうのえ)らによって赤瀾会(せきらんかい)が結成され、こちらは社会主義の立場から女性運動を展開しました。その後大正10(1921)年には治安警察法第5条が改正されて婦人も政治演説会に参加できるようになりましたが、政党への加入は認められませんでした。
一方、被差別部落(ひさべつぶらく)の人々からも自主的な社会的差別の撤廃(てっぱい)をめざして部落解放運動が進められ、大正11(1922)年には西光万吉(さいこうまんきち)らが中心となって全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)が結成されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
私がまだ物心つくか付かないかという頃、
父からよく市川房枝氏の名前を何度も聞いた記憶がありました。女性でありながら、しかも高齢にも関わらず戦おうとする姿の父は感動を覚えていた様に記憶します。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 市川氏は晩年まで国会議員をお勤めでしたよね。女性運動のパイオニアとして尊敬すべき存在だったと思いますが、その「弟子」を自称する元首相が…ですからね(中国には行っていませんが)。
こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養(やしな)えるだけの食糧(しょくりょう)が確保(かくほ)できたことや、目覚(めざ)ましい工業化に伴(ともな)う経済発展や国民の生活水準(すいじゅん)の向上、加えて医学の進歩や内乱(ないらん)のない平和な社会の構築(こうちく)などが挙(あ)げられます。
人口の増加は特に工業都市において著(いちじる)しく、大正9年には全国の人口の3割以上が都市に居住(きょじゅう)しましたが、多くの人口を抱(かか)えることになった都市部では鉄筋コンクリート造(づく)りの銀行や会社、あるいは百貨店などの西洋建築物(せいようけんちくぶつ)が次々と建てられました。
当時の人々の間ではトンカツ・コロッケ・カレーライスといった洋食が流行し、西洋風の応接間(おうせつま)が設(もう)けられた文化住宅が建てられたほか、電灯(でんとう)や水道・ガスも本格的に普及(ふきゅう)して国民生活の様式(ようしき)は大きく変化しました。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
日本人の多くは、『戦前』=『暗黒の時代』=
『軍国主義、貧しい、自由がない。』というイメージを持っていると思います。
私は、大正時代の『豊かさ』、『自由』、『平和主義(軍縮、強調外交)』について、知っていたので、それを話すと誰もなかなか、信じてもらえません。
私の両親は、80歳、75歳ですが、
大正時代に
・ 普通選挙があったこと。
・ 政党政治が成熟化していたこと。
・ 軍人が白い目で観られていていた時期。
・ 西洋文化で、豊かであったこと。
・ 思想面でも、かなり、自由であったこと。
などを話しても、信じてもらえません。
つまり、
今の日本人は、
明治時代→ 昭和時代
と考えている気がします。
その原因として
歴史教育でも、大正時代を軽くしか扱ってない場合が多いですが
(日本が最初から、悪かったという自虐史観教育をしたい人達がそうしているのでしょうが)
明治→大正→昭和としっかりと、学ぶことで
『戦前』=『全て悪』、『全て否定』
という短絡思考から、脱却できると思います。
このことを理解してないと
安倍総理の『戦後レジュームからの脱却』、『日本を取り戻す』という言葉の『意味』と『重み』が理解できず、(おそらく、多くの日本人が理解してないでしょうが)
『外国から、日本が右傾化していると意味不明なこと』を言う評論家が出てくる原因になっていると思います。
ぴーち こんにちは!
同じ平和な社会とは言え、
この頃の社会は希望に満ち溢れていた社会だったのですね!
この頃が平和社会の入り口だとすれば、
今は出口さえもよく見えない危うい平和さですね。
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、頭の中に植え付けられたイメージがあまりにも先行していますね。
だからこそ事実に基づいた正しい歴史を学ぶ意義があります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大正時代は対外的には非常に綱渡りの外交を強いられましたが、国内においては様々な文化が栄えた時期でした。
時代は短いですが、これも輝ける我が国の歴史の一つなのです。
都市が繁栄(はんえい)した一方で農村の近代化は遅(おく)れていましたが、大正時代の頃(ころ)には近代的な技術の導入(どうにゅう)によって耕地(こうち)面積が増加したほか、化学肥料の普及(ふきゅう)もあって農業は集約化され、米の総収量(そうしゅうりょう)は江戸時代末期(まっき)の約二倍にまで増えました。
大戦景気は我が国に大きな経済の繁栄をもたらしましたが、その後も国際交流の活発化もあって、大正から昭和初期にかけて我が国では独自の文化が生まれました。
文化の担(にな)い手が一般大衆(たいしゅう)だったことから当時の文化は大衆文化と呼(よ)ばれており、教育の普及もあって活字文化や情報文化も発達しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
バスガールや電話交換手というのは当時としては、女性の花型職業の1つだったのですね!
現代の女性が憧れる職業はなんだろうと
思い、調べさせていただきました^^
10位 インテリアコーディネーター
9位 航空職(客室乗務員・地上サービス)
8位 映画製作
7位 総務・人事
6位 ブライダルコーディネーター
5位 秘書
4位 通訳・翻訳
3位 商品企画・マーケティング
2位 経理・財務・会計
1位 広報・プレス・PR・映画宣伝
やはり当時と現代では随分と違いますね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに時代が違いますね(^^ゞ
いずれにせよ、女性が憧れる職業に就けるのが一番だとは思います。
1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュースやラジオ劇(げき)、スポーツ中継(ちゅうけい)の実況(じっきょう)など様々な情報や娯楽(ごらく)を楽しめるようになりました。
ラジオのスポーツ中継で特に人気だったのは、大正4(1915)年に始まった全国中等学校優勝野球大会(ぜんこくちゅうとうがっこうゆうしょうやきゅうたいかい、現在の全国高等学校野球選手権大会=ぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんたいかい)や大正14(1925)年に発足(ほっそく)した東京六大学野球(とうきょうろくだいがくやきゅう)などでした。また昭和3(1928)年には大相撲(おおずもう)のラジオ中継も始まりました。
この他、明治中期に我が国に伝わった映画は、当時は活動写真(かつどうしゃしん)と呼ばれて急速に普及(ふきゅう)し、優(すぐ)れた国産映画がつくられました。なお、当初は無声(むせい)の映像(えいぞう)を弁士(べんし)が説明する形式でしたが、昭和初期にはトーキーと呼ばれた有声映画の制作(せいさく)や上映(じょうえい)が始まりました。
また、1877(明治10)年にアメリカのエジソンが発明した蓄音機(ちくおんき)が我が国に普及したことでレコードが大量に売れ、流行歌(りゅうこうか)が全国に広まりました。





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ぴーち こんにちは!
今は毎日新聞は、東京にも本社がありますが
元々は大阪が本社だったのですか?
トーキー映画。
それまでの無声映画から、映画そのものから音声が聞こえるということは当時としては随分と
画期的な出来事だった事でしょうね^^
現代は再び無声映画が脚光を浴びて、
去年などはアカデミー賞作品賞を獲得する映画まで登場しましたが、音声、映像ともに
優れた作品ばかりが目立つ昨今、たまに無声映画を鑑賞してみるのも新鮮なきもちになり
良いものですよね♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現在の毎日新聞は大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併して誕生していますね。
確かに無声映画独特の価値もありますから、こうした作品が脚光を浴びるのもよいですね(^^♪
大正時代には学問も各分野において様々な発展を遂(と)げました。人文科学においては東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らがあらわれました。
それ以外には政治学で吉野作造(よしのさくぞう)が民本主義(みんぽんしゅぎ)を唱(とな)えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らがあらわれました。
このうち美濃部達吉は大正元(1912)年に「憲法講話(けんぽうこうわ)」を刊行して、法人としての国家が統治権(とうちけん)の主体であり、天皇は憲法に従って統治権を行使する国家の最高機関として存在するという天皇機関説(てんのうきかんせつ)を唱えました。
また、柳田国男は農村に古くから伝わっている民間伝承(でんしょう)や風習・祭礼などを通じて我が国の民衆文化を明らかにする民俗学(みんぞくがく)を確立しました。
この他(ほか)、ロシア革命の影響(えいきょう)は学問研究の分野にも及(およ)び、経済学では河上肇(かわかみはじめ)が大正5(1916)年に「貧乏物語(びんぼうものがたり)」を著(あらわ)してマルクス経済学を紹介(しょうかい)しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
32万ヒットオメデトウございます!素晴らしい数字ですね!これからも頑張ってくださいね^^
大正時代は15年間と言いますが、この短い期間には
沢山の才能が開花された時期でもあるんですね^^私は柳田国男くらいしかお名前は聞いたことがありませんでしたので、勉強になりましたm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
最近は約一ヵ月で10,000HITを達成できるようになりました。これも皆様のお蔭です。
仰るとおり、大正期は年代こそ短いですが、数々の文化が花開いた時期でもあります。
これからしばらくの間は様々な文化について紹介しますので、よろしくお願いします。
また、研究機関として理化学研究所(りかがくけんきゅうじょ)が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次(あいつ)いで設立されたりしました。
ところで、この当時の教育の普及(ふきゅう)はめざましく、義務教育の就学率(しゅうがくりつ)はほぼ100%となったほか、中等・高等教育機関も充実(じゅうじつ)しました。
例(たと)えば中学校の数は大正4(1915)年には321校であったのが大正14(1925)年には500校を超(こ)え、また生徒数も大正9(1920)年の約17万人から昭和5(1930)年には約34万人と倍増(ばいぞう)しています。
なお、原敬内閣(はらたかしないかく)は高等教育機関の充実を進め、旧制高等学校が大幅(おおはば)に増加したほか、大正7(1918)年には大学令(だいがくれい)を公布して、総合大学である官立(かんりつ)の帝国大学以外にも単科大学や公立・私立の設置を認めました。
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ぴーち こんにちは!
たった10年間程で随分と学校の数も、生徒の数も増えたものですね!
現在もまだ義務教育は中学校までとなっていますが、近い将来、高等教育も義務化になるんのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の教育の水準は高まる一方だったっですね。
高校の義務教育化ですか…。確かにほとんどの中学生が高校に進学しますが、こればかりは分かりませんね。
人間社会の現実をありのままに描写(びょうしゃ)する自然主義(しぜんしゅぎ)が作者自身のありのままを写(うつ)しとるだけの私小説(ししょうせつ)へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮(しんしちょう)」を発刊(はっかん)して、知性を重視して人間の心理を鋭(するど)くえぐり出した理知主義(りちしゅぎ)の文学を発表し、新思潮派(しんしちょうは)と呼(よ)ばれました。
芥川龍之介の代表的な作品には「羅生門(らしょうもん)」「鼻(はな)」「杜子春(とししゅん)」「河童(かっぱ)」などがあり、現代の国語の教科書にも採用されています。
菊池寛の代表的な作品には「恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に」「父帰(ちちかえ)る」などがあります。また、菊池は大正12(1923)年に月刊誌(げっかんし)の「文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)」を創刊しています。
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ぴーち こんにちは!
菊池寛の「父帰る」はモノクロの映画作品で
鑑賞した事がありますが、未だに印象深い作品として脳裏に残っていますね・・
そう言えば、主人公の父の名前は黒田さんという方だったような・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「父帰る」は3回映画化されていますが、一番新しいのが60年前ですからね。
>そう言えば、主人公の父の名前は黒田さんという方だったような・・(^^ゞ
さすがよくご存知ですね(^^♪
私は父親になったことはありませんし(爆)、父も失踪しておりませんが(^^ゞ
一方、雑誌「スバル」では独自(どくじ)の唯美主義(ゆいびしゅぎ)を主張した耽美派(たんびは)があらわれ、永井荷風(ながいかふう)が「腕(うで)くらべ」を、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)が「痴人(ちじん)の愛(あい)」を著(あらわ)しました。
また、横光利一(よこみつりいち)や川端康成(かわばたやすなり)らが新しい感覚と表現を主張した新感覚派(しんかんかくは)もこれに続きました。
詩では高村光太郎(たかむらこうたろう)や萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)らが口語(こうご)による自由詩を発表し、短歌では伊藤左千夫(いとうさちお)門下の斎藤茂吉(さいとうもきち)が島木赤彦(しまきあかひこ)らとともにアララギ派を確立しました。
この他、俳句では河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが従来の五七五調の形にとらわれない新自由律俳句(しんじゆうりつはいく)を開拓(かいたく)しています。
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ぴーち こんにちは!
実は中学の時に自分が本格的に小説らしきものを最初に読ませていただいたのが、武者小路実篤の「友情」でした(^^ゞ
タイトルの清いイメージとは別に男女の三角関係という少々背伸びをした内容だったことで
あの当時は何となく後ろめたい気持ちで読んでおりましたが、
今思うと、純情であったのだなと懐古します(*^_^*)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 武者小路実篤の「友情」は色々と考えさせられる作品ですよね。
個人主義を尊重する白樺派ならではですが、青少年の純情さが懐かしく思えます。
オバrev 大正という時代は、明治と昭和に挟まれた短い時代だったこともあって、あまり印象にないですが、現代の教育や研究や文学、芸術への影響という点では実際の長さ以上に大きな時代だったんじゃないかなと思いながら読ませて頂きました。
何しろ、小・中・高と日本史の授業でまともにこの時代まで進んだことないもんで(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大正時代は我が国の現代の文化にもつながることの多い様々な実績を残しています。
時代は短くとも中身は濃いですね。
確かに勉強する機会がないですね(´・ω・`)
ぜひとも私の講座で勉学に励んでくださいm(_ _)m
大正時代には庶民(しょみん)の娯楽(ごらく)としての読み物である大衆文学(たいしゅうぶんがく)も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌(たいしゅうざっし)の「キング」が創刊され、たちまち100万部を突破(とっぱ)する売れ行きとなりました。
大正11(1922)年には「サンデー毎日」が創刊され、週に一回発行される週刊誌(しゅうかんし)も人気を集めたほか、関東大震災(かんとうだいしんさい)後には「現代日本文学全集」のように一冊一円で販売(はんばい)する円本(えんぽん)や岩波文庫などの文庫本も登場しました。
その他の大衆文学としては、鈴木三重吉(すずきみえきち)が創刊した児童文学雑誌「赤(あか)い鳥(とり)」を基本とした北原白秋(きたはらはくしゅう)らによる童謡運動(どうよううんどう)が始まったり、中里介山(なかざとかいざん)の「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」や吉川栄治(よしかわえいじ)・直木三十五(なおきさんじゅうご)らの時代小説、あるいは江戸川乱歩(えどがわらんぽ)らの探偵小説(たんていしょうせつ)などが人気を呼(よ)んだりしました。
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ぴーち こんにちは!
江戸川乱歩の描く世界は嫌いではありませんね(^^ゞ
ミステリーものが流行る世の中は、比較的平和な世の中である証拠でもあるようなので、
大正時代も現代の様に、人々のくらしが
安定し、平和な時代であったという事がこのことからも伺えますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸川乱歩といえば明智小五郎ですよね。私は明智光秀の名を初めて聞いたときに「あれ?小五郎さんの名前をパクってるのか?」と勘違いしました(爆)。
確かにミステリーが流行るとそんなイメージがありますよね。
そういえば今日(平成25年1月26日)の誰かさんの歴史講座の内容も…。
音楽では山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲(こうきょうきょく)の作曲や演奏(えんそう)を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団(こうきょうがくだん)である日本交響楽協会(にほんこうきょうがくきょうかい)を設立しました。
その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱退(だったい)し、新交響楽団(しんこうきょうがくだん)を立ち上げました。現在のNHK交響楽団のルーツです。この他、声楽家(せいがくか)ではオペラ歌手の三浦環(みうたたまき)が国際的な名声(めいせい)をつかみました。
大正から昭和にかけては文部省唱歌(もんぶしょうしょうか)や童謡(どうよう)も人々の間で親(した)しまれるようになりました。前述(ぜんじゅつ)の山田耕筰も「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」など数多くの作品を残しています。
なお、これは蛇足(だそく)ですが、山田耕筰は関西大学(かんさいだいがく)の学歌(がっか)も作曲しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
へぇ~(゚д゚)!
山田耕筰が黒田さんのご出身大学
の学歌をですか!
とても名誉ある事で、素晴らしいですね♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、名誉あることです。
交響楽団を創設した山田耕筰らしい勇壮な曲が関大のイメージにピッタリなんですよね。
なお、横山大観は「生々流転(せいせいるてん)」、下村観山は「白狐(びゃっこ)」などの作品が有名です。
洋画では、大正3(1914)年に文展(ぶんてん)から分離(ぶんり)した民間の美術団体である二科会(にかかい)の梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)や安井曽太郎(やすいそうたろう)、あるいは春陽会(しゅんようかい)の岸田劉生(きしだりゅうせい)らが活躍(かつやく)しました。
岸田劉生は娘の麗子(れいこ)を描(えが)いた作品で知られており、また二科会が開催する二科展(にかてん)は芸能人がしばしば入選することで有名です。
また、彫刻(ちょうこく)では詩人でもあった高村光太郎(たかむらこうたろう)の「手」が知られています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※これで大正時代は終了です。次回[1月29日]からは昭和時代・戦前の更新を開始します)





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ぴーち こんにちは!
私はどちらかというと西洋画の展覧会などには足を運ぶことが多いですが、日本画の展覧会は有名な方のものは一度も本物を目の前にしたことがありません(^^ゞ
岸田劉生の「麗子像」はダヴィンチの「モナリザ」に匹敵するくらい謎めいた雰囲気があり、今でもあのほほ笑みについて物議を醸しているようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私は美術館へ行くこと自体が稀ですので、もっと芸術にお目にかからねばなりませんね(^^ゞ
麗子像は歴史の教科書にはたいてい載っている有名な絵ですからね。確かにモナリザに通じるものがありそうです。