それは過去においても全く同じことであり、神話の世界を含(ふく)めれば2670年を超(こ)える長い歴史を誇(ほこ)る我が国においても、ある歴史上の人物の決断に我が国の運命が左右(さゆう)されるという重大な局面が過去には存在しました。そして、そんな彼らが我が国を正しい方向へと導(みちび)いたことによって、今もなお我が祖国(そこく)がその命脈(めいみゃく)を保(たも)つことが可能となっているのです。
これまで私の講座では、例えば昭和天皇(しょうわてんのう)、あるいは織田信長(おだのぶなが)のように「彼らがいなければ今の我が国の繁栄(はんえい)は有り得(え)なかったと確信できる」歴史上の人物を数多く取り上げてきました。
第32回となります今回は、1400年以上も前に訪れた「我が国建国以来の危機(きき)」に敢然(かんぜん、思い切って物事を行うこと)と立ち向かい、結果として現在に至(いた)る我が国の歴史を形づくった英雄となった「聖徳太子(しょうとくたいし)」について詳(くわ)しく紹介(しょうかい)したいと思います。





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ぴーち おはようございます!
聖徳太子。そのお名前は余りにも偉大で
現代でも日本国民誰もが知る有名人の一人でもあるかと思いますが、人並み外れた才能が本当に備わっていた人物だったのか、それとも長い歴史の中で、どこかで彼の偉業が誇張されたりして現代に伝わってしまっていないか・・・そんな事に興味があります。
これからの展開を楽しみしています^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
残された史実とその影響の大きさなどを鑑みながら聖徳太子の真実に迫っていきますので、今回もどうぞよろしくお願いいたします。
まず内政においては聖徳太子もその血を引いていた蘇我氏(そがし)による横暴(おうぼう)が激(はげ)しくなっており、なかでも我が国が仏教を積極的(せっきょくてき)に受けいれることを表明(ひょうめい)して、反対派だった物部氏(もののべし)との争(あらそ)いを勝ち抜(ぬ)いた蘇我馬子(そがのうまこ)は、自身と対立した崇峻天皇(すしゅんてんのう)を他人に命じて暗殺させていました。
また、当時は朝廷(ちょうてい)と蘇我氏のようないわゆる豪族(ごうぞく)とがお互(たが)いに土地や人民(じんみん)を所有していましたが、聖徳太子が摂政になった頃(ころ)には蘇我氏の支配地が朝廷をおびやかすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。
この状態を放っておけば蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることで、やがて両者に争いが起こって罪もない民(たみ)が迷惑(めいわく)するだけでなく、何よりも海の向こうに誕生(たんじょう)した「巨大な帝国(ていこく)」の介入(かいにゅう)すら考えられる大きな危機を迎(むか)えていたのです。





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- こんばんは。この度のビデオを拝見させていただきました、とある古代史家の端くれ者です。
突然ですが先生は、戦後日本古代史研究の出発点ともなった、石母田正『日本の古代国家』を、お読みになられていますでしょうか?本書はマルクス主義歴史学を基盤に据えて書かれているとはいえ、その古代国家の切り取り方には敬嘆する所があります。
特に今回の先生の講義で触れられなかった(がこの時代の日本の最重要課題であった)対朝鮮半島諸国との関係や、聖徳太子のカリスマ性、隋とのいわゆる『対等』外交などについては、詳しく述べられております。(第一章第二節・権力集中の諸類型 推古朝)今回の講義の内容により一層深みが生れると思います。
また古代国家成立期の対外関係(特に軍事と外交)を考える上でも、本書の第三章「国家機構と古代官僚制の成立」などは、教材研究においても、また現代の日本の置かれている状況を分析する上でも非常に参考になると思います。
「百済とは同盟関係で仲が良かったから白村江の戦いに出兵した」だとか、「悪者の蘇我氏が権力を独占した」といった安直な説明が罷り通っている現代の歴史教育において、大きな示唆を与える書であると、個人的には思っています。(当然ですが全部が全部を賞賛している訳ではありませんが)
もしまだ読まれていないということでしたら、ぜひ読んでみて下さい。(万一既読でしたらすみません。)
以上、長文失礼致しました。
名無しさんへ
黒田裕樹 この度は大変建設的なご意見を有難うございます。
ご紹介くださった書物は未読ですが、ぜひ拝読させていただきたいと思います。
なお、お名前をお書きでなかったゆえに「名無しさん」と表記させていただくことをご容赦ください。
ぴーち おはようございます!
現代も尚、海の向こうの巨大帝国からの
内政干渉やら、侵略行為やらで頭を悩まされている我が国ですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代も尚、海の向こうの巨大帝国からの
> 内政干渉やら、侵略行為やらで頭を悩まされている我が国ですね(^_^;)
仰るとおりです。
だからこそ、同じ状況で敢然と立ち向かった聖徳太子の実績を探る意義があると思います。
この事実はそれまで朝鮮半島(ちょうせんはんとう)で独立(どくりつ)を保っていた高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の各国のみならず、我が国にも大きな衝撃(しょうげき)を与えました。なぜなら新(あら)たなる統一国家である隋の誕生によって、大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアの政治情勢(せいじじょうせい)が非常に微妙(びみょう)になってしまったからです。
果たして隋は陸続きの高句麗に積極的に遠征(えんせい)して国力(こくりょく)を高めようとしました。一度は隋の攻撃(こうげき)をはね返した高句麗でしたが、依然(いぜん)として危機にあることに変わりはありません。
隋の動向(どうこう)によっては朝鮮半島がすべて侵略(しんりゃく)されるばかりか、我が国にも攻(せ)め寄(よ)せる可能性が十分考えられました。もしそうなればまさに亡国(ぼうこく)の危機となることから、我が国は外交面においても非常に難(むずか)しい立場に追い込(こ)まれてしまっていたのです。





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晴雨堂ミカエル 韓国の右翼は、高句麗の旧領の領有権を主張しているようですね。南満州から沿海州にかけて。
ぴーち おはようございます!
なるほど、随の勢力が強かったからこそ
我が国も亡国の危機を逃れる為の対策がなされたわけですね。いくら海を隔てた所であっても
中国大陸はお隣の国。
「対岸の火事」だと安心はしていられませんものね(^_^;)
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 聖徳太子とは直接的に無関係ですが、好太王(広開土王)の碑の存在を考えても高句麗の領土が南満州や沿海州あたりまで広がっていた可能性が高いですからね。
もっとも、当時の高句麗と現在の朝鮮民族との関連性の有無といった問題もあるかもしれませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、海を隔てた大国の存在が我が国の存亡に大きくかかわるようになってしまったのです。
海があるからといって安心することなく、速やかな「次の一手」を考える。これぞ政治ですよね。
まず内政面においてですが、蘇我氏による横暴を打開するためには最終的に朝廷がすべての土地や人民を所有する公地公民制(こうちこうみんせい)を目指(めざ)すという思い切った改革(かいかく)を行うしかないと決断しました。しかし、現状(げんじょう)でいきなり大ナタをふるえば蘇我氏などの豪族の猛反発(もうはんぱつ)を受けるのは必至(ひっし、必ずそうなること)であり、慎重(しんちょう)な手続きが必要であるとも同時に考えていました。
また、外交面においては何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子は、600年に初めて遣隋使(けんずいし)を送ったほか、高句麗の高僧(こうそう)であった恵慈(えじ)などから東アジアにおける国際情勢を学びました。ちなみに恵慈は熱心な仏教徒であった聖徳太子によって我が国で仏教を広めるために高句麗から招(まね)かれたのですが、仏教を学ぶことは当時の最先端(さいせんたん)の情報や技術を入手する意味も込められていました。
こうして我が国の内政あるいは外交における立ち位置を正確につかんだ聖徳太子は、まずは内政面において大胆(だいたん)な政治改革を断行(だんこう)することになるのです。





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ぴーち おはようございます!
今何が国内で起きていて、まず何をするべきかを
慎重に見極めて判断する事こそ国の情勢を安定させることへの第一歩なのでしょうね。
仏の教えの基本は慈愛の心ですので、
例えば相手に対していつまでも憎しみ持ち、怒りの炎を燃やし続けるのではなく、相手を赦すエネルギーを精一杯燃やしていきたいものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今何が国内で起きていて、まず何をするべきかを
> 慎重に見極めて判断する事こそ国の情勢を安定させることへの第一歩なのでしょうね。
仰るとおりです。
その意味においても聖徳太子がとった対策は万全でしたね。
> 仏の教えの基本は慈愛の心ですので、
> 例えば相手に対していつまでも憎しみ持ち、怒りの炎を燃やし続けるのではなく、相手を赦すエネルギーを精一杯燃やしていきたいものですね。
国内においてはその精神で間違いありません。
ただし(内政面を含む)対外的な問題に関しては、それだけでは通用しない時もあるのが現実でもあります。
聖徳太子の内政・外交策をじっくりとご覧いただいて、彼の「凄み」をご理解くださればと思います。
ぴーち おはようございます!
仰るとおり、相手を赦すという事は非常に難しい事ですし、私達凡人がその境地に達するには、様々な心の葛藤を経験し、苦しみ抜いてようやくたどり着く最上階の次元の心境だと思います。
我が国にはそれが理解出来る方が多くても、
他の国はまだまだ精神的に豊かになるまでには道半ばで、そう簡単には
理解されないことが多いでしょう。
ですので、そういう国に崇高な考えを語っても
馬耳東風でしょうから、こちらが次元を引き下げて相手と同等のレベルで対話しなけばなりませんよね。
経済的に豊かになることと、精神的に豊かになることはまるで違うように、経済的に豊かだからそこに住む人々が豊かだとは限りません。むしろ、正反対に下降して行くものかも知れません。
精神的に次元の高い国が、低い国と上手く共存し歩調を合わせていくには、我が国から階下に降りて行かなければいけない場合が多いので、世話が焼ける話ばかりです。
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりであると私も思います。
現代の私たちが対外的にどのような行動をとるべきなのかを、聖徳太子の実績を鑑みながらじっくりと考察したいものです。
冠位十二階は朝廷に仕(つか)える人々に対する新しい身分秩序(ちつじょ)でした。まずは階級として徳(とく)・仁(にん)・礼(らい)・信(しん)・義(ぎ)・智(ち)という6つを定め、さらに大と小とに分割(ぶんかつ)することで12段階の区別をつけました。また、それぞれの階級で冠(かんむり)の色を以下のとおりに分けました。
大徳(だいとく、濃い紫)・小徳(しょうとく、薄い紫)・大仁(だいにん、濃い青)・小仁(しょうにん、薄い青)・大礼(だいらい、濃い赤)・小礼(しょうらい、薄い赤)・大信(だいしん、濃い黄)・小信(しょうしん、薄い黄)・大義(だいぎ、濃い白)・小義(しょうぎ・薄い白)・大智(だいち、濃い黒)・小智(しょうち、薄い黒)
冠位十二階は、それまでの氏姓制度(しせいせいど)による世襲制(せしゅうせい)ではなく、個人の才能や実績(じっせき)によっては昇進も可能になるという画期的(かっきてき)な身分制度であった一方で、蘇我氏は冠位の例外とされていました。おそらくは蘇我氏が従来(じゅうらい)どおりの大臣(おおおみ)として、冠位をもらう側よりも授(さず)ける立場にあったからと考えられています。さすがの聖徳太子も蘇我氏の立場にまで一気に踏(ふ)み込んで改革することはできなかったのでした。
しかしながら、聖徳太子もなかなかの食(く)わせ者(もの)でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で相対的に蘇我氏の権力が後退(こうたい)する遠因(えんいん)をつくったことにもなったからです。





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蘇我氏打倒の布石
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、聖徳太子について、誤解していました。
というのも、聖徳太子が生きている間に蘇我氏を
滅ぼしていなかったからです。
しかし、冷静に考えると
後の『大化の改新』が成功したのは、冠位十二階
により、中臣鎌足というブレインが出現したからだという気がします。
聖徳太子の時に冠位十二階の制度を創ってなければ、『大化の改新』が実現できないほど、蘇我氏の力が膨張していたかもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
確かに聖徳太子の時代には蘇我氏を滅亡させることができませんでした。
しかしながら、そのための布石を着実に打っており、だからこそ後の大化の改新につながっているのです。
そのあたりの裏ワザ(?)についてこれから詳しく紹介しますので、どうぞご期待ください。
日本型のリーダー
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
実は、私は、黒田先生の講義を聴くまでは、
聖徳太子があまり、好きではありませんでした。
とういうのは、織田信長、平清盛のよう強引なやり方で、敵対勢力を武力で、倒すような強力なリーダーこそ、社会に必要だと思っていたからです。
ただ、織田信長、平清盛も結果的に周囲に潰されました。(暗殺・反乱)
それにたいして、
聖徳太子は、協力な武力も使わず、強力な権力も行使せず、強大な敵対勢力も表面的には、友好関係を保ちながら、こちらの理想のカタチにしました。
日本という風土・国民性を考える時、聖徳太子型の表面的には、友好で、相手も気づかぬうちに
で、引っ張っていくリーダーのほうが日本に合っているのかもしれませんね。
もし、聖徳太子が強引な権力を行使するリーダーなら、聖徳太子も暗殺された崇峻天皇の二の舞になったかもしれません。
歴史から、学び現代に活かすという意味において
自◎党のA総裁こそ、聖徳太子の再来と私は、期待しています。
(優秀なのに潰されたAS氏、N氏にのようにならない願いを込めて。。)
青田さんへ その2
黒田裕樹 聖徳太子の場合は蘇我氏という強力な豪族がいましたからね。
自身が蘇我氏の血をひいていたからこそ摂政の地位についたということや、仰るように崇峻天皇が暗殺されたという現実を間近に見ていたからこそ、知らず知らずのうちに実権を回復していく「腹芸」を行ったのだと思います。
現在の世界ですが、「一度死んだ人間」はとてつもない底力を発揮するのではないでしょうか。
まず蘇我氏を冠位十二階から除外(じょがい)したということは、逆に言えば蘇我氏に対抗(たいこう)できるだけの人材を育成できるルートを新たに作ったことになります。また、その位は12段階に細(こま)かく分かれていますから誰(だれ)が見ても明確かつ客観的(きゃっかんてき)です。これらによって、長い目で見れば蘇我氏の勢力を圧倒(あっとう)できるだけの、しかも出世した優秀な人材のみをそろえることが出来るようになるのです。
さらに蘇我氏の立場で考えてみましょう。聖徳太子から「あなたは特別だから冠位十二階の位は授けませんよ」と言われれば、確かに自分の方が下であると認めるわけにはいきませんから、聖徳太子の深慮遠謀(しんりょえんぼう、先々のことまで考えた深いはかりごとのこと)に気付いたとしても首を縦(たて)に振(ふ)らざるを得ません。
そうこうしているうちに聖徳太子が朝廷での人事権を握(にぎ)って自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、蘇我氏としては自分の影響力が少しずつ削(けず)られていくのを、それこそ指をくわえて黙(だま)って見ているしかないのです。
おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔(くや)しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分(たいぎめいぶん)を述(の)べながらウラでは蘇我氏打倒(だとう)のために色々と策謀(さくぼう)を練(ね)り続けるという、聖徳太子の優秀な政治家としての顔を垣間見(かいまみ)ることが出来るエピソードですね。





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晴雨堂ミカエル 中学の授業で、蘇我氏の存在があまりに巨大であったために官位十二階に組み込むことができなかった、と教えられました。
しかし超大国隋との対等外交を推し進めたり、朝鮮半島情勢にも目を光らせ、太子でありながら御位に就かず摂政として朝廷の実権を握るほどの人物が、蘇我氏にはなすがままとは考えられませんでした。
黒田氏の説明なら納得できます。
ぴーち おはようございます!
なるほど、相手の欲望をバッサリ奪うのではなく、今蘇我氏が一番欲しがっているものは何かをよく検討し、逆にそれを与え、尚且つプライドをも傷つけずに相手を立てながら、己の計画も着実に達成していく・・。
やはり、人間の心理や物事の通りをちゃんと知り尽くしていた人物だったのですね。
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 「(自分たちが捏造した)規定どおりのことしか教えない」学校教育の悪弊の一つですね。
少し頭をひねれば生徒にも理解できる内容のはずですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
聖徳太子のしたたかさはこれだけではありません。今後の彼の行動に対して私たちはさらに舌を巻くことになるでしょう。
『冠位十二階』の外交的側面について
nanashi こんにちは。とある古代史家の端くれ者です。
「冠位十二階」の制定の目的が、内政の面からいえば、「冠位を授与することができる唯一の存在」として、冠位という秩序に超越する王権(天皇)の権威を確立することにあったのは間違いないでしょう。
しかし一方で、「冠位十二階」の制定が、外交的側面においても大きな役割を果たした(というよりも、外交を行うためには冠位制が不可欠な要素であった)ことはほとんど授業では教えられていません。
当時の朝鮮半島、例えば百済では、一品官の『佐平』に始まる十六等の体系的な官位制が整備されていました。
しかしこの百済と外交を行うにあたって、相互の尊卑が制度化されていない(見掛け上は横一列の)、日本の伝統的な「カバネ」秩序では、外国からやってきた使者に対して、誰が応対すれば良いのかわかりません。
通常、外交では、「首脳会談」「外相会談」というように、各国の同ランク(ここでは『大臣』クラス)の人間の間で交渉が行われますが、当時の日本の制度化(ランク付け)されていない「カバネ」制のままでは、体系化された官位制をもつ朝鮮三国との交渉の際に支障が出るのです。
このような観点から見ると冠位十二階は、単なる内政的な問題からのみ生れたのではなく、外交を行うにあたって、当時の東アジア諸国でスタンダードとなっていた「官位制」を取り込む必要性が生れた所に、その端緒を見ることもできるのです。
まだまだ書き足りないところが多くあるのですが、以上極々簡単ですが、『冠位十二階』の外交的側面について、書かせていただきました。
nanashiさんへ
黒田裕樹 なるほど、冠位十二階には外交的にも大きな意義があったというわけですね。
大変貴重なご見解を有難うございました。
こうして編(あ)み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)でした。憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれていますが、このうち最も有名なのは、第1条の「和(わ)を以(も)って貴(たっと)しとなし…」の部分ですね。
これは「和の尊重(そんちょう)が我が国にとって何よりも大事であり、みだりに争いを起こさないようにしなければならない」という意味です。似た内容の条文が最後の第17条にもあり、こちらは「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説(と)いています。
この「和」や「話し合い」を重要視する姿勢は、現代に生きる我々にもつながっていると思いませんか?
聖徳太子によって説かれた精神は、私たち日本人の本質を実に的確に捉えているのです。1400年も昔の政治家の発想とはとても思えませんね。





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ぴーち おはようございます!
仰るとおり、日本人本来は「和」の心や、自分たちの間で起きた問題は自分たちで話し合い解決して来たはずですものね。
いつのまにやら、外国の毒気に侵されたかのように、何か揉め事が起こるとすぐに裁判だ!訴訟だ!と大騒ぎをするようになってしまいました。
昨日も法律関係のテレビを見ていて思ったのですが、子供が隣の家の猫にいたずら描きをして、隣の家の方がそれを見て激怒し、賠償責任問題にまで発展させた例を挙げていましたが、昔なら
たかが子供のいたずら。子供に誠心誠意謝らせて反省させたら、それで済んでいた事を、少しでも相手の過失が認められると確信するとそれをネタに
お金が少しでも手に入るのではないかという思いなのか、人情などはそっちのけで、損得感情だけで物事が動いている様で、哀しい世の中になったものだと思いました。
それに常に勝ち負けに拘る為なのかも知れませんが、人生勝つことだけが勝者では無いはずなんですけどね・・(´・ω・`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、近頃の我が国では「和の精神」が失われつつあるのが問題ですね。
何が何でも勝ちばかり求めていては、いったん挫折した場合に二度と復活できないような気がしますが…。
例えば第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬(うやま)え」として仏教への信仰(しんこう)を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。
また第3条では「天皇の命令には必ず従(したが)いなさい」と天皇への忠誠を説くなど儒教(じゅきょう)の道徳思想に基(もと)づく心構(こころがま)えを示している条文もいくつか存在しており、中には第8条のように「役人は朝早く出仕(しゅっし)して、遅(おそ)くなってから退出(たいしゅつ)しなさい」という細かいものまであります。
憲法十七条は政務(せいむ)をとる者に対して和の尊重だけではなく、仏教への信仰や天皇への忠誠など様々な心構えを説くことで役人としての自覚をうながす内容となっています。
それらはもちろん重要なことなのですが、憲法十七条が素晴らしいのはそれだけではありません。実は憲法で定められた内容には、聖徳太子が蘇我氏などの豪族に対して巧妙(こうみょう)に仕掛(しか)けた罠(わな)が含まれているのです。





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ぴーち おはようございます!
憲法の内容に罠ですか(゚д゚)!
これまでその様な観点で憲法を考えた事がありませんでしたので、どんな罠が隠されていたのか
興味があります!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ハイ、罠です(^^ゞ
実は条文の中に隠されています。どのような内容かは次回の更新をご期待ください!
また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得(こころえ)」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」になることも意味しています。
冠位十二階と同様に、憲法十七条の制定によって聖徳太子は蘇我氏による横暴や独走を抑(おさ)え、後の中央集権国家の誕生へ向けての布石(ふせき)を確実に打っていたのです。
「いつまでも蘇我氏の思うままにはさせない」。政治家という職業には、時として誰にも負けないくらいの執念深(しゅうねんぶか)さが必要なのかもしれません。





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ぴーち おはようございます!
確かに
憲法として制定されてしまえば、
何人足りともその決まりを犯せば
ただちに憲法違反として
封じ込める事が出来ますものね。
オセロで言えば、四隅をしっかり確保した
形ということでしょうか(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 オセロですか(笑)。
確かにそのとおりですね。
蘇我氏の反乱の芽を摘み取り、野望を封じ込めるには最適な手法だったと思います。
この頃、隋の皇帝(こうてい)は二代目の煬帝(ようだい)が務(つと)めていました。「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝は宮殿(きゅうでん)に現れると、手にした我が国からの国書(こくしょ)を読み始めました。すると、みるみるうちに煬帝の表情が険(けわ)しくなり、ついには顔を真っ赤にして叫(さけ)びました。
「何だ、この失礼な物言(ものい)いは!」
煬帝のあまりの怒(いか)りぶりに隋の外交官たちが震(ふる)え上がった一方で、我が国からの使者である小野妹子は涼(すず)しい顔をしていました。
「こんな無礼(ぶれい)で野蛮(やばん)な書は、今後は自分に見せるな!」
さて、煬帝をここまで怒(おこ)らせた国書は以下の内容で始まっていました。
「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無きや(つつがなきや=お元気ですか、という意味)」。
果たしてこの国書のうちどの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか?





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ぴーち おはようございます!
以前にも確か黒田さんから学ばせてさせていただいたことがありました!!
天子と名乗った所だったと記憶しております^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 覚えてくださっていて有難うございます(^ω^)
詳しくは次回(18日)の更新で明らかにしますね。
それは「天子」という言葉です。天子とは中国では皇帝、我が国では天皇を意味する君主(くんしゅ)の称号(しょうごう)ですが、煬帝は自国よりも格下(かくした)である(と思っていた)我が国がこの言葉を使ってくるとは予想もしていなかったのです。なぜなら、中国の考えでは「皇帝」は世界で一人しか存在してはいけないことになっているからです。
今から2200年以上前に中国大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一(ゆいいつ)の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗り、後にこれが慣例(かんれい)となって中国大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。
そしてこの構図(こうず)はやがて大陸周辺の諸外国にも強制させることになり、我が国においても中国皇帝の臣下(しんか)となって許してもらうようにお願いするという朝貢外交(ちょうこうがいこう)を行わざるを得なくなったのですが、独立国である我が国、そして朝廷にとってこんな屈辱的(くつじょくてき)な話はありません。
聖徳太子は中国大陸に隋という新たな支配者が誕生したのを機会に、これまでとは違(ちが)う態度(たいど)によって、すなわち「『皇帝→天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨(のぞ)む姿勢を「天子」という言葉に示したのでした。





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ぴーち おはようございます!
聖徳太子とあろう方がわざわざ
相手国の怒りを買うような言葉を
投げ掛けたのは、どういうものかと
思いましたら、そこには太子の思惑が
込められていたわけですね。
何もかも承知の上での意図的な戦略。
その後の展開も楽しみです♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子は何もかも承知のうえで思惑があって「天子」という言葉を使用しています。
そのあたりの詳しい事情についてはこれから説明していきますね。
オバrev この自分が一番偉い!という認識のDNAが中国には引き継がれているんじゃないでしょうか?
現在の傲慢な態度をみると、長い歴史に培われた価値観のような気がしますけど(;・∀・)
オバrevさんへ
黒田裕樹 根底にあるのが「中華思想」ですからね。
「自分こそ一番だ!」という発想そのものですが、逆に言えばそう思わないとやってられなかったのかもしれません。
一方、隋と激しく戦った末(すえ)に一度は追い払(はら)うことに成功した高句麗でしたが、いつまた隋が攻め寄せてくるかわかりません。そこで、高句麗は隋に勝ったにもかかわらずその後もひたすら低姿勢を貫(つらぬ)き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けました。
隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実(こうじつ)を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を無視したあまりにも無謀(むぼう)な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋には我が国へ攻め寄せる余裕が実は全くといっていいほどなかったのです。





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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
超大国の煬帝を怒らせても、こちらの要求を相手に
100%認めさせた聖徳太子の外交手腕は、何度聴いても、爽快ですね。
この内容は、非常にタイムリーだと感じます。
今の日本の政治家にこの動画を見せたい気持ちになりました。
ぴーち おはようございます!
互いの立ち位置が対等であることが
外交をする上では基本的な条件だと
思います。
太子の戦略の一つとして
相手のいかりのツボをわざと啄いて
どれだけの度量が備わっているのか、相手の出方を推し量ってみたのかも知れませんね。
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
現代の政治家のほとんどは真似ができないのではないでしょうか。
それにしても、意識したわけではないのになぜかタイムリーな講座になってしまいます(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰る一面はありますね。
煬帝の怒りがどのあたりからくるのか、これも検証する価値がありそうです。
そんな状況のなかで無理をして我が国へ攻め込んで、もし失敗すれば国家の存亡(そんぼう)にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、何よりも我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが煬帝には大きな足かせになっていました。
それに加え、隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃(はんげき)する可能性も十分に考えられますから、そうなればいかに大国隋といえども苦しい戦いになることは目に見えていました。
つまり、隋が我が国を攻めようにもリスクがあまりにも高すぎるためにできないのです。従って、国書の受け取りを拒否(きょひ)して我が国と敵対関係になるという選択(せんたく)は不可能でした。だとすれば我が国からの国書を黙って受け取るしか方法がありませんが、その行為は我が国が隋と対等外交を結ぶことを事実上認めることを意味していたのです。





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ぴーち おはようございます!
蘇我氏のお話でもそうですが、
ここでもがっちりとガードを固めて
絶対安全だということを確信してからの
大勝負に打って出たという所でしょうか^^
常に冷静な判断を心がけていると
きっと、機が熟した頃合いも見分けられるのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ここでもがっちりとガードを固めて
> 絶対安全だということを確信してからの
> 大勝負に打って出たという所でしょうか^^
さすがに鋭いですね。
今後の展開で明らかになります。
> 常に冷静な判断を心がけていると
> きっと、機が熟した頃合いも見分けられるのでしょうね。
仰るとおり、冷静さを見失うと見えるものも見えなくなってしまいますからね。
煬帝も中国の皇帝が務まるほどですから決して愚(おろ)かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。
さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と小野妹子が隋からの正式な返書を紛失(ふんしつ)してしまったのです。外交官が国書を失(な)くすという信じられないミスに大あわてとなった朝廷でしたが、本来なら死罪(しざい)になってもおかしくなかった妹子は結局軽い罪(つみ)に問われたのみで、すぐに許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳(きび)しく(例えば同じ天子と称したことに対する激しい怒りなど)、とても見せられるものではなかったゆえに「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩(くのう)を以心伝心(いしんでんしん、考えていることが言葉を使わないでも互いにわかること)で察(さっ)したからかもしれません。
さて、煬帝からの返書とは別に裴世清が我が国からの歓待(かんたい)を受けた際(さい)に送ったとされる国書が我が国の歴史書である日本書紀(にほんしょき)に遺(のこ)されていますが、その内容は従来の中国の諸外国に対する態度とは全く異(こと)なるものでした。





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オバrev まさに聖徳太子名人による王手に煬帝王将が詰んでいることを確認して、参ったと言って投了した感じでしょうか?
それは悔しかったでしょうね^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 上手な例え方ですね(^^♪
まさにそのとおりです。悔しさも倍増といったところでしょうか。
ぴーち おはようございます!
太子は自分が送った書状を煬帝が激怒することを
ちゃんと見込んでいて、その返答がどんな
ものであったかもしっかりと把握していたのでしょうね。
そして、妹子が返書を無くしたのは、太子への忠誠心が高い現れだと見抜いて、見逃したのでしょう。太子の予想する範囲には妹子が返書を無くす事は想定外では無かった事で、むしろ、自分の命に変えても太子を悲しませまいとする妹子の覚悟が太子の胸を打ったのかも知れませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
小野妹子の太子への忠誠心は、そのまま我が国の国益にもつながるものでした。
だからこそ彼が許されるとともに、我が国の恥辱を闇に葬ったのだといえます。
「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く人民を治め、国内は安楽(あんらく)で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。
朝貢外交にありがちな高圧的(こうあつてき)な文言(もんごん)が見られないばかりか、丁寧(ていねい)な文面(ぶんめん)で我が国を褒(ほ)める内容にもなっていますね。
この国書が意味することは非常に重要です。つまり、聖徳太子のように終始ぶれることなく対等外交を進めたように、国の支配者が相手国に対して主張すべきことは主張する態度を堂々と貫けば、たとえ世界の超大国を自負(じふ)する隋であっても、まともに応じてくれることを示しているのです。
一方、隋からの激しい攻撃をはね返しながらも朝貢外交を続けた高句麗に対して、隋は「いつでもお前の首をすげかえられるが、皇帝たる自分にそのような面倒をかけるな」と一方的に突(つ)き放した内容の国書を送りつけています。悲しいかな、これも歴史の真実なんですよね。





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晴雨堂ミカエル 小中学生時代に授業で習った事に納得できなかった要素をまさに黒田氏は解説してくれました。
聖徳太子の政治手腕を評価しない授業内容で、隋に対する「不遜な国書」にしても、エピソードを並べるだけ。教師は国際社会音痴の行動、たまたま隋の皇帝が「骨のある奴」と思ったから難を逃れた、という解釈でした。乱暴な解釈と思ったものです。
ただ当時は教師と生徒の関係であり、私には教師に反論できるだけの資料を持っていませんでした。すべては私の解釈でしたから。
隋が日本を攻めなかった理由。
晴雨堂ミカエル 付け加えると、隋は後に唐にとって変わられたように、内政基盤はけっして磐石ではありません。
しかも伝統的に北方や西域の遊牧民との紛争が慢性的に続いており、常に軍隊を万里の長城などに張り付かせておかねばなりません。
高句麗は隋から見れば北方蛮族、しかもまとまった国家で武力も強い。高句麗遠征での出費は莫大。朝貢してきても、いつ裏切るか判らない。
軍費に頭を痛めている隋にとっても、対等外交をしかけた日本は少なくとも今は敵にならないし、顔を立ててやれば逆に隋の味方になるかもしれない計算があったのではないか。
これは私の推測ですが日中両国の外交官が現場で示しあわせて、非公式に日本をたてる事で丸く収めたのではないかと思います。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。
聖徳太子の凄みがよく分かりますね。
ぴーち おはようございます!
聖徳太子と隋の斐世清とのやり取りとは別に
人は基本的に誠意があり、且つはっきりとした態度でしかも明確な意見を申し出た相手の意見には
こちらも真摯な態度で接しなければならないという本能的な気持ちが誰氏も芽生えるものだと思います。
逆に煮え切らなく的を得ない、のらりくらりとした、下手に出るような態度で話を持ちかけられたら、
その相手にはこちらも適当にあしらうしか無いと判断する事でしょう。
自信ある態度を示し、堂々と意見を述べるという直球勝負も外交には特に重要な要素だと思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのとおりですね。
煮え切らない態度は相手にも自分にも何の得もないようです。
外交での直球勝負は重要ですね。
一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は以下のように書かれていました。
「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
我が国が皇帝の文字を避(さ)けることで隋の立場に配慮(はいりょ)しつつも、それに勝るとも劣(おと)らない称号である「天皇」を使用することで、両国が対等な立場であるという方針を変更しないという断固(だんこ)たる決意を示したのでした。ちなみに、この国書が「天皇」という称号が使われた始まりとされています(ただし、異説もあり)。





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ぴーち おはようございます!
なるほど!天皇という言葉が聖徳太子が初めて
使われた言葉であり、苦肉の策から生まれた
言葉でもあった訳ですね。異説とはどんな説なのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子の苦心の策が現代にもつながる称号を誕生させたということですね。
異説としては、聖徳太子より後の時代の天武天皇の頃につくられたというのがあります。
オバrev 言葉で伝えるのと違い、文書にするということは証拠としてしっかり残るりますから、一字一字が非常に重要になりますよね。
短い一文でも、練りに練った重みのある珠玉の言葉が並んでいるように思えます(^o^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子の知恵の結晶がちりばめられた名文だと思います。
現代の政治家にここまでの外交ができる人が存在するでしょうか…。
そして、聖徳太子による対等外交の方針は、それまでの中国による冊封体制(さくほうたいせい)から脱却(だっきゃく)するきっかけとなり、我が国に自主独立の精神と独自の文化を生み出すきっかけにもなったのです。その意味においても、外交面において聖徳太子が我が国に残した功績(こうせき)は極(きわ)めて大きなものがありました。
ところで、我が国の伝統的な思想として「至誠は天に通じる」といった、ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする考えがありますが、そういったやり方は国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用しないということが、聖徳太子と高句麗とに対する隋の態度の大きな違いを見ればよく分かりますね。
我々日本人には、かねてより清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく後ろ暗いところのないこと)を好む風潮(ふうちょう)があり、それ自体は非常に重要なことではありますが、対外的には通用しないどころか逆に利用されてしまうという危険性すらあるのです。聖徳太子と高句麗との外交姿勢の大きな違いは、現代に生きる私たちに大きな教訓を残しているといえるでしょう。





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ぴーち おはようございます!
仰るとおり、同じ国民同士の間では諍い無く
円滑に生活していこうという知恵の中で生まれた
思いやり精神も、
常にそれが生かされるという訳ではありませんよね。
相手の理不尽な要求、或いは暴力的な態度、言葉に対して、それを容認するかの様な低姿勢な態度では、相手はそれが良いものだと勘違いし、益々エスカレートさせる原因にもなり兼ねません。
相手の善悪をこちらが正しく判断し、相手のペースに流される事なく、己というものをしっかり失わないように常にブレない判断でいることが、例えどんなに力が無い存在であっても、相手にとっては脅威になる存在であると思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
生き馬の目を抜く国際社会では日本式な交流は通用しません。
絶対ぶれずに相手に脅威を与える手法で十分だと思います。
はじめまして
大和草 拙ブログで「政治家に肝に銘じていただきたい地政学上の名言」をアップしたばかりです。
聖徳太子はその時代にすべて網羅した外交を行っていたのですね。
是非こちらの記事を転載させてください。
宜しくお願いいたします。
大和草さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへのご訪問並びにお言葉ありがとうございます。
拙文が貴ブログのお役に立てれば光栄ですし、また事前のお伺いのお言葉に感謝します。
どうぞ転載なさってください。
例えば聖徳太子の母親が臨月(りんげつ)の際に馬小屋の前で産気(さんけ)づいたため、彼が生まれた後に厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名付けられたという話がありますが、同じように「馬小屋の前で母親が産気づいた」とされるイエス=キリストとの共通性には興味を惹(ひ)かれます。
他にも幼少時から抜群に有能であったために10人による全く別々の話を同時に聞き分けることができたということなど、聖徳太子には様々な伝説があるのですが、それらがあまりにも浮世離れしているということで最近では「聖徳太子は実在しなかった」とか「聖徳太子の業績は大半がつくり話だ」などという学説も出てきています。
さらに最近では「聖徳太子」という彼の名前の呼び方についても意見が分かれているという状況にあることを皆さんはご存知でしょうか。





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晴雨堂ミカエル 厩戸皇子伝説については、キリスト教のネストリウス派が東アジアに伝播して、景教として日本に伝わったのが影響している説があります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、キリストとの関係はそんなところにもあったんですね。
偉人伝説の共通性も面白いものです。
ぴーち おはようございます!
世の名を残す人物というのは、
生まれながらにして、奇特な話が多いですよね。
そしてどちらかというと裕福ではなく、貧困家庭に生を受ける。
他の方の解釈で恐縮ですが、貧乏な家庭に生まれる事は必然的な事であり、その後大出世することにより、人間は努力すればどんな生い立ちであろうと大成出来る可能性を秘めているということを身をもって世間に知らしめる為にそこに生まれる運命だったと
伺った事がありますが、なるほどなと思ったものでした。
科学や経済が進歩してくると、目に見えるものだけが常に信用され、目に見えないものは排除されてしまうような考え方に変化してしまいますが、これからも次第に人事を超えるような能力が本当に備わっていたとしても、そういう事実は無かった・・などともみ消されていってしまうような気がしますね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 おっしゃる通りだと思います。
> 科学や経済が進歩してくると、目に見えるものだけが常に信用され、目に見えないものは排除されてしまうような考え方に変化してしまいますが、これからも次第に人事を超えるような能力が本当に備わっていたとしても、そういう事実は無かった・・などともみ消されていってしまうような気がしますね(^^ゞ
これは共産主義や社会主義を支える唯物史観にも同じことが言えますね。
そしてその影響は聖徳太子自身にも…。
すなわち、歴史教育では生前に使用された名前で表現すべきであるから聖徳太子ではなく本名の「厩戸皇子」あるいは「厩戸王(うまやとおう)」と呼ぶべきだというのです。確かに高校でよく使用される有名な教科書においては現実に「厩戸王」という表現が使用されています。
しかし、この理屈には無理があります。もし「歴史教育では生前に使用された名前で表現すべきである」とするのなら、歴代の天皇など、その死後に名前が贈られた人々はどのように呼べばよいのでしょうか。例えば今上陛下(きんじょうへいか)を含めてすべてを「天皇」と表現するのであれば誰が誰だか分からなくなってしまいますし、こんな人を馬鹿にした話はありません。
さらに、聖徳太子については不在説があるのは確かですが、今のところは断定できる段階まで研究が進んでいません。そのような歴史研究の場で未だに決着がついていない事柄を簡単に変えてしまってよいものでしょうか。ましてや後世の人間が「聖徳太子」という名を贈ったという重い現実を無視してまで呼び方の変更を急ぐ理由が他にもあるのでしょうか。
私には思い当たる節(ふし)があります。





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
この話を両親に話すと
(父親80才、母親75才)
に話すと
『そんな、アホな。』と固まってしまいました。
というのも、
両親にとっては、
1万円札は、聖徳太子だから、有り難かったからです。
「厩戸王」なら、昭和を生きた人の感覚も
ズレてしまうことになります。
私は、46歳ですが、もしかしたら、
私が受けていた『日本の歴史教育』(かなり、偏向だったとは、思いますが)と
今の『歴史教育』とは、かなり、違うのかもしれませんね。
さらに、それに拍車をかけているのは
私の時は、日本の時代劇の全盛時代でしたので
興味を持って別の本を読んだりましたが、
今は、時代劇がほとんどなくなり、(韓国の時代劇は、放送していますが)歴史に興味のない若者が多いです。
青田さんへ
黒田裕樹 「そんなアホな」という思い、私にもよく分かります。
これは立派な「後世による歴史の改悪」と言えるでしょう。
ではどうしてこういうことになったかというと、それは次回の更新で。
ぴーち おはようございます!
後の天皇家の話は度外視させていただくとして・・
私は「厩戸皇子」でも良かったのではないかと思います。なぜなら、前回コメントをさせていただいた内容の様に、例えそれが貧相な名前であったとしても、それが事実であるのだったら、生まれはそうであっても、その人の生き方、学び方によっては聖人と言われる人物にまで出世することが出来るのだという強烈なメッセージとなるように思います。
けれど、聖徳太子という別名を後の人々がその偉大なる功績を讃えて寄贈した名前であったのなら、それも立派な功績の一つでもあるので、結果的にそう呼ばれるような人物になったという、こちらも呼び名で証明されたようなものだと思います。
こういう問題は、どちらか一方が正しくて、どちらが一方は間違っているという判断よりも、どちらも事実であり、どちらの呼び名も彼であったのだと教育されるべきでは無いでしょうか。
これまでこういう問題はなかなか通常の授業では議論がされなかっただけに、今回の黒田さんの記事の内容は殊更、歴史の大切さを痛感させられ、また勉強になりました。ありがとうございますm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう問題は、どちらか一方が正しくて、どちらが一方は間違っているという判断よりも、どちらも事実であり、どちらの呼び名も彼であったのだと教育されるべきでは無いでしょうか。
おっしゃることは私も理解できます。
もし聖徳太子の名前を厩戸皇子と呼ぶ理由がぴーちさんのようなお考えであれば、それはそれで問題はないのかもしれません。
しかし、皇位継承者である「皇子」ではなくただの皇族でしかない「王」を広めようとしか考えられない書き方である教科書を見ると、どうしても次回(27日)に紹介するような思惑があるのではないかとしか考えられないのもまた事実なのです。
さらには、最近の歴史教育にありがちな「隣国に配慮し、相手の価値観を重要視する」という姿勢が、聖徳太子に関する歴史について勝手に捏造(ねつぞう)するという結果をもたらしてはいないでしょうか。
現在、我が国と中国(=中華人民共和国)との関係は必ずしも良好とは言えません。もともと隣国同士の仲は世界中のどこにおいても悪いのが常識ではありますが、昭和12(1937)年12月における我が国による南京の攻略(こうりゃく)に関する「大虐殺(だいぎゃくさつ)」説や、我が国固有の領土である尖閣諸島(せんかくしょとう)に関する中国側による様々な不法行為などによって、最近の両国の関係は特に悪化しているように見受けられます。
一般的なマスコミや教科書における歴史観からすれば、これらの原因はすべて「先の大戦に関する我が国の反省と謝罪」が足りないからだというのが通説となっているようですが、もちろんそれは荒唐無稽(こうとうむけい、根拠がなく現実性のないこと)な話であり、捏造された歴史観や我が国固有の領土に対する不法行為には断固として抗議しなければなりません。
しかしながら、こんなご時世だからこそ、かつて隋に対して対等外交を突き付けて我が国の立場をはっきりと示したことで独立への道を拓(ひら)き、以後の長い年月における多大な国益へと導いた聖徳太子の「本当の姿」を明らかにするのは都合が悪いと勝手に解釈する人間が、もし我が国の上層部に存在するとすればどうなるでしょうか。





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中年の星 何故こうも長きに渡って日本が中韓に対して卑屈な外交姿勢を取り続けるのか?まさに日本の闇、いや世界の闇の部分につながる話かもしれませんね。
オバrev 工エエェェ(´д`)ェェエエ工~、その上層部って現政権党の実力者のことですか?
全く日本のこういう行動は、国際的に見て異様じゃないでしょうか。
経済的にあまりに強い結びつきを持ってしまった中韓ですが、立場はむしろ日本の方が強いと思います。
これからは経済も中韓に偏らず、東アジア圏という考え方に変えて(民間企業は既にその方向に舵を切っている)いけば何の問題もないと思います。日本の歴史観も明確にしていくべきじゃないでしょうか。
それで経済的交流が停滞して困るのは中韓でしょう。
根本的な問題
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この問題は、根本的なことをわかってない人間が
多いことが原因だと思います。
それは、『歴史を学ぶ意味』です。
これを、日本の上層部の人間が理解していたとしたら
① 日本の歴史をしっかり、学ぶことで、不安で、心細い混迷を生き抜く『知恵』と『勇気』を得る。
② 仮に、中国が怖いなら、中国の歴史を学んでみる。(ねつ造された近現代史だけではなく)
そうすれば、中国という国が、どういう国かを理解できて、そこまで、過敏にならない。
(現代の日本人の価値観と同じと思って、中国に
接するから、日本の国家としての主体性がなくなる。)
ぴーち おはようございます!
なるほど、中国が日本に対して
敵対心を露わにする姿勢の根源は聖徳太子の時代から脈々と受け継がれて来た訳ですね。
いわゆる「生意気な奴!面白くない!」という一種の感情論が彼らの恨みの原動力であるから、抗議してくる内容に信ぴょう性が見られない発言が多いのですね。
応援凸
中年の星さんへ
黒田裕樹 > 何故こうも長きに渡って日本が中韓に対して卑屈な外交姿勢を取り続けるのか?まさに日本の闇、いや世界の闇の部分につながる話かもしれませんね。
私もそう思います。
我が国を覆う「闇の雲」を一日も早く振り払いたいものですね。そのためにも政治の刷新が重要かと思われます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 工エエェェ(´д`)ェェエエ工~、その上層部って現政権党の実力者のことですか?
> 全く日本のこういう行動は、国際的に見て異様じゃないでしょうか。
はっきり言って極めて異常ですし、私たち国民の目を背けさせようとする現状はもっと異常です。
> 経済的にあまりに強い結びつきを持ってしまった中韓ですが、立場はむしろ日本の方が強いと思います。
> これからは経済も中韓に偏らず、東アジア圏という考え方に変えて(民間企業は既にその方向に舵を切っている)いけば何の問題もないと思います。日本の歴史観も明確にしていくべきじゃないでしょうか。
> それで経済的交流が停滞して困るのは中韓でしょう。
全く同感です。中韓との経済交流がなくなったところで、我が国の経済の屋台骨が揺らぐことは全くありません。
インドやベトナムなど反日国でない国との交流を進めれば何の問題もないですし、内需拡大を目指して国内産業に力を入れるなど対策はいくらでも可能なはずです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の価値観や主体性を他国にゆだねようとしている現状が今日の混迷をもたらしているのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、中国が日本に対して
> 敵対心を露わにする姿勢の根源は聖徳太子の時代から脈々と受け継がれて来た訳ですね。
> いわゆる「生意気な奴!面白くない!」という一種の感情論が彼らの恨みの原動力であるから、抗議してくる内容に信ぴょう性が見られない発言が多いのですね。
その通りです。
恨みからは何も建設的なことは生まれませんが、感情を左右できない(もしくはわざとコントロールしない)国家の現状は哀れですし、我が国がそれに付き合ういわれは全くもって存在しません。
適度な距離感
- 黒田先生
おはようございます。
青田です。
私は、『外交』とは、『対等関係のおける適度な距離』が必要だと思います。
これについても、歴史から、学べると思います。
つまり、外国とは、適度な距離感で、付き合うということです。
(その国がないと日本が困らない距離感。)
◆ 聖徳太子の隋との関係。
◆ その後の唐との関係。
◆ 平清盛と宋との関係。
◆ 日明貿易。
◆ 江戸時代の清との関係。
純粋に必要なものだけを貿易し合う関係。
戦後も、日本と中国とは、適度な距離を保っていた気がしますが
ここ、数年の日本の企業の中国依存は、異常です。
その結果
中国の経済力が伸びると軍事力が増大し、周辺諸国に侵略の魔の手を伸ばす。
かといって、中国経済が弱くなると、日本の企業は、過剰依存しているので、日本の企業も困る。
その原因は、マスコミ(特に経済評論家)の責任が大きいと思います。
散々、『これからは、中国の時代』と喧伝してきたからです。
まあ、これは、私の個人的な意見ですが
中国がそんなにイイ国と企業が思うなら
中国に移住して、中国人に帰化すればイイと思うのですが。。。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 私も同感ですね。
帰化する覚悟もなく、いい加減なことばかり喧伝する行為は売国そのものでしょう。
聖徳太子は1000年を遥(はる)かに超える長い年月の間ずっと我が国の人々に語り継がれた立派な偉人です。近現代においても我が国のお札(さつ)の肖像画として何度も採用され、特に昭和33(1958)年から昭和59(1984)年までの26年の長きにわたって我が国の最高額紙幣(しへい)である一万円札に使用されたという事実が、聖徳太子の我が国における人気が途切れることなく続いているという明確な証拠となっています。
我が国の歴史は我が国のものなのですから、厩戸皇子に対して感謝や畏敬(いけい)、あるいは親しみを込めて「聖徳太子」と呼称することに何の遠慮が必要というのでしょうか。私たち日本人は今後もずっと「聖徳太子」という称号で彼の偉大な業績を讃(たた)えるべきです。
さらに付け加えれば、聖徳太子にまつわる話は決して過去の問題ではなく、現在においても大きな教訓として私たちの目の前に存在しています。我が国固有の領土である尖閣諸島を守るという日本国民にとって当然の意識も聖徳太子による対等外交の精神がそのDNAとなっていますし、もし彼の努力を無駄にするような政府が現在進行形で存在するのであれば、多数の国民が抗議の声を上げるのはむしろ当然の帰結なのです。
遥か昔の亡国の危機に際し、たった一人で内政面や外交面の両方から一大改革を成し遂(と)げ、結果として我が国を一流国へと引き上げた聖徳太子。彼が遺した実績から歴史に学ぶ姿勢こそが、混迷を極める我が国の現状に一条の光をもたらすことになるのではないでしょうか。
(※第32回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[10月29日]からは通常の更新[=大正時代]に戻ります)





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ぴーち おはようございます!
1000年も以前の人物の功績が今でも讃えられているというのは、本当に素晴らしいです!
裏を返せば、聖徳太子以上、或いは同等に優れた人物はこの1000年に間には出現しなかったということになるでしょうか(^_^;)
優れた人材は、1000年に一人、出るか出ないかと言うなれば、もうそろそろ現代の日本にも出現してもおかしくなさそうですが、その気配は
いかに・・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、聖徳太子以来の偉人が我が国に出現しているかどうかですね?
…現代には確かにいなさそうかもしれませんが、亡国の危機にこそ救国の英雄が現れるとも言いますからね。
言葉の重みに鈍くなっている日本人
青田 黒田先生
青田です。
この聖徳太子の話について、
あまり、反応しない日本人が多いようですが、
これは、『言葉の重み』の感じ方について
日本人と中国人とでは、全く、違うからだと思います。
たとえば、聖徳太子が、隋の煬帝に『天皇』という敬称を認めさせたことの重要性。
『聖徳太子』を『厩戸皇子』に変更させられていることの屈辱をあまり、一部の日本人以外は、感じていません。
それは、日本人が考えてない大前提があります。
世界で、日常で、使っている文字が漢字なのは、中国・台湾・日本だけであること。
古来、中国(シナ)では、漢字を使えることが中国人としての証明であったこと。
ベトナムは、昔、漢字を使っていましたが、今は、使っていませんし、
朝鮮半島の人達は、現在は、ハングル語で、漢字は、苗字くらいにしか使っていませんが、1400年以前は漢字を使っていました。
逆に言えば、中国にとっても、日本にとっても
漢字の呼び方が、外交上においても、民族的な意識においても大きな影響を及ぼすほど重要だということです。
これが、わかってないから、
中国の
『尖閣諸島の棚上げ』という言葉の解釈を使った
巧みな罠で、つけ込まれている気がします。
あらためて、『文字』(言葉)の重要性を痛感します。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、言葉は重要ですよね。
相手の言い分を鵜呑みにするほど愚かな行為はありません。