そして慶応3(1867)年10月14日、朝廷は薩長両藩に対して討幕の密勅(みっちょく、秘密に出された天皇による命令のこと)を下し、ついに薩長は武力による討幕のお墨(すみ)付きを得ることができました。
薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、日本国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入によって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。





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Kei 昨年も、わかりやすい日本史授業、、
ありがとうございました。。。
また、楽しみにご訪問させてください。。
今年もどうぞよろしくお願いします。。Kei
Keiさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、昨年はお世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
拙ブログをお楽しみいただければ幸いです。
ぴーち おはようございます!
確かに武力で制圧しようとするとその混乱に便乗して外国の勢力が加勢したり、やもすると弱体化した国土までも奪われかねない事態が起こるかも知れませんものね。様々なデメリット考慮し、無駄な流血を避けて解決できる方法を考えたわけですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大政奉還は日本をできるだけ傷つけない方法で、なおかつ徳川家の独裁を許すことなく、同時に潰すこともしない、という絶妙の策だったと思います。
この後も戦いが続きますが、武力討幕による大混乱に比べれば規模が全然違いますからね。
公武合体の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま、武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか、と将軍慶喜に提案しました。
このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜はこの策を受けいれ、討幕の密勅と同じ日の慶応3(1867)年10月14日に、朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を申し出ました。
幕府からの申し出に、機先を制された格好となった朝廷でしたが、大政奉還を受理したことで、徳川家康以来260年余り続いた江戸幕府は終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
ところで、皆さんはなぜ幕府が「大政奉還」という形式で政権を朝廷に返上したかご存知でしょうか。これには、慶喜が就任していた「征夷大将軍」という地位が大きく関係しているのです。





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オバrev 倒幕派が立ち上がる日に大政奉還とは、皮肉ですね。というか、これは狙っていたのかもしれません。
よく分かりませんが、大政奉還という形式が最も後の実質的実権を握りやすかったんじゃないでしょうか。
大政奉還によって、徳川家の権力はどのまでなくなり、どのくらいが残るんでしょうか?その点が幕府側、倒幕側にとっても大きなポイントとなっていたような気がします。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この大政奉還の直後に『龍馬暗殺』が合ったんですね。
ここで、歴史のifを考えたいと思います。
もし、この時、坂本龍馬が暗殺されなかったら
どうなっていたかを考えてみました。
① この時、暗殺されなかったとしても、近い将来、暗殺されていた。
② 岩崎弥太郎のような政商として、財閥を創っていた。
③ 薩長藩閥政府ではなく、共和制に近い政治体制が早く、実現していた。
私は、この3つの可能性を考えますが、黒田先生は、どう思われますか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、佐幕派と討幕派との間で熾烈な情報合戦があったかもしれませんね。
実は「大政奉還」には大きな意味があるんです。詳細は次回(3日)の更新で明らかにします。
そして、幕府の思惑は巻き返しを図る討幕派によって覆されることになるのですが、これは次々回以降にまた詳しく紹介しますので、続きをどうぞご覧下さい。
青田さんへ
黒田裕樹 私自身は2.の可能性が高かったと思います。
ただし、彼の発想が仰るとおり共和制に近いものでしたから、藩閥政府からすれば当然危険分子であり、やはり1.の暗殺の危険が常に彼に付きまとう可能性も高いでしょうね。
征夷大将軍も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、1192年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権が朝廷から公認される、という扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。この考えは後の室町幕府、そして今回の江戸幕府も全く同じですが、一度「預かった」ものは、いずれは必ず「返す」ことになりますよね。
だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立し、武力討幕を実行しようとしていた薩長両藩に対する大きな牽制(けんせい)となったのでした。
なお、大政奉還は土佐藩の坂本龍馬が考案し、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)から前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)を通じて、慶喜に働きかけて実現したとされています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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こみー お久しぶりです^^;
年、明けましたね(^^)/
去年は受験やらで忙しくなってなかなかブログに
触れる機会がなかったものですから・・・
受験をひと足先にパスさせてもらったので、
これからまたいろいろ参考にさせていただきます(´▽`)
今年もよろしくお願いします!
こみーさんへ
黒田裕樹 こちらこそご無沙汰しておりましたm(_ _)m
受験クリアおめでとうございます!
残り少ない高校生生活を充実させて下さいね。
当ブログがお役に立てれば幸いです(^^♪
ぴーち おはようございます!
龍馬は征夷大将軍という地位が朝廷から預けられた臨時の役職で
あるということをちゃんと把握していた訳ですね。
勿論、龍馬ばかりではなく他の方も把握されていたのでしょうけれど。
歴史を知り、また未来を見つめて行動していた龍馬は改めて優れた人物だったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そう思われますね。
龍馬の先見性の素晴らしさが分かると同時に、当時の教育の水準の高さがしのばれます。
幕府
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
時間は、遡りますが、源頼朝が、この有名無実の
しかも、臨時の役職である征夷大将軍になり、
それで、実権を握るという発想をしたこと自体が
凄いですね。
(もっとも、その後、北条氏が執権という、これまた、単に将軍を補佐する役職で、実権を握ったのも凄いですが)
そして
この日本独特の『しくみ』を坂本龍馬も知っていて、徳川慶喜も知っていたから、別に大政奉還をしても、実権を持つことは、可能だと考えたのでしょうね。
それにしても、徳川慶喜と坂本龍馬も日本の政治というのを歴史の上からも深く、理解していたのには、驚かされます。
さらに
これについては、薩摩・長州Vs徳川慶喜・土佐藩との政治工作の戦いですね。
(目に見えない激しい戦い)
青田さんへ
黒田裕樹 源頼朝の場合は、ブレーンとして貴族出身の大江広元がいましたから、彼あたりが勧めたかもしれませんね。いずれにせよ、実行力が伴わなければ実現しなかったでしょうし、頼朝の度量の大きさがうかがえます。
慶喜も龍馬も、現代とは比べ物にならないほど勉強家だったと思われますからね。当然情報合戦も熾烈だったでしょう。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤った薩長両藩や公家の岩倉具視(いわくらともみ)らの討幕派は、慶応3(1867)年12月9日に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古の大号令といいます。
王政復古の大号令によって、天皇親政による新政府の樹立が宣言されましたが、新政府は江戸幕府のみならず摂政や関白をも廃止し、新たに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職(さんしょく)を創設しました。
なお、総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允(=桂小五郎)、土佐藩の後藤象二郎らが任命されました。





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ぴーち おはようございます!
王政復古の大号令という言葉だけはよく覚えていますが、それがどんな人物達が関わり、どんなものだったのかという事は全くその当時は頭に入らなかったのですが、こうして改めてお話を伺うっているとそういうことだったのかと容易に理解することができました。
ありがとうございますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
歴史用語は覚えていても、その関連がつかないということはよくありますよね。
せっかく学習するのですから、流れも含めてしっかりと理解しておきたいものです。
当ブログがお役に立てれば幸いですね。
坂本龍馬の暗殺
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
坂本龍馬の暗殺の真犯人ですが、京都見廻組の佐々木忠三郎と言われていますが、黒幕説が
いろいろとあります。
一番、得をした人間を疑えの原則に従って、
仮説を考えてみました。
◆ 長州藩説・・・倒幕を考えている長州藩にとって、坂本龍馬の「大政奉還」は、受け入れられないことである。
(それにたいしての反論)
当時、長州藩は、まだ、京都を自由に動き廻れる状況ではなく、しかも、大政奉還に反対なら
坂本龍馬よりも、後藤象二郎か、山内容堂を狙うはず。
◆ 薩摩藩説・・・同じく、討幕を考えている薩摩藩にとって、坂本龍馬は、邪魔な存在である。
しかも、京都での活動は、長州藩よりも活発にできた。しかも、坂本龍馬の居場所をこの時、知っていたのは、薩摩藩、土佐藩などに限られていた。
(それにたいしての反論)
この時、薩摩藩の中心となっていた西郷隆盛、大久保利通は、京都にはいないで、薩摩藩の藩論を
まとめるのに奔走していた。
大久保、西郷のいない京都で、単独で薩摩藩が龍馬を殺すのは、考えにくい。
しかも、西郷は、坂本龍馬にたいして、かなり、尊敬の念を持っていた。
◆ 紀州藩説・・「いろは丸事件」の報復で坂本龍馬を殺した。
(それにたいして藩論)
「いろは丸事件」から、かなりの月日が経っていて、もし、坂本龍馬を暗殺するなら、もっと早くできたはずである。しかも、坂本龍馬の居場所を知ることは、至難の技。
こう考えると
やはり、佐々木只三郎の単独犯説が一番、有力ですね。
とういのも、小太刀の名手であり、清河八郎の暗殺の実行犯ですから。。
青田さんへ
黒田裕樹 ご推察のとおりかと思われます。
本能寺の変と同様、数々の憶測が考えられる中で、単独犯というのは盲点ですね。
新政府内のパワーバランス
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
私は、西南戦争までは、新政府内のパワーバランス(力関係)では、その主力は、薩摩だと考えていました。
(後に、西南戦争で、薩摩閥の力が弱くなり、長州閥が大きくなると思いますが、)
しかし、この新政府の役職を観てみると非常にバランスの取れたポスト配置なので、驚きました。
というのも、長州藩への配慮はあるにしろ、土佐藩への配慮もきっちりしているのですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、この頃の役職は比較的平等ですね。本格的な派閥争いは戊辰戦争後に内乱が一段落してからでしょうか。
なお、肥前佐賀藩は戊辰戦争での活躍後に名前を連ねることになりますね。
休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷隆盛に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開ける、と岩倉を勇気づけたのでした。
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで幕府に肩入れすることはない、と判断した山内がその後沈黙したこともあり、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議が進みました。結局、慶喜は将軍のみならず、内大臣(ないだいじん)の辞任と領地を一部返上させられることで決着したのです。
慶喜は、会議後に京都から大坂城に引きあげましたが、当初は新政府との表立っての衝突(しょうとつ)を避けようとしていました。しかし、会議の決定を不服とした旧幕府兵が、江戸の薩摩藩の屋敷を焼き討ちにするという事件が発生したことで、慶喜も最終的に新政府軍と武力で戦うことを決断しました。
世にいう戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりです。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、志士という言葉が大好きです。
志を持った侍という意味で、身分が低くても
志士があるということで、尊敬の対象になるからです。
ただ、この時代、志ではなく、剣の力だけで
のし上がろうとする
新撰組、岡田以蔵(人斬り以蔵)がいましたが、
結局、どんなに剣が強くても、
志と最新兵器の前では、消えていく運命だったんですね。。
青田さんへ
黒田裕樹 幕末から維新にかけては、仰るとおり志士の時代でした。
しかし、新選組の全盛期の頃はともかく、戊辰戦争までには剣ではなく鉄砲などの火器の時代になっていたんですね。鳥羽・伏見の戦いで新選組が完敗したのが象徴的です。
奇兵隊
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
新撰組と対極をなすのが、奇兵隊ですね。
武士以外の身分でも、近代の軍隊として、最新兵器の訓練をすれば、
剣の能力がなくても、十分に実戦で、通用しました。
奇兵隊は、なくなりますが、
その後、明治になっての国民皆兵による鎮台兵が
西南戦争で、最強の薩摩士族を打ち破ってことで
剣の時代の終焉を証明しましたね。
(ネタバレになるので、ここまでにしますね。)
オバrev これは外堀、内堀を埋められて、戦争しか道がないと決断せざるを得なかったんじゃないでしょうか。
歴史的にも、戦争は追い込まれて他に道がなくなった時に起こさざるを得なくて起こっているような気がしますがどうですか?
法理論的には、
晴雨堂ミカエル 法理論的には、政権返上を表明したとはいえ、左大臣・右大臣に次ぐ元首級の官職に就いているので、土佐藩の言い分は正論。
明治維新は強引ですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、奇兵隊は身分に関係なく兵を集めましたが、最新兵器を駆使して長州藩の保守派を圧倒しました。
この経験が、その後の戊辰戦争~西南戦争の流れにつながっていますね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。慶喜は戦争をしたくなかったようですが、部下が暴発してやらざるを得なくなりました。
しかし、部下からすれば戦わずして敗れることが許せなかったのでしょう。
部下の思いも分かりますが、そんな部下を抑えることができなかった将軍慶喜は、やはり追い込まれて戦うしか道がなかったといえますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
討幕派側からすれば徳川家が新政権に残っては何の意味もない。だからこその強引な小御所会議でした。
ただ、どちらが是か非かは簡単には論じられないものの、結果として徳川家を抜いたことでその後の明治政府による政治が確立したとも言えそうです。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
坂本龍馬、山内容堂は、徳川慶喜を新政府入りを
考えていました。
もし、薩摩・長州などの新政府軍がもっとリベラルで、
たとえ、徳川家であっても、優秀な人間は、新政府のメンバーとして、働いてもらおうと考えたとします。
私は、そうすると
① 北越戦争、会津戦争、東北・北海道の戦いは
せずに、官軍も無駄なエネルギーを浪費せずにすんだ。
② 幕府、佐幕派の藩の中でも優秀な人材を活用でき、その後、新政府軍のとって、貴重な人財として、活用できた。
もちろん、幕府の石高は、莫大で、新政府軍にそのままのカタチで、加わると脅威かもしれませんが、後に廃藩置県を断行したことを思えば、可能だったと思います。
それと
もし、坂本龍馬が生きていれば、無駄の血を流さずにすんだと思うのですが、いかがでしょうか。
青田さんへ その3
黒田裕樹 極めて微妙ですね。
確かに幕府の優秀な役人は新政府にそのまま雇用されたかもしれません。
しかし、廃藩置県は事後に詳しく紹介しますが、薩長が先頭に立ってこそ実現できたことですので、徳川家の領土が残っている場合には史実のように強引に達成できたかどうか分かりません。
また、何よりも討幕派と佐幕派との間でそれまでに多くの血を流し過ぎています。
薩長のように和解しようにも、組織が大きすぎて困難でしょう。
そう考えれば、私は龍馬の有無にかかわらず戊辰戦争は避けられなかったと考えております。