公武合体運動を進めていた薩摩藩で政治の実権を握り、文久の改革を幕府に実行させた島津久光が江戸から鹿児島へと戻った頃、京都では尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)を藩論(はんろん)とする長州藩(ちょうしゅうはん)の動きが盛んになっていました。
長州藩は三条実美(さんじょうさねとみ)らの急進派の公家(くげ)と結んで朝廷に働きかけ、将軍の上洛(じょうらく、京都に入ること)と攘夷の決行とを幕府に対して強く迫(せま)りました。
進退窮(しんたいきわ)まった幕府は、やむを得ず1863年5月10日を期して攘夷を実行する旨(むね)を諸藩(しょはん)に命じました。ただし、攘夷に対する幕府の認識は横浜港の閉鎖(へいさ)を諸外国に通告することであり、軍事行動を目的とはしていませんでした。
ところが、「攘夷=軍事行動」と思い込んでいた長州藩は、5月10日の当日に藩内の下関海峡(しものせきかいきょう)を通過していた外国船を砲撃(ほうげき)して、本当に攘夷を実行してしまいました。これを長州藩外国船砲撃事件といいます。
攘夷を実行して意気が大いに上がった長州藩でしたが、実は公武合体派の薩摩藩も1年前に同じように外国人を攻撃していたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ろっぽん 長州の下関の外国船攻撃で外国船からの砲撃を経験した山県有朋らは外国の力をまざまざと知り
明治維新後に外務大臣就任して
外交の基本である情報収集を一番に掲げ
ネットもなんにもない時代に英米の新聞を取り寄せ翻訳し情報の収集をしてたそうで
その頃、朝鮮との戦争論があったが
スイスの例から朝鮮を中立国にして戦争回帰の案
を提起したそうで、朝鮮出兵の西郷隆盛らと
対立したそうでそして西南戦争が起きるわけ
です。
現在も情勢を単純に見て一部に中国の横暴に対して武力で対抗しろという輩がいることは怖い
です。現在の攘夷は米英でなく中朝だ!
こんばんは
しげちゃん 170,000HITおめでとうございます。
すごい事だと思います。私は学生時代に中国古代史を専攻し、日本史は苦手でした^^;
でも、このブログは解り易く、興味深く読まさせて頂いております。
これからもご教授、よろしくお願いします。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、外国に対抗するには様々な方面から見る目を養う必要があると思います。
闇雲に外国を敵視するのは得策ではありませんね。
しげちゃんさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
170,000HITは一朝一夕には達成できないだけに、嬉しさと責任の重さを実感しております。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
ぴーち おはようございます!
17万HITですか!
あっという間に達成されましたね♪
おめでとうございます!!( ゚Д゚ノノ☆パチパチパチパチ
来年早々にはすぐに20万HITなさいますねー^^
これからも
この勢いで頑張ってくださいね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
皆様のお蔭で最近はずっとハイペースです。
来年3月の3周年までには20万HITを達成できるかもしれません。
ただ、中身が伴わないと意味がありませんので、これからも頑張ります。
大名行列(久光は藩主ではありませんが、実質上の最高権力者で同じ扱いとなります)が通りがかった際には、道を譲(ゆず)って土下座(どげざ)などの礼を尽(つ)くして見送るのが通例なのですが、そのことを知らないイギリス人の一行は、馬に乗ったまま立往生(たちおうじょう)してしまいました。
イギリス人による「無礼(ぶれい)」な行為に怒りが爆発(ばくはつ)した薩摩藩士は一行に襲(おそ)いかかり、一人を殺害するなどの乱暴に及(およ)びました。これを生麦事件(なまむぎじけん)といいます。
自ら攘夷を実行した長州藩に対して、偶発的な事件から結果として攘夷を行った薩摩藩でしたが、両藩ともその後に外国から報復されることになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
これがあの「生麦事件」ですか・・
日本人も外国へ出かける際には、その国の法律・
慣例などを予め予備知識として知っておくべきだとは
思いますが、今でしたらガイドブックなりに親切丁寧に書かれているので良いでしょうが、当時はそんなそんな情報も分からないまま、この様な事態になってしまった事が遺憾に思いますね。
応援凸・・・あれ?一つ増えましたねw
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
「郷に入っては郷に従え」ともいいますし、彼らから見ていくら日本が「遅れた国」だからといって、何でも許されるはずがないのですから、イギリス人の対応に問題があったと思われます。
> 応援凸・・・あれ?一つ増えましたねw
ハイ、増えてしまいました(^^ゞ
今後もよろしくお願いしますm(_ _)m
写真を見たことあります。
晴雨堂ミカエル 事件の惨状を本国に送った報告書の写真を見たことあります。もちろん、当時の駐日英国人が作成した資料で写真も被害者の生々しい遺体を写しています。
下から頚へ斬ったのか、綺麗な切り口で鼻から下が無くなっていました。日本刀の鋭利さを判る写真です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、日本刀の斬れ味は凄まじいといいますからね。
それだけ事件の衝撃が大きかったのかもしれません。
1863年8月18日、薩摩藩と藩主の松平容保が京都守護職を務めていた会津藩の両藩は、同じ公武合体派の公家とともに朝廷における実権を奪(うば)い、三条実美らの公家や長州藩の急進的尊攘派を京都から追放することに成功しました。これを八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)といいます。
この動きに前後して、同じ1863年に公家の中山忠光(なかやまただみつ)や土佐藩士の吉村虎太郎(よしむらとらたろう)らが大和五条(やまとごじょう、現在の奈良県五條市)の代官所(だいかんしょ)を襲った天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)や、元福岡藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)らが但馬生野(たじまいくの、現在の兵庫県朝来市生野町)の代官所を襲った生野の変(いくののへん)が起こりましたが、いずれも失敗に終わっています。
さて、京都を追われた長州藩でしたが、諸藩の尊攘派の志士とともに密(ひそ)かに京都に舞(ま)い戻(もど)って勢力の回復を期していましたが、彼らの動きは幕府側の知るところとなり、やがて歴史に残る大事件が起きてしまうのでした。
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ぴーち 天誅組の変、生野の変。
きっと歴史の授業でも一通り習ってはいたんでしょうけれど、私の記憶からはかけらも見つけ出す事が出来ません・・・(^_^;)
大きな事件とは何だったでしょうかね・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 天誅組の変や生野の変は教科書でも欄外で紹介されることが多いですからね。
「大きな事件」も実は欄外であることが多いのですが、インパクトが全然違うんですよ。
何かといいますと…。
しかし、彼らの動きは京都守護職である松平容保が預かる新選組(しんせんぐみ)の知るところとなりました。新選組は武器の調達や情報活動をしていた尊攘派志士の古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕まえ、彼を厳しい拷問(ごうもん)にかけて自白(じはく)させたと伝えられています。
クーデターの全容を知った新選組は会津藩や桑名藩(くわなはん)に連絡して共同で攘夷派の志士を探索(たんさく)しようと考えましたが、いくら待っても両藩の部隊が来なかったので、新選組局長の近藤勇(こんどういさみ)や副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)らは新選組のみの少人数で勝手に探索を開始しました。
一方、古高が新選組に捕えられたことを知った尊攘派の志士たちは善後策(ぜんごさく、後始末をうまくつけるための方法)を講じるために京都三条木屋町(きょうとさんじょうきやまち)の旅館である池田屋(いけだや)に集まっていましたが、志士たちは池田屋が怪(あや)しいと突(つ)き止めた近藤勇の一行が次第に近づいていることに気が付いていませんでした。
時は1864年6月5日の午後10時頃、祇園祭(ぎおんまつり)の賑(にぎ)わいの余韻(よいん)が残る蒸(む)し暑い夜であり、祭の雰囲気(ふんいき)に似つかわしくない激闘(げきとう)が始まろうとしていました。





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まり姫 こんにちは☆
新選組のことなので一言だけ。
池田屋事件のことで新選組は浪士たちがどこに集まっているか情報を得ていたわけではありません。
近藤と土方の二手に分かれて手当たり次第探索して、偶然池田屋で近藤たちが発見したものです。
ちなみに山崎烝が池田屋に潜入していたというのも事実ではなくまったくの創作です。
まり姫さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、池田屋事件に関しては創作の部分が多いことが明らかになってきていますね。
そのような事情を考慮して、今回の更新においても事件の概略に関しては断定した表現を避けております。
当時の資料が少しずつ明らかになることで、例えば第二次大戦において旧日本軍を非難するだけで完結するような事情では決してなかったことなど、歴史の真実が見えてくるのは喜ばしいことですね。
ぴーち おはようございます!
なるほど!やっと回路が繋がりました♪
昨日のお話の事件が、
この大きな事件へと発展していくのですね!
最後の3行は、何やら
活動弁士の様な語り口調を連想させていただき、
ワクワクしました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
歴史に残る大事件には必ずと言っていいほど伏線があるものです。
> 最後の3行は、何やら
> 活動弁士の様な語り口調を連想させていただき、
> ワクワクしました^^
ご期待に添えるかどうか分かりませんが(笑)、続きをぜひご覧ください!
「御用改(ごようあらた)めである!」
近藤らは正面から斬り込(こ)み、尊攘派の志士らとの間で大乱闘(だいらんとう)が繰(く)り広げられました。途中(とちゅう)で沖田が病(やまい)を発して戦線を離脱(りだつ)するなど近藤らは苦戦しましたが、別働隊(べつどうたい)の土方らが到着すると形勢(けいせい)は一気に逆転しました。
最後には会津藩や桑名藩の部隊が到着して志士らは壊滅状態(かいめつじょうたい)となり、宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら多数が戦死した一方で、新選組の名は天下に轟(とどろ)くようになりました。この激闘は池田屋事件と呼ばれています。
なお、長州藩士のうち桂小五郎(かつらこごろう、後の木戸孝允=きどたかよし)も池田屋にいましたが、到着(とうちゃく)が早かったために一旦(いったん)外出した後で新選組が襲ったため、難を逃(のが)れています。
池田屋事件によって尊攘派の逸材(いつざい)の多くが失われたことで後の明治維新(めいじいしん)が1年は遅(おく)れたとも、逆に尊攘派の反発を強めたことで維新が早まったとも言われています。





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むね 黒田裕樹さん様。
こんばんわ
ご覧頂き有り難う御座います。
今後とも宜しくお願い致します。
のっぺらぼう むね
むねさんへ
黒田裕樹 こちらこそ当ブログまでお越しくださって有難うございます。
貴ブログの今後の展開を楽しみにしております。
ぴーち おはようございます!
事件が起きた場所や、そこで繰り広げられた
会話や行動の一部始終を全て現代に再現しようとすれば、それはあくまで想像の部分が付いて回るのは致し方ないものですね。いくら証拠物件が揃っていても、完璧に復元しようとするのは不可能であるように思います。よく警察の科学調査で頭蓋骨から亡くなられた人物の顔の復元を粘土などで肉付けしていきますが(今はコンピューターなどが活躍している様ですが)大方の特徴は再現出来ても、目の二重や一重という部分は骨からは容易に推測が不可能であると聞いた事があります。その人の出身地などを考慮して関西地区でしたら、一重が多い・・などと推測し、決定しているという事ですが、目の印象というのはかなり重要な部分にも関わらず、やはり証拠がそこに存在しても、憶測や脚色によってそれが事実であるという証拠として残されるものは多々あるものだと思います。
そう考えると、完璧な歴史の事実というのは、本当に存在するのでしょうか。。?誰かの想像の部分が自然と肉付けされながら、いまに伝えられてしまっている事も多く、人はそれをほんとうの事だと信じるしかありません。実際にその場面を目にした人が現存している訳ではありませんから・・。しかしながら、多少の脚色、会話や行動、場所のブレはあっても、やはりそこで命を落とす者と、免れるものとの運命は変えられないというのは事実なようで・・(^^ゞ
長々と失礼しましたm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、冷静にご分析いただきまして有難うございます。
仰るとおり、過去の歴史上の事件については当事者でもない限り100%の分析は到底不可能ですから、どうしても史料に頼らないといけない部分があります。
ただ、史料の分析については「当時の一般的な判断」を無視した「作者の独断による見解」が見られることもありますので、注意が必要ですね。
いずれにせよ、視野の広い総合的な判断が求められると思います。私も日々勉強ですね。
両者による激しい戦いは会津藩や薩摩藩らの勝利に終わり、長州藩は敗北して久坂玄瑞(くさかげんずい)らが戦死しました。この事件は京都御所の御門(ごもん)付近で激戦が行われたことから、禁門の変(きんもんのへん)、または蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)と呼ばれています。
翌1864年8月、禁門の変によって朝敵(ちょうてき)とされた長州藩に対し、幕府が諸藩を動員して討伐(とうばつ)の軍を起こしました。これを第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)といいます。
幕府に攻められ苦悩(くのう)する長州藩でしたが、さらに追い打ちをかけるかのように同じ1864年8月、先の長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国が下関を砲撃(ほうげき)して占領(せんりょう)するという事件が起きました。これは四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)と呼ばれています。
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ろっぽん 単細胞だと思う!
軍事的には当時の藩では一番強大だったが
理性的に冷静に情勢を分析する人物がいなかったので西南戦争で滅ぼされた
はじめ薩摩は幕府よりですよね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 そうですね。
新政府における薩摩閥は、いずれ紹介する征韓論で敗れ、その後の西南戦争で長州閥に屈することになります。
幕末までは幕府寄りから倒幕に切り替えるなどうまく立ち回ったのですが…。
大久保利通
ろっぽん 薩摩出身でも大久保利通がいますけど
藩よりというより政府よりですね。
薩摩藩の時も長州出兵に反対して
西南戦争でも政府側についてる
西郷隆盛との違いは西郷は藩という体制の維持
という封建的体質が残っていた
大久保は外遊の経験などから知識があったこと
などから西郷と対立したんでしょうかね
テレビドラマなどでは西郷が大久保に政府につけと諭して鹿児島の県民の配慮がありましたが
諭したのは本当ですか。
ろっぽんさんへ その2
黒田裕樹 ネタバレになりますのであまり詳しくは説明できませんが、大久保と西郷との対立に仰るような背景があったというのは十分考えられると思います。
テレビドラマの場面が真実かどうか私は詳しくは存じ上げませんが、二人の友情のことを考えればあってもおかしくはないですね。
薩摩藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この時の薩摩藩は、まさに歴史のキーパーソンで
どちらかと言えば、長州は、弱者ですね。
西南戦争後も、有能な薩摩藩出身の政治家・軍人
が輩出されています。
もし、西南戦争が起らなければ、明治政府の中枢に薩摩閥が君臨したでしょうね。
個人的には、西南戦争が起こらず、その兵力を日露戦争に使えたら、良かったと思っています。
西南戦争については、これからのブログの更新で
お話していただけるのですね。
青田さんへ
黒田裕樹 この頃は体制側について思いどおりの政治を行う薩摩藩に対して、長州藩は敵役になってしまっていますからね。
西南戦争については時機を見て紹介します。
なおまゆ 長州人としては、辛い時期です。幕末は、多くの血が流れました。長州も多くの人材を喪いました。その後、紆余曲折を経て、現代に到ってますが、自分の国を想う心、どこへいったのでしょうか?
少しずつ盛り返しつつある気はしているのです。
歴史を振り返るとき、忘れてはならないことは、多くの人が国を想い死んでいったことですよね。
それにふさわしい国づくりをしたいものですね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、長州藩にとって試練の時期ですね。
久坂玄瑞など優秀な人材が次々と失われた頃でもあります。
昔の人々は貴重な同胞を失っても、それに負けじと更なる努力を続けました。
当時の気概を今こそ見習いたいものです。
管理人のみ閲覧できます
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攘夷に対する欧米列強の報復を受けた形になった長州藩でしたが、実は薩摩藩も同じような報復を1年前に受けていました。
1862年に起きた生麦事件に対する報復として、1863年7月にイギリスの軍艦が鹿児島湾を攻撃していたのです。この戦いは薩英戦争(さつえいせんそう)と呼ばれています。
四国艦隊下関砲撃事件や薩英戦争によって列強の実力を思い知らされた長州・薩摩の両藩は武力による攘夷が不可能であることを悟(さと)り、外国から学びながら力を蓄(たくわ)える道を選ぶことになりました。いつの世も、人間は実際に経験しないと本質が理解できないのが宿命なのかもしれませんね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 特に失敗や負け戦を経験しないと理解できないのが人間です。
いまNHKで「坂の上の雲」を放送しています。舞台は日本海海戦。日露戦争を指導していた人々はまさに青年期少年期に下関戦争や薩英戦争を体験しています。
そして日露戦争の勝利を経験した若者たちは、のちに第二次世界大戦を指揮して敗れます。
ぴーち おはようございます!
仰る通り、やはり実際に経験しないと分からないというのが人間の愚かさでもありますね。
例えば、じぶんが経験した事がない病気による痛みなどでは、3年経っても理解出来ないように、
実際に自分が経験してみて、初めてその苦しみが
理解出来るようになる。。
ある意味、その人の人生において、病気になることもありがたい?経験なのかも知れませんね。
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに歴史が証明していますね。
第二次大戦の敗北から66年経ちますが、その時の経験を現代は活かすことができるのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。病気もまた一つの経験です。
できればかかりたくないですが、かかってからどう過ごすかによって人生に大きな違いが出てくると思います。
マンパワー
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
黒田先生の言われるように、やはり、体験に優る
学習は、ありませんね。
この時の長州藩、薩摩藩は、実際に外国と戦って
痛い体験をしました。
それとこの時のマンパワーには、驚きます。長州藩は、圧倒的に不利なのに
それでも長州は、滅びませんでした。
そして、日露戦争の時も圧倒的に不利なのに
薩摩・長州出身の優れたリーダーの力で、負けませんでした。
どれだけ、ハードの面で、劣っていても、マンパワーがあれば、困難を乗り越えるという証明ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この頃の我が国は、薩長や幕府を問わず優れた人材が綺羅星のごとく存在していました。
だからこそ薩摩や長州が激しい攻撃を受けても生き残ったのですが、人材についての詳細は近日中に紹介させていただきますので、今しばらくお待ちください。
凄いぞ!日本人
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
明治の日本人を観たアメリカの記者は、こういう言葉を残しています。
『この国は、驚きの連続だ。西欧が百年かけて創った政治体制・軍事技術・科学技術などをわずか数年で、吸収し、自分のモノにしている。』
今まで、当たり前と思っていましたが、これは、もの凄いことなんですね。
その凄さをこれから、ブログの更新で、観れるのは、今から、ワクワクします。(●^o^●)
余談ですが
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
思いだした名言があります。
『体験に勝る学習は、この世にはない。
しかし、体験ほど痛みを伴う学習も、この世にない。』
今年の日本は、本当に痛みを伴う体験を多くの人間がしました。
この体験をしっかり学んで、同じような国難の時には、痛みを伴わないようにしたいですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、当時の日本人は総力を挙げて西洋に追いつこうとしました。
しかし、その一方で多数の血が流れ、また幕府の失政によって様々な苦労もしました。
多くの国難が起きたこの一年。
日本人は立ち直ることができるのでしょうか。
1865年9月、列強は兵庫沖にまで軍艦を進め、未だに達成していなかった兵庫の開港と、安政の五ヵ国条約の勅許(ちょっきょ)を強く要求しました。これを兵庫開港要求事件(ひょうごかいこうようきゅうじけん)といいます。
列強の圧力に屈(くっ)した朝廷は、ついに条約の勅許を与えました。勢いを得た列強は、返す刀で翌1866年に幕府と交渉して改税約書(かいぜいやくしょ)を結ばせることに成功しました。これは安政の五ヵ国条約で定めた平均20%の輸入税を一律5%に引き下げ、結果として諸外国に有利となるものであり、我が国にとっては安い輸入品が大量に出回ることで国内の産業や経済に大きな打撃(だげき)となってしまいました。
なお、当時の首都である京都御所に近い兵庫の開港は朝廷の反対が強く、1867年になってようやく勅許が与えられています。
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ぴーち おはようございます!
この当時も、やはり外国からの圧力に屈して安い輸入品が出まわり経済に打撃を被っていたわけですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 関税自主権を我が国が持っていなかった弊害が、この際に一気に明らかになったわけですね。
条約を結んだ以上は仕方がないとはいえ、今更ながら当時の幕府の国際感覚の無さが問題視される出来事ではあります。
イギリスの駐日公使(ちゅうにちこうし)のパークスは次第に幕府政治に不信感を持つようになり、攘夷から開明政策(かいめいせいさく)へと転じるようになった薩摩藩や長州藩が、幕府を倒して天皇中心の雄藩連合政権(ゆうはんれんごうせいけん)を実現することに期待を寄せていました。
一方、フランスの駐日公使であるロッシュは、イギリスに対抗する意味もあって幕府支持の立場を続けました。
そんな両国の姿勢に対し、薩長や幕府は支援そのものは喜んで受けたものの、身に余(あま)る過剰(かじょう)な肩入れは断りました。幕府を、あるいは薩長を倒す際に外国の力を頼り過ぎると、事後に外国からの法外な干渉を受ける可能性があることが分かっていたからです。
こうした両国との絶妙なバランス感覚が、幕府が倒れた後も我が国が欧米列強の植民地になることなく、明治維新を迎えることができた大きな要因となったのでした。





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ぴーち おはようございます!
外国からの内政干渉も行き過ぎると確かに
厄介ですが、その事を教訓に日本が自立に向けての
旗揚げが出来たことは、結果としては良かった訳ですね。もちろん、良い結果に導いたのは紛れも無く日本独自の考え方が功を奏したのでしょうけれど。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、本文中にもありますように支援を受ける範囲を限定したあたりが巧妙だったと思います。
薩長も幕府も、いくら相手が憎らしいからと言って英仏の軍隊までは借りませんでしたから。
もしそうなっていれば、見返りに我が国の領土が奪われていたでしょう。
それこそ「売国奴」です。現代にもいそうですが…。