公武合体の象徴(しょうちょう)として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)を迎(むか)えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえって逆効果になってしまいました。
なぜなら、この図式は長幼の序(ちょうようのじょ、年長者と年少者の間にある一定の秩序)から見て「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」ことにつながってしまうからです。事実、この後幕府は朝廷から攘夷(じょうい)の実行を約束され、その対応に苦労することになりました。
また、家茂と和宮とのいわゆる政略結婚(せいりゃくけっこん)は尊王攘夷派(そんのうじょういは)の強い反発をもたらし、安藤は1862年1月に江戸城の坂下門外(さかしたもんがい)で水戸藩の脱藩浪士らに襲われ負傷してしまい、その後に老中を退(しりぞ)きました。この事件を坂下門外の変といいます。




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晴雨堂ミカエル たしか室町幕府六代将軍足利義教も恐怖強権政治を行って暗殺されましたね。
末期的になると気持ちに余裕がなくなり、強権に走ったり、目前の対処に気をとられて二歩三歩先が見えなくなり、判断ミスをします。
幕府は19世紀初頭の段階で抜け殻だったかもしれません。それでも黒船の外圧がかかるまで持ちこたえたのは、さすが権現様がつくった政治機構です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 足利義教については以前に通史で紹介しましたね。確かに恐怖政治に走って哀れな最期を遂げています。
江戸幕府については仰るとおりだと思います。武力政権が武力を失えば「死に体」同然でしょう。
水戸藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
『桜田門外の変』『坂下門外の変』も
幕府の事実上の最高責任者である大老、老中が
襲われるという事件ですが、この両方の事件とも
水戸の脱藩浪士が起こしたことです。
いくら尊王攘夷の藩とはいえ、同じ徳川一門の
御三家の藩士が行うとは、
徳川家康の徳川家が未来永劫続くための血のセーフティーネットが、違う意味で、崩れてくる予兆ですかね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 徳川家が未来永劫続くための血のセーフティーネットが、違う意味で、崩れてくる予兆ですかね。
朱子学→水戸学に凝り固まった水戸藩の宿痾(しゅくあ)とでもいうべき尊王主義ですね。
もっとも、だからこそ慶喜のような将軍が現れて…って、これもネタバレ(爆)。
この時期は、回答の仕方にも注意が要りますね(^^ゞ
本物の講座なら合間にいくらでも答えられますが、通史においては同じノリでは厳しいかもしれません(´・ω・`)
1862年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました。この意向を受け、幕府は一橋慶喜を将軍後見職(しょうぐんこうけいしょく)に、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、会津藩主(あいづはんしゅ)の松平容保(まつだいらかたもり)を新設の京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任じました。
この他、幕府は同時に参勤交代(さんきんこうたい)を三年に一回に縮小(しゅくしょう)したり、大名の妻の帰国を認めたり、西洋式の軍制を採用したりしました。これらの改革は当時の年号から文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)と呼ばれています。
さて、これらの改革の中で特に不思議なのは京都守護職です。なぜなら、そもそも京都には京都所司代(きょうとしょしだい)という別の役職が存在していたからです。それなのに、なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。




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ぴーち こんにちは!
>なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
全く見当もつきません・・・(^_^;)
明日の記事に答えがあるんですか?
是非、楽しみにしています^^
応援凸
幕府の弱体化
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この文久の改革は、危機的状況ですね。
というのも、この改革は、幕府内部ではなく
薩摩藩の進言によるものであることが驚きです。
薩摩藩が、いくら、財政改革に
成功したと言えども
外様大名のたかが60万石です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 明日の記事に答えがあるんですか?
> 是非、楽しみにしています^^
もちろん回答しますよ(^^♪
明日もぜひお越し下さいm(_ _)m
青田さんへ
黒田裕樹 当時の薩摩藩は篤姫(天璋院)によって幕府とは縁戚であったことが大きいですね。
それ以前に幕府が諸藩の意見を聞くまでに弱体化していたこともありますが。
武家政権に協調は有り得ないということなのでしょう。
今の政治
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今の政治のように地方から、中央を変えるというのは、
面白いですね。
◆ 中央の朝廷にたいして、鎌倉といういわば
地方から、政治を変えた源頼朝
◆ そして、幕末。。。
ネタバレにならないように、ココで、止めておきますね。
もちろん、国政は、大事ですが
個人的には、東京(国の政治)よりも、地方都市が頑張ることで
今の日本を元気にして欲しいと思うように最近、なりました。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにそうですね。
さしあたっては私が住む大阪に期待でしょうか…。
薩摩藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
やはり、薩摩藩は、江戸幕府が初期の段階で
潰しておけば、こういうことには、成らなかった気がします。
江戸時代、創業期に親藩、譜代、外様の大大名を
難癖をつけて、取り潰しましたが、
島津だけは、アンタッチャブルでした。
たとえば
それどころか、一国一城令を無視した外城制で
鶴丸城を囲んで、外城が113もありました。
→ 福島正則の城の無断改築どころではない
武家諸発度違反です。
これは、結果論ですが、徳川家康時代は、仕方ないにしろ、
秀忠、家光時代にどんな汚い手を使っても
薩摩藩を潰しておくべきだったと思います。
考えられる理由として
(1) 見えないところで、潰そうと画策したが、結局、薩摩藩のほうが一枚も二枚も上手だった。
(2) 逆に太平な時代が進んで、他の武断派大名が
弱っていくのに、薩摩藩だけは、最強軍団の様相だったので、江戸幕府も手を出したくなかった。
島津攻めは、大阪の陣どころではないほど、難しいと考えた。
と考えました。
あれだけ、完璧主義で、少しでも、危険な芽を摘んでおく、徳川家康の失策ではないでしょうか。
(自分の代では、無理にしても)
オバrev これはもう幕府の権力が地に落ちたことを世に晒してしまいますね。
京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
青田さんへ その3
黒田裕樹 昨年の11月の第20回歴史講座でも紹介しておりますが、家康は薩摩藩を潰したくても潰せなかったんですよね。
その後も隠密を何度も薩摩へ送りながら、生きて帰ってくることはなかったという話ですし。
当時の日本の一番南で、江戸幕府の監視の目が最も届きにくかったという地理的環境もあったのでしょう。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これはもう幕府の権力が地に落ちたことを世に晒してしまいますね。
全くそのとおりです。外様の一大名の言うことを幕府が聞く、という段階で事実上終わっていますね。
> 京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
確かに厳密に言えば役割が違いますが、そもそもは京都所司代でカバーできるはずなのです。設立当初ならば…。
だからこそ新たに京都守護職が必要となり、また京都守護職の保護を受けた、本来ならば下級武士や浪人などの集団に過ぎない新選組(しんせんぐみ)が京都において活躍する原因にもなったのです。幕府による平和ボケはこんなところにまで影響を及(およ)ぼしていたということになりますね。
ちなみに松平容保が京都守護職に選ばれた理由は、会津藩の始祖(しそ)である保科正之(ほしなまさゆき)が残した「会津藩は将軍家を守護すべき存在である」という家訓(かくん、守るべきものとしてその家に伝わるいましめや教えのこと)があったからだとされています。容保が京都守護職を引き受けたことによって、会津藩は幕府と運命をともにすると同時に、幕府の崩壊(ほうかい)後に大きな悲劇を経験してしまうことになるのでした。
なお、文久の改革における政事総裁職は「政治」ではなく「政事(=政治上の事務のこと)」ですので注意が必要です。また、京都守護職の松平容保は「堅(かた)い守り(=守護職)の容保(かたもり)さん」と覚えれば良いでしょう。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※明日[12月2日]からは第27回歴史講座の内容の更新を開始します)




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ぴーち こんにちは!
そうですか・・
改めて「政治」という文字の意味を
考えさせていただくと
国家を正しくおさめと言う意味ですものね。
正しくおさめることが基本であるとすれば、
その基本すら滞ってしまうような政治のあり方は
やはり適任ではないということですものね・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「治める」ことと「事務」とでは全く異なりますからね。
現行の政治は「事務」どころか「政治屋」になってしまっているところがさらに問題かと思われます。
先の大阪の選挙結果が如実に表しているのではないでしょうか。
ショック療法
青田です。 黒田先生、ぴーちさん
こんばんは
青田です。
政治家かが、単なる事務屋になり
平和ボケになると、
今度の大阪のW選挙のようなショック療法でないと状況は、打開できないのかもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそう言えますね。
彼らにとっては黒船以上のショックかもしれません。
幕府は気づくのが遅すぎましたが、現状はどうでしょうか?
なおまゆ 幕末の会津藩の動きは、『節義』を考えさせられますね。あそこまで、攻める必要はなかったと思っています。凄惨なあの戦いで多くの人材が亡くなりました。白虎隊の少年達が生きていれば、どれ程国家に貢献してくれたか・・・。戊辰戦争は必要なかった。
幕府がしっかりしていれば・・・・、もっと平和に政権移譲ができたと思います。
悔しい戦争でした。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 会津戦争は残念な出来事でした。年末時代劇でも有名になりましたね。
幕府の失政が招いた悲劇だとも言えます。