薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)らの有力な大名は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考えて、前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)の実子で御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推(お)していました。
一方、彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)などの譜代大名(ふだいだいみょう)らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼(おさな)かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。慶喜を推す一派(いっぱ)を一橋派、慶福を推す一派を南紀派(なんきは)といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていた1858年4月、将軍家定が重態(じゅうたい)となると、南紀派の譜代大名らの後押(あとお)しもあって井伊直弼が大老(たいろう)に就任しました。井伊は6月に勅許が下りないまま日米修好通商条約の締結(ていけつ)を決断し、同月には次期将軍候補として徳川慶福を決定するなど、強権的な政治を行いました。なお、慶福は名を徳川家茂(とくがわいえもち)と改め、家定の死を受けて同じ1858年に13歳で14代将軍に就任しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
無知極まりない発言で申し訳ありませんが(^^ゞ
慶喜は、家定の実子では無かったのですね。
江戸時代というのは、この家定の例の他にも実子が将軍を継承出来なかった時代があったのですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸時代に実子が将軍を継承出来なかった場合は結構ありますよ。
4代家綱→5代綱吉(弟が継承)
5代綱吉→6代家宣(甥が継承)
7代家継→8代吉宗(御三家が継承)
10代家治→11代家斉(御三卿が継承)
13代家定→14代家茂(御三家が継承)
ちなみに、この後の
14代家茂→15代慶喜も御三卿が継承(実質は御三家)したことになりますね。
オバrev 歴史的史実の背景には、様々な状況や人間関係が絡みあって、必然的に決まってくるものなのかと思います。
この将軍継承についても慶喜が先だった場合は、その時の状況からまた大きく歴史が変わらざるをえなかったんじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そうですね。
井伊直弼のような政治家がいなければ、すんなりと慶喜が将軍になっていたかもしれません。
ただし、幕府の崩壊がもっと早かった可能性もありますし、何とも言えないですね。
特に前水戸藩主の徳川斉昭や当時の水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)・尾張藩主の徳川慶勝(とくがわよしかつ)・越前藩主の松平慶永らは、江戸城(えどじょう)への登城日(とじょうび)でもなかったのに「押しかけ登城」を行い、井伊を激しく問い詰(つ)めました。
しかし、井伊には井伊の言い分がありました。彼は開国という国家の存亡(そんぼう)にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の先人(せんじん)たちが無責任にも先送りしてきたツケを一気に支払わされただけという立場でもあったのです。
加えて、条約反対派あるいは攘夷派が「外国人など我が国から追い出せばよい」と口先では威勢(いせい)のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのか、という問題に対しては口をつぐんで答えようともしないという有様(ありさま)も井伊を苛立(いらだ)たせました。
反対派や攘夷派の余(あま)りもの無責任さに怒りが爆発した井伊は、幕府大老という自分の立場を活用して彼らに対する大粛清(だいしゅくせい)を行う決意を固めました。1858年から1859年にかけてのこれらの弾圧(だんあつ)を安政の大獄(あんせいのたいごく)といいます。




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晴雨堂ミカエル 井伊はたしか14男の庶子でしたか。本来なら家督を継ぐ立場になく、養子のもらいても無く、毎日が日曜日状態。
家督を継ぐはずがないから、馬術や武術の鍛練も思いっきりできたそうで、学問や趣味も極め、彫刻や絵画も玄人肌だったとか。
30代前半まで部屋住みでしたから、現代でいうモラトリアム学生みたいなもの。それが大老を輩出する四位家格の彦根藩を継ぎ、幕府の実務トップになる、そのとき44歳です。
突然、のしかかった重圧、そうとう苦しかった事でしょう。
時代劇はもっと若い俳優にやらすべきですね。六角精児あたり。還暦俳優より40代の俳優がやれば、ふりかかったストレスが表現できるものを。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 そういえばドラマでの井伊はベテラン俳優ばかりですね。
確かに見ごたえがありそうです。
近江牛。
晴雨堂ミカエル 彦根藩は将軍家に近江牛の肉を献上していたらしいですね。漢方では精力増強の効果があります。それを精力旺盛で生薬好きの水戸斉昭も所望で彦根藩からもらっていたようですが、井伊大老は水戸への贈呈を取り止めたのが、両家対立のベースにあるとの下ネタがあります。
事実ですか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 その話は私も聞いたことがありますが、確たる証拠がない限りは俗説の域を出ないでしょうね。
桜田門外の変の話は明日以降に紹介しますが、近江牛の伝説はこのブログでは取り上げません(笑)。
ぴーち こんばんは!
ドラマや映画の世界では、井伊直弼の話となると何やら悪役として演じられてしまう所があるようですが、こうしてお話を伺っていると、その立場に立たされた者でなければ分からない止むに止まれぬ理由というのが存在し、井伊直弼もその運命に正直に従った人物の一人であったのだなと改めて思いました。
応援凸
なおまゆ こんばんわ。
安政の大獄は、私にとって、辛い出来事です。
松陰先生が処刑されたからです。
井伊大老を恨んだりしませんが、松陰先生には長生きして、教育者になってほしかった。
獄舎の中でも松陰先生は、正しく「松陰先生」でした。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
井伊直弼はそれまでのツケを一気に支払う形で、言わば「泥をかぶる」損な役回りを演じたとも言えます。
ただ、攘夷派を憎むあまりに彼は「やり過ぎ」ました。
彼は自分自身が招いた「ツケ」もやがて自分で支払わなくてはならなくなりますね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お気持ちはよく分かります。
吉田松陰が長生きしていれば、幕末から維新にかけてどうなっていったのか、興味は尽きないですね。
特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死(けいし)するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、井伊による問答無用ともいうべき強権的な処置(しょち)は、結果として多くの人間の恨みを買ってしまいました。
1860年3月3日、旧暦の3月にしては珍(めずら)しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門(さくらだもん)へと差し掛(か)かった井伊の行列に対して、水戸藩を脱藩(だっぱん)した大勢の浪士(ろうし)らが襲(おそ)いかかり、井伊を暗殺しました。この事件を桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)といいます。
桜田門外の変によって、最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態(だいしったい)を演じてしまった幕府の威信(いしん)がますます低下するとともに、自分の意見に対立する人間に対する「血の粛清(しゅくせい)」が半(なか)ば常識化してしまいました。事実、この後明治維新を経(へ)て政情(せいじょう)が安定するまでに、武力による実力行使を伴(ともな)った血なまぐさい事件が日本国中で続発することになるのです。




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ぴーち こんにちは!
昨日のお返事で、黒田さんが仰られていた「やり過ぎ」とは、この事だったんですね。
確かに、これでは恨みを買ってしまう事必至ですね( ´゚д゚`)。
どうしてここまでしなければいけなかったのでしょうか。井伊大老が単なる臆病風に吹かれていただけだったのですか?それとも大きな理由が他に。。?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > どうしてここまでしなければいけなかったのでしょうか。井伊大老が単なる臆病風に吹かれていただけだったのですか?それとも大きな理由が他に。。?
臆病というよりは身勝手な(と井伊が思った)攘夷派に対する怒りが爆発して、それこそ「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という感情にまで至ったと思われます。
あとは、幕府の威信を回復させるために見せしめとした可能性もありますね。
身の丈に合わない「恐怖政治」は組織の崩壊を早めるだけという過去の歴史に気が付かなかったのでしょうか…。
なおまゆ 幕末に吹き荒れる暗殺でどれ程の人材が失われたのでしょうか?多くの人達の死体の上に明治維新が成し遂げられ、今に到っていることを思えば、我々がすべきことは自ずと明らかかもしれません。「正しい歴史観を持ち、此の国を誇りに思うこと」を教育現場で、家庭で、マスコミもきちんと発信していくことだろうと思います。
尤も、学習指導要領という縛りがある教師の立場は辛いものがあるでしょうね。
時代の空気が変わりつつある今、教師の責任はますます重くなっています。黒田先生、是非、頑張った下さい。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な犠牲の上に我が国が成り立っているという歴史の重みを伝えていきたいですね。
学習指導要領を守りながら、自分なりに展開していけるよう今後も努力します。
『井伊直弼』は、悪人か?
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、時代劇ですが
『井伊直弼』=『極悪人』で、
『安政の大獄』=『恐怖政治』のように描かれますが、
これは、あまりにも『井伊直弼』が可愛そうです。
冷静に考えると、徳川幕府の初期の頃は、
◆ 幕府による大名の改易は、普通のこと。
◆ 譜代には、権力(政治)を与えるが、石高は小さい。
逆に、親藩、外様大名には、石高は、大きいが
権力(政治)には、介入させない。
この2つのことから、考えると、外様大名や御三家、親藩といえども、政治に批判的な大名を罰するのは、普通だったと思います。
但し、黒田先生の言われる『橋本左内』『吉田松陰』の単なる思想家レベルの下級武士まで、死罪にするのは、やはり、やりすぎでしたね。
ここで、歴史のifを考えた場合、
① ハリスの圧力に屈せず、井伊直弼が、条約を結ばなかったら、日本の国は、どうなったのか。
② 『安政の大獄』を行わず、そのまま、放置していたら、どうなったのか。
が疑問になりますが、黒田先生は、どうなったと思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 井伊直弼もある意味誤解されている人物ですね。
かつて北大路欣也が演じた「花の生涯」ではそんなイメージはなかったですが…。
ご質問ですが、
条約を結ばない、という選択肢はなかったと思われます。
もしあったとしても、アメリカや他の国から黒船による砲撃を受けて、清国のようにジワジワ侵略されて滅亡していたでしょう。これ以上書くとネタバレになりますので…。
放置したらしたで、幕府は威信を失っていたでしょう。
憂国の志士をせめて長期の受牢処分にしていれば、それほどの恨みを買うことはなかったでしょうし、その後に人材を活用できた可能性も十分あります…って、これもネタバレかも(笑)。