義詮は、父の尊氏が将軍の頃には叔父(おじ)にあたる足利直義(あしかがただよし)や南朝(なんちょう)の北畠親房(きたばたけちかふさ)、あるいは腹違(はらちが)いの兄弟である足利直冬(あしかがただふゆ)に攻(せ)められて京都を奪(うば)われるなど、自身の武力が決して優(すぐ)れているとは言えませんでした。
将軍就任後も南朝に寝返(ねがえ)った執事(しつじ、後の管領=かんれい)の細川清氏(ほそかわきようじ)に一時期は京都を落とされるなど政情不安(せいじょうふあん)が続き、将軍就任前に自分が守っていた関東には弟の足利基氏(あしかがもとうじ)を鎌倉府(かまくらふ)の長官たる鎌倉公方(かまくらくぼう)に任じたものの、基氏自身も南朝の攻撃(こうげき)に悩(なや)まされ続けました。
一方、南朝は1352年に強引にお連れした北朝(ほくちょう)の三人の上皇(光巌=こうごん、光明=こうみょう、崇光=すこう)を京都へ戻(もど)したり、楠木正成(くすのきまさしげ)の子である楠木正儀(くすのきまさのり)から幕府に対する和睦(わぼく)の申し入れがあったりと軟化(なんか)の動きもありましたが不調に終わり、義詮は1367年に38歳の若さで死去しました。
なお、義詮の死去の翌年には南朝を開いた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の子である後村上天皇(ごむらかみてんのう)も崩御(ほうぎょ)され、子の長慶天皇(ちょうけいてんのう)が即位(そくい)されましたが、長慶天皇の治世(ちせい)においては南北朝(なんぼくちょう)の和睦の動きはほとんど見受けられませんでした。





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オバrev 義詮の時代はかなりの政情不安定だったんですね。
これが、私の記憶だと義満の時に室町幕府の絶頂期を迎えると思いますが、それが息子の義教と、どういう政情になるのか、全く知識ありまへん^^;
どういう展開になるか、楽しみにしています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義詮の時代は政情不安が続いて安定したとはとても言えませんでした。
それが義満の時代に絶頂期となりますが、その陰では…。
また義満の子の義教との関係は…。
これからにご期待ください(笑)。
素朴な疑問
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
素朴な疑問なのですが、
北朝が、征夷大将軍として、足利尊氏、足利義詮を任命していたとしたら、
なぜ、南朝も別の征夷大将軍を任命して、南朝が認めた別の幕府を創って、北朝に対抗しようとしなかったのでしょうか。
というのも、朝廷が2つに分かれて、存在していたとしたら、幕府も2つに分かれることも
可能だったと思うからです。
ただ、もし、そうなったら、想像できないくらいの大混迷時代になっていたでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに一理ありますね。
考えられるとすれば、将軍となって幕府を開くということ自体が後醍醐天皇が理想とされた「天皇親政」に真っ向から反する行為であったことでしょうか。
ただ、史実においては後醍醐天皇の子である宗良親王などが南朝の征夷大将軍になっているようですね。
ぴーち おはようございます!
この頃の時代というのは、政に関して
征夷大将軍という存在の権力と、天皇家の権力という2大勢力が、複雑に絡んでいるので、余計に混乱をきたしていた時代でもあった様に率直に思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、鎌倉幕府のように北条氏の権力と皇室の権威とが綺麗に分離していなかったですからね。
しかも朝廷が二つに分離しているのですから、ややこしさに拍車をかけています。
義満は自分の思いどおりの政治を行うため、まずは「子飼(こが)いの軍隊」ともいうべき将軍直属の常備軍(じょうびぐん)である奉公衆(ほうこうしゅう)を積極的に増強し、その費用を捻出(ねんしゅつ)するために山城(やましろ、現在の京都府南部)の土地の一部を奉公衆に与えたり、山城の荘園(しょうえん)の年貢(ねんぐ)の半分を奉公衆に給付するという半済令(はんぜいれい)を出したりしました。
京都において兵糧(ひょうろう)を確保できるようになった奉公衆は一年を通して将軍の近くに常駐(じょうちゅう)できるようになり、結果として義満の軍事的立場も強化されることにつながりました。
こうして自分の足元を固めることに成功した義満は、自分の命令ひとつで動く武力を背景に、内政や外交、あるいは軍事面において強力な政治を行うことになるのです。





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ぴーち おはようございます!
細川氏は追放されたんですか。
これまで代行として任務を遂行してきた人物への
随分の仕打ちのように思います。
それだけ、義満の考え方が独裁主義であったということでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 細川頼之を追放したのは義満ではなく、他の守護大名でした。
それだけ幕府と守護大名の権力に大きな差がなかったということであり、義満が政治の実権を握った際に大きな危機感を持っていたのもうなずけますね。
オバrev やっぱ、この当時の権力の基盤は武力だったんですね。それと調停の権威をどうバランス取るかが難しかったんでしょうか。
ただ武力による後ろ盾がない政権は長続きしなかったんじゃないでしょうかね?
現在の、アメリアの圧倒的軍事力によって世界平和が保たれているのと同じようなもんかな?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武家政権である以上は武力がなければ話になりませんし、長続きもできません。
義満による今後の政策も、武力を背景にしていたからこそ実現できたといえますね。
アメリカの例は私も同感です。
それもこれも、朝廷(ちょうてい)が二つに分かれて争う状態が続いていたのが大きな理由でした。先の鎌倉幕府(かまくらばくふ)や後の戦国時代(せんごくじだい)、あるいは江戸幕府(えどばくふ)など、武家政権の多くは長い伝統に基(もと)づく権威(けんい)を有する朝廷の扱(あつか)いに悩まされてきましたが、それが二つもあってはたまったものではありません。
なぜなら、お互(たが)いに対立している二つの勢力がそれぞれ北朝や南朝を別々に担(かつ)ぐことによってそれぞれが朝廷の後見(こうけん)を得ることになり、争い事がいつまで経(た)っても収拾(しゅうしゅう)がつかなくなるからです。
このため、義満も南北朝が一つになるよう工作を続け、南朝側も長慶天皇から皇位(こうい)を継承(けいしょう)された後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が和睦に応じられたことで、1392年についに南北朝の合一(ごういつ)が実現しました。
南北朝の合一は、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器を譲(ゆず)られて退位されるという形式で行われましたが、そこには義満による巧妙(こうみょう)な罠(わな)が仕掛(しか)けられていました。





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ぴーち おはようございます!
例え、それが巧妙な罠であっても
南北朝という2つの勢力が存在する事が、
頭痛の種であった訳ですから、
義満の功績は多大であった様に思えます。
ニュアンスは違うますが、毒を以って毒を制すの
荒療法が必要な時もあるものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりです。
日本史上においては義満の「功績」は輝かしいものがあったという事実は動きません。
ただ、その一方で「巧妙な罠」の真実を知ることは当時の様々な歴史の流れを理解することにもつながり、非常に重要であると思います。
1.三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ「譲国(じょうこく)の儀式(ぎしき)」で渡すこと
2.皇位の継承に際しては、南北両朝が交互(こうご)に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)を行うこと
3.諸国(しょこく)の国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)を南朝の所有とすること
このうち一番重要なのは1.でした。なぜなら「譲国の儀式」で譲位(じょうい)するということは、後亀山天皇のご在位を、ひいては南朝の後醍醐―後村上―長慶―後亀山という皇位の継承を正式なものとして認めるということを意味していたからです。
また、今後も両統迭立が行われるということは、後亀山天皇の子がいずれは天皇になるということであり、さらに国衙領の所有が認められるのであれば南朝にとってはかなり有利な内容でした。
しかし、それらはあくまで北朝と幕府が約束を守ればの話であり、実は義満は条件のすべてを反故(ほご)にしてしまったのです。





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ぴーち おはようございます!
人間、行く末に不安を感じると、揉め事を起こして、自らの心の平穏を奪い取ろうと思うものですが、最初から、条約として朝廷はこの先安泰であるという約束事が示されてあれば、ひとまずは事なきを得ることが出来ますね。
反故した理由は、どうしてなんでしょかね?
もしも、北朝がこの条約の条件を飲んでくれなかった時に、混乱の矛先が義満に向けられないように、証拠隠滅を図ったのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 反故にした理由は色々考えられますが、有利な条件を示さなければ南朝から三種の神器を「奪う」ことはできないと義満が考えていたからかもしれませんね。
要するに、義満は初めから約束を守る気が全くなかった、と考えれば一番スッキリしそうです。
南北朝の合一の条件のうち、まず皇位の継承の際の「譲国の儀式」は一切行われませんでした。後亀山・後小松の両天皇のご対面もなく、三種の神器が単に宮中(きゅうちゅう、ここでは朝廷の中という意味)に戻ったという形式となったのです。
これでは北朝が「失(な)くした神器を取り戻した」ということになり、南朝の正当性が一切認められないことを意味します。また、退位された後亀山上皇も当初は正式に上皇と認められず、義満の裁定(さいてい)によって「不登極帝(ふとうきょくのてい)」、すなわち「即位していない天皇」に上皇の地位を与えるということになりましたが、即位が認められなければ後亀山上皇が「治天の君(ちてんのきみ)」として院政(いんせい)を行うことができません。
両統迭立の約束も後小松天皇の次の天皇となる皇太子が長い間決められず、義満の死後に後小松天皇の子の称光天皇(しょうこうてんのう)が即位されたことで南朝への皇位継承の道が遠くなり、さらには国衙領もこの頃までには実質的にほとんど存在していませんでした。
要するに、義満は南朝に空手形(からてがた)をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的(さぎてき)なものでしたが、同時に彼の行動によって二つあった朝廷が一つにまとまったことで、それまでの混乱状態から回復して世の中が平和に向かうという皮肉な結果になりました。平和というのは綺麗事(きれいごと)だけでは達成できないという見本のような事実ですね。
なお、義満に「だまされた」形となった南朝の勢力は、後亀山上皇が一時期は京都から吉野へ移られるなど、幕府や朝廷(=北朝)に対して様々な抵抗を続けることになりますが、詳(くわ)しくは後で紹介(しょうかい)します。





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晴雨堂ミカエル 義満は二十歳代前半でたしか内大臣、三十歳前には左大臣へと、戦に明け暮れた尊氏よりもトントン拍子に叙勲しています。
その背景には何があると思いますか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 これから明らかになりますが、義満の母系が大きな鍵を握ることになります。
もちろん、以前に示した奉公衆という武力あっての話になりますが。
ぴーち おはようございます!
まさに雨降って地固まるですねエ・・
地球における数々の生命も、海に波が起こらなければ
誕生出来なかった様に、
波風立てる事は、最初は悪い方向へ
向かうような様相を示しながら、意外と良い結果をもたらすものですよね(^^)v
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、南朝にとってはとんでもない話でしたがそれが結局我が国の混乱が収まる効果をもたらしましたからね。
世の中どう流れるか分かったものではありません。
朝廷工作
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
やはり、政治家としては、足利義満は、
足利尊氏のよりも、一枚も二枚も上手ですね。
これほど、混迷化して、複雑化した南北朝を
を統一するとは
特に朝廷工作の駆け引きは、イイ意味でも
悪い意味でも、見事です。
朝廷工作がここまで、巧妙な武将は、歴史的にも少ない気がします。
(平清盛、藤原氏レベル)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、見事な工作でした。
義満の南北朝への工作は結果的に大成功でしたが、人間の野望というのはとどまるところを知らないというのが正直なところで…というのが今後の見どころになりますね。
1378年、義満は京都の室町(むろまち)に「花の御所(はなのごしょ)」と後に呼ばれた豪華(ごうか)な邸宅(ていたく)を造営し、以後はここで政治を行ったことから、足利氏による幕府のことを室町幕府(むろまちばくふ)と呼ぶようになりました。
また、義満はこの頃までに大きくなり過ぎて幕府の言うことを聞かなくなった守護大名(しゅごだいみょう)の弱体化(じゃくたいか)を目指(めざ)し、1390年に美濃(みの、現在の岐阜県南部)・尾張(おわり、現在の愛知県西部)・伊勢(いせ、現在の三重県北部)の守護を兼(か)ねた土岐康行(ときやすゆき)を滅(ほろ)ぼしました。これを土岐康行の乱といいます。
翌1391年には、西国11ヵ国の守護を兼ね、六分一殿(ろくぶんのいちどの)と呼ばれた山名氏(やまなし)に内紛(ないふん、内輪もめのこと)が起きると、義満はこれに乗じて山名氏清(やまなうじきよ)を滅ぼしました。この戦いを、当時の年号から明徳の乱(めいとくのらん)といいます。
さらに義満は、中国の明(みん)と勝手に貿易を行っていた周防(すおう、現在の山口県東部)の守護大名である大内義弘(おおうちよしひろ)を1399年に滅ぼすことに成功しました。この戦いは、当時の年号から応永の乱(おうえいのらん)と呼ばれています。





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オバrev 義満は、詐欺師でありながら武力も兼ね備え、尚且つ商人としての才覚も兼ね備えているって、あえて例えれば家康みたいな人物ですかね?
ぴーち おはようございます!
ものすごく素朴な疑問で、申し訳ありませんが(^_^;)
室町幕府と言う名称は、当時の人々もそう呼んでいたのでしょうか?
それとも、単に現代に生きる人間が室町に幕府を開いたと言う理由で、それに決めたとか・・?
応援凸
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに家康に似ていますね(^^ゞ
ただ、家康の場合は苦労に苦労を重ねて出世した一方で、初めから将軍の家に生まれた義満という違いはありますね。そして、その違いがやがて大きな流れとなって歴史に現れることになります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > それとも、単に現代に生きる人間が室町に幕府を開いたと言う理由で、それに決めたとか・・?
どちらかといえばこの理由になりますね。
当時は「幕府」という呼び方すらしなかった、という可能性もあります。
中国の皇帝から「国王」に任じられて暦を受け取るという行為は、中国を宗主国(そうしゅこく)と認め、屈辱的(くつじょくてき)な朝貢外交(ちょうこうがいこう)を行うことを意味しました。
これは聖徳太子(しょうとくたいし)以来続いてきた我が国の中国大陸からの独立性を損(そこ)なうものでしたが、義満は自らを「日本国王臣源道義(にほんこくおうしんげんどうぎ)」と称して貿易を行いました。なお、道義とは出家(しゅっけ)した義満の法号(ほうごう)です。
なぜ義満は朝貢外交を受けいれてまで貿易を行ったのでしょうか。主な理由として考えられるのは貿易による莫大(ばくだい)な利益を得るためには対等であろうが朝貢であろうが問題ないという経済重視の姿勢ですが、別にもうひとつの隠(かく)された理由がありました。
実は、義満は自らが「天皇を超(こ)える存在」として君臨(くんりん)するという大きな野望(やぼう)を持っており、明から「日本国王」に任じられること、つまり明からの「お墨付(すみつ)き」を得ることが野望達成の近道になると確信していたのです。





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ぴーち おはようございます!
まさに「悪魔に魂を売る」行為ですね。
そこまでしなければ、野望とは叶えられないものかと思います。いえ、野望だからこそ後先考えない行動を起こさせるのでしょうね。こうして伺っていると、義満という人物は、政治的才覚にあふれた人物では
あったようですが、それは全部自分自身の野望のためにしか、発揮されることのない才能だったことは
悲しくもあります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まさに「悪魔に魂を売る」行為ですね。
そのとおりと言わざるを得ません。
この後、義満は様々な手段で自身の野望達成のために力を尽くすことになります。
それは決して綺麗事で済まされるものではないですが、歴史の事実を冷静に見つめることで私たちは彼の野望の全貌を知ることになるでしょう。
また、義満は自身の太政大臣の就任祝賀式に出席した当時の関白(かんぱく)に対して、自らを拝礼(はいれい)して見送らせました。関白は太政大臣より上位ですから普通に考えれば話が反対ですが、これは義満が当時すでに天皇に近い待遇を得ていたことを間接的に証明しています。
さらに義満は、南北朝の合一の際に後亀山上皇に対して強引に上皇待遇を与えたように朝廷の人事権にまで口出しを始め、天皇の子が出家して入る門跡寺院(もんせきじいん)にも自分の子を次々と入れました。そのうちの一人が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)ですが、彼は後に再び今回の講座に登場します。
義満は太政大臣に就任する直前に征夷大将軍を辞任して子の足利義持(あしかがよしもち)が4代将軍となり、同年には太政大臣を辞職し出家しましたが、依然(いぜん)として政治の実権を持ち続けました。将軍や太政大臣といっても天皇の臣下でしかなく、それらの身分に縛(しば)られない方が自分の野望達成(=天皇を超える存在になること)には都合(つごう)が良いと判断したのかもしれません。





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マリリンカ 黒田先生~今晩は
先日は、コメントありがとうございます~m(__)m
いつも、わかりやすい授業で良いですね~
娘も中間テストが終わり・・・
2人とも、社会科は苦手のようです・・・
何か必勝法でもありませんか・・
上の子は、世界史が苦手のようです((+_+))
マリリンカさんへ
黒田裕樹 必勝法ですか…。
歴史上の出来事に対して「なぜそうなったのか」「歴史上の人物がなぜそのようなことを考えたのか」ということを探ることですね。
出来事をただ単に覚えるのではなく、歴史の大きな流れにそって理解すること。時間はかかるかもしれませんが、これが一番の近道です。
これは日本史も世界史も同様ですね。何とか頑張ってほしいものです。
ぴーち おはようございます!
何時の世も、また何処の国でも
野望の強い人間は、自分が神仏にでもなったかのように人々を洗脳し、また人々が自分の前でひれ伏す事で満足感を得るようですが、人間は決して神仏にはなれないという事を、後々身を持って「天罰」なるものを受ける事になるのでしょうけれど、義満の場合はどうなることでしょう・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「天罰」ですか。
確かに義満の傍若無人ぶりはそれを受けそうですね。
実際に天罰が下るかどうかをじっくり見極めながら今後の展開をご覧いただければと思います。
しかも相国寺は当時の京都御所のすぐ北にあり、天皇がおわす御所の上座(かみざ)の位置に、御所を見下(みお)ろすことができる巨大な建物を造営(ぞうえい)したことになりますが、義満の意図(いと)がどこにあったのかが気になるところです。
また、義満は金閣寺(きんかくじ)と呼ばれる寺院を建築したことでも有名であり、これは現在の鹿苑寺(ろくおんじ)の通称(つうしょう)となっていますが、義満の当時は金閣寺を含(ふく)む一帯(いったい)が北山第(きたやまてい)と呼ばれ、義満の政務地(せいむち)でした。
義満が政務地の象徴(しょうちょう)として建築したのが現在の金閣寺と考えられていますが、その金閣寺は1階が寝殿造(しんでんづくり)で2階が武家造(ぶけづくり、別名を書院造=しょいんづくり)、3階が禅宗様(ぜんしゅうよう)という変わった構造(こうぞう)をしていることでも有名ですね。
実は、この金閣寺の構造にも義満の真意が隠されているのです。





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ぴーち おはようございます!
財力と権力の象徴として人は高い建物を建てたがるというのは、本能的なものなのでしょうか^^
義満の場合は、天皇のわざわざ上座に建立するということで、自分は天皇を超える存在であると言うことを形で表現し、またそうであるということを知らしめたかったのでしょうね^^;
それにしても、金閣寺がそんな構造になっていたとは、存じませんでした( ´゚д゚`)
今更ながら、歴史の初歩的知識すら学んで来なかった自分に腹立たしさを感じます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり本能でもありますし、義満の場合はどう考えても確信犯ですね。
そして義満の根底にあった「思い」は、金閣寺の構造を見ても明らかなのです。
なおまゆ こんにちわ。
いよいよ核心部分ですね。
楽しみにしています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、いよいよ義満の野望が明らかになっていきますので、今後にご注目いただければと思います。
さらにその上の3階の禅宗様は中国風ですが、これは当時明から「日本国王」に任じられていた義満自身を指していると考えられ、義満が「自分は朝廷も幕府も超えた存在である」と自ら宣言しているに等しいことになります。
しかも、金閣寺の屋根には聖天子(せいてんし)が出現するときに世に出るとされる中国の伝説上の鳥である鳳凰(ほうおう)が飾(かざ)られていますが、全国の寺院で屋根に鳳凰があるのは金閣寺の他にはこれを真似(まね)てつくられた銀閣寺(ぎんかくじ)と宇治(うじ)の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)くらいしかありません。
寺院の屋根飾りとしては滅多(めった)に用いられない鳳凰が金閣寺に使用されている理由は、そこを普段(ふだん)から使用する人間、つまり義満こそが聖天子そのものであると自負(じふ)していたからだとは考えられないでしょうか。





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ぴーち おはようございます!
人を欺く事を「ぎまん」と言うようですが、漢字は違えども、義満を音読みするとまさに「ぎまん」。名前からして義満のこれまでの生き方がそのまま反映されているかのようですね(^^ゞ
それにしても、そこまで分かりやすく建物を作ってしまった事に対して、朝廷は黙認していていたのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、これは気が付きませんでした。
確かに意味深な読み方ですね(^^ゞ
朝廷は黙認していた、というよりも「黙認せざるを得なかった」というべきでしょうか。
しかし、そんな朝廷にも我慢の限界が…。
オバrev なるほど~、金閣寺って、昔ただ寝殿造と武家造が混在している珍しい建物とだけ覚えていましたが、そういう意味があったんですね。
それにしても、相国寺といい金閣寺といい、あまりに露骨なやり方は、当然相当な反発を買っていたでしょうけど、なにか清盛とダブって見えてしまいます^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、金閣寺には隠された(というよりも当時の知識人であれば誰でもわかるような)イメージがありました。
確かに露骨ですが、義満の場合は清盛よりもさらに(朝廷にとっては)悪質なことが続くのです。それは…。
黒田先生様
荒野鷹虎 何時もお世話になって感謝いたします。ここ2-3日パソコンの不調でご訪問、コメント、拍手、応援も出来ず、大変な欠礼をお詫び申し上げ致します。今日修正の運びですので、今後とも宜しくお願いいたします。!
引き続き応援させていただきます。!
荒野鷹虎さんへ
黒田裕樹 こちらこそいつもお世話になっております。
私からも引き続き応援致します。なお、同じコメントを二ついただきましたので、一つは削除させていただいたことをご理解ください。
つまり、義嗣は親王と同じ待遇になったのです。ということは、近い将来には義嗣が天皇になり、義満自身は天皇の父、つまり上皇に準ぜられ、治天の君として「天皇を超える存在」となり、我が国をほしいままに支配することになる―。皇室にとってはまさに最大の危機(きき)でしたが、義満の野望は、結局は実現することはありませんでした。
なぜなら、義嗣が元服した直後の1408年に義満は病に倒れ、急死してしまったからです。それまで元気でいたのが急に体調が悪化したことから、義満が天皇を超える存在になることを恐(おそ)れた朝廷などの関係者から暗殺されたのではないかという説が唱(とな)えられています。
その真偽(しんぎ)は定かではありませんが、いずれにせよ自分の野望が達成される直前でこの世を去らなければならなかったのは、義満にとってさぞかし無念であったことでしょう。
なお、義満の死後、朝廷は太上天皇(だいじょうてんのう)、つまり上皇の地位を追贈(ついぞう)しました。幕府はこれを辞退しましたが、皇室とは直接的に縁のない義満に対して、なぜ朝廷が上皇を追贈しなければならなかったのでしょうか。確(かく)たる証拠(しょうこ)が存在しない以上は永遠の謎(なぞ)と言わざるを得ないのかもしれません。





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ぴーち おはようございます!
永遠の謎ですか・・それも歴史のロマンですね♪
死んだ者へのせめてもの、餞のつもりだったのでしょうか。(これで恨みっこなしにして欲しいと)だとすると暗殺した事が事実であると認める事になりますが(^_^;)
或いは、朝廷側の暗殺がもしも事実であった場合は、事の真相を地位を追贈することで、世間の暗殺疑惑を打ち消したい意図があったのでしょうかね?
応援凸
良い悪いは別にして。
晴雨堂ミカエル 私は義満毒殺説を支持しますね。父親とは険悪の嫡男義持と摂関家の共犯によるものと思っています。
義満はただ死んだだけでなく、政策も全て義持によって否定されましたから。ビジョンそのものが消滅したのです。
朝廷が故人となった義満に上皇の称号を贈ろうとして義持が断った様など演出臭い。義満否定の総仕上げの感があります。
仮に徳川幕府のように政策の継続があれば、室町幕府はもう少し長く続いたかもしれません。
皇位簒奪の可能性もゼロではなかったでしょう。足利氏は清和帝の末裔、臣下に下ってから再び皇位に復帰する例は中国にありますし。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義満の急死には謎が多いですね。
上皇の追贈には仰られた理由の他に暗殺した(かもしれない)義満が怨霊と化すのを恐れた、という説もあります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、共犯説ですか。
義満の存在は確かに朝廷と義持にとっては目障りでしたからね。
皇位簒奪までの意思については諸説ありますが、実際になってみればどうなっていたでしょうか…。
特に鎌倉府では、1416年に前の関東管領であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を追放するなどの混乱が起きましたが、翌年には鎮圧(ちんあつ)されました。この争いを上杉禅秀の乱といいます。
このように地方では常に不安があった一方で、幕府周辺においては将軍と有力守護大名とがお互いに権力を主張しながらにらみ合いを続けましたが、これがかえって勢力の均衡(きんこう)を生んだことによって、皮肉にも大きな争いが起きずに小康状態(しょうこうじょうたい)を保(たも)っていました。
こうした中で1425年に5代将軍の義量が19歳の若さで急死すると、父親である義持が代わりに政務をとりましたが、1428年に重病となり、このままでは将軍家の嫡流(ちゃくりゅう、直系の血脈のこと)の血筋が絶(た)えるという危機となりましたが、義持は自らが後継者を決めることをしませんでした。
なぜなら、幕府と有力守護大名との権力に大きな差がなく、将軍の権威も低下していたために、自身が誰を後継としても守護大名などからの反発が必至(ひっし、必ずそうなること)と思われたために出来なかったのです。





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ぴーち おはようございます!
人はどんなに野望を持ち、勢い盛んに生きていても
病の一文字には敵いませんね(*_*;
それにこの頃はまだまだ人の寿命もそう長くは無かったでしょうから、命の儚さを誰もが知っていた分、物事の判断も行動も素早く、一触即発的な問題にすぐに発展していったのでしょうかね・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人生は儚いものです。
それだけに生きている間に野望を達成しようと躍起になるのかもしれませんが、今回の場合は余りにも幕府の権力が弱すぎましたね。今後はどうなるのでしょうか…。
そして、1428年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封(かいふう)した結果、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)が選ばれました。
義満がかつて自分の権力強化のために門跡寺院(もんせきじいん)に自分の子を次々と送り込(こ)んだことが、こんなところで役に立ったのです。将軍に選ばれた義円は直(ただ)ちに還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)し、名を義宣(よしのぶ)から後に義教(よしのり)と改めました。
後の世で「籤引(くじび)き将軍」と呼ばれた6代将軍の足利義教の誕生(たんじょう)です。





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オホーツクのリンゴ屋 黒田さん、こんにちは。この時代は大河ドラマなどでも取り上げられることが少ないので、興味津々です。以前に神奈川県厚木市に住んでいたことがありまして、隣の伊勢原市に太田道灌が暗殺された場所近くに石碑や、お墓(首塚?)もありました。太田道灌が主君に忠実な性格でなかったなら北条早雲より早く戦国大名になっていたのかな?などと空想を膨らませて楽しんでおりました。済みません、道灌は6代将軍より少し後の時代ですよね。戦国時代に繋がるモヤモヤと良く分からない室町時代、何で戦国時代になってしまったのか?など興味は尽きません。今後の御研究を楽しみにしています。
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オホーツクのリンゴ屋さんへ
黒田裕樹 こんにちは、お言葉有難うございます。
確かに大河ドラマでは取り上げられない内容ですね。
地味ということもありますが、それ以上に分かりにくいのもあるかもしれません。
太田道灌については今回の講座では特に紹介しませんが、謎の多い北条早雲との関連が興味をそそりますね。
また後日の機会で取り上げられればと思います。
ぴーち おはようございます!
なるほど、全責任を天に任せることにした。
これも亡き義満の怨みを幕府に向けさせない為の苦肉の策だったのでしょうかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もありますね。
運を天に任せた結果、室町幕府の運命はどうなるのでしょうか…。
まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤(うるお)すと、その財力で奉公衆を整備して将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現しました。
次に義教は、宗教勢力の掌握(しょうあく、自分の思いどおりにすること)を目指しました。将軍就任以前は天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、義教は今までの将軍とは違って宗教に対する畏怖(いふ、恐れおののくこと)を全く感じていなかったのです。
義教と延暦寺とはやがて内戦状態となりましたが、義教が最後までぶれることなく、厳(きび)しい姿勢を崩(くず)さなかったため、絶望した延暦寺は1435年に総本堂(そうほんどう)である根本中堂(こんぽんちゅうどう)に火をかけて多数の僧が焼身自殺(しょうしんじさつ)するという騒(さわ)ぎになり、結果として義教は宗教勢力をも完全に支配下に置くことに成功しました。
比叡山延暦寺の焼き討(う)ちといえば織田信長(おだのぶなが)が有名ですが、それよりも100年以上も前に武力によって延暦寺を支配した将軍がいたことは意外にも知られていません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
義教がポジティヴな性格であった為に
事態は思いもよらない成果を齎した様ですね(^^ゞ
恐れを知らない心は時として一番の武器になり得ましょうが、失敗した時のダメージも大きいのでしょうね。義教の場合は、果たすべき任務を達成できた事は、神を味方につけたというよりも、義満の(怨念)野望がのり移った為に成し得た事のようにも思いました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、義教の隠された一面が歴史を動かしたのかもしれませんね。
いずれにせよ、上に立つ者のリーダーシップが存分に発揮されたといえそうです。
永享の乱の後の1440年には、持氏の遺児(いじ)を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙兵しましたが、義教はこれらも滅ぼしました。この戦いを結城合戦(ゆうきかっせん)といいます。
こうして鎌倉をも自分の支配下に入れた義教の権力は絶対的なものとなり、古代の盟神探湯(くかたち、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽=しんぎを判断するという神判=しんぱんのこと)を復活させたり、些細(ささい)なことで激怒(げきど)して死罪などの厳しい処断(しょだん)を下(くだ)したりした義教に対して、周囲は「万人恐怖」と震(ふる)え上がりました。
義教からしてみれば幕府や将軍の権威を高めるための当然の行為でもあったのですが、その余(あま)りにも強引な政治手法は必然的に守護大名などの対立する勢力の反発を招(まね)くことになりました。そして義教の恐怖政治は、かの織田信長と同じように突然その幕を下(お)ろす日がやってくるのです。





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晴雨堂ミカエル 松たか子や野村萬斎の本格テレビデビューが大河ドラマ「花の乱」で、物語は将軍義教突然の不幸から始まります。
松たか子は日野富子の少女時代、野村萬斎は若き管領細川右京大夫勝元。
面白いですよ。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、そんなシーンから始まるんですか。
視聴率的には出来は良くなかったようですが、内容的には佳作なんでしょうね。
ぴーち おはようござます!
織田信長の恐怖政治ぶりは余りにも有名なお話だとは思いましたが、それ以前に義教が同じタイプの政治家だったとは、全く存じませんでした。
足利氏は義満か、銀閣寺を建立した義政くらいしか
よく知りませんでしたので、今日のお話しもとても勉強になりありがとうございましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそ有難うございます。
義教は意外と知られていない人物ですが、室町幕府の研究には欠かせない人物です。
その人生は信長と似通っているところが多く、その最期もまた…なんですよね。
その余りの手際(てぎわ)の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から嘉吉の乱(かきつのらん)といいます。
義教の突然の最期(さいご)は幕府を含めた周囲に大混乱をもたらしました。義教を殺した赤松氏は幕府によって後に討伐(とうばつ)されましたが、義教の死は幕府や将軍の権威を必然的に大きく低下させ、この後二度と復活できなかったのです。
また、義教による厳しい政策と彼を殺したことによって没落(ぼつらく)した赤松氏の存在とが、義満によってもたらされた「ある高貴(こうき)な政権」をとんでもない悲劇(ひげき)に巻(ま)き込んでしまうことを、この後の誰が予想できたことでしょうか。





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- こんばんわ。
いつも有難うございます。
足利義教のことを取り上げていただいて嬉しいですね。今後、注目が集まる人と思います。
彼を『無類の上』と明石散人氏は評しました。全面的に賛成はしかねますが、もっと評価されていい将軍ですよね。彼がこんな形で死ななければ、応仁の乱は起きなかったかもしれません。室町幕府ももっと実質的に継続した可能性があります。
そんな夢を見させてくれる将軍と思います。
【籤で選ばれた】ことをネガティヴにとらえず、守護大名の庇護を否定し、権力が孤高であることを身をもって示した義教を今の政治家、芸能人にも見て欲しいですね。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 (※ホストからおそらく常連の方とは拝察しますが、名無しさん宛で返信することをご容赦ください。)
こちらこそお言葉有難うございます。
仰るとおり、彼の生き様はもっと研究されてもいいはずです。
室町幕府にとっては最後のチャンスだったかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
義教は自らも有無も言わさず残忍な処刑を繰り返していた訳でしょうから、同じ目に遭ってしまったのは、当然の報いであったでしょうね。
こうして現代からその時代を振り返ると、義教とい人物は確かに面白い素材に満ちた人物かも知れませんが、当時の恐怖政治を強いられた国民にとっては悪魔意外に例えようにない人物であった事でし、二度と現れて欲しくない存在であった事でしょう。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「当然の報い」という一面が濃いように思います。
信長同様、同時代には決して生きたくない人物かもしれませんが、何かを変えようと思えばそれくらいアクの強い人物でなければいけないのかもしれません。
なおまゆ こんばんわ。すみません。誤って名無しでコメントしたのは私です。
ごめんなさい。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 やはりそうだったんですね。
どうぞお気になさらないでください。
1410年、自分の子を皇太子と認められないことを不服として南朝の後亀山上皇が京都から吉野へと移られました。その後、1412年に北朝の後小松天皇が子の称光天皇に譲位されると、南朝に味方した伊勢の国司(こくし、地方の国の行政官のこと)の北畠満雅(きたばたけみつまさ)が挙兵しましたが失敗に終わりました。
戦後に幕府と和睦したことで後亀山上皇は京都へ再び戻られ、そのまま1424年に崩御されましたが、その後も南朝の勢力は皇位を回復すべく様々な手段で幕府と対立することになりました。
南北朝の合一以後における南朝のこれら一連の動きは、現代では後南朝(ごなんちょう)と呼ばれています。





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オバrev う~ん、南北朝統一と言いながら、実際はそうではなかったと?
確かに東西ドイツ統一も、実質的には東と西で格差が埋められなかったし、南北朝鮮となると統一は不可能でしょう。
覆水盆に返らずとはこのことでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 南北朝の合一は南朝が北朝へ三種の神器を返還したことによってその差が決定的になりました。
しかしながらそう簡単に収まらないのが世の常と申しましょうか…。
「覆水盆に還らず」はそのとおりかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
義満の野望が少しでも伺える条件であった為に、
再び不穏な空気が漂ってしまったのですね。
国の平和の為、国民の為と思い真の南北統一を心から願った働きかけでしたら、後からその問題も再燃しなかった事でしょうに・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに義満の野望に一役買ったという点は否めないですね。
だまし討ちのような手法でなければ南北朝の合一ができたかどうかは分かりませんが、アフターケアも重要だったと思います。
またしても皇位継承の夢が破れた後南朝は、北畠満雅が後亀山天皇の孫にあたる小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう)を率(ひき)いて再び挙兵しました。今度の戦闘は鎌倉公方の足利持氏をも巻き込んだ激(はげ)しいものとなりましたが、持氏が幕府と和睦したこともあり、満雅が討ち死にして挙兵は失敗に終わりました。
後南朝が朝廷や幕府に抵抗を続けることに激怒した将軍義教は、それまでの幕府の政策を転換(てんかん)して後南朝の血統を根絶(ねだ)やしさせることを決断しました。すなわち、後南朝の子孫を片っ端(かたっぱし)から寺院に送り込むことで子孫を残させないようにするとともに、彼らの家来を幕府が召(め)し抱(かか)えることで切り離(はな)そうとしたのです。
義教による徹底した対策によって主(おも)だった後南朝の血統はすべて断絶してしまいましたが、「万人恐怖」と称された義教の厳しい処置(しょち)に対する後南朝の恨(うら)みは深く、義教が嘉吉の乱で不慮(ふりょ)の最期を遂(と)げた後に前代未聞(ぜんだいみもん)の大事件が起きてしまいました。





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オバrev この頃にも男系天皇という意識はあったんでしょうか?
それにしても義教による恐怖政治は、さすがに今の時代にはあり得ないというのはありがたいですね^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 DNAや染色体といった概念はありませんが、遠い昔にわざわざ10親等もの男系天皇を即位させたこともありますから(第26代継体天皇)、理屈として分かっていたと思われます。
確かに恐怖政治は御免蒙りますが、これだけ混迷した政治が続けば一度はスッキリしたいとも思ってしまいますね(´・ω・`)
ぴーち おはようございます!
この世に生きとし生けるすべての生命には確かに子孫を残したい、更に自分が残した子孫の繁栄を願う気持ちというのはごく自然な欲求だと思います。
人間だけではなく、他の動物の世界も激しい争奪戦が展開し、それに敗れたものは子孫さえも残せないというのが厳しい現実だと思います。
しかし、人間は他の下等動物と同じようにその本能のまま行動を起こし、度を越した強欲さが仇となり殺し合いまで展開してしまった末路は自分にも痛いしっぺ返しが訪れます。動物には起こらなくて、人間には起こる。
それはきっとその回避する力を人間には試されるからなのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
義教が行った方策も、幕府と朝廷にとってやがて最悪の形でしっぺ返しが訪れることになります。
この事件は「御所の内裏」を意味する禁闕の変(きんけつのへん)と呼ばれており、御所を襲ったのは金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)の兄弟など後南朝の人々でした。金蔵主と通蔵主は後亀山天皇の血を引いているとされていますが定かではなく、金蔵主は禁闕の変の際に討たれ、通蔵主などは捕えられて流罪(るざい)となり、その後の消息(しょうそく)は不明となっています。
また、小倉宮聖承の子で出家していた教尊(きょうそん)も禁闕の変への関与が疑(うたが)われて隠岐(おき)へ流罪となり、小倉宮の血統も断絶となりました。
こうして事件そのものは鎮圧されましたが、三種の神器のうち神璽が後南朝に奪われたままであることは天皇としての正当性を損ねることにつながることから、朝廷や幕府を不安にさせていました。
ところが、このような異常事態を解決するために意外な人物が手を挙(あ)げたのです。それは、かつて嘉吉の乱で義教を殺害したために滅ぼされた赤松氏の遺臣(いしん)でした。





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ぴーち おはようござます!
確かに日々の生活の中で、思いもよらない人から
助けられたり、或いはその逆もありますが、
全く眼中になかった人物が目の前に登場し、何らかの手助けをしてくれる時ってありますよね。
この赤松氏の遺臣はどんな思いが切っ掛けで手を貸してくれる気になったのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 思わぬ手助けは全くの善意の場合もありますが、とんでもない陰謀が隠されていることもあります。
今回の赤松氏の場合も例外ではありませんでした。それは何かといいますと…。
赤松氏は幕府にとって「将軍殺し」の天敵であり、禁闕の変の際にも後南朝側についていました。そんな赤松氏であれば、後南朝に味方と偽(いつわ)って吉野からさらに山奥まで入るのは容易(たやす)いことです。
幕府は赤松氏の申し出を許可すると、遺臣たちは1457年に後南朝の御所を襲い、南朝の血を引くとされる一ノ宮・二ノ宮兄弟を殺害しましたが、神璽については一時は持ち去ったものの、憤激(ふんげき)した後南朝を支持する勢力によって奪い返されてしまいました。
赤松氏の遺臣たちは1年後の1458年に一ノ宮・二ノ宮の母の御所を再び襲い、今度こそ神璽を奪い去ることに成功しました。こうして禁闕の変以来、多くの血を流して約15年ぶりに神璽が朝廷に戻ったのです。
これら一連の事件は当時の年号から長禄の変(ちょうろくのへん)と呼ばれています。なお、殺害された一ノ宮・二ノ宮の兄弟(別名を自天王=じてんのう、忠義王=ちゅうぎおう)は前述のとおり南朝の血を引くとされていますが、その詳しい血統は分かっていません。また、神璽を持ち帰った赤松氏は再興が認められ、後に守護大名に返り咲(ざ)いています。





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晴雨堂ミカエル 「花の乱」で結構詳しく描写されていました。
山名宗全を萬屋錦之助が演じていて、貫禄ある殺陣を魅せてくれました。なんと意外にも大河初出演。
この山名役が評判となり、「毛利元就」では尼子経久役が内定しましたが残念なことに逝去され、代わりに緒形拳が務めました。
ところで「花の乱」はあまり視聴率がふるわず。私が良いと思った作品はウケが悪い。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 この事件を詳しく取り上げたドラマがあったんですね。
あまりにもリアルすぎてかえって受けが悪かったんでしょうか。残念ではあります。
河童工房 教師のお宅、解体作業で吉野に行ったときに
休憩時間んいなると
いろいろとお話を承ることが
ありました。
いまでも吉野の人たちは
朝廷をお助けしたと誇りをもっているのが
わかりました。
こう言う地元民?の歴史は
教室では学べないですね。
河童工房さんへ
黒田裕樹 仰る話は私も拝聴したことがあります。
誇りを失わない人々は生き生きしていますね。
隠された歴史にもっと光を当てていきたいと思います。
ぴーち おはようございます!
幕府と赤松氏の両方の思惑が合致して
それが成功した訳ですね。
それにしても、後南朝にとって赤松氏は獅子身中の虫となった訳ですが、めでたく幕府側と組んで守護大名に返り咲いたとありますが、裏切り行為を繰り返す存在に本当に幕府は信頼を置くことが出来たのでしょうか。また同じように赤松氏はコウモリ的な存在に返り咲く事は無かったのでしょうかね・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 赤松氏は今回の功績(?)で確かに守護大名に返り咲きますが、まもなく「動乱の時代」に入りますからね。
それでも守護大名であるかないかとでは大きな違いがありますからまだ良かったのかもしれませんが…。
長禄の変以後、後南朝は「ある大乱」に関わったのを最後として、我が国に残された史料からその姿を消してしまいましたが、そもそも後南朝という立場となったのは南北朝が合一した際に義満が南朝をだましたからであり、また義教が積極的に血統を断絶させたのも大きく影響しました。
さらには、義教が非業(ひごう)の死を遂げなければならなかった原因をつくった赤松氏によって、後南朝の御所に最後まで残っておられた高貴な血統を絶たれてしまうという悲劇にもつながってしまいました。歴史というものは時として苛酷(かこく)な流れを生み出すものなのでしょうか。
こうして後南朝は歴史の表舞台から消滅(しょうめつ)しましたが、民間の伝承(でんしょう)としては生き残り続け、後に明治44(1911)年に南朝が正統であると明治天皇がご裁断(さいだん)されてからは、自分こそが後南朝の末裔(まつえい)であると主張する人々が出現し始めました。中でも有名なのは第二次世界大戦の終戦直後に話題になった「熊沢天皇」こと熊沢寛道(くまざわひろみち)氏ですね。
ところで、後南朝が現時点では最後の史料にその姿が残されている「ある大乱」とはいったい何のことでしょうか?
実は、それこそが戦国時代の幕開けになったとされる「応仁の乱(おうにんのらん)」なのです(詳しくは次回の講座で紹介します)。





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晴雨堂ミカエル 室町時代というのは天下泰平の時期は全くといって良いほど無い時代ですね。
義満でさえも全国を支配できた訳でない。
室町幕府を見ると家康が如何に緻密で洞察力に優れていたかが解りますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
この後の歴史は、すべて前時代が映し出す鏡を見て動くことになりますからね。
ぴーち おはようございます!
正義は何時の世でも勝利すると言われていますが、
現実は時として理不尽な結果を齎してしまう場合が多いですね。我欲が余りにも強い人物に、一旦はその思いに押し流され、天下を取られ亡き者にされて一族断絶に追いやられても、真実だけはそこに留まる事になり、長い年月を経た後にまるで喪がやっと開けたかのように、日の目を見る時が必ず来るものなのでしょうね。
悪名も末の世まで轟くものですが、正義も必ずや
後の代で正当に扱われるものなのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の流れとともに正義の流れというものも因果応報の名のもとに存在しているようですね。
南朝の血統は事実上断絶しましたが、南北朝の時代においては南朝こそが正当であるとお認めになられた明治天皇のご英断も素晴らしかったと思われます。