1776年に建国されたばかりのアメリカは、我が国への侵略の意図(いと)よりも、北太平洋を航海する捕鯨船(ほげいせん)の寄港地や対中国貿易の中継地とするために、我が国と友好的な関係を持ちたいと考えていました。
そんな思惑もあって、アメリカは我が国に対して当初は紳士的な対応を行いました。1837年には我が国の漂流民(ひょうりゅうみん)を乗せた民間商船のモリソン号が来航しましたが、幕府は異国船打払令を理由に砲撃(ほうげき)して追い返しました(モリソン号事件)。
いわば門前払(もんぜんばら)いで攻撃(こうげき)を受けた形となったアメリカでしたが、1846年にはアメリカ東インド艦隊司令長官(かんたいしれいちょうかん)のビッドルが浦賀(うらが)に来航し、我が国に対して平和的に通商を求めました。
もしここで幕府が通商を受け入れていれば、我が国の歴史は大きく好転していた可能性もあったでしょう。しかし、幕府は鎖国を理由にまたしてもアメリカの要求を拒絶(きょぜつ)してしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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晴雨堂ミカエル ジョン万次郎をはじめ、漂流民がアメリカの捕鯨船に助けられたのは有名ですね。万次郎は命を助けられただけでなく、船長から家族同様に迎えられアメリカの学校にも行かせてもらった。アメリカ人の良い面が出ましたね。
もし万次郎が幕末ではなく天保時代に助けられ帰国したら、死罪になった可能性があります。
幕府の方々は、侍ではなく、単なる融通の利かない思考停止した小役人に老中から末端まで陥った感があります。
問答無用で攻撃すれば、やがては戦になる。それに気が付かない精神状態とは、役人のことなかれ先送り無責任体質以外何者でもありません。
これも現代政治の教訓に十分なります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ジョン万次郎は我が国の歴史に欠かせない人物ですから、生きながらえて本当に良かったと思います。
仰るとおり「小役人」ですね…。現代政治の教訓になってしまうところも、悲しいですがうなずけます。
知りませんでした。
青田です。 黒田先生、晴雨堂ミカエルさん
こんばんは
青田です。
モリソン号事件までは、知っていたのですが
その後、
1846年にはアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀(うらが)に来航し、我が国に対して平和的に通商を求めたことは、全く、知りませんでした。
黒船来航がアメリカとのファースト・コンタクトで、その黒船を観て、幕府がパニックになって
開国したと思っていました。
ということは、歴史のifとして
1846年の時点のビッドルが平和的な通商条約を結んだとします。
そうなると、
尊王攘夷運動や、その後の倒幕の動きは、なかったと黒田先生は、思われますか。
ここでのポイントは、攘夷派は、何を怒っていたかですね。
① 不平等な条約を結んだことを怒っていた。
② 朝廷の勅許がないのに開国したこと。
青田さんへ
黒田裕樹 ビッドルとの条約によって、少なくとも著しい不平等条約を結ばされることはなかったでしょう。
ただ、幕府内部でどういう過程になったかは正直言って分かりません。
もっとも、条約を結ぶとすればおそらく勅許を必要とはしなかったので、ご質問の1及び2は無関係かと思われます。
つまり、日本を開国させるためには、従来のように下手(したて)に出るのではなく、強気の姿勢(しせい)で対応したほうが良いと判断したのです。こうしたアメリカの思惑によって、1853年6月(旧暦=きゅうれきです。以下同様)にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが、4隻(せき)の黒船(くろふね)を率(ひき)いて浦賀に来航しました。
黒船は蒸気船であり、船上に多くの大砲を並(なら)べて空砲(くうほう)を放(はな)つなど、威嚇(いかく、威力をもっておどすこと)を加えながら幕府に対して開国を求めるフィルモア大統領の国書(こくしょ)の受理を迫(せま)りました。
これまでに見られなかったアメリカの強硬な態度に対して、抵抗(ていこう)をあきらめた幕府はやむなく国書を受け取り、回答を翌年に行うことを約束してようやくペリーを日本から退去させましたが、これは単なる結論の先送りに過ぎず、幕府はその後の対応に苦しむことになりました。
なお、同じ1853年7月には、ロシアのプチャーチンも長崎に来航して、国境の確定と開国を要求しています。




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晴雨堂ミカエル 歴史を学ぶ意義の1つに過去の失政を教訓にして現代に活かす事があります。
であるなら田沼への正当な評価とその後の時代錯誤政策の批判と反省が必要です。それを学校教育に定着させないと意味がありません。
国境の画定は田沼が着手しようとしていました。開国も視野に入れていました。
百年近くの政治的停滞は、日本の国益だけでなく、現在も続く欧米優位アジア蔑視につながりました。
この認識を定着しなければ、現政権も次の政権も同じ失敗を繰り返すでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、田沼の業績をもっと知らしめないと何のために歴史教育を行うのか意味が分からなくなります。
歴史を学ぶことで回避できるはずの、同じことの繰り返しによる失敗は二度と御免こうむりたいものですし、私がこのような形で言論活動を続ける意義もここにあります。
かなり、タイムリーな気が
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
今、TPPで、話題になっているだけに
この黒船の話に妙にダブります。
TPPは、アメリカは、自国に有利になるように
話をしていますが、
日本の首相も、日本の国益を考えて、TPPについて、考えて欲しいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 狙ったわけではないんですが、偶然にもかぶってますね。
仰るとおり、政治家は「国益にかなうかどうか」を真剣に判断するかどうかが重要です。
黒船による砲撃(ほうげき)で我が国に危害(きがい)が及(およ)ぶことを恐れた幕府は、結局ペリーの武威(ぶい)に屈(くっ)して、同年3月に日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結びました。条約の主な内容としては、
1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること
2.難破船(なんぱせん)を救助し、漂流民(ひょうりゅうみん)を保護すること
3.下田(しもだ)・箱館(はこだて、現在の函館)の2港を開き、領事(りょうじ)の駐在(ちゅうざい)を認めること
4.アメリカに一方的な最恵国待遇(※注・さいけいこくたいぐう)を認めること
以上が挙(あ)げられます。幕府はこの後、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、200年余(あま)り続いた鎖国体制から、何の準備もなく開国して、いきなり世界の荒波(あらなみ)に揉(も)まれることになってしまいました。
※最恵国待遇とは…日本が他国と条約を結んだ際に、アメリカが与えられたよりも有利な条件を他国に認めた場合、アメリカにも自動的にその条件が認められること。当時の幕府は外交知識に欠けていたため、アメリカの言われるままに一方的な最恵国待遇を認めた。




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晴雨堂ミカエル 原発問題も先送りの産物。年金も保険も国債もみな先送り。
問題は幕末における薩長土肥や志士にあたる存在が現代もあるのかどうか?
一時は左翼がその役割を果していたかのように見えていたが、あの勢力では無理。
いまの20代30代の世代に志士が紛れているのかどうか?
ペリー来航時点では、坂本龍馬は剣術修行の若者、西郷隆盛は下級の藩士。他の志士たちもみな現代でいう中高生や大学生の若造。
気が付かないだけで居るかもしれないが、少なくとも今の表舞台に立っている与野党の方々ではない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、先送りが諸悪の根源ですね。
現代に志士が存在するかどうかはもちろん、仮にいたとしても今の選挙制度では選ばれるかどうか難しいのも問題があると思います。
なおまゆ まさしく現在の状況です。
明治維新は、多くの流血の上で成し遂げられました。
クーデターが必要な時かもしれません。
無論、民主主義に反する行いですが、そのくらいしないと、未来の子ども達に幸せな国を残せないような気がします。
インターネットが、志士の活動に代わるものになればよいのですが・・・。
過激な発言ですみません。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 いえいえ、お気持ちは理解できないことはございません。
現実に幕末の志士はクーデターのような行為を何度も起こしていますからね。
ただ、そうなると一般市民の巻き添えも避けられませんし、そこに至るまでに(例えばビッドルの段階で)解決できればよいのですが…。
オバrev まさに今の日本の立場そのもの(?o?)
1.アメリカが要求する規制、関税をなくすこと
2.アメリカの企業に不利益になることのないよう保護すること
3.アメリカの得意とする農業、金融を解放すること・・・あと弁護士も自由にやらすこと、医療も公的保険でなく高額な自由診療が自由にでき、アメリカの民間保険が自由に契約できるようにすること
4.アメリカに一方的な最恵国待遇を認めること
・・・こりゃ既にやってるか^_^;
さあ、外交が苦手な民主党がまともに太刀打ちできるんでしょうか?・・・得意なものあったっけ??
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね(´・ω・`)
ただでさえ今の我が国は外交下手なのに、相手の顔色をうかがうことしかできそうもない現政権が交渉のテーブルにつくことができるのでしょうか?
幕末の頃はそれぞれの志士が独自の外交を見せたからこそ明治維新の流れにつながったという事実を忘れてはいけません。
江戸幕府とロシアのプチャーチンとの間で日露和親条約(にちろわしんじょうやく)が結ばれたのは1854年12月(ただし旧暦。新暦では1855年2月)ですが、他国の同様の条約との大きな違(ちが)いは、日露両国の国境の確定でした。
すなわち、両国周辺の島について、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地(ざっきょち)とした一方で、千島列島(ちしまれっとう)は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領としました。
その後、明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で樺太はロシア領、千島列島全部は日本領と変更されましたが、日露和親条約という両国にとって史上初めての国際条約で択捉島・得撫島間を国境と定めたことが、択捉島・国後島(くなしりとう)・歯舞諸島(はぼまいしょとう)・色丹島(しこたんとう)のいわゆる北方領土(ほっぽうりょうど)が我が国固有の領土であると日本が主張する大きな根拠(こんきょ)となっているのです。
なお、日露和親条約が結ばれた日を新暦に直した2月7日は、我が国で「北方領土の日」と定められています。




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なぜなら、諸藩の意見を重視するという行為は、幕府の政策に対して口出しすることを事実上認めることだからです。また、幕府は意見をまとめて朝廷に報告も行いましたが、これは幕府の権威(けんい)だけではもはや国論(こくろん)をまとめることが出来ないことを自(みずか)ら証明したと同時に、朝廷の権威を高めることにもつながってしまいました。
さて、幕府は対外的危機を回避(かいひ)するために、老中の阿部正弘が前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前(えちぜん)藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)・薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)・宇和島(うわじま)藩主の伊達宗城(だてむねなり)、あるいは幕臣(ばくしん)の川路聖謨(かわじとしあきら)らの人材を登用しました。
また、国防を充実(じゅうじつ)させる目的から江戸湾(えどわん)に砲台(ほうだい)となる台場(だいば)を築いたほか、長崎に海軍の教育機関である海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)を、江戸には蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を改編した洋学研究教育機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)などを設(もう)けました。
阿部正弘によるこれらの改革は安政の改革(あんせいのかいかく)とも呼ばれます。なお、江戸湾の台場は幕府に敬意を払(はら)って「お台場」と呼ばれ、現代の地名にも残っています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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晴雨堂ミカエル 本来は国家元首を戴く国家の政庁たる朝廷も有名無実、家康当時は世界最強最大の軍隊だった幕府もハリボテ状態。
痛快ですね。
ところで、この当時の加賀藩は幕府にとってどのような存在でしょうか? 名前が出てきません。
幕藩体制では、極官が従三位参議、江戸城の控えは徳川御三家と同じ大廊下、外様でありながら親戚扱い(実際外戚ですが)の大藩なのに、水戸のような活躍は無し。
ミニ幕府状態でしょうか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 加賀藩は当初は佐幕派であり、藩主の前田斉泰(まえだなりやす)が藩内の尊王攘夷派を弾圧していましたが、大政奉還後はそれが仇になって人材がおらず、出遅れてしまったのが原因のようですね。
予測がつかない幕末とはいえ、藩主の責任は重いです。
オバrev 外交能力がないというのは厳しいですね。
まさに今の民主党そのものです(^_^;)
歴史は繰り返すと言いますが、この幕末の時代の激変と現代の時代の激変への対応も、また歴史の繰り返しとなるんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 現代の件も含めて私も同意見です。
幕末の大混乱の時代の繰り返しは大変な世の中ですから、同じことの繰り返しは何としても願い下げといきたいのですが…。
質問
ろっぽん 幕府は対外的危機を回避(かいひ)するために、老中の阿部正弘が前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前(えちぜん)藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)・薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)・宇和島(うわじま)藩主の伊達宗城(だてむねなり)、あるいは幕臣(ばくしん)の川路聖謨(かわじとしあきら)らの人材を登用しました。
と記してますが、何に登用したのですか?
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 徳川斉昭らの大名クラスは幕政参与として自由に意見が言えるようにしました。川路聖謨は勘定奉行の公事方から勝手方に異動し、その後も様々な業務を兼任して手腕を発揮しています。