18世紀末にアメリカがイギリスから戦争によって独立し、19世紀には開拓を求めて太平洋を目指すべく西部へと移動し始めました。また、同じ18世紀末にはフランス革命が勃発(ぼっぱつ)すると、やがてナポレオンが登場して急速に勢力を拡大し、イギリスやロシアとも戦いを繰(く)り広げました。
そのイギリスやロシアはアジアへの進出をもくろみ、特にロシアはシベリアを植民地とした17世紀以降は南下を進め、18世紀末までにはしきりに我が国の近海(きんかい)に出没(しゅつぼつ)するようになりました。
ロシアの思惑(おもわく)に気付いた老中の田沼意次は、蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の開発を試(こころ)みるとともにロシアと妥協(だきょう)する意味も込めて幕府による直接の交易も計画しました。
これが実現すれば、我が国は通史よりも半世紀以上も早く自主的に開国する可能性があったのですが、意次の失脚(しっきゃく)によって夢に終わり、後を受けた松平定信の消極策によって我が国は再び門戸(もんこ)を固く閉ざすようになってしまいました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
300年間もの時代が流れれば、世の中は大きく変動するでしょうね。。
もしも日本が早くから外国とのお付き合いを積極的にしていたのなら、どうなっていたのでしょうかね・・
劇的に国の方針が変化するのは余りよい兆候では
無いということを基本に考えてみると
長い日本の歴史を一時保留する意味で鎖国をした方が正解であったのかもしれませんが、
その後、その遅れを取り戻そうとして無理に外国と肩を並べて歩こうとすると、これまたそこに歪が生じる事でしょうから、無理に鎖国はしない方が良かったとも考えられますが、いかがなものでしょうか(^^ゞ
まとまりのない意見で失礼しましたm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鎖国の状態についてはメリットもデメリットもありますが、鎖国が続けば続くほど、デメリットばかりが目立っているような思いがします。
本文に書きました田沼時代の頃が、鎖国から緩やかに開国へと切り替える絶好のタイミングだったような気がしますね。
いずれにせよ、これからしばらく時間をかけて検討してみたいと思います。
「鎖国」がなかったら
EgloffMeiko 難しい問題ですね。
「鎖国」がなかったら、今頃は天皇制度は無かったかもしれません。
ぴーちさんがおっしゃる「歪が生じる」の意味もよく分かります。
どん欲に西洋文明を取り入れたので、「西洋人の目から見た西洋文明(翻訳西洋文明)」をそのまま身につけちゃったんですね。本来ならば、自分たちでキチンと咀嚼して時間をかけて取り入れるべきでしたが、あの当時はそのような時間は無かったですね。今の日本は「臓器移植」の後の「拒絶反応」を見て見ぬふりをしているのと同じです。
たいていの日本の西洋史の学者は「西洋人の見方をそのまま翻訳」しただけです。そうではない学者を探すのは大変です。例外的に、鯖田豊之著『肉食の思想』は日本人の視点でキチンと西洋文明を描いています。
黒田先生がおっしゃることも良く分かります。しかし、日本という国柄を考えた場合に、何と言っても「閉鎖性」が鍵になっていると思います。「閉鎖的」なんて言われると、日本人はすぐにビビりますが、とんでもない!この「閉鎖性」こそが日本の命です。なぜなら、日本には「国民」以外に「臣民」というカテゴリーがありますので。
では、ごきげんよう。
EgloffMeikoさんへ
黒田裕樹 大変建設的なご意見をいただき、ありがとうございます。
仰るとおり、鎖国についての見解や急激な近代化による弊害については様々な考え方があると思います。
私の見解としては、鎖国を辞めるにしても、自主的に辞めていれば西洋に不平等条約を押し付けられることなく、また訳も分からないうちに近代化を目指すこともなかったと思えば、やはりデメリットの方が多いのではと考えておりますが、EgloffMeikoのご見解も大変参考になりました。
今後ともよろしくお願いいたします。
ラクスマンの要求は応対した松前藩(まつまえはん)を通じて幕府に伝えられましたが、時の老中・松平定信は漂流民を受け取ったものの通商に関しては鎖国が我が国の祖法(そほう=先祖の代から守るべきしきたりのこと)であるとして聞く耳を持たず、どうしても通商を求めたいのであれば長崎へ行くようにと命令したうえで、長崎への入港許可証を与えました。
ラクスマンは許可証を受け取りましたが、長崎へは向かわずそのまま帰国しました。一方、ラクスマンの来航の事実を重く見た幕府は蝦夷地や江戸湾の海防の強化を諸藩に命じたほか、1798年には近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)や最上徳内(もがみとくない)に択捉島(えとろふとう)などを調査させるとともに、翌1799年には東蝦夷地を幕府の直轄地(ちょっかつち)としました。
ちなみに、鎖国はもちろん我が国の祖法でも何でもなく、こうした幕府の頑(かたく)なな姿勢が、幕末における我が国の未曾有(みぞう)の混乱をもたらすきっかけとなってしまうのです。
なお、我が国に帰還(きかん)した大黒屋光太夫に関するエピソードは、作家の井上靖(いのうえやすし)によって「おろしや国酔夢譚(おろしやこくすいむたん)」という長編小説に書き上げられ、映画化もされています。また、近藤や最上らは択捉島などを調査した際、択捉島に「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱(ひょうちゅう)を立て、日本領であることをアピールしています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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晴雨堂ミカエル 本来の趣旨や目的を忘れて形骸化した法律が現代にも沢山ありますね。代表的なのは食管法。戦時の法律が長く戦後も生き続け、農業を衰退させた。
90年代前半の米不足のときなんか、減反を進めながらアメリカやタイから米を輸入するという笑い話にもならない愚策。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、本来の目的を終えているのに惰性のごとくいつまでも続けているものが現代にもありますね。
おそらくは「利権」といううま味ががっちりと出来上がっているかもしれませんが、国益を考えれば迷惑至極です。
ぴーち こんにちは!
祖法を頑なに守って来たからこそ
失われずに済んだものも
あれば、その思いが返って足かせとなり
思うように決断出来ない時がありますが、
鎖国は日本にとって後者の思いの方が強かった
訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、鎖国の状態になったことで17世紀までの世界侵略の犠牲にならずに済みましたので、そのメリットは大きかったと思います。
しかし、時が流れれば世界情勢も変わりますし、柔軟に対応しなければなりませんが、それを国レベルでできるのは政治だけです。
足かせがあったとはいっても国内だけの話ですから、やはり江戸幕府(定信以降)の責任は大きいと言わざるを得ないかもしれません。
HANA子 すでに役割を終えた慣習を絶対のものと勘違いして後生大事に守っているケースは今に始まった話じゃないんですね。
そのような勘違いは如何にして出来上がるのか……について考えてみたくなりました。
それにしても、この時……あるいはそれ以前の田沼時代に“現実的な対応”をキチンと出来ていたら、どんなその後の歴史が現れていたんでしょうか?
そちらにも興味がわいてきちゃいます。
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、今に始まった話ではありません。理由も大概は祖法でもないものを勝手に祖法にしていることですね。利権やなにやらが複雑に絡み合っていそうですが…。
あくまで仮定の話ですが、外国とも対等に張り合うことができて、また幕府も近代化によって緩やかに解体し、藩を含めた連合王国になっていたかもしれませんね。中央集権体制がもともと明治政府の命令を全国に行き渡らせるための苦肉の策でしたから。
わろ 幕府が、本格的に北方開拓してたらなー
って考えさせられる記事ですね^^;
あと、はぐれた日本人の返還を交渉材料にするのは王道なのですね。
万次郎しかり、古代では朝鮮が海賊に拉致された人を送り返すのをネタに援軍を平安時代?に交渉してきたのを思いだしました。
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、田沼時代に開拓していれば、すべてが後手に回る幕末のような事態にはならなかったと悔やまれますね。
漂流民返還を交渉材料にするのは万国共通と言えますね。
もちろんこの後も続きますが…。
大黒光太夫
ろっぽん レンタルDVDで見ましたね。
あのころ公式になっていないのも含めれば
けっこう漂流民が異国の船に救助されているんですね。
このころの思考というのは二者択一で拒止するか受け入れるかそういう思考しかないのかな
増税で赤字解消の考え方も二者択一思考で工夫しないあるいは先送り思考ですね。
ミカエルさんの言うように現代にも通じますね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、結構な人数の漂流民が救助されているようです。
当時の船の構造上、漂流しやすくなっていたのもあったのでしょうか。
人間は厳しい選択を迫られれば、ついつい先送りをしたくなるものですが、政治がそれをやってはいけません。歴史の残酷な結果が見えているのに、同じことを繰り返そうとするのは困ったものです。
幕府の冷酷(れいこく)な対応にロシアは態度を硬化(こうか)させ、1806年から1807年にかけて樺太(からふと)や択捉島を攻撃しました。
ロシアの強硬(きょうこう)な態度に驚(おどろ)いた幕府は、1807年に蝦夷地をすべて直轄地として松前奉行(まつまえぶぎょう)に支配させ、東北の各藩にも沿岸(えんがん)の警備を命じました。
また、1808年には間宮林蔵(まみやりんぞう)に樺太やその沿岸を探検(たんけん)させましたが、間宮は調査の結果、樺太が島であることを発見しました。我が国では間宮の功績を称(たた)える意味で、樺太とロシアの沿海州(えんかいしゅう)との間にある海峡(かいきょう)を「間宮海峡」と名付けています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
今度はコメント欄が開きました^^
ロシアとの現代までの北方領土問題は
日本のこの時期の対応の粗悪さが
大きく尾を引いて
いるのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今度はコメント欄が開きました^^
何度もご足労いただいて申し訳ございません。
> ロシアとの現代までの北方領土問題は
> 日本のこの時期の対応の粗悪さが
> 大きく尾を引いて
> いるのですね。
そうですね。領土に関しては「早い者勝ち」という一面があります。
この後、日本とロシアは我が国が開国時に条約を結びますが、その際に千島列島については択捉島以西が我が国の領土となりましたので、その理由としては今回の標柱を立てたことが大きく作用しているということも考えられますし、難しいところですね。
これに対してロシアは報復(ほうふく)として翌1812年に日本船を拿捕し、淡路島(あわじしま)の商人の高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)らを抑留しました。
さながら人質合戦の様相(ようそう)に両国間の関係はさらに悪化しかけましたが、当時のロシアには我が国を侵略(しんりゃく)するまでの意図(いと)がなかったこともあり、ゴローウニンと高田屋嘉兵衛は捕虜交換(ほりょこうかん)の形でそれぞれ帰国しました。
これら一連の出来事はゴローウニン事件と呼ばれていますが、この後の日露(にちろ)の関係は修復(しゅうふく)へと向かい、幕府の直轄地となっていた蝦夷地も1821年には松前藩に返還(へんかん)され、松前奉行は廃止(はいし)されました。
なお、高田屋嘉兵衛に関するエピソードは作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)によって「菜の花の沖(なのはなのおき)」という名で小説化され、テレビドラマ化もされています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
何やら先日の中国船の襲撃事件の様な展開が
この時代にもあったのですね。
その時はロシアが下手に出て、事無きを得たということですか・・今回は日本が下手に出たことで
事無きを得た訳ですが、外国とのお付き合いの
難しさは今も昔も同じなのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、中国船による襲撃事件のような感じがしますね。
今回の更新におけるパターンではロシアの思惑を見抜いたことで我が国が下手に出て成功しましたが、現在の尖閣諸島をめぐる動きでは、我が国は果たしてどのような態度を取るべきでしょうか…。
感動しました
青田です。 青田です。
最近、高田屋嘉兵衛の『菜の花の沖』を読んで
感動しました。
最初は、淡路島の中でも話から、始まります。
高田屋嘉兵衛は、何も悪くないのに、苛め抜かれて、村八分になります。
それが淡路島の話からスタートしているのに
ラストは、世界史の話になっていきます。
ロシアが日本に通商を求めてきたのは、フランスのナポレオンによって、西の港が抑えられていたからであり、
高田屋嘉兵衛がなかなか、釈放されなかったのは、フランスのナポレオンがモスクワまで進撃して、ロシアにそこまでの意思決定能力をする余裕がなかったことには、驚きました。
日本の淡路島→世界。
という広がりが、世界はつながっているというのを感じました。
そんな中、1808年にオランダの国旗を掲(かか)げた船が長崎の出島に入港しました。関係者と思い込(こ)んだオランダ商館員が船に乗り込んで出迎えようとすると、彼らは捕まえられて船に連行され、同時にオランダ国旗が降ろされると、代わりにイギリス国旗が堂々と掲(かか)げられました。
実は、この船はイギリスのフェートン号が化けていたものだったのです。フェートン号は人質を盾(たて)に長崎港内でのオランダ船の捜索(そうさく)を行うとともに燃料や食糧(しょくりょう)を我が国に求め、要求が通らない場合には港内の日本船を焼き払(はら)うと通告してきました。
イギリスによる余(あま)りの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)ぶりに幕府における長崎の責任者である長崎奉行(ながさきぶぎょう)の松平康英(まつだいらやすひで)は激怒(げきど)しましたが、彼にはどうすることもできませんでした。
なぜなら、泰平(たいへい)の世(よ)が長く続いたことによって、幕府や警備を担当(たんとう)していた肥前藩(ひぜんはん)による長崎における兵力が激減(げきげん)しており、戦える状態ではなかったからです。




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晴雨堂ミカエル 泰平の世が続くと軍事力は仕分け対象、幕府や藩の財政が逼迫しては当然の成り行き。
残念ながら近頃の中国軍やロシア軍の動きは、フィリピンから米軍が退き、沖縄をめぐって日米がギクシャクしているのと無関係ではありません。
捕鯨船を攻撃するシーシェパードは当時と変わらん性質です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史から何も学んでいない現状が歯がゆいですね。
江戸時代の武士にとっての刀と同様、一時期を除けば滅多に振り回すことのない武器を身につけることで相手への抑止力となっているように、我が国も軍事に関する否定的な見方を改めるべきかもしれません。
HANA子 確かに最近の日本領空・領海内でのロシア・中国・韓国の傍若無人な振る舞いを想起してしまう出来事と感じてしまいますね。
しかし、実の所この事件のことをわたしは知りませんでした。
事の顛末は次回の更新で、でしょうか。
次回も楽しみに待ってます!
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、不思議なほど現代の状況に似てきてしまっていますね。
この事件の顛末や事後の結果については…いずれも大変なことになってしまいます。
詳しくは次回までお待ちくださいm(_ _)m
ぴーち こんにちは!
常に戦闘態勢が整っていたり、戦争に備えて
いつも訓練をしている状態ならば、奇襲攻撃されたとしても直ぐに攻撃応戦出来るのでしょうけれど、
太平の世が理想である反面、いざという時に
戦意が失われている状態では、丸腰同然というわけですものね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、太平の世は理想であり、良いことでもありますが、肝心な防衛面を損ねていてはどうしようもありませんね。
ひるがえって平和な日常が続く今の我が国は大丈夫でしょうか…。
『ひるがえって平和な日常が続く今の我が国は大丈夫でしょうか…。』について
EgloffMeiko
専門家の黒田先生にこのようなことを申し上げるのは大変失礼なのですが、無礼を承知で以下申し上げます。
私は今の日本は「平和」ではないと思っています。いえ、その前に日本では「平和の質」について全然、考えられていません。
ある時、日本人は何をもって「平和」と言っているのだろうという、素朴な疑問が浮かび上がりました。言い換えれば、戦後日本人の「平和論」は「平和の質」について、問われることがないということに気が付いたわけです。
戦後の日本人は何をもって「平和」と言っているか。これは「戦争が無い状態」でありましょう。しかし、チベットやウイグルには戦争はありませんが平和もありません。言い換えれば、チベットやウイグルは「戦争さえできない」のです。ここで「平和とは戦争が無い状態」という日本型平和論は崩れます。
(翻って、日本はどうでしょうか。日本もチベットやウイグルと同様に「戦争さえできない」状態なのではないでしょうか?幸か不幸か、日本には「謝罪外交」という手がありますので、それでかろうじて凌いでいるだけのことです。つまり早い話、カツアゲされ続けているということです。)
また、日本型平和論「平和とは戦争が無い状態」の戦争には「武力を用いない戦争」は含まれていません。従って、日本人は武力を用いない戦争を「戦争」と察知する能力が身についていません。ということは、日本ほど敵国にとって「情報戦」を仕掛け易い国はないということになります。
(私はこの「情報戦」ほど恐ろしいものはないと思います。日本人が死ななくても日本人の精神が死んでしまえば、結果的に日本人は死んだことになるからです。つまり日本民族は消滅して、無国籍のような人間だけが日本列島に残ることになります。これはまぎれもなく「日本の死」を意味します。)
日本人の「平和論」はある時点で思考停止になっています。その「ある時点」とは「敗戦を終戦」と置き換えて呼んだ時点でありましょう。この時に、日本人はこっちの端に「平和」を置き、あっちの端に「戦争」を置きました。つまり「戦争と平和」を敵対関係にしたのです。しかし、これはとんだ勘違いです。
戦争は平和を内包し、平和は戦争を内包しています。これは「完璧な幸せ」がないのと同時に「完璧な不幸」もないことと似ています。私たちは通常、何となく幸せで何となく不幸せなのではないでしょうか?いかがでしょう?
「戦争と平和」は敵対関係ではありませんが、お互いを必要とし合っている関係であるのです。
Egloff Meiko 本名 54歳
EgloffMeikoさんへ
黒田裕樹 丁寧なご見解、有難うございます。
お考えには筋が通っておりますし、卓見であると思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
この出来事はフェートン号事件と呼ばれていますが、この後もイギリス船は何度も我が国の近海に出没(しゅつぼつ)したため、業(ごう)を煮(に)やした幕府は1825年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい、別名を無二念打払令=むにねんうちはらいれい)を出し、中国の清(しん)とオランダ以外のすべての外国船を撃退(げきたい)するように命じました。
確かにフェートン号の乱暴狼藉は許せないものがありましたが、だからと言って問答無用(もんどうむよう)で外国船を打ち払(はら)うというのは余りにも極端(きょくたん)な対応と言わざるを得ません。結局このような幕府の場当たり的な対応が、さらなる悲劇(ひげき)をもたらしてしまうのでした。
なお、フェートン号事件の際の手抜(てぬ)かりを幕府に非難された肥前藩ですが、その後は他藩に先駆(さきが)けて近代化に全力を挙(あ)げ、結果として幕末から明治維新(めいじいしん)にかけて活躍(かつやく)することになるのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 欧米列強がアジアへの圧力を強めた大きな原因は、やはり市民革命と産業革命でしょう。この2つ、教科書で良いことにしか教えないが、欧米の世界侵略を促進させた原因です。
市民革命によって国民国家となり、領主様の傭兵から国民の軍隊になった。
産業革命によって物資を大量生産でき、大量の物品を売り付ける必要がでた。
人とモノを大量に動員できる政治システムと経済、それを支えるために搾取するための植民地拡大。
このつながりを文部科学省は教えない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、二つの革命によって世界の図式が大きく変わりました。
その余波が我が国にもやってきて、幕末の混乱を迎えることになります。
日本史や世界史、あるいは政経の「すみわけ」にでもなっているのでしょうか、そういう流れを教えていない現行の教育に疑問を感じる一つではありますね。
モリソン号という名のその船は日本人の漂流民数名を乗せており、彼らを帰還(きかん)させるとともに通商などを平和的に求めるために我が国にやって来たのですが、幕府はそんなモリソン号に対して異国船打払令を理由に一方的に砲撃(ほうげき)を行いました。
あわや轟沈(ごうちん)されかねないという恐怖を味わったモリソン号は、通商はおろか漂流民の引き渡しもできずに這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で我が国から去っていきました。この騒(さわ)ぎはモリソン号事件と呼ばれています。
幕府によるこのような信じがたい暴挙(ぼうきょ)に対して、尚歯会(しょうしかい)に所属していた蘭学者(らんがくしゃ)の渡辺崋山(わたなべかざん)は慎機論(しんきろん)を、高野長英(たかのちょうえい)は戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)をそれぞれ書いて批判しましたが、1839年に幕府によって弾圧(だんあつ)されてしまいました。
この事件を蛮社の獄(ばんしゃのごく)といいますが、蛮社という言葉には蘭学(らんがく)を「野蛮(やばん)な結社(けっしゃ)」と一方的に断じるという偏見(へんけん)の意味が込められていました。そして、事件を指揮した人物こそが、後に南町奉行(みなみまちぶぎょう)として天保の改革(てんぽうのかいかく)の際に暗躍(あんやく)することになる鳥居耀蔵(とりいようぞう)だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
異国船打払令とは、外国船であれば何人たりとも日本に近づくものがあれば、爆撃せよという無謀な法律だったのですか?!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 異国船打払令は我が国と交易のあるオランダや清以外の外国船であれば問答無用で打ち払うというとんでもないものでした。我が国に危害を加えるならまだしも、漂流民を返還するなど平和的に、ましてや軍艦でない商船まで攻撃するというのはあまりにも常軌を逸していると言わざるを得ないでしょう。
渡辺崋山や高野長英のように幕府のやり方に不満を持つのは当然だと思います。
オバrev 一連の幕末の騒動を読んでいると、国際的な情報を持たないまま、また忠告に耳を傾けるという姿勢もなかったことがよく分かります。
今回の東日本大震災が起きてからの管政権のいいかげんで場当たり的な対応とダブって見えてしまいました(*_*;
一番的確な情報を持っているのはやはり米国なんでしょうね。日米同盟を軽視した、鳩・管政権のツケもあったような気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 他の皆様もご指摘されておられるように、今の政治の混迷に似すぎていることが私には気がかりです(´・ω・`)
「賢者は歴史に学ぶ」といいますから、江戸幕府の失政を大いに参考すべきなのですが、このままでは「第二の幕末」といった大混乱の世となることも予想できそうで恐ろしいですね。