田沼時代に発達した文化は松平定信の寛政の改革(かんせいのかいかく)によって一旦(いったん)は冷え込みましたが、徳川家斉が政治の実権を握(にぎ)った大御所時代に再び栄えました。後者の文化については、当時の元号(げんごう)である文化(ふんか)や文政(ぶんせい)から、化政文化(かせいぶんか)と呼ばれています。
化政文化を迎える頃には教育や出版の普及(ふきゅう)によって中央の文化が地方にまで広がるとともに、都市生活の多様化によって文化の内容も多方面に広がりました。特に、値段の高かった書籍(しょせき)を庶民(しょみん)に安価で貸し与えることを商売としていた貸本屋(かしほんや)の活動には目覚ましいものがありました。
一方、寛政の改革などによる厳しい統制(とうせい)を受けたことで、反発した庶民が風刺(ふうし)の効いた多くの作品を残したり、幕府政治の長期化で限界が見えつつあった幕藩体制(ばくはんたいせい)に対して、新しい体制を模索(もさく)しようとする動きもあったりしました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
今でも東京は書籍出版会社が
集中して多いのは、この頃からの文化の
急速な発達があったからこそなんですね^^
公営、或いは私設の図書館などとは
別に個人の商売として貸本屋が流行っていたわけですね。
今は貸本屋さんという存在は、滅多にみられなく
なった様に思いますが、あるところのはまだまだ存在しているのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに書籍に関する文化が根付いたことが出版会社の相次いだ設立をもたらしたといえますね。
貸本屋は1950年代までは繁盛していたようですが、図書館の全国的な普及や著作権の問題で今ではほとんど残っていないようです。
山東京伝(さんとうきょうでん)は洒落本の仕懸文庫(しかけぶんこ)や黄表紙の江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)などの写実的な作品を著(あらわ)しましたが、松平定信の寛政の改革によって幕府からの弾圧(だんあつ)を受けました。
文化文政時代の頃になると、滑稽本(こっけいぼん)や人情本(にんじょうぼん)が庶民の人気を得るようになりました。庶民の日常生活を生き生きと描(えが)いた滑稽本は、浮世風呂(うきよぶろ)・浮世床(うきよどこ)の式亭三馬(しきていさんば)や、東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)の十返舎一九(じっぺんしゃいっく)らが有名です。
なお、浮世床は髪結(かみゆ)い床(どこ)に集まる庶民の会話を通じて当時の生活を描写(びょうしゃ)した作品です。また、東海道中膝栗毛は弥次喜多(やじきた)の珍道中(ちんどうちゅう)として知られており、現代においても映画化されるなど大きな影響を与えています。
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ぴーち こんにちは!
今でも確かに床屋さん、美容室と言われる場所は
地域の人たちが集まる社交場としての機能は
まだまだ残っている所が多いようですよね^^
弥次喜多道中なども、今でも語り継がれている
コメディとして有名なのがすごいですね(^^)v
応援凸
アングラ文化全盛。
晴雨堂ミカエル 文化文政期はアンダーグランドの庶民文化が発達した事でも知られていますね。だから私はこの時代が好きです。
春画は印刷技術を世界最高へと押し上げ、色彩やデフォルメは西洋の絵画に大きな影響を与えました。そしてこの文化の直系子孫が現代の漫画メディアです。
いま政府は天保の改革と同じ漫画メディア規制を始めています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、最近は短時間でできる店も増えていますが、社交場としての床屋や美容室もまだまだ存在しています。
弥次喜多珍道中は今世紀になっても映画が二本もつくられています。東海道中膝栗毛が発表されてからおよそ300年ですから、もの凄いロングセラーですよね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るような文化もまた歴史ですね。
規制しようというのもまた歴史なのでしょうか…。
また、黄表紙の流れをくむ絵物語の長編は合巻(ごうかん)と呼ばれ、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)が有名となりましたが、これも天保の改革によって処罰(しょばつ)を受けました。
一方、黄表紙のように挿絵を使用せず、文章を主体として歴史や伝説を題材にした物語である読本(よみほん)も人気を集めました。例えば、大坂の上田秋成(うえだあきなり)は、田沼時代の頃に怪奇小説を集めた雨月物語(うげつものがたり)を著しました。
この他、江戸の曲亭馬琴(きょくていばきん、別名を滝沢馬琴=たきざわばきん)が、文化文政から天保の頃に勧善懲悪(かんぜんちょうあく)や因果応報(いんがおうほう)の思想が込められた長編の南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)を著しましたが、この作品は近代から現代においても映画やテレビドラマ、あるいは漫画やゲームの世界にまで幅広く影響を与えています。




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ぴーち こんにちは!
封建的な社会では作家といえども
命がけでしたね(^_^;)
南総里見八犬伝の映画は、私が
一番最初に観賞した時代劇でした^^
今でもわくわくして観賞した気持を
覚えていますよ♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり命がけでした。中には弾圧を受けたショックで亡くなられたと思われる作家もいます。
南総里見八犬伝が我が国に与えた影響は計り知れないものがありますね。弥次喜多同様、何百年も続く大ベストセラーだと思います。
画家でもあった蕪村は、「菜の花や 月は東に 日は西に」のように詠(よ)んだ句がそのまま絵画の情景に使用できるような内容の句が多く、「雀(すずめ)の子 そこのけそこのけ お馬が通る」のような動物や子供、あるいは農村の日常を詠んだ一茶の句には現代においても親近感を感じるものが多いです。なお、蕪村は蕪村七部集(ぶそんしちぶしゅう)、一茶はおらが春の句集がそれぞれ有名です。
一方、町人の社会では世情(せじょう)を風刺(ふうし)したり、あるいは皮肉(ひにく)ったりした狂歌(きょうか)や川柳(せんりゅう)が流行しました。狂歌は短歌、川柳は俳諧をモチーフとしており、代表的な作者としては狂歌に大田南畝(おおたなんぽ、別名を蜀山人=しょくさんじん)が、川柳には名称の由来となった柄井川柳(からいせんりゅう)らがいます。
なお、先述の「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」という狂歌は大田南畝の作です。また、当時の川柳を集めた作品集として誹風柳多留(はいふうやなぎだる)があり、「役人の 子は にぎにぎを よく覚え」などの作品が有名です。ちなみに「にぎにぎ」とは、賄賂(わいろ)をこっそりと手で握(にぎ)って受け取るという風刺の意味が込められた言葉です。
この他、和歌では僧の良寛(りょうかん)が子供との日常などの生活感情あふれる作品を残しています。
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ぴーち こんにちは!
蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」
この一文を読ませていただくだけでも
何一つ妨げるものが無い
広々とした大地の様子が目に浮かぶ様ですよね~
私も好きな俳句の一つです(^^)v
また小林一茶の方も
仰るとおり、「やれ打つな、蝿が手をする足をする」などと蝿が命乞いでもしているのでは無いかと思うように見える様子がまた面白くもあります。
また「たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」は涙さえ誘う描写です。
どちらも好きな俳人でもあります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 蕪村も一茶も、それぞれの個性を生かした素晴らしい句を残していますね。
芭蕉とはまた一味違うような思いがします。
> 「たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
これは石川啄木だったと記憶しているのですが…。
ちなみに下の句が「力みなぎり一本背負い」という笑い話もあるようです。
管理人のみ閲覧できます
-
その後、浄瑠璃は人形操(あやつ)りから分離(ぶんり)した一中節(いっちゅうぶし)や常盤津節(ときわづぶし)・清元節(きよもとぶし)・新内節(しんないぶし)などの座敷(ざしき)で唄(うた)われた唄浄瑠璃(うたじょうるり)が盛んになりました。
浄瑠璃に代わって18世紀後半から江戸を中心に大流行となった歌舞伎では、七代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)などの歌舞伎役者によって数々の名作が演じられました。
例えば、文政期には鶴屋南北(つるやなんぼく)が東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)などの怪談物を完成させたり、幕末(ばくまつ)には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が盗賊(とうぞく)を主人公にした白浪物(しらなみもの)を残したりしました。この他、先述した義経千本桜や仮名手本忠臣蔵も歌舞伎として上演されています。
歌舞伎の劇場(げきじょう)ではせり上げや廻(まわ)り舞台など様々な工夫を凝(こ)らして豪華(ごうか)な演出を見せましたが、その派手(はで)さが仇(あだ)となり、やがて天保の改革で厳しい規制を受けることになってしまいました。
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晴雨堂ミカエル けっこう小悪党だったらしいですね。伊右衛門は自分がモデルだったとか。
ぴーち こんにちは!
前記事では失礼致しましたm(__)m
訂正くださり感謝致します^^
歌舞伎は今でも人々の娯楽として
脈々と受け継がれていますね^^
やはりいつの時代も、余り過激になりすぎたり、
派手になり過ぎると、批判の対象になってしまうものなんですね(^^ゞ
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 芸術家など一芸に秀でている人物は、一般の常識とは異なる考えを持つことが多いらしいですからね。鶴屋南北も例外ではなかったということでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歌舞伎の隆盛は現代につながっていますね。ただ、派手すぎると叩かれるのはいつの世も同じなのでしょうか…。
> 前記事では失礼致しましたm(__)m
> 訂正くださり感謝致します^^
いえいえ、私も間違えることがありますし、お互い様ですよ。
ケレン
ろっぽん 派手な宙釣りや仕掛けはケレンといって
私が舞台監督の時代によく子ども芝居で多様しました。基本の舞台装置の仕様は現代でも使われています。それはニューヨークのミュウジカルでも採用される世界標準で結構高度な技術で日本が世界に誇る技術文化です。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、我が国仕様の技術はこんなところにも生かされているんですね。
なぜ天保の改革で弾圧しようとしたのか…。朱子学の毒の根は深いです。
寛政の頃にはポッピンを吹く女などの多くの美人画を描(えが)いた喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や、市川鰕蔵(いちかわえびぞう)などの個性的な役者絵や相撲絵を描いた東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)らが、上半身や顔を主に描いた大首絵(おおくびえ)の作品を次々と残しました。東洲斎写楽は謎(なぞ)の多い人物としても有名です。
錦絵は寛政の改革による規制で衰えましたが、天保の頃には風景を浮世絵的に描いた絵画が流行するようになりました。葛飾北斎(かつしかほくさい)の富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)や、歌川広重(うたがわひろしげ)の東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)などが有名です。
なお、これらの浮世絵は幕末の開国後に海外に出回ったことで、モネやゴッホなどのヨーロッパ印象派の画家にも大きな影響を与えています。
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ぴーち こんにちは!
そうですよね。日本の浮世絵は世界的に有名な
海外の画家達にも多大な影響を与えているという所が誇れることだと思います^^
写楽もいろいろな説を言われているようですが、
本当の所はどうだったんでしょうかね?
応援凸
写楽。
晴雨堂ミカエル むかし真田広之が写楽を演じた映画がありましたね。共演女優との色恋沙汰のほうが話題になりましたが。
映画では写楽は軽業師あがりの絵師という設定でしたが、最近ギリシアで見つかった写楽の肉筆絵から、ある能楽師が有力説になりつつあります。
能楽師なら大小さした士分、興味深いです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 浮世絵は我が国が世界に誇れる技術ですよね。
誇れる文化が多いのは幸せなことですし、この伝統をつないでいきたいものです。
写楽については少しずつ明らかになっているようですが、はっきりとした証拠があればいいですよね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 斎藤十郎兵衛という名の能役者が写楽の正体だという説がありますね。
もし本当にそうだとすれば、なぜ写楽を名乗ったのか…謎は尽きないです。
HANA子 先日、人が乗り込んで操縦する4mサイズの四速歩行ロボットを民間で……というか個人で作ってる方のニュースを見たのですが、凄いなぁと
自分が作りたい物を作るって口で言うほど簡単なことじゃないですよね
結局新しい文化ってものは活力ある民間から生まれ出るものなんだなって思います
より新しいもの、楽しいもの、美しいもの、刺激的なもの
より正確に言うと、その時々の時代の主人公たる人々の手によって生まれる、でしょうか
花開いたこの時代の文化は現在にも通じる部分が多々ありますが、果たして現在の我々はその後200年未来に通じる文化が残せるものでしょうか?
先述のロボットがどうかはともかくとして、新しいものにチャレンジする精神が生み出す何かを目撃したいものだなって思います
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、文化というものはお上の主導ではなく、民間の活力で育て上げるものです。
物資が豊富な時はフルに活用して、少ない際にはそれなりに工夫して文化を育む。こんな当たり前のことを、私たちの世代も忘れずに子孫に伝えていきたいものですね。
円山派からは呉春(ごしゅん、別名を松村月溪=まつむらげっけい)が四条派(しじょうは)を興(おこ)し、柳鷺群禽図屏風(りゅうろぐんきんずびょうぶ)などの作品を残しました。
中国の明(みん)や清(しん)の時代に描かれた文人画(ぶんじんが、専門の画家ではない文人や学者が描いた絵のこと)は我が国でも漢学者を中心に広まり、18世紀後半には池大雅(いけのたいが)と、俳諧師(はいかいし)でもあった与謝蕪村(よさぶそん)が十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)を合作(がっさく)しました。
文人画はその後、豊後(ぶんご、現在の大分県)の田能村竹田(たのむらちくでん)や江戸の谷文晁(たにぶんちょう)・渡辺崋山(わたなべかざん)らに受け継がれています。渡辺崋山は蛮社の獄(ばんしゃのごく)で弾圧された人物としても有名ですね(蛮社の獄についてはいずれ改めて紹介します)。
徳川吉宗による漢訳洋書(かんやくようしょ)の輸入緩和(かんわ)によって蘭学(らんがく)が広まったことは、西洋画の技法を我が国にもたらすとともに、日本人による油絵の作品を生み出しました。西洋婦人図(せいようふじんず)を描いた平賀源内(ひらがげんない)や司馬江漢(しばこうかん)・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)らが有名です。なお、司馬江漢は我が国で初めて銅版画(どうはんが)を制作しています。
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ぴーち こんにちは!
油絵はこの頃に日本にもたらされたのですね。
もう少し歴史が浅いと思っておりましたが、
案外、古くからあるものなんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国の油絵の歴史は信長の時代から始まりますが、カトリックの禁止で一度は途絶えました。
その後、吉宗の漢訳洋書の輸入緩和で再び広まったようですね。
吉宗の政治の「善」の部分でもあります。
教育に対する情熱は民間においても同様でした。武士や学者、あるいは町人によって多くの私塾(しじゅく)が開かれ、様々な学問が講義されました。18世紀初めに大坂の町人が出資して設立された懐徳堂(かいとくどう)からは、富永仲基(とみながなかもと)や山片蟠桃(やまがたばんとう)らの町人学者が生まれています。
一般庶民の教育機関としては寺子屋(てらこや)があり、時代が下(くだ)るにつれて数多く開設されていきました。村役人や僧侶(そうりょ)・神官(しんかん)・牢人(ろうにん)や富裕な町人などが師匠(ししょう)として読み・書き・算盤(そろばん)などを教え、世界にも引けを取らない我が国における民間の識字率(しきじりつ)の高さに貢献(こうけん)しました。
また18世紀初めには京都の石田梅岩(いしだばいがん)が石門心学(せきもんしんがく、または心学=しんがく)を始め、神道(しんとう)や仏教に由来する道徳や倫理(りんり)を教えるとともに、商人の存在意義や商業活動における営利の正当性などの商人道(しょうにんどう)を説(と)きました。
なお、石田梅岩の教えは弟子の手島堵庵(てしまとあん)やその弟子の中沢道二(なかざわどうに)らによって全国に広まりました。




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ぴーち こんにちは!
「読み」「書き」「そろばん」
は、今でも学校教育の基本でもありますよね^^
今は「そろばん」の代わりに「計算」と表現しているようですが、そろばんは暗算を得意にしてくれますし、指先を使う事で更に脳血流を良くする理に適った道具だなと思います^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、昔の道具にはそれなりの役目があります。
電卓が主流になった現代人には、暗算の機能が失われつつあるのではないかと危惧してしまいますね。
識字率について。
晴雨堂ミカエル この時期の日本の教育水準の高さは評判ですが、私の知人に人の言う事を何でも疑問をもち否定してみないと気が済まないひねくれた輩がいて、この識字率の点にも偉そうに異を唱えられた事があります。
彼の言うには、さほど識字率が高かった訳ではない、自分の名前を書けただけでも読み書きできる数に加えたに決まってる、という意見です。
彼の偉そうで断定的な物言いの割りには、これとて根拠の提示はありませんでした。
黒田氏は何かデータをお持ちですか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 1.当時の江戸時代を知る外国人(ゴロウニンなど)が、識字率の高さを証言している。
2.化政文化で絵物語を含む出版物が大流行している(絵物語でも文字が分からなければ全体像が理解できない)。
3.神社の絵馬には数学に関する記録が地方においても奉納されている(数学ができて文字が書けないはずがない)。
4.地方における年貢率などの伝達は当然文書で行われる(地方の農民が読み書きできなければ法外な年貢を取られる可能性があるから、当然自己防衛で読み書きはこなしたはず)。
5.明治維新後の近代化が地方においても進んでいた(もし明治以前に識字率が低ければ、まずは高くすることに時間がかかるはずであり、あれだけのスピードでの近代化は有り得ない)。
以上はすべて状況証拠ですが、これだけ挙げれば充分でしょう。
それらは私も提示しました。
晴雨堂ミカエル 黒田氏が仰った要素は全て私も存じていて既に提示しています。あの輩はその場では納得するが、日にちが経つとまた蒸し返し、もっと確かな数学的データを要求し、答えられないと、持論を強弁する始末。いつもこの調子で絡むので、気が疲れて鬱陶しく今は絶縁しています。
ふと当時を思い出して、聞いてみました。普通はあれで十分ですよね。それ以上の状況証拠は時間と労力とのバランスを考えても意味はないし物理的に無茶です。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 相手側の言い分を聞いていない以上は断定できませんが、仰られたことが事実と仮定した場合はそう言わざるを得ませんね。
相手を言い負かすことに命を懸けて、(相手が馬鹿馬鹿しくなって話すのをやめた場合も含めて)相手が黙り込めば「どうだ」と言わんばかりに悦に入る。そんな人間はどこにでもいますし、仮に大臣など一定の地位に登り詰めれば、本人は全く自覚がなくても失言のオンパレードとなる。つい最近も起きたばかりですね。
個人的話ですみませんでした。
晴雨堂ミカエル 当方の個人的話を持ち出してすみませんでした。
江戸時代後期の識字率について嫌な思い出があったので、つい愚痴含みの質問をしてしまいました。
晴雨堂ミカエルさんへ その3
黒田裕樹 いえいえ、こちらも識字率についての認識を深めることができましたし、大丈夫ですよ。
国学は京都・伏見稲荷(ふしみいなり)の神官(しんかん)出身の荷田春満(かだのあずままろ)やその門人(もんじん)の賀茂真淵(かものまぶち)によって発展し、真淵の門人である本居宣長(もとおりのりなが)によって大成されました。
本居宣長は当時ほとんど解読できなかった古事記(こじき)の研究に心血(しんけつ)を注(そそ)ぎ、約35年の歳月(さいげつ)を費(つい)やして古事記伝(こじきでん)を完成させました。宣長は古事記の研究を通じて、真心(やまとごころ)を失わずに清らかな心を持つことで古道(こどう)にそった人間生活を送ることが出来ると説いています。
宣長没後の19世紀前半には門人の平田篤胤(ひらたあつたね)が我が国古来の純粋な信仰を尊重する復古神道(ふっこしんとう)を唱(とな)え、その国粋(こくすい)かつ排外的(はいがいえき)な思想は幕末の尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)に大きな影響を与えました。
また、盲目(もうもく)の学者であった塙保己一(はなわほきいち)は幕府の援助を受けて和学講談所(わがくこうだんしょ)を設立し、群書類従(ぐんしょるいじゅう)を編集して古典の収集や保存を行いました。




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ぴーち こんにちは!
本居宣長というお名前は歴史の授業でよく
耳にしておりましたが、35年間もの年月を費やして
一つの事に没頭していたとは、驚きました。そういう執念の偉業に思いを馳せると彼の功績に頭が下がる思いですねm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、一生をかけて大事業を完成させた宣長の執念には敬服するばかりです。
彼の努力のお蔭で現代の私たちでも古事記を読むことができるのですから、その功績は計り知れないものがあると思います。
HANA子 100年前、1000年前の古文書が残っていて、それを読む・知ることが出来るってのは凄い事なんですよね。
それを当たり前の様に享受できるということは。
今でも多くの古書・古文書の研究は広く行われていますが、こうして文化っていうものは先人から現代へと受け継がれていくんですねぇ
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、私たちが当たり前のように享受していることは、先人の努力の結晶でもあるんですよね。
伝統を受け継いでいくことがいかに大切であるか、ということがよく理解できます。
我が国では西洋の学術や知識が当時ヨーロッパで唯一(ゆいいつ)貿易を行っていたオランダから伝えられたこともあり、吉宗が青木昆陽(あおきこんよう)や野呂元丈(のろげんじょう)にオランダ語を学ばせたので、洋学は蘭学(らんがく)として始まりました。
田沼時代の頃には前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって西洋医学の解剖書(かいぼうしょ)であるターヘル=アナトミアが翻訳(ほんやく)され、1774年に解体新書(かいたいしんしょ)として完成しました。
蘭学はその後も大槻玄沢(おおつきげんたく)や宇田川玄随(うだがわげんずい)らによって発展し、玄沢の門人の稲村三伯(いなむらさんぱく)は蘭日辞書(らんにちじしょ)であるハルマ和解(わげ)を刊行しました。また平賀源内は物理学の研究を進めたほか、静電気発生機であるエレキテルを復元しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
杉田玄白、平賀源内と今の日本の医療や科学の
大きな発展の大元となる功績を残した方が活躍されていた時代でもあるんですね^^
活気ある時代でもあったワケですね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、活気ある時代ですね。
江戸時代がすべて暗黒の歴史であるとする史観では語ることのできない素晴らしい時代だったと思います。
これも田沼政権の功績です。
幕府の天文方(てんもんがた)の高橋至時(たかはしよしとき)は西洋の暦法を考慮(こうりょ)した寛政暦(かんせいれき)を作成し、弟子となった伊能忠敬(いのうただたか)は、50歳を過ぎてから全国の測量を実施して大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)を作成しました。
伊能図(いのうず)とも呼ばれるこの地図は、忠敬の死後の1821年に完成していますが、実際の地図と比べても遜色(そんしょく)のない高い精度を保(たも)っています。
幕府は翻訳作業を円滑(えんかつ)に行うために、至時の子で同じく天文方の高橋景保(たかはしかげやす)の建議(けんぎ)によって蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を設けました。なお、蛮書和解御用は幕末に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称され、現代の東京大学の源流の一つとなっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
伊能忠敬はすでに50になってから
測量の旅に出かけたのですか(゚д゚)!
人生わずか50年・・・と言われていた
時代ですよね??
今で言えば、すでに80歳くらいに到達した
老体を鞭打って。。。
と言った所でしょうか(^^ゞ
いやいや。
それを伺って、忠敬の人並み外れた体力と
行動力に感服しました!!!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 伊能忠敬は50歳まで商人として活躍し続け、隠居後に20歳近く年下の高橋至時に弟子入りして天文学を一から勉強しました。
仰るとおり人生50年の時代にリタイアしてからあれだけの大事業を達成するのですから、途方もないバイタリティーの持ち主だったのでしょうね。
オバrev まあ、個性的な人達が次々出てきたんですね。
それはやはり、積もったエネルギーと発散させる自由な場があったからなんでしょうか。
特に伊能忠敬には感心します。いくら高橋至時に弟子入りして学んだといえ、年も年だし、日本地図を作成しようというモチベーションが普通は湧いてこないと思うんですけど、一体何が彼を動かしたんでしょうか?
それに比較して、現在は持っているエネルギー自体が不足しているように感じます(^_^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この頃の我が国のエネルギーは凄まじいものがあります。
ここまで発展した理由としては、やはり平和であったことと、西洋の知識を手に入れる自由があったことではないでしょうか。
伊能忠敬は幼い頃から天文学に興味があったそうですが、それにしても彼の持つパワーはどんな人物もかなわないでしょう。
それもこれも大いなる探究心がもたらしたものであり、恵まれすぎている現代では逆にエネルギーとなるものが存在しないのかもしれません。
3百年前のオランダ語。
晴雨堂ミカエル 時代劇専門漫画誌「乱」に掲載された作品の中に、ペリー来航に同行した通訳が日本側通訳のオランダ語を聴いて「彼らが話しているオランダ語は3百年前のもの。素晴らしい」と驚嘆する場面がありました。
これは事実ですかね?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私はそこまで詳しくは知りませんが、日本人がオランダ語を単なる通訳用にしか使っていなければ、進化せずにそのままの可能性がありますので、事実かもしれませんね。
この事件はシーボルト事件と呼ばれており、前述した天文方の高橋景保が事件に関与したとして捕まり、後に獄死(ごくし)しました。なお、シーボルトは我が国が開国後に再来日しています。
大坂では幕末に緒方洪庵(おがたこうあん)が適塾(てきじゅく、正式には適々斎塾=てきてきさいじゅく)を開き、福沢諭吉(ふくざわゆきち)・橋本左内(はしもとさない)・大村益次郎(おおむらますじろう)らの多くの人材を育てました。
こうした洋学の研究が盛んになる一方で、洋学を通じて世界情勢などの様々な認識を得た蘭学者によって幕政を批判する声が上がったことに対して、幕府は後述する蛮社の獄(ばんしゃのごく)などで厳しく統制しました。このこともあり、洋学は主として医学や兵学、あるいは地理学などの実学(じつがく)として発達しました。
幕末に海防論(かんぼうろん)が叫(さけ)ばれたころには、伊豆(いず)の代官の江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん、別名を江川坦庵=えがわたんあん)が大砲を鋳造(ちゅうぞう)するための反射炉(はんしゃろ)を設けました。また、開国論者の佐久間象山(さくましょうざん)は坦庵に学んで江戸で兵学を教え、吉田松陰(よしだしょういん)や勝海舟(かつかいしゅう)などの人材を育てています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
今は簡単に地図など誰もが閲覧出来、
入手出来る時代ですが、
この頃は国外追放などという重い処分を
受ける羽目になってしまったのですね(^^ゞ
やはり外国に日本の地形などを容易に
知られてしまうと
戦などになったときには不利になるという
考えからでしょうか・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、情報の少ない当時では日本地図は最大級の国家機密でした。
国外追放や関係者の処分は致し方ないといえますね。
- 松下村塾は有名ですが、適塾からも幕末、明治維新にかけての重要な人材を輩出しているんですね。
あの手塚治虫の祖父も塾生だったらしいし、手塚治虫自身は適塾の流れを引く大阪大学医学部卒という縁がありますね。
それと福沢諭吉が適塾出身だったとは知りませんでした。慶応大学を興した人物ですが、大阪出身だったんですね。
学生時代を大阪で過ごした私としては、江戸幕府成立以来、何となく1番江戸2番大阪、大阪は商人の町というイメージだったんですが、実は大阪は商人だけでなく日本を動かす偉大な人材を輩出していたというのは大変痛快でした\(^O^)/
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 福沢諭吉は幼い頃に中津藩大坂屋敷に住んでいたことがあるんですよ。ちなみに生誕地は現在「ほたるまち」として朝日放送本社などがあります。
大坂は天下の台所ですが、仰るとおり幕末は「人材の台所」でしたね(^^♪
日本地図
ろっぽん 18世紀に室蘭にロシアが北海道の測量に上陸してますね。いくら機密扱いにしようともドンドン漏れるという頭隠して尻隠さずの状態が日本の現実ですね
なんかこのごろ民話「うそ吹き太郎」を書いて
つくずく日本人って稚拙で排他的な民族のような気がする。
●、個性を認めない社会で違う人間をパージする社会である
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、秘密にしていても勝手に測量されることが後を絶ちませんでした。
それだけ他国の追及も多かったということですが、いずれは明らかになるとしても、自分から国家機密をオープンにするという亡国の行為は、どんな国でもやはり処罰される対象となるでしょう。
亡国
ろっぽん 亡国とはその時々の組する組織によって定義する言葉であって歴史家は安易につかうべきではないですよ!開国後、再度訪問してるということは
その当時の保守的な役人の稚拙な判断ですよ!
ろっぽんさんへ その2
黒田裕樹 了解いたしました。
最初の事件の場合、シーボルトのような外国人に適用する法律がなく、かといって危害を加えようものなら国際問題に発展する可能性もありますから、国外追放以外に手段がなかったと思われます。
なお、再来日できたのは開国後にオランダと我が国が正式な条約を締結した際にシーボルトに対する追放の身分が解除されたからです。開国で何もかも変わってしまったんですね。
「稚拙な判断」かどうかは、当時の役人が「国家機密の漏えい」にどれだけ神経をとがらせていたかどうかにかかっていると思います。
適塾
青田です。 黒田先生
青田です。
恥ずかしながら、私は、関西人でありながら
まだ、適塾には、行ったことがありませんでした。
歴史好きで、関西人としては、情けない話ですが、
それほど、凄いとは知りませんでした。
この適塾は、有能な人材が輩出されましたが、
後で知りましたが
〇 大阪大学医学部の前身。
〇 灯りの消えていいることは、なかった。
絶えず、灯りがついていた。
〇勉強のしすぎで、死人が出た。
おそらく、私が、その時代に生きていても、松下村塾には、入れても、適塾では、ドロップアウトしそうです。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにすごいですよね。
福沢諭吉や大村益次郎を輩出しただけのことはあります。
八戸(はちのへ)の医者であった安藤昌益(あんどうしょうえき)は自然真営道(しぜんしんえいどう)を著して、すべての人間が農耕(のうこう)で生計(せいけい)を立てる「自然の世(よ)」こそが理想であり、農作業とは無縁(むえん)の武士が支配する社会や身分社会を否定しました。
昌益の存在が世に広まったのは明治時代になってからですが、その思想は共産主義や無政府主義の考えにも関連するとして幅広(はばひろ)い支持を受けました。
この他、海保青陵(かいほせいりょう)は稽古談(けいこだん)を著して武士の商業軽視を批判し、藩で専売制を行うなどの重商主義の必要性を説きました。本多利明(ほんだとしあき)は西洋諸国との貿易の必要性を西域物語(せいいきものがたり)で説き、田沼意次が蝦夷地(えどち、現在の北海道)を調査した際には弟子の最上徳内(もがみとくない)を推薦(すいせん)しています。
また、佐藤信淵(さとうのぶひろ)は経済要録(けいざいようろく)を著して、積極的な海外進出による経済の振興(しんこう)を主張しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
そうですよね。
江戸時代は300年続きました。。
と歴史では一口で括られたりしますが、
その300年もの長い間に
封建的な社会の秩序がこれだけの期間保たれたということはそれぞれの代で、並々ならない苦労があったに違い有りませんよね。
そういう影の部分をこうして知る事が出来、ありがたく存じております^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、平和の維持には大変な労力を必要としました。
幕府成立から100年以上が経つと徳川家の政権が当たり前になってしまった印象がありますが、それでも体制を維持するために数多くの政治家が知恵を絞っています(成功か失敗かは別にして)。
これからしばらくは幕府崩壊の「もう一つの理由」が中心になりますね。
わろ 江戸時代って、意外と多様な主義主張を発表できたのですね。
江戸時代こそ共産主義に近い気がするのですが、そんな中でも共産主義を唱えるとは、なんだか共産主義の理想には恐れ入ります。
ところで、江戸時代って何主義に当たるのでしょうか?
体制は封建だと思うのですが、経済的には、税が米なので謎ですw
わろさんへ
黒田裕樹 江戸時代は封建社会ですから、幕府の批判は許されなかったものの、それ以外であれば結構主義主張が許されていたと思います。
少なくとも共産主義にありがちな「言論の自由が一切認められない暗黒社会」ではないですね。
江戸時代は封建主義で、経済的には一時期を除いて重農主義ですね。また鎖国の状態が排他主義を生んで、それが幕末の混乱を引き起こすことになります。
オバrev あ~、やってもうた( ̄0 ̄)
またや、これで3回目?4回目?
ホンマに学習能力あれへんのちゃう??
黒田先生、すまんです。
またまた名無しの権兵衛でコメントしてしまいました(m_m)
しかし田沼意次の政策は、現在の経済政策にもっとしっかり検証して生かされるべきですね。私の目には、財務省が吉宗や定信に見えてきました(^_^;
ところで倒幕後の明治維新の経済政策は、どっち派なんでしょうか。世の中が大きく変わったときの政策ってのは、倹約ではダメなような気がしますが?
オバrevさんへ
黒田裕樹 やっぱりそうでしたか(^^ゞ
ホストから大体は想像できたのですが、やっぱり万が一ということがありますからね。
仰るとおり、今こそ田沼意次の積極財政に学ぶべきです。不景気に増税したら国が傾くということは、江戸の三大改悪、じゃなかった改革で証明済みのはずですが…。
明治維新は名付けるとすれば「超積極的でなんでもありの経済政策」ですね。近代化一筋である意味ハチャメチャでしたから。よくぞ近代化をあんな短期間で成し遂げたものです。もっとも、失ったものも数多いですが…。
西洋のユートピアに通ずる。
晴雨堂ミカエル 安藤昌益の思想は西洋の基督教信徒たちが思い描く理想郷と同じと言っても良いですね。古今東西、人間が考える理想郷のイメージは共通する訳ですな。
田沼の政治を見直す動きが現代政治の現場で無い原因の1つに、やはら2百年以上に渡って刷り込まれた田沼悪と倹約を善とする固定観念ですね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 安藤昌益の考えは仰るとおりですね。彼が発掘された明治時代の頃は共産主義や無政府主義に流行の兆しが見えていた頃ですから、いわば広告塔のようなイメージで広がっていったようです。
一度貼られたレッテルの挽回は至難の業ですね。現代においてもマスコミによる一方的なイメージに苦しんでいる人々が多いはずです。
かくして、当初は幕府の支配に都合が良かった朱子学によって、将軍は天皇に臣従(しんじゅう)すべきであるとする尊王論(そんのうろん)が導(みちび)き出されるという、何とも言えない皮肉な現象が生まれていったのです。
18世紀後半になると、竹内式部(たけうちしきぶ)が京都で若い公家(くげ)たちに尊王論を説き、また山県大弐(やまがただいに)が柳子新論(りゅうししんろん)を著して江戸で尊王論を説きましたが、両者とも江戸幕府によって処罰されました。
なお、竹内式部が1759年に幕府によって追放処分にされたのは宝暦事件(ほうれきじけん)、山県大弐が1767年に死刑となったのは明和事件(めいわじけん)と呼ばれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
朱子学は幕府が考えるよりも、もっと崇高な教えであったということでしょうか。
国民も次第に高い教養を身につけ、本当に言わんとしている内容をしっかり把握出来るだけの見識が高くなっているにも関わらず、幕府は国民を侮っていた事が
拍車をかけたのでしょうかね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
幕府としては都合が良かったゆえに高をくくっていた一方で、学問というのは常に進化しますから、朱子学に秘められていた真の評価に幕府が対応できなかったともいえそうです。
幕府にとってさらに想定外だったのは、そんな朱子学の変化に対して、意外なところから火の手が上がったことでしょうか。
次回の更新で明らかにしたいと思います。
水戸藩では藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)によって大日本史(だいにほんし)の編纂(へんさん)が始められましたが、作業が進んでいくうちに、前述した「徳をもって世の中を治(おさ)める王者(おうじゃ、天皇のこと)が権力に頼(たよ)って支配する覇者(はしゃ、幕府のこと)にまさる」という思想につながったのです。
尊王論は後述する外国勢力の接近に対抗するために外国人を実力行使によって排斥(はいせき)しようとする攘夷論(じょういろん)と結びつくようになり、水戸学の世界でも藤田幽谷(ふじたゆうこく)・藤田東湖(ふじたとうこ)の父子や会沢正志斎(あいざわせいしさい)らによって尊王攘夷論(そんのうじょういろん)が唱(とな)えられ、幕末の思想に重大な影響を与えました。
また、寛政の頃には高山彦九郎(たかやまひこくろう)が全国を旅して尊王思想を広めたり、蒲生君平(がもうくんぺい)が歴代天皇の御陵(ごりょう)を調査して山陵志(さんりょうし)を著したり、頼山陽(らいさんよう)が日本外史(にほんがいし)を著すとベストセラーとなったりしたことで、尊王思想は幕末の民間にまで広く浸透(しんとう)することになりました。
なお、蒲生君平はいわゆる「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」の名付け親でもあります。この他、先述したように平田篤胤による復古神道も、全国の下級武士や豪農を中心として幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
尊皇攘夷の考え方というのは幕末から
昭和の第二次大戦中にまで受け継がれていた思想
だったのでしょうか・・・・?
天皇を現人神と祀り上げられた理由もそこから来ているのですか?
応援凸
オバrev 出た~!頼山陽~~!!
頼山陽と言えば、祖父惟清が広島県竹原市に居たこともあり、広島と縁もゆかりもある人です。
ちなみ私は竹原市の隣町に住んでます^^;
日本外史の詳しい内容は分かりませんが、日本史に大きな影響があった人なんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 尊王攘夷の思想は確かに明治以降も受け継がれました。
このうち、尊王に関してはもともと我が国では皇室を素直に敬愛する思想があったので、幅広く拡大した一面があります。
また、第二次大戦に至る過程においては、天皇は現人神として「利用された」印象も見受けられます。昭和天皇は終始平和を願われておられましたから。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、頼山陽は広島と縁深い人物ですね。
日本外史は源平から徳川氏までの武家の歴史をまとめたもので、物語のような読みやすさが評判を呼んだといえそうです。
寺社も人々の信仰(しんこう)を集め、修繕費(しゅうぜんひ)や運営費(うんえいひ)を得るための目的も兼(か)ねて縁日(えんにち)や富突(とみつき、いわゆる富くじのこと)が行われたり、秘仏(ひぶつ)を公開する開帳(かいちょう)が催(もよお)されたりしました。
人々の生活に余裕が生まれたことで、湯治(とうじ)や物見遊山(ものみゆさん)などによる旅も盛んとなりました。中でも伊勢神宮(いせじんぐう)や信濃(しなの)の善光寺(ぜんこうじ)、讃岐(さぬき)の金毘羅宮(こんぴらぐう)、下総(しもうさ)の成田不動(なりたふどう)などへの参詣(さんけい)は信仰と結びついて定着し、特に伊勢神宮は御蔭参(おかげまい)りと呼ばれて周期的に大流行しました。
この他、いわゆる聖地(せいち)や霊場(れいじょう)を巡拝(じゅんぱい)する西国三十三ヵ所(さいごくさんじゅうさんかしょ)や四国八十八ヵ所(しこくはちじゅうはちかしょ)への巡礼(じゅんれい)の旅も行われました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今日の記事の様子を伺っているだけでも、平和で安定した世の中の様子が浮かんで参ります^^
現代でもこの頃起こった風習が今でも継続されているものが多いですね^^
縁日や富突などは平和な世の中を象徴する最たるものと言えますかね?^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、現代にも通じる我が国の平和な日常ですね。
いつまでも続けていきたい風習だと思います。
前夜から日の出を待って拝(おが)む日待(ひまち)や、十五夜(じゅうごや)など特定の日の月の出を待って拝む月待(つきまち)、あるいは十干十二支(じっかんじゅうにし)で60日に一度巡(めぐ)ってくる庚申(こうしん)の日に集まり、眠(ねむ)らずに徹夜(てつや)して過ごす庚申講(こうしんこう)なども、人々の社交(しゃこう)や娯楽(ごらく)として行われました。
幕末を迎える頃にはそれまでの幕藩体制の揺(ゆ)らぎが激(はげ)しくなり、社会不安が増大しましたが、そんな世相(せそう)を反映(はんえい)するかのように民間から次々と新しい宗教が広まりました。
民衆宗教としては黒住宗忠(くろずみむねただ)の黒住教(くろずみきょう)、中山(なかやま)みきの天理教(てんりきょう)、川手文治郎(かわてぶんじろう)の金光教(こんこうきょう)などが挙(あ)げられ、それぞれ独自の信仰によって人々を説き、新たな教団(きょうだん)を組織していきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
こうしてみると、日本人がいかに感性が豊かであるかということが、うかがい知れますね^^
今度は、黒田教がそろそろ誕生するのでは・・・?(´∀`*)ウフフ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、豊かな感性が我が国の文化を形成していったんですよね。
> 今度は、黒田教がそろそろ誕生するのでは・・・?(´∀`*)ウフフ
お経は歴史講座の文章にしましょうか(爆)?