将軍になっても政治を行えなかった家斉でしたが、将軍にとってもう一つの重要な責務である「子孫を残す」ための時間はありました。このこともあって、家斉は死去するまでに50人以上の子をもうけました。
1817年に松平信明が死去した頃から自分の思いどおりの政治を行えるようになった家斉は、水野忠成(みずのただあきら)を老中にして、質の落とした貨幣を大量に流通させて、大奥(おおおく)の経費などを増大させました。
貨幣の質を落としたことで物価が上昇しましたが、同時に商人の経済活動の活発化をもたらし、全体の金回りが良くなったことで好景気となり、後述(こうじゅつ)するような華(はな)やかな文化が生まれることになりました。
家斉は1837年に将軍の地位を子の徳川家慶(とくがわいえよし)に譲(ゆず)った後も大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。家斉が活躍した時代のことを大御所時代、または当時の元号から文化文政時代(ぶんかぶんせいじだい)ともいいます。




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ぴーち こんにちは!
家斉には50人以上もの子どもが居たんですか!
驚きました(゚д゚)!
確かに時間の余裕と食べていく事に不安がなければ、
子作りに専念する事が出来ますものね(^^ゞ
人類が子孫を増やそうとする理由には他にもあるでしょうけれど、
特に後継者が出来なければ、お家が断絶してしまうような危機と常に隣り合わせの家柄なら、子孫が多いということは一番の強みになる事なんでしょうね。
しかし、余りに多すぎるにも、トラブルの原因には
ならなかったのかしら・・(苦笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 政治の実権が与えられていない以上、子孫の繁栄以外に「仕事」がなかったのかもしれませんね(^^ゞ
50人以上は確かに多すぎますね。成人したのは約半分らしいですが、それでも30人近くですから。家斉の子の多くは他家に養子に出されたり、将軍の娘として大名に嫁いだりしましたが、その際の支度金としてかなりの出費があったそうです。幕府財政の破たんは家斉の「頑張り」がもたらしたといっても過言ではないようですね(´・ω・`)
とさを商店 .........となると
安直ながら
一部経済評論家が言うように
造幣局の輪転機をブン回すのが良いのかな?
とさを商店さんへ
黒田裕樹 現状の不景気はデフレが原因ですからね。
デフレは物価が下がることで、国内の通貨量も減少する傾向にあります。
経済の世界において、通貨量は血液に例えられます。
身体の血液が不足して流れが途絶えてしまっては、人間は死んでしまいます。
しかし血液の量を、すなわち通貨量を増やせば人間の体力を回復することにつながります。
そう考えれば、通貨量を増やすことが景気回復につながるという意見には筋が通っているのではないか、と個人的には思えますね。
また、江戸近辺の関東の農村はもともと所領が複雑に入り組んでおり、無宿人(むしゅくにん)や博徒(ばくと)がはびこって治安が悪化しました。このため、家斉は1805年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、または「でやく」)を新設して、江戸周辺の警察機能を強化しました。
さらに1827年には、幕府の直轄地や私領、あるいは寺社領を問わずに数十ヵ所の村々を組み合わせた寄場組合(よせばくみあい)を編成させて、農村の秩序を維持するとともに地域の治安や風俗への対策を行いました。
なお、関東取締出役は関東の八つの国、すなわち八州をくまなく巡察(じゅんさつ)したことから八州廻(はっしゅうまわ)りとも呼ばれており、その活躍(かつやく)ぶりが現代においても時代小説の題材としてよく取り上げられています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
いつの時代も捕物や、刑事ドラマは
不動の人気を博していますね(^^)v
「八州廻り~」何とかという時代劇、
北大路欣也さんが主演で放送されているのを
母がよく見ていたのを思い出しました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 刑事ドラマのエッセンスをとり入れた時代劇は人気がありましたからね。
北大路欣也さんも八州廻りを演じられてますね。
あとは西郷輝彦さんとか…。
社会の変化
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
徳川家斉は、あまり、知名度はありませんが、
ある意味で、評価できることをしていたんですね。
しかし、驚いたことに
貨幣経済が農村まで、浸透していて、豪農が出現していたことです。
農村でも、そういう状況ということは、この当時の豪商の力は、小さな大名を上廻るものだったんでしょうね。
武士は、米で、給料をもらい、石高も増えないので、どんどん、貧しい武士も増えたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 貨幣経済は怒涛の勢いで浸透していきましたからね。
豪農が出現した、という事実が貧農史観の間違いを証明しています。荒廃地は確かに増えましたが、農村全体が貧しかったわけではないのですから。
武士の経済事情は仰るとおりですね。武士の困窮は身分秩序の崩壊をもたらし、ひいては幕府の存続すら危うくしていきます。なぜなら、幕府は表向き貨幣経済を認めなかったことで、抜本的な改革ができなかったからです。田沼意次の政策がもっと長続きしていれば…。
時代劇の舞台
晴雨堂ミカエル 文化文政期は時代劇の典型的な舞台ですね。ぶっ飛んだ奇人変人を輩出した時代なので好きです。
おみよの方の生涯に興味があります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 文化文政期は時代劇の典型的な舞台ですね。ぶっ飛んだ奇人変人を輩出した時代なので好きです。
> おみよの方の生涯に興味があります。
銭形平次も文化文政期ですからね。時代劇の設定としてはふさわしいのでしょう。
おみよの方といえば、中野碩翁(なかのせきおう)の娘ですね。父親とともに悪役として時代劇によく出てきます。
淀屋
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
以前、講義中に幕府から、取り潰された豪商の
代表として、『大阪の淀屋』とおっしていたので
ウィキペディアで、調べて驚きました。
凄い、したたかで、スケールの大きい商人の一族だったんですね。しかも、最後もカッコイイ。
(以下ウィキペディアから抜粋)
淀屋(ウィッキペディアより)
◆◆◆◆◆◆◆◆
幕府より闕所(財産没収)処分にされた。
没収された財産、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、
北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。
また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、
現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、
後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、
殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
財産没収になったのが、1705年の六代将軍家宣の時代ですが、もし、綱吉の元禄時代が続いていれば、財産没収にはならなかったでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、淀屋は他の商人とは全くスケールが違います。
淀屋の闕所は1705年ですが、これは綱吉政権の末期です。元禄文化に陰りが見えて幕府財政が傾いた頃ですから、見せしめと財政立て直しの一環として処分されたのかもしれませんね。
大阪の人間なら、淀屋の名は知らなくても淀屋橋の地名はみんな知っているでしょう。
改革に際しては農村の復興を主な目的として、新田を開発して年貢収入の増加を図(はか)ったり、地方の特産物の生産を奨励(しょうれい)して藩の専売制(せんばいせい)としたりしました。また、各地で藩校(はんこう)を創設して新たな人材を積極的に育成しました。
改革に成功した各藩主は名君として評判を集めることになりました。肥後(ひご)の細川重賢(ほそかわしげたか)や、秋田の佐竹義和(さたけよしまさ)、あるいは米沢(よねざわ)の上杉治憲(うえすぎはるのり、別名を鷹山=ようざん)らの名前を挙げることが出来ます。
特に上杉治憲は破綻(はたん)寸前であった米沢藩の財政を立て直したことでその名が広く知られており、藩主の座を後継者に譲(ゆず)った際の伝国の辞(でんこくのじ)や、その際に贈ったとされる「生(な)せば生(な)る 成(な)さねば生(な)らぬ 何事(なにごと)も 生(な)らぬは人の 生(な)さぬ生(なり)けり」の歌が有名です。
なお、治憲の歌は「何事もやればできるし、やらなければ何も始まらない。何もできないのは自分がやらないからである」という意味です。必死になってやれば出来ないことは何もない、ということですね。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
私が子どもの頃、「成せばなる成さねばならぬ何事も・・・」などというアニメソングがありましたが、タイトルを忘れてしまいました(^_^;)
確かに何もやらずに後悔するよりも、やって後悔する方が
はるかに良いですものね^^
今の世の中にも通じるありがたい言葉ですね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 アニメソングですか!?
う~ん、私も覚えていないなぁ…。
仰るとおり、現代にも通じる有難い言葉だと思います。苦しいときに背中を押してくれる、そんな感じですよね。
ぴーち おはようございます!
思い出しました!
ロボコンという子供向け番組の中の
歌でした(^^ゞ
ご参考までに(笑)
http://www.youtube.com/watch?v=eiWhYN7v1jw
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 有難うございます!
私も思い出しました。毎週見ていたよなぁ…。
こんなところにも上杉鷹山の精神が生きているんですね。