室町時代と言えば、幕府(ばくふ)そのものは235年間続いたものの、前半の約50年は南北朝(なんぼくちょう)の動乱期(どうらんき)であり、また後半の100年以上は言わずと知れた戦国(せんごく)の世(よ)といった全く別の時代となってしまっていることが、室町時代の分かりにくさに拍車(はくしゃ)をかけているようです。
これらの原因としてまず考えられるのは、室町幕府(むろまちばくふ)に今ひとつ存在感が見られないことではないかと思われますが、そうなったのにはやはり「大きな歴史の流れ」があり、また歴代の室町将軍が抱(かか)えていた様々な「問題」やあるいは「運命」といったものが我が国のその後の歴史を決定づけたと言えるのではないでしょうか。
我が国の歴史において室町幕府が残した「教訓」を見出(みいだ)すために、当講座では3回にわたって詳(くわ)しく研究していくことにしました。今回は室町幕府の創設者(そうせつしゃ)である足利尊氏(あしかがたかうじ)の波乱(はらん)に満ちた人生をたどりながら、彼の「優柔不断(ゆうじゅうふだん、ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと)」が室町幕府を苦境(くきょう)に追い込(こ)んでしまった「歴史の裏事情(うらじじょう)」に光を当てていきたいと思います。





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ぴーち おはようござます!
余りこれまで、室町時代がどれほどの期間に渡って続いていたのかという事を意識していませんでしたが、235年間も続いていたのですね。
江戸時代に匹敵する長さだったとは、驚きです。
何やら波乱に満ちた時代でもあった様で、興味が湧いて来ました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
江戸時代に匹敵する長さを持っていながら、なぜか全体像をつかみにくい室町時代。
その理由は、やはり「分かりにくさ」だと考えております。
今回は室町時代初期限定ではありますが、少しでもその謎を解き明かすことができればと思っております。
しきしま しきしまです。
大変、ご無沙汰してしまって。
また、気軽にコメントしようかと思っています。
(私のブログも近々復活しようかとも思っています。)
歴史を動かすものは、技術の進歩による社会の変革や、国際情勢の変化や国内政治の行き詰まり、などの環境の変化も大きな要因だと思っていますが、今回は人、それも人の性格がテーマになっているんですね。
「歴史は人が創るもの」とも言いますから、彼の性格が歴史に果たしてしまった意味など、注意深く追って行こうかと思います。
また、よろしくお願い致します。
しきしまさんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
貴ブログの復活、楽しみにしております。
仰るとおり、「歴史は人がつくる」以上、主要な歴史上の人物の本来の性格も大いにかかわってきますので、今後ともご注目いただければと思います。
軍役による御家人の負担(ふたん)は大きいものがありましたが、活躍次第(かつやくしだい)では新たな所領を得られるため、御家人たちはそれこそ一所懸命(いっしょけんめい)に務(つと)めていたのです。しかし、時が流れるにつれてこうした「御恩」と「奉公」の関係は崩(くず)れていきました。
当時の武士の社会では一族の子弟たちに所領を分け与えるという分割相続(ぶんかつそうぞく)が一般的でしたが、これを何代も行っているうちに所領が細分化(さいぶんか)して農業収入が減少するのに対して、幕府への奉公が変わらずに続いたため、必然的に困窮(こんきゅう)するようになってしまったのです。
やがて御家人の多くが借上(かしあげ)や土倉(どそう)といった業者(ぎょうしゃ)から借金をし始めましたが、借金を返済できなかった御家人の中には担保(たんぽ)として自らの所領を奪(うば)われてしまう者も現われるようになりました。
これら御家人の困窮をよそに、幕府では執権(しっけん)を務めていた北条氏(ほうじょうし)の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である得宗(とくそう)の権限が強化されるという得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)が行われたことで、御家人の心が幕府から離(はな)れるとともに、不満が高まっていきました。





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オバrev 確かに、現場の声が届かない政治は見捨てられますよね・・・って、現代の話?(;・∀・)
得宗専制政治って、長男が日本史やっている時に初めて知りました。つまり私が高校の時には知らなかったんです(^_^;)
理科系でしたから日本史を詳しくやったわけではありませんが、日本史の授業はまじめに聞いてたけど私の勉強不足ですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに現代に通じる話ですね。
現場の声が届かないどころか、頼みもしないこと(=人権救済機関設置法案)もどさくさに紛れてやろうとしていますし。
得宗については、実は私も記憶が薄いんですよ。
社会人としての充電期間が長いと、こんな時に答えられなくて申し訳ないです。
分割相続
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦後、日本は、分割相続になりましたが、
やはり、弊害が出ているみたいです。
たとえば、
子供が男子、女子の場合でも分割相続です。
こうなると、
女子は、他家に嫁に行っています。
もし、両親が亡くなった時、長男は、
両親の世話をし、家を守る責任を持っているのに
他家に嫁に行った女子にも、同じように相続されます。
それなら、同じように他家に嫁に行っても
自分の実家に責任を持たないといけないと思うのですが。。
どうも、相続について、権利のみで、責任の所在が明らかになりません。
こういうことが、遺産争いになり、さらに無縁社会になっていると思うのですが。。
ただ、幸か、不幸か、
少子高齢化で、子供がこれから、一人っ子になるので、相続については、分割相続について、問題は、起こりませんね。
ただ、40年後には、日本の人口は7000万人になるので、いったい、どういう社会になっているか
予測できませんが。。
青田さんへ
黒田裕樹 分割相続は一見平等ですが、弊害も大きいんですよね。
かと言って単独相続が万能とは限りませんが、家族を守るという意味では有効かもしれませんね。
仰るとおり、我が国の将来は予測が付かないところがありますね。
ぴーち こんにちは!
確かに分割相続を長年続けていれば、細分化されて
収入は少なくなってきますね。
ある程度、奉公期間というのを設けて、一定の期間が過ぎれば、奉公しなくて済む方法は無かったのでしょうか。或いは収入に応じて、固定された金額ではなく、臨機応変に変動性的な金額を設ける事も無かったんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史上は分割相続がどうにもならなくなってからようやく単独相続に切りかわっていますが、時すでに遅しですね。
制度というものは、いつの世もそう簡単には変えられないという教訓でしょうか。だからと言って現代においても同じことを続けてもらっていては困るのですが…。
1246年、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が子の後深草天皇(ごふかくさてんのう)に譲位(じょうい)されて院政(いんせい)を始められると、その後に後深草天皇の弟である亀山天皇(かめやまてんのう)に譲位させ、さらに亀山天皇の子の世仁親王(よひとしんのう)を皇太子にされました。
その後、後嵯峨上皇(後に出家されて法皇=ほうおうとなられました)が1272年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御(ほうぎょ)されると、幕府は世仁親王を後宇多天皇(ごうだてんのう)として即位(そくい)させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁親王(ひろひとしんのう)に決めました。
要するに、幕府の調停によって後深草天皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と、亀山天皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのです。
こうした両統迭立(りょうとうてつりつ)が続いたことによって、両統は幕府に働きかけて自己の血統(けっとう)に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互(たが)いに激しく争(あらそ)うようになりました。





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来栖 はじめまして。
いつも楽しく読ませて
頂いております。
最近、日本史に興味があり
歴史の本など読むようになりました。
疑問に思うことがあり、
一点質問させてください。
お時間がありましたら、是非
お答えして頂きたく思います。
鎌倉幕府、江戸幕府で武家が
政治を行っている時代で、
公家の人々は具体的に何をやってたん
でしょうか?
どうも、この公家の役割がよくわかりません。
ぴーち おはようございます!
関係が良好なうちは、両天皇もそれなりに
互いの存在を認め合いながら進行出来ていたものの、どちらともなく欲が出て、我を主張し始めるようになると、途端にもろくも関係が崩れ去る。
一方、党派寄せ集めの政党なども直ぐに仲間割れして、内輪もめが絶えず、結果的に国民そっちのけになってしまうのは、世の習いであると言えましょうか。
国民がその道理をもっと理解していれば、知名度の高さだけを売り物にしている様な無能な政治家に一票を投じる事も無くなるのかも知れませんね。歴史を学び、理解していく事が今さらながら大切であると感じます。
やはり上に立つものは、一統であるべきですね。
応援凸
来栖さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
ご質問の件ですが、公家は鎌倉幕府の当初は西国の政権に影響を持っていたのですが、承久の乱で幕府が西国にまで支配を強めると次第に有名無実化していきました。その後の公家たちは、かつての栄光を懐かしみながら、朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)の研究を盛んに行うようになります。
江戸幕府の頃も基本的に変わりませんが、徳川家が皇室の影響を抑えるために禁中並公家諸法度によって公家の地位を高めたことで、実権こそなかったものの優遇された傾向にあるといえますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、両統迭立には無理がありすぎますね。
調停を頼まれた形になった幕府もたまったものではなかったかもしれません。
その流れは現代においても同じだというのは私も同感です。
後醍醐天皇は討幕(とうばく)の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき)へと流されました。なお、1324年に起きた一回目の討幕は正中の変(しょうちゅうのへん)と呼ばれ、二回目の1331年は元弘の変(げんこうのへん)と呼ばれています。
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を皇位にたてましたが、後醍醐天皇が退位を拒否(きょひ)されたため、お二人の天皇が並立(へいりつ)されることになり、これが南北朝時代のきっかけとなったのです。
さて、後醍醐天皇が京都から追放されてしまわれたものの、子の護良親王(もりよししんのう、または「もりながしんのう」)が父の意志を継(つ)ぐべく諸国の兵を募(つの)って幕府に抵抗(ていこう)し続けたほか、幕府に対抗する武士団という意味の悪党(あくとう)の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)は、河内(かわち、現在の大阪府東南部)の赤阪城(あかさかじょう)や千早城(ちはやじょう)に立てこもって幕府の大軍と戦いました。
正成はわずかな兵で幕府軍に抵抗を続けましたが、その貢献度(こうけんど)は絶大でした。なぜなら鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻(せ)め込みながらわずかな兵の正成の軍勢(ぐんぜい)に勝てないということは、それだけ幕府の威信(いしん)に傷がつくからです。事実、正成がしぶとく戦っている間に全国各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。





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なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
楠木正成・・・。
真の名将にもかかわらず、とりあげられることが少ない武将ですね。
報われることの少なかった悲劇の武将について今は学校で学ぶ機会はないのでしょうか?
是非、その生涯と思想をクローズアップして欲しいです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 楠木正成は戦前までに名将と称えられてきただけに、戦後の反動がいまだに大きいようですね。
イデオロギーとは全く別の問題で彼を評価すべきですので、私も残念に思っております。
ぴーち おはようございます!
ここでまた「影の重鎮?」後醍醐天皇が
登場してきましたね(^_^;)
彼も相当しぶといイメージがありますが、
彼の味方についた者たちも、性格がしぶとい
人材が集まっていたんですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 後醍醐天皇のしぶとさもそうですが、彼の周りの武将たちもしぶとかったのは、やはり「鎌倉幕府には任せておけない」という拒否反応が強かったからではないかと思われます。
そのしぶとさがやがて大きな影響を与えるんですよね。
討幕の軍勢が自然と増加していった1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出(だっしゅつ)され、伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵(きょへい)されました。この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚関係(いんせきかんけい、婚姻によってできた血のつながりのない親戚=しんせきのこと)にあった有力御家人を現地へ派遣(はけん)しましたが、実はその御家人こそが足利高氏(あしかがたかうじ)でした。
足利高氏は清和源氏(せいわげんじ)の一族であった源義家(みなもとのよしいえ)の子孫であり、北条氏の御家人の中でも名門の出身でしたが、鎌倉幕府の威信が地に堕(お)ちた現実を見極(みきわ)めた高氏は、幕府に背(そむ)いて謀叛(むほん)を起こすことを決断しました。
高氏は他の反幕府勢力を率(ひき)いて京都へ入り、1333年5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅(ほろ)ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も上野(こうずけ、現在の群馬県)で討幕の兵を挙(あ)げて鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、一緒(いっしょ)に鎌倉を攻めました。5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)らを自害に追い込んで、源頼朝(みなもとのよりとも)以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡(めつぼう)しました。





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サクラ 懐かしい響きです。名和長年。
小学校の時、三つの学校が合同で船上山への登山をしました。御存じかもしれませんが、後醍醐天皇が立て籠もった山ですよ。茶園原という原っぱで肝試しとかしました。巨大な石を山の上から転がして、佐々木清高の兵を殺戮したところです。
鳥取が歴史の表舞台に立つことは稀ですから、こういうのが出てくると嬉しくなります。
ぴーち おはようございます!
足利高氏は、元はと言えば幕府側の人間であって、
幕府からは信頼されていた存在が、突然謀反を起こしたとなると幕府側からすれば、密かに天下人の野望を燃やしていた獅子身中の虫であった訳ですね。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 そうですね。
地元が歴史に出てくれば嬉しいものです。
後醍醐天皇が籠られた、というところも一つの名誉ではありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この場合の高氏の立場は、まさに仰るとおりですね。
その中には「源氏の血を引く自分こそが天下人にふさわしい」という自負もあったと思われます。
高氏の決断は決して許されないものではありませんが、こうした姿勢が後々まで彼を「裏切り者」にしてしまうところが歴史の皮肉でもあります。
しかし、余(あま)りに多くの案件(あんけん、問題となっていることがらのこと)がご自身に殺到(さっとう)したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地に関する訴訟(そしょう)を扱(あつか)った、旧幕府の引付(ひきつけ)に相当する雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)などを置かれました。
この他にも北条氏を滅ぼした勲功(くんこう)に対する恩賞(おんしょう)を定めた恩賞方(おんしょうがた)や、軍事や警察をつかさどる武者所(むしゃどころ)が置かれたほか、地方にはこれまでどおり国司(こくし)と守護(しゅご)が並(なら)んで置かれました。
また、天皇ご自身が軍隊をお持ちでない代わりに子の護良親王を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたほか、旧幕府の本拠地(ほんきょち)であった関東や東北にはそれぞれ鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)や陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた建武(けんむ)という年号から建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれています。





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オバrev いよいよ建武の新政ですね。
なかなか皆が納得する恩賞とはいかなかったんでしょうね。特に尊氏、楠木正成、新田義貞らに対する恩賞は差があったんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 恩賞の中心は、ほとんどが皇族や公家でした。
武士には高氏などのほんの一部にとどまったことが、後に大きな影響を与えることになってしまうのです。
もっとも、高氏には天皇から「破格の恩賞」が与えられるのですが…。
ぴーち おはようございます!
そうですよね。何もかも自分一人でこなそうとしても、あまりに多くの案件が殺到すれば、対処に苦慮してしまいますものね(^_^;)
この頃から次第に現代に至るまでに継続されている役所が確立されていったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに役所に任せておけば大丈夫ですからね。
自身が優秀であると思う人物は、何もかも自分でやろうという傾向がありますが、それは人間不信にもつながっていますね。
秦の始皇帝などがその例だと思います。
ご自身が幕府を倒すために何度も討幕の兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このまま天皇による新政が未来永劫(みらいえいごう)続くとお考えでした。
しかし、後醍醐天皇に味方して幕府を倒すのに協力した武士たちは、勢力が衰(おとろ)えて政治を任せられなくなった幕府の代わりに、他の武士による新しい組織のもとで、これまでどおりの「武士による政治」を続けることを望(のぞ)んでいました。
それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家(くげ)のための政治のみを実行されるだけでなく、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満が次第に高まってきました。
平家による政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その支配は絶対に長続きできないのです。この場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応(こた)えられなかった建武の新政にはかげりが見え始め、やがてそんな不穏(ふおん)な空気を察(さっ)したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉(えいよ)」を受けたはずの一人の武士が、建武の新政に反旗(はんき)をひるがえしたのでした―。





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晴雨堂ミカエル 20年近く前、大河ドラマ「太平記」で詳しく描写されていました。
真田広之氏が尊氏を演じ、スタント無しで流鏑馬や馬を寝かして草むらに隠れる騎馬術を魅せてくれました。
弟直義をいま離婚問題で揺れている高嶋弟。真田尊氏と並んだら本当の兄弟の様でした。
後に尊氏と権力闘争を行い、兄弟で言い争う様が迫力。
北条守時の妹で尊氏の妻は沢口靖子氏、清純な少女時代から優柔不断な尊氏の尻を叩く妻へと変化、今のキャラの兆しがあります。
当時二大美少女といわれた宮沢りえ氏が尊氏の恋人で後の足利家争乱の元になった直冬の母。
後藤久美子氏が北畠顕家に扮し軍事貴族を演じ意表突く。
近鉄長野線では楠木正成に扮した武田鉄矢氏のポスターがあちこちに貼られました。
大河にしては珍しい時代を扱ったわりに視聴率が良く、ブームになっていたように記憶しています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 大河ドラマの太平記は名作のようですね。
近頃の大河ドラマの質の低下が叫ばれる中、昔に返って良作のドラマを見た方がためになるかもしれません。
このように身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまで名乗っていた高氏の「高」は、北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた者」として虫けらのような存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは空前絶後(くうぜんぜつご、過去にも例がなく、将来もありえないと思われること)のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に代わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、1335年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で中先代の乱(なかせんだいのらん)を起こし、一時期は鎌倉を占領(せんりょう)しました。尊氏は乱の鎮圧(ちんあつ)を口実(こうじつ)に後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留(とど)まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反(りはん)する姿勢を明らかにしました。





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ぴーち おはようございます!
足利尊氏は、北条氏に仕えていた時から
ずっと面従腹背の姿勢を崩さずに、立身出世を目指して来たのですね。
虎の威を刈る狐の如く見えるのは私だけでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 尊氏にはもちろん尊氏の考えもあったでしょうが、仰るようなイメージがどうしてもついて回りますね。
結局は後醍醐天皇をも裏切ることになるのですが、このあたりも尊氏の印象を損ねてしまっているようです。
意外でした
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
足利尊氏が、偏諱を受けたのは、武士として
過去に例がないというのは、驚きました。
ということは、
太政大臣にもなった平清盛
征夷大将軍になった源頼朝
も偏諱は、なかったのですか。
ということは
ケガレタ存在の武士には、官位を与えることは
あったも、偏諱はなかったのですね。
よく、考えたら、織田信長、徳川家康、徳川歴代将軍も天皇からの偏諱は、受けてませんね。
後醍醐天皇の足利高氏への信頼は、絶大で、
まさに、愛情に近いものだったのですね。
青田さんへ
黒田裕樹 皇族将軍の宗尊親王から諱を受けた北条時宗のような例はありますが、時の天皇から直接受けた武士としては尊氏だけですね。
それだけに、後醍醐天皇を裏切ったことが特に戦前までにおいては悪評の原因となってしまっているのが何とも言えません。
ててててっちゃん 足利高氏が尊氏となったとは知りませんでした。
なかなか興味深いですな。
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 高氏から尊氏への改名はあまり知られていませんからね。
後醍醐天皇の期待度の大きさがうかがえますが、それだけに裏切ってしまうとなると…。
都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上(とうじょう)しました。
尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津(せっつ)の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎(むか)え討(う)つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。この戦いは湊川の戦い(みなとがわのたたかい)と呼ばれています。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明天皇(こうみょうてんのう)が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦(わぼく)に応じて天皇であることを証明する三種の神器(さんしゅのじんぎ)を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野(よしの)へ向かわれました。
吉野に到着(とうちゃく)された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物(にせもの)であると宣言(せんげん)されて、新たに朝廷を開かれた後、1339年に崩御されました。こうして京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、以後約60年にわたって争いを繰(く)り返す南北朝の動乱が本格的に始まったのです。





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ぴーち おはようございます!
日本の国土全体を舞台にして、追い詰め合う後醍醐天皇と尊氏の一連の流れが手に取るように分かりました。理解しやすい記事をいつもありがとうございますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつも励ましのお言葉を有難うございます。
文章としては短いですが、その中で一連の大きな流れをほぼ入れることができて良かったです。
その理由として、まずは幕府を正当なものと認める後ろ盾(うしろだて)となる朝廷が二つに分裂(ぶんれつ)していたことが挙げられます。北朝は本来の朝廷の都である京都におわしましたが、本物の三種の神器は南朝に存在するとされたこともあって、尊氏に従(したが)った新興勢力の武士の中には北朝の正当性に疑問符(ぎもんふ)をつける者もいました。
また、武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国(とうごく)であるため、尊氏も本当であれば関東で幕府を開きたかったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断(よだん)を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織として鎌倉府(かまくらふ)が置かれたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
さらには尊氏自身の資質(ししつ)にも問題がありました。尊氏は根っからの武人(ぶじん)であったため、実際の政治は尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)が代行していましたが、その一方で武将にしては珍(めずら)しく「優(やさ)しくて良い人」だった尊氏は、功績(こうせき)のあった武将に気前良(きまえよ)く領地を与えていました。しかし、領地が増えた武将がこの後に様々な権利を得ることによって守護大名(しゅごだいみょう)と化したことによって、こちらも幕府のいうことを聞かなくなっていくのです。
加えて、南北朝の動乱が50年以上も続いてしまった大きな原因も、実は尊氏の「優しさ」にありました。尊氏は自身に偏諱を賜(たまわ)られた後醍醐天皇に対してどうしても非情になれず、隠岐などに追放して政治生命を断(た)つことが出来なかったゆえに、天皇に吉野に逃(に)げられて南朝を開かれてしまったからです。





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中年の星 足利尊氏が優しい人だったとは意外な感じです。室町幕府がなぜ京都で開かれたのか、
ずっと疑問に思っていたのですが、黒田先生の記事を読んで理解が出来ました。
中年の星さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
幕府の成立やその後の歴史に、人物の性格が深くかかわっていることは盲点ですね。
尊氏の「優しさ」は、幕府のその後の運命も大きく変えてしまいます。
地方のリーダーなら
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、足利尊氏の『優しさ』を考える時
地方豪族のリーダーなら、『優しい』のは
良かったと思います。
ただ、幕府という全国の武士のリーダーとなると
『優しい』のは、アキレス腱になりますね。
たとえば、(独裁病もありますが)
◆ 織田信長も京都に上るまでは、家臣にも敵にも甘い『優しい』武将でした。
→ 冷酷なイメージは、京都に上洛して以降の
行為から、そう思われているだけです。
◆ 豊臣秀吉も最初は、『人たらし』と言われるほど
『気配りのできる優しい武将』でしたが、
関白になると、非情な人間になりました。
◆ 徳川家康も、豊臣秀吉が亡くなるまでは
『律儀者』と言われました。
それが、豊臣秀吉が亡くなった後は、
『非情で、汚い手を使いまくる狸親父』に変わりました。
足利尊氏も最初は、『優しい』ことは、仕方ありませんが、その後も『優しさ』を越えることが出来なかったのは、足利尊氏の甘さですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
優しくないことが平和につながるのは何とも言えない皮肉ではありますが、非情に徹することが結果的に多くの人命を救うことは歴史が証明していますからね。
真田尊氏。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマ「太平記」、真田広之氏の尊氏はまさにNHK得意の「いい人」。
大河ドラマの主人公はみな良い人になるので史実とのギャップに不快感を抱くこと多々ですが、この「太平記」は納得のデキでした。
とにかく良い人なので、身内や家臣から慕われると同時に、弟直義・執事師直・盟友佐々木判官がイラついている様が良かった。
大河ドラマにしては比較的リアルに権力闘争を描いていましたね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、「良い人」であるがゆえに史実に近くなるんですね。
かつてご紹介くださった「草燃える」は運良くCSでの視聴がかないましたが、太平記もいつかは見てみたいものです。
ぴーち おはようございます!
尊氏が京都で幕府を開いたのは、それなりの理由があったのですね。
確かに人に対する優しさは大切かとは思いますが、何かを決断しなければならない時には、その優しさが邪魔をしたり、またその優しさに漬け込まれ、足を引っ張られてしまったりする事も良い人の欠点であり、致命傷になる事もありますよね。
野望に生きると決めたのなら、徹底的に野望に徹する。
悪役を演じると決めたら、徹底的に悪役を演じきる覚悟が必要だったのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、個人の感情はともかく、尊氏は政権維持のために「憎まれ役」になる必要がありました。
しかし、彼にはどうしてもそれができませんでした。
その結果、室町幕府のやることは何もかもが中途半端になって…続きは今後の更新で明らかにしますが、とんでもないことになってしまうんです。
そんな折、尊氏の実子(じっし)でありながら父に嫌(きら)われ、直義の養子となっていた足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏派によって九州へ追われると、地元の勢力を味方につけて尊氏に反旗をひるがえしました。
九州の激変(げきへん)ぶりに驚(おどろ)いた尊氏が1350年に直冬を討伐(とうばつ)すべく自らが遠征(えんせい)すると、その隙をついて直義が南朝に降伏(こうふく)しました。南朝はこの頃までに尊氏派の武将によって吉野を追われて賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)まで後退(こうたい)していたのですが、直義の降伏で息を吹き返すことになりました。
直義は反尊氏派の勢力を引き連れて尊氏の子の義詮が守っていた京都へ攻め込み、敗れた義詮は尊氏を頼って備前(びぜん、現在の岡山県)へと落ち延(の)びました。室町幕府が成立してから10年以上も経(た)っていながら、天下は再び大きく乱(みだ)れ始めたのです。なお、これ以降の幕府の内乱は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれています。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
武断派と文治派の対立は、いつの時代でも
あるのが当たり前であり、
それでも、リーダーが存在している時は、
その争いは、表面化しないのが通常だと思っていました。
◆ 豊臣秀吉も文治派と武断派は対立していましたが、豊臣秀吉が存在している時は、組織としては、機能していました。
◆ 徳川家康も文治派と武断派は、対立していましたが、組織としては、機能していました。
そう考えると
足利尊氏が存在しているのに、表立った反乱がおこるというのは、
正直、足利尊氏のリーダーシップ力を疑ってしまいます。
青田さんへ
黒田裕樹 別の歴史を比較すれば、仰るとおり尊氏のリーダーシップのなさが浮き彫りになりますね。
資格のない者が上に立った悲劇ともいえるでしょうが、当時の人々にとってはたまったものではありません。
ビジョン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
足利尊氏には、『これから、どうしたいのか』というビジョンがイマイチ見えてきません。
たとえば、
源頼朝は、武家政権の設立。
織田信長は、天下布武。
などが見えるのですが、
足利尊氏がビジョンとして、武家政権を創るという強い信念があるなら、行動があまりにも
動きが遅いです。
これは、今の政治家も同じかもしれません。
つまり、ビジョンが???です。
今の政治家は
派閥やグループの顔色ばかりを観て、大臣や元総理がアホなことを繰り返しているので、
現場は大混乱です。
民主主義というのは、民意を反映させるので、
どうしても、ややこしい根回しは、必要だとは
思うのですが
それでも、どうも頼りない気がしてしまいます。
いったいこれから、何をしたいのかがイマイチ見えてきません。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにビジョンが見えてこないですね。
尊氏の場合、当初は鎌倉で幕府を開いて源氏や北条氏の政権の失敗を生かした政治を行う意思はあったと思われますが、講座で書いた通りの理由で京都で幕府を開いたことですべての予定が狂ってしまい、予定していたビジョンがグチャグチャになってしまったとも言えそうです。
いずれにせよ、政治に明確なビジョンが必要だということは、尊氏や現代の政権を見れば一目瞭然ですね。
ぴーち おはようございます!
尊氏の実子である直義はどうして父に嫌われていたのでしょうか?
尊氏の優柔不断の性格以前の親子関係に不備が
あった為に子供に命を狙われる事になってしまったと解釈しても良いでしょうか。
まあ、武将の親子関係でなくとも、親子の対立によって子供が外へ出ていくという事は何処の家庭でも起こりうる事ではあると思いますが、親に対して反旗を翻し、父親を亡き者にしようと考える程の深い恨みの根源は何だったのか気になりました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 直冬が尊氏に嫌われている理由として考えられているものとして、直冬の母の身分が低かったからだという拙がありますね。いずれにせよ、尊氏に疎んじられているのを哀れに思った直義が、自分の養子として迎えたようです。
そんな過程がありますから、自分の養子で本来ならば兄の子を、その兄自身が討とうとすることが耐えられず、それまでの鬱憤(うっぷん)が爆発して尊氏を裏切った、とも考えられますね。
その後、一旦(いったん)は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟(はさ)み撃(う)ちで倒そうとすると、尊氏の計略(けいりゃく)に気づいた直義は京都を脱出して北陸伝(づた)いに鎌倉へ攻め込もうとしました。
武家政権発祥(はっしょう)の地である鎌倉を奪われては尊氏の立場がありません。尊氏は直ちに直義軍を追撃(ついげき)しようとしましたが、自分が遠征している間に直義派となった南朝に京都を制圧(せいあつ)されて尊氏追討の綸旨を出されれば、自分が朝敵(ちょうてき)となって滅亡への道を歩んでしまうのは火を見るより明らかでした。
進退窮(きわ)まった尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられているにもかかわらず、それまで敵対していた南朝と手を結んで、自分の味方につけるしか方法がありませんでした。以前には後醍醐天皇、今回は直義といった自分に敵対する勢力を政治的に抹殺(まっさつ)することなく「生かして」しまったことで、尊氏は多くの血を流したうえにやっとの思いで構築(こうちく)した政治のシステムを、自らの手で破壊(はかい)せざるを得なかったのです。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、仮説ですが、
おそらく、足利尊氏は、征夷大将軍になり
幕府さえなれば、それで、天下を握れると考えていたのではないでしょうか。
それゆえ、北朝から、征夷大将軍に任じられているのに南朝と結んでも、問題がないと考えたような気がします。
官職が征夷大将軍であっても、源頼朝のように
しっかりとしたシステムを創らないと完全に有名無実化ですね。
どちらにしろ、足利尊氏は、現実にたいして、甘すぎましたね。
ぴーち おはようございます!
時代は違いますが、つい先日も
義経と頼朝を生かしてしまったが故に滅びた
平家のお話も、結果的に清盛が掛けた情けが仇となってしまったと伺ったばかりですが、何やら
共通するものがありますね(^^ゞ
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのような甘い一面がありますね。
南朝になびいたのも、仰るとおり征夷大将軍の重みすら理解できていない節があります。
いずれにせよ、ここに来てそれまでの甘さの「ツケ」が一気に噴き出した感がありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
思えば、清盛も女性の影響があったとはいえ、甘い武将ではありました。
尊氏も清盛も、弟を容赦なく殺した頼朝とは雲泥の差ですね。
南朝は尊氏が遠征した隙をついて北畠親房の指揮(しき)によって京都へ攻め込み、幕府予備軍であった義詮の軍勢を敗走させると、勢いに乗った南朝は、北朝の三人の上皇と皇太子を自分たちが追われていた賀名生へと移しました。
かくして後醍醐天皇が吉野朝廷を開いて以来、後醍醐天皇の子の後村上天皇(ごむらかみてんのう)によって16年ぶりに南朝が京都を支配するようになったのです。1352年閏(うるう)2月のことでした。
しかし、南朝の天下は長続きしませんでした。体勢を立て直した義詮が京都へ再び攻め込んだからです。南朝はしばらくの間持ちこたえたものの同年5月には追い落とされ、後村上天皇や親房は再び賀名生へと逃れていきました。ちなみにこの後、南朝は一度も京都を回復しないまま1392年に北朝との合一(ごういつ)を迎えることになります。
なお、南朝と義詮とが争っている間に、尊氏と戦って敗れた直義が同じ1352年2月に急死しました。尊氏による毒殺説もありますが、直義を討つために南朝と和睦するなど幕府政治の根幹(こんかん)を揺(ゆ)るがした後となっては、すべてが手遅(ておく)れでした。





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諸葛菜@孔明死後の三国志はお任せ! はじめまして!
諸葛菜と申します。
ランキングからお邪魔させていただきました。
室町幕府の成り立ちを知りたいとおもって、吉川英治の太平記を全巻読みました。
わかりやすい記事で理解できました。
室町時代を読むと何となく気分的に消耗するのですが(笑)。戦国時代との違いはなんなのかなあと考えてしまいます。
諸葛菜さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
室町時代は進めば進むほど分かりにくくなりますし、また戦国時代へ向かうということは争いが多くなりますし、どちらかといえばネガティブなイメージしかありませんからね。戦が続くものの、天下統一へと進んでいく戦国時代とはベクトルが真逆なのが原因かもしれません。
真田広之の尊氏。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマ「太平記」の尊氏は戦に明け暮れて人生を消耗していく様がよく表れていました。
後醍醐天皇や楠木正成らに感化されて理想に燃え戦う青年高氏。鎌倉幕府を倒した後の朝廷への反旗、亜相北畠との戦い、直義と師直の抗争、直冬との戦。
従来の大河ドラマと違い、勝っては負け、負けては勝ちの繰り返しが延々続く。最後は病と歳ですっかり老人となった尊氏は輿に乗ってでも指揮を執る痛々しい姿。
けっこう見応えありますよ。
かつての皇国史観では、幕府を裏切って朝廷につき、その朝廷を裏切って天下を奪った権謀まみれの野卑なキャラでしたが、そういう意味で「太平記」は画期的でした。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 現実の尊氏に近そうなキャラですね。
前にも書きましたが、CSでの放送が待ち遠しいです。
ぴーち おはようございます!
この時代は随分と目まぐるしい展開が続いていたのですね。
当然ながら私の頭の中も混戦気味です(^^ゞ
しかしながら
人を騙す人の方が悪いとは言いますが、騙されてしまう方にも、相手の本意を見ようとしなかったり、或いは自分にはそういう災難は絶対降りかからないだろうと頭から信じこんでいたりする面があるので、尊氏もその優しさから、相手を容易く信じこんでしまう所があったようですね。
詰めの甘さが露呈してしまっているように感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当めまぐるしいですね。
室町時代の分かりにくさを象徴しているようです。
騙し合いが良いことだとは言えませんが、確かに尊氏の優しさが「甘さ」となってしまった感があります。
そもそも宿敵ともいえる南朝が、尊氏の出した条件で満足するとは思えないはずなのですが、それもこれも原因は尊氏にありますからね。
南朝の勢力が賀名生へ逃げ帰った後も、北朝の三人の上皇や皇太子は連れ去られたままであり、天皇であることを証明する三種の神器も南朝に奪われたままでした。
義詮は仕方なく、京都に残っておられた光巌上皇の第二皇子の弥仁親王(いやひとしんのう)を神器も後見役となる上皇の存在もなしで無理やり後光厳天皇(ごこうごんてんのう)として即位させましたが、天皇の正当性としては神器を所有する南朝に遠く及(およ)ばず、北朝の権威(けんい)が著(いちじる)しく低下するという悪影響をもたらしてしまいました。
ちなみに、こうした北朝の権威の低下が後の「ある足利将軍」の「大きな野望」へとつながっていくことになります。
なお、尊氏は翌1353年にようやく京都へと戻りましたが、その後も直冬の攻撃を受けるなど混乱が続いた後、自分の代で平和を達成できぬまま、1358年に54歳で死去しました。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この足利尊氏については、自分自身、思い当たることがあり、
大変、勉強になりました。
私も
『八方美人で、優しいだけで、リーダーシップ力がない。』からです。
その結果
いつも、
自分自身も疲弊し、周りも迷惑を掛けています。
人間は、神様ではないから、八方美人自体、
現実的には、不可能かもしれませんね。
自分が決断を持って、行動すると必ず、反対者が出て、争いが起こることは、事前に考えていないといけませんね。
本当に歴史は、人間が生きる教訓がありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、そうなんですか。
現代においても歴史は様々な教訓を残してくれますね。
私も他人様のことは言えませんが…。
オバrev 個人的事情で忙しかったものですからご無沙汰してました。
1週間分をまとめて見ましたが、まず義詮の読み方が分かりません(T_T)読み仮名がなかったように思いますが?
尊氏がそういう性格だったとは意外ですね、というか珍しいですね。戦争にどう戦うかは得意だったけど、それ以外はからきしダメだったんですかね。
ある足利将軍って、TVにもでていたあの人ですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 年度替わりですからね。お忙しい中お言葉くださって有難うございます。
義詮は「よしあきら」と読みます。4月6日の更新で紹介したんですが、かなり前ですからね。どうも失礼しました。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1251.html
仰るとおり、根っからの武人にしては珍しい性格です。「それ以外はからきしダメ」とは手厳しいですが、あながち間違いではないかもしれません。
> ある足利将軍って、TVにもでていたあの人ですか?
さぁ、誰でしょうか(笑)?
第30回歴史講座までしばらくお待ちくださいm(_ _)m
不安定な幕府。
晴雨堂ミカエル そのある足利将軍にしても、全国を平定できた訳ではありませんから、盤石の江戸幕府とは雲泥の差ですね。
2つの朝廷、幕府も内部に鎌倉という「幕府」を設けましたし。この時代は御所とか公方があちこちにできて、政庁の価値が下がるのは戦国時代の前触れでもありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、常に不安定な要素を抱えていた室町幕府はとても天下を取る器ではなかったということになります。
戦国時代の前兆も、確かに尊氏の時代からうかがえますね。
ぴーち おはようございます!
肝心要の三種の神器が奪われてしまっては
無理やり天皇に仕立てて、体裁を繕っても
「仏作って魂入れず」。
尊氏の生き方も結局そんな最後を迎えてしまった
のですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
尊氏自身の優柔不断で、何もかもが体裁だらけの中途半端な最期になってしまいました。
そのツケが後の幕府将軍に重くのしかかってしまいます。
「優しい人」「気前の良い人」といえば人間が本来持つべき性格であるとされ、私たち一般人の間では好かれる傾向(けいこう)にありますが、政治の世界においてはマイナスでしかありません。なぜなら、尊氏の「優しさ」は政敵(せいてき)を抹殺することをためらわすことで「優柔不断」となり、結果として幕府の将来に暗雲をもたらしてしまったからです。
尊氏が亡くなった1358年において、幕府の勢力が及んだ地域は鎌倉と京都が目立つのみであり、中国地方は足利直冬が、九州は後醍醐天皇の子である懐良親王(かねよししんのう、または「かねながしんのう」)が実質的な支配を固めていました。
しかも、三種の神器を所有している南朝こそが正当であるとみなされたことで、尊氏の征夷大将軍を保証する北朝の権威が低くなり、それと連動して足利将軍の地位も低く見られる傾向にありました。
さらには絶対的なカリスマ性を持っていた源頼朝と比較して、源氏の名門出身ではあったものの将軍として君臨(くんりん)するにはただでさえ器量不足だった尊氏が、他の勢力に「気前良く」領土を与えたことで、やがては守護大名が幕府のいうことを聞かなくなるという結果をもたらし、足利家そのものの地位をさらに低下させてしまいました。
こうした尊氏のいわゆる「負の遺産」をどう処理(しょり)すればよいのかという大きな課題が、室町幕府代々の将軍を悩(なや)ませるとともに、我が国の歴史にも様々な影響を及ぼしていくのです。(第30回歴史講座に続く)
(※第29回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[4月17日]からは通常の更新[=明治時代]に戻ります)





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ぴーち おはようございます!
なるほど、同じ地位の低さから天下人にまで
伸し上がった秀吉との違いは、そのお人好しの性格が厄しての事だったのですね。
自分の野心を叶える為の代償は、大多数を敵に回しても良いという覚悟でなければならないはずが、野心は叶えたい。けれど周りの人からは憎まれたくない・・という欲張った考え方は両立しなかったという事になるでしょうかね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 秀吉はお人よしでありながら出世欲が強く、信長の死後は野望をむき出しにして天下を取りました。
このあたりが尊氏との大きな違いですね。
将軍として君臨し、天下を取る気概を持ちたいのであれば、周囲の目を気にして「良い子でいる」などということはできない、というわけですね。
しきしま 足利尊氏の「優しさ」は、その場だけ見れば大人の対応の様にも映りますが、戦い抜いて世を治める立場としては、トータル的に戦を長引かせる結果となってしまったのですね(戦が長引くという事は、傷つき斃れる人も多くなる)。
それだけでなく、その後の室町幕府の立場も不安定にしてしまい、幕府が不安定という事は、民に回る利益も不安定になっていたかもしれないんですね。
政治には厳しさも(絶対)必要だという事を学びました。
しきしまさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
個人としての付き合いならともかく、政治家の「優しさ」は時として多くの人々を不幸にしてしまいます。
一見非情に見えることでも、長い目で見れば国益にかなう。
それだけの覚悟を、政治家だけでなく私たち国民も持たなければいけません。