例えば、田沼意次(たぬまおきつぐ)による通貨統一の悲願が込められた南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)を発行停止にし、さらに蝦夷地の開発も中止してしまいました。ちなみにこれらの政策は定信が失脚(しっきゃく)した後に形を変えて再開されています。つまり、定信が打ち切りにした分だけ幕府は無駄な時間と労力を費(つい)やしていることになります。
また1791年には、工藤平助(くどうへいすけ)と親交があった林子平(はやししへい)が我が国における海岸防備の必要性を説いた海国兵談(かいこくへいだん)を著(あらわ)しましたが、定信は「世間(せけん)を騒(さわ)がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに海国兵談を発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫(せま)られて相手の言われるままに欠陥(けっかん)だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による幕府の痛恨の失政でした。
ちなみに定信は海国兵談の他にも政治を風刺(ふうし)したり、批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令は出版統制令(しゅっぱんとうせいれい)と呼ばれています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確かに社会を風刺したり、批判的な言動を
封じてしまえば、そこからその言動に賛同する声も集まらず、結果暴動を防ぐことが出来、国内は平和が保たれるでしょうけれど、何事にも万能であるもの(法など)は存在しないように、違った視点から見た貴重な意見を揉み消してしまう事は、結果的にブレーキを失ったトロッコに乗っている様なものだと思います。
すみません、抽象的な物言いで(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、反対を許さぬ言論弾圧は、国を滅ぼす方向へと傾いた場合に何の歯止めもなく、一気に奈落の底へと突き落とされる危険性が極めて高いです。そのような指導者や言論機関が存在することが、我が国にとって非常に危機的な状況であることは言うまでもありません。
抽象的なことはありませんよ(^^♪
十分理解できると思います。
オバrev 定信は吉宗の孫だったんですか(゚Д゚)
そりゃ吉宗の政策が是で、それ以外は否となるでしょうね。
でも、時代によって是となる政策は異なりますから、そのあたりを見誤ったんじゃないでしょうか。
特に平和な時代に出版統制なんて、すごく息苦しい感じがします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 定信は吉宗の孫だったんですか(゚Д゚)
> そりゃ吉宗の政策が是で、それ以外は否となるでしょうね。
> でも、時代によって是となる政策は異なりますから、そのあたりを見誤ったんじゃないでしょうか。
定信の場合は吉宗の政治を理想とするあまり、他の手法を全く考えていなかったきらいがありますからね。
見誤りはかなりの範囲にわたっていると思います。
> 特に平和な時代に出版統制なんて、すごく息苦しい感じがします。
平和な時代にこそ、実は出版統制のような言論弾圧が多いんですよ。
例えば現代でも、昨日(21日)の大規模デモが海外で大きく報道されているのに、国内では黙殺していますから(´・ω・`)
定信は吉宗同様に庶民(しょみん)にまで厳(きび)しい倹約令(けんやくれい)を強制させました。先述した出版統制令などとあわせて、これらはせっかく田沼時代に花開いた町人文化の衰退(すいたい)を招(まね)いたほか、庶民の反発を呼ぶなど経済的に失政でした。
享保の改革の際と同じように「寛政文化」と呼ばれるものが存在しない大きな原因となりましたが、その一方で節約で浮(う)いた町費(ちょうひ)の七割を積み立てさせ、江戸町会所(えどまちかいしょ)に運用させることで飢饉(ききん)の際などの非常時の貧民(ひんみん)の救済(きゅうさい)に利用しました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また寛政の改革が始まった頃には天明の大飢饉(てんめいのだいききん)がまだ続いており、庶民の暮らしは不安定になっていました。そこで、定信は飢饉に備えて各地に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)をつくらせて穀物(こくもつ)を蓄(たくわ)えさせました。これを囲米(かこいまい)といいます。
この他、定信は現代の刑務所(けいむしょ)の原点ともいえる無宿人(むしゅくにん)への職業訓練施設として石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しました。もっとも、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。




いつも有難うございます。
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わろ 14万ヒットおめでとうございます!
14万人の兵力があれば、黒田さん関ヶ原に殴りこめそうですね^^
定信って、熱心に色々やっているのですね。
現状維持よりもたちが悪い気がします。
歴史において、懐古主義って成功したことあるのでしょうか??
わろさんへ
黒田裕樹 > 14万ヒットおめでとうございます!
> 14万人の兵力があれば、黒田さん関ヶ原に殴りこめそうですね^^
有難うございます。
その発想はなかったですね(^^ゞ
天下を取るにはまだまだ力不足ですが(爆)。
> 定信って、熱心に色々やっているのですね。
> 現状維持よりもたちが悪い気がします。
> 歴史において、懐古主義って成功したことあるのでしょうか??
「昔に返れ」といっても、当時とは環境から何から異なりますからね。
そこまでの対策を何も講じてないとすれば、仰るとおり「たちの悪い」話になってしまいますし、定信の場合はまさにそのとおりなのが何ともはや…(´・ω・`)
ぴーち おはようございます!
昨日は娘を駅まで送り届ける為に
お昼休みに帰宅出来ませんでしたので、黒田さんの記事へコメントに伺うことが出来ずに、不義理をしてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m
14万ヒットですか!おめでとうございます!
今まさに歴史を学ぶ事への大切さの気運が次第に高まり、日本全国広がりを見せている中、黒田さんの様に積極的に本物の歴史と向き合い、流布して行こうと思われる姿に皆さんも共感されている事でしょう。
これからも頑張ってください!
応援凸
また午後からの記事にお邪魔させてくださいね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 昨日は娘を駅まで送り届ける為に
> お昼休みに帰宅出来ませんでしたので、黒田さんの記事へコメントに伺うことが出来ずに、不義理をしてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m
いえいえ、どうぞお気になさらずに。
お忙しい中いつも有難うございます。
> 14万ヒットですか!おめでとうございます!
> 今まさに歴史を学ぶ事への大切さの気運が次第に高まり、日本全国広がりを見せている中、黒田さんの様に積極的に本物の歴史と向き合い、流布して行こうと思われる姿に皆さんも共感されている事でしょう。
> これからも頑張ってください!
お言葉感謝です。
2年半弱での14万HITは大変な数字だということを自覚して、これからも頑張ります!
オバrev 14万HITおめでとうございます。
歴史を様々な角度から検証し、ご自分の意見を交えて事実をできるだけ正確に記事にしておられることが、多くのリピーターを生んでこの数字になっていると思います。
定信も、一生懸命やっていたことは確かそうですね。ただ大きな方向を見誤っていたということでしょうね。
しかし当時の価値観では、意次のような柔軟な考え方ができる人間が幕府にはほとんどいなかったか、いたとしても民間人にしかいなかったんではないでしょうか。
それと現在の歴史教育についての疑問ですが、我々の習った歴史では定信の寛政の改革をむしろ評価していたように思います。
それは意図的ではなく歴史的事実への焦点の当て方が異なっていたということか、あるいは事実の検証が足らなかったということなんですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 14万HITおめでとうございます。
> 歴史を様々な角度から検証し、ご自分の意見を交えて事実をできるだけ正確に記事にしておられることが、多くのリピーターを生んでこの数字になっていると思います。
有難うございます。毎日200~250人の皆様がご訪問くださいますので、これからも歴史の事実を分かりやすく自分の言葉で説明できればと考えております。
> 定信も、一生懸命やっていたことは確かそうですね。ただ大きな方向を見誤っていたということでしょうね。
仰るとおりですね。どれだけ努力を重ねようが、国民、あるいは国益と離れてしまっていてはどうしようもありません。
> しかし当時の価値観では、意次のような柔軟な考え方ができる人間が幕府にはほとんどいなかったか、いたとしても民間人にしかいなかったんではないでしょうか。
唯一の柔軟な発想家であった意次を裸同然で追放し、その後の残忍な仕打ち(後述します)を行った直後ですからね。頭の固い連中しか残っていないのも道理ですし、民間人も声を上げれば林子平のように処分を受けるとあっては誰も政治に貢献しようとは思いません。最悪の状態ですね。
> それと現在の歴史教育についての疑問ですが、我々の習った歴史では定信の寛政の改革をむしろ評価していたように思います。
> それは意図的ではなく歴史的事実への焦点の当て方が異なっていたということか、あるいは事実の検証が足らなかったということなんですかね?
幕府の公的学問であった朱子学からすれば、定信の考え方こそが「究極の理想」であって、意次のようにどれだけ有能であっても「異端児」として徹底的につぶされるんですよ。そんな幕府の基準がそのまま歴史の見方と化してしまって、現代においても本流として存在してしまっているというのが真相だと思います。もっとも、ようやく最近になって意次や綱吉に対する評価が変わりつつあるのは喜ばしいことではありますが。
しかし、棄捐令はいわゆる徳政令(とくせいれい)と同じですから、旗本や御家人の収入を増やすといった抜本的(ばっぽんてき)な改革がない限り、結局は一時しのぎに過ぎないばかりでなく、再び借金をする際には、棄捐令で痛い目にあった札差から断られる可能性もあり、逆効果に終わってしまうという一面もありました。
定信は田沼時代に進められた重商主義(じゅうしょうしゅぎ)を徹底的に否定し、吉宗の時代よりも厳しい重農主義(じゅうのうしゅぎ)の政治を行いました。その中の一つに旧里帰農令(きゅうりきのうれい)があります。これは、地方から江戸に流れてきた農民を無理やり元の農村に帰すという法令ですが、そのままの政策で農村へ帰されたところで、待っているのは今までと同様の苦しい生活の日々でしかありません。
重農主義に戻すということは、吉宗の時代と同じく現実には不可能な米本位制(こめほんいせい)を続けるということですから、いくら農村に帰したところで、いずれは再び江戸へ出て来ざるを得なくなるというわけです。かくして旧里帰農令は失敗に終わり、後の天保の改革(てんぽうのかいかく)の際に再び同じような法令である人返しの法(ひとがえしのほう)を出す結果になってしまいました。




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ぴーち こんにちは!
何事もその場限りの付け焼刃的な政策では
いづれ行き詰まる事になってしまうといういい例だった訳ですか。やはり抜本的に改革を考えていかなければ、堂々巡りを繰り返すだけの愚策なんですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何事もその場限りの付け焼刃的な政策では
> いづれ行き詰まる事になってしまうといういい例だった訳ですか。やはり抜本的に改革を考えていかなければ、堂々巡りを繰り返すだけの愚策なんですね(^_^;)
仰るとおりです。理想のみを追求して具体性がなければ、単なるスローガンを繰り返しているだけであり、それこそ「絵に描いた餅」です。同じことを繰り返し、しかも連続して失敗している段階で、幕府の政治力に限界が来ていたと考えて差し支えないと思われますね。
もちろん現代においても例外ではありませんが。
こんにちは
ryo お久しぶりです。でも先生のブログは毎日見ていますよぉ。
さて、定信の政治ってやることなすこと失敗ばかりに思うのですが、これも意次への個人的な恨みがそうさせてしまっているのでしょうか^^;
ryoさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。でも先生のブログは毎日見ていますよぉ。
いつもご覧いただきまして有難うございますm(_ _)m
> さて、定信の政治ってやることなすこと失敗ばかりに思うのですが、これも意次への個人的な恨みがそうさせてしまっているのでしょうか^^;
仰る一面は確かにありますね。所詮、感情だけで政治はできないということでしょうか。
こんばんは
わろ 帰農令で、はたして無事に故郷に帰れたのでしょうか?
村社会日本だと、一度捨てた故郷に帰っても村八分にされそうな気がします^^;
それとも農村では、人手が足りずに歓迎されたのでしょうか??
あと出稼ぎ農民が、都市になじめずにスラム街を形成するってよく聞くのですが、江戸時代もスラム街ってあったのですか??
わろさんへ
黒田裕樹 > 帰農令で、はたして無事に故郷に帰れたのでしょうか?
> 村社会日本だと、一度捨てた故郷に帰っても村八分にされそうな気がします^^;
> それとも農村では、人手が足りずに歓迎されたのでしょうか??
私もそこまではあまり存じ上げませんが、確かに帰る故郷があったか心配ですね。夜逃げ同然や一家離散で食い詰めて江戸に迷い込んだ人々もいたでしょうし…。何しろ飢饉でしたからね。
> あと出稼ぎ農民が、都市になじめずにスラム街を形成するってよく聞くのですが、江戸時代もスラム街ってあったのですか??
ありましたよ。有名なのは芝新網町(現在のJR浜松町駅付近)ですね。他にも何ヵ所かあるようです。
HANA子 現実を直視せずに理想に拘泥して行われる政治が状況の破綻を導くのは古今東西・和と洋の違いなく歴史の語るところですが、
この松平定信の前政権の行いを全否定して自分のやりかたのみを盲目的に推進する→政治の破綻に行き着くというプロセスがどうしても現政権に重なってしまいます
そんな風に思ってしまうのは現政権と与党へのわたしの偏見がなせるわざなんでしょうか……
しかし松平定信は白河藩主だった頃に自藩の飢餓対策に手腕を発していたはずなのですけど、
やはり権力を手にしてしまうと色んなものが曇ってしまうものなんでしょうか?
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 現実を直視せずに理想に拘泥して行われる政治が状況の破綻を導くのは古今東西・和と洋の違いなく歴史の語るところですが、
> この松平定信の前政権の行いを全否定して自分のやりかたのみを盲目的に推進する→政治の破綻に行き着くというプロセスがどうしても現政権に重なってしまいます
> そんな風に思ってしまうのは現政権と与党へのわたしの偏見がなせるわざなんでしょうか……
偏見だけではないと思いますよ。
多くの国民が(できるはずもない)美辞麗句を並び立てた某政党に陶酔して夢を見て、覚めればとんでもない悪夢だった…。現代に限らず、よくある話です。
> しかし松平定信は白河藩主だった頃に自藩の飢餓対策に手腕を発していたはずなのですけど、
> やはり権力を手にしてしまうと色んなものが曇ってしまうものなんでしょうか?
飢餓対策ですか…。いずれ紹介しますが、これこそが定信の出世につながる「政治」だったわけですが、その実像は―。
寛政異学の禁によって、諸藩(しょはん)も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学(らんがく)が衰退(すいたい)する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策(ぐさく)ぶりです。
ちなみに湯島聖堂は定信が老中を退任した後の1797年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称(しょう)されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足(ほっそく)しましたが、後に藩士(はんし)や牢人(ろうにん)の受け入れも許したことで全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学(とうきょうだいがく)の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校(とうきょうしはんがっこう)や東京女子師範学校(とうきょうじょししはんがっこう)は、現在の筑波大学(つくばだいがく)やお茶の水女子大学(おちゃのみずじょしだいがく)の源流となっています。




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HANA子 朱子学の弊害の一番大きな部分はその強過ぎる保守性と排他性と思います。
それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 朱子学の弊害の一番大きな部分はその強過ぎる保守性と排他性と思います。
> それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
保守性や排他性は古来の文化を守るという利点はありますが、外来物をうまくミックスして生き残ったのもまた我が国独自の手法ですからね。こだわり過ぎていては自滅の道を歩んでしまいます。ところが…
> 歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
> 定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
仰るとおり、これもまた事実なんですよね。
もっとも、朱子学者は新井白石などもいますから、定信がどこまで加担していたかは微妙なところですが。
わろ 確か、朱子学って滅亡寸前の宋の皇帝が現実逃避して体系化させた儒教の一つですよね。
朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
わろさんへ
黒田裕樹 > 確か、朱子学って滅亡寸前の宋の皇帝が現実逃避して体系化させた儒教の一つですよね。
> 朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
> 明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
仰ることは確かに一理ありますね。
朱子学が我が国に与えた影響は、予想以上に大きいかもしれません。
> あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
意外ですよね。結構こういう流れはありますよ。
こんばんは
ryo まったく関係ない質問なんですが。。
今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
ryoさんへ
黒田裕樹 > まったく関係ない質問なんですが。。
> 今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
最近の学説では「聖徳太子」は後世のつくり話であり、厩戸皇子(うまやどのおうじ)という本名で呼ぶべきだ、という考えがあるようです。確かに過去の書物でしか記録に残っていませんが、1000年以上も国民から慕われ続けた「聖徳太子」の称号をそう簡単に変更してよいものか、と私自身は非常に違和感を感じております。
一万円札から聖徳太子が姿を消したのは昭和59(1984)年ですが、この2年前(昭和57年)に起きた教科書誤報事件をきっかけに、近隣諸国条項という名のもとに我が国の教科書の内容に偏向が見られるようになりました。聖徳太子の外交上の大きな功績に、遣隋使に託した国書によって我が国が中国(当時は隋)の冊封体制から脱出するきっかけをつくったことが挙げられますが、これは裏を返せば日本が中国の「奴隷」でなくなったということであり、中国側からすれば「大悪人」になりますよね。同じように韓国から見れば悪人扱いされる伊藤博文が聖徳太子と同じ時期に千円札から排除されており、このあたりの事情と無関係ではないと思います。
いずれにせよ、我が国の歴史は諸外国に配慮しながらも自国の立場にたって教えるべきであり、諸外国への過度のおもねりは無用と考えております。
なお、今回の見解については平成21年6月の講座でも紹介しておりますので、リンク先を示しておきます。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-88.html
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-89.html
ぴーち おはようございます!
定信はいわゆる唯一神教的な考えの元での妄信的な信者であったのでしょうか。
やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 定信はいわゆる唯一神教的な考えの元での妄信的な信者であったのでしょうか。
> やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
> 学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
「熱心な○○者」の場合、他の宗教や学問も熟知したうえで、いろんなエッセンスを加えたうえでさらに発展させる人間と、自分の殻に閉じこもって他を認めようとしない心の狭い人物とに分かれることが多いですが、定信の場合は典型的な後者のパターンでしたからね(´・ω・`)
「優秀であった」というところがさらに問題であったのかもしれません。
寛政の改革の当時に在位されておられた第119代の光格天皇(こうかくてんのう)は閑院宮家(かんいんのみやけ)からご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって摂関家(せっかんけ)より下となっていました。
このため、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
2段落目の解説がどうも歴史に疎い私には
少々理解しがたいものを感じますが、
やはり天皇家が摂関家を目上にみなければいけない事態というのは、確かに奇妙な図式ですね(^_^;)
朝廷が幕府にお願いするということ自体も前例があまりない
異例な事と言って良いのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 2段落目の解説がどうも歴史に疎い私には
> 少々理解しがたいものを感じますが、
> やはり天皇家が摂関家を目上にみなければいけない事態というのは、確かに奇妙な図式ですね(^_^;)
皇族の皆様のお立場は、通常はどう考えても摂関家より上ですし、ましてや天皇のご尊父であればなおさらでしょう。摂関家を優遇して朝廷をコントロールしようとした江戸幕府の思惑がもたらした奇妙な図式と言えます。
> 朝廷が幕府にお願いするということ自体も前例があまりない
> 異例な事と言って良いのでしょうか?
確かに異例ですね。本来ならば朝廷の決めることに誰も口出しできないはずなのですが、これも禁中並公家諸法度によって厳しく制限されているんです。しかし、本文にもあるように前例が二度もあるのですから、通常はOKでも問題ないはずなのですが、定信は何を考えていたのでしょうか…。
つまり、尊号一件における定信の行動が結果として幕府の運命を暗転させたのですが、そればかりでなく、定信自身が政権の座から転がり落ちるきっかけをもつくってしまいました。
11代将軍である徳川家斉は、吉宗が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として自身の血統から新たに設立した御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて1793年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は六年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(かんせいのいろう)」として政治を行っています。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 日本の不思議は天皇です。なんで民主主義の現代でも象徴などとあいまいな表現でごまかし学校時代からズートその存在が疑問でした。
現在の自分は、公には反天皇とは言いません。
あいまいなまま存在を認めてるだけです。
そういう日本人は多いと思います。
俵総一郎は徳川家康にもし会えたなら
なぜ天皇を打倒しなかったのかとききたいそうです。日本が何でもあいまいになる原因は天皇にあると思う。
明治維新も天皇のカリスマ性を利用したあいまいな近代化、殖産興業富国強兵のまま突き進みその延長に原発事故もあると思う
なぜ徹底的に賛否両論を闘わせ膿を出さないのか
これが日本史の最大の疑問のネックになってる
高校時代からこういうことをいうとある時は同級生に「非国民」と罵られた。
こういう書きよごしてすいません。でもみんな言わなけど思ってないのかなぁ
ぴーち こんばんは!
やはり立場を弁えて物事を判断する大切さというのを
改めて考えさせられるお話ですね(^_^;)
応援凸
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 「非国民」ですか。言論の自由は保障されなければいけませんね。
ろっぽんさんのお考えを、堂々とご自身のブログでご披露いただければと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり立場を弁えて物事を判断する大切さというのを
> 改めて考えさせられるお話ですね(^_^;)
そうですね。まさか自分に火の粉が降りかかるとは思ってもみなかったのでしょう。
「自分は天才だ」と思い込んでいる人間が陥りやすい罠だと思います。
おひさしぶりです♪(〃▽〃人)
まり姫 黒田さんこんにちは☆
パソコンの故障で窓7に交換しました(o´ェ`o)ゞ
本日やっと記事の更新にたどり着きましたです(o´ェ`o)ゞエヘヘ
まだ新製品の使い方をマニュアルとにらめっこしながらですが、そのうちおバカでも何とか使いこなせるかと思っています。
今後ともよろしくお願いしますね( ´゚ω゚`):;*.':;ブッ
まり姫さんへ
黒田裕樹 復活おめでとうございます(^o^)/
Win7は私も使っていますが、慣れれば結構便利ですよ。
こちらこそよろしくお願いしますm(_ _)m