綱吉の後を受けて6代将軍になった徳川家宣(とくがわいえのぶ)でしたが、就任してからわずか3年後の1712年に51歳で死亡し、後継として家宣の子で4歳の徳川家継(とくがわいえつぐ)が7代将軍に選ばれたものの、1716年に病に倒れ、8歳で亡くなったことによって、徳川家康以来の将軍家の血が絶えてしまいました。
徳川家にとって悪夢のような受けいれがたい現実でしたが、将来においてこういう事態を予測していた家康は、血の「セーフティーネット」ともいうべき制度を設けていました。家康が晩年に産ませた男子によって創設された、水戸(みと)・尾張(おわり)・紀州(きしゅう)のいわゆる御三家(ごさんけ)のことです。
家継亡き後、次の将軍を御三家のうちどこから迎えるかについて色々な意見がありましたが、最終的に血統の近さなどから紀州藩主の徳川吉宗(とくがわよしむね)が選ばれ、8代将軍に就任しました。
吉宗は30年近くの将軍在職期間を通じて、家康の時代を理想とした様々な幕政の改革を行いました。これを享保の改革(きょうほうのかいかく)といいます。




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クラチー 130000HITおぉ!?な、なんという数字!
おめでとうございます!
これからも歴史講座、楽しみにしていますよ!
(>∀<)ノノ
お、いよいよ吉宗さんの登場ですか。
どれ、目安箱に何か投稿してこようかな。←
オバrev 家康の危機管理能力というか先見の明たるや、スゴイの一言ですね。
しかし吉宗は、将軍になるという運命だったとしか思えませんけど(^^ゞ
ただ享保の改革は、見事にその効果があったのか、どうなんでしょうか?
クラチーさんへ
黒田裕樹 > 130000HITおぉ!?な、なんという数字!
> おめでとうございます!
> これからも歴史講座、楽しみにしていますよ!
> (>∀<)ノノ
有難うございます。これからも期待に応えられるよう頑張りますよ(^^♪
> お、いよいよ吉宗さんの登場ですか。
> どれ、目安箱に何か投稿してこようかな。←
是非とも某国の政権に関する様々な難問を訴えていただきたいものですm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 家康の危機管理能力というか先見の明たるや、スゴイの一言ですね。
> しかし吉宗は、将軍になるという運命だったとしか思えませんけど(^^ゞ
確かにそうですね。先見の明というものは時間が経って初めて証明されるものです。
ひるがえって現代は…(´・ω・`)
> ただ享保の改革は、見事にその効果があったのか、どうなんでしょうか?
難しい命題ですね。これからじっくり検証したいと思います。
ぴーち こんばんは!
13万ヒットですか!おめでとうございます!
破竹の勢いですね^^
この勢いでまだまだこれからも
ブログに講座に本業に益々頑張って
いただきたく思います(^^)v
吉宗は家康の時代の理想を実現しようと努力
した将軍だったのですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
これからも本業ともども頑張りますよ。歴史講座も近いですしね(^_^)v
> 吉宗は家康の時代の理想を実現しようと努力
> した将軍だったのですね^^
そのとおりです。理想とすることに関しては功罪両方があったと思いますが、そのあたりを今後時間をかけて検証していきたいと思います。
吉宗がまず取り組んだのは徹底した倹約令(けんやくれい)でした。収入がそれほど期待できない以上、支出を抑(おさ)えない限りは赤字が増える一方だからです。吉宗は、普段の着物は粗末(そまつ)な木綿(もめん)を使用し、食事も朝夕の二回のみで、献立(こんだて)も「一汁三菜(いちじゅうさんさい)」の質素なものにするなど、自らが先頭に立って倹約に励みました。
倹約令によって支出を抑え始めた吉宗が次に取り組んだのは、幕府財政の収入増でした。1722年、吉宗は諸大名に対して参勤交代(さんきんこうたい)における江戸在府(ざいふ)の期間を従来の一年から半年に短縮する代わりに、一定の米の量を幕府に献上させました。これを上げ米の制(あげまいのせい)と呼び、物価が高い江戸での生活を短くすることで浮いた諸大名の経費を、幕府に対して米で支払わせるという制度でした。
なお、上げ米の制は一定の成果を挙げたことで1730年に廃止され、参勤交代の制度も元に戻っています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
世の中が厳しくなると、やはり各個人が倹約していかなければ、苦しい生活を切り抜けてはいけないでしょうね。
この時代でも既に江戸は全国一、物価の高い所だったんですね(^^ゞ在府の滞在期間を短縮した代わりにお米を献上するとはいいアイディアですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 世の中が厳しくなると、やはり各個人が倹約していかなければ、苦しい生活を切り抜けてはいけないでしょうね。
倹約の精神は重要だと思いますが、庶民にまで押しつけるとどうなるのか…。そのあたりをこれから検討してみたいと思います。
> この時代でも既に江戸は全国一、物価の高い所だったんですね(^^ゞ在府の滞在期間を短縮した代わりにお米を献上するとはいいアイディアですね^^
そうなんですね。ただ、諸大名から米を徴収するのはやはり幕府の体面にかかわるということで、一定の役割を果たしたのちに廃止されています。
- 吉宗が将軍に就任した時の、巨額の負債を抱えて破綻寸前の幕府の財政って、現在とダブって見えるんですけど(^^ゞ
やっぱ、支出減らすのは当然だろうと思いますけど、日本の黒字に貢献している世界最強とも言える企業の競争力を高めることも必要だと思いますが・・・その辺を吉宗はどうしたんでしょうか?
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 (ホストからして間違いなく「赤ヘルの人」だとは思いますが…)
> 吉宗が将軍に就任した時の、巨額の負債を抱えて破綻寸前の幕府の財政って、現在とダブって見えるんですけど(^^ゞ
言われてみればそうですね。だとすれば今の方が…(@_@;)
> やっぱ、支出減らすのは当然だろうと思いますけど、日本の黒字に貢献している世界最強とも言える企業の競争力を高めることも必要だと思いますが・・・その辺を吉宗はどうしたんでしょうか?
経済の問題に関しては後半でじっくり検討したいと思います。まずは「善政」の面から紹介しますので、そちらをお楽しみ下さいm(_ _)m
収入というものは増やすだけではなく、一年にどれだけ得ることができるかという目安も重要でした。そのためには、耕地を広げるだけではなく、納めさせる税率も一定のものにしなければならないと吉宗は考えました。
そこで吉宗は、豊作(ほうさく)や凶作(きょうさく)にかかわらず、過去数年間の収穫高(しゅうかくだか)の平均から年貢率(ねんぐりつ)を一定にするという定免法(じょうめんほう)を定めました。一方、一年の収穫高で年貢率が上下する旧来の制度のことは検見法(けみほう)と呼ばれています。
収入増に一定の道筋をつくった吉宗が次に考えたのは、優秀な人材を積極的に登用することでした。しかし、いくら優秀であっても、旧来の地位や身分を重視していては上手くいきません。そこで、たとえ身分が低くても、在職中の間だけ石高(こくだか、米で支給される武士の給料のこと)を増やすという足高の制(たしだかのせい)を1723年に定めました。この制度によって江戸南町奉行として採用されたのが、有名な大岡忠相(おおおかただすけ)です。




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ろっぽん 現在、「飯食わねぇ嫁ご」という民話を描いていますが欲深婆さんがご飯食わない嫁ならば働かせれば働くほど儲けることができるのではないかという民話でこの民話の背景に開田するほど豊かになるというシステムがあるからなのかと考えるのですが
現実には働けど働けど我が暮らし楽にならないのような気がするのですが実際、生産高を増やせば農民たちも大名も豊かになるということがあったのですか、URLはその民話です。
ぴーち こんばんは!
>いくら優秀であっても、旧来の地位や身分を重視していては上手くいきません
そうですよね。
地位や身分が低くても、それなりの見識や知識が豊富な人物は沢山いますから、吉宗の考え方を現代の政治家にも是非当てはめていただきたくも思いました。が・・?
応援デk所
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > 現在、「飯食わねぇ嫁ご」という民話を描いていますが欲深婆さんがご飯食わない嫁ならば働かせれば働くほど儲けることができるのではないかという民話でこの民話の背景に開田するほど豊かになるというシステムがあるからなのかと考えるのですが
「飯を食わない女房」の昔話は私も聞いたことがあります。オチが結構怖かった記憶がありますが…。
> 現実には働けど働けど我が暮らし楽にならないのような気がするのですが実際、生産高を増やせば農民たちも大名も豊かになるということがあったのですか、URLはその民話です。
「生産高が増えれば農民も大名も豊かになる」。確かにそう思えそうですし、吉宗も固く信じていたようです。ではその結果はどうなのか…についてはいずれ紹介します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > >いくら優秀であっても、旧来の地位や身分を重視していては上手くいきません
> そうですよね。
> 地位や身分が低くても、それなりの見識や知識が豊富な人物は沢山いますから、吉宗の考え方を現代の政治家にも是非当てはめていただきたくも思いました。が・・?
私も同意見です。政治家に限らず、大胆な政策を実行したり考えたりする人物は在野にいくらでもいるはずです。国難の時こそ頑張り時だと思うのですが…。
HANA子 記事を拝見して思ったのは、この享保の改革における新田開発って言ってみればというか、まんま民間資本の公的事業投入──PFI事業なんですね。
問題点も多いですが、官よりも民間の力が強い社会なら効率的にまわるシステムと言えますし、その辺を吉宗とそのブレーンは理解していたということなんでしょうか。
今度の震災において、震災復興をこのPFIで行うという案が出ているそうですが、さてどうなりますことか。
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそんな一面がありますね。
吉宗がそこまで理解できていたかどうか私は分かりませんが(おそらくは資金不足の苦肉の策のような気がします)、現実の世界ではどうなるでしょうか?
吉宗は、江戸の町に詳(くわ)しい町民に自身の住む町を守らせたほうが効率が良いと考え、町火消(まちびけし)の制度をつくりました。その他にも、火事による類焼(るいしょう)を食い止めるために広小路(ひろこうじ)と呼ばれる幅の広い道路をつくったり、防火用の空き地である火除地(ひよけち)を設(もう)けたりしました。
また、それまでの江戸の家屋(かおく)は板葺(いたぶ)きの屋根が多かったのですが、火の粉(こ)が飛んできたら無防備も同然だったため、瓦葺(かわらぶ)きに改良させていきました。
ちなみにこの頃の消火方法としては、火がこれ以上広がらないように周囲の家を取り壊(こわ)してしまう破壊消防(はかいしょうぼう)が中心でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
なるほど!
そういう訳で「暴れん坊将軍」の時代劇ドラマでは、
「め組」の頭と仲が良い設定になっていたんですね(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど!
> そういう訳で「暴れん坊将軍」の時代劇ドラマでは、
> 「め組」の頭と仲が良い設定になっていたんですね(笑)
そのとおりです。
め組の辰五郎は吉宗の時代とは別の人物(吉宗よりも100年近く後)ですが、設定はうまくつくっていますよね(^^♪
オバrev またもやHNなしのコメント送っちゃいましたm(__)m
しかし吉宗は見事に民間を活用していますね。江戸時代の経済状況って、現在と共通する面が多いし、現在でも十分参考になるような気がします。
経済学者や政治家は、もっと江戸時代を勉強すべきじゃないでしょうか。
ところで、広島は連日朝から猛暑の日が続いていますが、私が学生時代を大阪で過ごして思っていたことは「大阪は広島より暑い」ということです。夏に広島の我が家に帰ったときにはホッとしてました。どうぞ体調には十分お気をつけ下さい。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > またもやHNなしのコメント送っちゃいましたm(__)m
いえいえ、どうぞお気遣いなく。ホストでおおよその見当は付きましたよ。
> しかし吉宗は見事に民間を活用していますね。江戸時代の経済状況って、現在と共通する面が多いし、現在でも十分参考になるような気がします。
> 経済学者や政治家は、もっと江戸時代を勉強すべきじゃないでしょうか。
民政という点では吉宗の功績は大きいと思います。経済については…またいずれ検討しましょう。
> ところで、広島は連日朝から猛暑の日が続いていますが、私が学生時代を大阪で過ごして思っていたことは「大阪は広島より暑い」ということです。夏に広島の我が家に帰ったときにはホッとしてました。どうぞ体調には十分お気をつけ下さい。
広島よりも暑いんですか…(´・ω・`)
今やエアコンが欠かせない世の中ですからね。仰るとおり気を付けます。有難うございますm(_ _)m
吉宗
ろっぽん 紀州家からの出ですね
しかし、世襲と言うのは何代も続くうちに
遺伝的に劣勢になり直系というのは維持できないものですね。万世一系の天皇というのはうそですね。この歴史ランキングにはそういう信奉者がいますが。また吉宗は大奥のリストラをしたことでも有名ですね。なんか美人を特にリストラしたとか、理由は美人だと引く手あまたで困らないkららだそうですね。いつも記事とはあまり関係のないコメントですいません
あんまり歴史を信仰するのも考えものですよ!
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 世襲のに関するお話は私も聞いたことがあります。
個人的には各自に色んな考えがあって良いと思っておりますし、歴史一辺倒ではなく様々な面から取り上げることにも同意ですね。
ご意見ありがとうございます。
吉宗の美人リストラは有名ですね。あまり美人でない女性が好みだったという説もあるようです。
目安箱に入れられた書状の中には、吉宗の政治に対して批判的な内容のものもありましたが、吉宗は投書した人物を処罰(しょばつ)しませんでした。目安箱は、封建社会(ほうけんしゃかい)においては時として独裁(どくさい)政治になりがちな時代のなかで「お上(かみ)にも過(あやま)ちを犯(おか)すことがある」ことを事実上認めた画期的(かっきてき)な制度でもあったのです。
吉宗は、更なる収益の活性化を目指して新しい産業を興(おこ)そうと考えました。なかでも有名なのが甘藷(かんしょ)、いわゆるサツマイモの栽培(さいばい)でした。吉宗は青木昆陽(あおきこんよう)に命じて薩摩(さつま)で従来生産されていた甘藷を江戸でも栽培させました。甘藷はやがて救荒作物(きゅうこうさくもつ、飢饉=ききんの際に役立つ作物のこと)として全国に広がったのですが、この背景には大きな教訓がありました。
実は、享保の改革が行われた間に大凶作(だいきょうさく)があったのです。1732年に起きた享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)によって、西日本を中心に多くの餓死者(がししゃ)が出ましたが、藩全体で甘藷を栽培していた薩摩藩(さつまはん)では一人の犠牲者も出さなかったといわれており、吉宗もその事実に注目したのでした。




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ぴーち こんにちは!
目安箱については批判も多かったとありましたが、処罰をしなかったということが一番大切な部分でもありますね^^
忌憚のない意見を言うことが出来ますね。
確か家康も様々な意見を家臣から聞き入れ、積極的に取り入れていたらしいですものね^^
それとさつまいもの話は存じておりました♪
今でもそうですが、素晴らしい食材だと思います^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 目安箱については批判も多かったとありましたが、処罰をしなかったということが一番大切な部分でもありますね^^
> 忌憚のない意見を言うことが出来ますね。
> 確か家康も様々な意見を家臣から聞き入れ、積極的に取り入れていたらしいですものね^^
吉宗のこういう姿勢は評価できますね。家康の良いところを受け継いだといえるかもしれません。
> それとさつまいもの話は存じておりました♪
> 今でもそうですが、素晴らしい食材だと思います^^
サツマイモは確かに天の配材ですね。
多くの人間の生命を守ってくれたと思います。
また吉宗は、当時ヨーロッパで我が国と唯一(ゆいいつ)貿易を行っていたオランダの言葉であるオランダ語によって、西洋の学術や文化を研究した蘭学(らんがく)を積極的に導入しようとしました。この際に吉宗が蘭学を学ばせたのが、先述した青木昆陽と野呂元丈(のろげんじょう)です。吉宗の時代に種がまかれた西洋の知識により、世界の様子が少しずつ広まっていったことで、近い将来に開国のチャンスが生まれることになりました。
さらに吉宗は、幕府に殺到(さっとう)する訴訟(そしょう)への対策も考えました。1719年に相対済し令(あいたいすましれい)を出したことで、金銭の貸し借りによる争いを当事者で解決させるようにしたのです。但し、借金を棒引きしたいわゆる徳政令(とくせいれい)とは違いますので、区別する必要があります。
なお、吉宗の時代に行われた他の法令関係の事業では、江戸の治安を守るためとして、幕府による本格的な法典(ほうてん)の導入を目的に1742年につくられた公事方御定書(くじがたおさだめがき)も有名です。




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晴雨堂ミカエル 田沼の時代に開国して、蝦夷地の国境を確定していれば、もしかしたらカラフトや千島はいまも帰属していたかもしれないし、あるいはアイヌ自治道もありえたかもしれません。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 田沼の時代に開国して、蝦夷地の国境を確定していれば、もしかしたらカラフトや千島はいまも帰属していたかもしれないし、あるいはアイヌ自治道もありえたかもしれません。
私もそう思います。詳しくは後日の田沼時代の際に改めて紹介しますね。
樺太
ろっぽん この辺のことは昨年、アイヌ民話をコミック化した時、調べてはじめてきずいたのですが、
北方領土のことをいうとき千島のことだけでますが
アイヌ民俗は松前藩に帰属させると決めたわけです
樺太にもアイヌが住んでいたわけです。
それから考えると、樺太も日本領な訳です
なるほど田沼時代ですか。
現代は情報が多すぎまた原発情報のように嘘情報が多い、かえって少ない方がより創意工夫できるじゃないですかね、それにしても当時の日本人技術を具体化する知識欲はすさまじいですね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 田沼時代に本格化する蝦夷地の開拓計画は、吉宗がその種をまいているんですよね。
樺太については幕末の日露和親条約では雑居地となりましたが、それまでの探検を含む意欲には仰るとおり凄いものがあると思います。
恵まれすぎると、かえってそれを頼りに退化してしまうものなのでしょうね。
ぴーち こんにちは!
確か、開国時のペリーとの対話の時は英語ではなく
オランダ語で行われた様ですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確か、開国時のペリーとの対話の時は英語ではなく
> オランダ語で行われた様ですね^^
そのとおりです。
日本語→オランダ語→英語の順で通訳されています。オランダと貿易をしていた関係でこうなりました。
アメリカと国交を結んで以降は英語を話せる通訳が必要となり、ジョン万次郎らが活躍することになります。
HANA子 公事方御定書とか学校の授業だとさらっと流しちゃうんですよね
それまで先例と慣習によって成文化されていなかった基本法令をきちんと成文化した幕府の法典としてけっこう重要なものなのにって思うんですけどっ
確か刑事裁判に関する判例とかもまとめてあったはずですし
いつも思うのですが、「どこそこが日本を統治しました、まる」の様な結論が先行する学校の授業が歴史に対する興味や学習意欲を奪っているのではないかなと
掘り下げれば掘り下げるほど面白いものが湧き出してくるのになと思うばかりです
HANA子さんへ
黒田裕樹 公事方御定書についてはまさにそのとおりです。
今回は詳細を略しておりますが、歴史の学習は仰るとおり「掘り下げてナンボ」ですからね。
これからもできる限り追究していきたいと思います。
漢訳洋書
ろっぽん なるほど漢訳洋書が技術書と出回っていて
そういうので南蛮土木などが普及し新田開発、干拓
運河などの工事が可能だったのか
仙臺藩などラン語の読める人物があまりいないのになぜ貞山運河や鹿島台の沼の干拓をよくやったと疑問でした。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 そうですね。戦国時代までのに加えて、それ以降の技術も漢訳洋書によって広まった功績は大きいと思います。
答えは「庶民(しょみん)の目線による政治」です。吉宗には、特に土地開発や都市対策において庶民のためになる政治を行おうとする姿勢がうかがえますが、このことを可能にしたのは、吉宗の母親の身分が低いことで、幼年期に家臣の子として育てられた影響が大きいと考えられます。
さて、吉宗による享保の改革には確かに善政の面が多かったことは事実であり、それに関しては何ら否定するものではありません。しかし、どんなに素晴らしい政策にも光と影があるものです。吉宗の治世は決して明るい時代だけではなく、むしろ農民にとっては非常に厳しかったかもしれません。
なぜそう言いきれるのでしょうか。カギを握るのは、現代の我が国にとって必要不可欠な「ある職業」に対する徹底した差別であり、またその差別を助長(じょちょう)した「ある宗教」に由来する幕府の学問です。




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ぴーち こんにちは!
やはり庶民の気持ちは庶民の子供として
生まれ、育った人の方がよく判るものですね。
それでも、小泉さんの政策でも言われた様に、
痛みを伴う政治改革というのは避けられないものであるとも思います。
ある職業とは・・なんでしょうか(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 庶民の気持ちが分かる政治家としては吉宗は貴重な存在だったと思います。
ただ、人間には良いところと悪いところがあるものでして…。
次回以降の更新をご覧下さいね(^^♪
家康自身は決して商行為を嫌っているわけではなく、江戸幕府成立直後には海外との貿易を積極的に考えていたほどの重商主義(じゅうしょうしゅぎ、商業を重視すること)者でしたが、朱子学が広まるにつれて、幕府の政策は次第に商業に対して否定的な路線を進むようになってしまいました。
そもそも儒教の世界において、商行為には生産性が全くないうえに「100円の価値しかないものを120円で売る」という行為自体が「いやしい」と見なされ、道徳的に認められていませんでした。江戸時代の身分制度として有名な士農工商(しのうこうしょう)で、商人が最下層(さいかそう)とされている本当の原因でもあります。
江戸幕府の政策においては、商行為は「悪」とみなされていると言っても過言ではなく、商人がどれだけ利益を上げても、彼らから所得税(しょとくぜい)や法人税(ほうじんぜい)を集めるという発想自体がありませんでした。もちろん吉宗もその例外ではなかったのです。
このような組織が政治の実権を握った場合には、現代では当然のごとく重要視されている経済政策が全く考慮(こうりょ)されなくなります。それゆえに吉宗による享保の改革も経済問題に関しては迷走(めいそう)を続けることになったのでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
現代でもよく商売を営みながら、商売が下手だと言われている人というのは、この商行為という
考え方に徹する事が出来なくて、正直に商売をしてしまって結局、店を潰してしまう事になってしまうのだと私も思います。儒教ばかりではなく、人道的に正しい行いをしていこうと思う前には、商魂逞しさは正直、相反する考えであり、その時点で悩んでしまう人には真の商売人の素質は受け付けられないものだと思いますね。
宮澤賢治も自身が身につけた仏教観が実家の稼業の商売の考え方と相反する事に悩み、自分の考えに反して生きる事に違和感を感じていた彼は教師という道を選んだ訳ですが、またその道を選んだ事で自分の寿命を縮めたとしてもこれは致し方ない事だったのでしょうね。それでも宮沢賢治は尊敬する人物の一人です^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 商行為と儒教は確かに相容れないところがありますからね。
ただ、石田梅岩によって「商人道」が確立されてからは明らかに変化しています。時代の流れに乗れない考えが、結局足を引っ張ってしまうんでしょうね。
へえ~
クラチー そういえば昨日は大阪講演でしたね。お疲れ様です!
…はっ!っていうことは、
東京に来るのは今週末!?あわあわ…!
{{(・・;)}}
「士農工商」って、
「農民の不満をちょっとでも減らすために、工商を下にした」
って感じで学んできたんですが、実は朱子学の考えも含まれていたんですね。
どうりで当時、消費税とか法人税とかをやるって考えが無かった訳だ。
(-m-;)
…あれ?
江戸時代にそういうのを始めた先駆者って…。←
クラチーさんへ
黒田裕樹 > そういえば昨日は大阪講演でしたね。お疲れ様です!
> …はっ!っていうことは、
> 東京に来るのは今週末!?あわあわ…!
> {{(・・;)}}
有難うございます(^^♪
そうですよ~(´∀`)
いよいよ土曜日に東京講演です!
> 「士農工商」って、
> 「農民の不満をちょっとでも減らすために、工商を下にした」
> って感じで学んできたんですが、実は朱子学の考えも含まれていたんですね。
> どうりで当時、消費税とか法人税とかをやるって考えが無かった訳だ。
> (-m-;)
朱子学の悪い面がまともに出てしまってますよね(´・ω・`)
取れるところから取るのが税の基本ですが…。
> …あれ?
> 江戸時代にそういうのを始めた先駆者って…。←
さて、誰でしょう!?
もうすぐ明らかになりますよ(^_^)v
タカシ☆TZR 「士農工商」というのは「身分制度」なんでしょうか?
幕府がそういう制度を制定したわけではなさそうだし,
あくまで儒学者が勝手に言ってただけの序列のように思います.
先に指摘した「藩」の呼称と同じような感じで.
実際のところ工と商の身分が厳密に区別されていたわけではないし,
農が商いをすることもあったわけですよね.
幕府が制度としての「士農工商」を明文化してたりするのかなぁ.
オバrev 我々は日教組左翼教育を受けましたが、吉宗の頃の価値観の影響が、続いていたことを痛感しますね。
特に商売をやっていると、この商行為と本来価値有るものに正当に請求できる金額に対する後ろめたさを感じるのは、そういう教育があったからだと思います。
その辺で感心するのが大阪です(^o^)
大阪だけは違ったんですかね?
タカシ☆TZRさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、士農工商は儒教由来の言葉ですので、江戸時代の実際の制度とは必ずしも一致していません。
「商業が最下層」というのも儒教の考えであり、その思想が江戸幕府にも存在したことで商人を蔑視していたという一面は確かにあったと考えられますが、現実の世界での実証研究はこれからのようです。
一方、士農工商が使われだしたのは階級史観に原因があるようですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 一方的な見方だけを押し付けるのが正しい歴史教育かと問われれば、確かに疑問符を付けざるを得ないと思いますね。
商業に関しては、大坂では確かに違った可能性がありますが、後日紹介する石田梅岩の存在も大きかったと思います。
現代でもそうですが、国民の中には収入が多い人々も少なくありません。彼らがぜいたく品などを買い求めたりすることによって経済が活性化し、結果として文化が広がっていくのです。徳川綱吉の時代に減税によって人々の暮らしに余裕が生まれ、多くの人々が遊びを求めた結果、そのニーズに応えて元禄文化(げんろくぶんか)が生まれ、栄えたのが何よりの証拠です。
しかし、吉宗は倹約令を国民に「押し付けた」かたちになりました。倹約ばかりでは消費が冷え込んで景気が悪化するばかりでなく、人々の心にも余裕が生まれず、結果として文化も栄えません。綱吉の時代の元禄文化に対して、吉宗の時代には「享保文化」と呼ばれるものはついに誕生しませんでした。
吉宗の倹約令は庶民の消費意欲を奪(うば)い、広まるべき文化の芽を摘(つ)み取ってしまったのですが、農民の生活はそれ以上に苦しめられていました。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。実は、ここにも「儒教と商行為」の問題が見え隠れしているのです。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 世界でも日本国民の貯蓄額はトップレベルです。
輸出が好調な時は蟻とキリギリスの童話のごとく
貯蓄は有効ですが
今まではアメリカ国民の投資で儲けた金で輸入し
積極的に消費して日本が外貨を稼いでいた時とは違い、もっと金をつかわないと経済の血液が回らなくなり梗塞を起こしている状態である
よく資本主義、社会主義というが
日本は貯蓄主義であると思う
資本主義擁護派の人も株投資などもしなし
社会主義なんか嫌いという若者が派遣労働、年金老後の不安、医療の不安がある
つまり学校教育でその辺の本質を教えてないのだ
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、全体の金回りがうまくいっていないことが景気の回復を遅らせていますね。
デフレスパイラルから一刻も早く回復するためにも、国の体力があるうちに内需拡大などの積極的な対策が望まれます。
ぴーち こんにちは!
綱吉の時代で花開いた元禄文化があった事が
逆に吉宗の提案をこういう結果にしてしまったのでは。。と思いました。
現代でもバブルを一時的でも経験した事で、その後の今のような経済悪化の現実をなかなか受け入れられなくて、いつまでもバブルの頃の生活水準をもう一度取り戻そうとする気持ちが働いている為に、その現実と理想の間で悩んでいる人は大勢いて、その最たる結果、自殺者が増えているようにも感じます。
人間一度甘い汁を味わってしまうと、なかなか
その後の倹約生活を耐える事は難しいというのは、世の常なのだと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰る一面もありますね。
贅沢に慣れると節約することは確かに厳しいと思いますが、逆にブレすぎても大変なような気がします。
なおまゆ 現在の日本を見ているようですね。
倹約を強制されてはいませんが、そういう空気はかもし出されていますよね。
減税が国民生活を豊かにするのは自明の理なんですが、今の政府は、逆に進んでいます。
吉宗は名君として名高いのですが、疑問です。
経済政策というのは、タイミングを間違えれば一層状況を悪化させます。
今は、国債を発行してインフレを起こすのが良いと思うのですが・・・逆行していますよね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 私も同意見です。
世間の空気がマイナスのベクトルになったまま動こうとしませんから、これはかなり危険だと思います。
こんな時こそ政治がしっかりと国民を正しい方向に導くべきなのですが…。
吉宗は新田開発を手がけることなどによって米の増産に尽力(じんりょく)しました。その背景には「米を増産させれば当然年貢収入も増えるから、財政は豊かになる」という思い込みがあったのですが、これはとんでもない思い違いなのです。
幕府の財政を支えていた米であっても、結局は流通する商品のひとつに過ぎません。ということは、増産すればするほど米が余るようになりますから、供給量が増えることによって当然のように米の価格が下がり、その結果として財政も厳しくなってしまうという全くの逆効果をもたらしてしまったのでした。
このような矛盾(むじゅん)が起きた理由の一つに、幕府が米を「神聖なもの」として扱う姿勢がありました。幕府は商品の一つに過ぎない米を「通貨」扱(あつか)いにしていたのです。これを石高制(こくだかせい)といい、幕府の基本制度として成立当初から続けられてきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確かに多く生産すれば、物の価値は下がって
、当然の如く値段も下落してしまいますものね。
お米は神聖なもの・・という魔法のような言葉が
当時の吉宗に暗示を掛けていたので、よく検討してみれば分かりそうな事をも見えなくしてしまっていたんですかね。
応援凸
米
ろっぽん そういう相場という考えがなかったんでしょうね
今年は津波と原発被害で福島、宮城、岩手の生産が大きく落ち込みおそらく米の価格が上がるでしょうね 現に相場は上がってますね
早くも台風が上陸しそうで福島の放射能を撒き上げ
どういうコースをとるかわかりませんが
新潟、秋田に放射能雨をばらまいたら眼も当てらませんね。それに比べれば吉宗のしたことなど小さい小さい。これから30年近くも日本は放射能と闘ってゆかねばならんのでしょうね
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに多く生産すれば、物の価値は下がって
> 、当然の如く値段も下落してしまいますものね。
> お米は神聖なもの・・という魔法のような言葉が
> 当時の吉宗に暗示を掛けていたので、よく検討してみれば分かりそうな事をも見えなくしてしまっていたんですかね。
仰るとおり冷静になって考えれば分かりそうなものなのですが、重農主義に走るあまり物事が見えなくなってしまったのかもしれませんね。
思い込みや思い付きだけで政治はできないという、現代にもつながる教訓のような思いがします。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 商業を蔑視する吉宗には相場という考えは仰るとおりなかったと思います。
津波や原発事故によってコメの不作が懸念されていますからね。現実的な被害はもちろん、風評的な被害も大きいと考えられますので、消費者にも冷静さが求められると思います。
オバrev う~ん、人間ですから完璧なスーパーマンはいませんが、経済的、商業的価値を低く置いた点をのぞけば、それまでの慣習を打ち破り画期的な政治を行ったように思います。
この唯一の?弱点(大きな弱点ですが・・・^^;)とも言える経済政策について助言する人はいなかったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、人間ですから完璧なスーパーマンはいませんが、経済的、商業的価値を低く置いた点をのぞけば、それまでの慣習を打ち破り画期的な政治を行ったように思います。
吉宗の改革には功罪両方の部分があると思います。善政の部分については前半で既に取り上げました以上、こちらは失政のターンになりますから、多少厳しい見解になっているかもしれません。
> この唯一の?弱点(大きな弱点ですが・・・^^;)とも言える経済政策について助言する人はいなかったんでしょうか?
仮にいたとしても、吉宗であればおそらく耳を傾けないか、あるいは理解できなかったと思われます。
こんばんは
- 普通に考えれば下落するとわかりそうなものですが、気づかないぐらい米に力を入れていたということなのでしょうか。吉宗という人はもっと賢い人と思っていましたが、先生の話を聞いていると綱吉の方が政策は優れていたように感じますが、先生はいかがお考えでしょうか。
それから先生の大阪講義に行けず大変残念で、悔しい思いをしているのですが、いつ頃動画をアップされる予定なのでしょうか。楽しみで仕方ありません。
名無しさんへ
黒田裕樹 (お名前を書いておられないので、上記のタイトルで失礼します。)
吉宗は自らが政治を行った将軍でしたから、結果的に不得意な分野であっても自分の信念に基づいて政策を行い続けてしまったことで、経済面では失敗に終わりました。
一方、綱吉は生類憐みの令に関しては並々ならぬ信念を持っていましたが、経済政策については配下の荻原重秀を信じて彼に一任し、最終的な決裁のみ行いました。
吉宗と綱吉とを比較すると、「優秀であるがゆえに何でも自分でやろうとする人間」と「自分の能力を把握しているがゆえに、不得意な分野は他人に任せる力量を持っている人間」との違いが如実にあらわれるような思いがします。そう考えれば、綱吉の政策の方に軍配が上がるのではないでしょうか。
大阪講演の件、お言葉有難うございます。動画のアップは東京講演の終了後の予定です。また、ブログ上の記事のアップは8月1日頃を予定しておりますので、今しばらくお待ち下さい。
すいません。。
ryo 名前抜けてました。失礼しました。。
ryoさんへ
黒田裕樹 > 名前抜けてました。失礼しました。。
いえいえ、どうぞお気遣いなく。今後ともよろしくお願いします。
この矛盾を解決するには、米を通貨扱いにする米本位制(こめほんいせい)ともいえる石高制をやめて、戦国時代に行われていた生産される米の量を銭に換算(かんざん)する貫高制(かんだかせい)に戻すのが一番良い方法でした。
すなわち、武士にはそれまでの米に代わって銭を支給して、綱吉の時代に元禄小判(げんろくこばん)でそうしたように、政府が通貨量を調整して経済をコントロールする方式にすればよいのですが、商行為を敵視(てきし)するがゆえに極端な重農主義(じゅうのうしゅぎ)に染(そ)まっていた吉宗には出来ない相談でした。
一方、こうした吉宗による重農主義は、農民にとっても大きな苦しみとなっていました。幕府からの命令で必死になって米を増産しても、結局価格が下がることで収入が減ってしまい、財政的に苦しくなった幕府からは増税を要求され、その結果ますます苦しくなっていくという典型的な悪循環(あくじゅんかん)が続いたからです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはり上に立つものは、ある程度、公明正大であるべきだと思います。吉宗さんは、もう少し柔軟性のある考えの方かと思っておりましたが、一度その考えに賛同してしまうと、他からの意見に耳を貸さなくなってしまうという欠点があったのですね。
なかなか、上手くはいかないものですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。吉宗の信念たる重農主義が絶対化したことで柔軟な考えができなくなってしまったことが、特に農民にとって不幸な結果を招いてしまったといえます。
そして、農民の不満を解消する方法が…。
わろ うーむ、経済は難しいですね^^;
米を増やして、人口ももっと増えれば、相対的に米の価値も上がって行きそうな気もするのですが、江戸時代は米あまりだったのですか?
初コメで、なんだか、よく分からないコメして申し訳なさす><
わろさんへ
黒田裕樹 > うーむ、経済は難しいですね^^;
> 米を増やして、人口ももっと増えれば、相対的に米の価値も上がって行きそうな気もするのですが、江戸時代は米あまりだったのですか?
元禄時代までは確かにその傾向がありました。しかし、この頃までに人口の爆発的な増加はなくなっていたので、需要と供給の関係がシビアになっていたんですよね。
> 初コメで、なんだか、よく分からないコメして申し訳なさす><
いえいえ、お言葉大歓迎です。今後ともよろしくお願いします。
疑問
ろっぽん 当時は各藩ごとに年貢を納めるのでは?
直轄地は江戸、甲府、奈良、岐阜ぐらいで
(間違ってるかもしれませんが)
直轄地の米の増産ですか
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、今回の記事は直轄地である天領における話です。
直轄地は江戸のほかに甲府や京・大坂、長崎など全国に散らばっていますね。
それだけ農民の暮らしが安定していたからというのが理由として考えられるのですが、吉宗の治世の後半になると、増税による苦しい負担に耐え切れずに天領でも一揆が多発するようになってしまったのです。
ところで、皆さんは「ゴマの油と百姓(ひゃくしょう)は絞(しぼ)れば絞るほど出る」という言葉を聞いたことがありますか?
農民に対する無慈悲(むじひ)な政策を象徴(しょうちょう)するような言葉ですが、いつの時代に言われたかご存知でしょうか。実はこれは、吉宗による享保の改革の末期の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)である神尾春央(かんおはるひで)の言葉なのです。




いつも有難うございます。
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クラチー し、絞れるだけって…。
神尾春央さん、何を考えて?
一瞬、「マリー・アントワネットさんみたいに、実は本人が言ってないパターン」を願いましたが、そうではないんですねぇ。
(--;)
こういう奴を何で奉行にしちゃったんだ、吉宗さん。
まあ、今の国会の大臣選びにも、似たような部分があったような無かったような…。
ぴーち こんにちは!
歴史に疎い私ですが、その言葉はどこかで以前聞いた記憶があります。
仰る通り、非常に無慈悲な言葉ですね・・
今の大臣がそんな発言をしたら、即刻、辞任に追い込まれそうですね(^^ゞ
応援凸
クラチーさんへ
黒田裕樹 > し、絞れるだけって…。
> 神尾春央さん、何を考えて?
> 一瞬、「マリー・アントワネットさんみたいに、実は本人が言ってないパターン」を願いましたが、そうではないんですねぇ。
> (--;)
半世紀後の書物に書かれているようですね。真偽のほどはともかく、現実に天領で一揆が多発していますから言い訳はできないですよね(´・ω・`)
> こういう奴を何で奉行にしちゃったんだ、吉宗さん。
> まあ、今の国会の大臣選びにも、似たような部分があったような無かったような…。
クラチーさんの思いは、多くの国民の思いかもしれませんね。
ただ、そういう議員を選んだのは他ならぬ私たちなのですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 歴史に疎い私ですが、その言葉はどこかで以前聞いた記憶があります。
> 仰る通り、非常に無慈悲な言葉ですね・・
> 今の大臣がそんな発言をしたら、即刻、辞任に追い込まれそうですね(^^ゞ
私もそう思いますが、現実の世界では失言はおろかもっと大きな疑獄があっても辞めない閣僚が増えているのが困ったものですね(´・ω・`)
もっとも、農民に無理を強(し)いたことで幕府の財政は上向き、蔵(くら)の中には相当量の金銀や備蓄米(びちくまい)が集まりましたから、いわゆる「幕府のための改革」としては成功したのかもしれません。
ところで、天領での一揆は吉宗の死後も治まる気配(けはい)がなく、後を継(つ)いだ9代将軍の徳川家重(とくがわいえしげ)も散々に悩まされました。そんな光景を静かな目で眺(なが)めていた、家重に若い頃から仕えていたある家臣は吉宗による「重農主義」の限界を実感していました。
その家臣は後に出世を重ね、将軍の側用人(そばようにん)と老中(ろうじゅう)とを兼任することによって政治の実権を握ると、過去の反省から「重商主義」に主眼を置いた政治に切り換えることによって我が国に好景気をもたらし、その開明的な政策は我が国の自主的な開国をもたらす一歩手前まで行きました。
その人物こそが田沼意次(たぬまおきつぐ)なのです―。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
吉宗に経済面で的確な助言が出来る家臣は
この当時は存在しなかったのでしょうか。
それとも居たとしても、吉宗の妄信的な重農主義の考えの元では、誰の意見も耳に入れない程だったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 吉宗に経済面で的確な助言が出来る家臣は
> この当時は存在しなかったのでしょうか。
> それとも居たとしても、吉宗の妄信的な重農主義の考えの元では、誰の意見も耳に入れない程だったのでしょうか。
おそらく後者だと思いますね。
将軍自らが政治を行うということは独裁者でもありますから、自分の考えこそ絶対だったのでしょう。
確かに幕府の財政は潤いましたが、農民を中心に多くの人々の恨みを買ったことによるダメージも大きかったと思われます。