これらの公共事業が元禄時代までに一段落すると、高い年貢を納める必要がなくなり、年を追うごとに年貢率は低下していきました。年貢率の低下は生活の余裕をもたらし、それまで食べるのに精一杯だった人々は、暮らしの中に遊びを求めるようになりました。
人々が遊びを求めればそれだけ貨幣の動きが活発になり、結果として経済が目覚ましく発展しました。経済の発展は遊びのさらなる進化をもたらし、武士や有力町民のみならず、一般庶民の間にまで高い水準の多彩(たさい)な文化が発達することになったのです。
元禄時代を中心に栄えたことから、この時代の文化は元禄文化(げんろくぶんか)と呼ばれていますが、その特色は現世(げんせ)を「浮(う)き世(よ)」と、すなわち人間社会の現実を肯定的(こうていてき)にとらえて実利を重んじる町人の思いが込(こ)められると同時に、この時代に奨励(しょうれい)された儒学(じゅがく)と政治との結びつきや、実証主義による古典研究や自然科学の学問の発達など、様々な側面が見られます。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃の日本はまだまだ国民が政府に対して
絶大なる信頼を寄せていたのでしょうね。
デンマークの様な高い税率でも国民から余り文句が出ない国になるには、やはり政府がしっかりとした信頼を取り戻していかなければ、ならないのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の日本はまだまだ国民が政府に対して
> 絶大なる信頼を寄せていたのでしょうね。
> デンマークの様な高い税率でも国民から余り文句が出ない国になるには、やはり政府がしっかりとした信頼を取り戻していかなければ、ならないのでしょうね。
そうですね。高い原資を取った一方で、仕事もあって支払いもきっちりしていたからこそ、庶民も耐えきったのだと思います。高度成長時と環境が似ているかもしれませんね。
紗那 7割税金とは高い気がしますが、それらの使い道がはっきりしていたからこれでも民衆は納めたのでしょうね……
いまの日本を見ていると、5%の消費税すら払いたくなくなります
一般庶民までに広く広がった文化は、これが初めてですっけ……?
紗那さんへ
黒田裕樹 > 7割税金とは高い気がしますが、それらの使い道がはっきりしていたからこれでも民衆は納めたのでしょうね……
私もそう思います。納めた米も労働の対価とはいえ還ってきましたからね。
> いまの日本を見ていると、5%の消費税すら払いたくなくなります
その気持ち、よく分かります(´・ω・`)
(額が少ないとはいえ)税金を払っている身分からすればたまったものではありませんからね…。
> 一般庶民までに広く広がった文化は、これが初めてですっけ……?
そのとおりです。「庶民の文化」としての側面は近いうちにご紹介しますよ。
風流
ろっぽん 先週に買った「中公文庫、まんが日本の古典・奥の細道
(矢口高雄)」を読むと山形の尾花沢に清風(俳号)と
いう人を訪ねて十日十一泊するのですが、
清風は江戸や京に紅花を卸す問屋で
江戸滞在のおり、芭蕉庵で手ほどきを受け
田舎でも風流をひろめ 今言うサークルみたい
なものを作っており、そんなように東北の片田舎にも
風流をたしなむ文化が元禄時代は広まっていたんですね
中公文庫、日本の古典は高校生に古典を理解させるには
最適な本です。値段も630円くらいで高校生にも
求めやすいのではないでしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 レビューを拝見しましたが、良作のようですね。時間を見つけてぜひ拝読したいと思います。
お勧め下さって有難うございます。
こんばんは
ryo 年貢の取立てが緩和されたことで、庶民の暮らしにゆとりができ、豊かになった。元禄文化や楽市楽座などこうした歴史を振り返れば、思い切った規制緩和と減税を行うことで現在の景気も良くなるような気がしてなりません。
そこで、規制緩和ができないのは中央集権体制や既得権益にも問題があるように思います。歴史に学ぶことも必要ですが、過去から続いているこうした体制があることで地方分権が思うように進まない。黒田先生はどのような所見をお持ちですか。
ryoさんへ
黒田裕樹 規制緩和については仰るような中央有権体制によるがんじがらめの規制や既得権益の打破の難しさがあると思います。ただ、今の段階で地方分権を敢行しても、国益を無視した「地方益」によって我が国全体の危機を助長するような気がしてなりません。なぜなら、戦後教育が「公」よりも「私」を強調しすぎたことによる弊害が多いと考えられるからです。
減税には私も同意です。財源としては復興債かもしくは政府紙幣の大増刷でしょう。80年以上前の金融恐慌の際に、モラトリアムで高橋是清が断行した政策を思い出すべきです。
歴代将軍の中でも特に学問を好んだ5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)は、1690年に湯島聖堂(ゆしませいどう)を建てて、林羅山(はやしらざん)の孫にあたる林鳳岡(はやしほうこう、別名を林信篤=はやしのぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任じました。
こうした幕府の姿勢は諸大名にも反映され、多くの藩主が綱吉にならって儒者を顧問(こもん)に学問に励むと同時に藩政の向上を目指しました。中でも岡山の池田光政(いけだみつまさ)や会津の保科正之(ほしなまさゆき)、加賀の前田綱紀(まえだつなのり)や水戸の徳川光圀(とくがわみつくに)らが有名です。
徳川光圀は有名なテレビ時代劇である「水戸黄門(みとこうもん)」のモデルとしても有名ですね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
儒学的な考えは元禄時代以降には
廃れてきたのですか?
それはどんな理由なのでしょうか。
礼節を尊ぶ考えというのは、
今でも日本人の考え方の根底に
脈々と受け継がれている様に思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 儒学的な考えは元禄時代以降には
> 廃れてきたのですか?
> それはどんな理由なのでしょうか。
廃れてきたというよりも、さまざまなかたちで発展を遂げた、というべきかもしれません。
例えば、中国から伝来した朱子学が、後述する水戸学のように日本の風土に合ったかたちに変貌するような感じですね。
> 礼節を尊ぶ考えというのは、
> 今でも日本人の考え方の根底に
> 脈々と受け継がれている様に思います。
私もそう思います。いつまでも失いたくないものですね。
こんばんは
ryo 今回のコメントは趣旨がまったく違うというか、リクエストなのですが、独り言と思ってくださってけっこうですw
黒田先生の動画をいろいろ見てきましたが、戦国武将の中でもどうしても気になる武将が一人います。それは上杉謙信です。毘沙門天の化身とまで言われた軍神。その強さは有名ですが、戦い以外でも内政において功績を残したと聞いています。もし機会がありましたら、上杉謙信の講義をお願いしたいと思います。
ryoさんへ
黒田裕樹 なるほど、上杉謙信ですか。
裏切りが当然の戦国時代に「義」の武将として君臨したことも凄いですね。
今回は関ヶ原ですので時代が異なりますし、いつの日か担当してみたいとは思っております。
このほかの朱子学派としては、戦国時代に活躍(かつやく)した南村梅軒(みなみむらばいけん)を祖とする南学(なんがく)があり、土佐の谷時中(たにじちゅう)に受け継がれた後には野中兼山(のなかけんざん)や山崎闇斎(やまざきあんさい)らが出ました。
闇斎は僧侶(そうりょ)から儒者となり、我が国古来の神道(しんとう)を朱子学的に解釈した垂加神道(すいかしんとう)を説き、大義名分から皇室を尊敬することを教え、後の尊王論(そんのうろん)の基礎となりました。
朱子学以外の儒学としては、中国の明(みん)の王陽明(おうようめい)を始祖(しそ)とする陽明学(ようめいがく)を中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(きまざわばんざん)らが学び、知行合一(ちこうごういつ、本当の知は実践を伴わなければならないということ)による実践主義(じっせんしゅぎ)を重視して、理論に偏(かたよ)りがちな朱子学を批判したことやその革新的な内容が幕府に警戒(けいかい)されました。
なお、山崎闇斎は保科正之に、熊沢蕃山は池田光政にそれぞれ招かれて学問を教えています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
この頃の日本は一神教的な朱子学崇拝の傾向が強かったのですか?
朱子学を批難しただけで警戒されてしまうのは、
現代の日本では考えられない事ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の日本は一神教的な朱子学崇拝の傾向が強かったのですか?
> 朱子学を批難しただけで警戒されてしまうのは、
> 現代の日本では考えられない事ですね。
朱子学は幕府の公式な学問ですから、朱子学自体の批判が幕政批判につながると考えられたからかもしれません。もっとも、警戒はされたものの学問を捨てさせられたわけではありませんでした。
ろっぽん 儒教=当時の中国人があまりに無節操で規律とか礼を重んぜるということで出てきた思想で
日本では封建体制の強化ということで導入されたのでしょう。
現代は民主主義の時代ですが、
国民が一人一人が、よく勉強し議論しあうという
世相を作り上げてゆかないと民主主義は育たないな、ミカエルさんが言ってたけど
日本と言うのは封建主義がまだ残ってる民主義だと
社会という教科は文科省の指針通り教えればいいと言う
教科じゃないと思うな。
生徒同士で議論させ、○×で回答能力をつけさせる教育ではダメだ!
歴史というと年代の暗記と受け取られいるけど
そんなのは大雑把な流れをつかみ
興味持ってなんども本を読んでゆけば自然に身につくもんで問題は歴史から学んでの分析能力だと思う
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 前半については、確かに封建主義は残っているところはありそうですね。
ただ、道徳面の強化という点での儒教の功績は大きいと思います。
後半についてはまさしく仰るとおりです。
私の授業では知識の羅列よりも、当時の世界情勢や人間の発想を織り交ぜながら展開できるよう心掛けています。
ただ、最後にはどうしてもペーパーテストで順位を決めざるを得ないのが残念ではありますね。
古学派のうち、山鹿素行(やまがそこう)は古代の聖賢(せいけん)に立ち戻ることを主張して、礼に基づく武士道を確立するとともに朱子学を激しく批判しました。また伊藤仁斎(いとうじんさい)・伊藤東涯(いとうとうがい)の父子は京都で古義堂(こぎどう)を開いて、仁(じん)を理想とする古義学(こぎがく)を唱えました。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)は徳川綱吉の側近であった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に仕え、晩年には8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)にも仕えました。徂徠は古代中国の古典を読み解く方法論である古文辞学(こぶんじがく)を確立したほか、知行地(ちぎょうち)における武士の土着などの統治の具体策である経世論(けいせいろん)を説きました。
また、徂徠の門人であった太宰春台(だざいしゅんだい)は徂徠の経世論を発展させた経済録(けいざいろく)を刊行して、武士も商業を行うほか、藩が専売制度を行って利益をあげる必要性を主張しました。
なお、朱子学を批判したことで幕府の怒りを買った山鹿素行は赤穂藩(あこうはん)に流され、藩士たちに学問を教えました。赤穂藩の門下生の中には若き日の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)がおり、大石が後に主君の敵(かたき)として他の元家臣らとともに吉良上野介(きらこうずけのすけ)を討ち果たすと、その裁定に悩む幕府に大石らの切腹を主張し、最終的に認めさせたのが荻生徂徠です。




いつも有難うございます。
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サムライ銅像研究会 こんばんわ。江戸時代の学問の系譜を追いたいと思いつつ、難しいのでなかなか手がつかなかったのですが先生のような説明をいただけると誠に助かります。学ばせていただきます。
ぴーち こんばんは!
世の中が悪い方向へ進んでいくときは、
まずは言論の自由が激しく弾圧されていくものですが、学問の自由もやはり同じ傾向があるんでしょうかね?(世の中の景気が悪くなったり、治安が悪くなるなどの状態)
応援凸
サムライ銅像研究会さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。今後もお役に立てますよう頑張りますのでよろしくお願いします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに似たような傾向がありますね。
ただ今回の場合は、山鹿素行が追放された頃は幕府が誕生して約半世紀でしたので、悪い方向と一概には言えないかもしれません。
一方、水戸藩の徳川光圀(とくがわみつくに)は藩の総力を挙げて紀伝体(きでんたい、人物や国ごとの業績を中心に記述していく方法)の大日本史(だいにほんし)の編纂を始めました。大日本史における全体的な内容は朱子学に基づく大義名分論が主流であり、後には水戸学(みとがく)と呼ばれた尊王思想(そんのうしそう)に発展し、幕末の思想に大きな影響を与えました。
このほか、山鹿素行(やまがそこう)は中朝事実(ちゅうちょうじじつ)を著(あらわ)して、儒学の流行による中華思想(ちゅうかしそう)を批判し、日本人にとっては日本こそが中華であるという立場を明らかにしました。また、新井白石(あらいはくせき)は古代史を研究して古史通(こしつう)や読史余論(とくしよろん)を著しました。
ちなみに、大日本史は全397巻にのぼる大作であり、着手以来250年の歳月をかけて明治39(1906)年にようやく完成しました。また中朝事実は明治の軍人であった乃木希典(のぎまれすけ)が、明治天皇(めいじてんのう)に殉死(じゅんし)する直前に、若き日の裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇=しょうわてんのう)に献上しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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嶋田不二雄 乃木大将が中朝事実を先帝陛下に献上していたとは知りませんでした。
また一つ勉強になりました。
ぴーち こんにちは!
実際的には水戸のご老公様は
全国行脚はしなかったというのが定説になっているようですが、その様な実しやかな説の発端は、この大日本史なる存在が影響しているのでしょうか?
昭和天皇にとって乃木希典は尊い人生の師でもあったんですね^^
応援凸
オバrev 何と!大日本史は250年かけて完成したとは工エエェェ(´д`)ェェエエ工
ほとんど江戸時代を通じて編集されてたんですかぁ?
山鹿素行の名前は日本史で習いましたが、その思想までは知りませんでした。
ぜひその内容を詳しく知りたいですね。
嶋田不二雄先生へ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
当時10歳の昭和天皇に対する帝王学として最高の書だと思ったからこそ推薦したのでしょうね。
今からちょうど100年前の話です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 実際的には水戸のご老公様は
> 全国行脚はしなかったというのが定説になっているようですが、その様な実しやかな説の発端は、この大日本史なる存在が影響しているのでしょうか?
大日本史の編纂は幕末の水戸学の発端にもなりましたし、尊敬されるべき存在であったことも大きいと思われます。加えて、幕末の烈公(水戸斉昭)が「水戸黄門伝説」の形成に関わっているという説もあるようです。
> 昭和天皇にとって乃木希典は尊い人生の師でもあったんですね^^
そうですね。乃木大将が殉死した際の当時の親王の衝撃の大きさは想像を絶するほどだったのではないでしょうか…。
オバrevさんへ
黒田裕樹 大日本史は中断の時期があったものの、江戸時代から明治末期までずっと編纂され続けた奇跡の書ですね。
光圀公の執念がうかがえる思いがします。
山鹿素行の精神は武士道の潔さなどに活かされているようです。
忠臣蔵の世界観がその好例といえるのでしょうか。
茂睡の説は万葉集などの研究を続けた僧の契沖(けいちゅう)によってその正しさが認められ、契沖は従来までの和歌の道徳的な解釈(かいしゃく)を批判して万葉代匠記(まんようだいしょうき)を著しました。
また、北村季吟(きたむらきぎん)は源氏物語(げんじものがたり)や枕草子(まくらのそうし)などを研究して、源氏物語湖月抄(げんじものがたりこげつしょう)や枕草子春曙抄(まくらのそうししゅんしょしょう)などの注釈書(ちゅうしゃくしょ)を著しました。
これらの古典研究はやがて古代精神への探究へと進化して、後には国学(こくがく)という新しい学問の基礎となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
確かに「源氏物語」や「枕草子」などの昔の言葉の言い回しなどは難しいものもあり、今風に解釈するのは、なかなか難しいものだと思います。こうして注釈していただけた事は大変ありがたい事だと存じます^^こういった先人達にはひたすら頭が下がる思いです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに「源氏物語」や「枕草子」などの昔の言葉の言い回しなどは難しいものもあり、今風に解釈するのは、なかなか難しいものだと思います。こうして注釈していただけた事は大変ありがたい事だと存じます^^こういった先人達にはひたすら頭が下がる思いです。
仰るとおり、現代の私たちが当然のように古典を読めるのも、先人の皆様のご努力のおかげですからね。こんなところにも歴史がつながっています。
いにしえの言葉
ろっぽん 芭蕉は境田(現在の山形)の法人(藩境警備の家)の家で「どうぞねまらいん」と歓迎されました
道の奥には万葉の古語が残ってると気がつきます。
現在も暇で寂しいことを徒然(とぜん)だといいます。美形(びで)など東北ではいまでも万葉言葉が訛って残っています。
芭蕉のことを書きましたが庶民では俳句や戯れ句の川柳が流行ったのもこのころでしょう
北斎や歌麿の浮世絵は次の会ですか
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 芭蕉の感性には素晴らしいものがありますね。
柄井川柳の活躍時期はもうしばらく後になります。浮世絵は元禄文化の頃が元祖になりますので、北斎や歌麿ももう少し後ですね。
HANA子 日本の素晴らしいところは学問・学術・技術の蓄積と研鑽が常に止まらずに行われてきたことなのではないかと思います。
また、大陸の国家のように前王朝──日本の場合は王朝ではないですから政権と呼ぶべきでしょうか──を否定する余り、総てをなかったことにするようなろくでもない習わしがなかったことについてもプラスではないかと。
この元禄の御世に始まった国学の萌芽はまさしく宝と呼んでいいものだとわたしは思っています。
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰ること、私も同感です。歴史を知らないことで、私たちは今回のような「至宝」にあまりにも無頓着であると思います。
天文学(てんもんがく)や暦学(れきがく)では、渋川晴海(しぶかわはるみ、または「しゅんかい」、別名を安井算哲=やすいさんてつ)が、それまでの暦(こよみ)の誤差を観測によって修正し、我が国独自の貞享暦(じょうきょうれき)をつくりました。なお、この功績によって渋川は幕府の天文方(てんもんがた)に任じられています。
江戸時代初期には様々な治山(ちさん)・治水(ちすい)や都市整備などの事業が行われましたが、その際に精密(せいみつ)な測量が必要だったことや、あるいは商業取引の際に重要だったことから和算(わさん)が発達しました。関孝和(せきたかかず)は筆算代数式(ひっさんだいすうしき)とその計算法や円周率(えんしゅうりつ)の計算などで優(すぐ)れた業績を残しています。
薬草の研究から始まった本草学(ほんぞうがく)は貝原益軒(かいばらえきけん)が大和本草(やまとほんぞう)を、稲生若水(いのうじゃくすい)が庶物類纂(しょぶつるいさん)を著しました。なお、本草とは薬効(やっこう)のある植物や動物・鉱物のことです。本草学は農業や医療の改善にも貢献し、宮崎安貞の農業全書のような農書の普及(ふきゅう)ももたらしました。
また、地理学の分野では西川如見(にしかわじょけん)が華夷通商考(かいつうしょうこう)を著して海外事情を紹介したほか、新井白石が我が国に潜入(せんにゅう)して捕えられたイタリア人宣教師(せんきょうし)のシドッチを尋問(じんもん、取り調べとして口頭で質問すること)した内容をまとめた西洋紀聞(せいようきぶん)を著しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
本草綱目という中国薬学史からの日本語訳を
貝原益軒という方が表した訳ですね。
今でも本草という名前の製薬会社がその名前を受け継いで居るようですが、そこから農業の方へ発展して言ったお話は初めて伺いました。
確かに薬草も土づくりからが大切ですものね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですし、こんなところでも我が国の歴史と伝統をうかがい知ることができますね。
土づくりは人間の生活の基本ですよね(^^♪
オバrev 日本史で習った名前が何人かでてきました・・・うん十年前の話ですが(^^ゞ・・・けれども、この時代に現在のような大学や研究所がある訳でもあるまいし、これだけの一流の科学者がでてきたのは奇跡じゃないですか(゚д゚)!
西洋紀聞が取り調べのことを書いたものとは知りませんでした(ノ∀`)アチャー
こんばんは
ryo 日本の文化の話になると、聞いたことのない著名人が多くなんだか難しく感じてきます。私は世界史を専攻していたので、日本史に慣れていないせいなのかもしれません^^; 大学受験の日本史はこうしたレベルが普通なのでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 日本史で習った名前が何人かでてきました・・・うん十年前の話ですが(^^ゞ・・・けれども、この時代に現在のような大学や研究所がある訳でもあるまいし、これだけの一流の科学者がでてきたのは奇跡じゃないですか(゚д゚)!
確かに奇跡的な話に思えますが、我が国の長い伝統からすれば決して不可能なことではないと思いますよ。いずれにせよ大きな誇りですね。
> 西洋紀聞が取り調べのことを書いたものとは知りませんでした(ノ∀`)アチャー
偶然が生んだ産物ですね。ただ、新井白石の個人的な感覚が入っているらしいですから…。
ryoさんへ
黒田裕樹 > 日本の文化の話になると、聞いたことのない著名人が多くなんだか難しく感じてきます。私は世界史を専攻していたので、日本史に慣れていないせいなのかもしれません^^; 大学受験の日本史はこうしたレベルが普通なのでしょうか。
私の講座の内容は基本的に「センター試験レベル」を目指していますので、仰るとおりになるかもしれません。あまり記憶に頼るような内容にしたくはないので、できるだけ分かりやすくなるように努めてはおりますが、文化史はどうしても知識の羅列が多くなってしまうのが悩みでもあります。
俳諧(はいかい)では、西山宗因(にしやまそういん)による奇抜(きばつ)な趣向(しゅこう)をねらった談林俳諧(だんりんはいかい)に対して、伊賀出身の松尾芭蕉(まつおばしょう)が格調高い芸術による蕉風俳諧(しょうふうはいかい、別名を正風俳諧=しょうふうはいかい)を確立しました。芭蕉は全国を旅しながら俳諧を広め、奥の細道(おくのほそみち)などの紀行文(きこうぶん)を残しました。
武士出身の近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は国性(姓)爺合戦(こくせんやかっせん)などの歴史的な事柄(ことがら)を扱(あつか)った時代物(じだいもの)や、曽根崎心中(そねざきしんじゅう)などの当時の世相(せそう)に題材をとった世話物(せわもの)を人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)や歌舞伎(かぶき)の脚本(きゃくほん)として書き上げました。
近松の作品は義理と人情の板挟(いたばさ)みに苦しむ人々の姿を美しく描いたものであり、大坂の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)らによって語られ、義太夫節(ぎだゆうぶし)として広く知れ渡りました。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 確か08年にUpしたネコの浄瑠璃を
描いた時、驚いたのですが
江戸中期ころの東北の片田舎でも
小屋掛け浄瑠璃が上演されていたんですね
わりと細やかな心のひだを読み解く
能力が庶民にもついていたんですね
URLが「ネコの浄瑠璃」です。どうぞご覧ください。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 ご紹介下さって有難うございます。
人形浄瑠璃は近松によって爆発的に広がりましたね。
上方発の文化というのが誇りでもあります。
ぴーち こんばんは!
本日は本業業務の方がお忙しい中、ご訪問くださってありがとうございますm(_ _)m
松尾芭蕉も歌に出来ない程絶句した絶景とされる
松島も、東北も、早く今まで通りの生活、風景に
戻っていただきたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 本日は本業業務の方がお忙しい中、ご訪問くださってありがとうございますm(_ _)m
いえいえ、こちらこそお気遣いいただきまして有難うございます。
> 松尾芭蕉も歌に出来ない程絶句した絶景とされる
> 松島も、東北も、早く今まで通りの生活、風景に
> 戻っていただきたいものです。
本当にそうですよね。
絶景がいつの日か再び拝見できる日を私も祈っております。
オバrev 有名人ばかりですね。ということは、まだまだ多くの無名な方もおられるでしょうね。
これはやはり、元禄時代が社会的にも安定していて、表現の自由もかなりあったということなんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、景気も良くて平和だった元禄時代ならではの文化だと思います。
調べれば分かることだと思うのですが、一般的には「綱吉公=暗君」からくる間違った史観がまかり通っていますからね…。
当時の有名な歌舞伎役者としては、江戸の市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)が荒事(あらごと)と呼ばれた勇壮(ゆうそう)で力強い演技で人気を集め、上方では和事(わごと)と呼ばれた恋愛劇で若い色男を演じた坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)や女形(おやま)の芳沢(よしざわ)あやめらがいます。
美術面では、上方の有力な町人を中心に洗練された作品が生まれました。絵画では大和絵(やまとえ)の流れをくむ土佐派(とさは)の土佐光起(とさみつおき)が朝廷の絵師となり、また土佐派から分かれた住吉如慶(すみよしじょけい)は住吉派を興(おこ)して、子の住吉具慶(すみよしぐけい)は幕府の御用絵師(ごようえし)となりました。
京都の尾形光琳(おがたこうりん)は俵屋宗達(たわらやそうたつ)の画法を取り入れて、紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)や燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)などの大胆な構図できらびやかな装飾画(そうしょくが)を大成し、琳派(りんぱ)を興しました。
また江戸では菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が美人や役者・相撲(すもう)など都市の風俗を描いた浮世絵(うきよえ)の版画を始め、大量に印刷できることから安価で入手できる浮世絵は庶民の人気を集めました。高額で取引される切手の一つである「見返り美人図(みかえりびじんず)」は菱川師宣の作品です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
風俗を乱すという理由ですか。。
歌舞伎の演目などを拝見していると勿論、武勇伝も多々有りますが男女の色恋物語も多いように思うのですが、そういう意味でも
歌舞伎そのものも、風俗を十分乱しているようにも感じますが(^^ゞ
演じる役者間が色恋沙汰で演技に集中出来なくなるのを懸念してという意味なら、分かります^^
しかしながら、女形は本当にお綺麗ですよね^^
私なんて正真正銘の女性ですが、最初から、負けてます(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 風俗を乱すという理由ですか。。
当時の歌舞伎が「風俗を乱す」とされた理由は、女性が中心の歌舞伎は売春に、その後の若い男性による若衆歌舞伎は男色につながると見なされたからです。現在のような成人男性中心の歌舞伎なら問題ないということになりますね。
> しかしながら、女形は本当にお綺麗ですよね^^
坂東玉三郎さんなどは素晴らしいですよね。
絵画で有名な尾形光琳は八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)などの優れた作品を残していますが、その弟である尾形乾山(おがたけんざん)も、装飾的(そうしょくてき)で高雅(こうが)な陶器(とうき)や蒔絵(まきえ)を残しました。光琳との合作である寿老図六角皿(じゅろうずろっかくざら)が有名です。
染物(そめもの)では、宮崎友禅(みやざきゆうぜん)が始めた花鳥山水を模様とする友禅染(ゆうぜんぞめ)が、衣服の華(はな)やかさを競(きそ)った町人の間で流行しました。
また彫刻では、僧の円空(えんくう)が全国を行脚(あんぎゃ、諸国を渡り歩くこと)して、円空仏と呼ばれた独特の作風を持った仏像を残しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※これで江戸時代・前期は終了です。次回(7月8日)からは江戸時代・後期の更新を開始します)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
江戸時代は本当に様々な上質な文化が栄えた時代でもあったんですね。!それだけ世の中が平和な証拠だったんですね^^
艶やかな友禅染の着物、一度着てみたかったわw
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 江戸時代は本当に様々な上質な文化が栄えた時代でもあったんですね。!それだけ世の中が平和な証拠だったんですね^^
平和なことは重要ですね。そこまでの道のりは長かったのですが…。
> 艶やかな友禅染の着物、一度着てみたかったわw
良いですねぇ。女性にとっては憧れですよね。
平和な時代
ろっぽん 250年の平和が独特の文化をはぐくんだ時代ですね。それを表してるコミックで小学館の村野守美の
「職人侭百景(上下)」が高校生ぐらいがよく理解できるのでは浅草寺の仏師の話や蒔絵師の話があって面白いですよ。日本の物作りの心意気が伝わってきます。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 今回もご紹介有難うございます。
職人の心意気と平和な日常が、仰るとおり江戸時代の文化を支えていますね。
しのぶもじずり こうやって一気に並べてみると、元禄文化って半端ないですね。
今の私たちが、後世に残して自慢できるものは何があるだろう、と考えました。
しのぶもじずりさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
多彩な文化といったところで「つくられた」モノも多いですし、純粋に後世に残りそうなものは存在するでしょうか…。