幕府が置かれた「将軍のお膝元(ひざもと)」である江戸には幕府の施設や大名の屋敷をはじめとして多数の武士が集中して居住し、様々な職を持つ町人も集まって我が国最大の消費都市となり、18世紀初めには総人口が100万人に達して世界最大の都市となりました。
「天下の台所」といわれた大坂は全国の物資の集散地として栄えた商業都市であり、堂島(どうじま)の米市場では世界で最初の商品先物取引が行われるなど発展し、18世紀初めには35万人の人口を数えるようになりました。幕府は大坂城代(おおさかじょうだい)や大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)を置いて監視(かんし)するとともに、西日本を支配する要としました。
桓武天皇(かんむてんのう)が平安京(へいあんきょう)に遷都(せんと)して以来、我が国の首都としての長い歴史を誇(ほこ)る京都は、多くの神社や仏閣(ぶっかく)がひしめく宗教都市として発展しました。呉服屋(ごふくや)や両替商(りょうがえしょう)などの大商人の本拠地(ほんきょち)が置かれたほか、西陣織(にしじんおり)などの工芸も発達して、17世紀には40万人程度の人口がありました。幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)や京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)を置いて、朝廷や寺社、あるいは畿内(きない)の周辺諸国を監視もしくは支配しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ryo 人口の増加が文化、商業とも発達するということがよくわかりました。おもしろいですね。また気になることなんですが、250年近く続いた江戸幕府。朝廷を押さえ込むほど強大な権力があったのであれば、目だったいさかいなどはなかったのでしょうか。また人口が増加した江戸では上下水道の整備は整っていたのでしょうか。
治安
ろっぽん 百万人ぐらいといいますと、現在の仙台ぐらいですね、
治安が行き届かない時代だと考えても
この間の地震でも証明されましたが国民の1人1人が冷静で秩序を守る国民性というのがあったればこそ
強権的な権力の行使が必要なっかったので人口が増えたのでしょう
しかし先物取引が大阪が最初とは驚き!
資本主義とは自然発生的に出現するものですか?
経済の仕組みを理論的に分析する人物がいたのでしょうね
ぴーち こんにちは!
18世紀初めには世界最大の都市になっていたんですか!凄いですね(^_^;)
今でも東京の朝のすし詰め通勤電車は観光などで訪れた外国人も青くなる
驚異的な現象のようですね(^_^;)
あな、恐ろし・・・。
応援凸
ryoさんへ
黒田裕樹 江戸幕府と朝廷との関係ですが、当初は仰るとおり幕府が武力で朝廷を押さえつけていましたが、そのあまりもの強引さに朝廷側が次第に反発し、幕末の尊王運動へとつながっていくことになります。
江戸の上水道は玉川上水によってきれいな水を庶民が使用できる状態にありました。下水道については、基本的には下肥を農民が買い取ることで成り立っていました。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > 百万人ぐらいといいますと、現在の仙台ぐらいですね、
> 治安が行き届かない時代だと考えても
> この間の地震でも証明されましたが国民の1人1人が冷静で秩序を守る国民性というのがあったればこそ
> 強権的な権力の行使が必要なかったので人口が増えたのでしょう
仰るとおりだと思います。
どれだけ治安が良かったとしても闘争心あふれるお国柄であれば、現代においても事件が頻発していますからね。
> しかし先物取引が大阪が最初とは驚き!
> 資本主義とは自然発生的に出現するものですか?
> 経済の仕組みを理論的に分析する人物がいたのでしょうね
私もそう思います。先物取引の詳しいシステムを勉強したというよりも、商人としての優れた感覚によって自然と生まれていったのではないでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 18世紀初めには世界最大の都市になっていたんですか!凄いですね(^_^;)
> 今でも東京の朝のすし詰め通勤電車は観光などで訪れた外国人も青くなる
> 驚異的な現象のようですね(^_^;)
> あな、恐ろし・・・。
確かにそうですね(^^ゞ
当時の江戸は今の23区よりももっと狭い地域を指していましたから、その人口密度はすさまじいものがあったと思います。
紗那 この当時は三都がそれぞれバランス良く機能が分散されていたようですし、現代においても首都機能移転などについて参考になる話ではないかと思いましたね。
世界初の先物取引!
そういえば、日本で紙幣がお金として流通するようになったきっかけも、江戸時代の両替商が発端だというのを現代文でやりました。
経済感覚に優れているんですね、大坂人は!←
紗那さんへ
黒田裕樹 > この当時は三都がそれぞれバランス良く機能が分散されていたようですし、現代においても首都機能移転などについて参考になる話ではないかと思いましたね。
そうですね。明治新政府の頃のように一極集中の必要があるのならともかく、今回のように震災が起きた場合のリスク分散のためにも、アメリカのような首都機能の分散が必要でしょう。
> 世界初の先物取引!
> そういえば、日本で紙幣がお金として流通するようになったきっかけも、江戸時代の両替商が発端だというのを現代文でやりました。
> 経済感覚に優れているんですね、大坂人は!←
商人(あきんど)の経済感覚は昔から優れていますからね。為替の発達も大坂からですし。
大阪
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
大阪の歴史について、あまり、知らなかったのですが、
大正時代~昭和初期まで、大阪は、東洋のマンチェスターと言われ、
昭和の初めは大阪市の人口、面積、GDPのいずれも東京市を上回り、大大阪と呼ばれ、アジア最大の都市だったのですね。
今、大阪を観ると信じられません。
これって、江戸時代に脈々と築いてきた大阪商人の経済センスのたまものかもしれませんね。
でも、いつから、凋落したんでしょうね。
(それでも、日本で2位の経済力ですが)
一説には、東京が、大阪の経済力である繊維産業を強制的に東京に移転させたからだと聞いたことあります。黒田先生は、大阪の歴史を考えるうえでは、これって、本当でしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 私も良くは存じませんが、戦後に経済分野においても東京一極集中で発展させたからかもしれませんね。
復興を早めるには集中させた方がよかったのかも?
後は、大阪の人間の気概の問題かもしれません。
諸藩は大坂や江戸に蔵屋敷(くらやしき)を設けて、藩士(はんし)に蔵物の保管や販売を行わせていましたが、やがて蔵元(くらもと、蔵物の取引を行う)や掛屋(かけや、代金の出納=すいとうを担当する)と呼ばれた商人に業務を委託(いたく)するようになりました。
一方、幕府の米蔵(こめぐら)は浅草(あさくさ)の蔵前(くらまえ)にあり、札差(ふださし、別名を蔵宿=くらやど)と呼ばれた商人が旗本や御家人の俸禄米(ほうろくまい)の受け取りと売却を請(う)け負いました。これらの商人はやがて大名や旗本などに金融業(きんゆうぎょう)を行うようになり、金(カネ)の力で武士の生活を左右するようになりました。
なお、蔵物に対して生産地から商人を経由して仕入れと販売が行われた商品を納屋物(なやもの)といい、江戸をはじめ全国に出荷されました。また蔵元と掛屋は同じ商人が両者を兼ねることもありました。




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ぴーち こんにちは!
今日の金融業のルーツは、武士にも貨幣を必要とさせた事が発端だったワケですね。
蔵前と言えば、つい国技館を連想してしまいます(^_^;)
それでは応援凸
紗那 こうやって当時お金として流通していた物を大量に保有することになる金融業が盛んになっていくわけで……
現代風に言えば武士がアウトソーシングしたという感じなのでしょうか
オバrev 6.24◯◯ニュースはご覧いただけましたでしょうか。カープが勝って、◯◯さんMCのニュースは最高でした(^O^)
ところで、江戸時代は鎖国をしていながら、経済システムは現代に近いものがあったんじゃないでしょうか。これは海外によらず独自に作り上げたものなんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日の金融業のルーツは、武士にも貨幣を必要とさせた事が発端だったワケですね。
武士の本音としては貨幣経済に巻き込まれなくはなかったと思われますが、石高制の宿命だったといえますね。江戸時代の武士は、今後も本音と建て前との違いにずっと悩まされることになります。
> 蔵前と言えば、つい国技館を連想してしまいます(^_^;)
懐かしいですね。蔵前国技館が閉じられて27年の歳月ですか。大相撲も本当の意味でよみがえってほしいですね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > こうやって当時お金として流通していた物を大量に保有することになる金融業が盛んになっていくわけで……
> 現代風に言えば武士がアウトソーシングしたという感じなのでしょうか
さすがは現役高校生ですね。今日のような内容を振り返れば、いつの時代においても環境の変化に順応しなければならないと実感します。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 6.24◯◯ニュースはご覧いただけましたでしょうか。カープが勝って、◯◯さんMCのニュースは最高でした(^O^)
予約していたつもりができていませんでした…(´;ω;`)
また次回にリベンジですね。
> ところで、江戸時代は鎖国をしていながら、経済システムは現代に近いものがあったんじゃないでしょうか。これは海外によらず独自に作り上げたものなんでしょうか?
仰るとおりと思います。厳しい制限貿易下においても、システムの構築は決して不可能ではないですからね。ただし、軍事的に遅れてしまったことは致命的でしたが…。
こうした流れの中で、17世紀後半には江戸・大坂・京都の三都や城下町において地方からの商品の仕入れや受託(じゅたく)を行う問屋(といや)が商業や流通の中心となっていきました。問屋は自己(じこ)の利益を守るため業者ごとに仲間(なかま)や組合という同業者の団体をつくり、仲間掟(なかまおきて)と呼ばれた独自の法を定めて営業の独占を図(はか)りました。
当初の幕府は仲間を公式には認めませんでしたが、商工業者の統制や物価の調節に有効な役割を仲間が果たしたことによって、18世紀には公認するとともに、運上(うんじょう)や冥加(みょうが)といった営業税(えいぎょうぜい)を確保するために仲間の公認を増やすようになりました。
幕府によって公認された営業の独占権を株(かぶ)と呼び、また商人たちの仲間は株仲間(かぶなかま)と呼ばれました。江戸の十組問屋(とくみといや)や大坂の二十四組問屋(にじゅうしくみといや)が有力な株仲間として知られています。なお、株仲間を積極的に公認することで商人からの税を増やし、幕府財政を安定させようとしたのが田沼意次(たぬまおきつぐ)でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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クラチー 「営業の独占」…!
今の日本だったら、いくつかの業者は、
「独占禁止法」とかで裁かれそうですね。
でも、時代が違うし、日本産ばかりだから、
敵が少ないから、そうはならないですかね。
いや、現代の日本がうるさ過ぎ…?
(^^;)
…って、ここにきて田沼すぁん!
法人税や消費税の先がけがココに…ウルウル。
(;Д;)
税
ろっぽん 年貢だけかと思ったらやはり商人からも税をとったんですね。現代は記帳による申告制ですけど、そういう申告する税務署みたいなものはあったんですか
それとも貿易税みたいに一個一個に税をかける物品税ですかね。松前藩は全国で唯一、米がとれない藩として本土のアイヌと商取引する大江(おおみ)商人に税をかしていたようですね。
ぴーち こんにちは!
株のお話は、これまた全く分からなくて
申し訳ありませんが、冥加などというと神仏の恩恵みたいな表現で、面白いですね^^
応援凸
クラチーさんへ
黒田裕樹 「独占」といっても、確かに現代とは感覚が異なる一面がありますね。
とはいえ独占に阻まれた商人の恨みは聞こえてきそうですし、難しいところだともいえます。
封建社会の武家政権ならではの税制ですが、現代の我が国は…どうでしょうか(^^ゞ
ハイ、ここでも田沼さんが出てきますよ。
大事な場面で出てくるあたりが、彼の政治家としての優秀さを物語っていますね(^_^)v
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 運上や冥加は物品ごとに税金をかける流通税の一種ですから、税務署のような形式があったかどうか、私も今一つ分からないところがあります。
松前藩の取引は幕府も黙認していたようですが、そのやり方があまりにも問題があったことで調査に乗り出した人物がいました。実はこれも田沼意次です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 株のお話は、これまた全く分からなくて
> 申し訳ありませんが、冥加などというと神仏の恩恵みたいな表現で、面白いですね^^
仰るとおり、冥加はそもそも「神仏からの加護」という意味で、やがて冥加の祈願や冥加の御礼として寺社に奉納された金銭をも指すようになりました。
後に幕府や藩主などが自らを寺社に例えて、年貢以外に自己に対する税金を冥加と称して納めさせるようになったというわけです。
紗那 営業独占自体もあまり消費者にとっては良い影響がないのですが、それを中央政府が公認、ましてや推進となると、影響が大きくなりすぎますね……
田沼意次の失職の原因になることであるとか……
紗那さんへ
黒田裕樹 > 営業独占自体もあまり消費者にとっては良い影響がないのですが、それを中央政府が公認、ましてや推進となると、影響が大きくなりすぎますね……
> 田沼意次の失職の原因になることであるとか……
確かにそうですね。
営業の独占は幕府の財産を好転させますが、他の業者の妬みは避けられません。この他にも天災などの影響があって田沼意次は失脚してしまうんですよね。
幕府は金座(きんざ)・銀座(ぎんざ)・銭座(ぜにざ)を設けて、小判や一分判(いちぶばん)などの金貨や丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)などの銀貨、一文銭(いちもんせん)の寛永通宝(かんえいつうほう)などの銭貨(せんか)を発行しました。これら金・銀・銭の三貨(さんか)は統一貨幣であり、全国に普及(ふきゅう)して商品流通の発展を支えました。
ただし、東日本では主に計数貨幣(けいすうかへい、表面に記された数字で価値を保証された貨幣のこと)である金貨が、西日本では主に秤量貨幣(しょうりょうかへい、品質や重量によって価値が保証された貨幣のこと)である銀貨が使用され、また三貨の交換率が相場によって常に変動していたことで、両替商(りょうがえしょう)が活躍(かつやく)することになりました。なお、東日本では金遣(きんつか)い、西日本では銀遣(つか)いとそれぞれ呼ばれています。
有力な両替商はやがて公金の出納(すいとう)や為替(かわせ)、あるいは貸付などの業務を行うようになり、幕府や藩の財政を支えるようになりました。なお、大手の両替商としては江戸の三井家(みついけ)や大坂の鴻池家(こうのいけけ)などがあります。
このほか、江戸時代中期以降になると財政難に苦しんだ各藩において領内のみで通用する藩札(はんさつ)が発行されるようになりましたが、藩が取り潰(つぶ)されれば紙くず同然になるというリスクもありました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
金貨と銀貨が西日本と東日本で分けられていたのは、その産地が近くに存在したという
事が要因なのでしょうか。
三井家というと、やはり現在の三井住友銀行のルーツという事になりますか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 金貨と銀貨が西日本と東日本で分けられていたのは、その産地が近くに存在したという
> 事が要因なのでしょうか。
仰るとおり、金山は東日本、銀山は西日本に多く存在していたのがそもそもの原因です。産出量が多ければ流通しやすくなるというのも道理ですね。
> 三井家というと、やはり現在の三井住友銀行のルーツという事になりますか?
そうですね。三井家と住友家。全く異なる歴史を持つ両家が金融業界で一緒になるというのも不思議な話です。
サクラ 藩札は、実を言うと所持していたりします。
銀壱匁と書いてありました。
偽札防止もしてなさそうでしたし、こういったものが信用を得られたか不思議です。
明治政府が兌換紙幣を発行した時の苦労もありますし。
サクラさんへ
黒田裕樹 そうなんですか。貴重なものをお持ちなんですね。
「銀壱匁」ということは西国の藩でしょうか。いずれにせよ、仰るとおり信用度には問題がありそうですね。
明治政府の苦労がしのばれます。
こんばんは
ryo 藩札というのは初めて聞きました。幕府はよくそんな紙幣を認めていたなんて、ちょっと不思議です。でも少し意味合いは違ってきますが、現在の地方債や国債もいつ紙クズになるかわかりませんよね。。怖い世の中です。
ryoさんへ
黒田裕樹 地方で独自に発行されている紙幣ですからね。認められたのが確かに不思議な感じがしますが、藩の窮乏を考えれば仕方がないのかもしれません。
金属と交換できない紙幣は100%信用で成り立っていますから、仰るとおり紙屑になったら最悪です。我が国でそんなことがあってはならないと思うのですが…。