東海道(とうかいどう)・中山道(なかせんどう)・甲州道中(こうしゅうどうちゅう)・日光道中(にっこうどうちゅう)・奥州道中(おうしゅうどうちゅう)の五街道(ごかいどう)は江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする重要な街道で幕府の管轄(かんかつ)に置かれ、17世紀半ばからは道中奉行(どうちゅうぶぎょう)の支配を受けました。
五街道以外にも伊勢街道(いせかいどう)・北国街道(ほっこくかいどう)・中国街道(ちゅうごくかいどう)・長崎街道(ながさきかいどう)などの脇街道(わきかいどう)が整備され、これらの街道には一里塚(いちりづか)や橋・渡船場(とせんば)・関所(せきしょ)などの施設が設けられたほか、宿場(しゅくば、別名を宿駅=しゅくえき)が数多く置かれました。
宿場は街道が通る城下町の中心部の町に置かれ、それ以外は宿場町(しゅくばまち)と呼ばれた小都市として栄えました。なお、東海道には品川(しながわ)から大津(おおつ)まで53の宿場が置かれましたが、これらは東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と呼ばれ、浮世絵(うきよえ)や和歌・俳諧(はいかい)の題材にも取り上げられました。




いつも有難うございます。
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紗那 お久しぶりです!
忙しい時期を過ぎたので、更新再開してみようかなと思った次第です。
遅くなりましたが、期付講師での採用おめでとうございます!まずは一歩というところですね。
正式に採用された暁にはぜひ私の高校に配属されることを望んでおります←
五街道以外の街道は初耳のものばかりですね……
しかしながら、これらの江戸時代の街道が、現代の日本の主要な道路と割と被っていることは、少しでもこのような歴史的なはなしを身近に感じさせてくれる気がします^^
ぴーち こんばんは!
私の所にも日光道中(街道)
がありますが、つい最近まで
両隣の県へ向かう際の幹線道路が無く
やっと今年に入り、
北関東3県をスムーズに行き来できる
道路が完成したばかりなんです。
今になってやっと、江戸時代
から進化出来たような気がします(^^ゞ
応援凸
紗那さんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。また、講師就任に対するお祝いのお言葉有難うございます。
紗那さんの高校はなかなかの名門ですからね。一度は赴任してみたいものですが(^^ゞ
仰るとおり、現在の我が国の主要街道と密接にかかわっております。
こんなところにも歴史を感じさせてくれますが、同時に大学入試にも出てくる可能性があるのが厄介ですね(´・ω・`)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、江戸時代以来の進化ですか(^^ゞ
全国に張り巡らされていると思われがちな道路ですが、まだまだ公共事業として必要なようですね。
ケンペル
ろっぽん ドイツ人医師ケンペルが書いた日記を「牛になった坊さん」を描いた時、資料して読みましたが
この国の人々は旅行好きで常に街道はたくさんの人々が行き来していると記しています。
この当時は関所があったり。一々、手形の開示があったりと旅は不便だったと思いがちですが、
お伊勢参りや禅幸寺詣出にかっこつけて庶民はよく度してたようですね。今でいうそういう寺院の旅のあっせん屋もいたようでパックツアーで宿泊施設、食事、売春のあっせんをしていたようです。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 ケンペルの「日本誌」は主観が入っていますが、当時の様子がよく分かるものとして有名ですね。仰るとおり、昔から街道を行き来する人が多かったのでしょう。
移動者が多ければ宿場町では様々な産業が栄えますからね。現代のような不景気風がウソのような気がします。
オバrev 江戸時代というのは、徳川家による独裁政治のようなものだと思いますが、結構鋭い経営感覚で運営していたんですね。
中でも、大名には非常に不評だったであろう参勤交代なども、宿場町や交通網の発達という大きな経済効果を生んでいるんですね。
これを意図してやったんだとしたら凄い!ヮ(゚д゚)ォ!
オバrevさんへ
黒田裕樹 独裁といっても恐怖政治ではありませんでしたからね。260年も続くということは、それだけ経営感覚も優れていたということでしょう。
参勤交代はおそらく「大名への懲罰」的な意味合いが強かったと思いますが、結果として全国の宿場町の活性化をもたらした。
決して「暗黒」ではない、一般的な時代感覚とは異なる江戸時代の真実の一つですね。
幕府の継飛脚にならって、やがて各大名は江戸と国元の間に大名飛脚(だいみょうびきゃく)を置くようになり、また町人も町飛脚(まちびきゃく)の業務を開始するようになって、書状や小荷物を扱(あつか)う飛脚問屋(ひきゃくどいや)ができました。
陸上交通では幕府や大名の御用通行(ごようつうこう)が優先されましたが、これらに使用される人馬は宿場の町人や農民が準備しました。これを伝馬役(てんまやく)といいます。なお、人馬が不足した際には助郷(すけごう)と呼ばれた村から補充(ほじゅう)しましたが、これは助郷役(すけごうやく)といわれました。
街道が整備されたことで宿場町はにぎわいを見せ、やがて伊勢参(いせまい)りなどの庶民の旅行が盛(さか)んとなりましたが、その一方で幕府は治安維持(ちあんいじ)の目的から箱根(はこね)など各街道に関所を設け、江戸への武器の搬入(はんにゅう)や江戸から大名の妻子が帰国しないかどうかを厳しく見張りました。いわゆる「入鉄砲(いりてっぽう)に出女(でおんな)」ですね。
また、多くの兵が江戸へ攻め寄せることを防ぐために川に橋をかけないことも多く、特に大井川(おおいがわ)は船の移動も禁止されたため、川越人足(かわごえにんそく)による人力移動の手段しか認められませんでした。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という言葉が今でも知られています。




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ぴーち こんにちは!
修学旅行で箱根に出向いた時に、
入り鉄砲と出女の様子を分かりやすく蝋人形かなにか?(マネキンだったのかしら?w)で見たことがあります^^
今でも伝馬町などという地名が残る場所は、昔の名残を引き継いでいるんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 修学旅行で箱根に出向いた時に、
> 入り鉄砲と出女の様子を分かりやすく蝋人形かなにか?(マネキンだったのかしら?w)で見たことがあります^^
そうなんですね。
箱根の関所越えは厳しかったようですので、歴史的な展示としては分かりやすそうです。
> 今でも伝馬町などという地名が残る場所は、昔の名残を引き継いでいるんですね^^
そうですね。東京の大伝馬町・小伝馬町が有名ですが、東京の場合は牢獄があったことの方が知られているかもしれません(^^ゞ
街道や宿場町といえば・・。
晴雨堂ミカエル 小学生のころ、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が好きでよく読んでいました。
あれは文化文政期の東海道の状況や食べ物の物価が詳しく載っていた様に記憶しています。
物語は楽天的で飄々として明るいのですが、実際の十返舎一九は苦虫潰したような顔で口数が少なく近寄り難い雰囲気だったようですね。いつも帳面と筆を持ち歩いていて、何やら常にメモを取っているというメモ魔だったとか。
紗那 中央がいろいろするようになると、地方あるいは民間もそれを真似するようになる……
飛脚の話を見ていると、現代にも通じるところがあるなと思ってしまいます
助郷役も言葉だけ中学の時にやったきがしますが、こういうことだったのですね。やはりここまで知らないと、意味が無いと感じました
入鉄砲に出女も単独で覚えていましたけど、こうやってみると全部流れがあるんですね……!なんだか感動です!
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 貴重な情報を有難うございます。
読者をわくわくさせる優秀な作家であっても、実像は必ずしも同じとは限らないみたいですね。
私の場合はどうでしょうか…?(^^ゞ
紗那さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、何事もないようなことであってもしっかりと流れが存在するものなんですよ。
だからこそ「流れで覚える」のが歴史なんです。
受験勉強が中心の学習ではつかむことが難しい「歴史の流れ」を、当講座では今後も続けられるよう努力しますよ(^^♪
あらためババァ
ろっぽん 「焼け野わらび39改め婆」URL参照は新潟大非常勤講師金森敦子さんの
「関所ぬけ江戸の女たちの冒険(昌文社)」を元に創作しました。
それを読むと秋田の商家の女将がお伊勢参りのほぼ本州一周するくらいの長旅日記です。
女の旅が怪しまれる時代にあって珍しいことです。
まぁ非合法の関所ぬけを繰り返す旅ですが、
北前船の豪商の女将で賄賂に次ぐ賄賂でやり遂げた旅ですけど。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 ご紹介有難うございます。
色々な条件が組み合わさっての日記ですね。
なおまゆ 手続きをきちんとすれば、自由に旅ができた時代なんですよね?伊勢神宮などへ参拝する庶民が結構いたと聞いています。
教科書では、どうも自由のない貧しい暗い時代という印象しかもてなかったのですが。
「貧しいが貧困ではない時代」結構心豊かな時代だったんだなあという実感をしています。
勿論、それだけでなく飢饉とか疫病とか大変なことも多かった時代ですが、それだけではないですよね。『カムイ伝』という劇画はどちらかといえば暗黒の部分に着目していました。
先生はお読みになったことがありますか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「貧しさ」と「貧困」を一緒にしているがゆえの思い違いがよく見られますよね。
「カムイ伝」は残念ながら未見ですが、一方的な記述ばかりを見るのは何かとありそうな気がします。
海上交通においては古代より発達した瀬戸内海航路に加えて、幕府や藩の年貢米輸送を中心に江戸と大坂とを結ぶ航路が整備されました。17世紀前半からは菱垣廻船(ひがきかいせん)が、18世紀前半には樽廻船(たるかいせん)が南海路(なんかいろ)で定期的に運行され、主に大坂からの物資を江戸に運ぶ役割を果たしました。
また17世紀後半になると、江戸の商人であった河村瑞賢(かわむらずいけん)によって東廻り航路(ひがしまわりこうろ)・西廻り航路(にしまわりこうろ)が整備され、全国的な海上交通網が完成しました。
東廻り航路は東北地方の日本海側から津軽海峡(つがるかいきょう)を経由して江戸へ向かい、西廻り航路は同じ東北地方から下関を通って大坂へ向かう航路でした。両方とも主として奥州や北陸の米の輸送を行い、江戸時代後期の西廻り航路には北前船(きたまえぶね)が就航するようになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
周りが海で囲まれている日本だからこそ、こうした水路がいち早く発達して行ったのでしょうね。
この頃にはまだまだ陸上での大量の物資輸送といのは大変でしたでしょうし(車や鉄道などはまだまだ動いておりませんでしょから)地形や自然を上手く利用して、経済面も大幅に活発化していった訳ですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、水路の発達は我が国の地理的関係も大きな影響を与えていますね。現代のような近代技術が当たり前だと見えてこない歴史の大きな流れだと思います。
紗那 現在でも水運は、日本にとって重要な交通の一つですしね
陸に上がれば山しかないですし、海の方が断然運びやすいという事情もあったのか……
西廻り航路は若干遠く見えてしまうのですが、大坂までしか運ばないことを考えるとどちらもいっしょくらいですかね?
紗那さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、周囲を海に囲まれたうえに山がちな我が国で大量の物資を運ぶためには、現代においても水運の発達が欠かせません。
西廻り航路は江戸へ向かうのであれば遠回りですが、目的地が大坂ですから東廻りと遜色はないですね。
初めまして
ryo 初めてコメントさせていただきます。航路が発達した中で、海賊も勢いを増したことはないのでしょうか。
ryoさんへ
黒田裕樹 はじめまして、お言葉有難うございます。同じ内容のコメントをされておられましたので、片方を削除させていただきましたことをご容赦下さい。
> 航路が発達した中で、海賊も勢いを増したことはないのでしょうか。
中国など海外においては海賊が残っておりましたが、秀吉の時代に海賊停止令が出された影響もあって、国内での海賊は姿を消したと考えられているようです。