特にイワシは干鰯(ほしか)に加工され、農業における金肥(きんぴ)として各地へ運ばれました。
江戸時代の初期から土佐(とさ)や紀伊(きい)を中心に網(あみ)や銛(もり)を使用した捕鯨(ほげい)が行われ、捕(と)れたクジラからつくられた鯨油(げいゆ)は灯油のほか害虫の駆除(くじょ)に使用されました。また中期以降には土佐で鰹漁(かつおりょう)が発達しました。
蝦夷地では昆布(こんぶ)の漁獲量(ぎょかくりょう)が増加したほか、イリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・ホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・フカノフレ(サメのヒレを乾燥させたもの)を俵(たわら)につめた俵物(たわらもの)が生産され、俵物は17世紀末以降の長崎貿易において銅に替わる清国への主要な輸出品となりました。
製塩業(せいえんぎょう)では播磨(はりま)の赤穂(あこう)などの瀬戸内地方(せとうちちほう)を中心に、高度な土木技術を必要とする入浜塩田(いりはまえんでん)が発達し、生産量が増大しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃から捕鯨が行われていたんですね。
素人考えで恐縮ですが、鯨を捕まえるだけの大きな船はすでにこの頃から一般的に作られていたのですね。
赤穂の天然塩は我が家もよくお料理に使わせていただいていますが、塩は人間の生命維持にも欠かせない物質だけに、当時の方達のご苦労に改めて感謝したいです(^^)v
応援凸
捕鯨
ろっぽん ぴーちゅさんへ 管理人をさておいて回答して申し訳ないんですが。捕鯨船いわいるキャチャ―ボートのような船ではなく、多賀城歴史博物館で見た絵は普通の天馬船っていうのかな釣り船みたいな船だったよ
そんな船で鯨にいどんでたよ。
赤穂の塩は天日干だけどこちらに塩釜という地名があります。そして江戸時代の塩釜が塩釜神社に残っており、蒸留方で製塩していたんですね。
魚網に関しては当時、鎖国でしたが独自に考え出した方法としては世界一だと思います。ある意味、我が国の祖先は独自に理論、発明する技量があったんですね。
寺子屋が普及し読み書きそろばんできる人が大勢いたので黄表紙(粗悪な神に刷った版木本・里見八犬伝などのような本)などや歌麿などの浮世絵などが普及して庶民の教養を高めたんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 捕鯨に関しては、先にろっぽんさんがお答えなさったとおりです。
生活のためとはいえ、昔の人々は命がけで鯨に向かっていったんですよね。
赤穂の塩は昔から有名ですからね。史実かどうかは推測の域を出ませんが、忠臣蔵の遠因となった説もあるほどですし。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 いえいえ、詳細にお答え下さって有難うございました。
仰るとおり、日本人は昔から独自の能力を発揮していたと思います。自虐史観の毒が回ったことで過小評価しすぎる傾向が見られるのが残念です。
ぴーち おはようございます!
黒田さんこの場を少々拝借させてください。
ろっぽんさん、詳しくご回答くださり
ありがとうございました^^
お礼申し上げますm(_ _)m
それと
忠臣蔵の遠因ですか。それも非常に興味ふかい
お話です。赤穂と言えば、塩と同時に赤穂浪士の話も有名ですものね。また是非、機会があればお聞かせ願いたいと思います♪
朝凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 私もろっぽんさんにお礼を申し上げます。
浅野家も吉良家も塩の名産地でしたので、両家の塩をめぐる争いが忠臣蔵の原因だという説もあります。
忠臣蔵については、また別の機会で紹介したいですね。
今晩は☆
いねむり姫 昔の人達の知恵ってすごいですよね!!
中でも鯨油が灯油や害虫の駆除に
使われていたなんて驚きです!!
逆に臭くて害虫が寄ってきそうな
イメージですけどね☆
この頃からお寿司も誕生したのでしょうか??
確かお寿司って江戸時代から
食べられていたような・・・・・?
黒田先生のブログは丁寧に
ふりがなまでふってあって
良心的だと思います★
いねむり姫さんへ
黒田裕樹 > 昔の人達の知恵ってすごいですよね!!
> 中でも鯨油が灯油や害虫の駆除に
> 使われていたなんて驚きです!!
> 逆に臭くて害虫が寄ってきそうな
> イメージですけどね☆
確かにそんなイメージがありますね(^^ゞ
鯨油を水田に流した後に外注を叩き落として窒息させたようですよ。魚の油よりは臭みが少なかったのが良く使われた理由のようです。
> この頃からお寿司も誕生したのでしょうか??
> 確かお寿司って江戸時代から
> 食べられていたような・・・・・?
いわゆる江戸前寿司は江戸時代後半(19世紀前半)頃からですね。
> 黒田先生のブログは丁寧に
> ふりがなまでふってあって
> 良心的だと思います★
有難うございます。学生が訪問することも考慮して、一般的な教科書並みの振りがなを用いております。
鉱山業では、江戸時代初期には佐渡金山(さどきんざん)や生野銀山(いくのぎんざん)・石見銀山(いわみぎんざん)などからの金銀の生産が最盛期を迎えましたが、17世紀後半になると産出量が激減し、替わって銅が採掘(さいくつ)の中心となりました。
銅は幕府が管轄する足尾銅山(あしおどうざん)や、大坂の町人である泉屋(いずみや)が経営した別子銅山(べっしどうざん)などで採掘され、長崎貿易における輸出品や、急増する貨幣の鋳造(ちゅうぞう)に用いられました。なお、泉屋は現在の住友(すみとも)につながっています。
この他、砂鉄(さてつ)を採集して足踏(あしぶ)み式の送風装置(そうふうそうち)を持つ炉(ろ)を使用したたたら精鉄(せいてつ)が中国・東北地方を中心に行われ、生産された玉鋼(たまはがね)は商品として全国に普及(ふきゅう)し、農具や工具に加工されました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃の日本の林業は盛んだったんですね。
戦後は、焼け野原になってしまった土地や、山林に繁殖力の強いアメリカ杉などを植林してしまったのが、長い目で見たときには最悪な選択でしたね。
アメリカのような広大な土地ではそれでも良いかも知れませんが、日本の様に国土が狭い国には本来、繁殖力の旺盛な植物は不釣合いだったんですよね。やはりその土地土地に見合った植物を植える事が、一番なんだと思いますね。それでもその当時は背に腹変えられない思いで、植林したのでしょうけれど。
それもこれも
戦争をした事が一番の元凶なんでしょうけれどね(^^ゞ
足尾の鉱山はこの頃が一番の最盛期だったんですね。ただ、後の鉱毒事件では悲惨な目に遭ってしまったのは残念な事ですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 林業については、確かに即効性を求めたあまりに道を誤った感がありますね。戦争の影響は様々な場面に広がっていることを改めて思い知らされます。
足尾銅山は、仰るとおり明治の悲劇的な事件をもたらしてしまいます。難しい問題ですね。
ろっぽん 高校の時、地元の細倉鉱山史を調べてその採掘工具や精錬技術が考えている以上に高度なのに驚いた記憶があります。江戸時代は金山は幕府の直轄でしたが。
細倉は鉛鉱山でしたので仙臺藩が管轄していました
が、0.1%の金を含有しており、高度な精錬技術によってやみ金を隠し金として運用、近見商人が今でいうマネーロンダリングをやって仙台藩の隠し金にしていました。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、高度な精錬技術が隠し金につながっていたのですか。
これもまた技術がもたらした副産物ですね。
和紙の生産も、楮(こうぞ)を主原料とした流漉(ながしすき)の技術が普及したことで全国に拡大し、紙が安価で大量に入手できるようになったことで、学問や文化の発達に貢献(こうけん)することになりました。また紙の生産地の多くは藩の専売制(せんばいせい)となり、財政を助けました。
陶磁器(とうじき)では、肥前有田(ひぜんありた)で有田焼(ありたやき、別名を伊万里焼=いまりやき)と呼ばれた磁器(じき)が佐賀藩の保護のもとで生産され、長崎貿易における輸出品になったほか、尾張(おわり)の瀬戸(せと)や美濃(みの)の多治見(たじみ)などでも生産されたことで、安価な陶磁器が量産されるようになりました。
醸造業(じょうぞうぎょう)では伏見(ふしみ)・灘(なだ)の酒や野田(のだ)・銚子(ちょうし)の醤油(しょうゆ)が有名となり、この他にも全国各地で作られた商品は、それぞれの地域に由来した特産品(とくさんひん)として重宝(ちょうほう)されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
こうして記事を拝見させていただいていると
今でも各分野の1級ブランド商品として残されているものばかりですね^^
和紙はこのころは専売制だったんですね。
私の住んでいる県東に烏山という
ところがありますが、「烏山(からすやま)和紙」として今でも特産物として売られています。
ある小学校の校長先生が、卒業生一人一人に直筆で和紙に書き、卒業証書として毎年贈っているそうです^^素敵なアイディアだなと思いました^^
凸
なおまゆ 我が国は、この時代から技術を発展させてきたんですね。平和は技術を高め、国力を高めるんですね。徳川政権はその意味で日本の発展に寄与した素晴らしい時代に思えます。波乱がないからおもしろくないという人が多いのですが、細かく見ていくとおもしろい物ですね。
しー おぉーーーっと、ここらへんは前回のテストの範囲ではありませんかっw
ここ、日本地図書いて頑張りました…。
歪な日本になってしまいましたがorz
頑張ったのに全く出てこなかったんですけどねー。。
サクラ 西陣織は、畿内で手工業が発達した故なんですか。
普通の着物とは、やっぱり違いましたね。
生地が軽くて、涼しかったです。
畿内で手工業が発達したのには、何か理由があるのでしょうか?
重工業が、鉄を産出するところとかに限られちゃっらからですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。江戸時代以来の伝統が、今日のブランド品を形づくっているわけです。
和紙の伝統も、ご紹介いただいた形で受け継がれていることは日本人として誇りに思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 厳しい制限貿易がもたらした鎖国の状態が我が国に大きな悪影響をもたらした一方で、仰るような平和の時代が続いたことで技術や国力が高まった時代でもありました。
表裏一体とはこのことですね。
しーさんへ
黒田裕樹 日本地図を書いて全体に散らばった特産品を書き記したんですね。一番理解できる方法だと思いますよ。
今回は出なかったとしても、いずれ必ず役に立ちますよ。
私の講座も復習に活用できれば幸いです(^^ゞ
サクラさんへ
黒田裕樹 西陣織が発達した背景には応仁の乱による職人の離散がからんでいるようです。「西陣」の由来が応仁の乱の西軍の陣地だったということもありますからね。
応仁の乱で離散した職人が、乱の終結後に舞い戻った際に諸国の優れた技術も身につけたことで織物も向上して、その後の発展にもつながったとか。