このこともあって、江戸幕府初期の17世紀初め頃の我が国は世界有数の金銀産出国となり、また鉱山における最新の技術や優(すぐ)れた道具は、そのまま治水(ちすい)や溜池用水路(ためいけようすいろ)などの開削(かいさく)に関する技術に転用されました。
これらの技術によって河川敷(かせんじき)や海岸部において大規模な耕地化が可能となり、また平和な世の中となったことで人口が急増したことによる必要性から、全国で新田開発(しんでんかいはつ)が積極的に行われたため、我が国の耕地面積は江戸時代初期の164万町歩(ちょうぶ、1町歩は約1ヘクタール)から、およそ100年後には297万町歩に増加しました。
なお、新田開発は当初は幕府や藩の主導で行われましたが、17世紀末頃からは有力な商人などの町人が資金を提供した町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)が増えていきました。代表的な町人請負新田としては、現在も地名として残っている大坂の鴻池新田(こうのいけしんでん)などがあります。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 外国(オランダ)の技術と言っても手をとり足を
取り教えてもらったわけではなくて辞書ひきひきラン書を翻訳しさらにそれを書写し、我が国の技術水準に創意工夫し作業者に具体的、指示をし作業してゆく技術は、たいしたもんだと思いますよ、それは自分自身を考えても本だけでコミックの描き方もなんもわからなくても。
現在そなわってるテクだけを積み重ねることによって
十年前には考えられないテクを身に付けたことからも想像出来ますね。
今になって気がつくのですが勉強って本来はそんなものですよね
大学に入る偏差値のみのハッキリ言って勉強テクだけで受かっただけでは
なんも役にたたんと元外務省主任分析官の佐藤優が言ってました。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 日本人は昔から仰るような「本来の勉強」を得意とする柔軟性がありました。
ところが、最近の「詰め込み教育」が柔軟な発想を失わせたばかりか、ゆとり教育でさらに足を引っ張っているのが現実です。
「ものづくりの国・日本」の輝きを失わせたくはないですね。
ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると日本人の技術力は
凄まじいですね。
原料さえあれば、何でも作ってしまう所が
凄いですね。
しかも外国に一つも引けを取らない
物ばかりですものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
江戸時代は鎖国の状態で諸外国の技術が伝来しなかった代わりに、我が国で独自の発展を遂げたところがいくつもあります。
単なる「貧農史観」では絶対に理解できない「本当の歴史」ですね。
肥料はそれまでの刈敷(かりしき)や下肥(しもごえ)のほかに、イワシを干(ほ)して乾燥(かんそう)させた干鰯(ほしか)や、アブラナなどの農作物から油を搾(しぼ)り取った残渣(ざんさ、残りかすのこと)である油粕(あぶらかす)などが用いられ、これらの新しい肥料は農家がお金を出して購入したことから金肥(きんぴ)と呼ばれました。
この時代には農学も発達して、17世紀末に著(あらわ)された宮崎安貞(みやざきやすさだ)の「農業全書(のうぎょうぜんしょ)」など農書(のうしょ)が広く読まれました。
作物としては、米などの他に全国各地で商品作物(しょうひんさくもつ)が盛(さか)んに栽培(さいばい)され、農民の重要な副収入となりました。桑(くわ)・漆(うるし)・茶・楮(こうぞ)の四木(しもく)や、麻(あさ)・藍(あい)・紅花(べにばな)の三草(さんそう)が代表的な商品作物です。
この他、それまでは輸入に頼っていた木綿(もめん)が国内で栽培されるようになったり、養蚕業(ようさんぎょう)が広がって生糸(きいと)の生産が盛んとなったりしました。特に生糸は幕末における重要な輸出品となるまでに発達しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
この頃から、地方ぞれぞれの特色を生かした
作物が盛んに作られ初めたのですね。
それにしても、後家に対して賃金を不払いにするなど、人間はいつの時代も、どこに国でも
自分よりも少しでも何か欠けていると見なすと下に見る生き物で、身分階級を作りたがるものなんですね(^_^;)
弱い立場の者をもっと窮地に追い込むことで、優越感に浸るなど非人道的で、私からすれば、言語道断な話です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり商品作物がこれだけ作られているのですから、いわゆる「貧農史観」があてにならないのがよく分かりますね。
「後家倒し」は確かに現代の感覚から見れば噴飯ものですね。ただ、当時は綱吉の治世以降は「思いやり社会」ですから、後家さんにも他に向いている仕事があったのではないでしょうか。
米
ろっぽん なぜこの時代、米が通貨の代用になり武士の禄になり
何万石と大名の経済力の指針なったのでしょうか
年貢として他の作物だった場合はなかったのでしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 石高制は秀吉の太閤検地で各大名の石高が確定した際に採用されました。その後、江戸幕府も各大名の所領を把握しやすいということでそのまま継続したという一面があります。
加えて朱子学を幕府の正式な学問として採用したことで、儒教に由来する重農主義が石高制に拍車をかけたという見方もありますね。実際には貨幣経済が発達したにもかかわらず、表面上はそのまま石高制が継続された。この二重構造が幕府にもたらした悪影響は計り知れないものがあると思います。
オバrev 備中鍬、脱穀用の千歯扱、選別用の唐箕や千石通しって、昔実家にあったような気がしてますけど(^_^;)ドンナイナカヤネン?
それだけ江戸時代の技術が素晴らしかったのか、進歩がなかったのかは分かりませんが、どうなんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 現在のような機械設備が発達したのは主に戦後ですからね。農作業を手ずから行っておられたのであれば珍しくはないと思いますよ。
仰るとおり、江戸時代の農業技術の発達はめざましいものがあったと思います。収穫を増やす目的があったのですからなおさらですよね。