「祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)には滅(ほろ)びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」。
以上は鎌倉時代(かまくらじだい)に成立したと考えられている「平家物語(へいけものがたり)」の有名な冒頭(ぼうとう)部分ですね。平家の栄華(えいが)と没落(ぼつらく)とを描(えが)いた軍記物(ぐんきもの)として有名です。
それにしても、あれだけの権勢(けんせい)を誇(ほこ)った平家が、なぜあっけなく滅亡(めつぼう)してしまったのでしょうか。その理由を考える際、私たちは平家物語の冒頭のように「どんなに大きな権力を持っていても、いつかは必ず滅びるものである」という世の中の道理を思い浮(う)かべることが多いです。
しかし、現実にはそんな生易(なまやさ)しいものではなく、物語の世界だけでは語りつくすことのできない、武家政権の「開拓者(かいたくしゃ)」であるがゆえの「悲劇(ひげき)」があったことを皆さんはご存知でしょうか。
今回の講座では今年(平成24年)のNHK大河ドラマで取り上げられる「平清盛(たいらのきよもり)」を含(ふく)めた平家にまつわる数々の逸話(いつわ)や真実について研究することによって、平家の栄枯盛衰(えいこせいすい)について探(さぐ)っていきたいと思います。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
平清盛は、若い時から、大活躍して
64歳で死にました。
当時の64歳ですから、今でいうと天寿全うですね。
私は、彼の人生そのものは、完全燃焼で、素晴らしいものだったと思います。
たとえ、その後の平家が、滅んだとしても。。
オバrev 歴史はきれい事では動かないですよね。
平家栄華盛衰の真実にどこまで迫れるか!期待しています(^O^)
19万HITおめでとうございます!
ぴーち おはようございます!
いよいよ20万にあと一歩!王手が掛かりましたね♪
頑張ってください!
冒頭の平家物語は歴史ばかりではなく
国語の授業でも暗唱させられた記憶があります♪
風の前の塵に同じ・・考えてみれば
栄耀栄華を極めた平家の時代も滅びれば、ただの塵と同じなんて・・
思い切った表現ですよね(^^ゞ哀れさを強調した表現力も素晴らしいと思います。
とは言え、平家の本当の所は全く存じておりませんので、勉強させてくださいね^^
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、清盛公の人生そのものはケチのつけようがありません。
ただ、惜しむらくは…これからの更新で探っていきたいと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、綺麗事では何の解決にもなりません。
当講座ならではの切り口で平家に迫りたいと思いますので、ご期待下さい!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。20万HITなんて当初は考えたこともなかったですが、近づいてくるとやはりうれしいですね(^^♪
仰るとおり、平家物語は古文の授業でも必ず学びますね。
しかしながら、現実の世界ではそう簡単に割り切れるものではありません。
今回の講座でしっかりと見極めたいと思います。
将門さまの…
大仏堂 難しく考えれば、平家は在地に勢力基盤を持っておらず、朝廷、当時の朝廷の氏の長者である後白河法皇と対立した瞬間から没落が始まったともいえますが、オカルトマニアならば、この時代に将門さまの敵平貞盛、俵の藤太、源経基の主要な系統が滅んでます。しかもそこに関わっているのが、将門さまの後継者のような源頼朝だったという事実。ちなみに清盛一門は貞盛直系の子孫。奥州藤原氏は俵の藤太の子孫。源氏は3代で系統が絶えている。なんらかの意思を感じます。
大仏堂さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
なるほど、仰るような一面は確かに感じられますね。
怨霊の世界は我が国では決して無視できないと思います。
平家の棟梁(とうりょう)である平清盛が政権を握(にぎ)ったのは平安時代(へいあんじだい)の末期ですが、そもそもこの平安時代が名前とは裏腹(うらはら)に、地方を中心に国全体で争いが絶えなかった時代でした。
その原因の根本(こんぽん)は、我が国直属の軍隊が廃止(はいし)されてしまったことです。9世紀の初めまでに東北地方の蝦夷(えみし)を討伐(とうばつ)して国内をほぼ統一した朝廷(ちょうてい)が、逆(さか)らう勢力も存在しないのに費用のかかる軍隊を所有する必要はないと判断したからでした。
その後は都である平安京(へいあんきょう)の周辺には現代の警察(けいさつ)に相当する検非違使(けびいし)が設けられたことで辛(かろ)うじて治安(ちあん)が守られましたが、地方においてはそれこそ何の対策(たいさく)も行われなかったのです。
その結果、地方では盗賊(とうぞく)を中心に力あるものが支配する世の中となったことで数多くの生命や財産が奪(うば)われることになり、やがて人々は自(みずか)らを守るために自然と武装(ぶそう)するようになったことが、武士が誕生するきっかけとなりました。





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オバrev なるほど~!武士が生まれたのは、力に頼るしかない状況になって、生まれるべくして生まれたんですね。
すっごく納得です(^O^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武士は生まれるべくして生まれました。
そして、それはあまりにも過酷な状況からの誕生だったんです(´・ω・`)
なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
武士の誕生は、自分なりに学んできました。ここを学んでこそ、平清盛の偉大さがわかります。その後の源頼朝の苦労も、義経の未熟さも理解できますよね。そして、『差別問題』についても。
今は、学校で習うんでしょうか?
私は倣った記憶が全くないので・・・。
20万ヒット
takechan0312 いつも講義ありがとうございます。
残念ながら直にお聞きする機会はありませんが、
歴史の勉強楽しみにさせて頂いてます。
19万ヒット達成のようですが、
ブログをオープンされてもうすぐ3年目ですね。
それまでには20万ヒットも夢ではないかな。
これからもおもしろい歴史のお話宜しくお願いします。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武士の興(おこ)りをしっかり学ばなければ、その後の歴史について正しい理解を得られません。
差別問題は極めて重要な問題ではありますが、それだけに教育の世界においても慎重に行わなければいけませんね。
takechan0312さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、20万HITが目前に迫ってきました。来月でブログ創設3周年になりますが、今後も「分かりやすくて楽しい歴史」を目指して精進を続けていきますので、よろしくお願いします。
ぴーち こんばんは!
なるほど、いつの時代もその元号の意味とは全く裏腹な事が起こっていたのですね(^^ゞ
昭和時代が激動の年代であったので、次の元号は平和でありますようにと願いを込めたはずが、戦争こそ起こりませんが、それ以上に世の中が混沌としていて、泰平な世の中と呼ぶにはどうも辺りの視界が悪すぎですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、時代の名称や元号に込められた願いと現実が裏腹になってしまうというのは皮肉でもありますね。
逆に言えば、乱れている世の中だからこそ、あえて穏やかな名称を求めるものかもしれません。
こうして誕生した地方の武士ですが、武士団の形成に関しては、実はもう一つの理由がありました。それは受領(ずりょう)と呼(よ)ばれた国司(こくし、地方の行政官のこと)の「おいしい」職務(しょくむ)に原因があるのですが、皆さんはお分かりでしょうか。
地方の役人である国司は徴税請負人(ちょうぜいうけおいにん)として一定の税を集めて政府へ送る必要があったのですが、これは定率の税さえ納めれば、残りは自分の取り放題となるということも意味していました。例えば、本来であれば20%の税を納めれば済むところを、50%をかき集めることによって、差額の30%をそのまま自分の利益にしてしまうことも可能だったのです。
このような「おいしい」国司には希望者が殺到(さっとう)し、貴族たちは様々な手段で国司などの役職を得ようとしました。例えば、朝廷の行事や寺社の造営を請け負って、そのかわりに国司などに任じてもらうという成功(じょうごう)や、同じ方法で引き続き同じ国の国司などに任命される重任(ちょうにん)などが盛(さか)んに行われるようになりました。





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晴雨堂ミカエル 今昔物語でしたか? むかし読んだきりなのでかなり忘れていますが、貧乏五位が大臣の宴会に出席して、甘づらをたらふく食べたいと呟いていたら、受領が任国に招待し、贅沢にダイナミックに甘づらを大量に作ってもてなし、五位はカルチャーショックを受けて、一口食べただけで「もう満腹です」。
これは何に書かれた物語だったでしょうか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 芥川龍之介の「芋粥」ですね。
「今昔物語」から題材をとっているようですが、原作と小説とでは若干ストーリーが異なるようです。
ぴーち おはようございます!
人間はおいしい話、手っ取り早く富を得たいという欲が強い為につい甘い蜜に吸い寄せられてしまう性を持っていますね(^_^;)
人間ばかりでは勿論ありませんし、生き物全体に言える現象でもあるでしょうけれど、そんな本能の欲するがままの生き方はどうも醜く感じてしまいます。苦い水、しょっぱい水、様々な味の水を経験して初めて甘い蜜がおいしく感じられるように思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、このあたりの人間模様は醜くさえありますね。
このような欲望がやがてもう一つの「武士」をもたらすことになります。これもまた歴史なんですよね…。
国司たちは自己の任期中に土地を開墾(かいこん)できるだけ開墾して巨利(きょり)を得ましたが、任期中に開墾した土地を都へ持って帰ることはさすがに不可能でした。せっかく開墾した土地を他人に奪(うば)われるのは納得(なっとく)がいかないということで、任期が切れた後も地方にそのまま残って土着(どちゃく)し、同じように武士となっていく者も現れたのです。
受領から土着した貴族から武士となった者たちは、やがて各地の豪族が次第にまとまった地方武士団の中心となっていきましたが、その中でも特に有名だったのが桓武平氏(かんむへいし)や清和源氏(せいわげんじ)の出身者たちでした。
10世紀から11世紀にかけて平家や源氏は様々な興亡(こうぼう)を繰(く)り返しましたが、12世紀に入ると桓武平氏の流れをくむ伊勢平氏(いせへいし)が次第に頭角(とうかく)を現すようになり、清盛の祖父(そふ)にあたる平正盛(たいらのまさもり)によって平家は大きく飛躍(ひやく)するきっかけをつかむのです。





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晴雨堂ミカエル 兵庫県の井戸氏がなんか言うていますが、私は今年の大河ドラマは好感を持っています。
ただ、清盛たちの身なりはもう少し良かったのではないかと思います。
あのクラスは武士というより軍人貴族、五位の位階ですからくたびれた侍烏帽子ではなく、立烏帽子や狩衣くらい着せても良いような気がします。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私は見ていないのですが、清盛の待遇を不当に貶(おとし)めているようですね。
清盛は若い頃から他の武士に比べてずっと身分が高いのですが…。まあこれ以上書くとネタバレになりますので(笑)。
ぴーち おはようございます!
何となく私は武士と言うと
江戸時代の武士のイメージしかなく
自尊心の塊というか、常に
清廉潔白な生き方を
している様に
思えていたのですが、武士の起こりは
人間の執着心と強欲さが齎しさ産物だったのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
生への執着心だけでなく、強欲の産物でもあった武士。
綺麗事だけでは繁栄できないということなのでしょうね。
1107年、清和源氏の出身である源義家(みなもとのよしいえ)の子の源義親(みなもとのよしちか)が出雲(いずも、現在の島根県東部)で反乱を起こしましたが、翌1108年に平正盛によって滅(ほろ)ぼされました。
この功績によって正盛は白河法皇(しらかわほうおう)の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士(ほくめんのぶし)として登用(とうよう)されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も瀬戸内海の海賊(かいぞく)を討(う)ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇(とばほうおう)に信頼され、武士として初めて昇殿(しょうでん、朝廷の内部深く入ること)を許されました。いわゆる殿上人(てんじょうびと)のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従(したが)え、平家が繁栄(はんえい)する基礎(きそ)をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留(とど)まることを知らず、12世紀半(なか)ば頃に起きた二つの大事件によって、平家が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。
その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが平清盛だったのです。





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れいこ♪ はじめまして。
いつも訪問ありがとうございます。
私もいつも読み逃げでごめんなさい。
お誕生日おめでとうございます♪
私の兄とお誕生日が一日違いなのですよ。
兄は昭和44年2月16日生まれ。
私は歴史が苦手なのです。
よく分からないのです。
理系だったから・・・を理由に
避けてきました。
年号の丸暗記だけの歴史でしたから。
でも、勉強したいとは思っているんです・・・
全く分からないから。
そして、知りたいから。
だから時々読み逃げさせてもらっていました。
どうしてもはじめから覚えないと、いけないような気がして、きっと面白くなる前に挫折してしまっています。
上の子が歴史を習うようになったら
もう一度一緒に勉強していけたらな~って思っています。
また、よらせてもらいます。
いつもありがとうございます。
れいこ♪さんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
お兄様と一日違いですか。凄い偶然ですね。
歴史は暗記物ではありませんからね。覚えさせるだけでは苦痛でしかありません。
お子様ともども、当ブログがお役に立てれば幸いです。
ぴーち おはようございます!
平氏の躍進の理由は、単に武力だけの力任せではなく
上手く利用していこういう知恵にも長けていたのですね!
応援凸
なおまゆ お誕生日おめでとうございます。
今後の活躍を祈念致します。
経営者の講演会、大変でしょうが地道な啓蒙こそが国を救うと思います。(大袈裟ですが・・・)
季節柄、体調を崩しやすいのでご自愛下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、単なる武力だけではここまで勢力を拡大できません。
政治の世界でも上手に立ち回れる「知恵」が出世に欠かせないのはいつの世も同じですね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回のご依頼はまさに「青天の霹靂」でしたが、ご参加の皆様に満足いただけるよう頑張ります。
現場で奮戦しておられる経営者の皆様には本当に頭が下がりますね。
Y.Kotani 後れましたが、お誕生日おめでとうございます。
黒田先生は、いいお声をしてらっしゃいますね。
私なんぞ、過去に講義してた事もあるのですが、ハスキーボイスで声が通らなくて(;∀;) 。
平家のお話、勉強になります。保田与重郎の関連で「平家物語」を読まないといけないんですが。後回しにしてばっかりです。
Y.Kotaniさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
声に関しては両親からの授かりものですからね。感謝しております。
日常が忙しいと、どうしても後回しになるものがありますよね。私もいわゆる「積ん読」が多くて困っています。
院政によって上皇(=法皇)の地位は「治天の君(ちてんのきみ)」と称(たた)えられるまでになりましたが、その独裁的な政治手法は周囲の混乱をもたらすことになり、皇位の継承(けいしょう)に関しても例外ではありませんでした。
白河法皇は孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁親王(あきひとしんのう)を大変可愛(かわい)がられ、親王が5歳になられた1123年には崇徳天皇(すとくてんのう)として即位(そくい)させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金(がね)となった我が子の崇徳天皇に対しても良い感情を持たれなくなりました。そんな中、1129年に白河法皇が崩御(ほうぎょ)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。





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晴雨堂ミカエル 百人一首の中で崇徳院の歌が一番好きですね。
せをはやみ 岩にせかるるたきがわの われてもすえにあわんとぞおもふ
崇徳院の家庭はドロドロで愛憎骨肉、ある意味、生々しく人間臭い。
晩年はザンバラの髭面、妖怪みたいな容姿になったとか。呪いの世界では有名人です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、崇徳上皇にまつわる伝説は凄まじいものがありますね。
「呪いによって武家に政権が奪われた」ことにもなっていますし。
明治天皇も即位の礼の前に勅使をつかわされておられます。
ぴーち おはようございます!
何故に白河法皇は、鳥羽上皇を差し置いて
年端も行かない孫に天皇を即位させて
しまったのでしょうか。
そこにはただ寵愛していただけという理由しか
無かったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 白河法皇は藤原璋子を大変可愛がっており、彼女が生んだ顕仁親王を何としても天皇に即位させようとしたのが真実のようです。
その寵愛ぶりから「顕仁親王は白河法皇の隠し子である」というとんでもない俗説が鎌倉時代にささやかれる有り様でした。そして、それをさも現実であるかのように筋書き立てているのが今年の大河ドラマなのです。
しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇としては崇徳上皇の子である重仁親王(しげひとしんのう)が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌(きら)われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁親王(まさひとしんのう)を後白河天皇(ごしらかわてんのう)として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷(れいこく)ともいえる仕打ちに対して激怒(げきど)された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
こうして1156年7月、兄弟や親子、さらには叔父(おじ)と甥という血族同士が相争(あいあらそ)う戦いが始まってしまいました。これを当時の年号から保元の乱(ほうげんのらん)といいます。





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ぴーち おはようございます!
現代でも毎日のようにニュースで
子供が親を、親を子供を、あるいは兄弟同士の言い争いの末に相手を殺めてしまった・・という
悲劇が報じられていますが、天皇家の血族の争いとなれば、スケールも違いますので、国全体がその争いごとに巻き込まれてしまい兼ねない事態に陥ってしまい、国民にとっては迷惑千万な事だったでしょうね(^^ゞ
それにしても、身近に存在する家族の欠点はすぐ近くに居る分、どうしても目についてしまうものですが、親子や兄弟だから何を言っても許されるという甘えが悲劇を齎す事が多いようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室に内乱が生じれば我が国全体を揺るがす大事件につながってしまいますからね。
近親憎悪の世界は一般に限ったことではないということなのでしょうか。
源氏
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私の住んでいる兵庫県川西市の多田は
摂津源氏の発祥の地でして
源満仲がいたそうです。
(多田源氏)
実は、三矢サイダーも私の家の近くが発祥の地なのですが、
この三矢サイダーのネーミングは、
源満仲が住吉大社の御神託で、放った三つの矢
が多田の地に刺さったという神話から、つけたそうです。
そういうこともあり、毎年、家の近くでは
「源氏祭り」が行われます。
青田さんへ
黒田裕樹 源満仲は「ただのまんじゅう武士のはじまり」の言葉でも有名ですね。
私のブログでもかつて紹介したことがありますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-297.html
1158年、後白河天皇は子の二条天皇(にじょうてんのう)に譲位(じょうい)され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激(はげ)しくなりました。
一方、保元の乱の戦功によって平清盛や源義朝にも恩賞(おんしょう)が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、中国の宋(そう)とのいわゆる日宋貿易(にっそうぼうえき)を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁(なんきん、身体は自由にしておくが、外部との接触を許さない状態におくこと)したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲(おそ)われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されました。この戦いは当時の年号から平治の乱(へいじのらん)と呼ばれています。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
個人的には、源義朝に同情してしまいます。
やはり、政治力・軍事力においても
平清盛のほうが一枚も二枚も上手ですね。
ただ、惜しむべくは、源義家が
前九年の役、後三年の役で、八面六臂の活躍をし、白河法皇に昇殿を許されたので、平清盛より、早く、武家政権を創れるチャンスがあった気がしますが
いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに義家にはそのチャンスがあったかもしれません。
しかし、本拠地が東日本と西日本とでは京都に近い平家の方が有利ですし、子の義親が反乱を起こしてしまったところで勝負ありでしたね。
それ以前に平忠常が反乱を起こした際には源氏が有利だったのですが、時流に合わなかったのかもしれません。
ぴーち おはようございます!
崇徳上皇はまだ訳の判らない年頃に天皇に任命させられて、挙句に後白河天皇に恨まれ、その後処刑されたとは、他人に運命を翻弄されながら生きたなんとも哀れな人生だったのですね(*_*;
それにしても後白河天皇の怒りや野望は情け容赦のなく鬼畜化していたようですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、崇徳上皇は運命にふり回された一生をお過ごしだったといえそうですね。
後白河天皇ですが、反乱者を処刑する際に自らが行えば「ケガれる」とお考えだったようで、武士に「後始末」を任せておられますが、その際に清盛や義朝に近親者を自ら処刑させておられるようですね。身分の高さが仇になったのかもしれません。
選挙という民主的な手段がある現代とは違(ちが)って、昔は政敵(せいてき)とみなされた人物は本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常(つね)でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨(うら)みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐(ふくしゅう)のために生命を奪おうとするのが十分考えられたからです。
こうした原則から考えれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命は風前の灯(ふうぜんのともしび)であり、処刑されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は結果として彼らの生命を奪おうとはしませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経を助けたのでしょうか。
その背景には二人の女性が存在していたのです。





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晴雨堂ミカエル 頼朝はこの清盛の温情を戦訓にして、義経をはじめ反鎌倉勢力と見なしたら躊躇なく滅ぼしたかもしれませんね。
その結果、源氏の弱体化をまねき、頼朝の血筋はその息子たちで終わり、平姓の北条氏に幕府を乗っ取られる。
皮肉ですな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、過去を見事に教訓とした頼朝ですが、同時に「過ぎたるは及ばざるがごとし」でしたね。
それを見事にカバーしたのが徳川家ということにもつながります。歴史は流れですね。
ぴーち おはようございます!
昨日の夜、母が居間でテレビを見ていたので、何を見ているのかと思い立ち止まりましたら、NHKのチャンネルでした。恥ずかしながら、初めて大河ドラマの「平清盛」をチラ見しました(^^ゞ
母は毎週欠かさず見ているようですが、私はどうもテレビ番組を見る余裕が無くなってしまっている様です(^_^;)
女性の存在。。
どんな方なのでしょう^^
女性はなかなか表舞台に登場する機会に恵まれませんが、英雄と呼ばれる男性の影には必ずと言って良い程、献身的に支える女性がいるもとと思われます^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史を陰で支えたのは多くの名もない女性たちでした。
そして、今回の場合は平家にとって陰で支えるどころか、全く逆を行ってしまうのです―。
はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議(こうぎ)したため、仕方なく頼朝を伊豆(いず、現在の静岡県の一部)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世(ぜっせい)の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命(じょめい)されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平家の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢(いきお)いであった清盛が気づくはずもないことでした。





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なおまゆ 母の愛の変形が歴史を変えたんですね。
禍根を断つ、非情になりきれなかった清盛ですが、やはり、家庭環境がよかったんでしょうか?
平家一門は、仲がよかったと聞いてます。
源氏と違って天下を取れなかったのはその辺りにも原因があるのかもしれませんね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、身内に対して非情になりきれない清盛の判断が運命を変えてしまいましたね。
身内の結束は良いことですが、それで本家を滅ぼしては意味がありません。
そして、その教訓を身をもって知っている頼朝だからこそ、あそこまで非情になれたのでしょうね。
ぴーち おはようございます!
池禅尼は
「わが子に似ているから」ですかぁ・・
光市母子殺害事件の被告も
母への面影を求め、抱きつきたかったからなどと
と言っていましたが、
親子の愛情は普遍ではあるものの、
それを他に求めたことにより、
一方は、その理由で命が助けられ
一方では、その理由で命が奪われてしまった・・。
親子の愛情に触れる事は言わば心の琴線に触れる事と同じなので、それを引き合いに出して、理由付けにすることは言わば一番卑怯な手段だとも思うし、それによって人の運命が変えられてしまうことは言語道断です。
それを卑怯な手段だと冷静に捉えた現代の裁判所の判断はやはり正しかったのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 誰かの何気ない一言が一族の運命を変えてしまう、というのも恐ろしい話ですよね。
光市母子殺害事件にご意見については私も全く同感です。
「言語道断な罪状に対しては法に基づき厳正に処罰する」。裁判所の当然ともいえる判断を私も支持します。
結果論なので
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
源頼朝、源義経の件は、後から、考えたらの
結果論だと思います。
なぜなら、もし、この二人が凡庸で、そのまま
平家政権が続けば、
平清盛は、慈悲深い武将と思われて、一生を終えたからです。
まさか、この二人があのような成長を遂げるとは。。
ネタバレになるので、ここで、止めておきますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにありますね。
ただ、私は頼朝や義経が凡庸だとしても、あるいは両者を殺していたとしても、平家の政権は多少の時間がかかっても滅んでいたと考えております。
その理由は…ネタバレになるのでまた後日の更新で明かしましょう(^^ゞ
1160年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下(みくだ)されていた武士が初めて公家の仲間入りをし、彼らと肩を並(なら)べることになりました。後に清盛は1167年には従一位(じゅいちい)の太政大臣(だじょうだいじん)にまで昇進します。
また、清盛は高倉天皇(たかくらてんのう)に自分の娘の平徳子(たいらのとくこ)を嫁(とつ)がせ、二人の間に言仁親王(ときひとしんのう)がお生まれになると、親王が3歳の1180年に安徳天皇(あんとくてんのう)として即位させ、清盛はついに天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父のこと)にまで出世しました。
清盛によって隆盛(りゅうせい)を極(きわ)めた平家の下には全国各地から500以上の荘園が集まると同時に、平家が支配を任された知行国(ちぎょうこく)の数も全国の半数近くの30数ヵ所にまで拡大するなど、経済的な基盤(きばん)も強化されました。
このような政治的・経済的な背景に支えられたことによって、我が国史上初めて武士が朝廷にかわって本格的に政治の実権を握りました。しかし、その政権は清盛が天皇の外祖父になったり、平家一門が次々と朝廷の要職に就(つ)いたりしたことで、摂関家のような貴族的な性格を持ったものとなり、平家によるこうした権力の独占は、やがて周囲の大きな反発を招くことになるのです。





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オバrev 急上昇したケースは急降下することが多いというのも事実かもしれません。
でも出る杭は打たれる!も日本の文化なのかも?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 急上昇したケースは急降下することが多いというのも事実かもしれません。
> でも出る杭は打たれる!も日本の文化なのかも?
どちらも当てはまると思います。しかし、後の徳川幕府のように出る杭が大きく成長する場合もありますからね。
平家の政権における大きな欠陥はもっと根本的なところにあり、それが命取りになりました。今後の更新で明らかにしていきます。
ぴーち おはようございます!
やはり一つの一門がその国の政治の舵取りを
独占し、我が物顔で采配するような事態になれば、当然国民の間から反発が起こるのは、何処の国でも起こりうることですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、一門独占による「ねたみ」が反発の理由の一つであることは間違いありません。
平家の場合は、それに加えてもっとおおきな「ある欠陥」があったために崩壊に向かっていくことになりました。
詳しくは今後の更新で明らかにしていきますね。
ててててっちゃん 黒田殿こんにちは。
実に分かりやすいですね。
なるほどなぁと声が出てしまいます。
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
声質には恵まれていると思います。
両親のお蔭ですね。
陰謀の背景に後白河法皇の存在があったことを知って激怒した清盛は、2年後の1179年に軍勢を率(ひき)いて後白河法皇を幽閉(ゆうへい、閉じ込めること)して院政を停止し、近臣たちの官職をすべて解(と)くなどのクーデターを起こしました。なお、清盛の孫にあたられる安徳天皇が即位されたのはこの翌年(1180年)のことです。
清盛の立場から見れば、自己の政権を危(あや)うくしたのは後白河法皇側であり、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえました。しかし、法皇を幽閉するという強硬(きょうこう)な手段が、周囲の更(さら)なる反発を招いてしまったのです。
それに加えて、平家による政権には自身が気づいていない「重大な欠陥(けっかん)」があり、その欠陥こそが後の平家滅亡への直接的な引き金となってしまったのですが、それはいったい何だったのでしょうか。
カギを握るのはこの時代の「土地制度」です。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
後白河法皇の政治力も相当ですね。
全盛期の
平清盛と渡り合ったかと思うと
その後、源頼朝とも、
渡り合います。
「日本一の大天狗」と言われることがありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後白河法皇のご存在が当時の我が国に大きく影響しましたね。
もし法皇がおられなければ、平家の政権はそれなりに長続きしたかもしれませんし、あるいは頼朝がもっと早く将軍になれていたかもしれません。
ぴーち おはようございます!
後白河法皇も幽閉されるだけの理由を持ちあわせているものの、その身分の高さ故に清盛の方が周りの反感を買ってしまった訳ですね。上り詰めた者勝ちとでも言うのでしょか・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室のご身分と比べれば清盛の方が下に見えるのは仕方がないことですね。
それ故に反感を買ったのですが、もっと根本的なところが…なんですよね(´・ω・`)
今後の更新にご期待下さい。
平安時代の頃には、それまでの公地公民(こうちこうみん)の原則が完全に崩壊(ほうかい)して荘園制度が全盛期を迎(むか)えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。
実際に田畑を耕(たがや)しているのは他ならぬ武士たちなのですが、朝廷は彼らの所有を認めようとしませんでした。困った武士たちは、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を移し、自らは「管理人」の立場となりましたが、これほど不安定な制度はありません。
「自ら開墾(かいこん)した土地は自らの手で堂々と所有したい」。武士たちはいつしかこうした切実な願いを持つようになりましたが、武士の心の内が理解できない貴族たちによって政治が行われている以上は、その願いは叶(かな)えられそうもありませんでした。
そんな折(おり)に平家が政治の実権を握ることに成功したことで、自分たちと同じ武士である平家であれば必ずや「武士のための政治」を実現してくれるに違いない、と全国の武士たちが期待したのです。





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オバrev なるほど~!このシステムに手を付けなかったことで失望と反感を買ったんですね。
でも清盛が、それを分かってなかったとは思えませんけど、
それとも分かった上で、あえて手を付けなかったんでしょうかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~!このシステムに手を付けなかったことで失望と反感を買ったんですね。
鋭いですね(^^ゞ
果たしてご推察どおりなのか、次回(24日)には分かりますよ。
> でも清盛が、それを分かってなかったとは思えませんけど、
> それとも分かった上で、あえて手を付けなかったんでしょうかね?
さぁ、どうでしょうか?
これも次回(24日)にはっきりしますね。
ぴーち おはようございます!
平家が政権を握った事で、当然「武士の味方」であるはず。平家なら必ず武士の悩みを聞いてくれるはずと勝手に思い込んだのは、武士の方で、平家はその事については何も宣言していないのなら、それは全面的に平家の落ち度でも無いように思いますが・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その一方で現場の武士たちは、当然自分たちの思いがかなえられるからと信じ込んでいるからこそ平家の政権樹立に協力しました。ということは、今の政治家のようにマニフェストを公表して票を集めるような形式をとっていなくとも、彼ら武士の意向を無視してはやはり政権が成り立たなくなるのです。この流れについては次回(24日)の更新で詳しく紹介します。
またそれとは別に「平家の落ち度」でない原因も確かにありました。それについても今後の更新で明らかにしていきます。
なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
土地制度を追っかけていけば、日本史は分かりやすいでよね。なかなか、そのような授業はできないのでしょうが・・・・。
先生のブログを読むと、本当に歴史の流れが良く分かり、人物も分かりやすいので娘にも好評です。助かってます。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 土地制度は人間の生活の根幹をなしますからね。そういえば明治時代の地租改正も大事業でした。
お言葉有難うございます。少しでも多くの皆様にブログをご覧いいただけるようになりたいですね。
なぜなら、平家が摂関家の真似(まね)をしただけでは武士たちの立場に全く変化がなかったからです。人間というものは期待が大きければ大きいほど、裏切(うらぎ)られた場合の怒(いか)りが大きくなるものですが、武士たちの場合も平家への期待が大きかっただけに「同じ武士なのに、なぜ俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになりました。
一方、それまで政治を行っていた貴族たちも、身分が低いうえに血を流す「ケガレた」仕事しかしないと見下していた武士である平家が自分たちの真似をしたことに対して激しく反発していました。すなわち、平家の行った政治は武士と貴族の双方から問答無用で拒否(きょひ)されてしまったのです。
源頼朝や足利尊氏(あしかがたかうじ)、あるいは織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)など、後の世で武士による政治が広く支持されたという現実を考えれば、初めてであるがゆえに確固(かっこ)たるビジョンを持てない「開拓者」としての立場でしかなかった平家の悲劇でもありました。





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晴雨堂ミカエル 民主党も国民の期待を一身に浴びて政権に就きましたが、事実上マニフェスト反古にし政権交代の意義を自ら否定するという惨めな結果。
ただ、私が民主党の弁護士ならば、自民党が残した不良債権の処理だけでも途方のないことに加え、未曾有の東日本大震災で完全に首が回る振りすらできなくなった。
これも、今まで自民党だけに国政を任せてきた国家主権者たちの罪です。
と、弁護するでしょうな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 負の遺産については否定しませんが、それを含めてのマニフェストだったはずですからね。
甘い言葉で投票を呼び掛けた罪は大きいと思いますし、何よりも期待を抱かせて裏切られた国民の怒りは半端ではなく、たとえそれが理不尽であったとしても、恨みつらみは時の政権に向けられるのが世の常というものです。
オバrev 確かに清盛には、お手本とする前例がなかったことが悲劇に繋がったのかもしれませんね。
それと頼朝や家康に比べると、下積み生活がなかったことも影響しているかも。
しかし、それを忠告する忠臣はいなかったんですかね?
ぴーち おはようございます!
いわゆる「ミイラ取りがミイラに」なった様な形になってしまった平家が武士の怒りを買ってしまった訳ですね。
ただ闇雲に頂点を目指したいという、野心だけで這い上がっただけで、そこで何をしたいのかという明確な目標がなければ、確かに周りからは非難轟々でしょうし、またその非難に対しても確固たる意志がなければ、風当たりの強い場所には立ち続けていられなくなりますね・・(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、ビジョンのなさが平家の命取りになりましたね。
非難については平家の軍事力で抑えられますが、それもできなくなると…。
今後の運命が見えてきますね。
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オバrevさんへ
黒田裕樹 (お言葉への返信が遅れてしまい、申し訳ございませんでした。)
前例のないことには人間誰しもが戸惑うものですからね。それゆえに清盛は最悪の選択をしてしまいました。
また、仰るとおり幼い頃から貴族じみた生活をしていて下積みらしいのがなかったこともありますし、また彼が最高権力者として独裁的な政治を行っていたことや、平家一門の多くが同じように貴族じみていたことも影響していたと思われます。
平家の場合も決して例外ではなく、やがて「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われたことで、全盛期には「平家に非(あら)ずんば人に非(あら)ず」とまでいわれた平家の天下はたちまち崩(くず)れ去ってしまいました。
では「武士のための政治」とは一体どのようなものなのでしょうか。そして、平家にかわって政治の実権を握った勢力には、なぜ「武士のための政治」が理解できたのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、かつて清盛が生命を助けた源頼朝なのです。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、
何処の国でもそうでしょうけれど、
国民一人ひとりの支えがあってこそ、一つの国が成り立っている訳ですので、その土台となる国民から支持されなくなれば当然、崩壊していくことになりますね。
人の上に立つと言うことは、体育祭の棒倒し競争の様に皆を蹴落として頂点に立つ事ではなく、大勢の人たちから支えられて高く飛び上がる胴上げ型であるべきなのでしょうね。胴上げは、下で支える人間と胴上げされている人間とが互いに信用しあわなければ、成り立たない事ですしね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、政治組織としては胴上げのように支えられている形式の方がふさわしいですね。
支配者は同時に多くの支持者に「支配されています」から、それが分からない政治家は退場していただくしかありません。
要するに、頼朝は若い頃に武士としての「実地訓練」を積んでいたのです。やがて頼朝が1180年に平家打倒に立ち上がると、当初は苦戦したものの次第に武士たちの同意を得て、富士川(ふじかわ)の戦いで勝利するなど大勢力となっていきました。なぜなら、平家に一度「裏切られた」かたちとなった武士たちが、自分と同じ経験をした頼朝であれば今度こそ期待に応(こた)えてくれるに違いないと判断したからです。
一方、頼朝をはじめ各地の源氏の挙兵(きょへい)に危機を感じた清盛は、1180年6月に平家の経済的な本拠地(ほんきょち)である福原(ふくはら、現在の兵庫県神戸市)に都を遷(うつ)しましたが、余りにも性急(せいきゅう)に行ったことで皇族や貴族、あるいは寺社の反対が根強く、結局11月には京都に戻ることになりました。強引な手法で体制を固めてきた平家の政権も、この頃には陰(かげ)りを見せていたのです。
どんなに大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは必ず衰(おとろ)えますし、不可抗力(ふかこうりょく、人間の力ではどうにも逆らえない力や事態のこと)な事態が起こった場合には、人々の恨みは時の政権に向けられます。平家の政権も例外ではなく、末期になると立て続けに不運が襲(おそ)うようになりました。





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晴雨堂ミカエル 頼朝の息子で三代将軍実朝が暗殺された事情も解るような気がします。
武勲のない実朝は官位の叙勲に積極的で、和歌集編纂もやったりと貴族的。当時の御家人感覚とは合わないでしょうな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
当時の御家人から見れば、実朝の行為は「反逆」とも思えたことでしょう。
なるほど。「反逆」になりますか。
晴雨堂ミカエル 実朝の身になって考えると、兄が殺された事もあり、北条家から自分の身を守るため権威に頼ったのではないかと思うのですが、それが逆に味方を失うだけでなく、「裏切り」と見なされるなんて哀しいですね。
実朝の若さからの思慮浅さかな。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 そうですね。幕府の開設者としての「源氏の役割」が終わったことも大きいと思います。
もはや用済みである源氏。それが御家人の「お飾り」として生きていくのか、それとも朝廷に接近して勢力を拡大するのか。後者を選んだことが「裏切り」となったのでしょうね。
ぴーち おはようございます!
こうして平家の一連の行動を拝見させて
いただいていると、私の想像していた平家とは随分とかけ離れていました。清盛ももう少し思慮深く、
先見の明に長けている人物なのかと思っていましたが、
勢い任せで、政策も付け焼刃的な所があったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 政権を奪取した頃には平家にも勢いがありました。
しかし、武士の期待に応えるどころか逆のことをやり続けたことによって支持を失い、反対勢力が次々と現れたことによって冷静さを失ったものと思われます。
こうなると何もかもが思うようにいかなくなり、余計に焦りを生むようになる。平家のもがき苦しむ声が聞こえてくるようですね。そして、そんな平家に追い打ちをかけるように…。
そして何よりも最大の不幸だったのが、清盛自身が病気となって1181年閏(※注・うるう)2月に64歳でこの世を去ってしまったことでした。清盛の死後は三男の平宗盛(たいらのむねもり)が平家の棟梁となりましたが、清盛ほどの器量は持っておらず、また後白河法皇が院政を再開されたこともあって、平家による政権の将来に暗雲(あんうん)が立ち込め始めましたが、その原因は人材不足だけではありませんでした。
平家に逆らった勢力には寺社も含まれていました。平家は1180年12月に奈良の東大寺や興福寺(こうふくじ)の寺社勢力を鎮圧(ちんあつ)するため出兵しましたが、風の強い日に攻めたために瞬(またた)く間に火が燃え広がり、東大寺の大仏が焼け落ちるという大惨事(だいさんじ)となったことで平家は仏敵(ぶってき)呼ばわりされてしまったのです。
さらに平家を待ち受けていたのが大飢饉(だいききん)でした。1180年は異常気象に悩まされたこともあって農作物が不作となり、西日本を中心に餓死者(がししゃ)が相次(あいつ)いだばかりか、この状態が数年も続くという騒(さわ)ぎになりました。これを当時の年号から養和(ようわ)の大飢饉といいます。
※当時は旧暦=太陰太陽暦(たいいんたいようれき)を採用していたため、1年が13ヵ月になる年がありました。この場合は同じ月が連続することになりますが、2回目の月を閏月(うるうづき)として区別していました。





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ぴーち おはようございます!
悲運が待ち受けている人生もまた因果応報。
それまで自分が(或いは先祖が)犯してきた罪が今度は自分の人生に降り掛かって来てしまったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 平家のこのあたりの歴史を振り返ると、まさしく「因果応報」ですね。
人生はやはり真っ当に歩むべきなのでしょう。
世の無常
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
黒田先生の今までの講座
徳川綱吉、田沼意次、そして、今回の平清盛を
重ね合わせると
単なる偶然かもしれませんが、妙な運命を感じます。
それは、最後は、悪い偶然が重なるということです。
「天災」「身内の病死」「そして、主人公の死」が同じ時期で、どっと気ます。
「病は、気から」ということで、『病死』については、何となく、わかるのですが、
天災については、本当に不幸な偶然にすぎません。
しかし、現代に置き換えると
◆ 阪神大震災の時、村山総理(社会党)
◆ 東北沖地震は、管直人総理(民主党)
なんですが、これも、単なる偶然と考えると
不思議なものを感じます。
オバrev 当時は平均寿命も短く、若死にすることも多かったでしょうから、その備えがなかったことは大きかったように思います。
それを考えると、藤原氏支配が長く続いたのが不思議ですが、その違いは何なんでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 確かに偶然にしては出来過ぎていますね。
世の乱れは天災と連動しているのかもしれません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 平家はリスクマネジメントの面で大きな問題があったようですね。
藤原氏の場合は「天皇の摂政あるいは関白」という緩やかな条件であり、比較的柔軟だったことが長持ちした理由かもしれませんね。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、歴史のifですが
平重盛がもし、亡くならなかったら、
平家政権は、もう少し、持ちこたえたように
思うのですが、いかがでしょうか。
というのも、この平重盛は、後白河法皇にたいして、平清盛より、信任が厚かったからです。
平家と朝廷のギクシャクした関係を修復できたら、いずれは、滅びるにしろ、そう簡単には、
源氏も手出しできないと思うのですが。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに一理ありますね。
重盛が生きていれば、確かに平家の寿命は延びていたことでしょう。
しかし、平家が生き延びるということは、それだけ新時代の幕開けが遅れるということでもありますね。
そうなれば世の中の流れはもっと変わった方向になったかもしれませんん。
ちょうど良い一つの見本が実は次回(第29回)の講座なのですが
そんな中、源義仲(みなもとのよしなか)が1183年に倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平家の軍勢を破ると、身の危険を感じた平家は安徳天皇とともについに都落(みやこお)ちをしてしまったのです。
しかし、備中(びっちゅう、現在の岡山県西部)の水島(みずしま)では義仲相手に大勝するなど、本拠地である西国において平家はまだまだ力を持っており、都での復権を虎視眈々(こしたんたん、じっと機会をねらっているさまのこと)と狙(ねら)っていました。
また、瀬戸内海(せとないかい)がある西国では海戦が多く、東国の山育ちの人間が多い源氏に対し、強力な水軍を持っている平家の優位(ゆうい)は動きませんでした。このようなことから、平家と源氏との戦いは当分の間は一進一退(いっしんいったい)を繰り返すであろうと思われていました。
ところが、結果として平家は都落ちからわずか2年足らずで滅亡しているのです。どうしてこのようなことになったのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、頼朝と同様に清盛が助命した源義経なのです。





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ぴーち おはようございます!
平家側は火の勢いがたまたま強かっただけだと弁解してるようですが、最初からその様な事をしなければ、恨まれずに済んだものを、雨ではなく、風が吹くとは・・きっと自然も平家の行いには味方をしてくれなかったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結局は仰るとおりの考えに行きつきますよね。
平家の行為がすべて裏目に出てしまっています。時の勢いを味方にできなければ恐ろしい運命が待っているというこのなのでしょう。
1184年3月、一ノ谷(いちのたに、現在の神戸市)に陣を敷(し)き、山を背後に軍勢を構えた平家は、正面から攻めてくるであろう源氏を迎え撃(う)つべく待っていたのですが、義経は山の頂上から、急斜面(きゅうしゃめん)のため常識では通れそうもない坂を馬ごと一気に下り、平家の背後を奇襲(きしゅう)しました。
不意をつかれた平家は大混乱となり、一ノ谷を放棄(ほうき)して西へ敗走せざるを得ませんでした。義経の思わぬ奇襲によって源氏が勝利を得たこの戦闘は一ノ谷の戦いと呼ばれ、また義経が急坂を一気に下った戦いぶりは、後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称えられました。
義経には常識にとらわれない思考能力と、一瞬のスピードで決着をつけようとする天才的な戦術に関する能力がありました。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平家との大きな差が、それぞれの今後を象徴していました。





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なおまゆ こんばんわ。いつも有難うございます。
義経は軍事の天才ですね。
軍事の才能を持つ者は一民族の中に非常に少ない、というようなことを司馬遼太郎氏が言ってました。
確かに義経以降では、楠木正成、足利尊氏、豊臣秀吉、大村益次郎くらいしか思い浮かびません。
平家の中に、そういう人がいれば、歴史は変わったでしょうね。
政治より軍事が歴史を動かしたという点は、日本史上稀に見ることなんでしょうか?
オバrev 戦力を活かす優れた軍師の存在が、まさに勝敗を左右しましたね。
しかし義経は天才ではあるけど、どこかで兵法を学んでいると思うのですが、それはどこですかね?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義経のような軍事の天才が平家に存在しなかったことが明暗をくっきりと分けましたね。
軍事によっていったん歴史が動いたのは、戦国武将にも結構いそうですね。
しかし、義経も含めて最終的には政治力が歴史を動かすことが多いようです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、軍師の存在は大きいですね。
義経の場合は鞍馬山の修行から脱出して奥州藤原氏に拾われるまでの行方が今一つはっきりしていません。
この頃にゲリラ的なのを含めた様々な経験を積んだことが、軍事の天才につながったのではないでしょうか。
ぴーち おはようございます!
一つ疑問なんですが、
これまでの非情な采配ぶりにより
平家は恨みを買われても当然の事だとは存じますが、
頼朝も義経も一度は清盛に命を助けられた身の上。
その恩義は、一度も感じることが無かったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 生命を助けられたといっても、父親や兄弟を殺されていますからね。
やはり「恨み」の方が上だったと思われます。
ただし、頼朝は処刑を免れるきっかけになった池禅尼の直系となる平家一族だけは保護していますね。
義経ジンギスカン説。
晴雨堂ミカエル 判官びいきと、戦術が似ている事から、義経ジンギスカン説が真しやかに根付いていますが、この寓話の出どころは御存知ですか?
現実問題、仮に義経が蒙古へ逃れたとしても、あの戦バカでは大帝国樹立は無理でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ジンギスカン説の出どころまでは残念ながら存じ上げませんが、確かにありえない話ですね。
義経とジンギスカンとでは性格が違いすぎますし。
ところが、ここでも義経が自慢(じまん)のスピードで奇襲をかけてきました。1185年2月、義経は嵐(あらし)の中を少数精鋭(しょうすうせいえい、人数は少ないが優れた者だけをそろえること)の騎馬武者(きばむしゃ)とともに荒海(あらうみ)を馬ごと船出しました。通常なら難破(なんぱ)してもおかしくないのですが、歴史の神様を味方につけた義経は、嵐を追い風に極めて短時間で上陸を果たすことができました。
上陸した義経軍は、海岸伝(づた)いに浅瀬を馬で渡って屋島の背後に回り、安徳天皇がおられた御所(ごしょ)を急襲しました。またしても義経に不意をつかれた平家は、天皇を死守するためにも逃げる以外に選択肢(せんたくし)がなく、結局屋島も放棄せざるを得なかったのです。なお、この戦闘は屋島の戦いと呼ばれています。
ちなみに、源氏の武者である那須与一(なすのよいち)が、平家が所有する船に立てられた日の丸が描かれた扇(おうぎ)の要(かなめ)を見事に射抜(いぬ)いたという平家物語の有名なエピソードはこの際のものです。このエピソードこそが、後の平家の運命を物語っていたように思われてなりません。





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晴雨堂ミカエル 義経は与一に向かって「当たるわけないやろう」と小バカにしたらしいですね。
それでムッとして見事あてたらしいですが、ついでに扇をもっていた美女も射殺したとか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、物語の背景にはそんなブラックな面もあったんですか。
美女の射殺から壇ノ浦の奇策も読めたかもしれませんね。
義経の存在
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
冷静に考えると
平家の戦略は、全く、間違ってないですね。
まさに「勝利の方程式」だったと思います。
平家が弱いのではなく、
「源義経」の戦術が、誰も考えつかない
「まさか」の捨て身の戦術の連続だったんでしょうね。
これは、仮説ですが、
源義経のこの戦術は、彼の能力もさることながら
「自分の身は、どうなってもいいから、平家だけは、何があっても倒したい。」という積年の執念を感じます。
逆に言えば、義経のゴールは、『平家打倒。』
だったのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、平家の戦略はオーソドックスであり、決して間違っておりません。
義経の執念深さには脱帽ですね。それだけに、平家を倒したことで「燃え尽きた」のかもしれません。
ぴーち おはようございます!
人間、何が怖いと言っても
死をも恐れぬ捨て身の行動に出ることが
一番怖いですよね。
どんな手を使っても相手を倒してやろうと
する気持は、スポーツにも似ているように
思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、スポーツにおける「執念」には凄まじいものがありますよね。
ましてや命がけとなれば、義経の凄みを感じることができるようです。
それに比べ、本格的な海戦の経験のない源氏の不利は大きく、さすがの義経も苦戦するかと思われたのですが、いざフタを開けてみれば義経の完勝で終わりました。1185年3月に行われたこの戦闘は壇ノ浦の戦いと呼ばれていますが、なぜ義経は未経験の海戦で勝つことができたのでしょうか。
実は、義経は平家の軍船の操縦者(そうじゅうしゃ)をことごとく射殺(しゃさつ)することにより、敵の船を動けなくしてしまったのです。船の操縦者は殺してはいけない、というよりそもそも戦いに参加していないというそれまでの常識を打ち破る、まさに「コロンブスの卵」的な義経の柔軟(じゅうなん)な発想でした。
船が動かなくては勝てるはずがありません。平家側の武将も奮戦(ふんせん)して一時は義経を追いつめ、この際に義経が八艘(はっそう)飛びで難を逃(のが)れるという場面もありましたが最終的には敗北し、あれほどの栄華(えいが)を誇(ほこ)った平家にも最期の時がやって来ようとしていました。





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オバrev 本来なら平家圧倒的有利な戦いだったはずなのに、それをものともしない義経のしたたかさには驚きです。
まあ、有頂天になるのも分かりますね^_^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義経のしたたかさによる大勝利でしたね。
しかし、平家を倒して有頂天になったと同時に自分の役目が終わったことにまでは気づけなかったのでしょう。
もっとも、どんな人間にも予測不可能だとは思いますが。
ぴーち おはようございます!
コロンブスの卵ですか(笑)
確かに後から考えれば、そんな事誰でも
出来そうだと思う人もいらっしゃるでしょうが、類稀な発想力と未知の方法を
先陣切って行う事は相当な覚悟も居る事だったでしょうし、義経だからこそ、行えた事だったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、抜群の発想力と行動力を誇る義経だったからこそ可能だったと考えられますね。
それゆえに平家は何ら対抗策を打つことができずに滅亡し、義経もその独断専行な行動が理解されずに没落していくのが何とも言えないものを感じます。