白石や間部は家宣亡き後に4歳で跡を継いだ7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)にもそのまま仕えました。彼らによる政治を当時の代表的な元号から正徳の治(しょうとくのち)といいます。
ところで、家宣が跡を継いで真っ先に行ったことは生類憐みの令の廃止でした。一般的な歴史教科書には「廃止によって家宣が庶民の喝采(かっさい)を呼んだ」と書かれていることが多いですが、確かに食生活などにおける不満は高かったものの、20年以上に及んだ法令で世の中の価値観が一変したことで、その役目を終えたからこその廃止ともいうべきかもしれません。
さて、朱子学者であった白石は、文治政治をさらに推し進めるとともに、儒教の精神に基づく道徳論や権威に従って様々な政策を行いましたが、その結果は明暗がはっきりと分かれるものでした。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 明暗がはっきり分かれるものだったを
もう少し具体的に説明してくれませんか
しかし、ここの記事を読むだけでも本を読む手間が省けますね
まぁ省けるというより深めることができますね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > 明暗がはっきり分かれるものだったを
> もう少し具体的に説明してくれませんか
正徳の治についてはあと2回更新の予定でして、明日(14日)の全部と明後日(15日)の前半で「明」を、明後日の後半で「暗」を紹介させていただくことになります。
> しかし、ここの記事を読むだけでも本を読む手間が省けますね
> まぁ省けるというより深めることができますね
有難うございます。これからも分かりやすさを心掛けたいと思います。
なおまゆ 新井白石は学者としても一流ですよね。
綱吉の業績を理解していたはずでしょうに・・。
後世の私達が誤解した原因が新井白石にあったなんて、残念ですね。
日本人精神を作った法令がたった一人の悪意によって歪められたことを残念に思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 新井白石は吉宗によって政界を追放された後に自伝を残しているんですが、その際に綱吉の治世を不当に貶めている箇所が見受けられます。そのような「白石史観」が後世の評価にそのままつながってしまっているのが、仰るとおり残念です。
白石は優秀な学者であったゆえに、自己の想定外や範囲外の業績が理解できなかった一面がありますね。
新たな宮家は当時の第113代東山天皇(ひがしやまてんのう)の子である直仁親王(なおひとしんのう)によって立てられ、閑院宮家(かんいんのみやけ)と呼ばれましたが、実は設置から約半世紀後に皇室の直系の血が絶えてしまい、閑院宮家から第119代の光格天皇(こうかくてんのう)が誕生しました。
そして、光格天皇の血統は現代の天皇陛下から秋篠宮文仁親王殿下(あきしののみやふみひとしんのうでんか)を通じて悠仁親王殿下(ひさひとしんのうでんか)までつながっています。
つまり、白石が閑院宮家の創設に助力したことによって、現代にも皇室の血統が脈々と受け継がれているのです。その意味においても、白石の功績は非常に大きいものがあったといえるでしょう。




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ぴーち こんにちは!
天皇家は半世紀後に一度途絶えていたのですか!
全く存じておりませんでした!
まあ、長い歴史の中ではそういう事があったのも
仕方が無かったとは言え、白石の功績が多大であったということだけは何故か埋もれてしまっているのが、なんとも可哀想に思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんです。新井白石が閑院宮家を創設していなかったら皇統の危機が現実となるところでした。
ただ、いつの世も人知れず危機を救った人物にはなかなかスポットライトが当たらないものですからね。
白石の場合は明暗の「暗」の部分も大きいですから余計かもしれません。
HANA子 しばらくです
確かに新井白石は明暗の暗の部分ばかりが目立ってる人のような気がします…
と思ったのですが、
よくよく思い返すと為政者ってのはすべからく、時には捏造されてまで明暗の「暗」の方ばかりがクローズアップされる存在でしたっけ
新井白石の「暗」といえば荻原重秀の全否定の結果起きたアレでしょうか?
HANA子さんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
仰るとおり、時の為政者は誤解を招く部分が多いですが、白石の場合は前任者を不当に評価した分、自業自得な一面がありますね(もっとも、今回の記事のように評価すべき部分もありますが)。
> 新井白石の「暗」といえば荻原重秀の全否定の結果起きたアレでしょうか?
鋭いですね(^^ゞ
明日(15日)をお楽しみに!
次に、朝鮮通信使に対するこれまでの待遇が丁重(ていちょう)過ぎたと感じていた白石は、家宣の将軍就任の慶賀を目的に新たな通信使が我が国に派遣されてきた際に、その処遇(しょぐう)を簡素化するとともに、それまでの朝鮮からの国書に「日本国大君殿下(たいくんでんか)」と書かれていたのを「日本国王」と改めさせました。
これらは、一国を代表する権力者である将軍の地位を明確にする意味が込められていましたが、同時に将軍と皇室との関係において、将軍家の地位を下げる結果ももたらしていました。なぜなら「国王」は「皇帝=天皇」よりも格下と考えることも可能だったからです。
さらに白石は「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げることは許されない」という儒教的な観点から、元禄小判を回収して金の含有率(がんゆうりつ)を元に戻した正徳小判(しょうとくこばん)を発行しましたが、貨幣の価値の上昇が必然的に物価の値下がりをもたらしたことで悪質なデフレーションを引き起こしてしまい、景気が悪化してしまいました。
優秀な朱子学者だった白石ゆえに、世の中の「生きた経済」が理解できなかったことによる失政でした。そして、このような「朱子学の考えを重視するゆえの経済の無知」は、この後も幕府が何度も繰り返すことになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
いわゆる白石という方は、砕けた言い方をさせて
いただくと「頭でっかちで融通が利かない」人間だった訳ですね。朱子学も時の流れで世の中の状況が変化したり、あるいは国の情勢が違ったりしているときに、その教えのまま無理にその時代に当てはめようとしても、どこかに必ず歪が生じてしまう事でしょしね。そういう事を無視し、自分の考えだけを押し通そうとした事で事態は悪化し、失政してしまったんですね。良かれと思った事でも、よく世間というものを知らずに行動を起こすと、たちまち命取りですね。
現代の政治家さんにも当てはまりそうな内容ですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、学問を究めた人間にありがちな「自分の考えが絶対」という発想が、時として生命取りになることが往々にしてありますし、そのような誤りがあるとして、その後の対応が明暗を分けると思います。江戸幕府の場合はどうだったのか…。これから検証していく必要があるでしょうね。
> 現代の政治家さんにも当てはまりそうな内容ですね(^^ゞ
私もそう思いますし、答えを出せる政治家こそが信頼に値することでしょう。
学者先生の将棋下手。
晴雨堂ミカエル そういえば、大河ドラマ「八代将軍吉宗」でしたか、佐藤慶氏が新井白石に扮していました。
朝鮮通信使を赤い束帯で迎え、いささか横柄な態度で接待の内容を変える旨を通告している場面がありました。
家康・秀忠親子が国交回復のために苦心して作り上げた外交方針を変更する訳ですが、白石の他の業績を鑑みるに、たぶん家康の深慮は考慮しなかったと思いますね。
「大君」にしても、練りに練られた絶妙な称号でした。
日本国内で「将軍」は最高主権者でも国際法上はただの一司令官、かといって中国相手に「皇帝」では態度を硬化させるし「国王」では屈辱外交、皇室に対しても「皇帝」では反幕府の口実になってしまうし、「国王」では諸外国に徳川氏は天皇家の臣下であることを認めてしまう。
白石という人間は、暗記は得意だが応用が利かない典型的な秀才バカですね。
先人が苦慮して編み出した方法の経緯や背景には全く無頓着、いまの政治家も反面教師にしてもらいたいものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 吉宗は私も見た覚えがあります。
学者としての「頭でっかち」が、家康が苦心して築き上げてきた外交をぐちゃぐちゃにしましたね。仰るとおりの無配慮無頓着がどれだけ国益を害してきたことか。決して昔話ではありません。