綱吉が将軍に就任した頃は、江戸をはじめとする全国でいわゆる「戦国の遺風(いふう)」が未(いま)だに残っており、至(いた)るところで血なまぐさい事件が起こるという殺伐(さつばつ)とした雰囲気(ふんいき)が、我が国全体における道徳心の低下をもたらすという有様(ありさま)でした。
そんな暗い世情(せじょう)を一掃(いっそう)するために、綱吉は先代将軍の家綱の頃からの文治政治を一層強めましたが、そのキーワードとなったのは、彼が生来(せいらい)好んでいた朱子学がもたらす道徳心でした。
綱吉は、まず武士に染(し)み付いた戦国時代の考え方を改めさせるため、1683年の代替わりの武家諸法度(ぶけしょはっと)において、冒頭(ぼうとう)の「弓馬(きゅうば)の道」を「忠孝(ちゅうこう)の道」に改めました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
綱吉と聞くとどうしても晩年の頃に制定された
「生類憐れみの令」が頭に浮かびます。
そして、民衆から悪政だと言われ、「犬公方」だとあだ名がついた事くらいしか存じておりませんでしたが、お若い頃は国の事を思い、治安を良くしていこうと、正義感を燃していたんですね。
今後の知られざる(詳しく知らないのは、私だけですがw)綱吉のお話を読ませてくださいね^^
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 就任の頃に世の中が乱れているとすれば、立て直すしかないですからね。
綱吉の政治とは果たしてどのようなものだったのか?
これからの展開にご期待下さい!
価値観
ろっぽん 価値観を変えるのは、現代でも難しいですからね
本当は師の教え黒でも白と教えられれば白すれば問題はおきないという長いものには巻かれろという考えは朱子学の大衆化だろう
武士のメンツがつぶされる立腹しすぐ切りすてる
そういう単細胞侍が多かったのだろう
世の中は現在も同じだが整理し論理的に考えないと危険極まらないものなんだ
右も左も単純な奴が多すぎる。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かに、現代にもつながる問題点が多そうですね。
綱吉の政治について、今後もじっくりと振り返ってみたいと思います。
次に綱吉は、武士だけでなく庶民(しょみん)に対しても「忠孝の道」を求めさせようとしましたが、その方法として、武士に対する武家諸法度のように法令を用(もち)いて庶民に道徳心を身につけさせようとしました。
1685年に「鳥類を銃で撃(う)ってはならない」というお触(ふ)れが出されると、以後も約20年間に渡って次々と新しい法令が追加されました。世にいう「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」の始まりです。なお、生類憐みの令とはそういう名前の法令が出されたわけではなく、約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。
ところで、生類憐みの令は「人間よりも犬を大切にする」法令であり、違反した者は厳(きび)しく罰(ばっ)せられたことで多数の死者を含む数十万人の罪人を出したとされ、それゆえに綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」という有難くもない別名で現代でも「暗君」と思われていることが多いですが、これらは本当のことなのでしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
私も今から出かけて参りますので早めにお邪魔させていただきました^^
なるほど、「生類憐れみの令」は一度に発布されたものではなく次第に増えていったものなんですね!
しかも135個もの法令があったとは、存じませんでした!
その当時、日本に生息する全ての動物に対しての法令だったのでしょうか(*_*;
すごい数です!
霊的な上下関係として人間と同等に動物を扱う(あるいは神様として扱ったりすると)と動物の方の魂が悲劇を生んでしまうとある有名霊能者が以前申しておりましたが。そういう意味で非常に違和感のある法令でしたね。
応援凸
生類あわれみの令
ろっぽん なんか綱吉は、祈祷師に凝っていて
その占いで前世、生類をことごとく殺めたので
子が生まれないと占われ、そういうことから生類あわれみの令を出したそうで
今でいう動物虐待法みたいなもので
後でうわさに尾がついたのであろう
ぴーちさんへ
黒田裕樹 生類憐みの令は135個の種類がありましたが、その影響は犬以外の多数の動物に及びました。
現代から見れば確かに違和感がありますが、我が国全体に何をもたらしたかということも考慮したうえで、今後の更新を続けたいと思います。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 祈祷師の件は僧の隆光がからんでいますが、生類憐みの令が出された当時、隆光はまだ綱吉に会っていませんし、江戸にもいませんでした。おそらくは俗説ではないかと思われます。
数多くの法令の中には、鳥類などを口にしてはいけないという食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは確かです。しかし、法令の底辺にあったのは、まぎれもなく「動物愛護」から「人命尊重」へとつながる確固たる綱吉の意思でした。
この当時は作業に使役(しえき)させる目的で牛や馬が飼われていましたが、年老いたり病気になったりすると動けるうちから追放して死なせることがよくありました。野ざらしにされて死んだ牛馬から発生した病原菌(びょうげんきん)が、その肉を食べた野犬が人々に噛(か)み付くなどして人間に伝染(でんせん)することで疫病(えきびょう)が広がることが多かったのです。
こうした伝染病を防止するためや、何よりも野犬化によって犬自身が被害を受ける前に保護しようという考えがあったからこそ、犬に関する様々な法令がつくられたのです。また、生類憐みの令では病気になった牛馬をきちんと療養(りょうよう)させることや、捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠(はたご)で面倒をみることなども義務付けています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
そうですか。
悪政だと思われていた「生類憐れみの令」も
綱吉の本意は、非常に自愛み満ちていた訳ですね。
時代が変わった後も、以前の時代の名残から
色々な柵を引きずり、それを正していこうとすると、時に強引な政策なとっていかなければなりませんし、なかなか軌道に乗るまでは批判も受けましょう。綱吉の政策もそんな世間の批難をもろに受けていた一人だったんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよ。
国や国民のためになる政治の実現のためには、時には心を鬼にしなければいけないこともあります。
綱吉の理想は達成されましたが、それが当たり前になることによって生類憐みの令の負の部分だけが残ってしまった。
綱吉の悪評を聞くたびに、政治家とは因果な商売だと思いますね。
大奥
ろっぽん 綱吉で思い出すのは、映画、大奥のモデルの将軍なことです。自分の愛妾を吉保にゆずり
ゆずってからもたびたび床を一緒したといいます。
そして吉保から甲斐の大名になるよう綱吉に床で懇願するよう頼まれたそうで それが実現したので
その後、大奥では同禽するときは2人の寝ずの見張り役をおき枕の夜のことを逐一報告させたそうですね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 映画の世界はあくまで映画ですからね。
実際の柳沢吉保は名君と呼ばれた人物だったようです。綱吉との信頼からくる蜜月関係を他人がねたんでの俗説かと思われます。思えば吉保も損な役回りですね。
ただし、後半の「一緒に夜を過ごして将軍におねだり」というのは本当のようですね(綱吉に限らず)。
生類憐みの令によって処罰(しょばつ)された例は、約20年間でわずか69件に過ぎません。しかも、処罰の対象者のうち3分の2に当たる46件は下級武士であり、町人や農民よりもはるかに多くなっています。
さらに69件のうち死罪になったのはたったの13件であり、流罪(るざい)も12件しかないのです。こうした現実は「多数の死者を含む数十万人の罪人」という伝説を信じ切っていた人々には耳を疑う話ではないでしょうか。
このように、現代においても多くの人々から誤解されている生類憐みの令ですが、実は我が国の歴史に輝かしい功績を残していることを皆さんはご存知でしょうか。キーワードとなるのは、現代の私たちに当たり前のように備わっている「ある精神」です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
「生類憐れみの令」で数十万人もの人が処罰されたという話でさえ、初耳です!
イヤですね。。こういう人間も居るんですから、
お恥ずかしい限りです(^^ゞ
それにしても、こういう歴史に置ける事実というのは、随分とオーバーな表現で書かれている事が多いように思います。
ある精神、、?
なんでしょう。国に輝かしい功績。単純に「動物愛護」の精神でしょうか・・・(単純過ぎるかなw)
応援凸
お疲れ様です
クラチー 昨日の大阪講演、お疲れ様です!
ど…どのようなお話が展開されたのか気になりますね…はらはら。
(・o・;)
日本史に疎い自分は、
「え!?生類憐みの令なんかで罪人増えるの!?」
という逆ビックリですね。
「蚊すら殺しちゃいけないのに、何で?」って思いましたが、やはり誤解でしたか。
犬将軍さんも可哀相なお方です…。
(;m;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、私も含めて人間は知らないことばかりですから。
少しずつ学習していければと私は思っております。
オーバーな表現が起きるとすれば、後世の人間が当事者の思いも理解せずに面白おかしく書き立てる際にありそうですね。
ぴーちさん、鋭いですね(^ω^)
詳細はこれから明らかにします。
クラチーさんへ
黒田裕樹 > 昨日の大阪講演、お疲れ様です!
> ど…どのようなお話が展開されたのか気になりますね…はらはら。
> (・o・;)
無事に終わりましたよ(^^)v
詳細の記事を近いうちにUPしますが、実はすでにYouTubeに…?
> 日本史に疎い自分は、
> 「え!?生類憐みの令なんかで罪人増えるの!?」
> という逆ビックリですね。
> 「蚊すら殺しちゃいけないのに、何で?」って思いましたが、やはり誤解でしたか。
> 犬将軍さんも可哀相なお方です…。
> (;m;)
全くその通りです。
誤解と曲解に満ちた評価はあんまりですよね(´・ω・`)
生類憐みの令
sigeru こんばんは。
生類憐みの令は、アメリカの禁酒法のように、その意図はいいけれど結局は悪法にならざるをえない法律だと思っていたのですが、実際は全然違ったんですね。
恥ずかしいことですが、初めて知りました。
sigeruさんへ
黒田裕樹 一方的な解釈が常識になっていますから、ご存じないのはご無理もないと思います。
綱吉公の名誉を早く回復したいですね。
そんな風習が、生類憐みの令によって綺麗(きれい)さっぱり一掃されてしまったのです。確かに人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には行き過ぎた問題がありましたが、年月の経過とともに骨の髄(ずい)にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要でした。
生類憐みの令の他に「劇薬」として知られているものに織田信長(おだのぶなが)の領地における「一銭斬り」がありますが、これはたとえ一銭であっても盗めば首が飛ぶというとんでもない内容でした。しかし、この法令があったお陰で信長の領地では夜道を女性が一人で歩けるほど安全になったという記録が残されています。信長の無茶な法令に比べれば、約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件しかなかった生類憐みの令の方がよほど人道的(じんどうてき)というべきでしょう。
江戸時代には落語の世界の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと一般に知られていますが、初期はむしろ全く逆でした。しかし、綱吉の出した法令がそれを180度転換し、生命を大切にするとともに相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、それが現代にまで続いているのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんわ^^
確かに劇薬は即効性がありますもんね^^
その代わり、本物の薬もそうですが、
劇的な効き目がある薬品程、その副作用(副反応)は同じくらい大きいものですが、この法案によって人々のその後の反発はどうだったのでしょうか・・(^_^;)
なおまゆ よくぞ書いて下さいました。この法令ほど誤解されているものはないんですよね。犬将軍などといわれている綱吉がかわいそうです。
この法令によって、『日本人らしさ』が熟成されることになったんですから、日本史上の画期というべき法令ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、綱吉による処方が「劇薬」であったがゆえに思いやりの精神が行き過ぎて「他人との争いは良くない」と考えるようことになったことや、他人を信用するあまり、それが国家レベルにまで高まることで「他国が攻めてくるはずがない」という予想もしなかった方向へと流れて言った一面があるとは思います。
とはいえ、その責任を綱吉にすべて押し付けるのは酷でしょう。日本人らしさを取り戻してくれた綱吉には本当に感謝ですね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 全くその通りです。
綱吉に感謝こそすれ、犬公方などと揶揄(やゆ)するのはもってのほかですね。
綱吉とセットで「悪人」とされている人物として側用人の柳沢吉保が知られていますが、吉保の本来の業務は老中からの意見をまとめて綱吉に報告し、意見をうかがうことであり、彼が私腹を肥(こ)やしていたというのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)です。
ところで、吉保のような側用人を置くというシステムは綱吉自身が考え出したものでした。家康の独断によって始まった江戸時代の政治は、2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)以後は老中が意見をまとめて将軍に決裁を依頼し、将軍が事実上何の意見も述べずに承認するという形式が続きました。天下が平穏(へいおん)に治まった頃には家柄(いえがら)や身分で政治を行ってもそれほど大きな問題にはならなかったのです。
しかし、世の中が変革を必要としているときは、その道に詳(くわ)しい者でないと政治を任せられませんから、たとえ身分が低くても優秀であれば登用したいのですが、従来の身分秩序を基本とした合議制ではどうにもなりません。そこで綱吉は、大老の堀田正俊が暗殺された後に、老中の上に側用人を置いて、彼をワンクッションとして将軍自身の意見が通るようにシステムを一新したのです。
このような天才的なシステムを考案できるというのも綱吉の有能な政治家としての一面ですね。さて「世の中が変革を必要としている」とたった今書きましたが、綱吉の治世の間には少なくとも2つの改革が必要でした。一つは生類憐みの令による武士や庶民の意識の変革でしたが、もう一つとは何だったのでしょうか。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
もう一つは何でしょう?(おっと、
自分で考えなきゃいけませんね(^^ゞ)
すみません、ここで10分考えてましたが、
全く分かりませんでしたm(_ _)m
江戸の経済に関係することかしら。←苦し紛れw
応援凸
封建時代
ろっぽん 現代は民主主義で国民が選挙で選ぶ代議員制ですね
と言っても有権者がよく勉強してなく単にイメージで選んでいて
ポピュリズムでセンテンスが短いスローガン的な物に騙され結局はテメラが選んで自分たちの首を絞めてる結果になりますね。(官さんは嫌いだけど、世論のいうこと・・・例えば浜岡原発を止めるということを取り上げたが、他の保守議員ではありえただろうか!ようは官さんを支えあうシステムを作ればいいだけじゃないのかな)
民主主義と言うのは1人1人よく勉強し議論をしあう世論を創りださないと真の民主主義は育たないと思う。
上にまかせている封建主義が楽である。
1人で考えうる範囲は決まっている
現在も封建時代も専門家(官僚)に任せるシステムができたのはこのころであろう
だいたい言いたいことを言わせてもらうと
社会科の先生は大半、質問攻めにするとゴニョゴニョとごまかされていた記憶ばかりである
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なかなか鋭いところをついておられますね(^^♪
次回(9日)以降の更新までお待ち下さいm(_ _)m
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり民主主義といえども万能ではなく、パフォーマンスその他によって民衆の支持を受けながら、実は大した政治を行えないことによって生じる衆愚政治などの様々な問題があります。
独裁的かつ前近代主義的といわれる封建政治ですが、今の世の中のように素早い決断力が求められる際には、かえって都合が良いこともありますね。
最後のお言葉、私も気を付けなければいけません。
こうした非常事態に、綱吉は経済に詳しかった勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)の荻原重秀(おぎわらしげひで)を抜擢(ばってき)して、彼に経済対策を一任しました。
重秀は綱吉の期待に応え、同じ一両でも金の含有率(がんゆうりつ)を従来の84%から57%に落とすことで貨幣(かへい)の量を増やし、従来の小判と同じ一両として引き換えることで、含有の金の量の差がそのまま幕府の収入につながるという、まさに一石二鳥(いっせきにちょう)の策で乗り切りました。なお、この時に発行された小判を元禄小判(げんろくこばん)といいます。
ところで、一般的な歴史教科書には「元禄小判の発行によって貨幣価値が下がったことで、物価が上昇してインフレーションとなり、庶民の生活に大きな打撃(だげき)を与えた」と書かれていますが、これは本当のことでしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
なるほど!金の含有率を下げて、貨幣の価値は従来の一両として引換れば、収益はあがる一方ですものね。
こうして後から言われてみれば、そんな事で・・・と思いますが、こういうアイディアを最初に考え出し、実行し成功した方というのは、偉人と称されるに値しますよね。
この考え方は、現代でも色々な分野で、生かされいているようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、誰しもが考え付かなかった発想を最初に行った人間が一番偉人ですね。
極論すれば真似はだれでもできるのですから。
江戸時代に考え付いたところもすごいと思います。
通貨の価値を下げること=発行を増やすこと、ですから、この考えはデフレ対策として今こそ実現すべきだと思います。
通貨増刷
ろっぽん このことは、この間、ビデオニュース(神保哲夫)に出てた学習院大岩田教授のとなえていたことで
震災復興のため20兆近いお金が必要です。
でも現在すでに80兆近い国債を発行していて
これ以上借金を増やせんと増税で乗り越えろという派と
みんなの党や小沢などがとなえてる日銀に債権、つまりお札を印刷してもらいデフレから脱却し円安にし、輸出をふやし
なおかつ復興資金をねん出すると岩田教授が唱えていました。
ただ日銀などがスーパーインフレを恐れてためらっているのだと
日本の国債は外国に売ってないからギリシャのような事態にはならないと国民の貯蓄が1千兆近くあり
バランスをよくみて増刷するならば
スーパーインフレになることはないと言ってました。
放射能に汚染された残土の除去、瓦礫の除去だけでも
百兆円近くかかるのです。前と同じ状態にするのでなく
さらに合理的改造をやるつもりでやらないと不完全になると言ってました。
オバrev 私の素人考えでも、貨幣価値が下がれば当然インフレになると思います。
後は需給関係で、需要が供給を上回ればインフレになるということは、農作物の凶作があったんですかね?
それか買い占めとかやっていたんですか??
基本的に平和な時代はデフレ経済が基調となると思いますけど・・・経済は嫁に任せているんでよく分かりません(^_^;)
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 私も基本的に岩田教授の考えに賛同します。
裏付けのないインフレはスタグフレーションの危険性が高いのでためらって当然ですが、我が国の底力を過小評価しすぎだと思います。
この時期に増税すればデフレが悪化して取り返しがつかなくなるでしょう。
オバrevさんへ
黒田裕樹 元禄時代にはインフレの傾向が確かにありましたが、問題はそのインフレが貨幣発行のみに原因があったのかということです。
「貨幣価値の下落=インフレ」という教科書的な考えが必ず正しいとは限りません。
詳しくは次回(10日)の更新をご覧下さい。
しかし、綱吉の治世の頃までにはインフラが一段落したことで次第に減税となり、人々の暮(く)らしに余裕が生まれ、その中から人々の多くが「遊び」を求めるようになり、ニーズに応える形で様々な文化が生まれました。この当時の文化を元禄文化(げんろくぶんか)といいます。
また、生活の余裕はそれまでの自給自足から消費経済、さらには貨幣経済の暮らしへと変化していったことで好景気をもたらし、結果として都市の人口が急増しましたが、それに見合うだけの物資がそろわず、供給(きょうきゅう)が追いつかなかったために物価が上昇してインフレーションが発生していたのです。
つまり、インフレの真の原因は物資の供給不足にあり、元禄小判とは直接の関係はありませんでした。また、仮にインフレで物価が上昇しても、景気が良ければ賃金(ちんぎん)なども一緒に上がりますから、庶民のダメージは大きくなかったどころか、全体の金回りが良くなったことによって生活の余裕がさらに生まれ、元禄文化が栄えたもう一つの原因となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
世の中が安定し、平和になってくると人口も増え、それ故に物資が無いのに、それを求める消費者、いわゆる供給が多ければ、確かに物価が上昇するのは当然ですよね。
元禄文化が花開いたのはそういう経緯だったんですね!
勉強になりましたm(_ _)m
応援凸
インフレの真の原因
ろっぽん インフレの真の原因は物資の供給不足にあり
とありましたが、これはどういうことでしょうか
もう少し詳しく説明していただけませんか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
物資の供給が追いつかなくなれば、需要と供給の関係から価格が上がるのは当然です。
そして、国や国民に体力があれば需要の増加に耐えられるだけの供給も伴いますから、物価の上昇は景気を刺激して、その結果文化も栄えるということですね(^^)v
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > インフレの真の原因は物資の供給不足にあり
> とありましたが、これはどういうことでしょうか
> もう少し詳しく説明していただけませんか。
大規模な戦乱が起きなくなった江戸時代は、結果として人口の増加をもたらしました。
人口が増加すれば、それだけ食糧や生活必需品などの物資も必要となりますが、それらを満たすだけの量はそう簡単にはそろえることができません。
その結果、物資が不足することで「需要超過=供給不足」となります。
需要と供給の関係からすれば、供給が不足すれば少ない商品を多くの人間で分け合うのですから、物の値段が上がっても人々は買い求めようとします。したがって、物価が上がる素地を作ることになります。
一方、供給が過剰となれば、人々は安くなければあえてその商品を買おうとはしません。したがって物の値段が下落する原因となるのです。
今回の場合は「需要超過」ですから物価が上がる原因となり、元禄小判の発効以前からインフレの傾向がありました。小判の発行後も引き続き物の値段は上がりましたが、いわゆる「ハイパーインフレ」レベルの値上がりではなく、本文にもあるように全体の金回りが良くなって景気を刺激して、物価の上昇に耐えられるだけの財力を保ったことで好景気が持続したのです。
ちなみに、この理論は戦後の高度経済成長にも同じことが言えます。
ろっぽん うーんなるほど!
①でもこれらの分析は鎖国時代、西洋の経済学理論が伝わらない状況化でも経済理論化が独自にわかったのですか?
②現代の歴史学者が分析した推理ですか
③金回りがよくなって自然解消したのですか
④ハイパーインフレと言うと世界史の1次大戦後のドイツの状況で、パンを買うために荷馬車にお札を積んでる口絵の写真を思い出すのですが、あの時のドイツと言うのは
大戦の戦後保障のために中央銀行がお札を増刷ために起こったのですよね
⑤生産が増え、物の値段が安くなり売れて金が出回り安定したのですが、現代でも読めない分析をやったと言うのは大したものだ。
⑥確かに、科学が入らなくても日本独自に平賀源内がエレキテルの模型を作ったりしています。そういった経済理論を考えだす。人物もいたのでしょうね
しかし、こういうように???を考えだすと勉強って面白いですね。
ろっぽんさんへ その2
黒田裕樹 私の愚考の末の意見として申し上げます。
①荻原重秀が西洋の意見を参考にしたという証拠を私は耳にしたことがありません。ただし、明日(11日)の重秀の証言は朱子学者の太宰春台が記録に残しており、重秀と反対の立場の人物が記録したという事実が信憑性を高めていると思います。
②村井淳志氏の著書を参考にしています。歴史学者というよりは、社会科教育に携われておられるといった方が良いかもしれません。もちろん、だからと言って村井氏の評価が下がるということはありません。
③④村井氏の研究によれば、それまで貯蓄を目的として小判を貯めていた富裕層が、元禄小判の流通で価値が半減する前に貯蓄から投資へと方針を転換したことでハイパーとは次元の異なる緩やかなインフレに転じたということです。高度経済成長の実態を検証すれば、同じことであると私も判断して本日の記事を更新しています。
⑤⑥鎖国状態に陥った我が国ですが、個人の才覚は決して引けを取らなかったと思います。西洋に先駆けて商品先物取引を行った堂島の米市場や、仰るとおりエレキテルを駆使した平賀源内、幕末にアームストロング砲をそのまま真似てつくった田中久重など、我が国の科学や経済学は西洋と決して引けを取らなかったのですから。
むしろ、江戸時代を暗黒の時代と一方的に決めつけている現代の史観に問題があると思います。
オバrev 緩やかなインフレは、理想的な経済状態ですよね。ただそれは何時までも維持できるものではなく、需要があれば自然と供給も増え、やがては供給過剰でデフレになる、なんてことにはならなかったんですか?
それにしても、江戸時代って大きな戦争がない平和な時代でしたから、その経済運営は、現代から見て物凄く参考になるんじゃないでしょうか。
なおまゆ 他の国家との外交がなく(ごくわずかありましたが)国内政治に没頭できた江戸時代はある意味幸福だったでしょうね。幕府は、直接には江戸と直轄領のみ運営していたのでしょうか?
全国各地には大名がいて統治していますよね。
全国的にいわゆる好景気がおきていたのでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 緩やかなインフレは、理想的な経済状態ですよね。ただそれは何時までも維持できるものではなく、需要があれば自然と供給も増え、やがては供給過剰でデフレになる、なんてことにはならなかったんですか?
仰るとおり、好景気はいつまでも続くものではありません。ただし、綱吉の治世においてはその終わり方があまりにも悲劇的なものでした…。
> それにしても、江戸時代って大きな戦争がない平和な時代でしたから、その経済運営は、現代から見て物凄く参考になるんじゃないでしょうか。
私もそう思います。歴史に学ぶ、という言葉の重みを感じますね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、内政のみの幕府政治は運営が楽だったと思います。もっとも、そのツケは後世に思いっきり払わされますが…。
この頃の藩は独立採算制でしたから、江戸幕府の政策とは直接の関係がありませんでした。ただし、元禄小判の発行による影響は全国共通なので、同じような景気であったと思われます。
これらの声に対し、荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫(がれき)であろうと一両の価値に変わりはない」と反論しましたが、重秀の考えは、瓦礫を紙切れに換(か)えれば私たちが普段から使用している紙幣(しへい)と全く同じことになります。
「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちとなっているのは政府の信用である」という思想が20世紀の経済学者であるイギリスのケインズによって世界中に広まりましたが、それより200年以上も早く実践(じっせん)していた重秀の先見性に対して、私たちはただただ脱帽(だつぼう)するばかりですね。
このように、綱吉が次々と打ち出した政策は人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改めるとともに、景気を良くして元禄文化の全盛をもたらしました。ところが、綱吉の治世の晩年になると、彼に責任を押し付けるにはあまりにも酷(こく)な「アクシデント」が立て続けに起きてしまったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確かに私たちが今使用している紙幣は最高1万円ですが、これが5万円、10万円札が今後出現したとしたら、たった1枚の紙切れでも10万円の価値とみなされる訳ですものね。
そして仰る通り、大昔の様に貨幣石として(今でも石のお金を使用している所もあるようですが)石を使用しても良い訳で、現代は石よりも軽く扱い安い紙が使い勝手の良さから考えても一番なんでしょうね。(勿論、他の様々な理由があるとは思いますが)
それにしても、重秀は素晴らしい先見性を持ちあわせていたのですね^^どんな生い立ちだったのか興味をそそられます。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、現代における紙幣が一番使い勝手が良さそうですね。政府の信用が紙切れ一枚に託されているという発想は画期的だったことでしょう。
重秀の先見性は素晴らしいですが、それゆえに当時の人々から理解できず、悲劇的な結末を迎えてしまうのは哀れでもあります。
天災はそれだけで終わりませんでした。4年後の1707年10月には元禄大地震を上回るマグニチュード8.6と推定される大地震が発生し、さらにその影響があったからか、49日後の1707年11月23日には富士山が大噴火を起こしてしまいました。
富士山の噴火によって周辺地域は壊滅的な打撃を受けて飢饉(ききん)が発生し、また大量の火山灰(かざんばい)が降り積もったことによって江戸も大きな被害を受けました。当時の大地震は宝永大地震(ほうえいおおじしん)、富士山の大噴火は宝永大噴火(ほうえいだいふんか)と呼ばれています。
立て続けに起きる大火事や天災などの不幸な偶然は、それまでの元禄文化の残像を吹き飛ばし、庶民はやり場のない怒りや悲しみを時の為政者(いせいしゃ)である綱吉にぶつけるようになり、また綱吉自身もショックが大きかったのか、約1年後の1709年1月に64歳でこの世を去ってしまいました。




いつも有難うございます。
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ろっぽん なるほど、為政者とみられたのか悪将軍と噂を立てられたもこのころですね。
まるで官さんみたいですね
現在はある意味、危険な状態ですね。独裁的カリスマ指導者が出てくる可能性がある
大阪の橋本知事並びに維新の会が出たように!
日本はアメリカ国債を400兆円近く保有してます。
そのうち300兆円くらいを売るなどして現金化すれば
復興経費は捻出できます。
でもことはマスコミでも言わないタブーになっています。
だから日本の運命はアメリカの運命でもあるのです。
なおまゆ 運が悪いとしか言いようがない将軍ですね。画期的な政策を立案、実行した業績は、吉宗など足元にも及ばない素晴らしいことなのに。
何故これほど誤解されてしまったのでしょうか?
歴史教育の歪み・・・・恐ろしいことです。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 政治不信が高まれば、現状を打破してくれそうなカリスマ的な指導者が現れることがよくあります。
ただし、その指導者が国益よりも「国民の人気取り」を優先した場合に、国の行く末を誤ってしまうということもよくありますね。
アメリカの国債の件は我が国最大のタブーといわれていますね。ただ、アメリカに頼らずとも、我が国の国力はそう捨てたものではないと私は思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 綱吉の政策への誤解は、次代の政治家である新井白石が、自己の政治をよく見せるために必要以上に綱吉の政治を不当に評価したことに始まります。
いわゆる「歴史の捏造」は、近現代史に限ったことではないんですよね。
ぴーち こんばんは!
やはりこの時も時の権力者に怒りの矛先が集中してしまったんですね(^_^;)
確か数年前のアメリカのハリケーンの時もブッシュ大統領に批難が集中し、オバマ政権にシフトチェンジした経緯がありますが、今回のこの震災でも、やはり槍玉に挙がる人は、ただ一人。
時代や国を越えて、やはりその時にその国を統辞していた人物が全て悪者にされてしまう運命は避けられないのでしょうかね・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、為政者としての運命というものがありますね。
ただ、それに打ち勝つだけの気力と実力が求められるのもまた政治家です。
それに耐えきれるだけの力が今の為政者にはあるでしょうか…。
オバrev 何と9年の間に大きな地震が2つと、富士山爆発に大火事多発とは、いくら名将軍でも批判されますよね。
でもその状況は現在の日本ともダブって見えてしまいます。
しかし大きな違いは、時の支配者の能力が全然違うということ? orz
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰ること、私もまったく同感です。
綱吉やこの後に登場する「ある有能な政治家」ですら対応しきれなかったのですから、いわんや…(´・ω・`)