改易の原因で一番多かったのは、跡継(あとつ)ぎが決まらないうちに大名が死亡してしまうという、いわゆる無嗣断絶(むしだんぜつ)でした。例えば、関ヶ原の戦いで西軍に属しながら裏切った小早川秀秋(こばやかわひであき)や、徳川家康の四男の松平忠吉(まつだいらただよし)らが無嗣断絶で改易となっています。
無嗣断絶は大名にとって深刻な問題でした。本来であれば大名が元気なうちに後継者を決めておくべきなのですが、例えば子供がいない大名が弟を養子に決めた後に実子が生まれた場合には、お家騒動の原因となって改易の口実を幕府に与えてしまいます。
また、人間はいつ死ぬかわかりませんから、万が一の場合に急いで跡継ぎを決めることができれば大名は助かるのですが、このような末期養子(まつごようし)の制度は幕府が一切認めていませんでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
これまた厳しい沙汰ですね。
当時は今のように寿命だとてさほど長くは
無かった事でしょうから、大名にとっては頭の痛い問題
だった事でしょう。
何故これほどまでに大名に対して厳しかったのでしょうか。幕府の絶対的権限を知らしめる為だけが理由だったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当初の江戸幕府にとっては、親藩・譜代・外様を問わず、各大名は「いずれ幕府を脅かす敵」であると認識していました。
そこで「謀反は芽の出ないうちに潰す」という考えと、取り潰した大名の領地を幕府の直轄とすることで実収入を増やすということ、また仰るとおり「幕府の絶対的権限を知らしめる」ためという一石三鳥を狙う目的で、次々と大名を改易処分にしたのです。
しかし、このようなことはやはり無理がありますから、幕府はいずれそのツケを支払わされることになるんですよね。詳しくは次回以降に紹介します。
御三卿
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
徳川吉宗の講座で、御三卿がインチキということは、わかりました。
大名にすると後継者がいないと断絶するからなのですね。
何というウルトラC。吉宗の権力欲の強さは、
テレビ番組とは、まったく、違いますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
絶対に潰れない御三卿は、それまでの大名制度のことを考えれば明らかなインチキです。
吉宗の権力欲の強さは凄まじいものがありますが、その報いは慶喜の際にしっかりと受けることになるのも皮肉ですね。
権力
ろっぽん ズート疑問でしたが
そんな後継ぎの問題、内政干渉では
この時代、各藩の藩侯も天皇と同じで飾りにしかすぎなないだそうですね。決めるのは老中で逆らえば暗殺、毒殺それは天皇も同じで(この国のかたちより)
日本は独裁者が生まれず飾りのトップが世の中に君臨している。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かに存在しますね。
合議制を好む我が国の風潮は、同時に独裁政治を極端なほど嫌います。
織田信長のように、我が国の独裁者はたいていの場合ろくな死に方をしません。
信長以外にも、歴史に埋もれた「暗殺された独裁者」は多数存在していることでしょう。
なおまゆ 保科正之、この政治家の名が刻まれた時代ですね。
現在、彼のような政治家がいれば日本はどれ程良い国になるでしょう。
江戸時代の政治家の白眉というべき名宰相ですね。
彼のことに触れられるのでしょうか?
楽しみにしています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 徳川将軍家の血を引いていながら名宰相に徹した保科正之の実直さと有能さは、政治家の鑑(かがみ)ですよね。
正之については6月2日に紹介する予定です。
しかし、だからといって武士が農民や町人として再出発することは至難(しなん)の業(わざ)ですし、何よりもプライドが許しません。かくして、大名の改易によって誕生した数十万人の牢人(ろうにん、別名を浪人)は、職にあぶれたまま失意の日々を送っていました。
活路を見出そうと思った多くの牢人たちが江戸などの大都市にやってきましたが、厳しい現状がそう簡単に変わるわけがありません。食いつめた牢人の中には、自分たちをこんな境遇に追い込んだのは政治のせいであると幕府を深く恨んだり、苦しい生活から盗賊などに身を落とす者もいたりして、社会不安が増大していきました。
追いつめられた牢人たちの不満が頂点に達しつつあったその時、一人の指導者によって大きな組織が出来上がるとともに、たまたま起きたひとつの出来事によって江戸幕府は崩壊(ほうかい)の危機を迎えようとしていました。




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ぴーち こんにちは!
今日の記事を読ませていただいて
いかに自分は今まで歴史について無頓着だったか改めて思わされた気がしました。
ただ漠然と戦国時代から江戸時代へ時代が
移ったという上辺だけの事実だけに気を取られていて、そこで実際に生きていた人たちの気持ちや、生活には全く気にもとめませんでした。
実際問題、戦国時代には常に必要とされていた侍たちは職を失った訳ですから、江戸時代の武士はどのようにその危機を乗り越えていったのかということをまずは知らなければ、江戸時代を語れないというものですよね(私は知りませんでしたが(^^ゞ)
また詳しく勉強させてくださいね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
歴史の流れを実感できない教わり方(あるいは教え方)では、今回のような牢人発生における様々な事情が理解できないのは無理もないと思います。
今後も「分かりやすい歴史」を目指しますので、よろしくお願いします。
浪人
ろっぽん その辺のことをコミック化してるのが「焼け野のわらび」なのです。
仙臺藩は戦国時代、覇権に次ぐ覇権でほぼ東北の太平洋岸を手中にしました。そうして沢山の兵をリストラさせるわけにゆかないので、新田開発隊として山岳部や沼の干拓をやらせました。実質、農民なんだけど武士という半士半農の身分の武士集団が2割いたと言われます。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 半士半農は八王子千人同心もそうですよね。
士農工商といっても身分の差は厳格ではなかった。これもまた時代ではありますが、記事の頃はまだまだ武士のプライドが高かったですから、結果的に「事件」が起こりそうになってしまいましたね。
由比正
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
いよいよ、登場ですね。
由比正雪ですね。
私が、興味深いのは、この乱に紀州徳川家が
関わっているという黒い噂です。
この乱の後、徳川頼宣は、江戸での滞在期間を
長くされました。
その後、紀州藩でもこの一件は、タブーとなりました。
もし、紀州徳川家が関わっているとすると
徳川吉宗の将軍就任の謀略を考えると
紀州藩は、昔から、天下を取りたかったんですね。
青田さんへ
黒田裕樹 徳川頼宣の話は有名ですね。
物語要素が強くなりますから今回は省略しますが、その後の徳川綱教と綱吉の娘の鶴姫との婚姻や吉宗のことを考えれば、あながち物語だけの世界ではないような気もします。
謀略
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
徳川頼宣、鶴姫、徳川吉宗の将軍擁立、御三卿の設立
と、証拠はないですが、どう考えても、おかしいですね?
『一番、得をした人間を疑え。』の鉄則から考えても。。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 吉宗に関しては、一昨年の第7回歴史講座で私も指摘しています。
証拠がない以上は想像の域を出ませんが…。
武士にとっての苦しみ
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
もう、ご存知かもしれませんが
10月に市川海老蔵主演で、『一命』という映画が全国で、上映されます。
これは、『切腹』という映画のリメイクなのですが、
取り潰しになり、江戸に出てきた浪人が、狂言切腹をするために井伊家に行き、本当に切腹させられるという封建制度の残酷さを描いた映画です。
この時代、カネに困った浪人は、狂言切腹という話は、本当なのでしょうか。
もし、この話が本当なら、江戸幕府による平和の政治というのは、農民だけではなく、武士にとっても苦しい時代だったんですね。
<取り潰された大名の数>
家康時代・・104家
秀忠時代・・54家
家光時代・・48家
家綱時代・・17家
綱吉時代・・27家
家宣~家茂時代・・・16家
家康時代は、仕方ないとしても、秀忠。家光時代も大名の取り潰しが多かったのですね。
綱吉時代も家綱時代よりも増えているのに、少し、驚きました。
【取り潰された大名の家臣】
・ 江戸に出て、傘貼りなどの内職で、食べるしかない。
・ 他の大名に仕官しようとしても、平和な時代なので、武芸が出来ても仕官できない。
【通常の武士】
・ 石高が決まっているので、米の価値が下がるとそのまま、収入が減る。
役職は、石高で決まるので、なかなか、出世できない。
江戸時代というのは、農民にとって、苦しい時代のイメージがありましたが、実際は、武士にとっても苦しい時代だったんですね。
江戸時代は、280年も平和な時代が続いたと言われますが、よく、由比正雪の乱レベルで、おさまった思います。
ただ、江戸時代の文化の担い手のほとんどが、町人であることを考えると、町人のほうが、自由度があり、楽しい社会だったのでしょうね。
青田さんへ その3
黒田裕樹 確かに江戸時代は町人の方が生き生きとしていたというイメージがあります。
身分やプライドが高くとも、武士の生活は困窮する一方でしたからね。
平和な生活は、武士の存在を無意味なものにしてしまいました。
しかしながら、水面下でプライドを守りつつ懸命に鍛錬に励んだか、身分の違いから武士にあこがれて、純粋に武士としての修練を積んだ人々によって、幕末の混乱期にも武力が存在したのもまた事実です。
新将軍はまだ少年である―。これを絶好の機会であると見なし、幕府を倒して牢人を救済しようと行動を開始した男がいました。その名を由井正雪(ゆいしょうせつ、別名を由比正雪=読みは同じ)といいます。
正雪は江戸を焼き討ちし、幕府が動揺(どうよう)している間に江戸城を乗っ取り、同時に大坂や京都でも一揆をおこして天下を混乱に陥(おとしい)れようとしましたが、計画が事前に幕府に漏(も)れてしまったことで未遂(みすい)に終わり、1651年7月に正雪は自害しました。この事件は当時の元号から慶安の変(けいあんのへん、または由井正雪の乱)と呼ばれています。
正雪の計画は失敗しましたが、あわや幕府転覆(てんぷく)かという事態が現実になりそうだったということは、幕府に大きな衝撃(しょうげき)を与えました。そして、この事件をきっかけに幕府はそれまでの武力で世の中を支配するとした武断政治(ぶだんせいじ)の方針を大きく変更することになるのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、平和である時は確かに武力はかえって無用の長物になってしまうのでしょうけれど、平和な時ばかりが続くとは限りませんし、いざこういう事件が起こったりした時は、備えあれば、憂いなし。
盾ばかり備えていても、すぐに負けてしまいますものね。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、平和な時代はいつまでも続くとは限りません。
幕府は慶安の変が起きてしまったことを反省し、その原因を食い止める方法を考えるようになりました。
詳しくは次回に紹介しますので、どうぞご期待下さい。
髭と茶筅髷。
晴雨堂ミカエル 時代劇によりますが、この頃から髭を蓄えた武将や茶筅髷の武将が姿を消し、座り方も胡坐だったのが正座に変わっていきます。
髭については昔NHKで放送されていたクイズ番組で、戦国の威風を払拭させるために髭を剃る事を強制したという話を聞いた事があります。
茶筅髷も、時代物の劇画で「茶筅髷禁止令」という作品があり、そこでも髭剃りと同じ理由で禁止になったとありました。
正座については、単に畳が普及しただけと思いますが、正座をすることで脚を痺れさせ自由を奪うという意図があったのでは、と勘繰ったりもします。
黒田氏はどう見ていますか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 形から入る、という意味を考えれば仰る一面があったと私も思います。
ただ、精神的なものまでにはなかなか至りませんから、別の荒療治も必要だったのではと考えております。
荒療治についてはもうしばらく後に出てきますね。
ろっぽん 横山光輝の伊賀の影丸にも出てきますね
倒幕という芽はこのころから存在していたんですね
たしか周五郎のモミの木は残ったにも
原田甲斐が船宿で外様の倒幕の密談をするシーンがありましたね
いつ何時、火種が爆発するかわからんものですからね
よく300年近くもったものだと思います。
世界的にまれでしょうね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、倒幕の目は早くから出ていたようですが、安定政権といえども打倒の勢力は地下に潜んで機会をうかがい続けることも多いですね。
幕府自体が弱体化して、世間から見放されそうだと分かった際に、地下に潜っていたのが一気に噴き出したともいえるかもしれません。
オバrev 由井正雪の名は、学校で日本史を学ぶ前から知っていました。それは少年サンデーに連載された横山光輝の「伊賀の影丸」第二部の「由井正雪の巻」を読んでいたからです。
由井正雪の乱で自害してさらされていた首が、実はニセモノだったということから、伊賀忍者と由井正雪を守る忍者達の忍術の掛け合いによる、息もつかせぬ戦いが繰り広げられます。
この時の私のお気に入りの忍者は、全盲の忍者左近丸。他の伊賀忍者を惑わす由井正雪側忍者の幻術を鮮やかに破ります。
な、懐かしいが、年がバレる?^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 「伊賀の影丸」ですか。残念ながら私は未見なんですよ。オバrevさんとはそんなに年が離れていないはずなんですが…?
由井正雪は作品によっては悪役になったり、ヒーローになっていたりしますね。未遂で終わった分、想像を膨らましやすいのかもしれません。
やがて成人した家綱は、1663年に代替わりの武家諸法度(ぶけしょはっと)を発布(はっぷ)した際に、大名が死亡した後の家臣の殉死(じゅんし)を禁止しました。これは、大名と家臣との関係は一代限りでなく、跡を継いだ主人に対してもこれまでどおり奉公(ほうこう)しなければならないという、主君に忠誠を誓う朱子学の概念にも由来した幕府の意思を示していました。
こうした幕府の政治姿勢は、それまでの武断政治から平和的な秩序の確立を目指す文治政治(ぶんちせいじ)へと大きく転換させることになり、家綱の次の将軍の治世(ちせい)で大きく花開くことになるのです。
なお、家綱は全国の大名に対して領地宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給して将軍の権威を確認したり、幕府の直轄領において大規模な検地を行うことで収入の安定化を図ったりしています。また、末期養子の禁の緩和によって上杉謙信(うえすぎけんしん)ゆかりの米沢藩(よねざわはん)が改易を免(まぬが)れていますが、この際に末期養子となった上杉綱憲(うえすぎつなのり)は、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で有名な吉良上野介(きらこうずけのすけ)の子です。




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ぴーち こんにちは!
一代限りではなく、跡を継いだ主君にもこれまで通りに奉仕するという考え方も忠誠心なんですね。
昔、エジプトの王家では王様が亡くなると、
そこへ仕えていた全ての家来も家族も一緒に
葬られたそうですが、(と、私は聞いていたのですが)そういったやり方で忠誠心を捧げるよりも、ずっと人間らしい奉仕の仕方だと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 エジプトのような制度は古代の我が国でも行われていたようですが、その後は生身の人間の代わりに素焼にした人形を一緒に葬るように変更になったと考えられています。
いわゆる「埴輪(はにわ)」のことですね。
家綱の治世において正之は様々な政策を実行しました。幕府が大名の重臣(じゅうしん)の子弟を人質にとって江戸に住まわせる大名証人制度(だいみょうしょうにんせいど)を廃止したのも正之ですし、江戸の水源不足を補(おぎな)うために引かれた玉川上水(たまがわじょうすい)は、施設の一部が21世紀の現代でも使用され続けるほど完成度の高いものとして有名です。
また、1657年に江戸の町を焼き尽くした明暦の大火(めいれきのたいか)によって、壮大(そうだい)な江戸城の天守閣(てんしゅかく)が焼け落ちましたが、天下泰平(てんかたいへい)の世に天守閣は不要として再建しないことを決め、代わりに江戸の道路を広げるなど都市機能の復興に全力を挙げました。
正之の子孫は松平氏を名乗り、会津藩主として幕府を支え続けました。幕末に京都守護職(きょうとしゅごしょく)の重責を担(にな)い、新選組(しんせんぐみ)を率(ひき)いて滅(ほろ)びゆく幕府を懸命に守った松平容保(まつだいらかたもり)も会津藩主(ただし、徳川家の血を引いてはいるものの、系統上は養子)です。




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なおまゆ 謹直な恐妻家の秀忠唯一の浮気(ちょっと意味が違いますが)が江戸を救ったのですね。個人的には、保科正之は大好きな政治家です。
振袖火事の時の奮迅ぶりは凄いですね。
現代政治家に見習って欲しい。切に願っています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、秀忠が恐妻家だったことで正之の運命が変転した分、幕府と我が国を救ったことになりますね。
「私」を捨て「公」のために政策を全うした正之は政治家の鑑です。
不信任案を突き付けられた某首相も、国家と国民の命運を託されていることをもっと自覚してほしいものですが…。
大名承認制度
ろっぽん ※大名承認制度=ズート続いてたのではないのですか?
よく何何藩屋敷というように江戸時代恒常的に続いてたのではないのですか?
※玉川上水のアイデアを出した人物と記されていますが
あの当時の土木技術、測量技術といっていいかも知れませんが、
当地にも伊豆の堰用水という灌漑用水の堀(中規模の河川)が流れているけど。こういう堀の場合、高低を測る技術がないと作れませんが、なんかオランダの土木技術を学んだだそうですね?
それから機械のない時代に人力での掘削の根気は驚きますね。当然、政之はそういう技術者でなくだれか専門家がいたのでしょう。
ぴーち こんばんは!
この頃の時代の上水道の技術力が今の日本の
水事情を豊かにしてくれていると思うと
本当に先人の一方ならなぬご苦労に頭が下がる思いがします。
ミネラルウォーターのボトル水よりも、安全で
蛇口をひねるとすぐに飲める日本の水道水の良さを
改めて再確認していきたいものですね。
凸
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 大名証人制度とは大名の家臣の子弟を幕府に人質として差し出す制度であり、正之はこれを廃止しましたが、大名の妻子を江戸に住まわせたこととはまた別の問題でした。なお、このあたりが本文上でも分かりにくかったので修正させていただいております。
玉川上水については、実際に施工した玉川兄弟の技術力の賜物だといえるでしょう。難工事の克服も幕府の後ろ盾があってこそであり、その意味においても正之の存在は大きかったと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、先人の技術力の素晴らしさが私たちの今の便利で快適な暮らしを支えていますからね。
水道水の有難みは断水の時に思い知ることが多いですが、普段からも感謝の気持ちを忘れないでいたいものです。