幕府は長崎を窓口として、オランダから中国産の生糸や砂糖、あるいは欧州産の毛織物などの様々な貿易品を輸入するとともに、オランダ船が入港するたびに商館長(=カピタン)が長崎奉行を通じて提出したオランダ風説書(ふうせつがき)によって、幕府が独占的に海外の情報を得ました。
この頃までに中国では漢民族の明(みん)が滅んで満州(まんしゅう)民族が清(しん)を建国すると、清国の私貿易船が我が国に来航するようになり、貿易額は年々増加しました。当時の我が国は貿易の代金を金銀で支払っていましたが、貿易額の増加は金銀の流出をもたらしたため、やがて幕府は1685年にオランダや清からの輸入額を制限し、1688年には清船の来航を年間70隻(せき)に限定しました。
また同じ1688年には、それまで長崎領内で自由に雑居(ざっきょ)していた清国人の居住地を限定するために唐人屋敷(とうじんやしき)の建設を開始し、翌1689年に完成しました。




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ぴーち こんにちは!
オランダもなかなか強かだった様ですね。
布教活動よりも、貿易を重要したということは、当時の日本との貿易には相当な価値があったのでしょうか。
カピタンと聞いて、私はマーチの王と呼ばれたスーザの「エル・カピタン」という行進曲を吹奏楽部で演奏していたので、思い出しました(^^ゞ
意味は全然違いますけれど(^_^;)
凸応援!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > オランダもなかなか強かだった様ですね。
> 布教活動よりも、貿易を重要したということは、当時の日本との貿易には相当な価値があったのでしょうか。
数あるヨーロッパ諸国の中で、我が国と直接取引できる唯一の国でしたからね。
相当な「うまみ」があったことに間違いはありません。
> カピタンと聞いて、私はマーチの王と呼ばれたスーザの「エル・カピタン」という行進曲を吹奏楽部で演奏していたので、思い出しました(^^ゞ
> 意味は全然違いますけれど(^_^;)
英語に直せば「captain」ですからね。
色々な意味があります(^^♪
このころは
ろっぽん 琉球=沖縄は琉球王朝なんですよね
幕末に薩摩が植民地化して薩摩に帰属したんですよね 逆説の日本史にも書いていましたが、
薩摩は日本の最南端で幕府の目が届かず
軍事力を蓄積しそれが統幕という結果になったと
仙臺藩だって、黒潮と寒流の合流する金華山沖の石巻をかかえアメリカ、ロシアの捕鯨船がよく難破してきたんですよ。もしも幕府の目が届かなかったらサンフランシスコに直線距離で一番近い、石巻が外国との貿易が栄えたかも
わからんのですが、外様の意識も鎖国に同意してたんですかね?
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 琉球については仰るとおりですね。近日中に私の講座でも紹介します。
仙台藩の場合は、政宗はともかく伊達騒動の影響などもあって、幕府に対して従順な態度を取り続けたがゆえに、鎖国の状態を守っていたと考えられるような気がします。
家康から日朝の交渉を任(まか)された対馬(つしま)藩主の宗氏(そうし)によって、1607年に朝鮮使節が我が国に来訪し、1609年には朝鮮との間に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれました。
日朝貿易は宗氏に独占権が与えられ、貿易がもたらした利潤(りじゅん)によって宗氏は家臣との主従関係を結びました。領地の対馬が耕地に恵まれなかったこともあり、日朝貿易は対馬藩にとって文字どおり生命線だったのです。
1635年、幕府は日朝貿易を監視するために京都五山(ござん)の僧を対馬に派遣(はけん)しました。貿易は朝鮮が釜山(プサン)に設置した倭館(わかん)で盛んに行われましたが、金銀の流出を防ぐ目的で、オランダや清国と同様に1686年には幕府によって対馬藩の貿易額が制限されました。
なお、朝鮮からの使節はその後も幕府の将軍の代替わりの慶賀(けいが)を名目に続けられ、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)と呼ばれました。




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ぴーち こんばんは!
家康はどうして対馬藩に朝鮮との貿易を一任したのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 家康はどうして対馬藩に朝鮮との貿易を一任したのでしょうか。
対馬を治めていた宗氏は、戦国以前から地理的状況もあって朝鮮との付き合いが続いていました。
家康は朝鮮との国交を回復するにあたって、以前から付き合いの深い宗氏に一任することで成功しやすくなるようにと考えたのです。朝鮮と宗氏との貿易はいわばその報酬のようなものですね。
朝鮮
ろっぽん ユーチューブでみた動画なのですが、
現在も島民感情として同胞のような感じがあるんですね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > ユーチューブでみた動画なのですが、
> 現在も島民感情として同胞のような感じがあるんですね。
YouTubeの動画の内容は存じ上げないのですが、対馬としての島民感情の意味でしょうか。
最近では韓国が自国の領土と主張しつつあるようですが、れっきとした我が国の領土ですからね。
なおまゆ 日々の更新、素晴らしいですね。お忙しい中で時間を上手に使っておられるのですね。
竹島が韓国領となれば、次は、対馬?
韓国、中国、北朝鮮が外交の切り札と信じている、過去の捏造記事に謝罪する政府の愚かさが国土を狭くしていくのですね。北方領土もしかり。
どうどうと我が国の主権を発揮していただきたいものです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。何とか時間を作って更新を続けております(^^ゞ
領土問題は主張をやめれば終わりですからね。今後もずっと声を上げていくべきなのですが…。
薩摩藩は琉球を属領としながらも表向きは独立国として、当初は明、後には清を宗主国(そうしゅこく)とする朝貢関係(ちょうこうかんけい)を続けさせるとともに、中国との貿易で得た物資や琉球産の黒砂糖を薩摩へ納めさせました。
また、琉球は徳川将軍の代替わりごとに慶賀使(けいがし)を、琉球王の代替わりごとに謝恩使(しゃおんし)をそれぞれ幕府に派遣しましたが、これらはいずれも薩摩藩の指導によって異国風の服装や髪型、あるいは旗や楽器を用いることで、琉球人を異民族のように振(ふ)る舞(ま)わせる形式でした。
なお、薩摩藩によって琉球の対中国貿易はその後も続けられ、藩の貴重な財源となったほか、後には貿易による輸入品を薩摩藩が長崎で売却するようになりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
私の理解不足でしたら、申し訳ありません。
何故、琉球をわざわざ異民族のように振舞わせたのでしょうか。
質問ばかりで恐縮ですが(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何故、琉球をわざわざ異民族のように振舞わせたのでしょうか。
薩摩藩は琉球を征服しましたが、清との関係や幕府への対応など、琉球を表向きは独立国に見せたほうが何かと都合が良いからです。いわゆる「大人の事情」というやつですね。
> 質問ばかりで恐縮ですが(^^ゞ
いえいえ、何でもご質問下さいね(^^)v
独立国として
ろっぽん 独立国としてあつかったのですね
うまいやりかたですね
民族のアイデティがつぶされると反発を招きますからね
日本なんて言うけど
東北、蝦夷、九州、クマソ、北海道、アイヌ
出雲族、曽我族などの様々な民族を朝鮮の覇権に敗れた百済が難民としてたどり着いたのが天皇一族で大和政権を作ったのが日本の原型だそうで
逆説の日本より
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、うまいやり方だと思います。
我が国の出自にも様々な説がありますね。うまくミックスして日本民族ができて、島国であるがゆえに他の侵略も受けなかった。色んな条件があって、現在の誇れるべき文化や国家が存在するのでしょう。これからも守っていきたいものです。
薩摩藩
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
幕府は、当初から、薩摩藩に甘かったように思えるのですが。。。
薩摩藩の琉球支配をさせると、当然、貿易で、儲けるのは、当然の成り行きだと思うからです。
外様大名の薩摩藩には、他の西国大名よりも、かなり、特別待遇のような気がします。
こういう姿勢が外様大名中の外様大名である薩摩藩が、幕末に主役になるキッカケになるでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当甘いですね。
これは幕府が薩摩藩を恐れていたので、アメを与えて統制しようとしたのかもしれません。
それに、薩摩藩が江戸から遠く離れているという地理的条件もあったでしょう。
また、設立当初の幕府は外交オンチではなかったので、琉球を支配下に置くことの重要性を理解していたとも思われます。
いずれにせよ、様々な思惑がありますね。
それまでの自由な取引から松前藩の独占となったことで、不利益を受けることになったアイヌの不満は次第に高まり、やがて1669年にシャクシャインが戦闘を行いました。これをシャクシャインの戦いといいます。
松前藩は近隣(きんりん)の津軽藩(つがるはん)の協力を得て戦いの鎮圧(ちんあつ)に成功すると、以後アイヌは松前藩に全面的に服従することになりました。なお、その後18世紀前半頃には、近江(おうみ、現在の滋賀県)の商人をはじめとする場所請負人(ばしょうけおいにん)が商場の経営を請け負うようになり、彼らからの運上金(うんじょうきん)が藩の財政を支えるようになりました。これを場所請負制(ばしょうけおいせい)といいます。
アイヌは和人商人に使われる立場となり、やがて交易をごまかされるなどの不利益を受けました。こうしたアイヌの人々の生活事情を改善しようとしたのが、18世紀後半に政治の実権を握(にぎ)った田沼意次(たぬまおきつぐ)だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この蝦夷地方のお話は、恥ずかしながら今まで全く存じませんでした(^_^;)
シャクシャインの戦いなどというのは、一度も習った記憶がありませんでしたので、今日はまた一つ勉強になりました。
元々日本の先住民族だと言われているアイヌ人はこの当時、戦いによって次第に虐げられて行った訳ですね。田沼意次がそれを救おうとした人物というのも、存じませんでした。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸時代はアイヌにとって受難続きでしたね。田沼意次による救済も、彼の失脚で絵に描いた餅に終わってしまいました。
ただ、明治になってからの同化政策が本当にアイヌのためになったかどうか、という点もありそうですね。
アイヌ
ろっぽん 昨日おきてがみにてURLを送信しました「チカップカムイ」を読んでいただけましたか
私はチカップカムイの資料調べする中でシャクシャインの乱を知りました
本当の経緯は、
1アイヌ同士の部族間の争いがあって
2函館の松前に調停を頼みに行ったシャクシャインの使いが本土のアイヌには免疫がないウィルス性の疾病にかかり死んだのを毒殺と誤解しシャクシャインと争いのあった部族も結束して松前と戦ったのが本当のようです。
ウィルスは例えば疱瘡などは平安時代に日本に渡ってきた。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう事情もあったのですか。
その後にアイヌが和人に服従したことを思えば、不幸な話ですね。
有難うございました。
よくぞ取り上げてくれました。
晴雨堂ミカエル 白土三平「カムイ伝」の主人公カムイの最期はシャクシャイン戦争でアイヌ側に立ち戦うのですが、映像化は無理でしょうな。
世間では知られていない田沼の先見性です。
田沼の事ですから、国境線の概念もあったでしょうね。盛んに探検を行わせていますし、海外の動静に敏感でしたから。
前後左右上下の相関を理解しない楽翁が高く評価されるのは理不尽です。
同化政策
ろっぽん 明治期の同化政策はアメリカのインデァンに対する考えを手本にしています。
松前藩、幕府はこのことを契機にアイヌのニシン場の保護などをしました。
薩摩の琉球のことにしても文化風俗の強制といったことがなかったのが江戸期で
アイヌの同化政策が朝鮮の同化政策に続き、
現在のいつまで文句をつけるということにつながってると思う。
文化、宗教、風俗の強制をやってしまうといつまでも
恨みが続くと思う。
明治期だって山縣有朋などは朝鮮をスイスのような中立国にしたらと考えていた人もいたんのです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
「徳川の血を引く高貴」や「朱子学」ばかりがもてはやされる江戸時代では、田沼意次のような人材は抹殺されてしまうのが悲しいですね。
いずれ通史でも詳しく紹介します。
ろっぽんさんへ その2
黒田裕樹 同化政策は、逆の立場になれば怒るのは当たり前ですからね。
ただ、どの国もつい最近までは(一部の国では現在でも)行われているのがまた歴史の常識ですし、難しいものです。
なおまゆ アイヌのことは全く知りませんでした。
田沼意次のこともです。
本当に勉強になり、楽しいものですね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
田沼意次ほど、現代の私たちに誤解されている政治家はいないと思います。
いずれ通史でも詳しく紹介しますし、茨木市の講座もYouTubeで公開したいですね。