理由の第1は、キリスト教(=カトリック)の問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教(いっしんきょう)であるキリスト教の性質から仏教や儒教(じゅきょう)との対立が深刻化(しんこくか)しており、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して幕府に反抗する可能性もありました。
しかし何よりも問題視されたのは、カトリックによる布教が秀吉の時代から続いていたイスパニアやポルトガルによる我が国侵略の野望と結びついていたことでした。また、同じキリスト教でもプロテスタントを信仰していたイギリスやオランダが、自国の貿易の利益を守るためにカトリックに潜(ひそ)む領土的野心を幕府に警告していたのも大きく影響しました。
1612年、幕府は直轄領(ちょっかつりょう)に禁教令を出すと、翌1613年には全国に拡大し、高山右近(たかやまうこん)ら信徒を国外へ追放するなどキリスト教への迫害(はくがい)を本格的に開始しました。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 仏教学者のひろやちさと氏の説ですが
砂漠の宗教のキリスト教やイスラム教
亜熱帯の湿原で生まれた仏教の違いは
キリスト教、イスラム教は「我に従え」
仏教はいいかげんで多様性を許す寛容性であると言ってます。
キリスト教が普及していれば日本人の考え方が変わっていたでしょうか
宗教は何も信じる信じないにかかわらず
風俗スタイルにかかわりがあると思います
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、風土によっても異なる宗教観が生まれるわけですね。
キリスト教については、我が国で解禁されてから長い間が経った現在においても信者の数が伸び悩んでいますから、大きな影響はなかったかもしれません。
とはいえ、当時の目前にある侵略への恐怖は大きかったと思います。
ぴーち こんばんは!
日本は仏教国であり、それ故に多神教国でもあるので、キリスト教の様に一神教が敬遠されてしまうのは、当然の事だったのでしょうね。
それでも、キリスト教以外の仏教の同一宗教を国民全員が信仰する国となれば、またこの国の考え方、方向性は変わっていたかもしれませんね。。
応援凸
なおまゆ 自然の恵みが豊かな日本での信仰。
荒涼とした砂漠で生まれた信仰。
自然に感謝し、共存してきた国に、自然を征服しようとした宗教は「合わない」と思っています。
神の名の下に人間に全てを従わせようとしたキリスト教は、世界中に広がりました。しかし、侵略、虐殺の末にです。
ここで、鎖国に踏み切った政府の判断が正解かどうか、まだ結果は出ていないのかもしれませんね。
尤も、日本ではイエスキリストもヤーヴェも八百万の神々の一人になってしまったでしょうね。
なにせ、「バントの神様」「トイレの神様」までいる国ですから。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本は仏教国であり、それ故に多神教国でもあるので、キリスト教の様に一神教が敬遠されてしまうのは、当然の事だったのでしょうね。
> それでも、キリスト教以外の仏教の同一宗教を国民全員が信仰する国となれば、またこの国の考え方、方向性は変わっていたかもしれませんね。。
確かにキリスト教は我が国の伝統になじまない一面がありましたが、それでもインカ帝国やアステカ帝国のように、カトリックを信仰した国民の「裏切り」で滅亡してしまう可能性があった以上、やはり幕府としては無視できなかったものと思われますね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、キリスト教は結果として我が国に広がったとは言い難くなっています。
「八百万の神」が定着した我が国では、一神教も「その他大勢」に過ぎないのでしょうね。ただ、それを当時の幕府に理解できなかったのかと追及するのは、侵略された国の多さを考えれば酷というものでしょうか。
オバrev 確かに、我が国侵略の野望があったとなれば、キリスト教迫害も、鎖国もやむを得ない策だったように思えますね。
この時の将軍は家忠?家光??
徳川家をメインに考えていたのか、日本国存続のことをメインに考えていたのか、どっちに重点があったんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 ご賛同くださって有難うございます。
我が国が「鎖国」の状態に向かうのは、家康の晩年から秀忠~家光にかけての頃です。今回の記事の禁教令はまだ家康が存命中の話ですね。
この当時は「徳川家の天下=我が国の平和」ですから、徳川家のための行動が、そのまま我が国の国益につながったと思います。
外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりすることによっても、結果的に大儲けにつながるというわけです。もちろん「輸出」の場合も理論的には同じです。
当時の貿易は、幕府だけではなく西国の大名も行っていました。大名が「おいしい」貿易を行って、その利益で強大な経済力と軍事力を持つことによって幕府に反逆するようになることを恐れたのです。
1616年、幕府は中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定すると、1624年には宣教師の活動と関係が深かったイスパニア船の来航を禁止しました。なお、1623年にはイギリスがオランダとの競争に敗れ、商館を閉じて撤退(てったい)していました。
さらに1633年には従来の朱印状の他に老中奉書(ろうじゅうほうしょ)という許可状を受けた奉書船(ほうしょせん)以外の日本商船の海外渡航を禁止し、1635年には日本人の海外渡航や在外日本人の帰国を全面的に禁止しました。また、この間に中国船の寄港を長崎に限定したほか、長崎に出島(でじま)を築(きず)いてポルトガル人を移動させ、日本人との接触(せっしょく)を制限しました。




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ぴーち こんばんは!
誰氏もお金儲けが出来るとなると、
手出しをしたくなるのは世の常ですものね。
そこで幕府としては、厳しく禁止したのですね。
そうなると、その法を犯してまでも、外国との貿易に関わろうとする大名も出て来るんじゃないでしょうか・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、禁止されればされるほどついつい手を出してしまうのが人間というものですからね。
有名なところでは、薩摩藩が琉球を通じて密貿易をしょっちゅう行っていたといわれています。
しかし、有馬氏が日向国延岡(ひゅうがのくにのべおか、現在の宮崎県延岡市付近)に領地替えとなり、幕府直轄(ちょっかつ)の天領(てんりょう)を経(へ)て松倉氏(まつくらし)が新たに藩主となりました。
藩主の松倉勝家(まつくらかついえ)は幕府に認められたいという意思もあったのか、キリシタンへの厳しい弾圧(だんあつ)を開始し、同時に農民への過酷(かこく)な年貢の取り立てを行いました。キリシタンから改宗しない者が雲仙岳(うんぜんだけ)の火口(かこう)に放り込まれたり、年貢を納められない農民が蓑(みの)でしばりあげられ、生きたまま火を付けられるという「蓑踊(みのおど)り」と呼ばれた拷問(ごうもん)を加えられたりしました。
また、同じくキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで処刑された後に唐津藩(からつはん)が領有していた肥後国天草(ひごのくにあまくさ、現在の天草諸島=あまくさしょとう)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは日々追いつめられていきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
島原の乱への経緯ですね。
それにしても、厳しい年貢の取立て
や、火山の火口へ放り込んだり、火を付けたりと随分と酷い仕打ちをしたものですね。
そんな余りにも非人道的な仕打ちに、
いくら改宗をさせる為とはいえ、恨みをかうのは当然の事だったようですね。
応援凸
つらい話です。
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この『島原の乱』に関しては、つらい気持ちになります。
というのも、
寺沢堅高、松倉勝家は、キリシタンの弾圧が本当に目的ではなく、年貢の厳しい取り立てをするために
キリシタンが多いことにこじつけて、厳しい圧政をしたからです。
反カトリックのオランダ商館長も辟易するほどの
拷問だったそうです。
私の記憶が正しければ、幕府にたいして、実質石高よりも、高い石高を幕府に申請したと聞いたことがあります。
これなら、『島原の乱』が起こるのは、当たり前だと思います。
それなのに、幕府は、この『島原の戦い』にたいして、断固とした態度に望みました。
一揆軍の37000人は、全滅です。
ただ、島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、
後に斬首となった。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみであり、
同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。
その後、天領になった領主は、石高の修正を訴えて、切腹し、乱から、30年経って、それが認められました。
この乱に参加した37000人の死は、願いが報われたのかもしれませんね。
幼児性
ろっぽん なんか面倒だから、国交を閉ざすという行為は
泣きべそかいて、部屋にカギをかける
少年や少女みたいでいくら植民地のおそれがあるといっても幼い政治姿勢だね。
今度の福島原発問題で1万5千トンもの放射能汚染水の海洋投棄だって考えが似ていますね
不平等条約が日露戦争で解決したので外交は力づくという姿勢と言う単純なナショナリズムが横行している。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 松倉氏はキリシタンを根絶やしにすることで幕府に認めてもらおうとしたのと、キリシタンの弾圧を年貢取立ての隠れ蓑にしようと考えたと思われますね。
仰るとおり、我が国では考えられないような過酷な仕打ちがやがて大きな事件を生み、そのツケは松倉氏もキッチリと払わされることになります。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、つらい話ですね。
これから詳しく内容を紹介することになりますので、よろしくお願いします。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大人の外交とは言い難い一面がありますね。
同じ鎖国をするにしてももっとやり方があったでしょうし、開国への転換ももっとうまくできたはず。
島国であるがゆえに、外交は得意でないのかもしれません。
通りすがり 拷問というか、もはや処刑の域ですなあ……。
通りすがりさんへ
黒田裕樹 > 拷問というか、もはや処刑の域ですなあ……。
そのとおりですね。完全に常識を逸脱しています。この後の展開が読めてしまいますね。
幕府ははじめ板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣(はけん)しましたがうまくいかず、板倉は翌1638年の元日に総攻撃をかけた後に討死(うちじに)しました。幕府は老中(ろうじゅう)の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で陸と海から原城を取り囲みました。
信綱はオランダに頼んで大砲を原城めがけて砲撃(ほうげき)しましたが、外国人の助けを借りることへの批判が高まってすぐに中止されました。しかし、原城に立てこもった一揆勢にとっては、頼りにしていたキリスト教(=カトリック)のポルトガルからの救援(きゅうえん)が来ないどころか、プロテスタントのオランダが攻撃を仕掛けてきたことで心理的に大きな影響を与えたのではないかと考えられています。
先の総攻撃で板倉など4,000人以上の死傷者(ししょうしゃ)を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻(ひょうろうぜ)めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬(だんやく)が尽きた一揆勢は苦しくなりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今でこそ、球界では助っ人外国人の存在は欠かせない存在ですが(^_^;)
ポルトガルはどうして、加勢してくれなかったのでしょうか・・
やはり外国は100%信用してはいけないと言う事実をこの戦いでは教訓としているのでしょうか。
応援凸
カトリックの思惑
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この『島原の乱』は、最初から、突発的に何の勝算もなく、起きたのではなく、
カトリックからの救援をあてにしていたのですね。
では、歴史のifとして、ポルトガル、スペインが
この一揆軍にたいして、救援軍を出兵したとしたら、歴史は、どう変わっていたでしょうか。
それにしても
なぜか、ポルトガル、スペインも秀吉の時代から
日本への出兵にたいしては、非常に消極的です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ポルトガルに関する詳しい経緯は不明ですが、考えられるとすれば当時のポルトガルはイスパニア(スペイン)スペインからの独立前夜で海外にまで目を向けられなかったことと、そのイスパニアもアルマダの海戦での敗北以後に勢力が衰えていたことが考えられます。
世界史を含めた流れで考えれば、当時の我が国をめぐる情勢も分かりやすいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 ポルトガルが仮に援軍を出していれば、それこそ国家の命運をかけた戦争になったでしょう。
しかしながら、この頃にはイスパニアもポルトガルの勢力が衰えていました。我が国においてはオランダの一人勝ちだったのです。
このあたりについてはまた詳しく紹介します。
しかし、信綱の動きを察(さっ)した佐賀藩(さがはん)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜(ぬ)け駆(が)けをしたために一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統(しきけいとう)が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を幕府は受けてしまいました。
一方の一揆勢も壊滅状態(かいめつじょうたい)となって天草四郎は討(う)ち取られるなど、ほとんどが殺害されました。こうして島原の乱はようやく鎮(しず)められましたが、幕府が受けたダメージはかなり大きなものがありました。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく大名としては異例の斬首刑(ざんしゅけい)に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自殺して寺沢家は御家断絶になりました。また抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けるなど、幕府による厳しい処置が目立ちました。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 乱といってあるが、戦争ではないのですね
一揆勢が防衛的武装をして、対抗した
江戸時代のころの一騎と違って天草らの大名+キリスタン農民の抗議行動を幕府が鎮圧(弾圧)したのが、現実でしょう。
あんまり教科書で教えていませんが、
江戸中期に松前でアイヌのシャクシャインの乱というのも起きていてやはり十万人規模の内地軍で
南部藩、仙臺藩が鎮圧しています。
疑問なのですが、なぜ弱いものいじめに十万単位で弾圧する必要があるのかと?だ
これは現代でも中東に米がやってる力の論理や中国のチベット弾圧しかりである。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かにこれは戦争級ですね。
島原の乱にしてもシャクシャインの戦いにしても、負けたほうからしてみれば確かに「弱い者いじめ」にしか見えませんが、逆に言えばそれだけ幕府は「強い」相手に負けることを恐れていたのでしょう。もし本当に弱い相手ならば兵力をもっと減らすことが可能でしたでしょうし。
我が国に限らず「勝者からの歴史」の視点は意見の分かれるところです。
ぴーち こんにちは!
天草四郎というカリスマ性を持つ人物を主導者にしたことで、求心力が高まり、より強力な勢力として幕府と戦ったのでしょうけれど、やはり到底、幕府の勢力には敵わなかったのですね。幕府もその威信を掛けての戦いであったからこそ、より厳しい処分が言い渡されたのでしょうけれど、これによってまた新たな報復が生まれはしなかったのでしょうか。。
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松平信綱
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、『島原の乱』が単なる弱い者いじめと思っていました。
しかし、時の老中の松平信綱が陣頭指揮を取り
幕府側の死者が1000人、負傷者が1万人というのは、単なる一揆鎮圧ではなく、戦いそものですね。
あるドラマで、松平信綱が
一揆側の心情的に同情しながら、『それでもしなければいけない。苦しい心情』を漏らすものがありました。
その証拠と言えるのが、松倉勝家、寺沢堅高に対する厳しい処分です。
通常、幕府がここまで、厳しい処分をするのは、異例中の異例です。
もし、松平信綱が、キリスト教を理解していたとしたら、一揆勢が死んで、天国に行けることが彼らにとっての幸福と考えたのは、考えすぎでしょうか。。(キリシタンは、自害を禁じられていたので)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の乱によって島原と天草にはほとんどの農民がいなくなってしまったため、諸藩から移住者を募りました。その後は基本的に善政が敷かれたため、大規模な反乱は起きなかったとされています。
住民が入れ替わってしまったことや、離島の多い天草では隠れキリシタンを探すのが困難であったことなども大きかったと思われます。
青田さんへ
黒田裕樹 「知恵伊豆」と評された松平信綱ですから、幕府のためが第一主義であっても、キリシタンに対する配慮はあったかもしれません。
と同時に、一揆勢をそれこそ根絶やしにしたことは、かつての信長がそうであったように反逆を封じるための「当然の手段」だったかもしれないですね。
賢者は歴史に学びます。
1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止して、カトリックを信仰する国とは国交を断絶することになりました。さらに2年後の1641年には、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人と日本人との自由な交流も禁止するなど、長崎奉行の厳しい監視が続けられました。
この結果、我が国と貿易などの交渉を行ったのは、同じキリスト教でもプロテスタントを信仰し、我が国でキリスト教の布教をしないと約束したオランダと、同じ東アジアの国でキリスト教とは無関係の中国・朝鮮・琉球のみとなり、厳しい統制下による制限貿易の様子は、まるで国を閉ざしたように見えることから、後に「鎖国(さこく)」と呼ばれるようになりました。
なお、幕府によるキリスト教の弾圧はその後も続けられ、先述した宗門改(しゅうもんあらた)めのほか、キリストやマリアの聖画像(せいがぞう)などを踏(ふ)ませる絵踏(えぶみ)を行ったり、キリシタンの密告を奨励(しょうれい)したりするなどの政策を行いました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ろっぽん 町田徹という政治学者がいるでしょう
その方のポットキャストで聞いたのですが
アメリカの遺伝子には英国というより、ピュリタントとして英国からオランダに渡り、一時、過ごしたオランダの思想がアメリカの遺伝子の基礎にあると言ってます。
当時のオランダの思想の根底に内政不干渉、多様性を認める思想があったものと思われます。
町田徹は意外と19世紀の基礎を築いたは、オランダと言ってますね。ある意味、オランダという選択はその後の日本文化にいい影響を与えたかも
しかし、ポルトガル、スペイン語は南米や東南アジアの一部の国など英語に次いで多いのに現在2等国家ですね。
週間現代の記事の受け売りですがリスボン地震で
多くの商船、港を津波で失ったためと書いてあったが、なんか日本もそうなる感じだ!
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時のオランダが我が国に与えて影響は大きそうですね。
地震の件は確かに不安ではありますが、国民と政治がしっかりしていれば必ずや再起できると確信しております。現在のところ、国民は心配ないと思いますが…。
ぴーち こんばんは!
やはり外国との交流には宗教が絡んで来るのは必須ですものね。
しかし、キリスト教を崇拝していない国であっても、違う要件でまた色々と問題が噴出して来ますものね。外国とのお付き合いは今も昔も大変ですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり外国との交流には宗教が絡んで来るのは必須ですものね。
> しかし、キリスト教を崇拝していない国であっても、違う要件でまた色々と問題が噴出して来ますものね。外国とのお付き合いは今も昔も大変ですね(^_^;)
外国との争いの原因となるのは宗教とは限らないですからね。
とにもかくにも、キリスト教の排除によって当時の我が国の外交問題はとりあえず一件落着となりました。
問題はこの後ですが…。
最初に考えられるのは、鎖国の状態に入った頃の我が国は戦国時代が終わったばかりで、数十万の兵士や鉄砲が未(いま)だに存在していたことでした。これだけの兵力や武器を所有している国は他にはなく、ヨーロッパ諸国といえどもそう簡単には攻められません。
また、この頃はヨーロッパ諸国において大きな変化があり、それまでのイスパニア(=スペイン)やポルトガルの国力が衰える一方で、新たにイギリスやオランダが勢力を伸ばしつつありましたが、両国はプロテスタントを信仰しており、カトリックと違って領土的野心を持っていなかったことも我が国には良い結果をもたらしました。
さらには当時の我が国が鉄砲の増産を可能とするなど先進的な文化を持っており、海外との結びつきがなくても自国だけで十分に経済や文化が発展できたことや、島国であるがゆえに海という「天然の防壁」が我が国の防衛力を高めていたことも考えられます。
しかしながら、これは同時にもし当時の我が国にとって「長所」となっていた様々な利点が失われてしまえば、我が国は一転して苦しい立場に追い込まれてしまうことも意味しました。そして、その心配は不幸にも約200年後に現実のものとなってしまうのです。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 私は俳句をたしなんでいますが
それまで文化的に中国の影響、大でしたが
鎖国時代に様々な日本固有の文化が生まれていますね
そういう点では、世界的にまれですね。
国粋主義者はやたらと日本日本という割には
そういう日本文化を理解してませんね
日本独特の文化を生んだ言うことがあえて言うなら鎖国のおかげだったかも知れませんね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、鎖国による最大のメリットは我が国固有の素晴らしい文化が江戸時代に生まれたことです。
その一方で、鎖国の状態を引っ張り続けたデメリットの底知れぬ大きさがあったのもまた事実です。
これから折に触れて紹介させていただくことになりますが、もっと早く自主的に開国していれば…。
ぴーち こんばんは!
なるほど!戦国時代というと、とかく暗くマイナス要素が強いイメージばかりしか思いつきませんでしたが、江戸時代にそれだけの武力を所有していれば、外国も警戒してうっかり手出しが出来なかったというメリットに変化したのですか(゜o゜;!。
この鎖国には色々な要素が味方してくれての実現だった訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、物事はまさに裏表で考えないといけないのです。
様々なメリットがあったゆえに可能であった「鎖国」の状態も、時の流れとともに無理が生じてくる。そんな当たり前のことが理解できなかった政治は果たしてどうなっていくのでしょうか…?
オバrev アジアで欧米列強による植民地化を免れた国といえば、日本以外にもタイがあります。島国でもないし、軍事力がそれほど優れていたとも思えないのですが、一体全体それは何故なんだろうと、不思議に思ってました。
日本と関係なさそうですが、その辺はどうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 タイの場合は、その地理的関係から各国の緩衝地帯となったことで植民地化を免れたという一面があります。
また、19世紀の帝国主義の頃には我が国と同じように列強から不平等条約を結ばされていますが、バランスの良い外交によって乗り切りました。
我が国とは間接的に関係が深いといえるかもしれませんね。