1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後(ぶんご、現在の大分)に漂着(ひょうちゃく)した際に、徳川家康はリーフデ号の航海士であるオランダ人のヤン=ヨーステンと、イギリス人の水先案内人(みずさきあんないにん、波や水深など湾や港特有の専門知識を持ち、出入りする船に乗り込んで安全に航行させる職種のこと)であるウィリアム=アダムスを江戸に招き、彼らを外交や貿易の顧問として両国との貿易を目指しました。
つまり、江戸時代の初期において家康は外国との貿易を積極的に行おうとしていたのです。ちなみにウィリアム=アダムスは日本名で三浦按針(みうらあんじん)、ヤン=ヨーステンは耶楊子(やようす)と呼ばれ、ヤン=ヨーステンが家康から与えられていた屋敷の場所は、彼の名前から現在の「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになりました。
なお、イギリスとオランダはほぼ同時期に東インド会社を設立し、東アジアに進出して東洋での貿易に乗り出しました。両国はカトリック(旧教)ではなくプロテスタント(新教)であったことや、イギリス人やオランダ人が紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていたという共通点がありました。




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ぴーち こんにちは!
スペインと言えば、つい先日、地震があったばかりで、世界規模で地震の恐怖に晒されていますね(*_*;
八重洲は、現在中央区の八重洲ですかね?
同じ名を残すのなら、地名に残るくらいの偉業を成し遂げてみたいですが(笑)
黒田さん、何処かにいかがですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そういえばスペインで地震がありましたね。最近は天変地異にすっかり敏感になってしまいました…。
仰るとおり、東京の八重洲です。地下街が有名ですね。
私の名前は…官兵衛さんが何とかしてくれませんかね(爆)。
ポルトガルも
ろっぽん 井沢元彦の逆説の日本史「鎖国の謎」を現在、読んでるのですが、家康、存命中はまだ鎖国してないんですね2代目のなんて言ったけ家茂だっけ
ともかく2代目のときからだってね
天草四朗の「島原の乱」がきっかけなんだってね
イスパニアやポルトガルはバテレンを利用して
日本を植民地化しようとしたため鎖国したそうですね、個人的、意見ですが、日本の外交下手も
鎖国時代から受け継いでいるような気がします。
しかし、「焼け野のわらび」を描くために司馬遼太郎の「この国のかたち」も読みましたが、
司馬遼太郎に比べると井沢はあまり資料を読まない、推理が多いね、まぁ乱歩賞作家だけど
自分としては同じ乱歩賞作家、火怨を書いた高橋克彦の方が好きですね、これをもとにして民話もヒントにして「猿嫁」という蝦夷の女房になった京の公家の娘の創作もしています。
三浦按針、その後の消息。
晴雨堂ミカエル 三浦按針のその息子までは判っていますが、それ以降の「三浦家」の消息は御存知ですか?
鎖国体制になって利用価値が下がり、御家取り潰しになってはすまいか気になっています。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康は決して鎖国主義者ではありませんでしたし、また2代目の秀忠以降も鎖国だけを意識して外交問題にあたったわけではありません。
このあたりはこれから考察してみたいと思います。
井沢氏は推理作家ならではの分析力の高さをお持ちであり、私は評価しております。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私も詳しくは存じ上げませんが、三浦按針は平戸から出られずに亡くなったようですので、確かに心配ですね。
家康はイスパニアとの交易にも積極的で、1609年に上総(かずさ、現在の千葉)に漂着したルソンの前総督ドン=ロドリゴを翌1610年に船で送還(そうかん)する際に、京都の商人であった田中勝介(たなかしょうすけ)らを同行させ、イスパニア領ノヴィスパン(=メキシコ)との通商を求めました。
また、仙台藩主の伊達政宗(だてまさむね)は1613年に家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をイスパニアに派遣してノヴィスパンで直接交易を開こうとしましたが、いずれも目的を果たすことはできませんでした。
なお、支倉常長の使節団は当時の年号から慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)と呼ばれています。また、田中勝介は後に帰国を果たし、太平洋を横断した最初の日本人とされています。




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ぴーち こんにちは!
何故、メキシコとの交渉は尽く目的を果たすこと無く終わってしまったのですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何故、メキシコとの交渉は尽く目的を果たすこと無く終わってしまったのですか?
田中勝介の場合は、メキシコ(というよりもイスパニア)の出した条件がキリスト教の布教だったため、家康が拒否しました。支倉常長の場合は、すでに我が国で禁教令が出されたため、幕府ににらまれるのを恐れた伊達政宗がかかわっている可能性もあるようですね。
サファンバウチスタ号
ろっぽん 伊達政宗はイスパニアの力を借りて日本の王になろうとしてたそうです。
それが実現しなくてよっかたと思います。
結局、伊達は傀儡政権になり日本は植民地化されていたでしょう。
でも一度も他国の植民地化しなったことは
島国根性から抜け出なかったことになるのでは?
今回の原発事故でもアメリカの原発推進の言うままになって推進して結果ですからね
ほんとうに日本の国を愛してるなら
放射能で汚さないことこそ愛国心でしょう
また原発行け行けということになるなら日本はダメになるね
日本史教育というのはほんと大切な教育です。
オバrev 最近の若い人の海外留学生が減ってきたらしいですけど、世界の状況もよく分からない400年前に、メキシコ?
しかも徒労に終わるとは(TдT)
それにしても無事到着できる確率はどのくらいだったんでしょうか(^_^;)
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 自分の欲のために国民を犠牲にする政治家は失格ですね。
他国からの侵略を一度も受けていないことは、仰るとおり島国根性の感情をもたらしましたが、侵略を受けた国の悲惨なその後のことを思えば、我が国にとってはよかったのではと思います。
原発の問題は非常に難しいですね。実用的な代替エネルギーの開発が望まれます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 当時の船の技術を思えば、渡航は命がけでしたからね。
それでも多くの人間が新たな世界を目指して次々と旅立っていきました。
田中勝介や支倉常長の場合は、相手がイスパニアで、我が国で禁止しようとしていたキリスト教がかかわっていたのが失敗の原因ですね。
恐るべき伊達政宗
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
支倉常長がヨーロッパに渡航した件ですが
凄い、疑問が残ります。
というのも、
徳川家にとって、伊達政宗は、危険人物であったはずです。
それなのに、伊達政宗の力をつけさせろうような
行為をよく、幕府は、許可しましたね。
外様大名としては、異例です。
青田さんへ
黒田裕樹 慶長遣欧使節については確かに家康が政宗に外交権を与えていますね。
それだけ伊達家の格が上だったのでしょうか。不思議な話ではあります。
当時の貿易の主な輸入品は中国産の生糸(きいと、別名を白糸=しらいと)でしたが、マカオを拠点(きょてん)とするポルトガル商人が生糸を長崎に持ち込んで巨利を得ていました。この事態を重く見た幕府は、1604年に糸割符制度(いとわっぷせいど)を設けて、糸割符仲間と呼ばれた京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヵ所商人(ごかしょしょうにん)に一括(いっかつ)して購入させることで生糸の価格を抑制(よくせい)しました。
ちなみに輸出品は、石見銀山(いわみぎんざん)や生野銀山(いくのぎんざん)などから当時の我が国で豊富に産出していた銀が中心であり、当時の我が国の銀の輸出高は、世界の銀の産出高の3分の1にも及びました。
朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジアの各地で数百人から数千人の日本人が日本町(にほんまち)をつくりました。また日本人の中には山田長政(やまだながまさ)のようにアユタヤ朝(アユタヤちょう、現在のタイ)の王室に重く用いられ、後に六昆(リゴール)の太守(たいしゅ、別名を長官)にまで出世した者も現れました。




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ぴーち こんにちは!
そうですか!
やはり日本人は外国へ移住してもそこでしっかりと
リーダーシップを発揮出来る優秀な国民なんですね^^
日本は資源は乏しい国ですが、その分、知恵を働かせて生き残っていくしか道は無さそうですかね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですか!
> やはり日本人は外国へ移住してもそこでしっかりと
> リーダーシップを発揮出来る優秀な国民なんですね^^
> 日本は資源は乏しい国ですが、その分、知恵を働かせて生き残っていくしか道は無さそうですかね。
山田長政のような人物が現れるところが日本人の良いところですね。
知恵を絞って、国益のみならず世界に貢献できる我が国であってほしいと思います。
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鎖国以降の日本人町。
晴雨堂ミカエル 新井白石の「西洋紀聞」で有名なイタリア人宣教師シドッティは、18世紀初頭にフィリピンの日本人町で和服と日本刀大小を得て、月代を剃って侍に変装し日本に上陸しました。
いわゆる鎖国体制成立から60年以上が経っている訳ですが、当時はまだ日本の文化や生活様式を守っている「日本人町」が残っていた事になります。
ウイリアム・アダムスの件と同じですが、日本人町が消滅するのはいつごろでしょうか。また、日本人町の末裔についての研究はどのくらい現地では進んでいますか? フィリピンではハポンと呼ばれている人々もいると聞いていますが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 タイの場合、日本人町は山田長政が殺された後に規模が大幅に縮小しました。その後も細々と続いたようですが、やがてタイ人と同化してしまって消えたようですね。