長い戦国時代が終わって世の中が平和になったことで、17世紀に入ってから人口が急増し、それに伴(ともな)って全国各地で新田開発(しんでんかいはつ)が急速に進みました。これによって17世紀末の我が国の人口は約2,700万人と100年前の2倍以上となり、村の数も全国で6万3,000余(あま)りまで増加しています。
村の種類としては、農業を中心とする農村を主体として漁村(ぎょそん)や山村(さんそん)、あるいは定期市などが行われて都市化した在郷町(ざいごうちょう)などがあり、その行政は名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)の村方三役(むらかたさんやく)によって運営されました。
このうち名主は村の長であり、村内の由緒(ゆいしょ)ある地主が世襲(せしゅう)することが多く、主に年貢の管理や治安維持にあたりました。なお、名主という呼び方は主に東日本で使用され、西日本では庄屋(しょうや)、東北・北陸・九州地方では肝煎(きもいり)と呼ばれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
最後の肝煎という言葉で
私は「おてもやん」の歌詞の中で
村役 鳶役 肝いりどん
という箇所の言葉を思い浮かべて
しまいました(笑)
この唄は九州地方の唄ですが、
そちらでも肝煎と呼ばれていたのでしょうか。。
それともまた全く違う意味で使われて
いたのでしょうかね?
応援凸
私の故郷はいまだ「新田」と呼ばれています。
晴雨堂ミカエル 私の先祖は山内家が土佐に封じられた後、家老寺村氏(中老かもしれない)に従って現在の香美市周辺の山間部で新田開発を行いました。今でも郷里では「新田」という単語が飛び出します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「おてもやん」で肝煎が出てきますね。
「肝煎」は東北地方のほかに、北陸や九州でも使われていたようです。
ぴーちさんがご指摘されるまで私も気づきませんでした(^^ゞ
本文を一部修正させていただきます。
有難うございましたm(_ _)m
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、それだけ新田開発に対する強力な意識があったんでしょうね。
全国の地名にも「新田」がたくさん残っているのもその一つなのでしょう。
ぴーち そうでしたか(*_*;
いえいえ、黒田さんにも筆の誤り。
こちらこそ、勉強させていただきありがとうございましたm(_ _)m
それにしても、九州、北陸、東北と随分場所が広範囲なんですね。たまたま全国に伝わりながら、最後まで名残が残ったのがその地域という事なのでしょうか・・・
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
肝煎の由来は私もよく分からないんですが、その地方での呼称にそれぞれの理由があったのかもしれませんね。
村の運営は村法(そんぽう、別名を村掟=むらおきて)に基(もと)づいて行われ、村の秩序(ちつじょ)を乱す村民に対しては村八分(むらはちぶ)などの制裁(せいさい)を加えました。なお「八分」とは、火事と葬儀(そうぎ)の二つ、すなわち「二分」以外の残り「八分」の関わりを拒否(きょひ)したことが由来(ゆらい)と言われています。
幕府や諸藩(しょはん)は、こうした村の自治組織を頼(たよ)りに年貢の納入や割り当てを実施しました。これを村請制(むらうけせい)と呼び、村民は数戸(すうこ)の農家で五人組(ごにんぐみ)に編成され、年貢の納入、あるいはキリシタンや犯罪などを監視して連帯責任を負うとともに、相互に扶助(ふじょ、助け合うこと)する機能も果たしました。
村内にはいくつかの階層が存在し、検地帳(けんちちょう)に登録されて高請地(たかうけち)と呼ばれた田畑の耕作権を持ち、年貢を負担して村政に参加する本百姓(ほんびゃくしょう、別名を高持百姓=たかもちひゃくしょう)や、田畑を借りて小作(こさく)を営(いとな)む水呑百姓(みずのみひゃくしょう)、本百姓に従属(じゅうぞく)する名子(なご)・被官(ひかん)などに分かれていました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
「村八分」という言葉は存じておりましたが、
本当の謂れは気にも留めておりませんでした!そういう意味だったのですね!
初めて知りました。ありがとうございますm(_ _)m
それにしても五人組制度のしくみは
巧い事考えましたよね。
今でも私の所の様な田舎は、組内と称して
色々な地域の行事には組となって活動する
時があります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 村八分の由来は、考えてみれば恐ろしいですね。地方では今でもこの風習が残っており、裁判沙汰にまでなっているのがあるようです。
五人組仰るようにに今でも残っていますね。もっとも、こちらは「相互扶助」の一面からか、どちらかといえば好意的に思われているようですが。
例えば江戸幕府の初期においては七公三民という厳しい税率となりましたが、これは江戸の町の開発や各地の交通の整備などのインフラのために使用されました。やがて開発がひと段落すると一転して減税となり、幕府が直轄(ちょっかつ)する天領(てんりょう)では、一説によれば三公七民以下にまで落ち込んだとされています。
年貢率に関しては、その年の収穫(しゅうかく)に応じて決める検見法(けみほう)と、豊作や凶作(きょうさく)に関係なく一定の期間に同じ税率を続ける定免法(じょうめんほう)がありました。
なお、年貢の種類としては、本百姓が所有する田畑や屋敷に課せられた本途物成(ほんとものなり)の他に山林などからの収益にかけられる小物成(こものなり)、一国単位で課せられる河川の土木工事での労働である国役(くにやく)、街道(かいどう)付近の農村で宿場(しゅくば)に人馬を差し出す伝馬役(てんまやく)などがありました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
江戸時代は随分ときつい税率だったんですねぇ~!(^^ゞ
現代の北欧地方の消費税率だとて25%は凄いなと思っていましたのに^^;
やはり税率は変動性のある検見法の方が親切ですね。定免法と検見法は地方によって違うのですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 江戸時代は随分ときつい税率だったんですねぇ~!(^^ゞ
> 現代の北欧地方の消費税率だとて25%は凄いなと思っていましたのに^^;
確かにそうですね。
もっとも、本文にあるように当初はインフラ整備という名目があったことや、やがては税率がどんどん下がっていったということもあり、江戸時代の農民は必ずしも貧しくはなかったという一面もあります。このあたりはいずれ改めて紹介します。
> やはり税率は変動性のある検見法の方が親切ですね。定免法と検見法は地方によって違うのですか?
当初は検見法が多かったのですが、やがて安定した税率を求めて、吉宗の時代に定免法が採用されるに至ったという流れがあります。
ほうー
ろっぽん 土木工事の国役という労役も年貢すなわち年貢だったんですね
宮城、仙臺藩は江戸期、覇権で領地が広げないので、河川の改修や干拓、今度の仙台平野の津波で被害を受けた地域は干拓地でもともとは海だった地域です。そうやって耕作地を増やしていったんです。それには国役だというのを聞いたことがあります。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
人口の急増に対応するために海を干拓して耕地を広げました。時が流れて宮城県は我が国有数の米どころとなったのですが、今度の震災で…。
先人の努力を生かすためにも、復興をお祈りしております。
農民の暮らし
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
テレビ時代劇で、江戸時代の農民の生活は
生き地獄にように描かれていたので
てっきり、農民の暮らしは、悲惨なだけと思っていました。
(水戸黄門など)
そして、商人が勘定奉行と癒着し、米の値段を釣り上げて、吉原で、遊んでいる。
というイメージを持っていました。
ただ、農民の暮らしが、本当に悲惨なだけだったら、人口が増えませんね。
このあたり、時代劇とは、違う真実を知りたいです。
青田さんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
時代劇はあくまでドラマであり、史実とかけ離れているところはたくさんあります。
農民の暮らしの真実について、これから時間をかけて迫りますので、ご期待下さい!
この禁令によって農民が土地を捨てて離(はな)れるのを防ごうとしましたが、実際には「質入れ」というかたちで田畑は売買されていました。また、1673年には分地制限令(ぶんちせいげんれい)を出して、田畑の分割相続(ぶんかつそうぞく)を制限し、耕地の細分化(さいぶんか)によって農民が零細化(れいさいか)されて没落(ぼつらく)するのを防ごうとしました。
また、五穀(ごこく)と呼ばれた米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆以外のたばこや木綿(もめん)、菜種(なたね)などの商品作物(しょうひんさくもつ)の自由な栽培(さいばい)を禁止する田畑勝手作りの禁(でんぱたかってづくりのきん)を出しましたが、やがて農民の間にも貨幣経済(かへいけいざい)が浸透(しんとう)し、儲(もう)かる商品作物の栽培が盛(さか)んとなると守られなくなりました。
この他、1642年に寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)が起きた後に、農民の暮らしに細かな指示を与える目的で1649年に慶安の御触書(けいあんのおふれがき)が出されたとされるなど、幕府は農民に対してあれこれと細かい規定を設(もう)けていましたが、江戸時代を通じての農民の暮らしぶりは果たしてどのようなものだったのでしょうか?




いつも有難うございます。
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クラチー 自分は田んぼとかの法の話を聞くと、
「墾田永年私財法」ばっかり頭に浮かびますね。
あと、田沼…。←
なぜ「墾」は書けるのに、夏目漱石の「漱」とかは書けなかったんだ、
中学・高校時代の自分…!
(TДT)
ぴーち こんばんは!
へぇ~そうだったんですか。
ということは、現在、「たばこ」「菜種」「木綿」などを栽培している農家さん達は、江戸時代の禁止令を無視し栽培し続けて来ているという事なのでしょうか(少々、語弊のある言い方で、申し訳ありませんが(*_*;)
次第に人口が増えてくるとおのずと法律が細分化され、それに従って農業も幕府によって
制約が厳しくなり、窮屈な思いを強いられていったのですね。
応援凸
クラチーさんへ
黒田裕樹 なるほど、墾田永年私財法は有名ですからね。
田沼意次は…単独講座ではかつてやりましたが、通史ではもっと後になりますね(^^ゞ
自分の得意分野なら漢字もお手の物ですよ。
私も近畿の駅名で難しいのばかり覚えていましたから(爆)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 幕府や藩からしてみれば「農民は米を最優先につくってほしい」ですからね。
もっとも、当初は厳しく設けた規制も、時代が流れるにつれて緩やかになっていったようです。
そのあたりも含めて、次回からの更新ですね(^^♪
HANA子 江戸時代の農民の暮らしというと、確かにあまりこれといった知識が思い浮かびません
そういえば、農民の暮らしってどんなんだったかなって
思い浮かぶのは悪代官や悪商人に搾取されてむせび泣く農民……なんて水戸黄門他の時代劇のステロタイプな農民の姿ばかりですしw
次回も期待してお待ちしております!
HANA子さんへ
黒田裕樹 時代劇をよく見ていた私も、農民に関するイメージは仰るとおりだったのですが、歴史研究を始めてからようやく気が付きました。
ご期待いただければと思います(^^♪
ろっぽん 仙臺藩、なんか開田を半農半士にやらせました
当時の人口の2割が武士だと言われます
ほとんどが名目だけ武士の半農半士でした。
そういう武士に開拓させ、失敗すると
おとりつぶしいわいる首階級を奪うわけですね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、武士の面目をかけた新田開発だったのですね。
藩によっては色々と厳しい制度があるということですか。
有難うございます。
しのぶもじずり 現代でも、農協や農水省が、うるさい事を言ってくるという不満を聞く事がありますが、食料自給率の低下を考えると、国全体から農業を考える必要はあるはず。
「田畑勝手作りの禁」も分かる気がします。やる気と統制、どうバランスを取るか。う~ん、まつりごとは、難しい。
しのぶもじずりさんへ
黒田裕樹 確かに食糧自給率を維持することは我が国の生命線ですからね。
農業への手厚い保護もわかりますが過ぎたるは及ばざるがごとしですし、仰るとおりバランスが難しいところです。
一般的な歴史教科書の記述に見られる江戸時代の農民の暮らしぶりは上記のとおりですが、これらは本当のことでしょうか。この謎(なぞ)を探るためにも、まずは当時の人口の比率(ひりつ)や米に関する実情から考えてみましょう。
江戸時代の人口のうち、農民は実に8割以上を占(し)めていました。残り2割未満が武士や町人(ちょうにん)などです。教科書に書いてあるように、もし五公五民で農民の収穫(しゅうかく)のうち半分の5割が農民の口に入らなかったとすると、2割に満たない武士や町人が5割の米を食べていたことになります。
武士や町人、あるいは農民という身分の違いがあっても、人間の胃袋の大きさに違いがあるはずがないのですから、上記の理屈(りくつ)はどう考えても有り得ないのです。だとすれば残りの米はどこへ消えたのでしょうか。ちなみにこの頃の我が国は後述するように鎖国(さこく)と呼ばれる状況でしたから、米の輸出も考えられません。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
我が家の先祖はその2割の中の武士でした(^_^;)
農家の方が丹誠込めて作ったお米を食べさせていただいていた訳ですね^^
けれど、仰るとおり、そう考えると確かに理屈に合いませんよね。ということは、農家が幕府にも見つからないように、おコメを隠し持っていたのでしょうか・・。
農業従事者の方の方が、武士、町人よりも重労働を強いられる分、ある程度たっぷりと食べていないと体は動かせないでしょうしね。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 我が家の先祖はその2割の中の武士でした(^_^;)
> 農家の方が丹誠込めて作ったお米を食べさせていただいていた訳ですね^^
なるほど、確かにそういう立場になりますね。
私は父方が農家で、母方は武士の出身の方がおられるそうです。
> けれど、仰るとおり、そう考えると確かに理屈に合いませんよね。ということは、農家が幕府にも見つからないように、おコメを隠し持っていたのでしょうか・・。
> 農業従事者の方の方が、武士、町人よりも重労働を強いられる分、ある程度たっぷりと食べていないと体は動かせないでしょうしね。。
仰るとおり、体力が必要な農民の皆さんの方がお米を必要とされるのが普通ですよね。
隠し持っていた…なるほど(^^ゞ
次回の更新をお楽しみに(^^♪
農民の暮らし
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
農民は、過酷なイメージがあったのですが
不思議な事実があります。
◆ 熊本藩の細川家は、農民に相当、気を遣っていたと聞いたことがあります。
というのも、商人からの借金を踏み倒しても
一揆にならないが、
農民を怒らしたら、一揆になると。。。
◆ 享保の改革まで、天領で、一揆らしい一揆が
なかったと以前、徳川吉宗のところで、聞きました。
その時、意外だったのは、私は、一揆というのは
日常茶飯事のイメージを持っていました。
◆ 仙台藩は、江戸に米を出荷させ、江戸の米の
4分の1は、仙台米と言われるまでになった。
農民の暮らしが、そんなに悲惨なら、そこまで
出来るはずはないはず。
◆ 武士の給与は、石高によって、決まっていた。
ということは、米の生産量が増えても、収入は同じはず、しかし、農民は、米の生産量が増えれば
たとえ、税率が高くても、貯蓄量はあったはずでは。。。
青田さんへ
黒田裕樹 さすが青田さん、良くご存知ですね。
私の今後の更新も、これらの流れに沿う形になると思いますよ(^^♪
引き続きご覧下さいm(_ _)m
隠しもって
ろっぽん 私が昨年描いた「極楽見物」という民話コミックにそのことを描いています。
URLがそうです。
おがのぶ こんにちは~
毎回 楽しみに拝見いたしております
(コメントは たまにするだけですが・・・)
この 農民の暮らしぶりは できるだけ詳しく
伝えて貰いたいと 思っております
1石は 人が1年で食べるコメの量ですね
当時の石高と人口を考えると
教科書通りだと 矛盾が出てくると ずっと感じていました
また 農民の生活でも 楽しみを感じる事がなければ
続けていく事などできないと思うのですが
どう お考えでしょうか?
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回の更新については意外と知られていませんが、よく考えれば不思議に思うことですね。
おがのぶさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
農民の生活は実はかなり豊かだったようです。
10日の更新でそのからくりを明らかにしたいと思いますので、どうぞご期待ください。
いやはや・・・
大国 発想が短絡的すぎませんか?
小学生の足し算引き算のレベルでしょうか。
現代においても、完全な”冨の再分配”など不可能なのに、
江戸時代にそれが行われていたとでも?
計算上の余剰米が仮にあったとして、
「幕府・藩が農民に還元した」という史実がどこかで見つかったのでしょうか?私は知りませんが。
当時、最も人口が多く、栄えていた江戸の町ですら、
現代で言う「スラム街」だったようです。
これは、発掘調査での人骨に現れています。
江戸期の人々は、日本史上最も栄養失調であり、病死者が多かった事が指摘されています。
計算上の余剰米は、おそらく、腐るか、破棄された可能性が高いでしょう。
大国さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
富の再分配については、仰るように完璧には行なわれなかったでしょう。
史料については、そこまで詳しく書いているのは確かに存在しないかもしれません。
骨については、確かにスラム街では存在していたことでしょう。
ただし、史料や骨ばかりで当時の社会を推し量ることは、現代の価値観を中心に考察することによって歴史の大きな流れを見失うことにつながりかねません。
当時の米は「金貨」と同じです。
幕府や商人は細心の注意を払って米蔵に備蓄米を保管していました。
無論、それでも水害や火災で失うことはありましたが、現代のような飽食の現代とは異なり、わざと腐らせたり破棄するということは、貴重な財産を自ら放棄することであり、史料の存在以前にできるはずありません。
また、拙ブログでもこの後の更新で紹介していますが、当時の農民は私たちの想像以上に裕福でした。なぜなら、検地が260年間ほとんど行われず、農民が自分で開墾した「隠し田」や、商品作物で得た利益を自分のものにしていたからです。地方が豊かで生活能力があったからこそ、国民の多くが読み書き算盤といった基本的な能力を身につけていたことで、幕末の混乱や明治維新の動乱を乗り切るとともに、中央集権体制のもと国家全体で列強の侵略に立ち向かい、やがては我が国が世界の一等国にのし上がるという歴史を残しました。
もちろん、それらは収穫がキチンとできればの話です。
飢饉で生産量が落ちれば当然のように食べられなくなりますし、また必要以上に年貢を要求されれば自分たちの生活が苦しくなりますから、飢饉や幕末の動乱期を中心に一揆が頻発したのは無理もありませんでした。
江戸時代の人骨については私も存じています。
当時の江戸は、今の23区よりもはるかに小さいエリアに100万人の人口がひしめき合っていました。
その中には、決して裕福でなかった人々も存在していると考えるのは、裕福な現代ですら都会において厳しい環境で生活する人々が後を絶たない事実を見れば当然でしょう。
ということは、人骨だけで「江戸時代のすべての人々が栄養失調だった」と考えるのも無理があります。
大国さんがそうであるとは決して申しませんが、過去の私がそうであったように、現代の私たちは「江戸時代の人々は大きな権力に虐げられていた」とする「貧農史観」という名のプロパガンダに陥っている傾向が見られます。しかし、当時の真の歴史を自己の考えによる「結論ありき」から論じるのは無理がありすぎます。
また、史料で最も伝わりにくいことは「当然のように行われていたこと」や「暗黙の了解で行われていたこと」です。前者は当たり前すぎて、後者は書くのがはばかられて史料として伝わりにくいところがあります。
加えて、史料にはどうしても個人の感情が入ったりしますから、そのあたりを割り引いて見なければいけません。
本当の歴史研究は、残された史料の行間を読んで、理解できない部分があれば、当時の社会情勢と現代につながる歴史の流れに当てはめて真実を見つけ出すことが重要であり、また面白く学べるところです。
最後に、それらは無論「短絡的な発想」や「小学生の足し算引き算のレベル」で可能なほど甘くはないものであることを申し添えます。
となれば、商人もいつかは米を売らなければなりませんし、幕府や藩も備蓄米をいつまでも貯(た)め込(こ)めませんから、いずれは処分しなければいけません。ではいつ手放せば良いのでしょうか?
この当時の農民は、先述した国役(くにやく)や伝馬役(てんまやく)など、農作業以外にも様々な雑務(ざつむ)に追われていました。これらはタダで働かされるのではなく、それなりの報酬(ほうしゅう)が与えられていたのですが、それらはカネの他に米で支払われていました。
つまり、農民にとっては自分で収穫した米を買い戻すという煩(わずら)わしさはあったものの、最終的には自分たちも米を食べることによって、一年に収穫された米はすべて消費されたことになりますし、こうでないと辻褄(つじつま)が合わなくなるのです。
これまで述べてきたように、農民が貧しくて米を食べる機会がほとんどなかったという考えは間違いであったことが明らかになりましたが、実は江戸時代の農民は私たちの想像以上に豊かだった可能性が高いという真実を皆さんはご存知でしょうか?
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
なるほど、そういう仕組だったんですね。
やせ我慢という意味の「武士は食わねど高楊枝」なんて言うことわざがありますが、実際のところ、一番ひもじい思いをしていたのは、武士だったのかも知れませんね(^^ゞ
現代の農家さんも国からの後ろ盾がある分、裕福な暮らしをなさっているんじゃないかと思っているのですが・・・^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、そういう仕組だったんですね。
> やせ我慢という意味の「武士は食わねど高楊枝」なんて言うことわざがありますが、実際のところ、一番ひもじい思いをしていたのは、武士だったのかも知れませんね(^^ゞ
仰るとおりだと思います。
考えてみれば、農民に安定して農業を続けてもらうには「生かさぬよう殺さぬよう」では絶対不可能ですからね。
> 現代の農家さんも国からの後ろ盾がある分、裕福な暮らしをなさっているんじゃないかと思っているのですが・・・^^
昔に比べれば農作業も機械化が進んでいますからね。ただ、私自身は農作業の経験がない分、現場のことを存じないのでコメントできる立場にはないですが…。
冷静に考えてみれば。。
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
時代劇
貧しい農民、それを苦しめる悪代官
しかし、そんなことが、日本全国で、日常化していたら、
徳川幕府が280年間も続きませんよね。
そういえば
地主クラス、庄屋クラスは、下級武士よりも
経済力があったと聞いたことがあります。
聞いたことが
ろっぽん オランダの土木を学んだ川村又兵衛という
人物が百姓を国役として労役させ
沼の干拓、貞山堀という仙南地域と塩釜港を米の運搬する運河や伊豆の堰という簡易ダムを作り
洪水や灌漑用水の工事をなんと江戸時代にやり
百姓に労賃を与えたため率先して農民たちも労役に服したそうです。意外と西欧のように絶対的に
奴隷のようにこきつわなかったのが、300年も
封建制度が維持できた理由かもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、江戸時代の暮らしを支え続けた農民に対して虐待を繰り返していれば、幕府が長持ちするはずがありません。単純に考えれば分かることですが、なぜか「貧農史観」が当然という印象がありますよね。
経済力については、次回(10日)のまとめで考察することになります。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るように、身分制度といっても西洋のような厳格なものではなく、国益(あるいは地域の益)のためなら官民が協力して土木事業を行うという姿勢が我が国の特異な一面でしょうね。
農民は被支配身分ではあっても、牛馬のようにこき使われたわけではありません。
なおまゆ 全く同感です。
江戸時代の生活に対する誤解はどうして生まれたんでしょうか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 全く同感です。
> 江戸時代の生活に対する誤解はどうして生まれたんでしょうか?
有難うございます。
おそらくはチャンバラ活劇の流行によって、常識ではありえない斬り込みが正当化されたり、貧農史観に代表される「支配階級VS被支配階級」の闘争の概念が染みついたりしたことによる誤解ではないかと思います。
つまり、長い江戸時代の中で新田開発や農業技術の進歩によって米の収穫量が大きく増えたとしても、昔の収穫高を基準にして年貢率を決めているのですから、農民にとってこれほど「おいしい」話はありませんし、これとは別に商品作物を栽培してそこからの利益もあったのですから、経済的に余裕があったと考えた方が自然なのです。
もちろん、農作物は環境に左右されますから、飢饉(ききん)が起きた際には餓死者(がししゃ)も出ますし、それまでの低い年貢率がいきなり高くなれば、不満を持った農民が一揆(いっき)を起こすこともありました。
しかし、その一方で二宮尊徳(にのみやそんとく)のような農民出身の学者も多く出ていますし、また幕末(ばくまつ)の新選組(しんせんぐみ)を組織した近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)も農民の出身です。近藤や土方が相当な剣の使い手になったのも、子供の頃から武家以上に剣術に励むだけの経済力があったからこそでしょう。
歴史に関する研究は、真実の姿が明らかになることによって変化することも十分考えられます。これまで私たちが当たり前と思っていたいわゆる「貧農史観(ひんのうしかん)」を見直すことで、新たな発見を知る喜びを私たちは分かち合うことができるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
確かに歴史は既に過去の出来事であるから
そこには変えようもない事実が存在するものだという固定観念を持ってしまいがちですが、
それでもそんな中、いつの時代も自分の都合の良いように事実をねじ曲げ、それがそのまま、実しやかに言い伝えられてしまうという危険が史実と言われる事にも孕んでいるという事ですね。
現時点の原発事故問題に関しても
国や東電の発表に食い違いが見られ、事実が二転三転して伝えられたりしています。今日のニュースでも4号機の内部の爆発はなんだったのか分からないという発表まであり、まだまだ謎に包まれた問題となりそうですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに原発事故のその後や真実は心配ですね。
今回の「貧農史観からの脱却」のような「真実を知る楽しみ」とはかけ離れた結果だけは避けてほしいのですが…。
仙臺藩などは
ろっぽん 名目は60万石と言われておりますが
最高で250万石飢饉の時でも100万石あったそうでとにかくシャカリキになって藩の方針として石高Upしてたわけです。
わからんのですが
幕府が各藩に年貢を納めさせなかったのはなぜなんでしょうね。天領、金銀鉱山の直轄、あったとしても?
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るような、名目上の石高と実質上の石高とは相当な開きが各藩にあったようですね。
後者につきましては、現在の中央集権とは違って幕藩体制は独立採算制でしたから、公共工事の「お手伝い」という名の強制的な労役はあっても、それ以上の税は課せなかったからかもしれません。