そして慶応3(1867)年10月14日、朝廷は薩長両藩に対して討幕の密勅(みっちょく、秘密に出された天皇による命令のこと)を下し、ついに薩長は武力による討幕のお墨(すみ)付きを得ることができました。
薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、日本国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入によって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。





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Kei 昨年も、わかりやすい日本史授業、、
ありがとうございました。。。
また、楽しみにご訪問させてください。。
今年もどうぞよろしくお願いします。。Kei
Keiさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、昨年はお世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
拙ブログをお楽しみいただければ幸いです。
ぴーち おはようございます!
確かに武力で制圧しようとするとその混乱に便乗して外国の勢力が加勢したり、やもすると弱体化した国土までも奪われかねない事態が起こるかも知れませんものね。様々なデメリット考慮し、無駄な流血を避けて解決できる方法を考えたわけですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大政奉還は日本をできるだけ傷つけない方法で、なおかつ徳川家の独裁を許すことなく、同時に潰すこともしない、という絶妙の策だったと思います。
この後も戦いが続きますが、武力討幕による大混乱に比べれば規模が全然違いますからね。
公武合体の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま、武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか、と将軍慶喜に提案しました。
このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜はこの策を受けいれ、討幕の密勅と同じ日の慶応3(1867)年10月14日に、朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を申し出ました。
幕府からの申し出に、機先を制された格好となった朝廷でしたが、大政奉還を受理したことで、徳川家康以来260年余り続いた江戸幕府は終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
ところで、皆さんはなぜ幕府が「大政奉還」という形式で政権を朝廷に返上したかご存知でしょうか。これには、慶喜が就任していた「征夷大将軍」という地位が大きく関係しているのです。





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オバrev 倒幕派が立ち上がる日に大政奉還とは、皮肉ですね。というか、これは狙っていたのかもしれません。
よく分かりませんが、大政奉還という形式が最も後の実質的実権を握りやすかったんじゃないでしょうか。
大政奉還によって、徳川家の権力はどのまでなくなり、どのくらいが残るんでしょうか?その点が幕府側、倒幕側にとっても大きなポイントとなっていたような気がします。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この大政奉還の直後に『龍馬暗殺』が合ったんですね。
ここで、歴史のifを考えたいと思います。
もし、この時、坂本龍馬が暗殺されなかったら
どうなっていたかを考えてみました。
① この時、暗殺されなかったとしても、近い将来、暗殺されていた。
② 岩崎弥太郎のような政商として、財閥を創っていた。
③ 薩長藩閥政府ではなく、共和制に近い政治体制が早く、実現していた。
私は、この3つの可能性を考えますが、黒田先生は、どう思われますか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、佐幕派と討幕派との間で熾烈な情報合戦があったかもしれませんね。
実は「大政奉還」には大きな意味があるんです。詳細は次回(3日)の更新で明らかにします。
そして、幕府の思惑は巻き返しを図る討幕派によって覆されることになるのですが、これは次々回以降にまた詳しく紹介しますので、続きをどうぞご覧下さい。
青田さんへ
黒田裕樹 私自身は2.の可能性が高かったと思います。
ただし、彼の発想が仰るとおり共和制に近いものでしたから、藩閥政府からすれば当然危険分子であり、やはり1.の暗殺の危険が常に彼に付きまとう可能性も高いでしょうね。
征夷大将軍も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、1192年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権が朝廷から公認される、という扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。この考えは後の室町幕府、そして今回の江戸幕府も全く同じですが、一度「預かった」ものは、いずれは必ず「返す」ことになりますよね。
だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立し、武力討幕を実行しようとしていた薩長両藩に対する大きな牽制(けんせい)となったのでした。
なお、大政奉還は土佐藩の坂本龍馬が考案し、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)から前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)を通じて、慶喜に働きかけて実現したとされています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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こみー お久しぶりです^^;
年、明けましたね(^^)/
去年は受験やらで忙しくなってなかなかブログに
触れる機会がなかったものですから・・・
受験をひと足先にパスさせてもらったので、
これからまたいろいろ参考にさせていただきます(´▽`)
今年もよろしくお願いします!
こみーさんへ
黒田裕樹 こちらこそご無沙汰しておりましたm(_ _)m
受験クリアおめでとうございます!
残り少ない高校生生活を充実させて下さいね。
当ブログがお役に立てれば幸いです(^^♪
ぴーち おはようございます!
龍馬は征夷大将軍という地位が朝廷から預けられた臨時の役職で
あるということをちゃんと把握していた訳ですね。
勿論、龍馬ばかりではなく他の方も把握されていたのでしょうけれど。
歴史を知り、また未来を見つめて行動していた龍馬は改めて優れた人物だったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そう思われますね。
龍馬の先見性の素晴らしさが分かると同時に、当時の教育の水準の高さがしのばれます。
幕府
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
時間は、遡りますが、源頼朝が、この有名無実の
しかも、臨時の役職である征夷大将軍になり、
それで、実権を握るという発想をしたこと自体が
凄いですね。
(もっとも、その後、北条氏が執権という、これまた、単に将軍を補佐する役職で、実権を握ったのも凄いですが)
そして
この日本独特の『しくみ』を坂本龍馬も知っていて、徳川慶喜も知っていたから、別に大政奉還をしても、実権を持つことは、可能だと考えたのでしょうね。
それにしても、徳川慶喜と坂本龍馬も日本の政治というのを歴史の上からも深く、理解していたのには、驚かされます。
さらに
これについては、薩摩・長州Vs徳川慶喜・土佐藩との政治工作の戦いですね。
(目に見えない激しい戦い)
青田さんへ
黒田裕樹 源頼朝の場合は、ブレーンとして貴族出身の大江広元がいましたから、彼あたりが勧めたかもしれませんね。いずれにせよ、実行力が伴わなければ実現しなかったでしょうし、頼朝の度量の大きさがうかがえます。
慶喜も龍馬も、現代とは比べ物にならないほど勉強家だったと思われますからね。当然情報合戦も熾烈だったでしょう。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤った薩長両藩や公家の岩倉具視(いわくらともみ)らの討幕派は、慶応3(1867)年12月9日に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古の大号令といいます。
王政復古の大号令によって、天皇親政による新政府の樹立が宣言されましたが、新政府は江戸幕府のみならず摂政や関白をも廃止し、新たに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職(さんしょく)を創設しました。
なお、総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允(=桂小五郎)、土佐藩の後藤象二郎らが任命されました。





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ぴーち おはようございます!
王政復古の大号令という言葉だけはよく覚えていますが、それがどんな人物達が関わり、どんなものだったのかという事は全くその当時は頭に入らなかったのですが、こうして改めてお話を伺うっているとそういうことだったのかと容易に理解することができました。
ありがとうございますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
歴史用語は覚えていても、その関連がつかないということはよくありますよね。
せっかく学習するのですから、流れも含めてしっかりと理解しておきたいものです。
当ブログがお役に立てれば幸いですね。
坂本龍馬の暗殺
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
坂本龍馬の暗殺の真犯人ですが、京都見廻組の佐々木忠三郎と言われていますが、黒幕説が
いろいろとあります。
一番、得をした人間を疑えの原則に従って、
仮説を考えてみました。
◆ 長州藩説・・・倒幕を考えている長州藩にとって、坂本龍馬の「大政奉還」は、受け入れられないことである。
(それにたいしての反論)
当時、長州藩は、まだ、京都を自由に動き廻れる状況ではなく、しかも、大政奉還に反対なら
坂本龍馬よりも、後藤象二郎か、山内容堂を狙うはず。
◆ 薩摩藩説・・・同じく、討幕を考えている薩摩藩にとって、坂本龍馬は、邪魔な存在である。
しかも、京都での活動は、長州藩よりも活発にできた。しかも、坂本龍馬の居場所をこの時、知っていたのは、薩摩藩、土佐藩などに限られていた。
(それにたいしての反論)
この時、薩摩藩の中心となっていた西郷隆盛、大久保利通は、京都にはいないで、薩摩藩の藩論を
まとめるのに奔走していた。
大久保、西郷のいない京都で、単独で薩摩藩が龍馬を殺すのは、考えにくい。
しかも、西郷は、坂本龍馬にたいして、かなり、尊敬の念を持っていた。
◆ 紀州藩説・・「いろは丸事件」の報復で坂本龍馬を殺した。
(それにたいして藩論)
「いろは丸事件」から、かなりの月日が経っていて、もし、坂本龍馬を暗殺するなら、もっと早くできたはずである。しかも、坂本龍馬の居場所を知ることは、至難の技。
こう考えると
やはり、佐々木只三郎の単独犯説が一番、有力ですね。
とういのも、小太刀の名手であり、清河八郎の暗殺の実行犯ですから。。
青田さんへ
黒田裕樹 ご推察のとおりかと思われます。
本能寺の変と同様、数々の憶測が考えられる中で、単独犯というのは盲点ですね。
新政府内のパワーバランス
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
私は、西南戦争までは、新政府内のパワーバランス(力関係)では、その主力は、薩摩だと考えていました。
(後に、西南戦争で、薩摩閥の力が弱くなり、長州閥が大きくなると思いますが、)
しかし、この新政府の役職を観てみると非常にバランスの取れたポスト配置なので、驚きました。
というのも、長州藩への配慮はあるにしろ、土佐藩への配慮もきっちりしているのですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、この頃の役職は比較的平等ですね。本格的な派閥争いは戊辰戦争後に内乱が一段落してからでしょうか。
なお、肥前佐賀藩は戊辰戦争での活躍後に名前を連ねることになりますね。
休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷隆盛に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開ける、と岩倉を勇気づけたのでした。
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで幕府に肩入れすることはない、と判断した山内がその後沈黙したこともあり、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議が進みました。結局、慶喜は将軍のみならず、内大臣(ないだいじん)の辞任と領地を一部返上させられることで決着したのです。
慶喜は、会議後に京都から大坂城に引きあげましたが、当初は新政府との表立っての衝突(しょうとつ)を避けようとしていました。しかし、会議の決定を不服とした旧幕府兵が、江戸の薩摩藩の屋敷を焼き討ちにするという事件が発生したことで、慶喜も最終的に新政府軍と武力で戦うことを決断しました。
世にいう戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりです。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、志士という言葉が大好きです。
志を持った侍という意味で、身分が低くても
志士があるということで、尊敬の対象になるからです。
ただ、この時代、志ではなく、剣の力だけで
のし上がろうとする
新撰組、岡田以蔵(人斬り以蔵)がいましたが、
結局、どんなに剣が強くても、
志と最新兵器の前では、消えていく運命だったんですね。。
青田さんへ
黒田裕樹 幕末から維新にかけては、仰るとおり志士の時代でした。
しかし、新選組の全盛期の頃はともかく、戊辰戦争までには剣ではなく鉄砲などの火器の時代になっていたんですね。鳥羽・伏見の戦いで新選組が完敗したのが象徴的です。
奇兵隊
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
新撰組と対極をなすのが、奇兵隊ですね。
武士以外の身分でも、近代の軍隊として、最新兵器の訓練をすれば、
剣の能力がなくても、十分に実戦で、通用しました。
奇兵隊は、なくなりますが、
その後、明治になっての国民皆兵による鎮台兵が
西南戦争で、最強の薩摩士族を打ち破ってことで
剣の時代の終焉を証明しましたね。
(ネタバレになるので、ここまでにしますね。)
オバrev これは外堀、内堀を埋められて、戦争しか道がないと決断せざるを得なかったんじゃないでしょうか。
歴史的にも、戦争は追い込まれて他に道がなくなった時に起こさざるを得なくて起こっているような気がしますがどうですか?
法理論的には、
晴雨堂ミカエル 法理論的には、政権返上を表明したとはいえ、左大臣・右大臣に次ぐ元首級の官職に就いているので、土佐藩の言い分は正論。
明治維新は強引ですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、奇兵隊は身分に関係なく兵を集めましたが、最新兵器を駆使して長州藩の保守派を圧倒しました。
この経験が、その後の戊辰戦争~西南戦争の流れにつながっていますね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。慶喜は戦争をしたくなかったようですが、部下が暴発してやらざるを得なくなりました。
しかし、部下からすれば戦わずして敗れることが許せなかったのでしょう。
部下の思いも分かりますが、そんな部下を抑えることができなかった将軍慶喜は、やはり追い込まれて戦うしか道がなかったといえますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
討幕派側からすれば徳川家が新政権に残っては何の意味もない。だからこその強引な小御所会議でした。
ただ、どちらが是か非かは簡単には論じられないものの、結果として徳川家を抜いたことでその後の明治政府による政治が確立したとも言えそうです。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
坂本龍馬、山内容堂は、徳川慶喜を新政府入りを
考えていました。
もし、薩摩・長州などの新政府軍がもっとリベラルで、
たとえ、徳川家であっても、優秀な人間は、新政府のメンバーとして、働いてもらおうと考えたとします。
私は、そうすると
① 北越戦争、会津戦争、東北・北海道の戦いは
せずに、官軍も無駄なエネルギーを浪費せずにすんだ。
② 幕府、佐幕派の藩の中でも優秀な人材を活用でき、その後、新政府軍のとって、貴重な人財として、活用できた。
もちろん、幕府の石高は、莫大で、新政府軍にそのままのカタチで、加わると脅威かもしれませんが、後に廃藩置県を断行したことを思えば、可能だったと思います。
それと
もし、坂本龍馬が生きていれば、無駄の血を流さずにすんだと思うのですが、いかがでしょうか。
青田さんへ その3
黒田裕樹 極めて微妙ですね。
確かに幕府の優秀な役人は新政府にそのまま雇用されたかもしれません。
しかし、廃藩置県は事後に詳しく紹介しますが、薩長が先頭に立ってこそ実現できたことですので、徳川家の領土が残っている場合には史実のように強引に達成できたかどうか分かりません。
また、何よりも討幕派と佐幕派との間でそれまでに多くの血を流し過ぎています。
薩長のように和解しようにも、組織が大きすぎて困難でしょう。
そう考えれば、私は龍馬の有無にかかわらず戊辰戦争は避けられなかったと考えております。
戦い当時の兵力は、旧幕府軍が15,000名に対して新政府軍は5,000名しかなく、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば、新政府軍の勝利に終わったのです。
新政府軍が勝利した大きな理由の一つとしては、旧幕府軍と比べて最新鋭の鉄砲などの火器が充実していたことが挙げられます。戦いはもはや兵力の多寡(たか、多いか少ないかの量のこと)ではなく、いかに優れた火器を多く使用できるか、という点が重視されていたのでした。
さらにもう一つの大きな理由は、新政府軍が明治天皇から下賜(かし、高貴の人が身分の低い人に物を与えること)された錦(にしき)の御旗(みはた)でした。戦場に錦の御旗が掲げられたということは、新政府軍が官軍となった一方で、旧幕府軍が賊軍(ぞくぐん)、つまり朝敵(ちょうてき)になったことを意味していました。
そして、この厳然たる事実にもっとも敏感に反応したのが、前将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)だったのです。





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クラチー 徳川慶喜さんって、
「何かめんどくさいから勝手に決めちゃって、はいはい」
みたいなイメージがあったんですが、
ちゃんと周囲の動きとか気にしていたんですね。
ただの女好きじゃなかったのか、ふむふむ。
(酷い偏見)
しかし、武器の性能や数が違えば、
どんなに大群で戦っても勝てませんよね。
天皇の敵・味方という立場も影響あるでしょうし…。
(-m-)
クラチーさんへ
黒田裕樹 偏見もまた見解の一つですよ(笑)。
慶喜公も綱吉公や田沼様のように誤解を受けている人物のひとりといえるでしょうね。
戦争の質がこの頃には全く変わっていましたね。
ましてや錦の御旗の前では…(´・ω・`)
ぴーち おはようございます!
錦の御旗ですか・・
何やら『葵の御紋」をかざしただけで
その場でひれ伏し降参するあるドラマの
風景が回顧されます・・
長年その御紋で国を統制して来ても、朝廷の力には敵わなかったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそんなイメージがありますね。
とはいえ武家の棟梁がそう簡単にひれ伏すとは…と思いがちですが、そうなるだけの大きな理由があったんです。
詳しくは今後の更新で紹介しますね。
素朴な疑問
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
いつも、この幕末の討幕軍(官軍)で、不思議に思っていることがあります。
それは、なぜ、西日本(薩摩・長州・土佐・肥前)が官軍になり、
東日本の藩が佐幕派になったかということです。
当然、東日本にも外様大名も多くいますし、
幕府に恨みがある藩も多かったはずです。
私の考える仮説としては
① 官軍の藩には、海、もしくは、良港があったので、自然と海外への関心が高かった。
薩摩藩は密貿易、佐賀藩は長崎が近くにあり、
長州藩は、下関があり、土佐藩は、太平洋に面していた。
② 西日本の藩は、参勤交代の時、必ず、大阪を通るので、京都とのパイプがつながりやすかった。
尊王の意識が東日本よりも、当然、高くなるのではと思いました。
今とは、情報の速度が全く、違うので、東北、北陸の藩は、どうしても、京都の政治の状況に鈍感になった。
③ 東日本は、経済的にも幕府の影響が大きかった。
◆ 西日本では、貨幣が銀が主流、東日本では、金が主流。
◆ 江戸の四大飢饉で、享保の大飢饉以外は、被害の中心は、東日本が中心で、財政が疲弊し、中央の政治に介入できる力が全く、なかった。
こう考えましたが、黒田先生は、どう思われますか。
オバrev 日本人なら、やはり錦の御旗というのは大きいですね。これですべてが決してしまったとも言えるんじゃないでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 まず考えられるのは、幕末までに雄藩と称された藩の多くが西日本に集中していたことですね。
藩の立て直しができたところは、幕府を倒すだけの思想や財力がありました。
自分の藩の生計だけで精一杯な状況では幕府に頼らざるを得ませんからね。
その背景には仰るような条件があったと思われます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、朝敵になることは多くの日本人にとっては避けたいところです。
ただ、徳川家は武家の棟梁ですから、かつての北条政子や義時のように「朝敵何するものぞ」という気概があっても良さそうなはずなのに、慶喜はひたすら恭順だった。
このあたりの謎を明らかにしたいと思います。
本当の朝敵
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
冷静に考えたら、本当の朝敵は、長州藩ですよね。
というのも
◆ 池田屋事件では、御所に火をつけて、天皇を長州に連れ去る計画を立てていた。
◆ 蛤御門の変では、御所に向かって、発砲した。
これから、ブログで、更新されると思いますが
朝敵にされた会津藩は、可愛そうすぎます。
(京都守護職も京都の治安を守る役職をしただけなのに)
もっとも、新撰組は、会津藩の預かりだったので、新撰組のした過激な取り調べが、全て、会津藩の
したことのようになったことが、会津藩の悲劇の序章だったのかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 そのとおりですね。御所への攻撃だけでも立派な朝敵です。
ところが、その薩長が朝廷側についたために幕府が朝敵となり、その影響が会津藩にも及ぶことになってしまいます(ここから先は近日中の更新までお待ちください)。
戦いに勝利した新政府軍は、慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたものの、新政府から偽官軍(にせかんぐん)として処刑された相楽総三(さがらそうぞう)もいました。
江戸城に戻った慶喜は、幕臣の小栗忠順(おぐりただまさ)による徹底抗戦の意見を退(しりぞ)け、フランス公使のロッシュの援助も断り、江戸城を出て、上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎(きんしん)しました。
いかに鳥羽・伏見の戦いで敗れたとはいえ、旧幕府を支持する兵力はまだ多く、今後の展開次第では軍事的勝利も十分考えられたはずなのに、なぜ慶喜は朝廷に対して恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の姿勢をとり続けたのでしょうか。
その背景には、慶喜に隠された「血の秘密」があったのです。





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ぴーち おはようございます!
血の秘密ですか・・
実は特殊な血液型・・だったとか・・((o(´∀`)o))というは冗談ですがw
血縁問題に秘密がありそうですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 血の秘密ですか・・
> 実は特殊な血液型・・だったとか・・((o(´∀`)o))というは冗談ですがw
もしそれが理由なら面白いですよね(^^♪
> 血縁問題に秘密がありそうですね^^
さすが鋭いですね(;・∀・)
次回の更新にご期待下さい!
朝廷工作
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここで、疑問が残ります。
当然、徳川慶喜も朝廷工作は、していたはずです。
徳川幕府の中にも朝廷工作が出来る人間がいたと考えます。
それなのに、なぜ、朝廷が薩摩・長州の手のうちに入ったのか納得できません。
個人的には、やはり、孝明天皇の崩御が一番、徳川慶喜にとって、不運だった気がします。
これは、歴史のifですが、もし、孝明天皇が活きていたら、どういう流れになったと思われますか。私は、徳川慶喜中心の明治政府の実現ができたと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
幕府を倒すとまではお考えでなかったとされる孝明天皇が崩御されたことが、江戸幕府にとっては大誤算でした。
その後の朝廷は討幕一辺倒になってしまいましたからね。
孝明天皇がご健在でいらっしゃったら、おそらく徳川家中心の連合政権が誕生していたでしょう。
ただ、その政権がどうなっていくかは全く分かりませんが。
孝明天皇
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
高校の時、日本史の授業で、
教師から、「これは、仮説やけど
『孝明天皇の崩御』には、岩倉具視が毒殺した疑いがある。」
「孝明天皇が崩御して、幼帝の明治天皇が即位してから、倒幕派が朝廷をコントロールできた。」と言っていたのですが
そういう説は、本当にあるのでしょうか。
ちなみに、その日本史の教師は、「岩倉具視は、陰湿な性格やから、そういうことを平気でやりかねん。」と言っていました。
青田さんへ その2
黒田裕樹 孝明天皇の崩御はあまりにもタイミングが良すぎますから、昔から毒殺説が絶えませんね。
しかし、私は毒殺ではなく、疱瘡による病死だと判断しております。
岩倉具視が表舞台に復帰するのは1867年の後半であり、孝明天皇の崩御からずいぶん時間が経っていますし、何よりも朝廷内でそんなことをすればどこかから必ず情報が漏れるでしょう。まして当時は尊王攘夷運動が盛んで、朝廷に対する庶民の尊敬は頂点に達しつつありましたし、そんなときに失敗の大きなリスクを背負ってまで暗殺を実行しようとはとても考えられません。
ところが、幕末の頃の水戸学は、「主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室である」とし、また欧米列強からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の考えが中心となっていました。
慶喜も当然のように水戸学を学んでおり、徳川家の将軍でありながら、皇室を尊敬する学問を幼い頃から身に付けていたため、自らが朝敵となることが、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に認められないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が、一般的には「弱腰」と見なされることが多いのですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ、欧米列強の介入を招くこともなく、また、後述するように江戸の町を戦火にさらすことを防ぐこともできたのでした。





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オバrev なるほど~、そういう事情があったんですか。
江戸を戦火にして最後まで戦い続けた方がむしろ楽だったかもしれません。しかし慶喜の決断は、確かにその時は相当避難されたでしょうが、歴史的に客観的に見て素晴らしい判断だったと言えると思います。
う~む、すっかり見直しましたよ慶喜さん。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、慶喜には慶喜なりの事情や考えがあったんです。
将来まで「汚名」を着せられる可能性があったとしても、自らの思想や意志に殉じるとともに、国内に要らざる混乱を招かないようにする。
これこそが本当の「漢」といえるのかもしれません。
ぴーち おはようござます!
結論だけ見てその人を判断すると確かに「負け犬」であるかも知れませんが、何にでもそうせざる負えない理由があるものですね。慶喜の場合は、「負けるが勝ち」を選択したのでしょう。
攻めていくよりも、勇気ある選択。そこには慶喜の生き残るための戦略が存在していたのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、慶喜が選択したのは「徳川家を残すとともに我が国が他国に侵略されないようにする」ことでした。
そのためには自分が汚名をかぶっても構わない。政治家の選択は時として自分を犠牲にしてでも国の利益に殉じるものなのです。
慶喜のことを「負け犬」「弱腰」と叩くだけでは、歴史の大きな流れが見えてきませんね。
徳川家康に根拠が?
ken39 慶喜の選択が出自にあったようですが、家康が尾張、紀州、水戸に男子を配した時に、朝廷にも目配り(水戸家)したような話も聞いたことあり様な気がします。これも伏線になってはいませんでしょうか。いかがでしょうか?
ken39さんへ
黒田裕樹 仰る説は確かに存在しますね。
御三家のうち水戸家だけは朝廷寄りにしておいて、将来もし幕府が朝廷と敵対した場合には水戸家だけでも存続させて徳川の血を残すという。
もしこの説どおりであれば、家康の恐るべき深慮遠謀ですし、仰るとおり伏線になると思います。
中年の星 慶喜こそが維新最大の功労者だと思います。もし慶喜が本気になって官軍と戦っていたら、内戦が長引き外国勢力につけこまれることになっていたかもしれません。最低限の流血だけで日本を統一できたのは、慶喜の功績によるところが大きいです。
中年の星さんへ
黒田裕樹 私も同じように考えております。
一般的に権力争いというものは派手な争いごとに目が行きがちですが、いかにして被害を最小限に食いとどめるか、ということが実は一番重要です。
その意味においても慶喜の功績は大きかったといえるでしょうし、また慶喜自身に尊王の考えがあったことも、我が国が天皇中心の国家であり、自分は政権を委任されたに過ぎないという国家の原則を理解させていたのではないかと思います。
江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、明治元(1868)年3月9日に官軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見させました。山岡は勝の手紙を西郷へ渡して朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。
西郷の条件は、江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは、「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
これまで何度となく歴史物の映画やドラマの中で
勝海舟のお名前は聞かされてきましたが、余り興味が無かったもので、素通りしてきてしまいましたが、黒田さんのお話を伺ってみて、興味が持てました。今度、彼が活躍する物語が登場した時は意識しながら観賞していきたいと思います(^^)v
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
今回の件は勝海舟の献策とともに、山岡鉄舟の活躍も見逃せません。
詳しくは次回(10日)の更新をご覧ください!
山岡鉄舟
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
山岡鉄舟について、私は、『西郷と山岡の会談』が
スグに行われたものと思っていました。
しかし、実際には、会談どころか、山岡が西郷のいる駿府に行くことも命懸けであり、
西郷と会うことも難しい状況だったんですね。
さらに、驚いたのは、山岡鉄舟が、無位無官の単に徳川慶喜の護衛をする身分だったということに
驚きました。
山岡鉄舟も凄いですが、その山岡と会って、会談した西郷も凄いです。
さらに
明治になる山岡鉄舟は、明治天皇の教育係になったそうですね。
新撰組・坂本龍馬のような派手さは、ありませんが
山岡鉄舟は、カッコイイ男ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
本編では割愛しましたが、幕臣の山岡鉄舟が薩摩藩までたどり着くまでに殺されても全くおかしくはありませんでした。
彼を救ったのは同行した薩摩藩士の益満休之助でした。益満の誘導で来た人物を暗殺するわけにはいかなかったからです。
山岡のエピソードは、そのいずれもが彼が好漢であることを如実に示していますね。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(=島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の気迫のこもった意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。





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晴雨堂ミカエル 時代劇によっては、山岡会談を省いて直接勝西郷会談にしますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かにそういう時代劇はありますね。
時間の節約のためもしれませんが、両者の階段は事前に交渉した山岡の功績あってこそですから、やはり省略せずに取り上げてほしいものです。
オバrev これはまさに正論ですね。
武士の美学の一つに切腹があると思いますが、やはりその最後を、人としての尊厳を奪うようなやり方に対する批判について、さすがの西郷も武士として反論出来なかったでしょうね。
西郷ー勝の会見がどういう結果になったかは知りませんが、どちらに大義名分があり、道徳的、論理的に正論か、という展開だったのかな?
オバrevさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
人間として、主君としての尊厳を損ねる手法は、仮に天下を取っても大きな禍根を残します。
日本人らしい正論ですね。
西郷-勝の会談については次回の更新で紹介します。
山岡鉄舟
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ドラマでは、この西郷隆盛と山岡鉄舟の会談は
省略されて、勝海舟だけが江戸の町を救った英雄になっています。
ドラマでも、山岡鉄舟は、描いて欲しいです。
それに、山岡鉄舟がカッコイイのは
剣・禅・書の名人で、清水の次郎長と交友があり、静岡に移った幕臣のために尽くしたことです。
以前、山岡鉄舟の本を読みましたが、人間的にも大きな人物で、人間としての生き方では、かなり、尊敬できます。
青田さんへ
黒田裕樹 私も同感でしたので、歴史講座におきましては山岡鉄舟のかかわりもできる限り正確に記載しました。
鉄舟がいなければ、江戸の町と我が国の行く末はお先真っ暗だったかもしれませんからね。
ぴーち おはようございます!
山岡さん、なかなかの人物だったんですね!
こういう気骨な人物を歴史に埋もれさせてしまうのは
勿体無いです。こうして黒田さんがクローズアップしてくれた事は私達にとっても、山岡さんにとっても
ありがたいものだと思います♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
歴史の流れや真実をとらえる際には、結果だけではなく過程も重要です。
山岡鉄舟のような人物があってこその勝-西郷の会談ですから、省略せずに紹介しました。
今後も細かい流れを大事に更新していきたいと思います。
この後、4月に江戸城は無血開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避したほか、人口が100万人を超えた、世界でも最大規模の都市であった江戸とその住民を、戦火に巻き込まずに済んだことには大きな意義がありました。
なぜなら、江戸が焼け野原となり指揮系統が寸断されることで、欧米列強の軍事的介入を招きやすくなることもなく、また江戸の都市機能がそのまま残ったことによって、新政府による首都移転がスムーズに行われるようになったからです(詳しくは後述します)。
江戸城の無血開城の立役者は、西郷隆盛や勝海舟と一般的には言われていますが、その西郷と事前に命がけで交渉を行った山岡鉄舟の功績も見逃せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この時の日本人の尊敬できることは
全く、私心がなかったことです。
そして、感情ではなく、極めて、理性的に物事を
考えれる人間だった気がします。
その証拠に
フランス革命・ロシア革命では、戦死者・粛清による犠牲者・過去の全否定により、建物の破壊などが行われました。
日本は、鎖国で、遅れたと言われていましたが、
マンパワーでは、極めて優秀だと考えています。
逆に今の日本は、モノが溢れ、豊かになりましたが、幼稚な大人が増えた気がします。
たとえば、原発事故でも、官僚化しすぎて、伝略会社、役所も他人事のように考えるようになりました。
これって、私の思い違いでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、私心のなさが西郷など相手の気持ちを動かしましたね。
物量の豊かさは、必ずしも精神の豊かさをもたらしません。むしろ反比例しているような気がします。
ぴーち おはようございます!
>「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂(と)げられないものだ」
上に立つ者の手本の様な人物像ですね。
何事も捨て身で行動し、身を粉にして何かを成し遂げた人物はいづれ大きな足跡を残し、永遠に語り継がれる。私利私欲を捨てて、名を残す。
目先の欲に囚われずに常に世のため、人のために生きた本来の日本人の心をどうにかして回復させていきたいものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
自分を含めて、あまりにも私利私欲に走る俗物が多すぎます。
もっと大切なものがあるはずなのですが…。
このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺(かんえいじ)に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が明治元(1868)年5月15日に総攻撃を加えました。これを上野戦争といいます。
戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前佐賀藩の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで、戦いは1日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に、最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で、慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開いていた福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、遠くから聞こえてくる戦争の轟音が響くなかでも、平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、滅びの美学としては
「伊庭八郎」です。片腕の武士として、
箱館戦争での最後も見事でした。
ただ、願わくば、生き残って、西南戦争、日清戦争、日露戦争で、活躍して欲しかったです。
旧桑名藩士であり、鳥羽伏見の戦い、北越戦争、
会津戦争でも、幕府の側戦った「立見尚文」は、
生き延びて
日露戦争の時、(黒溝台会戦)で、日本軍の危機を救いました。
どちらにしろ、内戦ほど、お互いに消耗して、日本の国にとって、イイことはありませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 伊庭八郎はNTVの年末時代劇「五稜郭」で舘ひろしが演じていましたね。
仰るとおり戦死が惜しまれます。戊辰戦争は大規模な戦闘こそなかったものの、犠牲者の数は決して少なくありませんからね。
東北の片田舎でも
ろっぽん 宮城の秋田岩手、山形のトライアングル地帯の我が地域の地侍の我が先祖も秋田・久保田藩に出兵し、本家は会津に出兵し会津に出兵した本家は
北海道、箱館戦争まで交戦し北海道伊達の開拓に左遷になりました。そしてアイヌ人と結婚し
俺の祖母を産み、それで祖母は宮城で育ちました。
自分の中にはアイヌの血が流れています。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 東北戦争でも様々な史実がありましたからね。
ろっぽんさんのような家系の皆様は多く存在されておられるのではないでしょうか。
ぴーち おはようございます!
福沢諭吉はまるでそうなることを既に見通して
いたかのような落ち着きぶりだった訳ですね。
大砲の轟きも文明開化を示唆する祝砲である・・・くらいに聞こえていたのかしら・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 福沢諭吉は「これからは学問の時代になるからこそ、動揺せずにしっかりと勉強してもらいたい」という思いが強かったらしいですね。
上がしっかりしていれば、やはり人々はついてきます。
なぜなら、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突(しょうとつ)していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていましたから、その恨みは深いものがありました。
会津藩は会津若松城(別名を鶴ヶ城=つるがじょう)に籠城して抵抗を続けましたが、肥前佐賀藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年9月22日に降伏しました。この戦いを会津戦争といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂(と)げた白虎隊(びゃっこたい)などの悲劇のエピソードが多く残されています。なお、旧幕府軍の残存兵力は仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになりました。
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晴雨堂ミカエル 会津藩の兵士らは筒先から弾をこめるヤーゲル銃を使っていましたが、この頃になると官軍は手元で弾込めできるライフルも使い出すので、完全に不利ですね。
新選組といえば、副長助勤だった斎藤ハジメが会津に残り、明治では警視庁の警部に、結婚式のときはかつてのお殿様松平容保が出席。江戸時代が続いていたら有り得ないシチュエーションです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、兵器における圧倒的な違いが明暗をはっきり分けましたね。
斉藤一も数奇な人生を歩んでいますが、長生きできた分幸せだったのかもしれません。
なおまゆ こんばんわ。
会津はスケープゴートでしたね。
西郷ほどの人なら、戦わずに済ませることができたでしょうに。多くの命、多くの人材が喪われた戦争でした。
長州人としては、直視できない部分です。
しかし、そんな歴史を持った私達は、彼らの死を無駄にしないようにしなければなりませんよね。
子ども達に正しい歴史を伝えること、そして、政治に対して常に意識を持ち、選挙に参加することですよね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 確かにスケープゴートですね。
あそこまで執拗に攻め込むことはなかったと思いますが…。戦争後の処理もひどい話ですし。
仰るとおり、彼らの死を無駄にしないために今の私たちがしっかりと国づくりをする必要があると思います。
会津戦争の悲劇
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
会津戦争で、私が新政府軍にたいして、怒りを感じるのは、
戦死者の遺体を6ヶ月間放置したことです。
しかも、その後、罪人塚に遺体を一緒に埋葬したことです。
たしかに、長州藩の恨みは、わかりますが、ひどすぎます。
もし、西郷隆盛が、指揮官なら、こういうことは
なかったと思います。
というのも、庄内藩にたいして、西郷隆盛は、非常に寛大な処置をして、庄内藩は、西郷隆盛を敬愛していたそうです。
それと話は、変わりますが、
新撰組の一番の暴れん坊の永倉新八も大正時代まで、生き残っていますね。
青田さんへ
黒田裕樹 長州藩の会津藩に対する仕打ちは確かに無茶苦茶ですね。
萩市と会津若松市とが友好を結べないのも道理です。
西郷隆盛が指揮を執っていれば、と惜しまれますね。
仰るとおり、永倉新八も新選組の生き残りですね。
人は皆、数奇な運命を背負っているようです。
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ぴーち おはようござます!
白虎隊の悲劇は私も何度かドラマや映画で拝見したことがありましたが、池田屋事件にまで遡る因縁が付き纏っていたのですね。断片的に事実だけを覚えるのではなく、過去、現在、未来とこうして流れに沿って覚えていけば、歴史を学ぶ意欲も更に高まりそうですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 白虎隊のドラマで有名なのは昭和61(1986)年の年末時代劇ですね。
仰るとおり、池田屋事件の因縁が会津戦争を引き起こしているんです。今回のような「恨みの連鎖」は何とも言えない思いになりますね…。
会津の世直し一揆
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
会津が悲惨な状況になった原因として
池田屋事件の恨みの連鎖があると思いますが
高校時代の日本史の教師が、
「会津戦争で、会津が惨敗した原因の一つは
民衆の支持を得れなかった。官軍の道案内をしたのは、農民だった。」と言っていたのを思い出しました。
調べると
「会津の世直し一揆」は、会津が降伏後に10日後に起こっているんですね。
農民の不満の原因は、会津藩の京都守護職のための経費を捻出するために重税を課したこから起因しているんですね。
新政府軍は、戦争に勝つためには、民衆の支持を得ないと勝てないことが、わかっていた気がします。(赤報隊の利用など)
逆に
会津藩は、武士の意地が強くて、それがわかってなかったことが、勝敗を決めた気がします。
(もちろん、アームストロング砲の力もありますが)
会津藩は、保科正之(徳川家光の弟)が藩祖で、身分制度を超える思考は、持てないのは、仕方なかったかもしれませんが。。
これは、逆説ですが、もし、会津藩は、長州藩のように、民衆(農民)にたいして、善政をしいて
武士だけではなく、全員が一丸となって戦っていたら、新政府軍もかなり、苦戦したと思います。
榎本武揚(えのもとたけあき)らの旧幕府海軍は、会津戦争が続いていた明治元(1868)年8月に江戸を脱出し、仙台で新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)ら旧幕府軍の残存兵を収容した後に蝦夷地へと向かうと、年末までに蝦夷地を平定して、箱館の五稜郭(ごりょうかく)を拠点とする蝦夷共和国(えぞきょうわこく)を樹立しました。
しかし、新政府は蝦夷共和国を認めず、雪解けを待って翌明治2(1869)年に攻め込みました。これを箱館戦争といいます。榎本らは陸海それぞれで戦いましたが敗れ、同年5月に土方は戦死し、榎本は新政府軍に降伏しました。
こうして、鳥羽・伏見の戦いから約1年半にわたって続けられた戦いは、新政府による国内統一というかたちで終止符を打ちました。これらの戦いを総称して戊辰戦争(ぼしんせんそう)といいます。箱館戦争で降伏した榎本は、投獄されたものの生命は助けられ、出獄後に新政府に登用されて、その後長く活躍しました。
ところで、幕末から戊辰戦争の終結までに、多くの尊い生命が犠牲となったことに心を痛められた明治天皇は、その御霊(みたま)を慰めるため、明治2(1869)年6月に東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)を創建されました。東京招魂社はその後明治12(1879)年に靖国神社(やすくにじんじゃ)と改称され、国難に際して祖国に殉じた尊い英霊(えいれい)をお祀(まつ)りする神社として現在に至っています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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中年の星 五稜郭は私の家から徒歩で10分ぐらいのところにあります。
桜の名所でたくさんの観光客でいつも賑わっています。
土方歳三戦死の地(はっきりした場所は分かっていない)もたまに訪れますが、若い女性ファンなどが線香や花束を手向けています。
拍手喝采
クラチー 180000HIT、おめでとうございます!
凄い訪問者数ですね☆
これからも応援していますです!
(>∀<)
箱館政府。
晴雨堂ミカエル 榎本の構想は非現実的だとか言われています。特に安部公房などは最初から負ける戦を画策していたなどとひねくれた説をとっています。
私は素直に蝦夷国樹立を考えていたのかなと思っています。榎本は単なる海軍提督ではなく、ヨーロッパの言語数ヶ国語を操れる外交の第一人者、ドイツなどはプロイセンやバイエルンなど多くの国に分かれている例を知っています。
天皇を中心とした中央集権の帝国の傘下にある徳川公を元首とした公国をつくる事は不可能ではないと考えていたと思います。
なにより、幕臣や譜代の失業問題は深刻であり、薩長にその処理は難しいと考えても不思議ではありません。
箱館戦争を舞台にした映画をみてみたいものです。チャンバラの土方ではなく、陸軍司令官として銃撃戦を指揮する土方をみてみたい。
靖国問題
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、敵・味方に関係なく、その御霊(みたま)を慰(なぐさ)めるため神社を創ればイイのにと考えていたのですが、それが、靖国神社だったんですね。
お恥ずかしながら、靖国神社の歴史を知りませんでした。
そう考えると、中国・韓国が靖国神社参拝について、抗議するのは、どう考えても内政干渉だと思います。
もっとも、彼らが、戊辰戦争の時の犠牲者を弔うということまで、知っていて、抗議するなら、
その理由を聞きたいですが、」
中年の星さんへ
黒田裕樹 五稜郭も今では屈指の観光名所ですからね。
さぞかしきれいな桜並木でしょう。函館の桜ということは5月頃でしょうか。一度行ってみたいものです。
歴女の皆さんにとってイケメン(?)の土方歳三はファンも多いですからね。我が国の歴史を正しく伝える一助になってほしいものです。
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
最近は一日に300HITが珍しくなくなりましたからね。このまま順調にいけば3月中旬~下旬には200,000HITを達成できそうです。
訪問者の皆様に納得いただける更新ができるかどうかプレッシャーですが(笑)、これからも頑張りますよ。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、榎本の構想は絵空事ではなかったと思われます。
榎本のような傑物が生き残り、明治政府において活躍することで我が国の国力も上昇したと考えられますから。
箱館戦争は昭和63年の年末時代劇「五稜郭」で里見浩太朗が榎本を演じたのが有名ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 青田さんもご存じではなかったんですね。
本文にあるとおり、そもそもは国難に殉じた御霊をお慰めするために建てられたのが靖国神社です。
創建の歴史を知っていれば、少なくとも我が国の側から見当違いも甚だしい抗議の声が挙がるのが極めて異常なんですが…。
ニート大学生
靖国神社って明治の時代にはすでにあったんですね。
知らなかったです。
近年、靖国神社の参拝を朝鮮の方たちが非難していましたが、
靖国神社の創設の歴史を知ってから非難してほしいですね。
自分も、日本の歴史を形作ってきた、先人たちを参拝しに行きたいです。
ニート大学生さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
靖国神社については、創建の時期も含めて多くの国民から誤解を受けているのが現状です。
国難に殉じた皆さんを、好き嫌いを度外視してお慰めするのは我が国古来の文化でもあります。
歴史を知らずして歴史に異議を唱えるほど愚かな行為はありませんね。
徳川家による江戸幕府の大政奉還から王政復古の大号令を経て、政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、なさねばならない課題が山積していましたが、なかでも最大の問題は、「いかにして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということでした。
明治維新が始まった頃の19世紀後半のアジアは、帝国主義(=政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)を標榜(ひょうぼう、主義や主張などをはっきりと示すこと)する欧米列強による植民地化が進んだ、いわゆる「草刈(くさか)り場」のような状態であり、超大国と思われていた清国(しんこく)ですら、アヘン戦争やアロー戦争の敗北によって香港(ホンコン)などの主要都市を諸外国の支配下に置くことを認めざるを得ない、という厳しい状況だったのです。
そんな大変な時期に、我が国の命運を託された明治新政府の責任感や重圧、加えて周囲が外敵だらけという心細さは、現代の私たちには想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ニート大学生 欧州列強から、自国を守らなければいけないプレッシャーって凄いですよね。
今でいう、国内企業が、外資に喰われないようにみたいな感覚でしょうか。
当時の日本の軍事力って、どれほどのものだったんでしょう?
何にせよ、今の日本があるのは、新政府のおかげってことですかね。
ニート大学生さんへ
黒田裕樹 > 欧州列強から、自国を守らなければいけないプレッシャーって凄いですよね。
仰るとおり、新政府は相当なプレッシャーだったと思います。頂点に立った者だけが感じる恐ろしさともいえるでしょうか。
> 今でいう、国内企業が、外資に喰われないようにみたいな感覚でしょうか。
TPPの問題も当てはまるでしょうか。参加の有無も含めて、我が国のあらゆる産業は心してかからねばなりません。
> 当時の日本の軍事力って、どれほどのものだったんでしょう?
軍事力は近代兵器を使用しつつあるものの、全体の人口の1割に満たない武士に頼ってばかりでは不安が尽きませんでした。やがて新政府は徴兵制を決断します。
> 何にせよ、今の日本があるのは、新政府のおかげってことですかね。
それは間違いないですね。新政府は今後も綱渡りをしながら我が国を支えることになります。
想像を絶するストレス
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
幕末・明治維新は、ドラマなどでは、明るく描かれますが、
明治政府の人々にとって、想像を絶するストレスだったでしょうね。
戊辰戦争だけでも、相当、重いのに、同時進行で
新政府の仕事を遂行しなければいけません。
箱館戦争が、明治2年です。
明治2年12月には、官軍の主力であった奇兵隊が反乱です。
そして、明治2年の11月には、長州藩の大村益次郎が暗殺されています。
明治3年には、薩摩藩の小松帯刀が病死しています。
つまり、戊辰戦争が完全に終結する年、その直後
に新政府軍時代も非常に脆い状況であったということですね。
本当に生き残った人間も命懸けです。
明治初期に、新政府軍の要人の暗殺・または、病死が多いのには、驚かされます。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当なストレスだったと思います。
国内外で何らかの争いごとやもめごと等の数えきれない問題が至るところで発生している中で、待ったなしで改革を行わなければならないし、しかも資金が枯渇している。
通常の企業であればとっくの昔に自主廃業しているレベルでしょう。
この時代の要人は、10年分のエネルギーを1年で使っていたのではないでしょうか。だからこそ無理があり過ぎて、病死や暗殺に至ると思われます。
当時の外国人の記録
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
当時の西洋人の日記を以前、NHKで紹介されていました。
「この国は、人類史上、信じられない速度で
変化している。
なぜなら、西洋が10年掛ったことを1年に実現しようとしている。
しかも、この国の主要産業は、米と絹しかないのに。。」
学生時代、日本史の授業で、『明治時代』をあっさりと「あ~そうか。」と思っていましたが、
この明治政府の速度は、尋常ではありませんね。
しかも、全てを同時進行です。
現代の日本は、『うつ病100万人』『自殺者数年間3万人』と言われていますが、
この時の明治政府の主要メンバーは、現代人のうつ病どころのストレスでは、ありませんね。
大阪の
H市長の改革速度は、速いので
もの凄い、ストレスだと思うので、本当に頭が下がります。
教育改革
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
明治時代の日本の国民の教育レベルが上がった
原因としては、森有礼の功績が大きかったと
思います。
良妻賢母教育は、今日で、非民主的だという風潮がありますが、家族制度を残しながら、国民の教育レベルを上げるには、かかせないと思います。
森有礼については、これからのブログの更新で
取り上げると思いますので、(ネタバレにならないようにします。)楽しみにしています。
青田さんへ その2
黒田裕樹 明治時代のスピードについてはそのとおりです。
国益のためにすべてを投げ打つ覚悟がなければ務まらないでしょう。
今の政治家とは比べ物になりません。
教育問題についてはいずれ取り上げますが、しばらく時間をいただくことになるかと思われます。
ぴーち おはようございます!
何やらこの頃は凄まじい世の中だったのですね。
しかしながら、裏を返せば日本人はあらゆる困難をこうして跳ね返していける底力があり、ここまで過酷な世の中でも一生懸命に耐えぬく力を備えている国民でもあると言う事ですものね。この先の日本も決して順風満帆な世の中とは言えなく、起こりうるあらゆる苦難も先人の活躍を手本とし知恵を出し合い、乗り越えていける事を信じたいです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
日本人の底力は大したものではありますが、できれば何度も同じ目にあいたくはないのもまた事実ですね。
しなくてもいい苦労はしないに越したことはありません。
政治を含めて今の自堕落な日常は、将来のツケに回らなければ良いのですが…。
しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府が、いくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。
そこで、新政府は我が国の元首であり長い歴史を誇る天皇の意味について深く考え、至高(しこう)の権威をお持ちの天皇の名の下で政治を行う以外に、国民をまとめると同時に彼らの支持を得る方法は無いという結論に至りました。
また、折からの尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)によって、皇室に対する尊敬の思いが国民の間で高かった当時の世情(せじょう)も、新政府を後押しする流れにつながりました。
明治元(1868)年1月、新政府は兵庫に欧米列強の代表を集め、王政復古と今後は天皇が外交を親裁(しんさい、君主が自分で裁決すること)することを通告するとともに、旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束して、対外関係を整理しました。次はいよいよ内政の番です。





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オバrev 忙しくて久しぶりの訪問になりましたが、開けてビックリ!(^^ゞ
明治維新って、全てのことが同時に激変したんですね。また皆が必死でがんばっていたことがよく分かります。
内政は内政でまた大混乱だったと思うのですが、これら全てに対応できたのは、やはり天皇の力が大きかったんでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 お忙しいところご訪問くださって有難うございます。
仰るとおりすべてが同時に激変ですから並大抵の苦労ではなかったと思います。
政府の権力だけでは心もとないので、我が国伝統の天皇の権威を活用した。だからこそ内政の混乱を抑えることができました。詳しくは次回(17日)以降に紹介しますね。
ぴーち おはようございます!
やはり長い日本の歴史の流れの中で常に継承され続けて来た天皇家の歴史はそのまま、日本にとっても
また諸外国にとっても、カリスマ的存在であり続けて来た訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
皇室のご存在は世界においてもカリスマですし、いわんや内政においてはです。
その具体例を次回(17日)から明らかにしていきますね。
万国公法
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
明治政府が、幕府が結んだ不平等条約という
重い十字架を引き継ぐという素早い決断は
良かったですね。
もし、そこで、決断しないと
① 欧米との対応で、内政に着手できない。
② 万国公法を無視する行為として、国際社会から、相手にされない。
ただ、現代でも、国際法を守らない外国があるのに、100年前の明治政府の人材は、優秀ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
明治政府は、結果的に国際法を知らずに条約を結んだ旧幕府の失敗から大いに学んだといえます。
苦しくとも先の約束を反故にしない。明治政府の決断は今の我が国の発展に確実につながってますね。
五箇条の御誓文の主な内容としては、公議世論(こうぎよろん、世の多くの人々の様々な議論のこと)の尊重や、攘夷(じょうい)をせずに開国和親を推進することなどが挙げられますが、これらは明治新政府にとっての、いわゆるマニフェストでもありました。
御誓文には、明治新政府の当面の基本方針を、天皇が神々に誓われるというかたちにすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは、21世紀の某政党のように簡単に破ることは許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。
なお、御誓文の内容は、参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草(きそう、文案をつくること)したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を加えて完成しています。
(※五箇条の御誓文の詳細については次回[1月18日]の更新で紹介します)
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
『五箇条の御誓文』は、中学の歴史の授業で、
単純に『だから?何?』と思っていましたが、
そんなに重い意味を持つマニュフェストだったんんですね。
ただただ、驚きです。
たしかに、この時代の明治政府は、マニュフェストを掲げたら、その後、たとえ、時間が掛っても結果的に実現しています。
それに比べ
今の時代のマニュフェストは、重みがありません。
これは、個人的な考えですが、やはり、神に誓ってという前提は、必要だと思います。
もちろん、その前提には、神話の大切さがあります。
今の日本は、神話にたいして、否定的な考えがありますが、アメリカのような移民国家以外、どこの国にも神話があります。(神話があるのが世界の常識なんですが)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、五箇条の御誓文は明治政府が天皇の権威を借りて表明した、命がけのマニフェストでした。
「神に誓って」という表現は、神話の重要性を知っている人ならその重みをよりご理解いただけると思います。
少なくとも、現代の政党が口にする軽々しい偽マニフェストと一緒にしてはいけません。
ぴーち おはようございます!
この当時の政治家達は自分の身を挺してまでも。。という覚悟が伺えますね。
そして確かに現在の政党が同じ言葉を引用して
政党を立ち上げたとしても、ただ上辺だけのスマートさを引用しただけで、言っている本人達にその覚悟がなければ何の意味もありません。マニフェストもそうですが、維○の会などもこの先、どういった活躍をするのか展開を見守りたいですが・・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、現代の上辺だけとは比べ物になりません。
当時の覚悟と同じものを持っているのか、私も○新の会あたりには地元として注視する必要がありますね。
一、広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ
[意味:広く会議を開いて、あらゆることを公(おおやけ)の議論の場で決定すべきである]
一、上下(しょうか)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フヘシ
[意味:上の者も下の者もお互いに協力して、国家を治める政策を行うべきである]
一、官武(かんぶ)一途(いっと)庶民(しょみん)ニ至(いた)ル迄(まで)各(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂(と)ケ人心(じんしん)ヲシテ倦(う)マサラシメン事ヲ要ス
[意味:役人や軍人、あるいは庶民に至るまで、それぞれの意志が達成できるようにし、途中で人々があきらめたり、やる気を失ったりするようなことがないようにすべきである]
一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道(こうどう)ニ基(もとづ)クヘシ
[意味:過去のあやまった風習や弊害をやめ、何事も天地の道理たる人としての道にのっとるべきである→「攘夷(じょうい)をやめ、国際法に従うべきである」とも解釈されています]
一、智識(ちしき)ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スヘシ
[意味:知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎をなすように奮い立つべきである]
ちなみに、五箇条の御誓文が発表された明治元(1868)年3月14日は、江戸で西郷隆盛と勝海舟との会談が成立した日でもあります。当時の御所は京都にありましたから、我が国の西と東で同じ日に歴史的な出来事があったんですね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ある疑問があるのですが、明治天皇は
東京に移られましたが、
冷静に考えたら、平安時代以来、京都
から、離れたことがない皇族が
よく、東京に移動されたと感服します。
(平清盛の福原遷都以外)
当然、公家・皇族内部からも反対があったと思うのですが、
どういう経緯で、天皇の東京(現在の皇居)が
成功したのでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 東京遷都の件については近日中に紹介しますので、いましばらくお待ちください。
そういえば、
晴雨堂ミカエル 東京は法的にはまだ首都ではないようですね。以前の日の丸と同じく、慣習上、国際法上、首都扱いであって、法理論的にはまだ京都の可能性すらある。
なにしろ、帝は関東へ行幸したまま帰ってないことになっていますから。
ぴーち おはようございます!
>官武(かんぶ)一途(いっと)庶民(しょみん)ニ至(いた)ル迄(まで)各(おのおの)其(その)志(こころざし)ヲ遂(と)ケ人心(じんしん)ヲシテ倦(う)マサラシメン事ヲ要ス
文章に認めてしまうと簡単に聞こえてしまいますが、
これを順守していくのは大変なことだったでしょうね(^^ゞ
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 法的には仰るとおりですね。
それが京都の人々の矜持にもなっているという話を聞いたことがあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
「言うは易し、行うは難し」を地で行くような御誓文です。それだけに相当の覚悟が当時の新政府にはあったと思われますね。
具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる三職(さんしょく)を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする、三権分立制を採り入れました。
三権分立制についてはアメリカの憲法を参考にしており、議政官は上局(じょうきょく)と下局(かきょく)に、また行政官は神祇官(じんぎかん)・会計官・軍務官(ぐんむかん)・外国官にそれぞれ分かれていました。
議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の各官を総称して七官(しちかん)とも呼ばれます。なお、三権分立といってもそれぞれの独立性は低く、また政体書によって高級官吏(かんり、役人のこと)を4年ごとに互選させるようにしていましたが、実際に行われたのは一回だけでした。
ちなみに明治政府の組織については、この後も短い期間で次々と変更されるので注意が必要です。
※当時は旧暦=太陰太陽暦(たいいんたいようれき)を採用していたため、1年が13ヵ月になる年がありました。この場合は同じ月が連続することになりますが、2回目の月を閏月(うるうづき)として区別していました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
いよいよ、司馬遼太郎さんの著書の
『明治という国家』の始動です。
王政復古の大号令という平安時代に戻るようなことを宣言したと思えば、
アメリカの三権分立を行おうとします。
まさに、暗中模索、思考錯誤政府の始動です。
当時の政府の要人は、命懸けですが、
この時代に妙に高揚感を感じます。
余談ですが、この前、居酒屋の前で、赤ちゃんを
抱いている男性と話していたら、その男性は
この子供の名前を『明治(あきはる)』と名付けたそうです。
理由は、あの時代に憧れがあると言っていました。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この時代は試行錯誤を繰り返しながら様々な制度を作り上げていきます。
西洋の真似をするかと思えば、我が国の伝統を重視しようとする。前例がないんですから大変だったと思われますが、その分やる気も大いに向上したことでしょう。
明治時代をこのように振り返れば、名前をお付けになられるお気持ちも分かるような気がします。
わろ 太政官と太政大臣は、べつものなのですか?
このころの官職の名前のセンスって、まだまだ昔っぽいですねw
わろさんへ
黒田裕樹 太政官が機関名、つまり役所名で、太政大臣はその長官にあたります。
今でいえば内閣府と内閣総理大臣でしょうか。
この当時は王政復古の精神でしたから、官職名も先祖返りしているといえますね。
ぴーち おはようございます!
>智識(ちしき)ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スヘシ
早速、五箇条の御誓文に従って
まずは遂行されていったのですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、有言実行ですね。
ただ、この頃の政府は試行錯誤の繰り返しで、より良い制度になって落ち着くまでこの後何度も変更することになります。
前向きな変革であれば問題はないですね。ひるがえって現在は…。
そこで、政府は応急の措置(そち)として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年3月15日に、全国の庶民に向けて五榜(ごぼう)の掲示(けいじ)を公布しました。
五榜の掲示の主な内容としては、君臣や父子(ふし)あるいは夫婦間の道徳を守ることや、徒党(ととう、ある目的のために一味などを組むこと)や強訴(ごうそ、集団で訴えや要求をすること)の禁止、キリスト教の禁止、外国人への暴行の禁止、郷村(ごうそん、村落のこと)からの脱走の禁止など、旧幕府の政策を引き継いだものでした。
このうち、キリスト教の禁止については欧米列強の反対が強く、明治6(1873)年に廃止されましたが、これによって、我が国で鎖国(さこく)と呼ばれた状態が完成して以来、約230年ぶりにキリスト教が公認されたことになりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
幕末から、明治を舞台にしているドラマ・映画を
観ていると
幕末までは、血みどろの戦いで、
明治になると、まるで、何もなかったかのような
平安な生活を描いていて、
それを観るたびに
「ここまで、極端に何もなかったようにスグになれるはずはない。」と思っていました。
というのも、警察機能は、今まで、幕府や藩が行っていたのに、それが失くなって、
明治政府が警察組織を創るためにタイムラグが
あると思うからです。
(組織は、スグに出来るものではないので)
実際には、どうだったんでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 もちろん簡単には行きませんでした。
明治の御代(みよ)になっても、維新の功労者を含めた要人の暗殺はあとを絶ちませんでしたし(詳細はネタバレになるのでここでは省略しますが)。
だからこそ、五榜の掲示で抑制する必要があったのです。
最近の歴史観では五榜の掲示のことを「前近代的な抑圧である」という見方をしているところが多いようですが、それは今の平和な世の中で暮らしている我々からの一方的な見方に過ぎません。
時代感覚
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
歴史を振り返る時、現代の感覚で
イイ、悪いを論じるのは、危険ですね。
戦後は、特にそういう傾向が強い気がします。
歴史の鉄則として、歴史は、戦いに勝った人間が
自分の都合のイイように書きますから
◆ 石田三成は、悪者。→ それを書くのは
戦いに勝った徳川幕府。
◆ 徳川綱吉は、暗君。→ それを書いたのは、
徳川家綱の側近の新井白石。
◆ 田沼意次は、悪者。→それを書いたのは
松平定信。
◆ そして、日本の古来からの教えは、悪。
→ それを押しつけたのは、GHQ。
いつも、思うのですが、戦いは、天気のようななものです。
勝者の一方的な歴史観は、かなり、偏り、そして
イメージとして、歪めますね。
ぴーち おはようございます!
この頃の決まりごとは五箇条の御誓文にせよ、五榜の掲示にせよ、5の数字に拘りがあったんですね^^
確かに余りに決まりごとを増やしてしまうと守っていくのが大変になりますものね^^
応援凸
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、私たちは「勝者側からの歴史」に惑わされてはいけません。
事実をしっかり見極め、ある時は冷徹になってでも判断をしなければならない。
それができなければ、歴史を語る資格はありません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 言われてみればそうですね(^^ゞ
決まりごとは単純明快でないと多くの人に受け入れられないでしょうから、これで良かったのかもしれません(中味はともかくとして)。
新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(おおさか、現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦火によって都市機能を破壊されることなく新政府に引き渡されてからは、江戸に新首都を置くべきである、という意見が強くなりました。
江戸に遷都する理由の一つとしては、それまで幕府の本拠地として栄え、100万人以上の人口を抱える世界有数の大都市である江戸が、幕府がなくなったことで寂(さび)れてしまう危険性があったことでした。
もう一つの理由は非常に現実的なものでした。新たに首都を定めるということは、役所などの政治システムや、商業施設などの経済システムなども新たに備えなければいけませんが、新政府には首都の機能を一からつくる資金もなければ、それだけの広い土地も我が国にはありません。
しかし、江戸には約260年間続いた幕府の組織がそのまま残っているほか、商業の流通網(りゅうつうもう)も長年のノウハウが活かされていますし、かつての武家地の面積は非常に広大で、再開発が容易であるというメリットがあったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ろっぽん 80年代ころ遷都問題が起きた頃、サントリーの佐治社長が仙台に遷都をという案に「あんな熊襲なんかのところに」という差別発言をしサントリー製品の不買運動が東北でおきましたが
関西財界人の中には、ウチが中心やという潜在意識があるんでしょうね
いつぞや黒田様が東西の競争意識を持つ必要みたいなコメントをしましたが、いつもエキサイトするのは関西人だけですよ。
上方落語の笑福亭笑瓶が西と東の元朝参りの違いを言ってましたが、東京の元朝参りに行って驚いたのは賽銭入れるのに列ぶことで大阪ではならばずに遠くから投げ込んだりワヤワヤなんだと言ってました。確かに価値観の違うところがあるような気がします。
たしかに。。
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
個人的には、大阪が首都にならなかったので
淋しい気もしますが
逆に大阪首都にならなかったゆえに、
民の力が残った気がします。
大阪以外は、武士の町だったのに
大阪だけが商人の町というのは、大阪は
考えようによっては、江戸時代も特別区のような
年ですね。
別に東京に首都が出来ても、東洋一の経済都市
東洋のマンチェスターになるので
大阪は、潜在能力はあったような気がします。
ただ、心なしか、今の大阪には、かつての繁栄が
信じられないような気がしますが
これって、少し、ネガティブ思考でしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 一口に日本人といっても色んな気質がありますよね。
私は関西人なので、確かに対抗意識はDNAとして刻み込まれているようです(笑)。
明治時代の遷都も、結果としてこれで良かったのではないか、と本音では思っているのですが…。
青田さんへ
黒田裕樹 大阪は江戸時代の頃は世界一進んだ経済都市でしたからね。
アメリカのワシントンやニューヨーク、あるいはデトロイトのように、それぞれの分野で栄える都市があっても良いはずですが、あまりにも東京一極集中が進んでしまったことが、他の都市のやる気のなさを生んでしまっているのかもしれません。
恐るべし明治人。
晴雨堂ミカエル 明治の人々は王朝回帰の体をとりながら恐ろしいほど大胆かつ合理的に政策を進めるのが特徴ですね。
中には和算や漢方を否定したり、日光などの文化財を蔑ろにして逆に西洋人に再評価されるなど、行き過ぎの弊害もありましたが。
しかし、近頃の自民党や民主党のチンタラぶりを見れば、廃藩置県や廃刀令などは鮮やかな大鉈であるし、下手な仕分けをして混乱させた現政権に対して、こだわりより合理性を重視して江戸の都市機能と官僚を使う。
左翼運動にしても、植木枝盛は欧米でも考え及ばなかった男女同権策を衆院にあげたり、現在の運動家たちは軽音楽奏でながら新感覚のデモとイイ気になっているが、枝盛は民権音頭を自作自演して芸子たちに広める。今に例えたらAKBに政府批判を歌わすようなもの。
今を思うと明治の優秀な気質に驚くというより、全体的に現代人の退化が気になります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明治政府の大胆さには舌を巻きます。
確かに失敗もありましたが、政策のすべてに「国益のため」という背骨のしっかりとした精神がありました。
そのあたりが現代人との大きな違いでしょう。「○○ごっこ」の自作自演で楽しんでいるレベルでは、明治人には永久に追いつけません。
ストレスに強い
青田です。 黒田先生、晴雨堂ミカエルさん
こんばんは
青田です。
明治政府の政治家があれだけ、大胆で、合理的な
ことが出来た理由として、
やはり、幕末での、壮絶な幕府との戦いを生き残った人材が明治政府の中枢にいたからだと思います。
あれだけの死線を越えたストレスを越えると
大胆な政策を行える胆力がつくからです。
逆に、現代の政治家は、政治家になるまでに
死線を乗り越えるようなストレスの体験がありません。
その結果、国民の人気を取るか、派閥ないの調整に終始してしまいます。
もし、現代の政治家が明治時代にタイムスリップするとストレスで、即死(廃人)になると思います。
もしかたら、現代人は、戦前を乗り越え、高度成長時代を創った先人の遺産で、生きているのかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに強いと思います。
「我が国を守るため」という強靭な意志が支えているからこその胆力でしょうね。
現代人の説が仰るとおりだとすると、そろそろ遺産を食いつぶす時期だとすれば…。
ぴーち おはようございます!
学生だった頃、まじめにアメリカの首都はニューヨークだと勘違いしていた私です(^_^;)
ワシントンDCよりもニューヨークの方がはるかに市内総生産も高く全米第一位という所からも首都である存在感をニューヨークに明け渡してしまっている様に思いました(^_^;)
その時に首都であるからと言って必ずしも経済発展が著しいわけではないのだと感じた次第です・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 わたしもそうでした(^^ゞ
「ワシントン!? 何でニューヨークとちゃうの!?」と思ったものです(笑)。
世界中の国が「首都=経済発展No.1」とは限らないんですよね。
ただ、当時の明治政府は全国一丸となって近代化を目指していましたから、新首都に権力を集中させる必要があり、その意味でも江戸が選ばれたという事情がありました。
今はもうその必要がないとは思いますが…。首都移転よりも首都機能の分散が求められるでしょうね。