幕府は、産出した金銀を使用して貨幣(かへい)の鋳造権(ちゅうぞうけん)を独占(どくせん)して財政をコントロールするとともに、江戸や京都・大坂・長崎・堺などの主要都市を直轄とし、商工業や貿易を統制することで財源を確保しました。
設立当初の幕府は強大な軍事力を持っており、その主体となったのは将軍直属の家臣団である旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)でした。彼らは1万石未満の直参(じきさん)と呼ばれ、将軍に謁見(えっけん、目上の人に会うこと)を許される(=旗本)のと許されない(=御家人)との身分の違いがありましたが、いずれも江戸に住み、石高や才能に応じて様々な役職に就(つ)きました。
なお、享保(きょうほう)年間の1722年の調査において、旗本は約5,200人、御家人は約17,400人いたとされています。これらに旗本の家臣を合わせて、俗に「旗本八万騎(はたもとはちまんき)」と称されました。




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ぴーち こんにちは!
江戸時代の推定人口は3000万人だと
言われている中の8万人ですか。
現代の日本人口約1億2000万人に換算すると4倍なので32万人くらいの割合でしょうか(すみません、勝手な憶測です)
現代の自衛隊の総数が約24万人という事ですので
それよりも大勢居たという事ですか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、言われてみれば確かに仰るとおりですね。
そう考えれば、設立当初の幕府軍の層の厚さがうかがえます。
ただし、この層の厚さは時間が経つとともに…。
時の流れは残酷なこともあります。
旗本八万騎
晴雨堂ミカエル よく旗本八万騎は虚構という話を耳にしますが、そこそこの旗本なら槍持ちや従卒が従えていましたし、大身旗本ともなれば数十人の家臣がいた事でしょう。
これらを合わせれば、八万騎は誇張にしても八万兵はいたと思いますが、そのあたりのデータはお持ちですか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 残念ながらそこまでの資料は入手しておりません。
ただ、仰るように八万兵は少なくともいたと考えて良さそうです。
幕府の設立当初は大いに役立ったことでしょうね。
なぜなら、我が国では憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)での「和の精神」に象徴(しょうちょう)されるように、何事も多数の人間の話し合いで決めるという慣習が昔から存在するからです。多数決の論理が我が国でもてはやされる一方で、独裁政治が長続きすることが好まれないということが、過去の歴史から学んだ家康には分かっていました。
そこで、家康は将軍の下に数人の年寄(としより)を置いて、彼らの合議制(ごうぎせい)によって政治上の重要な決裁(けっさい)を行う方式を考案し、やがて家光の頃までには、年寄が老中(ろうじゅう)と名を変えて定着しました。
このシステムによって、将軍は老中が決めたことを承認するだけで済み、将軍自身の資質に関係なく幕政がうまく機能するようになったのです。家康の没後に始められた「独裁者を出さないシステム」が定着したことで、幕政の安定化が図(はか)られることになりました。
なお、老中の上には臨時職として大老(たいろう)が置かれることもあり、通常は重要事項の決定のみ合議に参加しました。




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ぴーち こんにちは!
現代の政治体制も元はといえば、聖徳太子の「十七条憲法」からの和の精神を脈々と受け継いで来ている訳だったんですね!
そして家康の時代に「独裁者を出さないシステム」理論が出来上がったのですか。
確かに独裁政治は、さして苦労なくすぐに法案が成立してしまうというメリットはあるでしょう。けれど、何事も多人数の意見を聞いて法案を決定させようとすると、なかなか決まりづらいデメリットはあるものの、大勢の異なる角度からの意見で推し進めるという事は慎重に論議された分、失敗も少なく済みますものね。
それが本当の意味の前向きな論議であって欲しいですけれど(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の風土には合議制の方があっていますね。
ただ、今回のような非常時の場合には、多少は強引であっても独裁政治のような即決の方が良いかもしれません。
もっとも、即決した事案に問題があってはもっと大事(おおごと)になってしまいますが…。
J時永 合議制と日本古来の和の精神を結びつけるとは流石です!なるほど!やっぱり根付いたやり方でやった方が長く続くんですね。
合議制の良い点は複数人で決めるのでそれぞれの有利不利が極端にならないところですかね。その反面決断を出すのに時間がかかる、という短所もあります。
一代目はそのカリスマ性で独裁政治を行い、二代目以降は将軍の資質を考慮して合議制…こう思うと鎌倉幕府の政治体制を思い出します。鎌倉幕府は実朝の代で終わってしまったので北条氏の力が大きくなってしまいましたが、徳川家は嫡流だけでなく御三家御三卿もあったのでそれが旗本御家人の進出をある程度抑え込んだのかと思います。こうした幅広い「部下に対する対策」が260年の歴史を生み出したのでしょう。途中で少し狂ったりしましたが・・・。
現在では…確かに時間も迫ってますしトップの即決力が必要ですね!どうなるんでしょうねー。
それでは!
J時永さんへ
黒田裕樹 有難うございます。
我が国に根付いた手法は、仰るとおり組織を長持ちさせますからね。
鎌倉幕府は頼朝亡き後の源氏がガタガタだったのが響きました。徳川家は家康が鬼籍に入るころまでに盤石になっていましたから、この差は大きいと思います。
現状の場合は、やはりトップの迅速かつ的確な判断が待たれるところですね。
合議制
青田です。 黒田先生、J時永さんへ
こんばんは
青田です。
私は、合議制について、非常にネガティブな
イメージを今まで持っていました。
日本の組織で、
根回し、談合、癒着、無責任、派閥
これらを、よく、観るからです。
しかし、民意を反映させるというのは、
やはり、合議制ですね。
合議制は、時間もかかるし、面倒なことも
多くあります。
しかし、組織を長続きさせるには、最適なんでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 合議制は根回しに通じますから、確かにネガティブなイメージがありますね。
ところが、いざ自分がその場に立つと「事前に聞いていない」と拒否反応を示すことになる。
日本人の特性がよく表れていると思います。
HANA子 日本と古代ローマの奇妙な類似性については塩野七生先生の著書以外にもよく聞かれる説ですが、
ここでもそれを強く感じるように思います。
巨大な国家の運営をしていく中で、一人の人物に多大な権限と責任が重くのしかかる状況を回避する仕組みということで、帝政ローマと徳川幕藩体制は似ていないでしょうか?
徳川家は記事の通り年寄り(後老中)の合議制によって将軍を補佐する仕組みを作り、その下に巨大な官僚組織を作って国家全体を見通す仕組みを構築していきました。
帝政ローマは共和制ローマの仕組みを上手く使い、元老院・官僚組織をより時代にあわせて構築しなおして、元首=皇帝を頂く仕組みをつくって巨大な国土を運営していきました、と
ま、殆ど人の受け売りの話なんですが悪くないんじゃないかなと。
そうそう、全然関係ないですが、古代ローマ人と日本人って温泉好きって共通項もあるんだそうですw
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、確かに共通点が多いですね。
いくら歴史に学んだ家康でも、まさか古代ローマのことは知っているとは思えませんから、過去の失敗から学んだ人間がたどり着く道が同じだったということかもしれません。
目付は若年寄の下に置かれて旗本・御家人を監察し、大目付は老中の下に置かれて大名を監察するのが業務でした。この二つは区別が非常にややこしいので注意が必要です。
幕政における実務の処理は、老中の下に置かれた寺社奉行(じしゃぶぎょう)・江戸の町奉行(まちぶぎょう)・勘定奉行(かんじょうぶぎょう)のいわゆる三奉行(さんぶぎょう)が担当しました。
これらの幕府の役職には原則として数名の譜代大名や旗本らが就任し、1ヵ月で交代する月番交代制(つきばんこうたいせい)で政務が行われました。また重要な政務事項については、評定所(ひょうじょうしょ)において役職をまたいで合議されました。
なお、地方の組織としては京都所司代(きょうとしょしだい)を置いて朝廷の統制や西国大名の監視を行い、大坂や駿府(すんぷ、現在の静岡)には城代(じょうだい)が置かれました。また長崎や奈良・佐渡・日光(にっこう)などの要地には遠国奉行(おんごくぶぎょう)が配置され、天領には関東・飛騨(ひだ)・美濃(みの)などに郡代(ぐんだい)が、その他には代官(だいかん)が置かれました。




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ぴーち こんばんは!
そうですね(^^ゞ
頭が固い私は
既に冒頭の部分で、訳が判らなくなってしまったので、ご説明に沿って図式にしてみましたら、何とか理解出来ましたm(_ _)m
日光は今でこそ、そう遠くない所ですが、当時としては随分と遠い場所として認識されていたんでしょうね。
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですね(^^ゞ
> 頭が固い私は
> 既に冒頭の部分で、訳が判らなくなってしまったので、ご説明に沿って図式にしてみましたら、何とか理解出来ましたm(_ _)m
申し訳ございませんm(_ _)m
図式が難しいのがブログの欠点ですね。
私にもう少し絵の才能があれば…。
> 日光は今でこそ、そう遠くない所ですが、当時としては随分と遠い場所として認識されていたんでしょうね。
遠国奉行の意味は、天領のうち重要な場所の奉行の総称だったようです。
もっとも、ぴーちさんの仰るように遠くて目の届かない場所だからこそ、奉行職を置く必要があったと考えられますね。
十三人の刺客
晴雨堂ミカエル 昨秋、「十三人の刺客」リメイクが封切られました。
チャンバラ・アクション娯楽大作なので、時代考証云々をいっても野暮なのですが、やはり気になる点は多々あります。
その一つに、主人公は御目付役の旗本なのですが、老中に呼び出されて某藩主の暗殺を命じられる場面があります。
目付の支配は若年寄なのに、若年寄の頭越しに老中が命じた例は史実にありますか?
また主人公は知行七百石、たしか目付は役料千石のはず、これもありえますか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、時代考証の細かいところは結構いい加減なところがありますよね。
事例のお話も、いずれも通常では有り得ない話です。ただし、後者は足高の制が適用されていれば考えられないこともないですが…。
HANA子 こうして見ると、これまでの鎌倉・足利幕府のころの体制の足りない部分をキチンとカバーしているところがよくわかりますね。
ある程度地方の裁量の自由を認めつつ、力を蓄えて反抗に出るようなことのないよう目を光らせる監視体制を図っているところなど特に。
それにしても、江戸時代の日本って封建体制であると同時にガッチガチの官僚国家でもあったんですね~
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。歴史に学んだ家康の終着点が今回のような体制を作ったといえるでしょう。
官僚国家についてもそのとおりだと思います。思えば我が国は昔から官僚支配に慣れているからこそ、55年体制が長続きしたのかもしれませんね。
柳生宗矩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
時代劇で、有名な柳生宗矩は、一介の剣法指南役から
大目付にまで、出世したのは、異例のことですね。
しかも、門弟は、全国の大名の剣法指南役です。
まるで、江戸時代のCIAですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに柳生宗矩は大出世ですね。
武断政治が色濃く残っていた時代ならではでしょう。
大目付という言葉がピッタリな気がします。
江戸時代初期の大名は、領国の一部を有力な家臣に分け与え、その支配を認める地方知行制(じかたちぎょうせい)が行われていましたが、やがて有力な家臣を城下町(じょうかまち)に集住(しゅうじゅう)させたうえで、領内全体を大名が直轄(ちょっかつ)して蔵入地(くらいりち)とし、そこからの年貢を藩士に与えるという俸禄制度(ほうろくせいど)が行われるようになりました。
こうして藩の体制を強化させた大名でしたが、彼らの領地は一代ごとに将軍から与えられるものであったことから、武家諸法度に違反したり、あるいは後継の子に恵まれず血統(けっとう)が断絶したりした大名は、領地没収を意味する改易(かいえき)や、領地の縮小を意味する減封(げんぽう)、あるいは領地の変更を意味する転封(てんぽう)などの厳しい処分を受けました。
江戸時代の初期には数多くの大名が改易処分を受けたことで大量の牢人(ろうにん、別名を浪人)が発生し、彼らの存在はやがて治安上の深刻な問題となっていきました。




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タカシ☆TZR 当時,「藩」という呼称は正式な行政用語でないので,
> 大名が支配する領地や、その支配組織は藩(はん)と呼ばれました。
というとちょっと違和感がありますが,
どうお考えですか?
大名の取り潰し
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。徳川家康
徳川秀忠、徳川家光までの間に取り潰された
大名は126です。
しかも、
外様大名
最上57万石
福島49万石
加藤52万石
親藩でも
松平忠輝75万石
譜代でも
本多正純
大久保忠隣
が改易されています。
親藩であろうと、譜代であろうと
外様の大藩であろうと、おかまいなしです。
この状況で、取り潰されなかった伊達政宗が
不思議です。
(あれだけ、黒い陰謀の噂が絶えなかったのに)
やはり、伊達政宗の場合、徳川秀忠、徳川家光の
お気に入りというのが、大きかったのかもしれませんね。
ぴーち こんにちは!
武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
応援凸
サクラ 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
タカシ☆TZRさんへ
黒田裕樹 ご指摘有難うございます。
仰るとおり、藩の呼称は当時は一般的には用いられませんでした。
誤解を招く文章であると考えられますので、訂正させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
青田さんへ
黒田裕樹 江戸幕府の当初は、親藩であろうが外様であろうが、幕府に対抗すると思われる勢力は片っ端から取り潰しました。
その様子を見た各藩、特に外様大名は恐怖におびえ、前田家などは鼻毛を伸ばしてバカ殿のふりをしていたというエピソードが残っています。
伊達政宗も晩年は福島正則といきなり相撲を取り出すなど、乱心のふりをしていたといいますから、こうした涙ぐましい努力が伊達家を生きながらえさせたのかもしれませんね(もっとも、この後すぐに伊達騒動が起きるわけですが)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
> 当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
そうですね。
跡継ぎがいなくなるということは、仰るとおり「お家」が無くなることでしたから、幕府にとっては取り潰しの口実になりますからね。
でも世の中は厳しすぎると…。後に幕府は強烈なしっぺ返しを食らうことになります。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
> ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
さすがはサクラさんですね。仰るとおりです。
幕府による法令は基本的に天領でのみ通用しましたから、生類憐みの令も他領では強制力がありませんでした。
もっとも、大都市の江戸における生類憐みの令による効果(人命尊重の社会への劇的な変化)は他領にも広がることになったと考えられています。
近代国家
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
幕末で、日本を一つにして、欧米のような
先進国にしようと幕末の志士は、頑張りましたが
よく、考えると
◆ アメリカは、各州が独自の政治・経済を持ち
政治は、ワシントン州、経済は、ニューヨーク、
シカゴ、カリフォリニアと分散しています。
◆ イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドと分散しています。
そう考えると
江戸時代は、
① 政治は江戸、経済は大阪、権威は京都
と分散。
②各藩が独自の政治・経済を有する。
こう考えると
江戸時代の国のカタチというのは、諸外国と
比べて、特別、いびつではないという気がします。
但し、明治政府としては
①国防という面での国の統一性。
② 急激な近代化の促進。
を進めるうえでは、仕方なかったのでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、江戸幕府による幕藩体制はごく普通の政治機構です。
ただ、帝国主義の食うか食われるかの世の中においては、国民が一つとしてまとまるためにも中央集権国家にする必要がありました。
しかし首都機能のあまりもの集中ぶりが、今日の震災のような非常時に機能不全を起こす原因となってしまいます。
今こそ、単なる「遷都」ではない、首都機能の分散が求められているのかもしれません。