さらに幕府は同じ1615年に武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定して、新たに城を築(きず)くことや勝手に城を修築(しゅうちく)することを禁止したほか、大名間の婚姻(こんいん)も幕府の許可を必要としたり、大名同士で相互に行動を監視(かんし)することを命じたりするなどの厳しい統制を行いました。
武家諸法度に違反した大名に対して幕府は厳罰(げんばつ)に処しました。例えば、1619年には福島正則が居城である広島城(ひろしまじょう)を幕府に無断で修築したことを秀忠に咎(とが)められ、領地の没収(ぼっしゅう)を意味する改易(かいえき)の処分を受けています。
1623年、秀忠は子の徳川家光(とくがわいえみつ)に将軍職を譲(ゆず)ると、家康にならって大御所として影響力を持ち、幕府権力の基礎固めを続けるとともに、家光によって武家諸法度の一部が改正され、以後も将軍の代替(だいが)わりの度(たび)に少しずつ修正されました。




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なおまゆ 徳川秀忠はもっと評価されるべき将軍だと思います。家康・家光の陰に隠れて目立ちませんが、たいした力量と思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 徳川秀忠はもっと評価されるべき将軍だと思います。家康・家光の陰に隠れて目立ちませんが、たいした力量と思います。
そうですね。秀忠自身は凡庸だったかもしれませんが、有力な家臣を自由自在に動かすことができたのは秀忠の能力が高かったからこそですからね。
また、関ヶ原の戦い以前から徳川家に従っていた、旧来(きゅうらい)の家臣出身の大名は譜代(ふだい)と呼ばれ、関ヶ原の戦い以降に従った大名は外様(とざま)と呼ばれましたが、外様は領地こそ広かったものの、江戸から遠くに配置され、政治に参加できませんでした。
その一方、親藩や譜代は徳川家にとって防衛上(ぼうえいじょう)などの重要な場所を領することが多く、また譜代の中からは幕府の政治の中心となって活躍した多くの大名が生まれましたが、彼らの領地は多くても10万石前後に留(とど)まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです。これは、かつて守護大名が財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、室町幕府の言うことを聞かなくなってしまったという失敗の教訓を生かした、徳川家による「大名の権力と財力との分散」でした。




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クメゼミ塾長 外様を、江戸から遠くに配置
⇒これが明治維新の土壌になったのですから
何がどう影響するのか ですね。
でも、少なくとも260年以上は徳川政権を維持したのですから成功なのでしょうね。
いつも毎日コツコツと纏められ感心しています。
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ぴーち こんにちは!
室町幕府の失敗が再び現代の政治家体質に
反映されてしまっているかのように感じました。
財力と権力を同時に持ちあわせてしまうと
政治家さん達は、国民の意見を蔑ろにする・(^_^;)
凸・
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 こちらこそいつもご訪問下さり、またこの度はお褒めのお言葉をいただきまして有難うございます。
仰るとおり、外様の配置は明治維新の遠因となった一方で、江戸時代が260年以上も続いた主因になったのですから、成功であるといえますし、また物事には表と裏の両面が存在する好例にもなっていますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、これは私も気づきませんでした。
現代の政党政治は様々な意味で制度疲労を起こしているようですね。
再び「一から出直す」時期に来ているのかもしれません。
御三家。
晴雨堂ミカエル 私が聞いた話では、当初の御三家は宗家と尾張と紀伊の三家だったのが、水戸が格上げを政治的に突き上げた結果、いつの時期から宗家を神棚にあげて尾張と紀伊とで御三家になったとか。
水戸は他の二家に比べて石高も家格も一段下です。さらに宗家が絶えたさいのスペアにもされていません。
水戸家は幕府にとっては厄介者ですかな?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私が仕入れた情報では、水戸家は徳川家が将来朝敵になった際に、家名を残すためにわざと朝廷と親しくなるように家訓を授けたらしいのです。
だから将軍後継から外されるとともに、尊王の水戸学が隆盛するきっかけになったとか。
最後の将軍が水戸家出身の慶喜というのも因縁かもしれませんね。
オバrev なるほど~!素晴らしい~!
これらは戦国時代を終わらせ、徳川時代を確立するための決定打ですね。
野球で言えば昭和50年10月15日、カープが初優勝を決めた対巨人戦、8回を終わって1対0カープリードの緊迫した試合で、9回表に出た勝負を、いや優勝を決めたホプキンスの3ランホームランと同じ感じですかね(^0^;)
それにしても、特に親藩、譜代、外様の石高と権限については、ただただ感心です。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~!素晴らしい~!
> これらは戦国時代を終わらせ、徳川時代を確立するための決定打ですね。
仰るとおり、平和な江戸時代の到来のためのダメ押し打ですね(^^♪
> 野球で言えば昭和50年10月15日、カープが初優勝を決めた対巨人戦、8回を終わって1対0カープリードの緊迫した試合で、9回表に出た勝負を、いや優勝を決めたホプキンスの3ランホームランと同じ感じですかね(^0^;)
何とまたコアな例えを…(^^ゞ
残念ながらこの頃のカープを私は知らないんですよね(´・ω・`)
ギャレットとライトルなら良く知っているのですが…。
> それにしても、特に親藩、譜代、外様の石高と権限については、ただただ感心です。
本当にそうですね。家康は歴史をよく勉強しています。
翌1635年には新たな武家諸法度となる寛永令(かんえいれい)を発布(はっぷ)して、諸大名に妻子を江戸に残して人質としたうえで、江戸と国元(くにもと)とを1年おきに往復する参勤交代(さんきんこうたい)を義務づけました。
参勤交代は大勢の供(とも)を連れて長い道中を移動しなければならず、水陸交通の発達などをうながす一方で、諸大名は多大な出費を負担しなければいけませんでした。この他にも、普請役(ふしんやく)として江戸城などの修築や各地の河川(かせん)などの土木工事を幕府が強要したことによって、多くの大名が経済的な負担に苦しむようになりました。
これは、諸大名に多大な負担を押し付けることによって倒幕への軍備などを整えさせないようにするための、江戸幕府による作戦でもありました。こうして、家光の頃までには将軍と諸大名との主従関係が確立しました。なお、将軍と大名、すなわち幕府と藩(はん)によって全国を支配する体制を幕藩体制(ばくはんたいせい)といいます。




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ぴーち こんばんは!
幕府も考えるものですねぇ。
主従関係と独裁政治は同義語だったのかしら・・と錯覚を起してしまいそうになりました(^^ゞ
それにしても、諸大名からは経済的に苦しむようになっても、不平不満は出なかったのでしょうか。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 幕府も考えるものですねぇ。
> 主従関係と独裁政治は同義語だったのかしら・・と錯覚を起してしまいそうになりました(^^ゞ
確かに間違えそうですね(´・ω・`)
平和のためとはいえ、ここまでやりますか…。
> それにしても、諸大名からは経済的に苦しむようになっても、不平不満は出なかったのでしょうか。
もちろん出たと思います。
しかしながら、幕府の武力には誰も逆らえません。
そう、武力がにらみを利かしている間は。しかし、それが無くなれば…。
HANA子 中央政府の統制がきいている間はよし
その統制と強制力が弱まった時には・・・
それは日本のみならず世界中の歴史が示しているところですものね
日本においては、それが幕末──黒船の来航であったとされていますが、実の所「黒船来航」はその引き金に過ぎず、幕末の足音はそれ以前から忍び寄りつつあった……と考えています
先生のその辺の考察も伺ってみたいな~と
それはさておき、その後260年も続いた幕藩体制の土台というか、そのものが既に初期の段階でほぼ完成しているということには、やはり家康からの徳川三代の凄さが際立つというものですね
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 中央政府の統制がきいている間はよし
> その統制と強制力が弱まった時には・・・
> それは日本のみならず世界中の歴史が示しているところですものね
> 日本においては、それが幕末──黒船の来航であったとされていますが、実の所「黒船来航」はその引き金に過ぎず、幕末の足音はそれ以前から忍び寄りつつあった……と考えています
> 先生のその辺の考察も伺ってみたいな~と
仰るとおり、世界の歴史がこの流れを証明していますね。
政権発足当時は将来の統制の緩みをなかなか想像できないものです。
幕末については以前に本物の歴史講座で断片的に紹介してきましたが、通史でもいずれ紹介しますよ。
ただ、いつごろできるが定かではありませんが…。
> それはさておき、その後260年も続いた幕藩体制の土台というか、そのものが既に初期の段階でほぼ完成しているということには、やはり家康からの徳川三代の凄さが際立つというものですね
これも仰るとおりです。
家康のみならず、秀忠と家光の功績(老中に政治を任せたことも含む)は大きいものがありますね。