豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、政治の実権を握(にぎ)ったのは徳川家康(とくがわいえやす)でした。家康は、幼い頃(ころ)から織田家(おだけ)、次いで今川家(いまがわけ)に人質として預けられるという厳(きび)しい人生を過ごしましたが、1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いを契機(けいき)に織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び、先祖伝来(せんぞでんらい)の三河(みかわ、現在の愛知県東部)を中心に勢力を広げました。
信長が1582年に本能寺の変で倒されると、家康は秀吉と争った後に従(したが)い、1590年に北条氏(ほうじょうし)が滅(ほろ)ぼされて秀吉が天下を統一すると、家康は北条氏の旧領である関東の6ヵ国を秀吉から与えられ、250万石を支配する大大名になりました。そして、秀吉の晩年には五大老(ごたいろう)の筆頭となり、秀吉の死の直前には跡継(あとつ)ぎの秀頼(ひでより)の将来を託(たく)されました。
しかし、家康には秀吉の遺言(ゆいごん)を守る意思はありませんでした。下剋上(げこくじょう)といわれた戦国の世のならいそのままに、秀頼の後見人(こうけんにん)としての地位を利用しての専横(せんおう、好き勝手にふるまうこと)ぶりが目立ち始めるようになったのです。
そんな家康の様子を苦々(にがにが)しく思っていたのが秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)でした。三成は家康を倒して豊臣政権の安泰(あんたい)を図ろうとしたのですが、そんな彼には致命的(ちめいてき)な弱点があり、彼の決起はかえって豊臣家の将来に暗い影を投げかける結果をもたらしてしまいました。




いつも有難うございます。
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HANA子 江戸時代から明治にかけて、奸臣・悪人とされ、秀吉の威をかる狐だったと低評価を受けてきた三成はその実、優秀な行政官僚であった
そんな説は最近では優勢になってきましたけど、
反面豊臣氏政権下で絶大な権勢を誇ったがゆえに敵が多かったのも事実のようですね
資料・文献によって評価が分かれるこの人物が江戸時代に及ぼした影響とは?
次回も楽しみにしていますね^^
石田三成の凄さ
青田です。 こんにちは
黒田先生
青田です。
いよいよ、私の好きな『関ヶ原の戦い』に
話が進みそうですね。
この『関ヶ原の戦い』は、結果を知っているから
徳川家康の圧勝だと思ってしまいますが、
よく、考えたら、24万石の石田三成が
250万石の徳川家康にたいして、
それに対抗できる勢力をプロデュースしたという点では、かなり、有能だったと思います。
明治時代の日本の陸軍の教官だった
『メッケル少佐』が、関ヶ原の戦いの布陣を観た時、『西軍の圧勝』だと言ったのは、有名ですよね。
この石田三成について、不思議なのは、
石田三成の子供は、全員、助かっているということです。
嫡男の石田重家は、1686年まで生きています。
二男の石田重成は、1641まで生きています。
娘の辰姫は、津軽藩の藩主の室で、1623年まで生きています。
そう考えると、これは、私の想像の世界ですが
徳川家康自身、石田三成を武将として、官僚として
忠義の人間だと認めていたように思うのですが
黒田先生は、どう思われますか。
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、江戸幕府から見た一方的な評価しかされてこなかった三成の真実の姿が明らかになりつつありますね。
次回(11日)で三成に対する客観的な評価をするとともに、その後の戦いについても紹介したいと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 関ヶ原の戦いについては通常の更新では簡単に紹介することになりますが、いずれ時期を見て「本物の歴史講座」で取り上げたいと考えております。
仰るとおり、三成本人はともかく子を罰しなかったことは、三成の実力を家康が認めていたからかもしれませんね。逆に言えば、それだけ三成本人を極悪人に仕立てる必要もあったのかもしれません。
関ヶ原の戦い
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
関ヶ原の戦いで、
徳川家康以外の五大老は、みんな西軍に属しています。
これは、勝てると思ったから、西軍に属したんですよね。
(単なる石田三成の策略だけではなく)
ただ、結果として、負けたから、歴史のドラマでは、石田三成が敗因の原因のように描かれることが多いように思います。
何だか『秀吉の朝鮮出兵』の講座内容と似ている気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに一方的な考えは朝鮮出兵に通じる面がありますね。
今回の更新では通説を基本としていますが、以前にも申しあげたとおり、いずれ機会を設けてじっくりと検証してみたいと思います。
しー あ、明治からと書きましたが、
江戸をちょっとやってからでしたw
あれ、でもなんでだろう…
全く覚えてなry
いや、きっと、まだまともな授業を1時間もやってないからで(殴
…笑。
クラパートには、
部名に徳川家康が入っていて(それにミドルネームがw)
先輩はミドルネームで呼ぶのですが、
うちら2年は「家康ー」と呼んでいる子がいるので非常に変な感じです^^;
(あ、他には先輩で直江兼続がいるんですヨw)
しーさんへ
黒田裕樹 > あ、明治からと書きましたが、
> 江戸をちょっとやってからでしたw
> あれ、でもなんでだろう…
> 全く覚えてなry
> いや、きっと、まだまともな授業を1時間もやってないからで(殴
…(^^ゞ
まぁ、まだ4月ですからね。
でも、インパクトある授業をしないと存在感が(ry
> …笑。
> クラパートには、
> 部名に徳川家康が入っていて(それにミドルネームがw)
> 先輩はミドルネームで呼ぶのですが、
> うちら2年は「家康ー」と呼んでいる子がいるので非常に変な感じです^^;
> (あ、他には先輩で直江兼続がいるんですヨw)
凄い名前ですね。
直江兼続なんて渋すぎる…。一昨年の大河の影響かな?
私だったら「官兵衛」かな…って、そのまんまやがな(´・ω・`)
特に軍事面に強い武将とは相性が悪く、自分と同じく秀吉に忠実な家臣であった加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らといつしか不仲となるとやがて対立し、三成が家康に対して兵を挙げると、彼らは家康に従うようになってしまったのです。
1600年の旧暦9月15日、家康率いる東軍と三成率いる西軍が美濃(みの、現在の岐阜県南部)の関ヶ原(せきがはら)で激突(げきとつ)しました。戦いは西軍の優位で進みましたが、小早川秀秋(こばやかわひであき)が三成を裏切って家康側につくと形勢は一気に逆転して、三成はその日のうちに敗走しました。
世にいう関ヶ原の戦いに勝利した家康は、やがて西軍側の大名を次々と処分しました。例えば三成や小西行長(こにしゆきなが)らは京都で処刑され、宇喜多秀家(うきたひでいえ)は流罪(るざい)となるなど多くの大名が領地を没収(ぼっしゅう)されるとともに、西軍の総大将であった毛利輝元(もうりてるもと)や上杉景勝(うえすぎかげかつ)らが大幅に領地を削(けず)られました。
また豊臣家も、それまで所有していた金山などの豊富な資金源を徳川家に没収されたことで、大坂城(おおさかじょう)を中心とする65万石の一大名に転落し、この結果、家康は豊臣家に代わって天下取りに名乗りを挙げるようになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここが、私の一番、好きな内容です。
というのが、
徳川家康が、この『関ヶ原の戦い』の後
豊臣家を滅ぼさず、15年間も裏工作をした
理由を考えた時、
① 関ヶ原の戦いの主力は、豊臣恩顧の大名で
その戦いの後も、大幅加増をしなければいけなかった。
② そうなった原因は、徳川秀忠の徳川本隊の
3万8000人の軍勢が、関ヶ原の戦いに遅参した。
そこで、歴史のifを考えた場合、
徳川秀忠の徳川本隊が、もし、『関ヶ原の戦い』に間に合ったとします。
そして、徳川の主力の力だけで、東軍を打ち破ったとしたら
① 豊臣恩顧の大名への大幅加増はなかった。
もっと早い段階で、豊臣家を滅ぼしていた。
と考えますが、黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 興味深いifですね。こういう考察は、実社会でも必要だと思います。
私も基本的に青田さんと同意見です。ただ、加藤清正などの勢力を温存したまま大坂城を攻めていれば徳川家にとっては危険ですから、何らかの裏工作が行われた可能性もありますね。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
このifは、非常に可能性が高かったifなのですが
二代将軍は、徳川秀忠でしたが
ここで、忘れてはいけないのは
徳川秀忠は、三男だったという事実です。
長男の信康は、切腹。
次男の秀康は、結城家に養子に出されました。
ただ、徳川家康が家臣に誰が、後継ぎとして
適しているかを尋ねた時
大久保忠隣以外は、知勇に優れた秀康推す家臣が
大勢いたそうです。
もし、秀康が二代将軍になって、徳川家康が
関ヶ原の戦いの後、間もなく死ぬと
豊臣家への処遇もかなり、違っていたと思いますが
黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ その2
黒田裕樹 結城秀康は家康に血筋を疑われていたこともあり、嫌われていましたね。
また、どう考えても自分以上のカリスマが有り得ない子であれば、家臣を信頼して政治を任せられる秀忠の方が徳川家のためには良かったと思います。
勇猛果敢と伝えられる秀康では、先走り過ぎるあまり家臣との不協和音をうみ、幕府が持たなかったかもしれません。また豊臣家も生かしていたかもしれませんが、そうなると毛利家や島津家以上の爆弾を抱えることになり、やはり幕府は短期間で崩壊していたでしょう。
徳川家康の子供
青田です。 こんにちは
黒田先生
青田です。
徳川家康は、関ヶ原の戦いの後に生まれた後の
御三家の息子達は、可愛がりましたが
それ以前の息子達には、非常に過酷な父親だった
気がします。
長男の信康は、切腹
次男の秀康は、養子に出される。
六男の忠輝は、改易。
もちろん、それぞれ、理由はあると思いますが
関ヶ原の戦いの後に生まれた子供とは、格段の
差があったような気がします。
幕府内での、いろいろな思惑があったのかもしれませんが。。。
青田さんへ その3
黒田裕樹 関ヶ原の戦いの前後では、家康自身の立場も子の運命も全く異なりますからね。
関ヶ原以前はまだ家康の天下とは決まっていなかったし、長男の信康は信長の命令に従って切腹させたという特殊な事情がありました。
一方、関ヶ原以後は「自分の血のセーフティネット」という明確な目的がありましたから、御三家の基礎として大事に育てています。
天下人にとっては、自分の子もチェスの駒のような存在だったのでしょう。
官僚の鏡
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今、日本では、何かあると
『官僚が悪い。』と官僚批判ばかりしますが
豊臣政権、徳川政権でも、有能な官僚が
いたから、飛躍したと思います。
今度、講座を開く時
逆説~官僚の鏡:石田三成
という題で、官僚の力という切り口から
歴史講座を開催されると面白いと思います。
勝負師(徳川家康)
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、関ヶ原の戦いは、徳川家康に
とって、ギリギリの非常に危険な戦いだった
気がします。
① もし、大阪城の豊臣秀頼が出馬すれば、
豊臣恩顧の大名(福島正則など)が、西軍につく。
② 関ヶ原の戦いの中盤で、徳川家康は、本陣を
前線に移動させましたが、南宮山の吉川広家に
いくら根回しをしているといっても、非常に
危険である。(ヒトの心がどう転ぶか、わからないことを家康自身わかっている。)
③ 小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ちかける。
結果的に、裏切ったから、良かったが
非常に危険。
こう考えると、この戦いは、本当にギリギリの
戦いだった気がします。
青田さんへ その4
黒田裕樹 何かあれば批判の矢面に立たされる官僚であっても、その官僚がいなければ世の中が回らないということは、石田三成あっての太閤検地ということが証明していますからね。
確かに興味深い企画ですね。ご助言有難うございます。
青田さんへ その5
黒田裕樹 関ヶ原に対して私たちは結果から見ていますから、どうしても「東軍有利」の視点で考えてしまいますが、実際には仰るとおりどちらが勝ってもおかしくなかったですからね。
家康には勝算があったといっても、秀忠が遅参した段階で非常に危険だったと思います。
よくぞ勝ったものですよね。
信長は自らを神として祀(まつ)ることで天皇を超えようとして、また秀吉は天皇の権威(けんい)を利用して関白(かんぱく)となりましたが、家康は自分の本拠地(ほんきょち)が東国の江戸であることも考えて、かつての鎌倉幕府や室町幕府のように自身が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になることで政治を行うことにしました。
征夷大将軍になるためには源頼朝(みなもとのよりとも)や足利尊氏(あしかがたかうじ)のように源氏(げんじ)の血を引いている必要がありましたが、そこは抜(ぬ)け目のない家康は、自分が源氏の子孫であることを以前から朝廷に公認されていたのです。
かくして1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸幕府(えどばくふ)を開きました。しかしながら、この頃にはまだ豊臣家に従う大名も少なくなかったので、家康は以後も時間をかけて徳川家による安定した天下への道を進むことになります。




いつも有難うございます。
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なおまゆ 家康は、歴史をよく学んでいたみたいですね。
それ故に、安定政権を作れたんでしょうね。
、家康の行動を見ていると歴史を学ぶ意味がよく分かります。
豊臣秀頼を殺し、その子国松も処刑したのは残酷という評価もありますが、平清盛の温情が平家を滅ぼしたことを教訓としていますし、部下の使い方は、先輩大名を参考にしていると思えます。
歴史は本当に教訓に満ちて素晴らしい。
「歴史っていいなあ」と思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
昨年8月の第17回歴史講座でも紹介しましたが、家康ほど歴史に学んだ人物はいないでしょう。
安定政権には大きな理由がある、ということですね。
だからこそ、歴史は流れでとらえないといけないんです。
偉大なる平凡人
青田です。 黒田先生、なおまゆさん
こんにちは
青田です。
私は、徳川家康は、本当は、かなり、勝負師
だったと思います。
◆ 三ヶ原の戦いでは、劣勢なのに武田信玄に
戦いを挑んで、負ける。
武田の抑えとして、その後も武田の相手をしなければいけない。
◆ 徳川家康が5カ国を領有する天正壬午の乱では、北条氏53000vs徳川10000
◆ 小牧・長久手の戦いでは、
結果的には、徳川軍が勝っていますが
羽柴軍11万にたいして、織田・徳川18000
私は、徳川家康は、石橋を叩いても渡らない忍の
イメージがあったのですが
豊臣秀吉の臣下になるまでは、いつも、少数の徳川軍で、大きな相手と戦っています。
徳川家康の癖は、『爪を噛む』ことであり、
馬の鞍を殴っていたことだと聞いたことが
ありますが
もの凄い、ストレスに耐えていたんでしょうね。
普通にヒトなら、完全にうつ病になりますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
一見慎重に見える家康も、実は博打的な要素を持っており、生死の境をさまよわなければいけないことが多かったのです。
よくぞ70を過ぎるまで耐え抜きましたよね。
幼少の頃からの悲惨な境遇が、ストレスをやり過ごすテクニックを自然と身につけさせていたのかもしれません。
家康は駿府(すんぷ、現在の静岡)に移りましたが、前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。やがて関ヶ原の戦いから10年以上が経過して、加藤清正など豊臣派の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人してその影響力を高めることで、徳川家の将来に支障(ししょう)をきたす可能性も考えられるようになりました。
すでに70歳を超え、自分に残された時間が少ないことを悟(さと)った家康は、それまでの律義者(りちぎもの)の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪(ろうかい、色々経験を積んでいて悪賢いこと)ぶりで豊臣家を追いつめました。
1614年、秀頼は家康の勧(すす)めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を決定づけることになってしまったのです。




いつも有難うございます。
しかし、家康は「君臣豊楽と書いて豊臣家の繁栄(はんえい)を願う一方で、国家安康と書くことで家康の名を二つに割って呪(のろ)いをかけている」と言い出して豊臣家を非難したのです。常識的に考えてそんな解釈(かいしゃく)があるはずがなく、言いがかりも甚(はなは)だしいものでした。
ところが当時の学者や学僧(がくそう)が次々と家康の説を支持したことによって、話が大きくなってしまったのです。豊臣家は弁明の使者として家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ駿府まで送りましたが、家康が会おうとしなかったために、且元はそのまま駿府に留(とど)め置かれました。
且元がいつまで経(た)っても帰ってこないのを不審(ふしん)に思った豊臣家が別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えて使者を返し、その後に家臣を通じて且元に自身の怒りを伝えたうえで「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意(せいい)を示せ」と脅迫(きょうはく)しました。
この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と且元とで全く違う家康の考えを聞いたことになってしまいました。疑心暗鬼(ぎしんあんき)となった豊臣家は且元を追放するなど混乱してしまい、それを好機と見た家康は豊臣家に対して宣戦布告(せんせんふこく)しました。世にいう大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)の始まりです。




いつも有難うございます。
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HANA子 家康の強みは人という存在について誰よりも知っていることだったと思っています
誰よりも人を見ることをしてきたからこそ、誰よりも人の心の動きを知ることが出来た
彼を知り己を知れば百戦皆危うからず、ですか
実の所、徳川家康という人物と漢の高祖劉邦は色んな面で似ている人物ではなかったかとか妄想しています
どれだけ苦渋を舐めても、最後に勝てばそれでいいという思考の面とか
うぅん・・・我ながらちょっと無理のある解釈かも^^;
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、鋭い観察眼が他人の心の動きを見ることができた、ということですね。
家康が高祖ですか…。
言われてみれば、辛抱に辛抱を重ねた末に最後で大逆転するあたりは確かに似ていますね。
その後に長期政権(漢は前後に分かれますが)を築いたあたりも同じですし。
決して無理な解釈ではないと思いますよ(^^♪
高祖
青田です。 黒田先生、HANA子さん
こんばんは
青田です。
私のイメージでは、高祖(劉邦)=豊臣秀吉
です。
◆ 劉邦も豊臣秀吉も貧しい農民の出身
◆ 劉邦には、張良と陳平という軍師がいた。
豊臣秀吉には、竹中半兵衛と黒田官兵衛と軍師がいた。
◆ 劉邦は、謙虚に頭を下げることもでき
泣くこともできた。
豊臣秀吉も、謙虚で、泣き落し、誉めることが
得意。
◆ 劉邦は、気前よく、領土を与えて、敵を味方にした。(韓信、鯨布など)
豊臣秀吉もかつての、織田信長の敵を家臣団に
組み入れた。
(上杉氏、毛利氏、長宗我部氏など)
ただ、高祖は、天下を取った後、独裁者病になり
功臣を次々と粛清しました。
これは、仕方ないことなんでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るとおり確かに秀吉のイメージもありますね。
高祖の晩年も、秀吉による秀次に対する仕打ちに似ているような気がします。
独裁者の「毒」は、すべての人間に共通する病のようなものですね。
淀殿
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
淀殿は、父親(浅井長政)、母親(お市の方)
兄弟(兄?)を秀吉に殺されています。
もし、秀吉にたいする深い、恨みがあるとすると
淀殿の行動は、納得できます。
① 秀頼を生むことにより、側室の身分でしかない澱殿が豊臣家を乗っ取る。
→ 淀殿には、何の官職もなく、しかも、単なる側室でしない。
* 豊臣秀吉には、側室が多くいて、年齢的にも
高齢であるのに、淀殿だけに子供が2回も生まれるのは、どう考えてもおかしい。
② 大坂の陣で、憎い豊臣家を滅ぼす。
→ 豊臣秀吉在名中に豊臣秀吉の一族は、ことごとく、
追放、もしくは、死亡。
・秀吉の死亡後、正室の北の政所は、大阪城から、退去。
・ 甥の豊臣秀次は、その一族まで、斬首。
・ 北の政所の親戚の養子の秀秋は、小早川家に
養子に出される。
・ 甥の豊臣秀保が不審死。
つまり、豊臣家は、澱殿が秀吉の側室になった時期から
歯車がおかしくなったわけです。
この当時、女性が復讐する方法としては
澱殿のようなやり方しかないと思います。
これって、考えすぎですかね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 淀殿の視線で見れば、確かに考え過ぎでないような思いもします。
ただ、彼女の復讐が彼女自身の破滅にもつながることが見えていなかった。
そう考えれば復讐の炎は恐ろしいですし、また「英雄色を好む」は決して英雄のためにはならないこともよく分かりますね。
作戦が功を奏(そう)して、家康は大坂城の外堀(そとぼり)を埋(う)めるという、徳川家にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にどさくさにまぎれて内堀(うちぼり)まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸(はだか)も同然です。
翌1615年5月、再び徳川家に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦(ふんせん)もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)は自害しました。世にいう大坂夏の陣(おおさかなつのじん)です。なお、この後に秀頼の子で8歳になる男子も捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡(めつぼう)しました。
1614年から1615年にかけての二度にわたる戦いを、併(あわ)せて大坂の役(おおさかのえき)ともいいます。この戦い以降、徳川家に表立って対抗(たいこう)する勢力はいなくなり、江戸幕府は19世紀後半まで約260年以上も続きました。この時代を江戸時代(えどじだい)といいます。




いつも有難うございます。
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オバrev 確かに世の中は平和となり安定したのですが、この大阪の役の家康の姑息なやり方は、あまり好きじゃないんですよ。
それに、確かに若い時に苦労しているのは分かりますが、往年があまり完璧すぎに見えることに、日本人独特の?判官贔屓も手伝ってでしょうか、この場面だけは豊臣を応援したくなります(^_^;)
HANA子 秀吉が一代で築き上げた豊臣の「正に歴史絵巻」というべきストーリーにはある種のカタルシスを強く感じます。
平家物語のそれもそうですが、
勃興し隆盛を極め、やがて衰退していくその花のような、栄枯盛衰の姿がやはり日本人の感情・・・感傷でしょうか? に強く訴えるからなのかなと。
疑問点
青田です。 黒田先生、皆さん
こんばんは
青田です。
この大阪の陣ですが、疑問があります。
それは、淀殿です。
澱殿が、豊臣家に固執する理由が?です。
① 淀殿にとって、豊臣秀吉は、父親の浅井長政、義父の柴田勝家を殺した憎い敵。
② そもそも、豊臣家も、秀吉が死に、大政所が
死に、甥の秀次が死に、北の政所も京都で、出家していて、秀頼以外、完全に崩壊状態。
そう考えると、澱殿の守りたい豊臣家自体?である。
本当は、豊臣家を守りたいのではなく、過去のトラウマで、自分の居場所がなくなるのが、怖かったのでは。。
③ 淀殿の妹は、お江で、二代将軍秀忠の正室だった。
ドラマでは、仲がイイと描かれていたが、それなら、もっと宥和策が取れたのでは。。。
④ あの(武田信玄、豊臣秀吉と互角に渡り合えた)
徳川家康なら、わざわざ、大阪の陣を起こさなくても
秀頼と淀殿しかいない大阪方を倒すのは、もっと
簡単だったのでは。。
皆さんは、どう思いますか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大坂の役以前からの家康の行動は決してほめられたものではありませんし、大阪在住の私としては家康の汚い手段は絶対に許すことはできません。
しかしながら、この頃の豊臣家に全国を支配するだけの実力があったかといえば、どう考えても疑問符を付けざるをえませんし、家康は結果として江戸時代として200年以上の平和を保っていますから、やはり家康側に軍配を上げざるをえません。
とはいえ、これも仰るとおり、日本人独特の判官贔屓の感情は、源義経がそうであるように、滅びた豊臣家を慕うようになりますね。これが歴史の複雑なところでもあります。
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るような感情や感傷は、日本人独特のものであり、それがまた日本人の感性を高めているのでしょうね。
平家物語のような「敗者の歴史」がつづられているというのも考えてみれば不思議な話ですが、豊臣家の歴史も同じように語り継がれるあたりが、いかにも我が国という感じがします。
青田さんへ
黒田裕樹 淀殿にとって、秀吉という存在は愛憎ともに深かったのではないでしょうか。そんな複雑な感情が、秀吉亡き後の豊臣家の運命を翻弄(ほんろう)したような思いがします。
また、淀殿は秀吉に引き取られるまでに二度の落城を経験していますから、そんな彼女の運命がトラウマとなった可能性は十分考えられますね。ちなみに、淀殿は生涯の最期において三度目の落城(大坂城)を経験するというのも皮肉な話ですが。
大坂の役については、本文にもあるように残り少ない家康の寿命がこのような結果になったと思われます。確かにもう少し違った展開があっても良かったかもしれませんが…。
大阪城
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
あれから、浮かんだことですが、
徳川家康が、恐れていたのは
豊臣家でも、秀頼でもなく、
本当は、難攻不落の大阪城だった気がします。
というのも、徳川家康は、
大阪の陣になる前に、国替えの条件を
豊臣方に出しているからです。
しかも、大阪の冬の陣で、結局、決着が着かず
大阪夏の陣まで、持ち越しています。
歴史のif・・大阪冬の陣で、和議を結ばなければ
◆ 徳川方は、大軍勢で、長引くほど、食糧が不足し、外様大名から、不満が膨れ上がる。
やがて、厭世ムードになるのでは。。
◆ 徳川家康は、夏の陣の翌年に死亡している。
徳川秀忠は、娘の千姫が豊臣秀頼の正室、自分の
正室がお江で、強硬策を取れないのでは。。。
◆ 大阪城には、金銀が豊富にあり、かなりの
期間、籠城できる。
どちらにしろ、大阪城は、正攻法では、落とせませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
難攻不落の大坂城を恐れたがゆえに、国替えさえ認めれば豊臣家は存続できたかもしれません。
大砲で昼夜を問わず攻撃し、外堀だけの約束のはずが内堀までも強引に埋めた。
これらの流れを考えても、大坂城の攻略に家康が神経をとがらせていたのが想像できますね。
なおまゆ 黒田先生、青田さんおはようございます。
青田さんが喝破したように、淀殿は謎です。
父の仇、義父の仇、弟の仇である秀吉の側室になった経緯も不明。
権力者の妻が妹なのに何も情状酌量なし。
淀殿には出生の秘密があったという説もあります。(俗説でしょうが、織田信長とお市の間の近親相姦の子という物です。もしそうなら、秀吉に対する憎しみがないのは説明がつきますし、妹との交流がそれほど親密ではなかったことも説明がつきます。)
いずれにしても、家康は、豊臣家を徹底的に滅亡させなければ、徳川が危ないと知っていました。
平清盛が源頼朝を助命した為、平家が滅んだことをを歴史の教訓として学んでいたのでしょう。
平和を維持する為に、あくどいやり方も時には必要だと現代の政治家が学んでくれればよいのでスガ。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 淀殿の俗説は以前からなおまゆさんがご指摘されておられますね。
家康が歴史に学んで豊臣家を徹底的に叩き潰したことは確かに正しかったです。
平和は綺麗事だけで達成できるものではない。そんな当たり前の常識を理解できない素人な政治家が多すぎます。