この当時は戦国時代を勝ち抜いた新興大名や、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商(ごうしょう)たちが文化の担(にな)い手となりました。そんな桃山文化の特色は、新興勢力の気風にあふれた新鮮味あふれる豪華(ごうか)で壮大(そうだい)かつ華麗(かれい)なものでした。
また、信長や秀吉の政策によって勢力の衰(おとろ)えた寺院勢力の影響を受けて仏教色が弱まったことで、現実的で力感のある絵画や彫刻などが多く制作されました。
さらにはポルトガル人の来航によって西欧文化(せいおうぶんか)との接触(せっしょく)が始まったことにより、桃山文化はそれまでにない多彩なものとなりました。




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晴雨堂ミカエル 海外との交渉が盛んになると、巨大かつ高層の建物を造りたがる傾向が日本にありますね。
奈良の都に五重の塔、浪速の町に大坂城、明治以降の高層建築群。
海外との付き合いが乏しくなると、地味で平屋傾向になるような気がします。
ぴーち こんばんは!
確かに歴史ドラマなどをたまに見ていると
秀吉の着物などは豪華絢爛な色調が多かったように記憶しています。(記憶違いなら、すみませんm(_ _)m)
屏風絵などもキンキラキン

で華麗なイメージがあります(^^)v
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 海外との交渉が盛んになると、巨大かつ高層の建物を造りたがる傾向が日本にありますね。
> 奈良の都に五重の塔、浪速の町に大坂城、明治以降の高層建築群。
> 海外との付き合いが乏しくなると、地味で平屋傾向になるような気がします。
言われてみれば、確かに時期が一致していますね。
「我が国だってこれくらいのものはつくることができる」という島国根性でしょうか。
それはそれで良いことだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに歴史ドラマなどをたまに見ていると
> 秀吉の着物などは豪華絢爛な色調が多かったように記憶しています。(記憶違いなら、すみませんm(_ _)m)
> 屏風絵などもキンキラキン

> で華麗なイメージがあります(^^)v
仰るとおり、後年の秀吉のイメージがそのまま桃山文化を象徴していますね。
これから数回にかけて桃山文化を紹介しますが、その豪華さは出色(しゅっしょく)ですよ(^^♪
しかし、平地に城を造れば攻め込まれやすいという欠点があったため、城の周囲に幾重(いくえ)にも堀(ほり)や土塁(どるい)をめぐらすことで防御力を高めました。また、城の本丸(ほんまる)には重層(じゅうそう)の天守閣(てんしゅかく)を設けました。
こうして造られた城郭は、単なる防塁(ぼうるい)としてだけではなく、邸宅(ていたく)や政庁(せいちょう)を兼ねるようになりました。この頃の代表的な城郭としては安土城(あづちじょう)や大坂城(おおさかじょう)・伏見城(ふしみじょう)・姫路城(ひめじじょう)などが知られています。
このうち姫路城はその美しさから別名を白鷺城(はくろじょう、または「しらさぎじょう」)とも呼ばれ、また江戸時代初期の建築物が現存していることもあって、平成5(1993)年に世界遺産として登録されています。




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ぴーち こんにちは!
城郭と呼ばれる城は、これまでの色々な知恵を集結させた結果であった訳なんですね^^
姫路城は仰る通り、白鷺城と呼ばれる程にその姿の美しさには定評がある様ですが、実際に目の前で拝見した事が無いのでとても残念です(;_;)
お城と言えば、昔、福島の会津若松・鶴ヶ城に出向いた事がありましたがやはり目の前で見るお城は貫禄がありますよね♪
黒田さんはやはりいくつもお城は見て回られている事でしょうね^^
応援凸
姫路城は江戸城に。
晴雨堂ミカエル 時代劇では姫路城の天守閣を江戸城に見立ててロケが行われました。子供の頃、それを指摘したのですが、周囲は信じてくれなくて歯噛みしたものです。江戸城には天守閣は無いと言ってもダメでした。江戸城と皇居の関係を知らぬ大人も多かった。きちんと説明したつもりなのに、子供(小学校低学年)の意見はこれ程までに軽んじられるのかと悔しい思いをしたものです。今は逆ですが。
人間というのは、本能的に目下の人間を割引で見てしまうものです。
今の時代劇なら姫路城を江戸城に見立てる事はせず、CGでリアル復元した江戸城をだすでしょう。 ただ、白の内部や守備兵が狭間から鉄砲を撃つ場面などは今でも姫路城は需要がありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 城郭と呼ばれる城は、これまでの色々な知恵を集結させた結果であった訳なんですね^^
> 姫路城は仰る通り、白鷺城と呼ばれる程にその姿の美しさには定評がある様ですが、実際に目の前で拝見した事が無いのでとても残念です(;_;)
> お城と言えば、昔、福島の会津若松・鶴ヶ城に出向いた事がありましたがやはり目の前で見るお城は貫禄がありますよね♪
> 黒田さんはやはりいくつもお城は見て回られている事でしょうね^^
姫路城は雄大ですからねぇ。よくぞ幾多の危機を乗り越えてくれたものです。
お城めぐりは昔から良く行きますが、皇居近辺は行ったことがないんですよね。
一般参賀に参加してみたいものですが…。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 江戸城に天守閣がないのは意外と盲点のようですね。
焼け落ちた後に必要としなかったのは、それだけ平和な時代だったからでしょうか。
「暴れん坊将軍」などでは一話につき一回は姫路城が出ていましたね。
今も昔も時代劇の名ロケ地です。
城郭には建築や絵画・彫刻など、桃山文化を結集した象徴的な要素が散りばめられていました。城の内部には書院造(しょいんづくり)をとり入れた居館(きょかん)が設けられ、広間(ひろま)には彫刻や濃絵(だみえ)の豪華な障壁画(しょうへきが)が描(えが)かれました。
なお、濃絵とは金箔(きんぱく)をはりつめた画面に青や赤、あるいは緑などの原色を彩色(さいしょく)したものです。また、欄間(らんま)には花鳥(かちょう)の透(すか)し彫(ぼり)が彫刻されました。
障壁画の中心となったのは狩野派(かのうは)であり、狩野永徳(かのうえいとく)は室町時代に盛んになった水墨画(すいぼくが)と我が国古来の大和絵(やまとえ)とを融合(ゆうごう)させて、新しい装飾画(そうしょくが)を大成させ、洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)や唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)などの作品を描きました。
また、門人(もんじん、いわゆる弟子のこと)の狩野山楽(かのうさんらく)は松鷹図(しょうようず)や牡丹図(ぼたんず)などを描き、同じ頃に海北友松(かいほうゆうしょう)や長谷川等伯(はせがわとうはく)らも優(すぐ)れた作品を描きました。
この他、彫刻ではそれまでの仏像彫刻が衰(おとろ)えて欄間彫刻(らんまちょうこく)が盛んとなり、家具調度品(かぐちょうどひん)として豪華な意匠(いしょう、デザインのこと)の蒔絵(まきえ)が施(ほどこ)されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
ブログ2周年、おめでとうございます!

これからも是非歴史を学ぶ楽しさを流布してくださいね^^
陰ながら、応援させていただきます!
応援凸
祝・二周年
クラチー 二周年、おめでとうございます!
これからも、歴史の奥深さ・楽しさを、
人々に広めていってください。
応援しています!
(>ω<)ノシ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今日の講座並びに記念講演も無事終了しました。
より一層の内容の充実を目指してこれからも頑張ります!
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
歴史好きのクラチーさんからのお言葉は励みになります。
今後ともよろしくお願いいたしますm(_ _)m
茶道は豊臣秀吉や他の有力大名の保護を受けて大いに流行し、茶室の建築や茶器の発達をうながしました。なお、秀吉は1587年に京都の北野(きたの)で身分の上下を問わずに民衆(みんしゅう)を自由に参加させた北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を行っています。
当時の庶民(しょみん)の娯楽(ごらく)としては、17世紀初めに出雲阿国(いずものおくに)が京都で始めたかぶき踊(おど)りが阿国歌舞伎(おくにかぶき)としてもてはやされ、これがやがて女歌舞伎(おんなかぶき)となりました。
また、琉球(りゅうきゅう)から伝えられた三味線(しゃみせん)が普及(ふきゅう)したことで、三味線を伴奏(ばんそう)に人形を操(あやつ)って演じる人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)も始まりました。他にも堺の商人の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌(こうた)に節(ふし)をつけた隆達節(りゅうたつぶし)が民衆の人気を集め、盆踊(ぼんおど)りも各地で盛(さか)んに行われました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
こういう文化が盛んだったのは、江戸時代の長い平和が続いていた時期が主だったのかと思っていましたが、秀吉の時代も随分と花開いていたんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう文化が盛んだったのは、江戸時代の長い平和が続いていた時期が主だったのかと思っていましたが、秀吉の時代も随分と花開いていたんですね^^
そうですね。
世の中が平和であれば文化が育ちやすいとすれば、秀吉が天下統一を果たした頃もそうですし、また武力統一から来る力強さもあったといえるかもしれませんね。
衣服では小袖(こそで)が一般に用いられ、男子は袴(はかま)を身に着けることが多く、肩衣(かたぎぬ)に裃(かみしも)を用いた簡単な礼服(れいふく)を用いる一方で、女子は小袖の着流しが普通になり、また男女ともに結髪(けっぱつ)するようになりました。食生活が朝夕の二食から三食になったのもこの頃のことです。
この時代に盛んになった南蛮貿易(なんばんぼうえき)によって、宣教師(せんきょうし)はキリスト教の布教の他に天文学や航海学・医学や地理学などの実用的な学問を伝えるとともに、油絵(あぶらえ)や銅版画(どうばんが)の技法ももたらしました。これらの技術によって、やがて日本人の手による西洋画の影響を受けた南蛮屏風(なんばんびょうぶ)が描かれるようになりました。
また、金属製の活字による活版印刷術(かっぱんいんさつじゅつ)が伝えられるともに印刷機も輸入され、キリシタン版や天草版(あまくさばん)と呼ばれたローマ字による日本語辞書や日本古典の出版などが行われました。
南蛮人によって我が国にもたらされた文化を南蛮文化(なんばんぶんか)といい、カステラやパン、カルタ、コンペイトウ、シャボンなどのように、外来語として今でも残っているものがあります。
※これで戦国、安土・桃山時代は終了です。明日(3月29日)からは第24回歴史講座の内容の更新を開始します。




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ぴーち こんにちは!
今日は計画停電は免れましたが、夕方以降になるとネット状況が余り良く有りませんので、今の時間にお邪魔させていただきますね^^
この時代に二階建てや、瓦葺が登場したということは、自然災害(地震など)の影響は少ない時代でもあったのでしょうか・・
カルタは外来語だったんですね!(゜o゜;
確かに漢字では書きませんし、どういう意味で
付けられたのかと疑問には思ってはいましたが、
外来語なら、納得です(^^)v
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日は計画停電は免れましたが、夕方以降になるとネット状況が余り良く有りませんので、今の時間にお邪魔させていただきますね^^
いつもご配慮いただいてありがとうございますm(_ _)m
> この時代に二階建てや、瓦葺が登場したということは、自然災害(地震など)の影響は少ない時代でもあったのでしょうか・・
二階建てや瓦葺は建築技術の進歩によるものですが、秀吉政権末期の1596年に京都や堺を中心に慶長伏見大地震が発生しており、多くの方々が亡くなられたり、あるいは被害を受けられたりされております。
> カルタは外来語だったんですね!(゜o゜;
> 確かに漢字では書きませんし、どういう意味で
> 付けられたのかと疑問には思ってはいましたが、
> 外来語なら、納得です(^^)v
そうなんですよね。
この当時の外来語が結構使われているということは、いかに多くの人々に浸透していったかということだと思います。
ちなみにカルタはポルトガル語が由来ですが、英語ではcard=トランプになりますね。
衣服の変遷。
晴雨堂ミカエル 時代劇によって衣服や髪型の変化は異なりますね。烏帽子を省くようになった時期、月代を剃るのが常態化した時期、直垂や大紋から肩衣になった時期、さらに肩衣から裃になった時期、胡座から正座に変わった時期など。
大河ドラマでも各々解釈が違います。
私は女性の座り方を時代考証通りにするべきと常々思っています。江戸時代初期までは韓国と同じく片立て膝座りでしたから。
「江」はあり得ない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 時代劇によって衣服や髪型の変化は異なりますね。烏帽子を省くようになった時期、月代を剃るのが常態化した時期、直垂や大紋から肩衣になった時期、さらに肩衣から裃になった時期、胡座から正座に変わった時期など。
> 大河ドラマでも各々解釈が違います。
確かに解釈によって異なりますね。
髪形については「戦国=茶筅髷」が定着しているようですが。
> 私は女性の座り方を時代考証通りにするべきと常々思っています。江戸時代初期までは韓国と同じく片立て膝座りでしたから。
> 「江」はあり得ない。
「江」については時代考証そのものがとてつもない状態になっていますからね。
現状では視聴率の低下もやむなし、といったところでしょうか。
しー 昨日から日本史の教科書を読み始めました!!
(弥生時代に入るところまでですがw)
…やはり、細かいですね。。。
見知らぬ単語が沢山…(д)
早くこっちに追いつくのが目標です^^
しーさんへ
黒田裕樹 > 昨日から日本史の教科書を読み始めました!!
> (弥生時代に入るところまでですがw)
いよいよ始まりましたね(^^♪
> …やはり、細かいですね。。。
> 見知らぬ単語が沢山…(д)
確かに単語の一個一個は難敵です。
でも、流れで歴史をとらえることができれば自然と頭に入るものですよ。
> 早くこっちに追いつくのが目標です^^
頑張りましょう(`・ω・´)
ちなみにブログの通史は今回の講座の後に江戸時代に入りますが、まだ教科書の半分なんですよね(´・ω・`)