国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易(なんばんぼうえき)も盛(さか)んとなり、豪商や西日本の大名らはこぞって海外へと進出していきました。
秀吉も貿易での莫大(ばくだい)な利益を目指して貿易に積極的に乗り出し、1588年に海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)を出して倭寇(わこう)を取り締(し)まることで海上における支配を強化し、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助(えんじょ)して貿易の保護と促進(そくしん)をはかりました。
当時の我が国は銀の産出が豊富であり、秀吉はこれらの天然資源を活かして東アジアの諸国と積極的に貿易を行いました。また、この頃には中国を支配していた明(みん)の国力が衰(おとろ)えており、世界情勢の変化を見抜いた秀吉は、我が国を中心とする東アジアの新しい秩序(ちつじょ)をつくることを視野に入れ、高山国(こうざんこく、現在の台湾)やゴアのポルトガル政庁(せいちょう)、マニラのイスパニア(=スペイン)政庁などに服属(ふくぞく)と朝貢(ちょうこう)を求めました。
しかし、明の衰退(すいたい)に対して新秩序を構築(こうちく)していたのは秀吉だけではありませんでした。全国統一によって数十万の兵力や鉄砲(てっぽう)による強大な火薬力を誇っていた我が国でしたが、その力を国内防衛にために使用するのか、あるいは攻められる前に先制攻撃(せんせいこうげき)を行うのか。遠く西洋の巨大な王国との抜き差しならない戦いが、秀吉の目の前に迫りつつありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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天然中尉 黒田裕樹殿へ
ついに明日でございますな。楽しみで楽しみでしかたがござりません。
天然中尉殿へ
黒田裕樹 > 黒田裕樹殿へ
> ついに明日でございますな。楽しみで楽しみでしかたがござりません。
私も楽しみです。
明日はよろしくお願いします。
南蛮貿易は確かに大きな利益を生み出しましたが、それとセットのようにして我が国に急速に広まっていった宗教が存在しました。言わずと知れたキリスト教(=カトリック)のことです。宗教改革からの巻き返しを図るためヨーロッパ以外の各地での布教を目指したカトリックは我が国においても定着しつつあり、信長も貿易の権益を求めてカトリックを保護しました。
信長の後を継いだ秀吉も、当初はカトリックの布教を認めていたのですが、そんな彼がやがてカトリックに潜(ひそ)むイスパニアによる世界侵略の野望に気づく日がやって来たのでした。
1587年、島津氏(しまづし)を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師(せんきょうし)が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦(ぐんかん)を準備して出迎えました。その壮大(そうだい)さに驚(おどろ)いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。
そして、現地を視察した秀吉が、彼に待ち受けていた「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
外来種。。
魚にしても、草花にしても
本当に繁殖能力も旺盛で
病気に対しても強く日本元来の貴重な
生き物が食いつくされてしまい
本当に困ったものです(;O;)
生態系を崩す要因の一つですが、
人も宗教も同様。
外国との交流は細心の注意が必要ですね(^^ゞ
必ずしも良い結果ばかりは得られないという
事ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、国際化には良い面と悪い面があります。
そして、悪い方向へと向かう場合は、気がつけば取り返しのつかない事態になっているパターンが多いのも困ったものなんですよね。
秀吉は幸い早く気づくことができたので、被害はそれほど大きくなくて済みましたが、現代でも水面下でどうなっているのか分からないところが恐ろしくもあります。
いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は、自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土的野心に嫌(いや)でも気づかされることになりました。
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が一神教(いっしんきょう)であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には我が国の伝統や文化を破壊(はかい)する許せない行動としか映(うつ)りませんでした。
さらに秀吉を驚かせたのは、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは白人にとっては当然の行為であっても、天下統一を目指すことによって、国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には絶対に認められない行為でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
まずは東京講演、お疲れ様でしたm(_ _)m
そしてお忙しい中、ブログへコメントいただき
ありがとうございました^^
記事の件ですが、
外国の常識でも、日本には非常識な行為で
ある場合が多いですね。勿論、逆も然り。
いくら外国の所有に任せてあるとはいえ、
あくまでも日本の領土であったのでしょうから、
秀吉の気持ちも判らなくはありません。
最近、中国が日本の山林を買収している
との事実が挙げられていますが、余り
いい気持ちではありません。。
応援凸
mochimochi 日本人の奴隷について、どこかの本で初めて知り(本の名前忘れました)びっくりしました。
たしかその本によると、日本人奴隷はよく働き、物も盗らないので評判が良かったと書いていた気がします。事実は知りませんが。
それで、実はポルトガルがキリスト教を日本に広めたかったので、ポルトガルの中でも日本人の奴隷を反対する人達がいたそうです。
日本人奴隷なんてなんだか不思議な感覚です。
西洋人の仕業(?)についておもしろい解説があるので時間がある時に見てください。
http://www.youtube.com/user/hkokonj#p/u/4/7n9BFo_Nmj4
http://www.youtube.com/user/hkokonj#p/u/3/7Q4cCa5IiGw
オバrev 東京講演 お疲れさまでした。
えっ?次はマツダスタジアムで広島講演??(^_^;)
しかし当時の欧州は、スペインとポルトガルが強国で、世界を2分して支配しようとしていた時じゃないでしょうか。
今でも、英語とともにスペイン語、ポルトガル語は世界各国で使われていますが、昔、ブラジルから来日していた日系三世のナントカカントカ棗田さんは、ポルトガル語と日本語と英語を話していた記憶があります。
ふとかつ こんばんは。
東京公演お疲れ様でした。相変わらずのご盛況でしたか?
その後の懇親会も盛り上がったことでしょう。
浅草観光もされましたか?
講義の様子を記事で拝見するのを楽しみにしております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> まずは東京講演、お疲れ様でしたm(_ _)m
> そしてお忙しい中、ブログへコメントいただき
> ありがとうございました^^
いえいえ、こちらこそご丁寧なお言葉、ありがとうございます。
> 記事の件ですが、
> 外国の常識でも、日本には非常識な行為で
> ある場合が多いですね。勿論、逆も然り。
> いくら外国の所有に任せてあるとはいえ、
> あくまでも日本の領土であったのでしょうから、
> 秀吉の気持ちも判らなくはありません。
そのとおりだと思います。
どんな理由であれ、我が国固有の領土を外国に任せる行為が許されて良いはずがありません。
> 最近、中国が日本の山林を買収している
> との事実が挙げられていますが、余り
> いい気持ちではありません。。
そこなんですよね。
日本国民の「お人好し」な一面が悪い方向に表れている思いがします。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 西洋人は昔から「白人至上主義」ですからね。
いくら礼儀正しいからといって、奴隷として異国に無理やり連れて来られ、厳しく働かされて一生を終わるなんて、当時でも決して許されるものではありません。
いつも参考になる資料をご提供くださってありがとうございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 東京講演 お疲れさまでした。
> えっ?次はマツダスタジアムで広島講演??(^_^;)
ありがとうございます。
広島講演ですか…。その場合はオバrevさんのご講演とダブルですね(笑)。
> しかし当時の欧州は、スペインとポルトガルが強国で、世界を2分して支配しようとしていた時じゃないでしょうか。
> 今でも、英語とともにスペイン語、ポルトガル語は世界各国で使われていますが、昔、ブラジルから来日していた日系三世のナントカカントカ棗田さんは、ポルトガル語と日本語と英語を話していた記憶があります。
この当時はスペインとポルトガルの天下でしたからね。
複数の言語が話せるのは良いことですが、ブラジルのように征服した国の言語が公用語になっているのは複雑な思いがしますね。
ふとかつさんへ
黒田裕樹 > 東京公演お疲れ様でした。相変わらずのご盛況でしたか?
> その後の懇親会も盛り上がったことでしょう。
> 浅草観光もされましたか?
> 講義の様子を記事で拝見するのを楽しみにしております。
ありがとうございます。
浅草寺へは久しぶりに行きましたが、相変わらずのにぎわいでしたね。
スカイツリーも近くから良く見えて感動的でしたよ。
懇親会もアットホームな雰囲気でしたし、可能ならば次もぜひ浅草で行いたいですね。
詳しくはまた別記事で紹介させていただきます。
なお、1596年にイスパニアの商船が土佐(現在の高知県)に漂着(ひょうちゃく)した際に、乗組員が「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを世界地図を示して誇ったという出来事があり(これをサン=フェリペ号事件といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて長崎で処刑するという結果につながりました(これ26聖人殉教=せいじんじゅんきょう、といいます)。
さて、秀吉が気づいたイスパニアによる我が国侵略の野望ですが、実際にイスパニアやイエズス会はどう動いたのでしょうか。全国統一によって当時の我が国は数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を持っていたこともあり、イスパニアは直ちに我が国を侵略することは現実的には難しいと考えていました。
そこでイスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国での布教に成功したキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我が国を攻めることで侵略も可能になる、と考えました。つまり、明がイスパニアによって滅ぼされれば、次は我が国が確実に狙われるということなのです。
この構図は鎌倉時代に起きた元寇(げんこう)そのものでもあり、イスパニアの動きをつかんでいた秀吉にとっても気が気ではありませんでした。明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか―。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 朝鮮学校では、この事はけっこう学校の授業で取り上げているようです。もちろん、黒田氏のように秀吉側の立場では考察していませんが、ヨーロッパ人の侵略と布教はセットである事とキリスト教の脅威は教えているみたいですね。
日本は宗教批判を行うと、宗教弾圧だとか保守反動などと拡大解釈されかねないので、あまり踏み込めないのでしょう。
踏み込めないから学校教育では教えられない、だから誤った認識と無知が定着してしまう。
コロンブスのアメリカ侵略500周年に日本人がサンタ・マリア号復元船に乗って航海に出たなんて話を聞いたとき、「馬鹿か、こいつら」と思いました。
ところで、来月5日に映画「アレクサンドリア」が封切られます。大阪では難波パークスですか。キリスト教徒によって虐殺された女性科学者ヒュパティアの物語です。
多くの人がみて宗教の恐ろしさを認識してほしいものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 朝鮮半島側からしても、自分たちが結果として「攻められた」根本的な原因ですからね。
しっかり学ぶことは重要だと思いますし、むしろ我が国の教育が一方的なのが問題だと思います。
宗教は時として恐ろしい一面を持っていますからね。能天気に受け入れるだけでなく、歴史上においても真剣な考察が必要だと思います。少なくとも仰るような「無知から来る大失敗」だけは避けなければいけませんからね。
ぴーち こんばんは!
ふと秀吉の行動を考えたのですが、
こうしてイスパニアに侵略される以前に
秀吉の朝鮮出兵という行動は、行き過ぎた行動だったのではないか(本当に明を侵略する必要があったのか)という疑問が浮かびました。
勿論、それ以前の信長の意思を受け継いでの
事だったのでしょうけれど、野望を持ち、外国を支配しようとする気持ちにはやはり外国からも狙われるという諸刃の剣的なデメリットもあるという覚悟が秀吉には無かったのでしょうか。
応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら いつの時代でも 世界中 宗教戦争はありますよね
日本が 宗教の名の元に
他国に侵略されなかったことが 幸いです
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る思い、よく分かります。
外国を支配するということは、別の外国から狙われる口実を与えること。
戦いが戦いを、さらには憎しみが憎しみを生み、憎しみの連鎖はいつかは断ち切らないと永遠に続く。
しかしながら、当時の状況は平和よりも侵略が当然とされていた時代でした。
我が国が狙わなかったとしても、よその国がいつか必ず狙うことになる。
仮に我が国が平和を望んでいても、その思いに応えられる土壌があったかどうか。
なぜ秀吉が明を侵略する決意をしたのか、そしてそれは無茶な行動だったのか。
次回(22日)以降の更新で明らかにしたいと思います。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > いつの時代でも 世界中 宗教戦争はありますよね
> 日本が 宗教の名の元に
> 他国に侵略されなかったことが 幸いです
私もそう思います。
政教分離は信長が築いた財産ですが、秀吉もしっかりと受け継ぎ、家康が完成させました。
我が国の平和の大きな理由の一つですから、大事にしていきたいですね。
- 朝鮮の王国のひとつ、百済王家の末裔である
「摂関家」が、故郷の奪還をはかった
というのが真相だと見る方もおられるようです。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 > 朝鮮の王国のひとつ、百済王家の末裔である
> 「摂関家」が、故郷の奪還をはかった
> というのが真相だと見る方もおられるようです。
そういう見方もあるのですか。
参考にさせていただきます。有難うございました。
これらの点に着目した秀吉は、イスパニアと我が国とが同盟を結んで両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりに、イスパニア所有の外航用の軍艦を売却してもらうという条件を示すことによって、外交によるイスパニアとの妥協(だきょう)を目指しましたが、武力による我が国の侵略を断念していなかったイスパニアに拒否されてしまいました。
進退窮(きわ)まった秀吉は、自分自身がイスパニアよりも先に明を征服してしまう以外に、我が国が侵略から免(まぬが)れる方法はないと覚悟を決めました。先述した数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば、我が国単独での中国大陸の征服も不可能ではないと考えたからです。
秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余(あま)していた兵士たちに好意的に迎えられました。古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑(いど)んだ、巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う遠征(えんせい)という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのでした。




いつも有難うございます。
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風早 りら 秀吉が 何故 明を征服しようとしたか
今まで 不可解でした
先生のご説明で 理解出来そうです
有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀吉が 何故 明を征服しようとしたか
> 今まで 不可解でした
> 先生のご説明で 理解出来そうです
> 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
明へ攻め込むのにもそれなりの理由があります。
何が何でも「侵略」と決めつけるのではなく、その原因を探ることで、本当の歴史が見えてくるんですよね。
重要な問題です。
晴雨堂ミカエル 秀吉が単純な権勢欲や征服欲にかられてキリスト教を弾圧したり朝鮮出兵を行ったかのように時代劇は描かれがちです。世界情勢は殆ど描かれていません。
どういう訳か、嬉々としてサンタ・マリア号の復元船に乗り込む日本人がいるように、西洋の歴史観に毒されています。この点に限っては、朝鮮や中国の歴史教育は健全でしょう。日本は精神的にアメリカの植民地です。
家康が征夷大将軍のポストに執着したのも、単に「武家の棟梁」というだけでなく、対外的には夷狄である南蛮人の楯になる意図があったように思います。内政では南蛮人の存在を征夷大将軍就任の根拠になったのではないか、と。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 秀吉が単純な権勢欲や征服欲にかられてキリスト教を弾圧したり朝鮮出兵を行ったかのように時代劇は描かれがちです。世界情勢は殆ど描かれていません。
> どういう訳か、嬉々としてサンタ・マリア号の復元船に乗り込む日本人がいるように、西洋の歴史観に毒されています。この点に限っては、朝鮮や中国の歴史教育は健全でしょう。日本は精神的にアメリカの植民地です。
「日本」史の一番悪い面が出ていますね。
日本の歴史ではあっても海外にも常に目を配らなければいけないはずなのに、我が国主体の動きだけでお茶を濁そうとする。特に「地球市民」を標榜される方々であれば、地球レベルの動きはお得意のはずなのですが。
> 家康が征夷大将軍のポストに執着したのも、単に「武家の棟梁」というだけでなく、対外的には夷狄である南蛮人の楯になる意図があったように思います。内政では南蛮人の存在を征夷大将軍就任の根拠になったのではないか、と。
なるほど、確かにそのような一面がありますね。平和主義者らしい家康の考えだと思います。
戦国バブル
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
作家の堺屋大一氏は、秀吉の朝鮮出兵は
戦国バブルで、明を攻めることが理由だと語っていました。
どういうことかというと
どこの戦国大名も、立身出世を前提にして、組織が成長することを前提に家臣を雇っているので
過剰人員状態でした。
日本国内は、天下が治まって、領土を広げることができないからです。
だから、秀吉の海外進出は、秀吉個人の考えというよりも、秀吉政権の体質のようなものですね。
(それは、秀吉自身、まだ、部下を持てる身分ではない時から、部下を持ったことからも宿命のようなもの。)
その余剰人員を大名の改易・断絶というカタチで
徹底的に行ったのが、徳川家康・秀忠・家光です。
たしかに、リストラをする人間は、嫌われますね。ただ、それをしないと、秀吉のように拡大戦略で、そのうち、組織が崩壊します。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
秀吉の失敗を教訓に、またしても家康が「歴史に学んで」政策を行った結果ですね。
だからこそ家康は嫌われるんですが、同時に我が国での平和が達成される大きな原因にもなっています。
秀吉は対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮(りしちょうせん)に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国(そうしゅこく)と仰(あお)いでいた李氏朝鮮は秀吉の要請(ようせい)を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提として、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、1592年に起きた一回目の朝鮮出兵である文禄の役(ぶんろくのえき)の本当の理由でした。
肥前(ひぜん、現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率(ひき)いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、でしたが、李氏朝鮮の名将である李舜臣(りしゅんしん、イ・スンシン)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで、多くの兵が飢(う)えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
秀吉の朝鮮出兵に関しては、
四面楚歌の状態だった訳ですね。
その閉塞感を打破する為に、出兵を強行
したものの、思いもよらぬ日本とは違う自然環境や食料不足に、あえなく思いが絶たれてしまった・・。
秀吉の野望の前には、味方をしてくれるものは
無かったというのは、やはり秀吉の行動には
元々計画性がなく、無謀な事だったということなのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結果だけを見れば、確かに無謀だったように見えますね。
実際のところ、秀吉の苦戦の主な原因は情報不足や作戦の失敗、あるいは戦いの一貫性のなさによるものです。
朝鮮半島について事前に情報を仕入れていなかったことで冬の対策がおろそかになっていたことや、朝鮮半島を経由して明へ攻め込むはずが、なぜか現在の北朝鮮の方まで突っ走ってしまうという不可思議な軍勢の進め方、そんな折に軍勢を寸断されたことで補給線が断たれて、多くの兵士が飢えや寒さで亡くなるという失敗があったのです。
これではどれだけ多くの兵力や鉄砲があっても勝てるはずがないですね。そういうこともあり、ぴーちさんが仰るように計画性のなさはありますが、少なくとも無謀ではなかったと思います。
オバrev なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
> でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
秀吉自身は勝てると思っていたようですし、兵力も圧倒していたのですが、いかんせん作戦が稚拙すぎましたね。ある意味では無謀と思われても仕方がないと思います。
> ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
その一面は確かにありますね。天下が統一されて新たな領地を獲得することが不可能となり、武士たちの間に高まっていた不満をそらすという目的があったことは間違いないようです。もっとも、これは秀吉に限らず、先述したようにアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンと同じく、世界史の常識でもある訳ですが…。
韓国の大河ドラマでは・・。
晴雨堂ミカエル 韓国の大河ドラマ「壬辰倭乱」では、徳川家康が秀吉の力を削ぐよう暗躍している描写でしたね。
明は女真族8万騎で滅びましたし、ヨーロッパは日本より少ない兵力で世界を征服しました。
日本軍は練度・装備・兵数は世界一です。作戦が上手ければ明を取ることはできましたね。占領維持が秀吉にできたかどうかは別にして。
イスパニア船を捕獲してコピーするのは技術的可能だったと思うのですが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、ドラマによって観点が違うんですね。
仰るとおり、明の攻略は決して不可能ではなかったとは思います。ただし、第二次大戦のような「終わりのない戦い」で、我が国の体力が疲弊して他国に狙われる可能性も十分にありましたから、結果は何とも言えないのですが…。
鉄砲のように小さなものであればすぐにコピーができたと思いますが、船の場合はどうでしょうか。また気前よくもらった鉄砲とは違って、イスパニアの船をそう簡単に捕獲できるのか、失敗した場合のイスパニアとの関係の悪化をどう処理するのかなどを考えた場合に、あまりにもリスクが大きすぎるような気がしますね。
キリシタンを処刑する強攻策をとったのですから・・。
晴雨堂ミカエル 明を支配するよりは遥かにリスクは微少です。後に江戸幕府はポルトガルやイスパニア船を追い出しているのですから、騙して船を強奪するのは簡単であり、強攻策をとる力と技は十二分にありました。
黒田氏もご存知のように日本の大工は低レベルではありません。ヨーロッパの軍艦を模倣する技は船大工にもあると考えた方が自然でしょう。
ヨーロッパ人と同じくらい戦略眼があれば、手順と効率を重視して実行していたと思います。やはり日本人は「侵略者」には向かない民族なのでしょう。ヨーロッパ的独裁者になれる素質をもっていたのは信長だけですか。
信長の政策を理解していた秀吉でしたが、信長の厳しさは欠けていたかもしれません。
ところで「壬辰倭乱」では、秀吉が朝鮮半島南部の穀倉地帯を確保して兵站維持する作戦をとろうとすると、家康は北に逃れた朝鮮国王の生捕を優先するよう執拗に進言する場面があります。
韓国での家康評が気になりますね。朝鮮学校では家康・秀忠の平和路線・国交回復・朝鮮通信使を介しての交流事業を好意的に取り上げています。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 なるほど、強奪という手段も有効ではありますね。
だとすれば、仰るように日本人には「冷徹な侵略者」のDNAが(信長のような例外を除いては)入っていないがゆえの遠回りだったのかもしれません。
韓国においても「敵の敵は味方」なのでしょうか?
家康びいきは「秀吉憎し」の裏返しのような気がします。だとすれば、豊臣家が滅びたことは対朝鮮半島に限っていえば、皮肉ではありますが良かったことなのかもしれませんね。
翌1597年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを慶長の役(けいちょうのえき)といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、1598年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退(てったい)しました。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしたのみならず、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまいました。
ところで、秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想(もうそう)」などといった扱(あつか)いを受けることが多いですが、これまで述べてきたように、イスパニアに明を攻め取られることによって我が国が侵略されるのを防ぐために明を先制攻撃しようと計画し、その前提として朝鮮半島から攻め込んだという目的が存在しています。
これらの事実は、最近の教科書に記載されることが多くなった「朝鮮侵略」という誤解についても同じことが言えるのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」
私も今まで そう思っていました
ドラマ等では いつもそのような
筋立てになったいます
教えて頂いて 有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 >> 「秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」
> 私も今まで そう思っていました
> ドラマ等では いつもそのような
> 筋立てになったいます
> 教えて頂いて 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
一般的なドラマとは全く異なる、歴史の真実をぜひご覧になっていただければと思います。
ぴーち こんばんは!
もしも朝鮮出兵の結果が日本国にとって
良好な結果として終わったのなら、世間からのこれ程の言葉を浴びせられなかったのでしょうね。(^^ゞ
秀吉ともあろう人が、どうしてだろう?という落胆した気持ちが込められた言葉の様にも受け取れました。
何事も理由も無く突発的に物事は起こるのではなく、必ずそこには原因が存在するものだという事ですね!
世間からの秀吉に対する濡れ衣を黒田さんがこの記事で事実を明らかにしてくれていることに対して、当の秀吉が一番感謝しているかもしれませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私の気持ちまでお察し下さって有難うございます。
仰るとおり、秀吉の朝鮮出兵の失敗は、彼のそれまでの評価を一気に貶(おとし)める結果となったのが残念でなりません。
とはいえ公正な目で歴史を評価しなければいけませんから、まずは失敗の原因やその結果を冷静に判断させていただきました。
次回(25日)からは朝鮮出兵の真実に迫ってみたいと思います。
ナオ ということは 秀吉の朝鮮出兵の理由は 大東亜戦争を始めた理由と同じではないですか! 歴史は繰り返すですね。
ナオさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
地政学的なものなど戦争をするには様々な要因がありますが、少なくとも一方的な侵略というのは我が国にはほとんど考えられません。
しかしながら、秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだのは李氏朝鮮が我が国の方針に反対したからであり、可能性の有無(うむ)はともかくとして、仮に李氏朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。
秀吉の最終目標はあくまで明を征服することであり、朝鮮半島そのものを侵略するという概念はなかったといえます。それなのに、秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断定することは、秀吉の真意を見誤るのみならず、歴史的にも正しい表現とはいえません。従って、ここはやはり「朝鮮出兵」と表現すべきなのです。
また、秀吉に対する評価についても、朝鮮半島の人々の思いを受け止める一方で、世界史の原則である「ある民族にとっての英雄は、他民族にとっての虐殺者(=戦争勝利者)である」という視点からも眺(なが)める必要があるのではないでしょうか。




いつも有難うございます。
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風早 りら 朝鮮半島の方々の秀吉への恨みは 今でも根強いようですね
お互い過去の事にとらわれるよりも 未来の隣人としての信頼関係を築く方に心を持って行った方がいいと思います
ぴーち こんばんは!
確かに今でも朝鮮半島に住む人達は
秀吉の行動を恨んでいらっしゃるようですね。
秀吉の真意は黒田さんからこうして教えていただいたので、これまで誤解していた部分
を理解させていただきました。
ありがとうございましたm(_ _)m
人間がそのように考えるように
なってしまう理由には必ずそれなりの原因が
あるという法則に当てはめて考えてみますと、
朝鮮半島の人々が秀吉の思わぬ行動に恐れをなしたというのは、例えば、今、いきなり宇宙人が日本上空に現れたとして、得体のしれないものだけに恐怖や不安を感じ、「これは絶対攻撃される!殺されてしまう!侵略されてしまう!」と思われても仕方がないでしょう。
いきなり外国人が現れ、理由も判らないまま、
攻撃されたり、攻められたりされたら、恐怖心や、不信感ばかりが募る事でしょう。
けっして朝鮮半島の方達の肩を持つわけではありませんが、
朝鮮半島に住む人達が十分にその理由を後からでも理解していたのなら、きっともっと秀吉の行動の表現は緩んだのではないかと思いました。
(私も表現の仕方が下手で申し訳ありませんm(_ _)m
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 朝鮮半島の方々の秀吉への恨みは 今でも根強いようですね
> お互い過去の事にとらわれるよりも 未来の隣人としての信頼関係を築く方に心を持って行った方がいいと思います
全くもってそのとおりだと思います。
恨(ハン)の精神が朝鮮半島の伝統とはいえ、国際関係ではお互いに歩み寄ることができるところを見つけてほしいものですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに攻め込むまでとはいかずとも通行させてほしいというのであれば、もう少し上手な方法があっても良かったかもしれません。
ただ、当時の国際的な関係では、軍事力が抜きんでた我が国と、明を宗主国として仰いでいた李氏朝鮮という立場の違いがありましたから、(あくまでも当時の関係としては)秀吉が強気に出る思いも分からないことはありません。
以上は秀吉の肩を持つのではなく、国際関係から冷静に判断したものではありますが、現在の関係とは全く異なるだけに難しいところではありますね。
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なおまゆ そうなんですよね。朝鮮は通り道だったんですよね。秀吉は、天皇の上になろうとしていましたね。だから、征夷大将軍にならずに、それより上位の関白になったんですよね。
明を征服し、皇帝になり、正しく『革命』を行い、血脈に関係なく国を実質支配したかったんじゃないかなと思ってます。
日本に居る限り、天皇家に代わることは不可能ですから。
もう一つは武士の失業対策の視点もあったと思っています。秀吉は、武士達を冷酷に切り捨てられなかった『熱い心』を持っていたと思います。
黒田さんはいかがお考えでしょうか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵のもう一つの説ですね。
秀吉は皇室をそのまま残して、自分は明において新たに「皇帝」となることで皇室を超えようとしたという「秀吉の野望」です。
後半は秀吉の「唐入り」が当時の武士たちに好意的に受け入れられた証拠ですね。ところが出兵に失敗したことによって、武士たちの間で戦争に対する嫌悪感が広がってしまう。皮肉なものですね。
秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つという理想とはあまりにもかけ離(はな)れているような思いがします。
だからといって、その国にはその国で語り継ぐべき歴史が存在する以上は、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることは許されませんが、逆にいえば我が国が他国に対してある意味へりくだってまで、他国の歴史認識に合わせる必要もないということにもつながるのではないでしょうか。
秀吉による朝鮮出兵に限らず、私たちは日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのであり、我が国の公教育においても当然そのような歴史を伝えていかなければならないでしょう。
さて、朝鮮出兵の失敗は結果として豊臣家による支配に大きな悪影響を与えましたが、それに加えて豊臣家には後継者の不在という致命的(ちめいてき)な欠陥(けっかん)がありました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 私たちは日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのであり、我が国の公教育においても当然そのような歴史を伝えていかなければならないでしょう。
私が 常に感じていることです
いつまでも 屈辱的な 外交政策をしている
のでしょうと 考えさせられることが
あまりにも 多いです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > いつまでも 屈辱的な 外交政策をしている
> のでしょうと 考えさせられることが
> あまりにも 多いです
りらさんのお考えが、今の日本人の大多数の思いでしょう。
そもそもは30年前の「ある事件」がそもそもの引き金ですが…。
この件については28日からの「第23回歴史講座」で紹介することになります。
全くその通りです。
晴雨堂ミカエル 物事は多面的に見なければなりません。
よく私は対立する相手の弁護士になったつもりで事実関係を精査しなおすべきと訴えるのですが、運動に気をとられている輩は理解することを拒絶しますね。
30年前で思いつくのは、吉田清治氏の「慰安婦狩り」ですな。
日本人は外圧に弱い、そんな民族性を利用して左翼勢力はよく中国韓国の力を利用していました。
自分たちではなかなか巨大な自民党を抑えられないので、中国共産党の力を利用していたのです。
中韓が「発展途上国」のうちは大したことはなかったのですが、今は明らかに国益を損なっていますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
慰安婦の問題もしかり、他国の圧力を利用してまで自国を貶めようとする姿勢が私には理解できません。
それがどれだけの国益を損ねているのでしょうか。
ナオ 中華圏に住む私は歴史問題が取り上げられるたび肩身の狭い思いをしていましたが、黒田先生の解説を読んで罪の意識で謝罪を繰り返すばかりでもいけないのだと思いました。先生感謝!
しかしながら日本にもそれなにり長い歴史があるのに中国人民・韓国人の中には第二次世界大戦の一部分のみを取り出し、日本人を見つけては「日本人は歴史を知らない」と言う人々が少なくありません。それを聞く度 嫌な気分です。
ナオさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
中国や韓国が我々日本人に対して「押し付けてくる」歴史は、自国に都合よく編集されたものです。
もちろん自国の歴史を良く見せようとするのはどこの国も同じようなものですが、少なくとも一方的に相手国に認めさせて良いはずがありません。
お気持ちは私も理解できます。
秀吉は1598年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼(ひでより)はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼(いらい)する直筆(じきひつ)の書状(しょじょう)が残されています。
間もなく秀吉は「露(つゆ)と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という辞世(じせい)の句を残して62歳でこの世を去りましたが、秀頼と豊臣家の将来を託(たく)されて笑顔で応(こた)えた家康は、内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。
[※明日(2月28日)からは第23回歴史講座の内容の更新を開始します。]




いつも有難うございます。
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オバrev 実子が幼い秀頼のだったことや、甥の秀次を切腹させたことなど後継問題は秀吉のアキレス腱だったとも言えますか。
でも何故秀吉は若い頃に側室を持たなかったのか疑問に思います。
それにしてもその後の結果を見れば明らかですが、家康は目の前で信長や秀吉という手本を見ながらしっかり学んだんでしょうねぇ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 実子が幼い秀頼のだったことや、甥の秀次を切腹させたことなど後継問題は秀吉のアキレス腱だったとも言えますか。
> でも何故秀吉は若い頃に側室を持たなかったのか疑問に思います。
秀吉が晩年にたくさんの側室を持っていたことは有名ですが、若い頃にはおね一筋だったのでしょうか?
いずれにしても不思議な話ですが、壮年の子供がいなかったのが仰るとおり致命傷になりましたね。
> それにしてもその後の結果を見れば明らかですが、家康は目の前で信長や秀吉という手本を見ながらしっかり学んだんでしょうねぇ。
以前の講座にも書きましたが、家康ほど「歴史に学んだ平和主義者」はいないでしょう。
しばらく本編からは遠ざかりますが、いずれ家康について詳しく紹介できると思います。
寧々は悪女という説も。
晴雨堂ミカエル 時代劇では良妻賢母型キャラで描かれる北政所ですが、本当は独占欲の強い悪女という説があります。
もっぱら、寧々の牙は政治には向けられず家庭の中だけでしたから、家臣や大名の評判は悪くなく、豊臣恩顧の大名たちには親しみのある女将みたいなもの、家康に至っては親密な仲だったとか。
寧々の残酷さは、秀吉に近付く女や側室に向けられ、子ができると奪い取って殺したという。
根拠の薄い説ですが、可能性としては有り得る話です。女好きで名高い秀吉のわりに側室をもたず、子宝に恵まれないのが不自然。。人為的妨害が働いていても不思議ではありません。
それに家康が天下を握ったので、敗れた淀君が悪女になり、家康と友好関係にある北政所のスキャンダルは闇に葬られるのは有りそうな話です。
寧々を悪妻にするとツジツマが合いますね。それに江戸時代のように家制度が厳しくありませんし、その江戸時代でさえヨーロッパの諸侯のような厳格な血統主義ではなく、長子でも馬鹿なら廃嫡になり、遠縁の賢い子を擁立する事は多々ありました。
寧々に実子がいれば豊臣家存続に気を配ったでしょうが、自分の血筋が継がない豊臣にはあまり執着がなく、妾腹の子が天下を握る
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、北政所の陰謀ですか。確かにつじつまが合いそうですね。
これが本当の「おんな太閤記」でしょうか。
いずれにせよおねに実子がいれば、その後の歴史も大きく変わったことでしょう。