1582年の山崎の合戦以降、秀吉は新しく獲得(かくとく)した領地に次々と検地を行い、やがて全国的な規模にまで広がっていきました。これら一連の検地を太閤検地(たいこうけんち)、または天正(てんしょう)の石直(こくなお)しといいます。
太閤検地において、秀吉は土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町(ちょう)・段(たん)・畝(せ)・歩(ぶ)に統一するとともに、それまではバラバラであった枡(ます、体積を図る測定器のこと)も京枡(きょうます)に統一して、全国の村ごとに田畑(でんぱた)や屋敷地(やしきち)の面積や等級を調査しました。
なお、それまでは360歩を1段としていたのが、米の生産効率の上昇もあったことで、太閤検地によって300歩を1段に改められています。ちなみに段は反(たん)とも表記され、1段は10アール(=1,000平方メートル)とほぼ同じ大きさです。また、歩は坪(つぼ)と同じ面積であり、現代でも家や土地の面積の単位として「○○坪」と表現されることが多いですね。




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QQQ 1反は300坪で、約1000平方メートルじゃないでしょうか?
QQQさんへ
黒田裕樹 > 1反は300坪で、約1000平方メートルじゃないでしょうか?
大変失礼いたしました。仰るとおり、当方の記載誤りです。
このたびは申し訳ございません。ご指摘下さってありがとうございました。
ぴーち こんばんは!
確かに土地の面積の単位は、今でも坪で言われた方が
ピンと来ますものね^^
逆にメートル法で言われた方が、検討が付かなかったりします(^^ゞ
近所の農家の方の話の中でも「うちの田んぼは○○反歩あるんだよ」なんて言葉を耳にすることが多いです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに土地の面積の単位は、今でも坪で言われた方が
> ピンと来ますものね^^
> 逆にメートル法で言われた方が、検討が付かなかったりします(^^ゞ
> 近所の農家の方の話の中でも「うちの田んぼは○○反歩あるんだよ」なんて言葉を耳にすることが多いです。
私も法律事務所に長い間いましたから「坪」の方がなじみがありますね。
世界標準のメートル法も便利ではありますが、TPOで使い分けたいものです。
黒田裕樹さん
風早 りら 検地と刀狩が 秀吉が 始めたことは
知りませんでした
学校では ならったはずですが
忘れていることが 多く
先生の講座で また 学べて 幸せです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 検地と刀狩が 秀吉が 始めたことは
> 知りませんでした
> 学校では ならったはずですが
> 忘れていることが 多く
> 先生の講座で また 学べて 幸せです
検地と刀狩は以前から行われてきましたが、秀吉が本格的に始めて、かつ成功しました。
その理由も含めて、これからお話していきたいと思います。
綾小路江府士麿 太閤検地はよく聞くのですが、
単位がなかなか飲み込めないんですよね。
綾小路江府士麿さんへ
黒田裕樹 > 太閤検地はよく聞くのですが、
> 単位がなかなか飲み込めないんですよね。
私もそうなんですよね。
最初に記事を書いた際にはメートル法を間違えましたし。
とはいえ、一段の単位が変更になるなど重要な事項ですから、少しずつ理解したいものです。
太閤検地によって土地の生産力は、それまでの課税額で示していた貫高(かんだか)にかわって、米に換算した石高(こくだか)で表示されるようになりました。これを石高制(こくだかせい)といいます。
また、検地帳(けんちちょう)には実際の耕作者の田畑や屋敷地が石高で表記され、それに応じて年貢と労役が課せられるようになりました。これを一地一作人の原則(いっちいっさくにんのげんそく)といいます。この原則によって、一つの土地に何人もの権利が重なり合っていたのが整理され、その結果として長く続いた荘園制度(しょうえんせいど)は完全に消滅しました。
秀吉は天下統一後の1591年、全国の大名に対してその領国の検地帳(別名を御前帳=ごぜんちょう)と国絵図(くにえず)の提出を求めました。これによってすべての大名の石高が正式に定まり、大名に支配する石高に見合うだけの軍役(ぐんやく)が課される体制が出来上がるとともに、近世的な知行制度(ちぎょうせいど)である大名知行制(だいみょうちぎょうせい)の基礎が確立しました。
なお、太閤検地によって農民は自分の田畑の所有権を法的に認められるようになりましたが、その一方で自己のすべての土地財産を大名などに知られることで年貢の負担も厳(きび)しくなっていきました。天下統一が進んでいるとはいえ、いまだ戦国時代が続いているのですから、農民による抵抗があってもおかしくないはずなのですが―。




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晴雨堂ミカエル おめでとうございます。私は奇しくも黒田氏のこないだの講演1月22日で45になりました。お互い40代、生き延びましょう。
安土桃山時代は現代日本人の性格を語る上で重要ですね。
宗教勢力だけでなく人民全体の武装解除と管理体制確立された時期、エジプトで比較的に平和な市民革命が起こりましたが、それでも貴重な人類の遺産が損傷強奪されていることを考えたら、民衆の武装解除と数百年の泰平は日本民族にとって世界史的に奇跡の体験です。多分、日本で同じ事が起こったとしても、民家や商店の火事場泥棒程度、博物館や国宝はあからさまに襲うまい。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 有難うございます。充実した40代でありたいものですね。
我が国の国民の気質は確かに奇跡ですよね。奈良時代の遺物がいまだに残っているのは素晴らしいと思います。
ぴーち こんばんは!
まずは(冒頭にも書かれていますね^^)
お誕生日おめでとうございます!

黒田さん、とうとう24歳ですか~これから2ヶ月間だけは同年ですね(笑)
益々のご活躍をお祈りいたしております!!
さて記事の方へ一言、コメントさせてください。
秀吉の時代は、現代の様々な制度にも
関係した様々な事が確立された時代でも
あったのですね。それだけ秀吉も先見の明に優れた人物でもあったということなんでしょうかね。
それでは応援凸
永遠の?24歳ぴーちより・・え?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
お互いまだまだ若いですね(^_^)v
秀吉の先見の明も素晴らしいですし、またそれを現実のものとするだけの彼の力も素晴らしいものがありました。詳しくは明日(16日)の記事をご覧くださいね(^^♪
サクラ お誕生日おめでとうございます。
荘園制度が終わったのは、このときだったんですね。
いつ、どんな制度が始まったのかはよく聞く話ですが、それが終わった日は聞かないものです。
こうして見ると、それぞれの制度は日本史のなかで結構長く生きてますね。
紗那 誕生日おめでとうございます!
秀吉さんのことですから、こういうムチと何かしらのアメを使い分けたのでしょうが……
不覚にもちょっと思い当たりませんね……
サクラさんへ
黒田裕樹 > お誕生日おめでとうございます。
有難うございます。
> 荘園制度が終わったのは、このときだったんですね。
> いつ、どんな制度が始まったのかはよく聞く話ですが、それが終わった日は聞かないものです。
> こうして見ると、それぞれの制度は日本史のなかで結構長く生きてますね。
確かに制度の終わりというものはなかなか耳にしないですね。
荘園制度は800年以上も続いたわけですが、終わりは結構あっさりとしています。
巨大な権力者によってそれまでの制度が変更される好例かもしれませんね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 誕生日おめでとうございます!
有難うございますm(_ _)m
> 秀吉さんのことですから、こういうムチと何かしらのアメを使い分けたのでしょうが……
> 不覚にもちょっと思い当たりませんね……
仰るとおり、アメとムチですよ。
アメは農民たちの暮らしを守ること、そしてムチは…。
ayumi お誕生日おめでとうございます!!
黒田先生の42歳が素敵な一年になりますよう、
お祈りしていま~す。
黒田先生は歴史講座で全国制覇してくださいませ。
陰ながら応援しております!!!
ayumiさんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)/
全国制覇ですか(^^ゞ
これからも地道に頑張っていけば結果は後からついてくると思いますし、毎日精進ですね。
要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように、天下を統一してそれこそ数十万の兵力を持つようになったことで、初めて農民も抵抗をあきらめて検地や刀狩に黙(だま)って従(したが)ったのです。
また、秀吉は1591年に人掃令(ひとばらいれい、別名を身分統制令=みぶんとうせいれい)を出して、武士が町人や農民になったり、あるいは農民が商業を行ったりすることなどを禁止しました。これによって兵農分離(へいのうぶんり)が進むとともに、江戸時代における士農工商(しのうこうしょう)の身分制度の基礎が確立しました。
もっとも、中世の惣村(そうそん)によって発達した自治的な村の運営は太閤検地後も続けられ、年貢を村の責任で一括(いっかつ)して納める村請(むらうけ)の制度も江戸時代に受け継がれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この当時の「刀狩り」制度は、現代の
銃砲刀剣類等所持取締法という制度で残されていると考えて良いのでしょうか?
人掃いとはこういう字をあてるのですね。
私はよく時代劇で内密な話をする時に
「どうかお人払いを」と依頼する場面が
ありますが、そちらの「人払い」かと
思いました(^_^;)
すみません。。とんちんかな話で(ノ∀`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この当時の「刀狩り」制度は、現代の
> 銃砲刀剣類等所持取締法という制度で残されていると考えて良いのでしょうか?
目的としては「治安の維持」は同じであっても、当時の「農民から武器を取り上げる真の理由」である「一揆の防止」というところが異なりますでしょうか。
まぁ結果としては同じことにはなりますね。
> 人掃いとはこういう字をあてるのですね。
> 私はよく時代劇で内密な話をする時に
> 「どうかお人払いを」と依頼する場面が
> ありますが、そちらの「人払い」かと
> 思いました(^_^;)
> すみません。。とんちんかな話で(ノ∀`)
いえいえ(^^♪
時代劇の「お人払い」の字はこれで正解ですね。
「人払」も「人掃」も意味は同じですが、歴史用語としては「人掃令」と書かないといけないんです。
ややこしいですよね(´・ω・`)
オバrev 刀狩りをして農民から武器を取り上げたり、人掃い令をだして兵農分離をしたりということから、秀吉の出目については、農民のことをよく分かっていたからこそやったということで、百姓ではないかと推測しますが、いかがでしょうか?
sakura1956 お久しぶりです。
テストがあったもので。
士農工商は兵農分離が進んで確立したんですか・・。
知りませんでした。。。
参考になりました(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 刀狩りをして農民から武器を取り上げたり、人掃い令をだして兵農分離をしたりということから、秀吉の出目については、農民のことをよく分かっていたからこそやったということで、百姓ではないかと推測しますが、いかがでしょうか?
仰る説は昔から有力視されていますね。
当事者だからこそ、立場がよく分かるものです。ただ、最近では「地侍だった」という説もありますし、よく分からないのが実情のようですが、以前に書かせていただきましたように、通常の武士ではなかったことは間違いないとにらんでいます。
sakura1956さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。
> テストがあったもので。
テストお疲れ様でしたm(_ _)m
無事に終わりましたか?
> 士農工商は兵農分離が進んで確立したんですか・・。
> 知りませんでした。。。
> 参考になりました(^^;)
歴史の結果には必ず原因があります。
兵農分離が進んだからこそ、身分の違いがはっきりと分かるようになったんですよね。
こういう観点から理解していけば、忘れにくいんですよ(^_^)v
アクセス10万、おめでとう。
晴雨堂ミカエル 身分制度については、詳しく知りたいものですね。
一口に士農工商といっても、大百姓は苗字帯刀を許されただけでなく、姿も士分風の者がいたそうですし。逆に郷士の中にはどうみても農民にしか見えない者もいたそうですから。現代人が考えているほど明確厳格な階級制度ではなかったようです。
江戸時代の日本は3百の小国の連合国家みたいなものですから、当然地域差もあったでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 アクセス数へのお言葉有難うございます。本日(17日)、記念の更新をいたします。
> 身分制度については、詳しく知りたいものですね。
> 一口に士農工商といっても、大百姓は苗字帯刀を許されただけでなく、姿も士分風の者がいたそうですし。逆に郷士の中にはどうみても農民にしか見えない者もいたそうですから。現代人が考えているほど明確厳格な階級制度ではなかったようです。
> 江戸時代の日本は3百の小国の連合国家みたいなものですから、当然地域差もあったでしょう。
そうですね。身分制度といっても地方に関してはその規制は緩かったようです。八王子千人同心のような人々もいましたからね。このあたりについて、一度ゆっくり研究したいものです。