秀吉は1537年に尾張中村(現在の名古屋市中村区)で生まれたとされていますが、若い頃に家を飛び出すと、やがて木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗って信長の配下となりました。
始めは信長の小者(こもの、使い走りや雑用係のこと)として仕(つか)えていましたが、草履取(ぞうりと)りとして冬の極寒(ごっかん)の最中に信長の草履を自らの懐(ふところ)の中に入れて温めていたというエピソードで知られる「人たらし」たる魅力が信長の目に留(と)まりました。
また、美濃(現在の岐阜県)の墨俣(すのまた)に、それまで誰もが失敗していた築城(ちくじょう)を現地の土豪(どごう)の協力を得て短期間で完成させたという、非凡(ひぼん)な才能による迅速(じんそく)な仕事ぶりが信長の歓心を買ったことで、常識破りの出世街道を歩んでいきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち 今日から、後の「豊臣秀吉」となる木下藤吉郎のお話が
始まったんですね^^
黒田流の秀吉秘話、、また楽しみに
読ませてください!
それにしても、いきなり「人たらし」と
秀吉を斬りましたね(^^ゞ
今後の展開が気になります^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日から、後の「豊臣秀吉」となる木下藤吉郎のお話が
> 始まったんですね^^
> 黒田流の秀吉秘話、、また楽しみに
> 読ませてください!
有難うございます。約2ヵ月ぶりの通常更新です。
講座も重要ですが、こちらが本職ですからね(^_^)v
> それにしても、いきなり「人たらし」と
> 秀吉を斬りましたね(^^ゞ
> 今後の展開が気になります^^
まぁ事実ですから(^^ゞ
大阪と深い縁がある秀吉は、もちろん大好きな武将です。
それだけに、是々非々で冷静に人物を見極めたいですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 豊臣秀吉の天下統一 その1
いよいよ 今日から 豊臣秀吉ですね
親しみのある方で これからが楽しみです
「人たらし」とは 相手の機嫌をとるのが
上手な人のことですか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 豊臣秀吉の天下統一 その1
> いよいよ 今日から 豊臣秀吉ですね
> 親しみのある方で これからが楽しみです
有難うございます。
秀吉の話はこれからしばらく続きますので、どうぞよろしくお願いします。
> 「人たらし」とは 相手の機嫌をとるのが
> 上手な人のことですか?
基本的にそういう意味になりますね。
「たらし」という言葉そのものは決して良い意味ではありませんが(例:女たらし)、秀吉の場合は「相手の気持ちを読んで喜ばせることで、自然と人に好かれるようになる」という解釈で考えられているようです。
なおまゆ 楽しみにしていた武将の登場ですね。
黒田さんらしくぶった切ってください。
秀吉は、ある意味で誤解された武将だと思います。もっとその実力は評価されていい。
朝鮮出兵の評価をどうなさるのか期待一杯です。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 楽しみにしていた武将の登場ですね。
> 黒田さんらしくぶった切ってください。
> 秀吉は、ある意味で誤解された武将だと思います。もっとその実力は評価されていい。
> 朝鮮出兵の評価をどうなさるのか期待一杯です。
有難うございます。
私なりの秀吉像を、昨年2月の第11回歴史講座とからめながらじっくりと描いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
秀吉は、先述した墨俣築城において現地の土豪に協力を仰(あお)いだことや、三木城(みきじょう、現在の兵庫県)や鳥取城(とっとりじょう)の攻略において、現地の商人から兵糧(ひょうろう)をすべて買い取って兵糧攻めにしたり、高松城(たかまつじょう、現在の岡山県)の攻略では現地が低湿地帯(ていしっちたい)であることを見抜いて城の周りを水没させる水攻めにしたりするなど、通常の武士では考えもつかない策を次々と実行していきました。
これらの献策(けんさく)が能力主義を第一とする信長から高く評価され、1582年の毛利家(もうりけ)の攻略(=先述の高松城攻め)の頃には羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、姫路城(ひめじじょう)の主(あるじ)として立派な大名となっていました。
しかし、その毛利攻めの総仕上げとして信長を現地まで招(まね)いたことが仇(あだ)となり、旧暦6月1日の深夜に信長が明智光秀(あけちみつひで)によって本能寺で殺されるという凶事(きょうじ)が発生してしまいました。




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ぴーち こんばんは!
百姓・・・
そうですか。もしも百姓の出であったとしたら、
自然の摂理や、現象、土地の状況などに精通していても不思議では無かったのでしょうね。
百姓とは、森羅万象、ありとあらゆる知識を把握している人である意味もあるそうですね^^
まあ、実際的にはそこまでの博識の方は居ないとは思いますがそれでも、自然が相手なので、知識は豊富な程良いでしょうね。
プライドの高い武士の出では無かったからこそ、苦労にも耐える事も出来たし、地形や土地の様子も把握出来たのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、百姓には百姓独自の観点というのがありますから、根っからの武士とは全く違う発想が見受けられますね。
プライドを感じさせないあたりもいかにも秀吉らしいです(^^♪
オバrev 今日、池上彰さんの番組で、親日国家としてトルコを取り上げ、エルトゥールル号の話をしていました。
もちろん黒田先生の歴史講座受講生としては、知っていて当然の話でしたけどね(エ?
兵糧攻めや水攻めは、育ちが違い、物の見方も考え方も違う秀吉だからこそでた発想だったんですね。
先日も某グループの新年会でちょっと畑の違う人間と話をしたんですが、我々仲間の悩みってのが、彼から見れば、それはチャンスじゃないかと指摘されました。まさに目から鱗(@_@)
しかし、その秀吉の才能をうまく生かし切った信長もまた大したもんですが、本能寺で殺された時に、秀吉に招かれていたとは知りませんでした。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 今日、池上彰さんの番組で、親日国家としてトルコを取り上げ、エルトゥールル号の話をしていました。
> もちろん黒田先生の歴史講座受講生としては、知っていて当然の話でしたけどね(エ?
それは光栄です(^o^)/
私も今まで努力してきた甲斐があったというものですね(^_^)v
> 兵糧攻めや水攻めは、育ちが違い、物の見方も考え方も違う秀吉だからこそでた発想だったんですね。
> 先日も某グループの新年会でちょっと畑の違う人間と話をしたんですが、我々仲間の悩みってのが、彼から見れば、それはチャンスじゃないかと指摘されました。まさに目から鱗(@_@)
異業種同士の交流は貴重ですからね。
同じ仲間だとどうしても視野が限られますから、他人に見えるものが見えてこないということはよくあります。
> しかし、その秀吉の才能をうまく生かし切った信長もまた大したもんですが、本能寺で殺された時に、秀吉に招かれていたとは知りませんでした。
中国攻めにおいて、秀吉は毛利家が降伏する一歩手前まで追いつめていました。しかし、ここで自分ひとりの手柄としてしまうと、他の家臣の中で自分が突出してしまうことで信長に警戒されることを恐れたんです。そこで、最後の仕上げを信長に譲ることで自分を低く見せようとしたんですね。秀吉の誘いを喜んで受けた信長は先導役として光秀軍を派遣したのですが、それが仇となって光秀に討たれてしまったのです。
まさに一寸先は闇ですね。
HANA子 こんばんは~! またしてもご無沙汰してました
実は! 系の陰謀説も歴史のifとならんでロマン(?)の一つですが、秀吉による信長謀殺説も語られることの少なくない一説の一つですね
いち早く…では説明の付かない程早かった信長死亡の把握に大返しの尋常でないスピード
誰にも邪魔させずに光秀を撃破した手腕も「もしかしたら・・・」と思わせるような、その、アレですし
架空歴史モノ小説ではそれなりに書き古されたネタですが、やっぱりそれでもこれだけでどんぶりご飯が美味しくいただける魅力がありますね~
歴史学の本道からは外れちゃうかもしれませんが、そんな愉しみ方、けっこう大好きです
それもやはり、それだけ様々な人々から色々な意味で愛されている三英傑だからこそでしょうか
HANA子さんへ
黒田裕樹 本能寺の変にはいろんな説がありますよね。
私の見解は一昨年8月の第4回歴史講座で紹介したように「光秀の突発的な単独犯行」ですが、仰るような楽しみ方も歴史研究の醍醐味です。
秀吉は毛利家が信長の死を知る前に和睦(わぼく)すると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返しました。世に言う「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」です。そして6月13日には京都の山崎で光秀と戦って勝利しました。これを山崎の合戦(かっせん)といいます。
敗れた光秀は、逃げる途中で落武者狩(おちむしゃが)りの手にかかって死亡しました。ちなみに、山崎の合戦で天王山(てんのうざん)を先に支配した秀吉側が勝ったというエピソードから、物事の正念場(しょうねんば)を「天下分け目の天王山」と表現するようになり、また光秀のあまりにも短かった天下の期間から「三日天下」という言葉が生まれました。
その後、当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで自らはその後見人となった秀吉は、織田家の家臣同士で敵対関係にあった柴田勝家(しばたかついえ)を1583年に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで滅ぼし、信長のつくり上げた権力と体制の事実上の継承者(けいしょうしゃ)としての地位を確立しました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
お恥ずかしい話ですが、
光秀が落ち武者狩りの手に掛かって
死亡したというのは、初めて知りました(^_^;)
直接自分の手に掛ける事無く光秀が居なくなってくれた事は、秀吉のとっては、願ったり叶ったりだったでしょうね。
それとも秀吉の心情としては、それまで尽くしていた主君信長の敵という意味合いから、光秀は自分の手で
息の根を止めたかったのでしょうか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
秀吉にとっては光秀の存在が今後の自分の地位向上のためには邪魔でもありましたから、仰るとおり願ったり叶ったりだったと思います。
敵としては自分で討ちたかったという気持ちも分からないことはないですが、上記の理由から光秀が死ぬことの方が重要だったのではないかと私は思います。
黒田裕樹さん
風早 りら 当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで自らはその後見人となった秀吉
かなりの知恵者です
この三法師の行方が いつも気になっています
いつか お話下さいね
風早りらさんへ
黒田裕樹 >> 当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで自らはその後見人となった秀吉
> かなりの知恵者です
> この三法師の行方が いつも気になっています
> いつか お話下さいね
自らがいきなり跡継ぎになるのではなく、三法師というワンクッションを置いたところはさすがですよね。
三法師は元服後に織田秀信と名乗り、父親だった信忠の後を継いで岐阜城主となりましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたことで改易になり、高野山に追放されています。
その後は高野山から追い出されて亡くなったと伝えられていますが、いずれにせよ哀れな最期ですね。
天然中尉 黒田裕樹殿、こんばんは。
秀吉の天下統一ですか。このあたりは、石田三成の活躍が猛将達に怒りを覚えさせたような流れだったりしますな。
天然中尉殿へ
黒田裕樹 > 秀吉の天下統一ですか。このあたりは、石田三成の活躍が猛将達に怒りを覚えさせたような流れだったりしますな。
そうですね。武闘派の加藤清正や福島正則らとの間にすきま風が吹き始めた時期でした。
この流れは後の朝鮮出兵の頃に決定的な溝となり、関ヶ原の戦いの際には分裂して、結局家康の天下を許してしまうという秀吉にとっては悲しい結果でしたね…。
1584年、秀吉は信長の同盟者であった徳川家康(とくがわいえやす)や、信長の二男である織田信雄(おだのぶかつ)と小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いに挑(いど)みましたが、敗れてしまいました。しかし、その後に秀吉は信雄と和睦(わぼく)に成功し、戦いの目的を失った家康とも和睦しました。
やがて秀吉は家康に自身への臣従(しんじゅう、臣下として主君につき従うこと)を求め、自分の妹を家康の新たな正室(せいしつ、いわゆる正妻のこと)として差し出したり、母を人質として送ったりしました。こうした秀吉の容赦(ようしゃ)のない攻勢に対して家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼(しんかのれい)をとりました。
さて、天下統一を目指して大名を次々と従(したが)えた秀吉でしたが、彼の元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁(とうりょう)たる征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任することは不可能でした。そのため、秀吉は皇室との縁を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令しようと考えました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
家康に臣従を求める徹底した姿勢は
「鳴かぬなら鳴かせてみよう ホトトギス」になぞられた行動だったのでしょうかね^^
身分が低いというハンデを乗り越えて、皇室との縁を深めるとは、さすがに抜かりがありませんね。
応援凸
オバrev 小牧・長久手の戦いで敗れながら、織田信雄、家康と和睦し、尚且つ家康を臣下にしたってのが、どうしても理解できないんですが・・・
普通、負けたらそこで勝者の配下に下るのが当然と思うのですが、何故そうならなかったのか?
それに、そもそも小牧・長久手の戦いの大義名分はなんだったんでしょうか(?o?)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 家康に臣従を求める徹底した姿勢は
> 「鳴かぬなら鳴かせてみよう ホトトギス」になぞられた行動だったのでしょうかね^^
> 身分が低いというハンデを乗り越えて、皇室との縁を深めるとは、さすがに抜かりがありませんね。
家康に対しては小牧長久手の戦いで負けたことで、戦わずにして勝つ方法にこだわったということでしょうね。
そのあまりのしつこさに家康もとうとう音を上げたというところでしょうか。
身分の低さを他人の権威を借りるという発想で乗り切るあたりは、仰るとおりの抜かりのなさだと私も思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、通常なら信雄の軍門に下るのが普通だと思います。
しかし、秀吉は信雄の弱点、というよりも彼の性格を知り抜いていました。信雄は信長の子とは信じられないくらいの凡庸な武将で、その一方で信長の息子という金看板にこだわる、要するにプライドが高かった武将だったのです。
小牧・長久手の戦いの契機も、秀吉が信雄をないがしろにしたと思いこみ(実際にそうだったのですが)、家康に救援を頼んだのがそもそものきっかけでした。
その後、家康と組んだ信雄は秀吉に勝ちました。ところが、その直後に秀吉がお得意の「人たらし」によって信雄の機嫌を取り、家康の知らないところで勝手に和睦を結んでしまったのです。
信雄に振り回されたかたちになった家康は激怒しましたが、かといって戦いの大義名分を失ってしまった今となっては、秀吉と和睦する以外に道がなかったのです。
その後は本文のとおりの経緯で家康は秀吉の臣下となりましたが、長生きしたことで最終的に天下を取ったのは周知のとおりですね。
関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(ゆだ)ねられたと見なした秀吉は、1585年に諸国の大名に交戦停止を命じた惣無事令(そうぶじれい)を出し、これに違反(いはん)したとして1587年に九州の島津義久(しまづよしひさ)を降伏させました。
また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)を仰(あお)ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前(おんまえ)で秀吉自身への忠誠を誓(ちか)わせました。
そして1590年、秀吉は小田原(おだわら)の北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼし、伊達政宗(だてまさむね)らの東北の諸大名を降伏させたことで、ついに天下統一の事業を完成させたのでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
これまでの秀吉の行動を拝見させていただいていると、最初に黒田さんが秀吉を「人たらし」と仰っしゃられた意味が見えて来ました。
信長亡き後、チャンスとばかりに天下取りという最終目的の為にあらゆる手練手管を用いた抜かりなき行動は、信長存命の時から虎視眈々とその座を狙っていたかのようですね。もしかして最初からではなかったのかも知れませんが、これまでずっとバネの様に折りたたまれて来た思いが、一気にびよよよ~んと飛び跳ねたような展開ですね(^_^;)
(表現が幼稚ですみません・・汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^^♪
秀吉の内心は本人にしか分かりませんが、何と言っても戦国の世ですから、隙(すき)あらば自分が取って代わろうという思いは常に心の奥底にあったのではないかと私も推察します。
そして「一気にびよよよ~ん」と…って、この表現良いですねぇ(^_^)v
黒田裕樹さん
風早 りら 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
ようですね
やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
信忠が生きていたら、また変わっていたでしょう。
晴雨堂ミカエル 信忠は信長の嫡子という血統の権威と、三位の位という朝廷の権威と、既に織田家の家督を相続した棟梁としての権威もあったうえに、捻くれた信長によって司令官としても随分鍛えられていましたから、織田政権は潰れなかったかもしれませんね。
家康とは異なる幕藩体制を築けたかもしれません。
ところで、天海和尚=光秀説をどう思いますか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
> ようですね
> やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
私もそう思います。
身分の低さによるハンデは、差別が当然の世の中だった戦国時代の頃には、現代の私たちが想像する以上のものだったでしょう。
ハングリー精神を発揮できる一方で、名誉へのこだわりは人一倍強かったのではないでしょうか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信忠が一緒に倒されてしまったことに関しては、織田家にとっては痛恨の出来事だったと思われます。信忠が生きていれば、かたき討ちの大義目分が秀吉に回ってくるはずがなかったですからね。
結果論ですが、秀吉の運の強さは相当なものだと思います。
光秀=天海拙については、状況的にうなずける部分もありますが、やはり構成の創作のような気がします。
いずれにせよ真相は闇の中と思われますが…。
また、秀吉が天下を統一する頃までには京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や、佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山(こうざん)も支配して、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ちゅうぞう)しました。ただし、これらの貨幣は主に贈答用(ぞうとうよう)に使用され、いわゆる貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからのことになります。
信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に及ぼし、一里塚(いちりづか)を築(きず)くなどして、信長が進めてきた政策を完成させました。
豊臣政権は秀吉が独裁(どくさい)的な権力を握(にぎ)ることで成立しましたが、秀吉の晩年には腹心(ふくしん)の大名を五奉行(ごぶぎょう)として政務(せいむ)を担当させ、後に有力な大名を五大老(ごたいろう)に任命し、重要な政務を合議(ごうぎ)させましたが、これらの制度が確立したのは秀吉の死の直前でした。
ちなみに五奉行は石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)で、また大老は徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)であり、隆景の死後に五大老と呼ばれました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
これは結構盲点なんですよね。天正大判のイメージが強すぎて、この頃から国産の貨幣が流通していたと思われがちなんですが…。
> なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
> しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
仰るとおり、江戸幕府の場合はいかにして江戸へ攻め込まれないようにするかというのが大きな目的でしたから、関所を設けて当然でもある訳です。目的や動機が違うと、関所の有無まで変わってしまうんですよね。
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