戦国時代には数多(あまた)の戦国大名が各地に存在していましたが、その多くは自分の足元を固めたり、あわよくば隣の国を征服しようかと考えたりするなど、どちらかといえば地域的な対立が中心でした。
そんな中、応仁の乱から約1世紀を過ぎた頃に、初めて天下統一の意思を明確にし、なおかつその実現に一生をかけて挑(いど)んだ人物が現れました。もちろん織田信長(おだのぶなが)のことです。
信長の出身である織田家はもともと尾張(おわり、現在の愛知県西部)の守護大名であった斯波氏(しばし)の代理人である守護代(しゅごだい)の家臣という身分でしたが、父である織田信秀(おだのぶひで)の頃には独立し、尾張の中で大きな勢力を持つようになりました。
信秀の急死後、若くして家督(かとく)を継いだ信長は身内を含めた争いに勝ち抜き、1559年には尾張一国を統一するまでに成長しましたが、そんな彼に大きな試練が、不気味な足音とともに東の方角からやって来たのでした。
ちなみに、この頃までに没落した斯波氏ですが、もともとは室町幕府の管領(かんれい)を務めるほどの名門でした。ところで皆さんは「ほ・し・は」を覚えていますか?
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
80000HITですか!
おめでとうございます

前回の70000HIT以来、早いぺースでカウントされてますね^^
これからも、頑張ってくださいね!!
「ほ・し・は」
すみません。。忘れていましたm(__)m
以前の記事に自分はどんなコメントをしていたのか確かめてみたら、やっぱり同じ様な事を書いてました(苦笑)
進歩の全くない、ぴーちでした(あはは^^;)
失礼しました~!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 80000HITですか!
> おめでとうございます

> 前回の70000HIT以来、早いぺースでカウントされてますね^^
> これからも、頑張ってくださいね!!
70000HITが9月25日でしたから、50日で10000HITを記録したことになります。
本当に有難いことですし、皆様のご期待をひしひしと感じております。
> 「ほ・し・は」
> すみません。。忘れていましたm(__)m
> 以前の記事に自分はどんなコメントをしていたのか確かめてみたら、やっぱり同じ様な事を書いてました(苦笑)
> 進歩の全くない、ぴーちでした(あはは^^;)
> 失礼しました~!
いえいえ、復習もまた重要です。
今回のように、時には以前の学習を振り返る機会があると思いますが、せっかくなので頑張りましょう!(^^♪
まさに絶体絶命の危機でしたが、信長は今川軍が狭くて身動きの取りにくい桶狭間(おけはざま)を行軍中であるという情報を入手すると、ほぼ全軍を桶狭間へと突入させました。折からの豪雨もあり、視界の悪かった今川軍は信長軍の奇襲に対して体勢を立て直す暇(ひま)もないうちに、大将の義元が首を落とされて無念の最期を遂げました。
世にいう桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を挙げた信長の前に、義元が倒されたことで勢力が一気に衰えた今川家の領地が広がっていましたが、信長はこれらに目もくれず、1562年に三河(みかわ、現在の愛知県東部)の松平元康(まつだいらもとやす、後の徳川家康=とくがわいえやす)と同盟を結んで、今川家の領土獲得を家康に任せたうえで自身は斎藤氏(さいとうし)が領有する美濃(みの、現在の岐阜県南部)の攻略に専念しました。
通常の戦国大名であれば、まず間違いなく今川家の領地を狙ったでしょう。しかし、大きな目標があった信長には、今川家の領地を手に入れることで、例えば武田信玄(たけだしんげん)や北条氏康(ほうじょううじやす)のような強豪と接するというリスクを避けたいという思惑がありました。
では、信長の大きな目標とは何だったのでしょうか。信長は苦労の末、1567年に美濃を攻め落とすことに成功しましたが、その際に自分の目標を天下に宣言することになるのです。




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ぴーち こんばんは!
これはもしや、つい先日こちらで勉強させていただいたばかり・・・(冷や汗)
もとい、
「復習するは我にあり」です!!(苦笑)
すみませ~~ん!70%忘れていました!!(更に滝汗)
両隣に敵を作りたくないという妙な理由だけが
頭をかすめるだけでした(>0<)
それにしても、勝利に導かれている時というのは、ちゃんと自然も味方してくれるものなんですね。確か、元寇襲来の時も台風に助けられましたっけ・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > これはもしや、つい先日こちらで勉強させていただいたばかり・・・(冷や汗)
>
> もとい、
> 「復習するは我にあり」です!!(苦笑)
> すみませ~~ん!70%忘れていました!!(更に滝汗)
> 両隣に敵を作りたくないという妙な理由だけが
> 頭をかすめるだけでした(>0<)
いえいえ、一度だけで覚えられなければ二度、それでもダメなら何度でも復習すればいいんですよ(^^♪
> それにしても、勝利に導かれている時というのは、ちゃんと自然も味方してくれるものなんですね。確か、元寇襲来の時も台風に助けられましたっけ・・
幸運は努力する者にやってくるという話もありますよね。
英雄として名を残す人物は、何がしかの幸運を持っているようです。
さらに、美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)に入った信長は、城付近の地名であった「井ノ口(いのくち)」を「岐阜(ぎふ)」と改めました(城の名前も岐阜城としています)。なお、岐阜については、名君として知られた古代中国の周(しゅう)の文王(ぶんおう)が岐山(きさん)より興(おこ)ったというエピソードが由来であるとされています。
それまでの我が国では、過去の伝説から地名が付けられたことはあっても、時の権力者が地名を変更するということは例がありませんでした。信長は、地名を新しくすることによって「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という自身の強い意思を表現したのです。
ちなみに、信長以降は我が国で権力者が地名を変更することが当たり前になりました。例えば、信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉=とよとみひでよし)は、近江(おうみ、現在の滋賀県)の今浜の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって「長浜(ながはま)」に改めています。




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ぴーち こんばんは!
人間は何か目標を達成しようと考えた時、
その目標に達成できる一番の早道は
第三者に自分の目標を公表して
目標達成の宣言をしてしまうという
方法がありますね。
公表した手前
結果的に努力する事になるので、成功すると言われていますが、
信長はまさに
その方法を実行し、成功を収めた一人でもあるのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人間は何か目標を達成しようと考えた時、
> その目標に達成できる一番の早道は
> 第三者に自分の目標を公表して
> 目標達成の宣言をしてしまうという
> 方法がありますね。
> 公表した手前
> 結果的に努力する事になるので、成功すると言われていますが、
> 信長はまさに
> その方法を実行し、成功を収めた一人でもあるのですね。
いわゆる「有言実行」ですね。
自分自身を追い詰めることで、目標を達成しようとする。
そこに天賦の才能が加われば恐いものなしかもしれません。
地元の農民にとって唯一ともいえる財産は、彼らが所有する田畑(でんぱた)でした。農民は田植えや稲刈りなどのいわゆる農繁期(のうはんき)には、当然田畑に釘付けになりますよね。
ということは、仮に戦国大名自身の領地が広がったとしても、まさか農民の田畑を動かすわけにはいきませんから、農民自身もそう易々(やすやす)と移動させることができなかったのです。しかし、信長にはそれが可能でした。なぜでしょうか?
実は、信長の兵力はいわゆる兵農分離(へいのうぶんり)された、戦争専門の傭兵(ようへい)が中心だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
「兵農分離」のお話を伺っていると
あの黒澤明監督の「七人の侍」を思い出します。
あの作品もいわゆる野武士を題材にしていて、
舞台は戦国時代ですので、黒澤監督はこの信長の傭兵作戦を題材に構想を練ったのかもしれませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「兵農分離」のお話を伺っていると
> あの黒澤明監督の「七人の侍」を思い出します。
> あの作品もいわゆる野武士を題材にしていて、
> 舞台は戦国時代ですので、黒澤監督はこの信長の傭兵作戦を題材に構想を練ったのかもしれませんね^^
七人の侍は海外にも翻案された(荒野の七人)ほど有名ですよね。
舞台は戦国時代がモデルですが、百姓が野武士に戦いを任せる、というところが史実とは異なるようです。
当時は百姓など身分にかかわらず武器を持って戦っていましたからね。
加えて、傭兵は農民兵のように田畑を持っていないことから移動の自由があり、それゆえに戦国大名が本拠地を移しやすいという長所も持っていたのです。
さて、信長は兵農分離の長所を最大限に利用して岐阜に本拠地を移動すると、それまでの戦国大名と同じように家臣たちを城下に住まわせることで人や物資の流れをつくるという、いわゆる城下町の建設に乗り出しましたが、信長のやり方は徹底していました。
すなわち、家臣を半強制的に岐阜に移動させることで、彼らの家族などを含めた数万の人口が一気に岐阜へと流れて、あっという間に岐阜は我が国有数の大都市となったのです。
岐阜を新たな城下町として繁栄させることに成功した信長は、大きな目標である天下統一への次の一手として、西の方角へ眼を向けていました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長は岐阜を城下町として繁栄させることに
より 多くの 金銭的価値を生み出すことを
理解していたのでしょう
そうすれば そのお金を 軍事資金に
回すことも出来ますよね
ここ暫く 体調をくずし ブログアップも
ご訪問も出来ず残念でした
今日アップ出来ました
また 宜しくお願いします
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長は岐阜を城下町として繁栄させることに
> より 多くの 金銭的価値を生み出すことを
> 理解していたのでしょう
> そうすれば そのお金を 軍事資金に
> 回すことも出来ますよね
そのとおりです。
経済の発展はいつの世も金銭的価値を生み出します。
信長の凄いところは、これを徹底したことです。中途半端では効果が得られませんからね。
> ここ暫く 体調をくずし ブログアップも
> ご訪問も出来ず残念でした
> 今日アップ出来ました
> また 宜しくお願いします
体調が回復なさって何よりでした。
早速訪問させていただきましたよ(^^♪
ぴーち こんばんは!
傭兵と農民兵ではやはり一長一短がそれぞれあるのですね。
それでも、信長のやり方にあったのは、傭兵の方だったんですね。
「兵農分離」は全国に影響し広がりを見せたわけではないんでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 傭兵と農民兵ではやはり一長一短がそれぞれあるのですね。
> それでも、信長のやり方にあったのは、傭兵の方だったんですね。
> 「兵農分離」は全国に影響し広がりを見せたわけではないんでしょうか?
傭兵を取り入れたことで、信長の戦い方の幅が広がりましたからね。
兵農分離は傭兵制が広まったことで全国に浸透し、秀吉の刀狩によって事実上完成します。
これも歴史の流れですね。
次の将軍職を目指していた義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、それまで匿(かくま)われていた越前(えちぜん、現在の福井県北東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)から離れ、義景の家臣であった明智光秀(あけちみつひで)の仲介で信長を頼りました。
それまでに北近江の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結び、妹のお市(いち)を長政の妻としていた信長は、この好機に早速上洛(じょうらく、京へと向かうこと)を決意しました。
信長は上洛の途中で南近江の六角氏(ろっかくし)を破ると、1568年に無事に京へとたどり着き、義昭を将軍へと就任させました。名ばかりではあっても、武家の棟梁(とうりょう)である室町幕府の将軍を誕生させ、また京に入ったことで朝廷を保護する立場となった信長は、天下統一に向けて大きく前進することになったのです。
義昭は自らの将軍就任の最大の功労者である信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるよう勧めましたが、信長はいずれも辞退し、代わりに堺(さかい)を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。一見すると、いわゆる「名よりも実を取った」と思われる信長の行為でしたが、その裏にはしたたかな計算がありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そういえば、今日のニュースで岐阜城跡を史跡に指定するように申請をしたそうですね。
同じくして、富士山も申請したそうですが、
富士山はゴミが(人工的に)多すぎる為に今まで却下されていたようですが、世界遺産登録に向けて今度はいかがなものでしょうね。
けれど、国宝とか、世界遺産指定という制度は、本来
人間一人一人がその建物やらを大切に扱っていこうという意識が高ければ、わざわざ世界遺産指定にしなくても良いものの、指定しないと守られない世の中もなんだか悲しくも思うのですよね(^^A
余計な発言でしたね。失礼しました!
(記事とも違うコメントでごめんなさい)
応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら 信長と光秀の関係は ドラマ等でよく聞き 見ることも多いのですが
今回の講座で詳しく二人の関係が説明されていて 私の頭の中に明確に入ることが出来ました
最後の信長のしたたかな計算 予想がつきかねます
明日の講座を楽しみにしています
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに「世界遺産」にしないと守られない、という考えは困ったものだと思います。
とはいえ人間の行なうことは善ばかりとは限らないのが世の常ですからね。
内容についてはどうぞお気になさらずに(^^♪
こちらも深く考えさせられ、勉強になりましたm(_ _)m
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長と光秀の関係は ドラマ等でよく聞き 見ることも多いのですが
> 今回の講座で詳しく二人の関係が説明されていて 私の頭の中に明確に入ることが出来ました
> 最後の信長のしたたかな計算 予想がつきかねます
> 明日の講座を楽しみにしています
光秀の半生はあまり知られていないのですが、義昭を信長に紹介したのは確かだとされています。
この後、光秀は信長のもとで空前の出世を遂げることになります。
したたかな計算は、信長が義昭をどう見ていたかがカギを握ることになりますね。
次回(20日)もぜひお楽しみください。
ぴーち こんにちは!
世界遺産に指定されるということは
地元にとっても喜ばしいことだとは思いますが、
やはりその存在を後世にまでも大切にしていこうという思いはさておき、どうも、経済効果とか、利益の方に結びつける傾向の方が大のような気がしてなりません。
それはそれで確かに必要な事なんでしょうけれど、
どうも純粋な気持ちから、いつも遠ざかってしまうところが解せない時があるんですよね。・
と、またまた堅苦しい話になってしまいすみません^^;
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 確かに「遺産の存在を守る」という純粋な思いから、商売のようなドライな感覚に陥ってしまうのは否定できないですね。
水は低きに流れるとはいえ、残念な話だと私も思います。
いくら戦国の世とはいえ、主(あるじ)に対する謀反(むほん)というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だからこそ、信長は義昭の誘いを断り、その代わりに我が国最大の貿易港の一つであった堺をおさえるために和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。堺を我が手にしたことによって、信長はこの後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも大きく優位に立つことになります。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫するようになっていきました。やがて信長の本意を悟(さと)った義昭は激怒して、信長を倒すべく様々な作戦を練り始めました。
後の世に「信長包囲網(のぶながほういもう)」と名付けられた、信長にとって人生最大のピンチが訪(おとず)れようとしていました―。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長ー副将軍ー義昭の家来ー義昭を見限るー主人に対する裏切り
この構図を避けたかったのですね
やはり 信長は 先見がありますよね
やっぱり 好きですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長ー副将軍ー義昭の家来ー義昭を見限るー主人に対する裏切り
> この構図を避けたかったのですね
> やはり 信長は 先見がありますよね
> やっぱり 好きですね
目先の名誉よりも、自分が目指す「本当の目的」を実現するという困難な作業は、先見の明なくしては有り得ない、ということですね。
りらさんのように、信長ファンが多いのもうなづけます。
オバrev やっぱり信長には目先の利益にとらわれないしっかりとした戦略がありますね。
管領や副将軍をことわるとは、それまでの武士の中では異例のような気がします。
さらに凄いのは、しっかり堺を押さえている。
天下を取るという志と、何が重要ポイントかを知るための情報収集能が信長の強みじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > やっぱり信長には目先の利益にとらわれないしっかりとした戦略がありますね。
> 管領や副将軍をことわるとは、それまでの武士の中では異例のような気がします。
> さらに凄いのは、しっかり堺を押さえている。
> 天下を取るという志と、何が重要ポイントかを知るための情報収集能が信長の強みじゃないでしょうか。
まさしく仰るとおりです。
情報収集能力の高さは、うつけと他人に思われながらも青年時代に行っていた昔からの得意技だったのかもしれませんね。
ところが、まさに好事魔多(こうじまおお)し。信長の義理の弟であり、最も信頼を寄せていた武将の一人であった浅井長政が、信長を裏切って北近江から攻め寄せるという驚くべき情報がもたらされたのです。
予想もしなかった事態に、さすがの信長も気が動転しました。越前と北近江から挟み撃ちにあってしまえば、いくら信長でも勝てるわけがありません。しかもその危機は確実に訪れようとしており、もう時間が残されていませんでした。
覚悟を決めた信長は、こう宣言しました。
「ワシは逃げる」。
信長の決死の逃避行が始まりました。




いつも有難うございます。
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紗那 無謀にも見える決断をする信長ですが、さすが引き際もしっかり心得ていますね!
このあたりはさすがだと思います。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 無謀にも見える決断をする信長ですが、さすが引き際もしっかり心得ていますね!
> このあたりはさすがだと思います。
私もそう思います。
せっかくここまで勝ち進んでいたのに、撤退するのはいかにももったいない。
しかし、ぐずぐずしていれば浅井と朝倉の包囲網にかかってしまう。
ギリギリの決断だったとは思いますが、これがなければ信長の命はなかったことでしょう。
天才はピンチの際にも本領を発揮するようです。
黒田裕樹さん
風早 りら 攻める時は 攻める
逃げるべき時は 逃げる
それが 信長の決断の凄い
処ですよね
ぴーち こんばんは!
確かに「好事魔多し」は、色々な条件下で
当てはまりますよね。
「勝って兜の緒を締めよ」もこのときの信長にも必要だったのかもしれませんね。
「ワシは逃げる」ですか・・・
「コンドルは飛んで行く」のBGMで
お見送りしたい気分になりますねぇ^^;
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 攻める時は 攻める
> 逃げるべき時は 逃げる
> それが 信長の決断の凄い
> 処ですよね
そうですね。
決断力の速さとその実行力が、ピンチを最小限にとどめる信長の実力だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに「好事魔多し」は、色々な条件下で
> 当てはまりますよね。
> 「勝って兜の緒を締めよ」もこのときの信長にも必要だったのかもしれませんね。
そうですね。
浅井長政の裏切りを見抜けなかったのか…。色んな説がありますが、同盟相手いえども慎重さが必要なのかもしれません。
> 「ワシは逃げる」ですか・・・
> 「コンドルは飛んで行く」のBGMで
> お見送りしたい気分になりますねぇ^^;
そう来ましたか(^^ゞ
コンドルのように翼を広げて飛んでいければよいのですが(爆)。
「竜馬伝」
sigeru こんばんは。
ブログの記事とは、全然関係ないのですが、今日、NHKの「竜馬伝」を見ていました。
このドラマの流れだと、竜馬の暗殺者は、薩長側、とくに西郷隆盛あたりになるようですが、黒田さんはどのように考えられているのでしょうか?
ブログは、楽しく読ませてもらっています。
ブログと、まったく関係なくてすみません。
sigeruさんへ
黒田裕樹 > ブログの記事とは、全然関係ないのですが、今日、NHKの「竜馬伝」を見ていました。
> このドラマの流れだと、竜馬の暗殺者は、薩長側、とくに西郷隆盛あたりになるようですが、黒田さんはどのように考えられているのでしょうか?
坂本龍馬の暗殺ですね。
私は暗殺者が分からないというよりも「分かったけど、知られたくはない」だと考えております。
実行犯のほかにもいわゆる「そそのかした」存在がいて、彼らは藩の方針に反して龍馬を勝手に暗殺したのではないかと…。事後にそれが分かって、上層部は口封じのために「そそのかし」をひそかに始末したのではないか、と思います。
これが薩摩なのか長州なのか…難しいところですね。
> ブログは、楽しく読ませてもらっています。
> ブログと、まったく関係なくてすみません。
いえいえ、これからもお気軽にコメントして下さい。
いつもご訪問下さって有難うございます。
後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれた負け戦(いくさ)の屈辱(くつじょく)を味わった信長は、浅井・朝倉の両氏を深く恨むようになりました。やがて信長は同盟相手の徳川家康とともに、同年6月に姉川(あねがわ)の戦いで浅井・朝倉の連合軍を破りましたが、両氏に止(とど)めをさすことはできませんでした。
息を吹き返した浅井・朝倉の軍勢は京を目指しましたが、信長に阻(はば)まれると比叡山(ひえいざん)に立てこもって反撃の機会を待ちました。浅井・朝倉軍を匿(かくま)ったということは、比叡山の延暦寺(えんりゃくじ)が信長を敵とみなしたことを意味しており、信長はここでも衝撃を受けました。
さらに信長を悩ませたのが、いわゆる三好三人衆(みよしさんにんしゅう)といわれた三好氏の勢力が摂津(せっつ、ここでは現在の大阪市付近のこと)で挙兵すると、本願寺(ほんがんじ)が三人衆に味方したという事実でした。つまり、信長は戦国大名の他に延暦寺や本願寺といった強大な宗教勢力をも敵に回して戦わなければならなくなったのです。
それにしても、なぜ信長は宗教勢力から「仏敵(ぶってき)」とみなされたのでしょうか。実は、その理由には大きな「権益」がありました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
う~ん・・・権益の理由ですか・・・。
今、「挙手」の片手だけでは足りずに
「ホールドアップ」の両手上げ姿勢です(笑)
すみません(汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > う~ん・・・権益の理由ですか・・・。
> 今、「挙手」の片手だけでは足りずに
> 「ホールドアップ」の両手上げ姿勢です(笑)
> すみません(汗)
そうですか(^^ゞ
それでは、挙げた両手の手のひらを垂直にして「万歳!」の姿勢になれますよう、次回(23日)にはご理解いただけることを期待しております(^^♪
黒田先生
風早 りら 浅井家の信長への
裏切りは 私としては とても残念です
朝倉との兼ね合いもあったでしょうが
先生が 先日の講座で 仰っていたように
信長の心は相当傷つき
その後の彼の非業の死へと
繋がっていったと思います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 浅井家の信長への
> 裏切りは 私としては とても残念です
> 朝倉との兼ね合いもあったでしょうが
> 先生が 先日の講座で 仰っていたように
> 信長の心は相当傷つき
> その後の彼の非業の死へと
> 繋がっていったと思います
そうなんですよね。
浅井家には浅井家の事情があったのでしょうが、この裏切りが世の中の流れを悪しき方へと導いた気がしてなりません。
人間の信頼を失うというのは本当に恐ろしいですね。
楽市楽座によって商売の自由が認められた信長の支配地では、多くの人口を頼りに各地の商人がこぞって集まり、大変なにぎわいを見せました。その結果、信長の領内は他の大名や宗教勢力などのそれに比べて、低い税率であっても自然と収入が増加していったのです。ちなみに一般的な高校の教科書では、後の安土(あづち)における楽市令(らくいちれい)が有名です。
しかし、信長によるこれらの斬新な政策は、それまでの関所や座による莫大(ばくだい)な収入を「権益」として頼りにしていた宗教勢力などにとっては、目障(めざわ)りな商売敵(しょうばいがたき)でしかありませんでした。
一方の信長からしてみれば、宗教勢力は本来の布教活動の精神を忘れ、自分の都合だけで庶民の迷惑を顧(かえり)みずに権益にしがみついているようにしか見えなかったのです。自己の武力を背景に勢力を拡大した信長は、やがて宗教勢力に対して権益の放棄(ほうき)と武装解除を、信長軍による防衛を条件に迫りましたが、それこそ「眠っていても儲(もう)かる」権益を宗教勢力がそう簡単に手放すはずがありませんでした。
信長と宗教勢力との衝突は、いわば時間の問題であり、そして信長にとって最悪のタイミングで起きてしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうでした!!
「楽市楽座」でしたね(^^A
以前の記憶が蘇りました!
復習の大切を改めて感じました。
ありがとうございますm(__)m
宗教勢力は「北風」
信長の方針は「太陽」
ここまではまるで「北風と太陽」のような展開ですね^^
応援凸
黒田先生
風早 りら 信長によるこれらの斬新な政策
今の政府に見習ってもらいたいです
増税か無謀な国債発行
もう この講座を国会議員に見せたいです
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうでした!!
> 「楽市楽座」でしたね(^^A
> 以前の記憶が蘇りました!
> 復習の大切を改めて感じました。
> ありがとうございますm(__)m
それは良かったです。
今回の講座もぜひ復習して下さいね(^^♪
> 宗教勢力は「北風」
> 信長の方針は「太陽」
> ここまではまるで「北風と太陽」のような展開ですね^^
言われてみればそうですね。
ただ、その北風がこれから信長自身に対して激しく吹きすさぶことになるんです…(´・ω・`)
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長によるこれらの斬新な政策
> 今の政府に見習ってもらいたいです
> 増税か無謀な国債発行
> もう この講座を国会議員に見せたいです
確かに自身の倹約をすることなく、国民に負担ばかり強いる政府の行動にはうんざりですね。
歴史を知らない政治家が多すぎるようです。
こうして信長が京に釘付けになっている間に、本願寺が率いる伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市付近)の一向一揆(いっこういっき)の動きが活発になり、伊勢の長島城や尾張の小木江城(こきえじょう)を次々と落としました。
特に尾張の小木江城は信長の弟が守っていたのですが、最後には自害に追い込まれてしまいました。京を動けぬ信長は、可愛い弟が一向一揆によって滅ぼされていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかったのです。
宗教勢力によるこれらの無情な仕打ちに対して、信長は内心で怒り狂いながらも、じっと耐え続けました。そうこうしているうちに1570年も年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦(わぼく)が成立して、信長はやっとの思いで岐阜に戻ることができました。
講和が成立した背景には、兵農分離していない朝倉軍の都合もありました。雪深い越前は真冬になると身動きが取れなくなるので、来春の農作業を確実に行わせるためにも帰国を急いでいたからです。こんなところにも信長との差がありました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長の地の利を活かした
今まで作戦が 実を結んだわけですよね
信長の弟のことは 知りませんでした
信長ファンの友達に言いますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長の地の利を活かした
> 今まで作戦が 実を結んだわけですよね
> 信長の弟のことは 知りませんでした
> 信長ファンの友達に言いますね
ピンチの中にもチャンスあり、といいますからね。
それにしても大事な弟まで奪われて、宗教勢力への信長の恨みは相当なものだったことでしょう。
いずれその怒りが爆発する日がやってきます。
ぴーち こんばんは!
自分が動きが取れないうちに、大切な身内が追い込まれ、結果的に自害させられたという事は、信長にとってはさぞ身を切られる思いだった事でしょう。
地方によって気候による不便さが生じるので、
やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 自分が動きが取れないうちに、大切な身内が追い込まれ、結果的に自害させられたという事は、信長にとってはさぞ身を切られる思いだった事でしょう。
助けに行きたくても行くことができない。
仰るとおり、非常につらかったと思います…。
> 地方によって気候による不便さが生じるので、
> やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
冬の間に身動きができないというのはやはり大きなハンデですね。
越前の城下町である一乗谷も規模が小さかった分、成長に限界がありましたし。
包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、1571年旧暦9月12日に、信長に抵抗を続けた比叡山の焼き討(う)ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず、女人禁制(にょにんきんせい)のはずなのになぜか存在した女性や、あるいは子供までもが容赦(ようしゃ)なく首をはねられました。
比叡山の延暦寺は信長に敵対する宗教勢力としては滅亡しましたが、一向一揆の軍勢は相変わらず信長を苦しめ続けました。そして1572年になると、信長が最も恐れていた甲斐(かい、現在の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が将軍義昭の誘いに応じ、上洛を目指して動き始めました。
信玄は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで徳川家康と信長の連合軍を苦も無く蹴散(けち)らすと、不気味な足音とともに京を目指して進軍を続けました。信玄に京へ攻められては、信長とて勝ち目はありません。信長の運命はまさしく風前の灯(ともしび)となった―はずでした。
しかし、天は信長に味方しました。上洛の途中で信玄は病に倒れ、ついに帰らぬ人となってしまったのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 上洛の途中で信玄は病に倒れついに帰らぬ人となってしまったのです
ここでもまた信長は 天を味方に
付けてしまいましたね
彼のファンとしては 嬉しい限りです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 上洛の途中で信玄は病に倒れついに帰らぬ人となってしまったのです
> ここでもまた信長は 天を味方に
> 付けてしまいましたね
> 彼のファンとしては 嬉しい限りです
人間の生死についてはあまり喜んではいけないのですが、この場合は信長はまさに「天が我に味方した」と思ったことでしょうね。
信玄はその死を隠していたとされていますが、信長はおそらく巧みな情報能力で知っていたと思われます。
ぴーち こんばんは!
女人禁制のはずなのに、何故か存在した女性・・の所で思わず苦笑してしまいました(不謹慎ですが^^;)
悪い事は出来ませんね(^^A
それにしても一番の宿敵だった信玄が
戦わずして病に倒れ、亡くなってしまったのは思わぬ「不戦勝」で、
この時までは信長にも分があったんですね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 女人禁制のはずなのに、何故か存在した女性・・の所で思わず苦笑してしまいました(不謹慎ですが^^;)
> 悪い事は出来ませんね(^^A
そうなんですよね。
この頃の比叡山は宗教団体としてはどうだったのでしょうか…。
> それにしても一番の宿敵だった信玄が
> 戦わずして病に倒れ、亡くなってしまったのは思わぬ「不戦勝」で、
> この時までは信長にも分があったんですね!
人間の生死はいろんなところに影響を及ぼしますよね。
この場合は信長にとっては幸運でした。そして、不運だったのは…。
紗那 天下人と呼ばれるような人は、自分の能力として、いわば「運力」とでも言うような力を持っていたのではないかと思うようなときがあります。
この信玄の上洛中の死もタイミングがよすぎると感じますし
紗那さんへ
黒田裕樹 > 天下人と呼ばれるような人は、自分の能力として、いわば「運力」とでも言うような力を持っていたのではないかと思うようなときがあります。
> この信玄の上洛中の死もタイミングがよすぎると感じますし
仰るような一面は、天下人には確かにありますね。
「運を味方につける」あるいは「運も実力のうち」といいますが、他人より秀でる人間は、幸運の星のもとに生まれてくることが多いようです。
もっとも、信長のように最後の最後で大きなツケを払わさせるパターンもあるようですが…。
しかし、信玄が亡くなったことで義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。義昭はこの後もう一度挙兵しますが再び敗れ、1573年旧暦7月に義昭は信長によって京を追われたことで、240年近く続いた足利氏による室町幕府は滅亡しました。
義昭を追放した信長は、返す刀で朝倉義景や浅井長政を次々と滅ぼし、越前から北近江にかけて領地を拡大することに成功すると、翌1574年には伊勢長島の一向一揆を、女性や子供に至るまで皆殺しにして、さらに1575年には越前の一向一揆も滅ぼしました。
信長の一向一揆に対する酷(むご)い仕打ちは、いかに弟や家臣たちの復讐のためとはいえ、比叡山延暦寺の焼き討ちとともにその残虐性(ざんぎゃくせい)が問題視されることが多いですが、いずれも先に手を出したのは宗教勢力の方であり、また一向一揆は女性や子供までが武器を持って戦っていたという現実を考えれば、信長の行為はやむを得ないと判断すべきかもしれません。




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ぴーち こんばんは!
そうだったんですか。
残虐性が際立ってしまい、事の真実がその陰になって現代に伝えられてしまっていることはとても残念ですね。
独裁者でも、凶悪犯罪者でも
やはりそういう手段を取らずにはいられなかった
理由というのものが必ず潜んでいるものですね。
結果だけを見ずに、その背景や、経緯なども合わせてその人物を多角面、総合的にみていかなければいけない訳ですね。
黒田さんからこういうお話を伺わなかったら、
私は一生信長の真意を知らずに終ってしまったかもしれないと思うと、本当にありがたく思いますm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長の残虐性にはちゃんとした理由があるんですよね。
大事な弟や多くの家臣を失った信長の怒りは凄まじいものがあったことでしょうし、この時代の倫理観は現代とは全く異なりますからね。
現代の価値観で当時の歴史を振り返る危険性。今回の信長がまさに典型的な事例になりますね。
これが有名な長篠合戦(ながしのかっせん)です。この戦いで多くの精鋭を失った武田家は没落の一途(いっと)をたどり、1582年旧暦3月に信長によって滅ぼされてしまいました。
武田家を破った信長は、1576年から近江の安土(あづち)に五層七重(ごそうしちじゅう)の壮大な安土城(あづちじょう)を築(きず)き始めました。1579年に城が完成すると、信長はそれまでの居城であった岐阜城を長男の織田信忠(おだのぶただ)に譲って安土城へと移動しました。
ところで、新たにつくられた安土城は、それまでの築城の常識を大きく変えるものでもありました。なぜなら、従来の城は攻められにくいように山の頂上に建てるのが普通だったからです(これを山城=やまじろ、といいます)。しかし、安土城はそれほど高くない山に建てられていました(平山城=ひらやまじろ、といいます)。
なぜこの時期に城の建築方法が大きく変化したのでしょうか?




いつも有難うございます。
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そうめん お久しぶりです。。。
テストがあったもので(^^;)
静岡県西部は遠江といったんですか・・。
参考になりました(^^;)
長篠合戦といえば鉄砲隊がやっぱり有名ですよね。
ぴーち こんばんは!
織田家は、現代にもその名を受け継ぐ子孫がいますが、家が断絶しなかっただけでも、救いだったのではないでしょうか。
武田家は滅びたとありましたが、断絶してしまったのでしょうか。
平山城の件ですが、銃の影響・・?でしょうか。。
応援凸
そうめんさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。。。
> テストがあったもので(^^;)
テストは重要ですからね。
お疲れ様でした。
> 静岡県西部は遠江といったんですか・・。
> 参考になりました(^^;)
昔の国の名前と現在の都道府県とは、これからの学習だけでなく、普段の生活でも頻繁(ひんぱん)にリンクしますからね。覚えていて損はないですよ。
> 長篠合戦といえば鉄砲隊がやっぱり有名ですよね。
そうですね。長篠合戦の経緯や結果が、我が国の戦争の方法を明らかに変えました。
その意味においても、非常に重要な戦いだったと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 織田家は、現代にもその名を受け継ぐ子孫がいますが、家が断絶しなかっただけでも、救いだったのではないでしょうか。
> 武田家は滅びたとありましたが、断絶してしまったのでしょうか。
織田家の子孫については、信成さんがオリンピックに出場して一気に知名度を上げましたね。
ちなみに私の大学の後輩です(^^ゞ
武田家は、信玄の二男などの子孫が滅亡を免れて、現在に血統を残しています。
> 平山城の件ですが、銃の影響・・?でしょうか。。
鋭いですね(^^♪
明日(28日)をお楽しみに!
一方、平山城であれば城の周囲に大きな堀を設けたり、あるいは城自身を高く設計したりすることで、射程距離にかからないようにすることが可能になりますし、さらに城に立てこもれば、内部へと迫ってくる敵を鉄砲で狙い撃ちすることもできます。
しかも、山城に比べて交通の便が良い平山城であれば、城下町をさらに大きく広げることができて、経済はますます活性化します。そして、経済が発達して収入を増やすことができれば、さらに大きくて頑丈な城を建てることができます。
1577年、信長は安土に楽市令(らくいちれい)を出して商人の自由な経済活動を支えたことで、多くの商人が集まり、その財力は信長にとって、兵力に勝るとも劣らない大きな武器となったのでした。




いつも有難うございます。
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mochimochi お城と城下町について質問があります。
中国ではお城の中に(正確には壁の中に)人々が住んで、買い物とか生活をしていたと聞きました。
日本ではどうなのですか?
大阪城はとても広い堀をめぐらせていたと聞いたことがありますが。。。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > お城と城下町について質問があります。
> 中国ではお城の中に(正確には壁の中に)人々が住んで、買い物とか生活をしていたと聞きました。
> 日本ではどうなのですか?
> 大阪城はとても広い堀をめぐらせていたと聞いたことがありますが。。。
中国の場合、町そのものが巨大な城壁で覆われていて、一般市民はその中で暮らしていました。
これは、外敵から市民を守ると同時に、市民が他の町から出ないように監視する目的もありました。
一方、我が国の場合は、市民は城の外で自由に往来ができました。
それだけ我が国の治安が中国に比べて安全だったということでもありますね。
ちなみに、大阪城の深い堀は他の勢力からの防衛が主な目的であり、市民の避難のためというわけではありませんでした。
ぴーち こんばんは!
やはりそうでしたか^^
昨日は上手く説明が出来ませんでしたが、
私も今日の記事のように、鉄砲が果たした役割は
そんな感じかなと想像していました。さすが黒田さんのご説明はいつも判り易くて助かります。
経済力は兵力にも勝るとも劣らない。。
そう考えると今の日本の経済力は次第に世界から後退傾向にあるし、兵力も足りないので
これからはもっと厳しいですよね(^^A
どげんかせんといかん。。。です。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはりそうでしたか^^
> 昨日は上手く説明が出来ませんでしたが、
> 私も今日の記事のように、鉄砲が果たした役割は
> そんな感じかなと想像していました。さすが黒田さんのご説明はいつも判り易くて助かります。
有難うございます。
鉄砲の役割は、仰るとおり我が国の歴史を大きく変えるものだったんですよね。
> 経済力は兵力にも勝るとも劣らない。。
> そう考えると今の日本の経済力は次第に世界から後退傾向にあるし、兵力も足りないので
> これからはもっと厳しいですよね(^^A
> どげんかせんといかん。。。です。。
我が国は人々の叡智と実行力を結集した経済力が売り物でしたが、最近では「ゆとり教育」の悪影響で肝心の人材育成がおろそかになっていますからね…。
国力回復につながる経済回復には、漢方薬のようにジワリと効果がある人材育成もしっかりする必要がありますね。
黒田先生
風早 りら 山城と平山城との利便性の違いが
よく理解出来ました
今まで その違いが 疑問でした
また 一つ 新しい発見をした思いです
有難う御座います
最近 体調がすぐれず PCを開いて
いませんでした
また 講座を受けさせて頂き
元気が出そうです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 山城と平山城との利便性の違いが
> よく理解出来ました
> 今まで その違いが 疑問でした
> また 一つ 新しい発見をした思いです
> 有難う御座います
> 最近 体調がすぐれず PCを開いて
> いませんでした
> また 講座を受けさせて頂き
> 元気が出そうです
お言葉有難うございます。
りらさんのコメントに、こちらも元気をいただいております。
城の建築方法の変化にも、しっかりと歴史の流れが存在しているんですよね。
mochimochi お返事ありがとうございます。
日本は昔から治安がある程度保たれていたのですね。
もう一つ質問があります。
(自分で勉強すれば良いことなのですがすみません。)
最近三国志を漫画で読みました。
内容が難しくてほとんど理解してませんが、中国の人は星とかの勉強をされていたみたいですよね?
星とか星座を観察して戦略とか予測を立てていた様な感じがします。
その点日本ではそのような学問はあまり発展してなかった様な気がします。あまり盛んじゃなかったのですか?
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > お返事ありがとうございます。
> 日本は昔から治安がある程度保たれていたのですね。
そのとおりです。絶えず侵略者が現れる危機にさらされるのと、周りを海で囲まれて安全な環境。中国大陸と私たちとの地理的な違いもありますね。
> もう一つ質問があります。
> (自分で勉強すれば良いことなのですがすみません。)
> 最近三国志を漫画で読みました。
> 内容が難しくてほとんど理解してませんが、中国の人は星とかの勉強をされていたみたいですよね?
> 星とか星座を観察して戦略とか予測を立てていた様な感じがします。
> その点日本ではそのような学問はあまり発展してなかった様な気がします。あまり盛んじゃなかったのですか?
そうですね。私も詳しくは存じ上げているわけではないですが、我が国では陰陽道(おんみょうどう)のような独自の発展をとげたところが、中国と異なるのではないかと思います。
ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえるエピソードですね。
さて、比叡山は焼討ちで抑えたものの、一向一揆と信長との戦いはなかなか決着がつきませんでした。総本山といえる大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)が、城並みの防御力を誇っていたばかりでなく、毛利家(もうりけ)が村上水軍(むらかみすいぐん)によって海路で兵糧(ひょうろう)や武器弾薬を運び続けていたからでした。
信長は石山本願寺への輸送を断つため、1576年に村上水軍と戦いましたが、強力な火器(かき)を持つ村上水軍によって、信長軍の船は次々に炎上し、惨敗してしまいました。このままではいつまで経っても石山本願寺を落とすことができません。どうすれば村上水軍に勝てるのでしょうか?
ここでも信長は、その天才ぶりを遺憾(いかん)なく発揮するのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら こ時代 地球が丸い ことが
理解出来た 信長は やはり 凄いと
思いました
名高い 村上水軍との戦い
明日を 楽しみに していますね
ぴーち こんばんは!
確かに地球が丸い言う事をすぐに理解した
柔軟性は素晴らしいとは思います。
しかし、仏教は元々優れた教えなはずです。
後にその教えを広めた人間の悪行によって
その本質である仏教までもが憎まれてしまうと言うことは非常に遺憾な事だと思いました。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
宗教勢力が憎いと仏教まで憎むというのは
短絡的過ぎるようにも思います。
しかしながら、信長の激情型の性格なら、有り得るかも知れません・・・
やはりそういう面では、信長も人の子で
あったのかも知れませんね。
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > この時代 地球が丸い ことが
> 理解出来た 信長は やはり 凄いと
> 思いました
> 名高い 村上水軍との戦い
> 明日を 楽しみに していますね
そうですよね。地球が丸いことをたちどころに理解できるほど柔軟な頭脳だったからこそ、村上水軍との戦いで「大逆転」が可能になったということにつながります。やはり信長はただ者ではありません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに地球が丸い言う事をすぐに理解した
> 柔軟性は素晴らしいとは思います。
> しかし、仏教は元々優れた教えなはずです。
> 後にその教えを広めた人間の悪行によって
> その本質である仏教までもが憎まれてしまうと言うことは非常に遺憾な事だと思いました。
> 「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
> 宗教勢力が憎いと仏教まで憎むというのは
> 短絡的過ぎるようにも思います。
仰るとおりだと思います。ただ、信長は自分に刃向うことなく、本来の信仰の道のみを求めた宗教団体に対してはこれを許していたという事実もあります。
この当時の宗教勢力が圧力団体と化して、庶民を苦しめていたことや、信長の身内や家臣が次々と殺されていった恨みが、仏教に対する嫌悪感につながったと考えられるのです。と同時に、そこまでの仕打ちを受けながら、信長がよくぞ許したなという思いもありますね。
> しかしながら、信長の激情型の性格なら、有り得るかも知れません・・・
> やはりそういう面では、信長も人の子で
> あったのかも知れませんね。
そこなんですよね。
激情型の性格は、この後悪い方向へと信長を導いていくことになってしまいます…。
通常の人間ならばここで諦(あきら)めるところですが、信長の柔軟な頭脳は、とてつもない発想を思いつきました。鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくり、その周囲に薄い鉄を巻けば沈まないはずだ―。
こうして完成した鉄甲船(てっこうせん)は、1578年に村上水軍を散々に打ち破り、信長は大阪湾の制海権を握ることに成功しました。逆に毛利家からの補給路を断たれた石山本願寺は徐々(じょじょ)に追いつめられ、1580年についに信長に降伏しました。
さて、およそ10年にわたって戦いを続け、そのために肉親や多くの家臣を失うことになった本願寺に対して、信長はどのような態度をとったと思われますか?
石山本願寺から退去し、以後は信長に逆らわないことが条件ではあったものの、何と今後の布教は自由としているのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど!
考えましたね~^^
燃えないように「鉄」で周りを巻いて
沈まないように中心は「木製」とは!
私以前、鉄筋コンクリート製の建物って
どうしてあんなに錆びずに長年崩壊しないで
建っていられるのかと思っていたんですが、
錆びた鉄の周りにコンクリートのアルカリ性を
囲む事で、鉄がそれ以上錆びずにいられる
という話を聞いて、よくもまあ、考えるものだなと関心したものでしたが、
信長が既にそういう技術を考案できたというのは
素晴らしいですね!
たとえ、中の木が「シロアリ」の餌食になったとしても、より軽く浮くから大丈夫
だった・・という事かしらw(いらぬ心配を
してしまいまして、すみません^^;)
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど!
> 考えましたね~^^
> 燃えないように「鉄」で周りを巻いて
> 沈まないように中心は「木製」とは!
そうなんです。
こんな発想は、船乗りではない信長だからこそ思いついたんでしょうね。
プロであればあるほど、身についた固定観念が頭から離れないものですから。
> 私以前、鉄筋コンクリート製の建物って
> どうしてあんなに錆びずに長年崩壊しないで
> 建っていられるのかと思っていたんですが、
> 錆びた鉄の周りにコンクリートのアルカリ性を
> 囲む事で、鉄がそれ以上錆びずにいられる
> という話を聞いて、よくもまあ、考えるものだなと関心したものでしたが、
> 信長が既にそういう技術を考案できたというのは
> 素晴らしいですね!
なるほど、そういうカラクリがあったんですか。
この当時に酸性やアルカリ性という考えがあったかどうかは分かりませんが、天性の才能が信長の発想を生み出したとしか考えられないですよね。
> たとえ、中の木が「シロアリ」の餌食になったとしても、より軽く浮くから大丈夫
> だった・・という事かしらw(いらぬ心配を
> してしまいまして、すみません^^;)
鉄甲船は村上水軍との戦い専用に使われたようで、その後の話は私も聞いたことがありません。
おそらくは「使い捨て」だったと思われますが、巨大な船に鉄板を巻いたわけですから、莫大な費用がかかっていたはずです。
信長のように豊富な資金力がないと造れないでしょうね。
黒田先生
風早 りら 鉄甲船の考え
凄いですね
斬新です
信長は本当に柔軟な 頭を持っていたのですね
やはり 彼は素敵です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 鉄甲船の考え
> 凄いですね
> 斬新です
> 信長は本当に柔軟な 頭を持っていたのですね
> やはり 彼は素敵です
本当にそうですよね。
常人では考えもつかない発想を思いつき、しかもそれを実行する力。
信長の人気の高さの証明ですね。
いわれてみれば、比叡山延暦寺を焼討ちした後でも信長は天台宗(てんだいしゅう)の禁教令を出していません。後に豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教(カトリック)が禁教とされ、宣教師や信者たちが激しい弾圧を受けたことと比べれば対照的ですね。
ところで、信長が現代の私たちに意外な「贈り物」をしていることを皆さんはご存知でしょうか。
巨大な圧力団体と化していた宗教勢力は、信長によって徹底的に滅ぼされましたが、実はこのことがきっかけになって、以後の我が国では宗教団体が政治に積極的にかかわることがなくなります。例えば、他国で悩まされることが多い原理主義者による自爆テロリストも、我が国では原則として起きていませんよね。
日本国憲法にも第20条で明確に規定されている政教分離(せいきょうぶんり)は、信長がその道筋をつけてくれているという事実を、私たちはもっと理解すべきではないでしょうか。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
政教分離の、道筋をつけたという事では
信長の偉業ですね。
ただ、今の政治と宗教の密接度は当時よりは
だいぶ距離(というか宗教団体が母体)が近くなっているように思えるのです。
(○明党、幸福○現党など・・)
信長の時代のように、きっぱりとした区分が
今の政治にも見られたらなと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 政教分離の、道筋をつけたという事では
> 信長の偉業ですね。
> ただ、今の政治と宗教の密接度は当時よりは
> だいぶ距離(というか宗教団体が母体)が近くなっているように思えるのです。
> (○明党、幸福○現党など・・)
> 信長の時代のように、きっぱりとした区分が
> 今の政治にも見られたらなと思います。
なるほど、確かに現在の政党には身の主張は別にして「政教分離」が徹底しているかどうかが第三者から見れば微妙なものが存在しているようですね。
現在のように第一党としてでなければともかく、政治の実権を我が手に握った場合にどうなるのか、だと個人的には思います。
黒田裕樹さん
風早 りら 信長が政教分離の道筋をつけてくれた
事実は素晴らしいことですよね
ただ 今 現在 日本は
果たして 政教分離が しっかり
出来てるでしょうか
疑問です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長が政教分離の道筋をつけてくれた
> 事実は素晴らしいことですよね
> ただ 今 現在 日本は
> 果たして 政教分離が しっかり
> 出来てるでしょうか
> 疑問です
別の方も同じ内容を仰ってましたが、これは難しい問題ですね。
特定の宗教団体だけに恩恵を与える政治は許されませんが、特定の宗教団体の意向のみで動く政党が存在するとすれば、結局は同じ路線を歩んでしまうのではないかという国民の疑問に答えられるだけの理由があるのでしょうか…。
ナオ 鋭い洞察力による歴史解説。旧石器時代から1週間ほどかけてやっとここまでたどり着きました。私の学生時代に黒田先生がいてくれたらとつくづく思います。
ナオさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
ブログ開設以来間もなく3年になりますが、毎日更新を続けておりますので相当な分量になっていると思われます。
過去記事からお読みくださって感謝しております。
ここで信長はまたしても他人が考えそうもないことを思いつきました。それは、自分がこれまでの権威を超える存在になること、すなわち「自らを生き神とする」ことでした。
豪華な造りで知られる安土城ですが、実は信長が神として存在するための宮殿であったとも考えられています。例えば、通常なら天守閣というべきところを「天主」と名付けたり、天主の真下に釈迦如来(しゃかにょらい)の図が描(えが)かれたりしていたことで、自らを仏や神を超えるものとして信仰の対象にしたと思われるのです。
「信長=神」という突然の図式に皆さんは驚かれるかもしれませんが、実は家康も遺言によって自らを東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀(まつ)るように命じています。権現とは神の化身(けしん、仮の姿のこと)を意味しますから、その発想は信長と同じなんですよね。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど!織田家は元々は低い身分で
あったのですね。
そういう身分であったからこそ、
信長のハングリー精神や、上昇志向が
確実に育っていったのかもしれません・・。
そしてやはり信長程の灰汁の強い人物
はカリスマ性も十分ですので、
自分は神であると主張する事に大半の民は違和感を
感じなかったのでしょうね。
(誰も逆らうことが出来なかったという表現はいかがでしょうか?)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど!織田家は元々は低い身分で
> あったのですね。
> そういう身分であったからこそ、
> 信長のハングリー精神や、上昇志向が
> 確実に育っていったのかもしれません・・。
そういう見方も考えられますね。
ハングリー精神で上昇気流に乗ったとしても、現代と違って身分という壁だけは崩しようがなかった。
そこで信長が考えたのは…。やはり常人の考えとは違いますね。
> そしてやはり信長程の灰汁の強い人物
> はカリスマ性も十分ですので、
> 自分は神であると主張する事に大半の民は違和感を
> 感じなかったのでしょうね。
> (誰も逆らうことが出来なかったという表現はいかがでしょうか?)
確かに恐ろしくて誰も逆らえなかったでしょうね(^^ゞ
でも、それが仇となって…おっと、これは次回(3日)ですね(^^♪
オバrev お久しぶり?です。
この日曜日に世話しているグループの講演会、本日は某所で私が講演しないといけなかったもので、その準備に追われてブログ更新はもちろんコメントもほとんどできていませんでした(^^;)
しかし信長の発想はさすがですね。並みの人間には考えもつかないでしょう。
今のような激動の時代にこそ、こういう天才が是非とも現れて欲しいと思いますが、どうもその素地すらないような気がしてます(>_<)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > お久しぶり?です。
> この日曜日に世話しているグループの講演会、本日は某所で私が講演しないといけなかったもので、その準備に追われてブログ更新はもちろんコメントもほとんどできていませんでした(^^;)
講演お疲れ様でした。私も先週の土曜日は長丁場で大変でした(^^ゞ
> しかし信長の発想はさすがですね。並みの人間には考えもつかないでしょう。
> 今のような激動の時代にこそ、こういう天才が是非とも現れて欲しいと思いますが、どうもその素地すらないような気がしてます(>_<)
畏れ多くも皇室に向かってのあのような暴言、百歩譲っても厳かな記念式典におけるあの醜態ぶりに対して、叱ることすらできない現政権ですからね(´・ω・`)
なぜなら、自分が神のような存在になることで「自分が正しいと思うことは何でも正しい」という独裁的な思想を持つことにつながってしまうからです。事実、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半から、信長の行動は古今東西(ここんとうざい)の独裁者と同じような非情な一面を見せるようになっていきました。
例えば1580年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林通勝(はやしみちかつ)を、過去の不行跡(ふぎょうせき)を理由に突然追放しており、1582年の旧暦4月には自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女(じじょ)たちを残らず殺害するという事件も起こしています。
信長によるこうした狂気じみた行動に対して、家臣たちは「明日は我が身か」とおびえるとともに、信長の手法についていけないという考えを持つようになりましたが、その中のひとりに、信長によって見出され、過去に例のない出世を果たした武将がいました。
彼こそが、我が国の歴史を大きく塗(ぬ)り替えることとなる大事件を起こした明智光秀だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
自分に正面切って敵対する人間が少なくなった。
このフレーズを聞いて頭に浮かんだのは、
今回芸能活動を中止した「宇多田ヒカル」です。すみません。いつも脱線してしまいまして(^^A
彼女の芸能界での存在が大きくなるに
従って、周りの人物が彼女のいう事に逆らわず、全て正しい事だという意見ばかりしか言ってくれなくなったので、これでは自分はこのまま、駄目になってしまうと悟ったそうです。
自分よりも目上の人物が自分の意見に皆従う状況に違和感を感じた彼女は、今回思い切って芸能活動を休止したそうですが、そういう点を考えると彼女の冷静な判断は素晴らしいなと思いました。
少し前の「小室哲哉」の問題も、彼の周りの人間が自分に対して悪い事を悪いといってくれる人が
誰一人いなくなってしまい、「裸の王様」になってしまった事が原因だったように、やはり自分に従ってくれることは最初は気分がよい気分なのでしょうけれど、次第に自分の意見ばかりをハイハイと聞き入れる態度にイライラ感が募ってくるものなんだと思いますね。
人間ってこうして考えると、勝手で複雑な神経を持ち合わせているので余計に厄介ですね^^;
かなり脱線してました^^;
失礼しました!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、宇多田ヒカルさんにはそういう背景があったんですか。
確かに周囲が「イエスマン」ばかりになると、大抵の人間はおかしくなっていきますからね。
そうなる前に気が付いた彼女は、また違った意味で「天才」なのかもしれません。
以前に書いたかもしれませんが、本筋さえ貫いていらっしゃれば、今回のような脱線(?)であっても歓迎しますよ(^^♪
智里 おひさしぶりですm(__)m
仕事&生活環境が変わり、急遽ブログを閉鎖してしまいました。
閉鎖の際のあいさつが遅れてしまい、大変申し訳なく思っています。
久しぶりにゆっくりとした時間が出来たので、ちょっとだけ遊びにきました。
信長は面白いですよね。
たくさんのエピソードを持っていて、たくさんの政治的手腕をみせている。
だけど・・・わがままな面もたくさんある。
時代の異端児と言われていたけど、この人がいたからこの時代があるんでしょうね。
ちゅーか、今の時代にいたら・・・尖閣諸島問題も解決したかも~(*≧艸≦)
頻繁にはコメ出来ませんが、また遊びに来ますね~。
智里さんへ
黒田裕樹 > おひさしぶりですm(__)m
> 仕事&生活環境が変わり、急遽ブログを閉鎖してしまいました。
> 閉鎖の際のあいさつが遅れてしまい、大変申し訳なく思っています。
> 久しぶりにゆっくりとした時間が出来たので、ちょっとだけ遊びにきました。
いやぁ、これはお懐かしい!
急な閉鎖だったので心配しておりましたが、元気そうで何よりです。
> 信長は面白いですよね。
> たくさんのエピソードを持っていて、たくさんの政治的手腕をみせている。
> だけど・・・わがままな面もたくさんある。
> 時代の異端児と言われていたけど、この人がいたからこの時代があるんでしょうね。
> ちゅーか、今の時代にいたら・・・尖閣諸島問題も解決したかも~(*≧艸≦)
仰るとおり、この時代は信長という一人の男の存在によって大きく動いていますよね。
これだけの人物であれば、存在感だけで十分な抑止力になったかも(^^ゞ
> 頻繁にはコメ出来ませんが、また遊びに来ますね~。
有難うございます。
今後ともよろしくお願いします。
黒田先生
風早 りら この頃の信長には 残念な 思いです
佐久間信盛や林通勝らへの行い
また 侍女の殺害
このことがなければ 明智光秀が
信長 殺害にまでは 及ばなかったのではと
残念です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > この頃の信長には 残念な 思いです
> 佐久間信盛や林通勝らへの行い
> また 侍女の殺害
> このことがなければ 明智光秀が
> 信長 殺害にまでは 及ばなかったのではと
> 残念です
本能寺の変にもその理由がありますからね。
伏線があったのは間違いありません。
そして、直接の引き金となったのは…。
長く続いた信長シリーズ、いよいよ次回(4日)が最終回です。
オバrev 才能に恵まれ、それを生かして桁外れの実績を残してきた天才信長でもこうなってしまうんですね。
こういう独裁者って、すごい不安をかかえ、周りが信用できない状況になっているんじゃなでしょうか。
信長の中で、天下統一に向けての宗教勢力との対決や、身近な人に裏切られたという経験もしていますので、それまでの疲れが蓄積していて精神的に不安定になってきていたような気がします。
彼にアドバイスする年配者がいて、彼がそれに耳を傾ける余裕があったら、また歴史は大きく変わっていたかもしれません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 才能に恵まれ、それを生かして桁外れの実績を残してきた天才信長でもこうなってしまうんですね。
> こういう独裁者って、すごい不安をかかえ、周りが信用できない状況になっているんじゃなでしょうか。
> 信長の中で、天下統一に向けての宗教勢力との対決や、身近な人に裏切られたという経験もしていますので、それまでの疲れが蓄積していて精神的に不安定になってきていたような気がします。
> 彼にアドバイスする年配者がいて、彼がそれに耳を傾ける余裕があったら、また歴史は大きく変わっていたかもしれません。
そうですね。独裁者というのは常に孤独で、人間不信のかたまりなのかもしれません。
それだけにいったんキレると、歯止めが利かなくなってとんでもない行動に走ってしまう。
そして誰もそれを止めることができない。
独裁者の末路はいつも哀れです。
そんな折に、信長が子の織田信孝(おだのぶたか)に四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を滅ぼすべく出陣させようとしましたが、これは光秀にとっては絶対に許されないことでした。なぜなら、信長は元親と当初は同盟を結んでいたのですが、その仲を取り持ったのが光秀自身だったからです。
しかも、光秀の家臣の義理の妹が元親に嫁(とつ)いでおり、その間に跡継(あとつ)ぎの信親(のぶちか)が生まれていました。それなのに、嗚呼(ああ)それなのに、信長は自分のこれまでの苦労を水の泡(あわ)にするだけでなく、家臣の縁者を見殺しにしようとしている―。
絶望した光秀の、心の中に秘めていた爆弾がついに炸裂(さくれつ)しました。秀吉の毛利攻めに協力すべく領地の丹波(たんば、現在の京都府中部など)を出発した光秀の軍勢は、京が近づくと突然進行方向を変えて、光秀が高らかに宣言しました。
「敵は本能寺にあり!」
わずかな手勢(てぜい)で京の本能寺(ほんのうじ)に宿泊していた信長は、突然の光秀の謀反(むほん)になすすべもなく、業火(ごうか)の中で49歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。時に1582年旧暦6月1日の深夜でした。この大事件は「本能寺の変」と呼ばれ、我が国の歴史を大きく変えた出来事として知られています。
(※通常の更新は今回でしばらく中断して、明日[12月5日]からは第20回歴史講座の内容の更新を開始します)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
まあ、信長の性格上「自業自得」的な
行動ゆえの出来事だとは言え、自分が信じていた
義理の弟である浅井長政にも裏切られ、最後にも信じていた光秀にも裏切られるという非業の最期を遂げた将軍だったわけですね。
その生涯も激流のような激しさを感じますが、
最期も
信長には用意されたように過激なクライマックスでしたね(汗)
天才と呼ばれる人たちとはどうしてこうも人付き合いの方の才能が極端に低いのでしょうかね。
応援凸
黒田先生
風早 りら 「敵は本能寺にあり!」
この時のことですが
いつも 不思議に 思うのですが
信長程の 人物が 何故
わずかな手勢で 宿泊していたのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
信じていた者に裏切られ、最後には命まで奪われるという激しい生涯でした(^^ゞ
天才と呼ばれる人は、知識や才能が高い分、人間の別の部分で恵まれないのかもしれませんね。
このあたりは結果としての「平等」が前提とされているような気もします。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「敵は本能寺にあり!」
> この時のことですが
> いつも 不思議に 思うのですが
> 信長程の 人物が 何故
> わずかな手勢で 宿泊していたのでしょうか?
考えられるとすれば信長の「油断」でしょう。
天下統一のためには膨大な兵力を必要としますが、信長は自己が持つ兵力のほとんどすべてをその事業のために使ってしまっていたんですよね。
普通の人間なら寝首をかかれないように自分専用の親衛隊を持つものですが、信長は自分を直接狙ってくるような存在のことを考えてもいなかったと思われます。
だからこそ光秀の裏切りを予期できなかったし、結果として光秀の謀反は成功してしまった。
でも、それはまた光秀にとっても崩壊の序章に過ぎなかったということですね。