敗戦からの復興(ふっこう)を実現させた原動力は電機や自動車などの技術面が主流であり、そのために我が国は「技術立国(ぎじゅつりっこく)」とも呼ばれていますが、こうした科学技術の発展は、名もない人々による「ものづくり」の精神によって支えられているということを皆さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
我が国における「ものづくり」の精神の歴史は今に始まったわけではありません。島国という資源などが限られた環境で、日本人は昔から創意工夫(そういくふう)を重ねて生活を少しずつ向上させていきました。
政治や戦いなどで名前が知られている歴史上の人物に比(くら)べて、一般的には「ものづくり」を極(きわ)めた技術者や発明家などに関する知名度(ちめいど)は今一つのようですが、そんな彼らの生涯(しょうがい)をたどっていくことで、私たちは新たな面から歴史の流れをつかむことが可能になるのです。
今回の歴史講座では、江戸時代から明治にかけて活躍(かつやく)した発明家である田中久重(たなかひさしげ)の人生を振(ふ)り返りながら、彼がもたらした我が国の発展に欠かせない大きな歴史の流れを見極めたいと思います。




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晴雨堂ミカエル 楽しみにしていただけに、受講できなかったのは残念です。ブログのアップ、期待しています。
日本は「資源」は乏しいですが、農業資源はもともと豊富です。どんなに痩せた土地でも、サハラ砂漠より豊かです。
その日本の取り柄を放射能で失ってはならない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
我が国ならではの特性を生かしてこそ「国づくり」ですからね。
放射能の問題については、羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹くことがないよう気を付けなければいけませんが。
ぴーち こんにちは!
資源がなければ、無いなりに
そこからやりくりし、創意工夫をしながら
なんとか生きていけるように人間は最初からプログラミング
されているものと思っています。
今のように既製品ばかりが溢れる時代には、物質的な豊かさにはとりあえず満足するものの、想像したり、考える力を発揮する場所が失われた精神の不満足度は
高まる一方だと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですよね。
物の豊かさは心と技術の豊かさを失わせてしまいます。
手遅れになる前に対処すべきですが…。
こんにちは。
ボス。 先生の喝絶の良い声、、、大好きです!
あっ!! 講義も!
ボス。さんへ
黒田裕樹 大変光栄です(^^♪
ブログにて拝見させていただいておりますボスさんの毎日のお過ごし方には、私も大いに参考にさせていただいておりますm(_ _)m
わくわく☆
クラチー 偉人伝偉人伝いじんでんでんででんでん♪
…あれ?何か違う?
(゜゜)←
久重さんがアップされて嬉しいです。
し、しかし、横の…(ガタガタブルブル)
これから「ものづくり」の素晴らしさを語るのですね!
いったいどうなる!?ドキワク☆
クラチーさんへ
黒田裕樹 左の画像だけで十分ですが、横に並べることで一層引き立つというものですよ(^_^)v
「ものづくり」の精神について、これから13日まで思う存分語っていきますのでお楽しみに!
器用さ
ろっぽん 私は両手に障害があってCGソフトをコントールしてマンガを描いています。
よくコメントで器用でうまいですねというコメントがありますが、
コメントをなさった方はうつ病でも両手に障害はありませんが、手をコントロールできずうまく描けません。器用とは手が自由に動くことではなくて創意工夫でマイナス面をカバーする創意工夫だと思います。そういうことで言うと日本人の特異性ではなくあらゆる民族、国民にも当てはまることで、ただ教育システムや社会の風習だと思います。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにお言葉どおりのお考えもあり得ますね。
貴重なご意見有難うございます。
べっこう細工はタイマイ(ウミガメの一種)の甲羅(こうら)を利用した工芸品や装飾品(そうしょくひん)を作成するのを生業(なりわい)としており、非常に精緻(せいち、極めて詳しく細かいこと)な金属細工を必要としていました。
儀右衛門は幼い頃から父や職人による高度な技巧(ぎこう)を見て育つとともに、血のつながりもあったためか、生まれつき手先が大変器用でした。
9歳の頃、儀右衛門は通(かよ)っていた寺子屋(てらこや、江戸時代の庶民の教育施設のこと)にお手製(てせい)の硯箱(すずりばこ)を持参し、開けてみるよう仲間に声をかけましたが、誰もが開けることが出来ませんでした。
実は硯箱には巧妙(こうみょう)な細工(さいく)がしてあり、仕掛けを知っている儀右衛門だけが開けることが出来たのです。普段から自分の硯箱を仲間に勝手に開けられていたことから思いついたからくりだったのですが、こうした工夫が簡単にできるあたりが儀右衛門の豊かな将来性を感じさせるエピソードでもありますね。




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ぴーち こんにちは!
手先の器用さというのは、やはり血筋なんでしょうかね(笑)
手は脳の出先機関と同じですので、指先を動かしていると自然と脳の活性化が促進されるので、手先が器用であれば、それに比例して頭も冴えていたのでしょうね^^
それにしても9歳で既にからくり箱を作成するなんて
素晴らしい才能ですね!
応援凸
オバrev 田中久重って、全く知りませんでしたが、平賀源内のような多才な人だったんでしょうか・・・それは明日からの記事で?^_^;
でも小さい時の環境って大きいのかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり血筋だと思われますが、本人の努力の賜物でもあると思います。
9歳の神童が、より素晴らしい人物に育っていくところも凄いですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 技術面がクローズアップされがちですが、後述のように興行師としての才能もありますね。
そのあたりが多才と言えるかもしれません。
仰るとおり、環境による影響も大きかったと思います。
その女性とは同じ久留米に住んでした井上伝(いのうえでん)であり、彼女は久留米絣(くるめがすり)の創始者でしたが、絣に絵を入れることがどうしても出来ず、儀右衛門に依頼(いらい)したのでした。
儀右衛門は伝の期待に応(こた)えて絣に絵模様(えもよう)を織り込(おりこ)むための織機(しょっき)を完成させ、久留米絣の技術をさらに向上させることに成功しました。この時、儀右衛門はわずかに15歳です。
発明家として自信を深めた儀右衛門は、愛読していた「機巧図彙(からくりずい)」という様々なからくりの仕掛けを図解(ずかい)した本の影響も受けて、寝る間も惜(お)しんで創作に明け暮(く)れる毎日を送っていました。
そんな儀右衛門に対して、父の弥右衛門はべっこう細工の家業(かぎょう)を継(つ)いでくれるように願っていましたが、創作意欲に燃えていた儀右衛門は、やがて「日本一のからくり師」を目指して自分で生計(せいけい)を立てる決意をしました。




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ぴーち こんにちは!
世間一般に、出来の良い子供程、家督を継いでくれることが難しくなるようですが、田中久重の場合もやはりその溢れんばかりの才能が故に、世間から放っておかれなくなってしまったんですね。
親からすれば、家督を継がない親不孝な子供でも、
世の中に役立つ人間に成長してくれたことに
良しとしなければならないでしょうね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
儀右衛門の場合は弟がいましたし、自分のやりたいことを認めてくれた父親の器量の大きさも素晴らしいものがあると思います。
世に出ようと思えば、家族の協力は不可欠とも言えそうですね。
やがて成人した久重は「からくり興行師(こうぎょうし)」として大坂や京都、江戸などを行脚(あんぎゃ)して次々と新作のからくり人形を人々に紹介し、その名が全国に知られるようになったのです。
久重が作ったからくり人形は多数存在しますが、なかでも有名なものには、人形が持つ台の上に盃(さかずき)を置くと動き出し、盃を取ると止まるという童子盃台(どうじはいだい)や、人形が矢立てから矢を取り、弓につがえて的(まと)を射(い)るという高度な動作を繰(く)り返す弓曳童子(ゆみひきどうじ)などがあります。
このうち弓曳童子は4本の矢のうち1本だけをわざと射損(いそん)じるという高度な演出を加えており、こうした久重の洗練されたセンスが興行師として彼を大成功に導(みちび)いたのでしょう。




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ぴーち こんばんは!
盃を置くと動き出す童子の人形は、
テレビなどでも紹介されているのを拝見したことが
あります^^
あれは田中久重の作品だったんですね!
弓矢を一本だけわざと外すというのは
仰る通り、高度な技術なくしては出来ない技ですものね!なかなかユーモアのセンスもある方だったんですね^^
こういうお話を伺っていると
人形の仕掛けが知りたくなりますねェ~。
何か回転する盤のような所に4回転目に取っ掛かりを
付けて外れるように仕組んであるんでしょうかね??
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
完璧なものよりも、わざと外すあたりのユーモアが名興行師という感じがします。
中の仕掛けは…どうなっているんでしょうね(´・ω・`)?
1837年には大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)が起きて、一家が焼け出されてしまうという不幸を経験しましたが、それにもめげることなく久重は同じ年に無尽灯(むじんとう)を発明しました。
無尽灯は菜種油(なたねあぶら)に空気の圧力を加え、管(くだ)をつたって灯心(とうしん)に昇(のぼ)らせるように工夫したものであり、長時間にわたって安定したともし火を供給(きょうきゅう)することが可能になり、商売や生活水準の向上に大きな貢献(こうけん)をしました。
久重はその他にも仕掛け花火の工夫をしたり、約10メートルの高さまで水を噴(ふ)き上げたとされる消火用ポンプの雲竜水(うんりゅうすい)などを発明したりして「からくり儀右衛門」の名に恥(は)じない活躍を続けました。




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ぴーち おはようございます!
何も電気だけがものを動かす原動力ではないということを、改めて感じた今日のお話です。
工夫次第で、地球環境へも十分配慮出来る生活が
出来るものですよね。
余りに人類は発展すること、進化することに固執し、急ぎすぎて
逆に全ての寿命を縮めているように思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
工夫次第でいくらでも柔軟な発想ができるのに、何もせずに安易な便利さに頼っている現代こそ、何かと「不都合」な時代なのかもしれません。
新たな知識を自分のものとした久重は、日の出と日の入り(夜明けと日暮れ)の間をそれぞれ6等分するという、季節によって時間の長さが上下する我が国独特の不定時法(ふていじほう)に合わせた和時計(わどけい)である須弥山儀(しゅみせんぎ)を1850年に製作しました。
さらに翌1851年にはからくり時計の最高傑作(さいこうけっさく)となる万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)を完成させました。通称(つうしょう)を「万年時計」として知られるこの時計は、21世紀の平成16(2004)年に復元されて翌17(2005)年の「愛・地球博」にレプリカが展示(てんじ)される予定でしたが、あまりに精巧(せいこう)な技術を使用していたため解析(かいせき)に時間がかかり、博覧会の開催(かいさい)までに完全な復元が間に合わなかったそうです。
万年時計によって久重がさらに名を挙(あ)げたこの頃、1853年にはアメリカのペリーの黒船が来航して世は幕末(ばくまつ)となり、西洋に負けない技術力が必要となっていました。そんな時代に合わせるかのように、久重の人生にもやがて新たな進展が見られるようになっていくのです。




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オバrev 職人、名工を通り越した素晴らしい才能と実績、まさに天才ですね。
しかも50才になってもまだ進化し続けるとは・(゜o゜;
風満帆とも言える人生だと思いますが、黒船来航で何が変わるんでしょうね。
新たに西洋の知識や技術を吸収して、とんでもないものを作ることになるんでしょうか?
それともそういう職人仕事とは関係のない所で、荒波が打ち寄せてくるんでしょうか??
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 職人、名工を通り越した素晴らしい才能と実績、まさに天才ですね。
> しかも50才になってもまだ進化し続けるとは・(゜o゜;
本当にそうですよね。
あくなき向上心と不断の努力の賜物だと思います。
> 風満帆とも言える人生だと思いますが、黒船来航で何が変わるんでしょうね。
> 新たに西洋の知識や技術を吸収して、とんでもないものを作ることになるんでしょうか?
> それともそういう職人仕事とは関係のない所で、荒波が打ち寄せてくるんでしょうか??
さすがはオバrevさん、なかなか鋭いですね(^^ゞ
次回以降にご期待下さい!
ぴーち おはようございます!
やはり一度開花した才能というのは生涯を通して
活かされていくものなんですね^^
磨き続ける事で次第に研ぎ澄まされていく
技術力。素晴らしいお話です。
新たな進展にも興味があります^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
「偉人伝」として歴史に残る人々は、努力し続けることで実力をいかんなく発揮されているということですね。
新たな進展にも素晴らしいものがありますよ(^^♪
精煉方(せいれんかた)として着任した久重は藩主直正の期待に応え、1855年には蒸気機関車(じょうききかんしゃ)や蒸気船(じょうきせん)の模型(もけい)を完成させたほか、1862年には蒸気船の原動力となる蒸気釜(じょうきがま)を製作しました。
久重によるこれらの努力は我が国における蒸気機関の発達に大いに役立ちましたが、そんな彼が手がけたひとつの「最新兵器」が、我が国の歴史そのものを大きく変えることにつながったことを皆さんはご存知でしょうか。
その兵器の名を「アームストロング砲(ほう)」といいます。




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ててててっちゃん 黒田殿、お久しぶりです(^^ゞ
アームストロング砲は名前だけならしってます。どんな内容になるのか楽しみですな(´・ω・`)
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 > 黒田殿、お久しぶりです(^^ゞ
これはこれはお久しゅうござるm(_ _)m
> アームストロング砲は名前だけならしってます。どんな内容になるのか楽しみですな(´・ω・`)
是非とも次回を楽しみにしていただきとう存じます。
必ずやご期待に添えるものと信じております。
ぴーち おはようございます!
蒸気機関車、蒸気船
も田中久重がもたらしたものだったんですね!
全く存じませんでした(^^ゞ
やはり黒船の影響が大きかったのでしょうか?
そう言えば、黒船の黒い色は海水で腐食しないように、コールタールを塗った色だと聞いておりますが、蒸気機関車の黒もそういう意味合いだったんでしょうかね・・?
見た目からして、黒は強そうで威圧感さえ感じる色ですものね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 模型を作ってから実際に本物を製造するというのは定番ですからね。
久重の活躍がその後の我が国の蒸気機関の発達をもたらしたことは間違いありません。
蒸気機関車が黒い理由は蒸気船と同様に錆止めのようですね。あとは煙で汚れるのを目立たないようにするためでしょうか?
いずれにせよ威厳がありますよね。黒といえば、誰かさんはそれこそ「名前だけ」ですが(爆)。
管理人のみ閲覧できます
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施条を付けたことによって、飛び出す砲弾(ほうだん)の飛距離(ひきょり)を延(の)ばすとともに弾道(だんどう)をぶれなくさせ、さらに命中精度(めいちゅうせいど)を高めるという優れた兵器となったのです。
アームストロング砲の優秀さを伝え聞いた佐賀藩では直(ただ)ちに大砲を輸入しましたが、それだけで満足するのではなく、当時の西洋の最新技術を駆使(くし)してつくられたこともあって、東洋人にはとても真似(まね)ができないであろうと思われたアームストロング砲を、そのままそっくり同じものを作ってしまったのです。
1863年に佐賀藩で完成した国産のアームストロング砲の製作にかかわった人物こそが田中久重でしたが、このアームストロング砲は江戸幕府が崩壊(ほうかい)した後に官軍(かんぐん)と旧幕府軍との間で1868年に起こった戊辰戦争(ぼしんせんそう)で大いに活躍することになりました。




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ててててっちゃん アームストロングストロング砲すごいですな(*^_^*)
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 > アームストロング砲すごいですな(*^_^*)
確かに凄いでござる。
しかしながら、本当の凄さはこれから後になって初めて分かるのでござる。
明日(10日)の更新をお待ちなさいませm(_ _)m
ぴーち おはようございます!
大砲の筒の部分はそんな構造になっていたんですね!(゚д゚)!
なかなか大砲の筒の部分など、実際に覗いて
みる機会がありませんので、勉強になりましたm(_ _)m
それにしても、その頃の日本は技術面に対して西洋からは随分、
侮られていたものですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 砲身に施条を付けるのと付けないのとでは別物みたいになるそうです。
そんな工夫ができるのに人種は関係ないのですが、当時は「白人至上主義」ですからね…。
我が国にとっては受難の時代であり、立ち上がる時代でもあります。
アームストロング砲はその後も大いに活用され、同年の会津戦争(あいづせんそう)では会津藩(あいづはん)の鶴ヶ城(つるがじょう)を落城(らくじょう)させました。アームストロング砲によって激(はげ)しく損傷(そんしょう)した当時の鶴ヶ城の写真が今も残されています。
こうした功績が認められたことによって、明治維新(めいじいしん)以後のいわゆる藩閥政府(はんばつせいふ)において、肥前佐賀藩は薩摩藩(さつまはん)や長州藩(ちょうしゅうはん)、あるいは土佐藩(とさはん)とともに「薩長土肥(さっちょうとひ)」として並(なら)び称(しょう)されるようになりました。
また、佐賀藩出身の人材が明治政府に登用されたことで大隈重信(おおくましげのぶ)が活躍するようになり、やがて彼は明治15(1882)年に東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう)を設立しますが、これが今の早稲田大学(わせだだいがく)につながっています。
佐賀藩や維新後の大隈重信らの活躍、あるいは早稲田大学が現代においても慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく)とともに「私学の雄」とされているのは、すべて田中久重が製作したアームストロング砲のお蔭(かげ)ともいえるのです。




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ぴーち おはようございます!
一人の発明家の存在が一つの藩の行く末に大きく貢献し、やがて日本という国の大きな発展に繋がっていったわけですね。今まで全く意識しておりませんでしたが、改めて田中久重という人物は偉大な方だったのだと思い知らされました。
海外では彼の名前は有名なのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一人の人物が歴史を変える。
それは歴史に残る政治家ばかりでなく、名もない発明家でもしっかりと出来ることですよね。
技術立国の我が国では、多くの技術者が同じように陰の存在として世界に貢献しているという話は有名ですし。
> 海外では彼の名前は有名なのでしょうか?
久重の場合、アームストロング砲よりももっと別の意味で有名になっていますね。
その「からくり」は今後の更新で明らかになると思います。
ててててっちゃん 鶴ヶ城の砲撃さえもがアームストロング砲によるものだったとはΣ( ̄□ ̄)!
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 > 鶴ヶ城の砲撃さえもがアームストロング砲によるものだったとはΣ( ̄□ ̄)!
そうなんですよね。
会津戦争は悲劇的ではありますが、その一方で新政府軍の勝利をもたらしたアームストロング砲の存在と、その後の歴史の流れを理解することは重要だと思います。
アームストロング砲
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、アームストロング砲は、
大砲の少し性能がイイものくらいにしか思っていませんでした。
ただ、司馬遼太郎氏の「アームストロング砲」を
読んで、驚きました。
この当時の、アームストロング砲は、今の
ミサイル(スカッドミサイル)だったんですね。
つまり、幕末の黒船は、船に大砲を積んでいるのではなく、船に、スカッドミサイルを積んでいるということです。
ただ、そう考えると、現在は、日本は、危険ですね。現在の日本は、
隣国の某国は、現在、日本にミサイルで、日本を標準にしています。
それなのに、『尊皇攘夷』どころか「皇室にたいするヘイトスピーチ。某隣国と開国しています。」
ましてや、外国人にたいするヘイトスピーチを罰するという馬鹿な政治家まで出てきています。
近現代史にハマるとなぜか、私は、某隣国への「ヘイトスピーチ」をしてしまいます。
ハマらないほうが健康には、良かった気がします。(笑)
青田さんへ
黒田裕樹 > 近現代史にハマるとなぜか、私は、某隣国への「ヘイトスピーチ」をしてしまいます。
> ハマらないほうが健康には、良かった気がします。(笑)
健康には良いかもしれませんが。無知による誤謬を防いだことも大きいかもしれませんね(笑)。
久重は突然襲った悲しみを振(ふ)り払(はら)うかのように、久留米藩で蒸気船の軍艦(ぐんかん)の購入に立ち会ったり、銃砲(じゅうほう)の製造に携(たずさ)わったりするなど精力的に活動を続けました。
江戸幕府が滅(ほろ)びて明治維新を迎える頃にも、久重は我が国初となる製氷機や自転車・人力車・精米機(せいまいき)・写真機、あるいは川の水を引き上げる昇水機(しょうすいき)など、日常生活に密着した様々な製品の発明や改良を行い続けました。
明治6(1873)年、75歳の久重は故郷を離(はな)れて新首都の江戸改め東京へと移住し、電信機(でんしんき)の製造など西洋技術の国産化に大きく貢献しました。
さらに明治8(1875)年には文明開化(ぶんめいかいか)の象徴(しょうちょう)とされたレンガ造りの建物が並ぶ銀座(ぎんざ)へと移り、「万般(ばんぱん)の機械考案の依頼に応ず」という看板(かんばん)を掲(かか)げた店舗(てんぽ)を構(かま)えました。




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ビリーさん 今日時間をかけて黒田先生の第27回「黒田裕樹の歴史講座の報告」から
本日の最新記事までゆっくり拝読させていただきました。
あらためて黒田先生の造詣の深さに感嘆いたしました。生意気を言って
申し訳ありません。どうぞこれからもよろしくお付き合いください。
ありがとうございます。
ビリーさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつもご丁寧な励ましのお言葉を有難うございます。
これからもどうぞ拙ブログまでお越し下さい。
ぴーち おはようございます!
蒸気船から家電に次第に移行していった訳ですね。
田中久重は何か家電会社の創始者になった方なんでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 田中久重は何か家電会社の創始者になった方なんでしょうか・・?
鋭いですね(^^♪
その答えは今日(12日)の更新で明らかにしますので、今しばらくお待ちください。
マリリンカ おはようございます~(#^.^#)
いつも拝見しております~
この方がいなければ、今の進歩もなかったのでしょうか~何にしても最初の方は凄いですね(>_<)
久留米で勤めてました~懐かしく思いました~
久重氏には、故郷となる訳ですね~
大変、わかりやすかったです~ありがとうございます(^^♪
マリリンカさんへ
黒田裕樹 いつもありがとうございますm(_ _)m
マリリンカさんと久重氏にはそんなつながりがあったんですね。
人によっていろんな思い出があるのは素晴らしいことだと思います。
このように様々な発明や改良を行い続け、我が国の歴史に大きな足跡を残した田中久重でしたが、明治14(1881)年に83歳の長寿を全(まっと)うしてこの世を去りました。
久重の死後、養子が二代目田中久重を名乗って翌明治15(1882)年に銀座から東京の芝浦(しばうら)に移転して「田中製造所」を設立しました。田中製造所は明治37(1904)年に会社所在地の「芝浦製作所」に改名し、昭和14(1939)年には「東京電気」と合併(がっぺい)して「東京芝浦電気株式会社」となりました。
東京芝浦電気は昭和59(1984)年に「株式会社東芝(とうしば)」と商号変更して現在に至(いた)っています。田中久重が生涯(しょうがい)かけて築き上げた発明や改良における情熱あるいは探究心(たんきゅうしん)は、我が国が世界に誇(ほこ)れる複合電機メーカーである東芝に受け継がれているのです。




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オバrev な、な、何と!二代目田中久重は、東芝を興した人だったんですか(゜o゜;
初代が軽いものから重いものまで何でもできたように、現在の東芝も家電から軍事機器、はたまた原発まで、何でもできる我が国を代表する製造メーカーですからね。
その精神が生きているのかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そうなんですよ。田中久重の業績が東芝にまでつながっているんです。
仰るとおり、複合電機メーカーとして何でもできる東芝は、久重の精神をしっかりと受け継いでいるといえるでしょうね。
ぴーち おはようございます!
東芝の起原が田中久重だったんですね!
私は会社名に興味があり、たまに調べたりしておりますが、東京の芝浦で設立された事で「東芝」だったんですね!初めて知りました♫
またひとつ勉強になりありがとうございましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今をときめく大企業の東芝ですからね。
それぞれに色々な由来がありますが、田中久重がかかわっているところが秀逸だと思います。
「東洋のエジソン」とも呼ばれた田中久重が我が国にもたらした功績はまさに計り知れないものがありますが、それらは寝る間も惜しんで研究を続けた凄(すさ)まじいまでの努力と、留(とど)まることを知らない探究心によるものであったといえるでしょう。
久重が晩年に残したと伝えられる以下の名言を耳にしたとき、私たちは彼の偉大さを知るとともに、彼に負けないくらいの努力を重ねて世の中に貢献したいと強く実感するのではないでしょうか。
「知識は失敗より学ぶ。事を成就(じょうじゅ)するには志(こころざし)があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に成就があるのである」。
(※第27回歴史講座の内容はこれで終了です)




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クラチー とうとう久重さんのが、今回で終わったのですね!
人形作りから電機メーカーへ…。
これは凄い発展ですよね。
(@。@)
最後の言葉は、
失敗を恐れたら成功しないってことですかね。
自分も頑張らねば!
クラチーさんへ
黒田裕樹 12回という短い期間でしたが、中身の濃い講座だったと思います。
仰るとおり、失敗を恐れずに進歩を続けたいものですね。
オバrev >「知識は失敗より学ぶ。事を成就(じょうじゅ)するには志(こころざし)があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に成就があるのである」
確かエジソンも、またもや実験に失敗して装置が爆発した時に、弟子がついに堪忍袋の緒が切れてやめる!と言ったのに対して、嬉しそうな顔をして「失敗する方法がまた一つ分かった」と言ったそうですが、発明家って皆失敗を失敗と思ってないし、凄くプラス思考なのかもしれませんね(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰る一面がありますね。
一つの成功に至るまでには数えきれないほどの失敗があるといいます。私たちも一度や二度の挫折に屈することなく、気合を入れて進まなければいけませんね。
ぴーち おはようございます!
失敗は成功のもと・・は、田中久重の名言から生まれたもの
だったのでしょうかね^^
私も先日、「マネーボール」という映画を観賞させていただいた折に
野球も人生に似ていると教えていただきました。
3球のうちの2球を外して失敗しても、最後の1球でホームランを打てば
そのバッターは勝者とみなされる。
めげずに努力できる精神力、見習いたいものです^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 野球も3割の成功で十分と言われていますからね。
人間は完璧を目指し過ぎると、かえって失敗するものなのかもしれません。
いずれにせよ、田中久重の生き方は私たちに大きな教訓を残してくれていますね。