国人や地侍らの収入としては、耕地に課せられた税を銭に換算(かんざん)した貫高(かんだか)という基準が用いられ、彼らの地位や収入を保障する代わりに、貫高に見合った一定の軍役(ぐんやく)を負担させました。これを貫高制(かんだかせい)といい、戦国大名の軍事制度の基礎を固める効果をもたらしました。
また、戦国大名は強力な軍を編成するため、有力な家臣を寄親(よりおや)とし、その下(もと)に一般の武士を寄子(よりこ)として配属させました。これを寄親・寄子制といいます。
寄親・寄子制によって戦国大名は、鉄砲(てっぽう)や長槍(ながやり)などの新兵器を使った集団戦も可能となったのでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
鉄砲の日本伝来は、室町時代くらいでしたか?(素朴過ぎる質問ですみません^^:)
戦国時代に鉄砲がポピュラーに使用されるようになったんですね。寄親、寄子なんて初めて聞きました!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鉄砲の日本伝来は、室町時代くらいでしたか?(素朴過ぎる質問ですみません^^:)
> 戦国時代に鉄砲がポピュラーに使用されるようになったんですね。寄親、寄子なんて初めて聞きました!
鉄砲の伝来は室町後期(戦国中期)の1543年です。そのうち講座でも紹介しますよ。
寄親・寄子制は高校の日本史で学びます。この制度が確立してから、軍勢を編成しやすくなったんですよね。
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紗那 わわわ、一気に専門的な話に踏み込んでいきましたね!
全然知らない話ばかりに!
戦国大名も頭を使って、いろいろな方面(政治的・軍事的・金銭的など)から自分の国を統治して、他大名を制服、または対抗する工夫をしてたということでしょうか。
こういう話を聞くと、ますます興味が湧いてきます!
はじめまして
梵天丸 はじめまして黒田様。
以前から、こちらで勉強させていただいております。
一度お礼とご挨拶を、と思っておりました。
私も一応歴史に関係するブログをやってるのですが、
ほとんど知識がないもので、ここでの勉強がたいへん
役に立っております。
これからもどうぞよろしくお願いします。
紗那さんへ
黒田裕樹 > わわわ、一気に専門的な話に踏み込んでいきましたね!
> 全然知らない話ばかりに!
今日の内容は高校生で初めて学ぶ内容ですからね。
もちろん、覚えておいて損はないですよ(^^♪
> 戦国大名も頭を使って、いろいろな方面(政治的・軍事的・金銭的など)から自分の国を統治して、他大名を征服、または対抗する工夫をしてたということでしょうか。
そのとおりです。食うか食われるかの戦国時代ですから、各大名はそれぞれ知恵を絞って様々な工夫をしていました。しばらくはその具体的な内容の更新が続きますよ。
> こういう話を聞くと、ますます興味が湧いてきます!
大変良いことです(^o^)/
次回以降もぜひお越し下さい!
梵天丸さんへ
黒田裕樹 こちらこそはじめまして。
いつも当ブログへお越し下さいましてありがとうございます。
梵天丸さんのお役に立ててうれしく思います。
私も負けないように頑張らないといけませんね♪
これからもよろしくお願いします。
黒田裕樹さん
風早 りら 貫高制
寄親・寄子制
今まで 知らなかった事ばかりです
戦国大名も かなり 頭脳を使って
計算して 戦国の世を 駆け抜けていたのですね
興味深く 今日も 拝見しました
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風早りらさんへ
黒田裕樹 > 貫高制
> 寄親・寄子制
> 今まで 知らなかった事ばかりです
> 戦国大名も かなり 頭脳を使って
> 計算して 戦国の世を 駆け抜けていたのですね
> 興味深く 今日も 拝見しました
有難うございます。
いくら武力がある戦国大名といっても、家臣団の一つも統制できないようではどうしようもないですからね。
様々な工夫をしながら強くなっていった様子が、講座の中からご理解いただければ幸いです。
分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承(けいしょう)したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘(しとう)を行った当事者の双方を処罰(しょばつ)してすべての紛争(ふんそう)を大名による裁定に委(ゆだ)ねるとした喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団の統制の強化を目指しました。
有名な分国法としては、朝倉氏の朝倉敏景十七箇条(あさくらとしかげじゅうしちかじょう)や武田氏の甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)、今川氏の今川仮名目録(いまがわかなもくろく)、伊達氏の塵芥集(じんかいしゅう)などがあります。
また、戦国大名は新たに獲得(かくとく)した領地に対してしばしば検地(けんち)を行いましたが、この検地は家臣である領主などに耕地の面積や収入額などを自己申告させるもので、指出検地(さしだしけんち)と呼ばれています。
検地によって農民の耕作面積や年貢量などが検地帳(けんちちょう)に登録され、戦国大名が農民の耕作権を保障する代わりに農民に対する直接支配を強化するとともに、荘園制度の根幹(こんかん)であった名田(みょうでん)の解体が進む結果をもたらしました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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オバrev 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
検地そのものは戦国時代から行われていました。ただ、この頃は農民たちの「自己申告制」による検地だったので、極端な言い方をすればいくらでも「ごまかし」が可能でした。秀吉のように実地検分で行うようにするためには、それこそ天下を統一しようかとするだけの強大な武力が背景になければ、戦国の世では生命がいくつあっても足りないという状況もあったのです。
> 戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
> ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
刀狩そのものは、柴田勝家が先に行ったという説もあるようですね。
サクラ あ、自己申告制だったんですね!
なんか、現代と同じですね。
さすがに怪しければ、
太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
サクラさんへ
黒田裕樹 > あ、自己申告制だったんですね!
> なんか、現代と同じですね。
> さすがに怪しければ、
> 太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
そのとおりです。実地検分をするのとしないのとでは天と地ほどの差がありますからね。
この当時は誰しもが武力を持っていましたし、ましてや農民の集団一揆の可能性もありましたから、実地検分をしたくても生命の危険があってできませんでした。
秀吉のように強大な武力を背景にしなければ不可能だったのです。
黒田裕樹さん
風早 りら 検地はこの頃から行われるようになったのですね
農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
農民に対する直接支配ですものね
この頃 の農民の方々の ご苦労
大変だったことでしょう
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 検地はこの頃から行われるようになったのですね
> 農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
> 農民に対する直接支配ですものね
> この頃 の農民の方々の ご苦労
> 大変だったことでしょう
領地内の生産力を上げるために、農民への負担を増やしたことは十分考えられます。
ただ、この頃の見地は自主申告だったために「ごまかし」も可能な制度でした。
その分、農民がしたたかに生きていけた時代であったとも言えるでしょう。
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城下はやがて人や物資が集まる中心地となり、大名の居城(きょじょう)を中心に城下町(じょうかまち)が形成されました。この当時の有名な城下町としては、北条氏の小田原や今川氏の府中(ふちゅう)、上杉氏の春日山(かすがやま)、朝倉氏の一乗谷(いちじょうだに)などがあります。なお、今川氏の府中は領国である「駿」河の「府」中として駿府(すんぷ)と呼ばれました。現在の静岡です。
この他にも、戦国大名は鉱山(こうざん)の開発や治水(ちすい)の事業などを積極的に行うとともに、領国内の関所の廃止や商業の発展のために組合である座(ざ)を廃止して商品の流通を促進(そくしん)し、また領国内の宿駅(しゅくえき)や伝馬(てんま)などの交通制度を整えて城下町を中心として領国を一つの経済圏(けいざいけん)のまとまりとしました。
ただ、この当時の戦国大名の兵力の大半が平時は農作業を行う農民兵(のうみんへい)であり、彼らは地方への長期間の滞在(たいざい)が事実上不可能であったこともあって、各大名は天下統一よりも周辺諸国への領地拡大を目指していました。




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サクラ 戦国時代って、始終国が荒れてるイメージでした。
それどころか、水害とか、飢饉とか。
けれども戦国大名は自らの力で国を守っていましたし、農民との結びつきも強かったんですね。
兵を出しすぎれば、大戦末期みたいに食糧不足もおきますし。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 戦国時代って、始終国が荒れてるイメージでした。
> それどころか、水害とか、飢饉とか。
> けれども戦国大名は自らの力で国を守っていましたし、農民との結びつきも強かったんですね。
> 兵を出しすぎれば、大戦末期みたいに食糧不足もおきますし。
そのとおりです。戦国大名といえども、攻め込むだけでなく領地を守ることの方が重要でした。
そのためにあらゆる政策を行うとともに、いざ出兵の際には兵糧が尽きることのないよう、また生産性が落ちることのないよう気を付けていたんですよね。
そうめん この時代の静岡県は駿府と呼ばれていたんですか・・。
ずっと駿河かと思っていました。
参考になりました(^^;)
城下町は色々な地方にあったんですね。
そこは人や物資が集まる中心地という事から、とても賑わっていたんですね。
そうめんさんへ
黒田裕樹 > この時代の静岡県は駿府と呼ばれていたんですか・・。
> ずっと駿河かと思っていました。
> 参考になりました(^^;)
静岡県というよりは静岡市ですね。
駿河の中心=県の中心であることは変わっていないようです。
> 城下町は色々な地方にあったんですね。
> そこは人や物資が集まる中心地という事から、とても賑わっていたんですね。
小規模な城下町は全国にありました。
ただ、それを自己の領地内で全国的に、しかも計画的に行った武将がいたのです。
それは誰かというと…?
ぴーち こんばんは!
私の住む所にも、伝馬町という町名が存在しますが、元辿れば戦国時代にまで遡るのですね~!
駿府というのは、時代劇でよく耳にしておりました(^^A
戦に備えて、色々な準備が着々と整備されいった時代でもあるんですね!
応援凸
紗那 戦国時代の農民兵しか組織されていなかった時代は、多分一般の人が想像してるのより、ずっと平和だったのでしょうね。
とりあえず、大名が防備を固めてくれているわけですし。
まぁ、農民兵だけでなく、正規軍が組織されるようになると話は変わってくるのでしょうが……w
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私の住む所にも、伝馬町という町名が存在しますが、元辿れば戦国時代にまで遡るのですね~!
> 駿府というのは、時代劇でよく耳にしておりました(^^A
> 戦に備えて、色々な準備が着々と整備されいった時代でもあるんですね!
伝馬町は東京にもありますから、探せばもっと各地にもあるでしょうね。
やっぱりいつ戦争があるか分からない時代ですから、平和慣れした現代とは違って、危機管理がしっかりと出来ていたと考えるべきでしょうね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦国時代の農民兵しか組織されていなかった時代は、多分一般の人が想像してるのより、ずっと平和だったのでしょうね。
> とりあえず、大名が防備を固めてくれているわけですし。
> まぁ、農民兵だけでなく、正規軍が組織されるようになると話は変わってくるのでしょうが……w
農民兵は平時はすべてが手作業という重労働な農業に従事させられて、いざ戦争となったら命がけで戦わねばなりませんでしたから、その負担は想像を絶する大きいものだったかもしれませんよ。
その一方で戦争専門の兵力は、普段は訓練だけを行っていればよいですから、まだマシだったといえるのかもしれませんが…。
黒田裕樹さん
風早 りら 戦国大名は 革新的な ことを
かなりしていたのですね
鉱山の開発や治水の事業まで
関所を廃止し商業の発展させた
城下町を中心として領国を一つの経済圏のまとまりとした
また 知識が増えました
ありがとう 学ぶ喜び感じます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 戦国大名は 革新的な ことを
> かなりしていたのですね
> 鉱山の開発や治水の事業まで
> 関所を廃止し商業の発展させた
> 城下町を中心として領国を一つの経済圏のまとまりとした
> また 知識が増えました
> ありがとう 学ぶ喜び感じます
各大名が生き残りをかけて戦っているわけですから、必然的に経済圏のまとまりが求められるわけですね。
人間は必要に迫られないと動かないものかもしれません。