室町時代の文化としては、まずは南北朝の動乱期を背景とした南北朝文化(なんぼくちょうぶんか)が栄え、次いで室町幕府の第3代将軍である足利義満の時代に北山文化(きたやまぶんか)が、さらに第8代将軍足利義政の時代に東山文化(ひがしやまぶんか)が生まれています。
この時代の文化の大きな特徴(とくちょう)としては、それまで東国を中心に栄えていた武家文化が、室町幕府が京都に置かれたことで公家(くげ)文化と融合(ゆうごう)し、また我が国の伝統的な文化が、明や朝鮮などの東アジアとの活発な交流に伴(ともな)って大陸文化と融合したことが挙げられます。
さらに、それまでの都市の民衆が支えてきた中央文化が、各地の惣村(そうそん)との交流によって地方文化と融合したことによって、これらの文化の融合が洗練・調和されていくなかで、次第に我が国固有の文化というべきものが生み出されていきました。
能(のう)・狂言(きょうげん)・茶の湯(ちゃのゆ)・生花(いけばな)などは、現代においても我が国の伝統文化として知られていますが、これらはいずれも室町文化(むろまちぶんか)の頃にその基盤(きばん)が確立されており、中央や地方、あるいは武家・公家・庶民(しょみん)の区別なく形成されていったのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ 鹿苑寺舎利殿なんか、三階は寺院風で二階は武家風に造られてましたね。
茶室や生け花なんかは、よくイラストやデザインなどに応用したりするのですが、お陰で「深み」というのが解かるようになりました。
まさしく日本文化万々歳といったところです。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 鹿苑寺舎利殿なんか、三階は寺院風で二階は武家風に造られてましたね。
金閣のことですね。いずれは講座で紹介しますよ。
> 茶室や生け花なんかは、よくイラストやデザインなどに応用したりするのですが、お陰で「深み」というのが解かるようになりました。
> まさしく日本文化万々歳といったところです。
本文にも書きましたように、この頃までに我が国の伝統文化と呼ばれるものが形づくられてきましたからね。これからしばらく時間をかけて、室町文化について詳しく更新していきたいと思います。
紗那 室町文化……!
中学時代に苦労しました……w
しかし、今の日本文化の多くがこの時代に基づいてると考えると、結構重要なところなのですよね。
>中央や地方、あるいは武家・公家・庶民(しょみん)の区別なく形成されていった
初耳でした!
紗那さんへ
黒田裕樹 > 室町文化……!
> 中学時代に苦労しました……w
> しかし、今の日本文化の多くがこの時代に基づいてると考えると、結構重要なところなのですよね。
室町文化と一口に言っても、南北朝文化・北山文化・東山文化と範囲が広いうえに覚えることがたくさんありますからね(´・ω・`)
それでも我が国の伝統文化と密接にかかわり重要な文化ですから、どうやって皆さんにご理解いただけるか、腕の見せ所になりそうです(`・ω・´)
> >中央や地方、あるいは武家・公家・庶民(しょみん)の区別なく形成されていった
> 初耳でした!
流れからいけばそうなるんですよね。初めて本格的に庶民にまで広まった文化といえるのかもしれません。
ぴーち こんばんは!
まずは70000HIT
おめでとうございます!

この頃の時代も、日本特有の何かと融合して、新たな文化なりが開花するという独特な文化が生まれたんですね^^
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まずは70000HIT
> おめでとうございます!

有難うございます。実は今日(9月26日)でブログ開設以来ちょうど1年半なんですが、良い区切りとなりました。これからも頑張りますよ(^o^)/
> この頃の時代も、日本特有の何かと融合して、新たな文化なりが開花するという独特な文化が生まれたんですね^^
そのとおりです。特にこの時期の文化は現代の伝統文化とも深くかかわっていますから、それだけ重要なんですよね。
こんにちは
冬灯 室町時代と聞くとまず思いだすのが、文化の
繁栄です。やっぱり義満が文化人だったせい
でしょうか。
時の天下をとった人によって、時代の繁栄の
仕方も違うものですね。。。
そして、それが政治とも深く繋がって、さら
には外交にも密接しているというのもひじょう
に興味深いものです。
室町時代も学べば面白いものですね^^
冬灯さんへ
黒田裕樹 > 室町時代と聞くとまず思いだすのが、文化の
> 繁栄です。やっぱり義満が文化人だったせい
> でしょうか。
文化の繁栄には豊富な経済力も必要ですからね。文化人たる為政者が広めていったという側面は必ずと言っていいほど存在します。
> 時の天下をとった人によって、時代の繁栄の
> 仕方も違うものですね。。。
> そして、それが政治とも深く繋がって、さら
> には外交にも密接しているというのもひじょう
> に興味深いものです。
> 室町時代も学べば面白いものですね^^
仰るとおりで、文化は政治や外交とも深くかかわってきます。室町時代は激動の歴史でもありましたから、それだけ文化が大きく広がったとも言えますね。
講座における室町文化の更新にご期待下さい(^o^)/
黒田裕樹さん
風早 りら 能・狂言・茶の湯・生花
室町文化と聞いただけで
華やかな 文化を想像します
やはり この時代は凄い
日本の文化の宝庫ですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 能・狂言・茶の湯・生花
> 室町文化と聞いただけで
> 華やかな 文化を想像します
> やはり この時代は凄い
> 日本の文化の宝庫ですね
お言葉どおりで、耳にしただけで日本人の魂を揺さぶるものがありますよね。
今回の更新で、室町文化の真髄を少しでもご紹介できればと思います。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の信任が厚かった南朝の公卿(くぎょう)であった北畠親房(きたばたけちかふさ)は、伊勢神道(いせしんとう)の理論を背景として、南朝の立場から我が国の長い歴史を通じて皇位が継承(けいしょう)されてきたことを説いた神皇正統記(じんのうしょうとうき)を著(あらわ)し、後世に大きな影響を与えました。
この他の歴史書としては、源平(げんぺい)以後の争乱の歴史を公家の立場からまとめた増鏡(ますかがみ)や、南北朝の動乱を足利氏(=北朝側)の立場から記した梅松論(ばいしょうろん)があります。軍記物語としては、後醍醐天皇の治世(ちせい)からの半世紀を力強く描(えが)いた太平記(たいへいき)がつくられ、これは後に台本(だいほん)として講釈(こうしゃく)された「太平記読み」という手段で広く人々に普及(ふきゅう)し、後世まで語り継がれました。
なお、増鏡は大鏡(おおかがみ)・今鏡(いまかがみ)・水鏡(みずかがみ)とあわせた、いわゆる「大今水増」(だいこんみずまし)の四鏡(しきょう)として、日本史のみならず古典の学習でも重要ですね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
「太平記」は有名ですね!
すみません。「大鏡」は存じませんでした(^^A
古典にも確かに通じますものね。
色々と勉強になります。ありがとうございます♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「太平記」は有名ですね!
> すみません。「大鏡」は存じませんでした(^^A
> 古典にも確かに通じますものね。
> 色々と勉強になります。ありがとうございます♪
大鏡は古典とも深くかかわってきますからね。
特に中学・高校生には「一粒で二度美味しい」学習をしていただければと思っていますよ(^^♪
黒田裕樹さん
風早 りら 太平記が作られた 過程が 初めて
理解出来ました
増鏡・大鏡・今鏡・水鏡
合わせて「大今水増」四鏡
勉強になりました
今日もありがとうございました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 太平記が作られた 過程が 初めて
> 理解出来ました
> 増鏡・大鏡・今鏡・水鏡
> 合わせて「大今水増」四鏡
> 勉強になりました
> 今日もありがとうございました
こちらこそお言葉有難うございます。
太平記も四鏡も重要な事項ですから、これを機会にご理解が深まれば幸いです。
室町文化の魅力
オバrev 室町文化って、現代に引き継がれているものが結構ありますよね。
武家・公家融合文化で、微妙なバランスの緊張感が魅力になっているような気がします。
北畠親房の神皇正統記は頭の片隅にありますが、内容は全く知りません(>_<)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 室町文化って、現代に引き継がれているものが結構ありますよね。
> 武家・公家融合文化で、微妙なバランスの緊張感が魅力になっているような気がします。
仰るとおり、文化の繁栄とは裏腹に緊張感が絶えない時代でもありましたからね。
絶妙なバランスがすぐれた文化を生み出す。当時の人々の生き生きとした姿が目に浮かぶようですね。
> 北畠親房の神皇正統記は頭の片隅にありますが、内容は全く知りません(>_<)
南朝の立場から我が国の歴史を皇室の立場を通じて振り返っていますが、後醍醐天皇に対しても是々非々で論じているところが大きな特徴ですね。
南北朝時代の頃までには、和歌における「五・七・五・七・七」の韻律(いんりつ)を基盤として、複数の作者が連作する形式でつくられた連歌(れんが)が武家や公家を問わず広く親しまれるようになりました。
連歌は、南北朝時代の公卿で摂政や関白を歴任した二条良基(にじょうよしもと)がまとめた莬玖波集(つくばしゅう)が、勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)に準ぜられたことで和歌と対等の地位を築(きず)くことになりました。
また、栄西(えいさい)によって広められたとされる喫茶(きっさ)の習慣が拡大したことで、南北朝時代の頃には茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊びである闘茶(とうちゃ)などの茶寄合(ちゃよりあい)が各地で行われるようになりましたが、これらの流行は南北朝時代の新興武士団たちの新しもの好きの精神に基づくものであり、彼らは派手や贅沢(ぜいたく)を意味する「バサラ」と呼ばれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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風早 りら 室町の
栄える歴史
教えたる
君の手ほどき
こよい 楽しき
下手でごめんなさいね
毎日の先生との会話 最高の楽しみです
素直な気持 よんでみました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 室町の
> 栄える歴史
> 教えたる
> 君の手ほどき
> こよい 楽しき
>
> 下手でごめんなさいね
> 毎日の先生との会話 最高の楽しみです
> 素直な気持 よんでみました
珠玉の御歌を有難うございます。
これからもますます手ほどきに磨きをかけなければいけませんね。
ぴーち こんばんは!
バサラと言えば、「戦国バサラ」というゲームを
思い出してしまいました(笑)
教養に乏しくて・・すみません^^;失礼しましたm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > バサラと言えば、「戦国バサラ」というゲームを
> 思い出してしまいました(笑)
> 教養に乏しくて・・すみません^^;失礼しましたm(__)m
戦国BASARAは文字どおり戦国時代のアクションゲームですね。
室町時代とは少し離れていますが、雰囲気は確かに似ています(^^♪
鎌倉時代に栄西によって武家社会の上層に広まった臨済宗(りんざいしゅう)は、夢窓疎石(むそうそせき)が初代将軍の足利尊氏の厚い保護を受けたことによって大いに栄え、義満の時代までに南宋(なんそう)の官寺制度(かんじせいど)に倣(なら)った五山・十刹の制(ござん・じっせつのせい)が完成しました。
具体的には、まず南禅寺(なんぜんじ)を別格として五山の上に置き、京都五山として天龍(てんりゅう)・相国(しょうこく)・建仁(けんにん)・東福(とうふく)・万寿(まんじゅ)の五寺が、鎌倉五山として建長(けんちょう)・円覚(えんがく)・寿福(じゅふく)・浄智(じょうち)・浄妙(じょうみょう)の五寺が置かれており、この格式は現代においても続いています。
なお、十刹とは五山に続く官寺であり、さらにその下には諸山(しょざん)と呼ばれる寺格(じかく)がありました。室町幕府は僧録(そうろく)を置いてこれらの官寺を管理するとともに、住職(じゅうしょく)の任免を行いました。
ちなみに、金閣は足利義満の死後に臨済宗の鹿苑寺(ろくおんじ)という寺院となり、第二次世界大戦後の昭和25(1950)年に放火で焼失しましたがその後再建され、平成6(1994)年には世界遺産として登録されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし 京都出身者の僕としては
金閣と言えば
他県から来た友人を
エスコートした際に
金閣の池の前あたりに
「金閣寺は通称で正式名称は鹿苑寺金閣(舎利殿)と言います」的な立て看板があったのが
記憶にあります。
(正確な看板の語彙は忘れました)
わざわざ、立て看板までして正式な名前を
流布しようとされてるのでしょうが、
なんとなくおかしみを感じました。
(大変失礼ながら)
あの、通称というか別称はやはり
三島由紀夫あたりの影響なのでしょうか?
「室町時代に建てられた金箔を押した京都の世界遺産の正式名称は?」なんて
なにやらクイズの引っ掛け問題とかに
使われてそうですね(笑)
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 私も「金閣寺」としか教えられていなかったですね(^^ゞ
仰るとおり、三島由紀夫の同名小説の影響が大きいのかもしれません。
最近の教科書では、そもそもが「北山殿」の山荘だったことや、「鹿苑寺」という正式名称がちゃんと紹介されていますね。クイズ問題は我々の世代の方が引っ掛かりそうです(爆)。
黒田裕樹さん
風早 りら 建長寺しか 行ったことがありません
アップした 時 コメント下さりありがとう
他の南禅寺始め 禅宗寺院の禅宗様とを折衷した
寺院行って 撮影してみたいです
鎌倉建長寺は 建築様式が 素晴らしく
その点でも 建築 大好きな 私には
興味のあるお話です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 建長寺しか 行ったことがありません
> アップした 時 コメント下さりありがとう
> 他の南禅寺始め 禅宗寺院の禅宗様とを折衷した
> 寺院行って 撮影してみたいです
> 鎌倉建長寺は 建築様式が 素晴らしく
> その点でも 建築 大好きな 私には
> 興味のあるお話です
建長寺の写真も素晴らしかったですよね。
京都五山も鎌倉五山も、それぞれが撮影意欲を高めてくれると思います。
紗那 鹿苑寺も問題ないし、金閣でも問題ないけど、金閣寺は正しくない。
そう習いました。
と思って、京都の道路案内板とかを気をつけてみようと思ってるんですが、行くたびに忘れてます←
やはり、こういうお寺とかの格式は、昔のものが今も続いてるわけですねー。
まぁ、そう簡単に変えれるものでもないでしょうし。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 鹿苑寺も問題ないし、金閣でも問題ないけど、金閣寺は正しくない。
> そう習いました。
> と思って、京都の道路案内板とかを気をつけてみようと思ってるんですが、行くたびに忘れてます←
金閣寺はあくまで通称であって、正式名称ではないですからね。もっとも、HPでは「金閣寺」と書いてありますが…。
おそらく通称の方が有名になってしまっているから、混乱を避けるためなのでしょうね。
道路案内板の表示は確かに注目すべきですね(笑)。
> やはり、こういうお寺とかの格式は、昔のものが今も続いてるわけですねー。
> まぁ、そう簡単に変えれるものでもないでしょうし。
私もそう思いますね。
室町時代にもなると、昔といってもそう年月も離れていないですし。
ぴーち こんばんは!
私は「鹿苑寺金閣」、今の今まで正式な名称だと思っていました^^;
上の方のお話の様に、三島由紀夫の影響を受けてしまっていたのかしら^^;
その場所を案内する看板は
よく参考にしています。
その地方に実際住んでいる方は、愛称とか
或いは方言などで正式な名称とは異なる
言い方をされる場合もあるんですよね。
私の住んでいる所でも、固有名詞ではないんですが、地名などで標識とは違う発音をする場所が
いつくもあります。
正式にはこういう発音で言うのだなということを看板で知る場合が多いです^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 小説などの影響は凄いですね。
幕末の新撰組の沖田総司(おきたそうじ)も、テレビ時代劇の俳優さんの名前の影響で、いつのまにか「おきたそうし」と濁らずに呼ばれるようになったということですし。
読み方や発音は確かに場所によって違いますね。
大阪でも「京橋」は関東と全く違うイントネーションだそうですよ(^^ゞ
また、宋からもたらされた、木の板(=木版、もくはん)に文章や絵を彫(ほ)って版をつくる木版技術(もくはんぎじゅつ)によって禅の経典や漢詩文集などが印刷され、これらは五山版(ござんばん)として広まりました。
その他、明兆(みんちょう)や如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)らの五山僧によって、墨(すみ)の濃淡(のうたん)で自然や人物を表現し、簡潔で力強い筆致(ひっち、筆づかいのこと)によって禅の精神を具体化した水墨画(すいぼくが)が広く伝えられました。
北山文化の頃の代表的な水墨画としては、現実にはとても不可能であるといえる、ぬめった皮膚(ひふ)のナマズを滑(なめ)らかなヒョウタンでいかに押さえるかという、いわゆる「ヒョウタンナマズ」の禅問答(ぜんもんどう)のテーマを如拙が描いた瓢鮎図(ひょうねんず)が有名です。
ちなみに禅問答、すなわち公案問答(こうあんもんどう)を繰(く)り返しながら悟(さと)りを開くのが臨済宗の大きな特色でしたね。こんなところにも歴史の流れがつながっているんですよ。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ ほんと、室町時代には色々な文化が成立してますね。
私が職としようとする、文学や絵画まで!
中学の頃は、水墨画の美しさに心打たれたものです。
私にとって、室町時代は戦国以外派手なイメージではなかったのですが。
ここまで色々な文化が盛んに興っていたということは、けっこう平和だったんですか?
サクラさんへ
黒田裕樹 > ほんと、室町時代には色々な文化が成立してますね。
> 私が職としようとする、文学や絵画まで!
> 中学の頃は、水墨画の美しさに心打たれたものです。
水墨画の美しさは独特ですからね。
いかにも我が国らしいと思えます。
> 私にとって、室町時代は戦国以外派手なイメージではなかったのですが。
> ここまで色々な文化が盛んに興っていたということは、けっこう平和だったんですか?
残念ながら、幕府の統治能力が弱かったためにあちらこちらで戦乱が起きていました。
いずれ詳しく話しますが、戦火を逃れて文化人が地方へと移動したことで、文化が全国に広まったという側面があるんですよね。
ぴーち こんばんは!
手前味噌ですが、^^;
中学の時に美術の時間に木版画を彫りましたら、
私の作品だけ何故か帰って来ないので、どうしたのかと先生に尋ねたら
「○○の作品は、中国へ贈ったんだよ』という事で驚いたことがありました!
中国との友好の証として、贈ったそうなんですが、今頃、私の木版画は中国のどの辺に
あるのかしら・・。でも本当に少しでも友好の証として一役買っているとしたら、嬉しいんですけれどね^^;
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 手前味噌ですが、^^;
> 中学の時に美術の時間に木版画を彫りましたら、
> 私の作品だけ何故か帰って来ないので、どうしたのかと先生に尋ねたら
> 「○○の作品は、中国へ贈ったんだよ』という事で驚いたことがありました!
> 中国との友好の証として、贈ったそうなんですが、今頃、私の木版画は中国のどの辺に
> あるのかしら・・。でも本当に少しでも友好の証として一役買っているとしたら、嬉しいんですけれどね^^;
そんなことがあったんですか!
優れた芸術作品に国境は関係ないですからね。
素晴らしいエピソードを有難うございます(^_^)v
能の発達は、やがて寺社の保護を受けて専門的に能を演じる能楽師(のうがくし)を生み出し、興福寺(こうふくじ)などを本所とした観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう)の大和猿楽四座(やまとさるがくしざ)を中心として、能は各地で盛(さか)んに興行(こうぎょう)されるようになりました。
このうち、観世座の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子は将軍足利義満の厚い保護を受けたことで、洗練された芸の美を追求した気品あふれる猿楽能(さるがくのう)をつくり上げ、能の脚本である謡曲(ようきょく)を数多く残しました。
また、世阿弥は能楽の芸術論であり、能の真髄(しんずい)を述べた風姿花伝(ふうしかでん、別名を花伝書=かでんしょ)を著(あらわ)しています。




いつも有難うございます。
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風早 りら 足利義満の能に対する 貢献度は
大きかったのですね
日本の素晴らしい 文化
能の発展は この時代だったのですね
日本 独自の 文化
とても 興味があります
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 足利義満の能に対する 貢献度は
> 大きかったのですね
> 日本の素晴らしい 文化
> 能の発展は この時代だったのですね
> 日本 独自の 文化
> とても 興味があります
能の発展は、パトロンたる義満の存在なくして有り得ませんでした。
為政者が文化に与える影響はやはり大きいですね。
初めまして
Me 足跡から参りました。
ご訪問有難うございます。
古来より受継がれている芸能・工芸に
関心がありますので
楽しく拝見させて頂きました。
また伺わせて頂きます。
Meさんへ
黒田裕樹 > 足跡から参りました。
> ご訪問有難うございます。
こちらこそご訪問並びにお言葉有難うございます。
> 古来より受継がれている芸能・工芸に
> 関心がありますので
> 楽しく拝見させて頂きました。
> また伺わせて頂きます。
室町文化には現代の伝統文化に通じるものも多いですからね。
文化史についてはもうしばらく続きますので、今後ともよろしくお願いいたします。
コメントをありがとうございますっ
桑猫 訪問ありがとうございまするっ
そして返信が遅れてしまい、
本当に申し訳ないですっ・・・
某は歴史がとても好きで、
黒田殿の歴史のブログは
とても勉強になりましたっ・・
これからも度々覗かせて頂くことを
お許しください。
桑猫殿へ
黒田裕樹 > 訪問ありがとうございまするっ
> そして返信が遅れてしまい、
> 本当に申し訳ないですっ・・・
いえいえ、コメントを頂けて嬉しく思いまする(笑)。
> 某は歴史がとても好きで、
> 黒田殿の歴史のブログは
> とても勉強になりましたっ・・
> これからも度々覗かせて頂くことを
> お許しください。
お役に立てて良かったです。
これからもぜひお越し下さい(^_^)v
ぴーち こんばんは!
能の舞台を鑑賞した経験は生まれてこの方2回ほどありますが、あの舞台も独特な世界感がありますよね。
観世流と言うのは、お能だったんですね。
日本の雅楽なども再び見直されてくることを願いたいですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 能の舞台を鑑賞した経験は生まれてこの方2回ほどありますが、あの舞台も独特な世界感がありますよね。
> 観世流と言うのは、お能だったんですね。
> 日本の雅楽なども再び見直されてくることを願いたいですね^^
ご覧になられたことがあるんですか。私は残念ながらないんですよ。
古き良き伝統文化ですから、見直されてほしいと私も思います。
現在は慈照寺(じしょうじ)として知られる銀閣は、書院造(しょいんづくり)と禅宗様の仏殿(ぶつでん)から成り立つこの時期の文化を象徴する建築であることから、この時代の文化は東山文化(ひがしやまぶんか)と呼ばれています。
銀閣の下層や東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)に見られる書院造はそれまでの寝殿造を母体として、畳(たたみ)をしいた部屋の境(さかい)を襖障子(ふすましょうじ)で仕切り、床間(とこのま)や違棚(ちがいだな)、あるいは付書院(つけしょいん)などを設(もう)けて、明障子(あかりしょうじ)を用いるなどの特徴があり、近代の和風住宅の原型となりました。
また、この頃には造園の方式も発達して、竜安寺(りょうあんじ)や大徳寺大仙院(だいとくじだいせんいん)などの庭園における、岩石や砂利(じゃり)を組み合わせて象徴的な自然をつくり出した枯山水(かれさんすい)が有名です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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サクラ 銀閣ですか!
慈照寺は今年の夏、初めての一人旅で行きました。
プラモデルのような金閣とは対照的で、その風情にとても感動したものです。
まさに四百年以上前の空気が詰められている感じでした。
しかし、さすがに中を見学するってことは出来なかったですね。
あと、明治憲法の記事を拝見させていただきました。
「議会が決めた事を陛下が認めるという制度だったが、認めないなんてことはなかったんだろうな」
というのが今までの認識だったんですが――実際はもっと形式的だったんですね。
「統治」という言葉の意味を知れば、実際には今と陛下の立ち位置は変わらないですね。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 銀閣ですか!
> 慈照寺は今年の夏、初めての一人旅で行きました。
> プラモデルのような金閣とは対照的で、その風情にとても感動したものです。
> まさに四百年以上前の空気が詰められている感じでした。
> しかし、さすがに中を見学するってことは出来なかったですね。
銀閣は創建時の姿そのままですし、金閣と違って銀(?)の箔も押していませんから、当時の風情がそのまましのばれるような雰囲気がありますよね。
国宝ですから、さすがに簡単には中に入れないというわけですね。
> あと、明治憲法の記事を拝見させていただきました。
> 「議会が決めた事を陛下が認めるという制度だったが、認めないなんてことはなかったんだろうな」
> というのが今までの認識だったんですが――実際はもっと形式的だったんですね。
> 「統治」という言葉の意味を知れば、実際には今と陛下の立ち位置は変わらないですね。
仰るとおりです。
「戦前の日本は何でも一方的で、国民が虐げられていた」という正しいとは言えない価値観がそのまま教えられている現状では、明治憲法の真の姿はなかなか理解できそうもなく、残念に思います。
ぴーち こんばんは!
私も一度だけ・・
はるか昔の話ですがw
「銀閣寺」を目の当たりにした事があります。
でも既にどんな外観だったのか、記憶が随分と薄れてしまっていますね^^;(金閣寺から比べると、随分地味な印象だけが残っています)
ただ、何処かのお寺の庭の
「枯山水」の様子だけは、今でもはっきりと覚えています。
イギリスなどの庭園も素敵ですが、
日本の庭づくりのセンスは世界に誇れる美しさですね!
応援凸
:黒田裕樹さん
風早 りら 東山文化の素晴らしさ 伝わる 今回のアップ
床間や違棚も東山文化からだったのですね
造園の枯山水も同じなのですね
素敵な日本の文化 発信だったんですね
素敵な事ですよね
それを 教えて下さる 先生のセンス感じます
オバrev 京都へは何度か行っていますが、慈照寺銀閣は渋いと言うか味がありますね。まさにわび・さびの世界ですね。
それに竜安寺石庭の枯山水なんて西洋人には理解できないでしょう。日本人ならではの感性だと思います。
ところで尖閣諸島をめぐる日中の応酬ですが、日清戦争もこういうのがエスカレートして戦争に突き進んだんですかね。
しかし当時の日清の軍事力を考えると、今よりもっと差があったんじゃないでしょうか。よくぞ踏み切ったというか、情報収集をしていて勝算を見つけたんでしょうね。
そういう情報収集が今の民主党にはできてないように思います。首相は官房長官に帰国までにカタを付けろと言い、官房長官は法務大臣を脅し、法務大臣は検察に圧力をかけ、検察トップの検事総長が那覇地検に命令したんでしょう。現場の検察官は地団駄踏んで悔しがったらしいです。
どこかで誰かストップをかけることはできなかったんだろうか orz
タカシ☆TZR いつも楽しく拝見してます.
龍安寺方丈庭園の作庭時期については諸説ありますね.室町時代は寺院の方丈の南側は儀式のため庭園をつくらないことになっていたので,金地院崇伝以後の方丈南側につくるようになってからというのがもっともらしいと自分は思っています.石の表情など江戸初期の庭園にしてはあまりに異質ではありますが.伏石や平石ばかりで石がしっかり据えられていないようなので,エラい人がきたときには片付けていた…という話も聞いたことがあり,これも面白いのですが,どっちにしろ現在のように落ち着いたのは近世になってからではないでしょうか.
慈照寺東求堂は大好きな建築の一つです.垂木って普通は柾目が下になるようにするのですが(そのほうが構造的に強い),東求堂は下面杢で杢目が見えるようになっているんです.杢目を愛でるようになったのがこの時代なのかどうかはよくわかりませんが,東山文化の時代であればもっともらしい気がします.
大仙院の龍門瀑もいいですね.
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私も一度だけ・・
> はるか昔の話ですがw
> 「銀閣寺」を目の当たりにした事があります。
> でも既にどんな外観だったのか、記憶が随分と薄れてしまっていますね^^;(金閣寺から比べると、随分地味な印象だけが残っています)
そうなんですね。
銀閣は、銀箔を押していない分、確かに地味な印象がありますので、記憶に残りにくいかもしれませんね。
ただ、その分当時の「わびさび」がダイレクトに伝わってくるような感じが素晴らしくもあります。
> ただ、何処かのお寺の庭の
> 「枯山水」の様子だけは、今でもはっきりと覚えています。
> イギリスなどの庭園も素敵ですが、
> 日本の庭づくりのセンスは世界に誇れる美しさですね!
私もそう思います。
枯山水の芸術は、他国には真似できないと思いますよ(^^♪
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 東山文化の素晴らしさ 伝わる 今回のアップ
> 床間や違棚も東山文化からだったのですね
> 造園の枯山水も同じなのですね
> 素敵な日本の文化 発信だったんですね
> 素敵な事ですよね
> それを 教えて下さる 先生のセンス感じます
有難うございます。
現代に通じる素敵な文化は、仰るように東山文化から発信されていることが多いです。
文化史を伝えるのは一苦労ですが、りらさんのお言葉が励みになります。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 京都へは何度か行っていますが、慈照寺銀閣は渋いと言うか味がありますね。まさにわび・さびの世界ですね。
> それに竜安寺石庭の枯山水なんて西洋人には理解できないでしょう。日本人ならではの感性だと思います。
日本人の「わびさび」や枯山水に見られる完成は独特ですからね。
「もののあわれ」を愛でる日本人の一面は、仰るように他国には理解できないと思われます。
> ところで尖閣諸島をめぐる日中の応酬ですが、日清戦争もこういうのがエスカレートして戦争に突き進んだんですかね。
> しかし当時の日清の軍事力を考えると、今よりもっと差があったんじゃないでしょうか。よくぞ踏み切ったというか、情報収集をしていて勝算を見つけたんでしょうね。
> そういう情報収集が今の民主党にはできてないように思います。首相は官房長官に帰国までにカタを付けろと言い、官房長官は法務大臣を脅し、法務大臣は検察に圧力をかけ、検察トップの検事総長が那覇地検に命令したんでしょう。現場の検察官は地団駄踏んで悔しがったらしいです。
> どこかで誰かストップをかけることはできなかったんだろうか orz
ストップをかけられるような政治的判断ができるような人材は、現政権には皆無だったという証明になっていますね。
地団太踏んで悔しがっているのは、多くのサイレントマジョリティーも同じだと思いますよ。
かつての長崎事件のように、中国は日本の虎の尾を踏んだ。そう思わせるような展開に持ち込みたいですね。
ピンチはチャンスでもありますから。
タカシ☆TZRさんへ
黒田裕樹 ご丁寧なお言葉有難うございます。
庭園や寺院には歴史がありますから、仰るとおり後世に何らかの手が加えられている可能性は十分にあると思います。
ただ、建築当時の風情はそのままに守られているような気もしますね。いずれにせよ、我が国の歴史を象徴するかけがえのない文化だと感じております。
絵画では、北山文化で発達した水墨画が、この頃に現れた雪舟(せっしゅう)が日本的な水墨画様式を創造して全盛期を迎えました。また大和絵(やまとえ)では応仁の乱後に土佐光信(とさみつのぶ)が出て土佐派を再興し、また狩野正信(かのうまさのぶ)・元信(もとのぶ)父子が水墨画と大和絵とを巧(たく)みに融合(ゆうごう)して新しく狩野派を興(おこ)しました。
雪舟の代表的な作品には秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)がありますが、子供の頃に叱(しか)られて流した涙でネズミの絵を描いたという伝説の方が知られているかもしれませんね(笑)。また、京都の大徳寺大仙院花鳥図(だいとくじだいせんいんかちょうず)は、狩野元信の作と伝えられています。
彫刻では仏像彫刻が衰(おとろ)える一方で、能の隆盛につれて能面(のうめん)の製作が発展し、工芸では金工(きんこう、金属に細工をする工芸のこと)の後藤祐乗(ごとうゆうじょう)が名作を残したほか、漆工(しっこう、うるし細工のこと)の技術が進んだことで精巧(せいこう)な蒔絵(まきえ)もつくられるようになりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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風早 りら 雪舟の水墨画
能面の制作の発展
蒔絵
この時代は 日本の文化 華やかでしたね
現代より むしろ 素敵だったような気がします
その 文化 大事にする 義務がありますよね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 雪舟の水墨画
> 能面の制作の発展
> 蒔絵
> この時代は 日本の文化 華やかでしたね
> 現代より むしろ 素敵だったような気がします
> その 文化 大事にする 義務がありますよね
仰るとおり、長い年月をかけて花咲かせた伝統文化ですから、これからも続けたいものですね。
私たちは次世代にバトンをつなぐ重大な義務を背負っています。
ぴーち こんばんは!
雪舟のねずみの話は存じておりました~!
知り合いに(日光彫という彫り物の表面に塗装)漆塗の職人さんがいらっしゃるんですが、
ダンプの運転手をされていたんですが事故で両足を失ってしまい、その後、漆職人の技術を習得する為に、まずは被れを克服する為に漆を食したそうですが、体の中の痒みに相当苦労した話を伺った事がありました。。
しかし、漆塗は渋いながらも高級感溢れる艶感が
美しいですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 雪舟のねずみの話は存じておりました~!
有名な伝説ですからね。聖徳太子とか、偉人には何らかの伝説があるものです。
> 知り合いに(日光彫という彫り物の表面に塗装)漆塗の職人さんがいらっしゃるんですが、
> ダンプの運転手をされていたんですが事故で両足を失ってしまい、その後、漆職人の技術を習得する為に、まずは被れを克服する為に漆を食したそうですが、体の中の痒みに相当苦労した話を伺った事がありました。。
> しかし、漆塗は渋いながらも高級感溢れる艶感が
> 美しいですね。
そのようなエピソードがあるのですか…。
職人の方々の、まさに身体を張った修業が素晴らしい芸術を支えているのですね。
お話有難うございます。
茶の湯では奈良の村田珠光(むらたじゅこう)が質素な茶室で心の平静を求めるという、茶と禅による精神の統一を主張した侘茶(わびちゃ)を始めました。この後、侘茶は堺の武野紹鴎(たけのじょうおう)が発展させ、千利休(せんのりきゅう)によって完成されることになります。
また、生花も座敷の床の間を飾る立花(たてはな)形式が定着したことで、飾られた花そのものを鑑賞するかたちがつくられていきました。立花の名手としては小野妹子(おののいもこ)の末裔(まつえい)とされる池坊専慶(いけのぼうせんけい)が知られており、現代の華道の家元(いえもと)である池坊につながっています。
一方、この頃の公家の間では、政治や経済面での実権を失ったことで伝統的な文化の担(にな)い手として有職故実(ゆうそくこじつ)の学問や古典の研究に力を入れるようになり、一条兼良(いちじょうかねよし、または「かねら」)らが樵談治要(しょうだんちよう)など多くの研究書や注釈書(ちゅうしゃくしょ)を残しました。
また、京都の吉田神社(よしだじんじゃ)の吉田兼倶(よしだかねとも)は、仏が神の化身(けしん)としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ、別名を反本地垂迹説=はんほんじすいじゃくせつ)を主張して、神道(しんとう)を中心に儒学(じゅがく)や仏教を統合しようとする唯一神道(ゆいいつしんとう、別名を吉田神道=よしだしんとう)を始めました。




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サクラ 伯母がお茶好きで、実家にいた頃はよくお茶会をしていました。
文化の寿命って長いですね。
それにしても、儒教も神道もチャンポンですか!
日本が何でもありがたがる国だとは知っていましたが、全てを一つにしようとは――。
まあこれは極端な例として、明治期にある程度の整備がなかったら、スゴイことになっていたかもしれませんね。
カクレキリシタンの聖書なんか読むと、不思議な土着信仰になっていますし。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 伯母がお茶好きで、実家にいた頃はよくお茶会をしていました。
> 文化の寿命って長いですね。
私もそう思います。
良きものは長続きするということなのでしょうか。
> それにしても、儒教も神道もチャンポンですか!
> 日本が何でもありがたがる国だとは知っていましたが、全てを一つにしようとは――。
> まあこれは極端な例として、明治期にある程度の整備がなかったら、スゴイことになっていたかもしれませんね。
> カクレキリシタンの聖書なんか読むと、不思議な土着信仰になっていますし。
我が国はもともと多神教ですから、すべてを飲み込んで独自のものをつくりあげることに長(た)けている傾向があります。
全く別物の「仏」と「神」を主従を問わず一緒にするのも当然のように受け入れられていますからね。
仰るような隠れキリシタンも、年月が経つにつれて変化していますから、儒学を混成するのも問題なかったのかもしれません。
ぴーち こんにちは!
「侘茶」ですか・・
黒田さんがここでこういうお話をされると、
どこぞのお茶メーカーさんが、今度復刻版「侘茶」
という名のお茶を売ろう!なんて話が登場してしまったりして^^
丁度、現代も精神や心の静寂を求める時代ですからね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「侘茶」ですか・・
> 黒田さんがここでこういうお話をされると、
> どこぞのお茶メーカーさんが、今度復刻版「侘茶」
> という名のお茶を売ろう!なんて話が登場してしまったりして^^
> 丁度、現代も精神や心の静寂を求める時代ですからね^^;
なるほど、確かに売り時かも(笑)。
どこでヒット商品が出るか分からない世の中ですからね(^^ゞ
それはともかく(爆)、当時の「わびさび」の精神を日本人として大事にしたいものです。
風早 りら 茶道
花道
日本が世界に誇れる文化です
床の間を飾る立花が確立したのも
この頃なのですね
仏が神の化身としてこの世に現れたとする神本仏迹説
かなり乱暴な考えのような気がします
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 茶道
> 花道
> 日本が世界に誇れる文化です
> 床の間を飾る立花が確立したのも
> この頃なのですね
そのとおりです。
現代につながる我が国の文化がどんどん形成されていきますね。
> 仏が神の化身としてこの世に現れたとする神本仏迹説
> かなり乱暴な考えのような気がします
そのお考え、ごもっともと思われます。
我が国では、いわば異国からの伝来である仏教をどのように受け入れるかについて葛藤がありました。
そのうえで、長い年月をかけて仏と神とを一体とすることで我が国の風土になじむようにしたのです。
ただ、仏が主か、神が主かとの違いはあるようですね。
オバrev 室町文化って、現代にそのま引き継がれていますね。
もしタイムマシンで室町時代にいっても、あまり違和感ないかも?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 室町文化って、現代にそのま引き継がれていますね。
> もしタイムマシンで室町時代にいっても、あまり違和感ないかも?
なるほど、そういうお考えもありますね。
文化面はもちろん、現代の政治のグダグダぶりが仙谷、いや戦国時代前夜のような雰囲気をかもし出しているあたりが、さらに違和感をなくしているかもしれません(´Д`)
みーこ えっと、記事に関係ないことで
申し訳ないんですが><
コメントありがとうございました^^
私、ほんと社会はだめで;;
このブログ見て
めっちゃ頑張っちゃいます^^!
みーこさんへ
黒田裕樹 > えっと、記事に関係ないことで
> 申し訳ないんですが><
> コメントありがとうございました^^
> 私、ほんと社会はだめで;;
> このブログ見て
> めっちゃ頑張っちゃいます^^!
ようこそ当ブログへ!(^^♪
お言葉に記事との関連性は問いませんから、どんどんコメントして下さい(^_^)v
苦手な科目を克服しようという姿勢は大切ですよ!
当ブログがみーこさんのお力になれれば幸いです(^o^)/
これからもよろしくお願いしますねm(_ _)m
当初は将軍足利義満の保護を受けるなど、いわゆる上流社会に愛好された能も、時が経(た)つにつれてより素朴(そぼく)で娯楽性(ごらくせい)が強いものが各地の祭礼ななどで演じられるようになりました。
能の合間(あいま)に演じられた狂言(きょうげん)は、当時の大名から庶民に至るまで幅(はば)広い層の生活を題材として、科白(せりふ)も日常の会話が取り入れられたことで、庶民に大いにもてはやされました。
ちなみに狂言を職業的に演ずる人々を狂言師(きょうげんし)といいますが、現代では野村萬斎(のむらまんさい)さんが有名ですね。
なお、この時代に庶民に愛好された芸能としては、この他に幸若舞(こうわかまい)や古浄瑠璃(こじょうるり)・小歌(こうた)などがあり、小歌の歌詞を集録した閑吟集(かんぎんしゅう)が知られています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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風早 りら 能や狂言が 庶民に 愛されるように
なっていく それが今の時代の
伝統芸能として 生きています
この頃の 狂言師は
凄い スターだったんでしょうね
娯楽が限られた時代です
文化は歴史なしには 語れませんね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 能や狂言が 庶民に 愛されるように
> なっていく それが今の時代の
> 伝統芸能として 生きています
> この頃の 狂言師は
> 凄い スターだったんでしょうね
> 娯楽が限られた時代です
> 文化は歴史なしには 語れませんね
仰るとおり、現代のように娯楽に無数の種類がある時代ではありませんから、民衆はこぞって狂言に夢中になったと考えられます。
だからこそ伝統芸能として残されたのだと言えますね。
ぴーち こんばんは!
野村萬斎さん。昔、N○K教育テレビのある番組で
レギュラー出演されていましたが、子供がまだ小さいうちは、よく観ていました♪
「ややこしや~♪」やら、
同じ狂言師の和泉元秀氏のCMのくしゃみを「くっさめ」なんていう表現が面白くて、子供が興味深く聞いていました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 野村萬斎さん。昔、N○K教育テレビのある番組で
> レギュラー出演されていましたが、子供がまだ小さいうちは、よく観ていました♪
> 「ややこしや~♪」やら、
> 同じ狂言師の和泉元秀氏のCMのくしゃみを「くっさめ」なんていう表現が面白くて、子供が興味深く聞いていました^^
狂言師独特の節(ふし)ですね。
現代においても狂言師が活躍できる我が国の環境も素晴らしいと思います。
連歌は、これを職業とする連歌師(れんがし)によって各地の武士や庶民に広められましたが、時が経つにつれて新鮮さが失われ、形式化していきました。これに対し、山崎宗鑑(やまざきそうかん)はより自由で俗っぽい気風を持つ俳諧連歌(はいかいれんが)をつくり出し、犬筑波集(いぬつくばしゅう)を編集しました。
また、この頃までに絵の入った短編の物語である御伽草子(おとぎそうし)が成立して、一寸法師(いっすんぼうし)や浦島太郎(うらしまたろう)など、後世(こうせい)にまで愛された庶民の様々な夢や教訓が語られました。
この他にも、民衆の芸能として華(はな)やかな姿で踊(おど)る風流(ふうりゅう)が祭礼(さいれい)や正月・盆(ぼん)などに行われていましたが、この風流がやがて念仏踊(ねんぶつおど)りと結びついて、盆踊(ぼんおど)りとして定着していきました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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Kei たぶんだいぶ前に書かれた記事だとは思いますが、今日は、第1回歴史講座の10回ぶんを読ませていただきました。おもしろくって次まで読もうと思ったのですが、時間がなくなってしまったので、また、明日、第2回を読みに来ます。
とてもおもしろかったです。ありがとうございます。Kei
サクラ 連歌といえば、今ではあまり馴染みありませんよね。
私も読んだ事があるような気はするんですが、一つとして印象に残ってません。
というか、勅撰があったんですか――。
『御伽草子』なんかも、この時代ですよね。
『ものぐさ太郎』なんか読んでると、ニートの物語ですから、今も昔も変わりないんだと思います。
そういった変わらないところや心を掴んだのが、『一寸法師』や『浦島太郎』などのロングセラーなんですね。
Keiさんへ
黒田裕樹 > たぶんだいぶ前に書かれた記事だとは思いますが、今日は、第1回歴史講座の10回ぶんを読ませていただきました。おもしろくって次まで読もうと思ったのですが、時間がなくなってしまったので、また、明日、第2回を読みに来ます。
> とてもおもしろかったです。ありがとうございます。Kei
こちらこそ、昔の講座をご覧下さって有難うございます。
次回で19回になります歴史講座は、時代を超えた数々の内容がそろっておりますので、お楽しみいただければ幸いです。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 連歌といえば、今ではあまり馴染みありませんよね。
> 私も読んだ事があるような気はするんですが、一つとして印象に残ってません。
> というか、勅撰があったんですか――。
確かに、連歌は現代では勢いを失っているというべきかもしれません。もっとも。連歌の発句が独立して俳句になっていますので、歴史そのものはつながっているわけですが。
> 『御伽草子』なんかも、この時代ですよね。
> 『ものぐさ太郎』なんか読んでると、ニートの物語ですから、今も昔も変わりないんだと思います。
> そういった変わらないところや心を掴んだのが、『一寸法師』や『浦島太郎』などのロングセラーなんですね。
確かに「ものぐさ太郎」はニートそのまんまですね(笑)。
人の心は移ろいやすいとはいえ、根っこはそのままですからね。ロングセラーになるのもうなづけます。
黒田裕樹さん
風早 りら 御伽草子の一寸法師 浦島太郎
心 踊らせて読んだ 幼い頃思いだしました
念仏踊とそれまでの民衆の踊りが
結びついて盆踊となったのですか
今は 参加する事もありませんが
子供の頃は浴衣をきせてもらうのが
嬉しかったです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 御伽草子の一寸法師 浦島太郎
> 心 踊らせて読んだ 幼い頃思いだしました
幼心にものすごく印象に残る物語ですよね。
今も昔も良いものは素晴らしいです。
> 念仏踊とそれまでの民衆の踊りが
> 結びついて盆踊となったのですか
> 今は 参加する事もありませんが
> 子供の頃は浴衣をきせてもらうのが
> 嬉しかったです
ありましたねぇ。
浴衣を着ると、本当に日本人なんだなぁと嬉しく思ったものです。
オバrev 室町文化は現代と繋がっている、しかも庶民文化が台頭してきたという感じがします。
連歌?あまり聞かないですが、有名な連歌ってどんなものがあるんですしょうか?
俳諧連歌から俳句に繋がっているとなると、見事に現代繋がっていますね。
俳句とも近い川柳となると室町以降でしょうか?
質問ばかりですけど、よろしく(^∧^)、オ、ネ、ガ、イ
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 室町文化は現代と繋がっている、しかも庶民文化が台頭してきたという感じがします。
そのとおりです。室町文化の頃になって、ようやく文化が庶民全体に広がりだしたといえるでしょう。
> 連歌?あまり聞かないですが、有名な連歌ってどんなものがあるんですしょうか?
これは私もよく分かりません。水無瀬三吟百韻の連歌は有名らしいのですが…。
> 俳諧連歌から俳句に繋がっているとなると、見事に現代繋がっていますね。
> 俳句とも近い川柳となると室町以降でしょうか?
川柳は江戸時代の柄井川柳(からいせんりゅう)がルーツとされていますね。
> 質問ばかりですけど、よろしく(^∧^)、オ、ネ、ガ、イ
もちろんかまいませんよ(^^♪
もし分からない時は、今回のように正直に答えますm(_ _)m
ぴーち こんばんは!
念仏踊りが、盆踊りのルーツでしたか
それは存じませんでした^^;
確かにご先祖を供養すると言う意味合いで
踊っている様には感じていました。
今日は先ほど帰宅したばかりなので、
お返事はまた明日させてくださいね^^
いつも本当にありがとうございますm(__)mそれでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 念仏踊りが、盆踊りのルーツでしたか
> それは存じませんでした^^;
> 確かにご先祖を供養すると言う意味合いで
> 踊っている様には感じていました。
仰るとおり、盆踊りには先祖供養という意味も込められていると考えられますね。
単なる踊りではなく、伝統が感じられます(^^♪
> 今日は先ほど帰宅したばかりなので、
> お返事はまた明日させてくださいね^^
> いつも本当にありがとうございますm(__)m
いえいえ、こちらこそ返信が遅れてすみませんm(_ _)m
明日もまたよろしくお願いします。
このうち有名なのは日明貿易で莫大(ばくだい)な利益を上げていた周防(すおう、現在の山口県東部)の大内氏(おおうちし)であり、本拠地(ほんきょち)の山口(やまぐち)では儒学(じゅがく)や和歌などの古典の講義が行われたり、書籍の出版がなされたりするなど、さながら京都の文化がそのまま移動してきたかのような繁栄(はんえい)ぶりとなりました。
その他にも、九州では五山の僧である桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)が肥後(ひご、現在の熊本県)の菊池氏(きくちし)や薩摩(さつま、現在の鹿児島県西部)の島津氏(しまづし)に招(まね)かれて朱子学(しゅしがく)の講義を行い、後の薩南学派(さつなんがくは)の基礎となりました。
また、関東では15世紀中頃に関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲実(うえすぎのりざね)によって足利学校(あしかががっこう)が再興され、全国から多くの禅僧や武士などの学徒を集めて高度な教育が施(ほどこ)されたり、多数の書籍の収集が行われたりしました。
一方、この頃までに地方の武士の子弟を寺院に預けて教育を受けさせる習慣ができており、鎌倉時代の武家法(ぶけほう)である御成敗式目(ごせいばいしきもく)や、生活全般の心得が記された庭訓往来(ていきんおうらい)などが教科書として用いられました。こうした教育への関心は庶民の間でも高くなり、読み・書き・計算を学ぶとともに辞書である節用集(せつようしゅう)も刊行(かんこう)されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル この時代は私も好きです。多くの日本昔話は、江戸時代でも平安時代でもなく、この室町時代が舞台と思っています。
ところで、烏帽子を被らなくなった時期はいつ頃だと思いますか? 時代劇によって解釈がかなり違います。
平安時代では露頂は恥ずかしいもので、鎌倉時代や室町時代前期もその習慣が引き継がれたはずです。
急に変わった時期が応仁から永祿の間にあったと思うのですが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > この時代は私も好きです。多くの日本昔話は、江戸時代でも平安時代でもなく、この室町時代が舞台と思っています。
そうですね。室町時代の方が昔話としてはしっくりくるような気がします。
> ところで、烏帽子を被らなくなった時期はいつ頃だと思いますか? 時代劇によって解釈がかなり違います。
> 平安時代では露頂は恥ずかしいもので、鎌倉時代や室町時代前期もその習慣が引き継がれたはずです。
> 急に変わった時期が応仁から永祿の間にあったと思うのですが。
諸説あるようですが、個人的には戦国時代あたりからかぶらなくなったのではと思います。
機能性が重視された時代でもありましたし。
黒田裕樹さん
風早 りら 京都の文化が日本中に広まる 機会は
応仁の乱からだったんですね
まさしく 災い転じて福となす ですね
この時代は山口県が文化が最も繁栄していたのですね
文化の発展には 色々な 事が関係しているのですね
今日も興味深く 拝見しました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 京都の文化が日本中に広まる 機会は
> 応仁の乱からだったんですね
> まさしく 災い転じて福となす ですね
京都の荒廃は皇室などに大きな影響を与えましたが、その一方で文化が全国に拡大する遠因となりましたから、仰るとおり禍福はあざなえる縄のごとしですね。
> この時代は山口県が文化が最も繁栄していたのですね
> 文化の発展には 色々な 事が関係しているのですね
> 今日も興味深く 拝見しました
有難うございます。
大内家は日明貿易で莫大な利益を上げていましたから、当時はまさに首都をしのぐ勢いがあったといわれています。
一人の大名の興亡が、文化の発展にも大きくかかわっていますね。
ぴーち こんばんは!
そうなんですよね。
本県は「足利学校」という日本で一番最初に
開校された由緒正しき学校が存在していたというのに、今の本県の教育水準は関東一低くなってしまっているという不名誉極まる事実が(TT)
秋田県辺り(山形でしたっけ?)の教育方針を見習って、原点に立ち返り、先生が絶対生徒の成績を上げてみせるぞ!という意気込みで取り組んでいっていただきたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうなんですよね。
> 本県は「足利学校」という日本で一番最初に
> 開校された由緒正しき学校が存在していたというのに、今の本県の教育水準は関東一低くなってしまっているという不名誉極まる事実が(TT)
> 秋田県辺り(山形でしたっけ?)の教育方針を見習って、原点に立ち返り、先生が絶対生徒の成績を上げてみせるぞ!という意気込みで取り組んでいっていただきたいものです。
大阪も適塾などがあって水準が高かったはずなのですが…(´・ω・`)
仰るとおり、生徒たちのみならず、先生方の「やる気」も必須ですよね。
私も頑張らないと(`・ω・´)
黒田先生、お久しぶり!
清家淳子 黒田先生、私この度NHKのBS放送で熱中スタジアムっていう番組に出演します(`∇´ゞ
2週わたって出ます( ̄∀ ̄)
29日の22時からなので見てくださいね
清家淳子さんへ
黒田裕樹 > 黒田先生、私この度NHKのBS放送で熱中スタジアムっていう番組に出演します(`∇´ゞ
> 2週わたって出ます( ̄∀ ̄)
> 29日の22時からなので見てくださいね
お久しぶりです(^o^)/
BSですか…。あいにく私の家ではBSが見れませんので、友人に録画を頼んでおきます(^^♪
管理人のみ閲覧できます
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これに対して、より自由な活動を求めて地方への布教(ふきょう)を目指した禅宗諸派(ぜんしゅうしょは)が、地方の武士や庶民の支持を受けて各地に広がっていきました。
禅宗諸派は叢林(そうりん)と呼ばれた五山に対して林下(りんか)と称(しょう)され、京都の臨済宗の寺院である大徳寺(だいとくじ)や妙心寺(みょうしんじ)が、地方では曹洞宗(そうとうしゅう)の永平寺(えいへいじ)や総持寺(そうじじ)が有名です。
ところで、皆さんは「とんち」で有名な一休(いっきゅう)さんをご存知ですか?
一休さんの本名は一休宗純(いっきゅうそうじゅん)ですが、実は大徳寺の住職(じゅうしょく)にまで出世した高僧(こうそう)なんですよ。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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サクラ この時代は戦乱などの影響で、帝都の文化が地方に広まっていった時代なんですね。
受け入れる側も、しっかりとした政権ができていなければ、文化が根付かなかったと思います。
あれ? 一休さんはそんなところまで出世していたんですか。
何れにしろ、全てを捨てましたよね。
サクラさんへ
黒田裕樹 > この時代は戦乱などの影響で、帝都の文化が地方に広まっていった時代なんですね。
> 受け入れる側も、しっかりとした政権ができていなければ、文化が根付かなかったと思います。
仰るとおりですね。
戦乱の中であっても、領地をしっかりと守れる戦国大名のもとではそれなりに平和が保たれましたからね。
> あれ? 一休さんはそんなところまで出世していたんですか。
> 何れにしろ、全てを捨てましたよね。
大徳寺の住職にはなったものの、晩年の住処(すみか)となった酬恩庵(しゅうおんあん)からは動きませんでしたからね。一休さんの伝説には色々あって興味深いです。
ぴーち こんばんは!
叢林なんて今では余り使わない言葉だと思うのですが、そうでもないでしょうか?
一休さんは、いろんな説があるんですね。
それでも、5歳の天才。二十歳の鈍才ではないところがすごい方だったんでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 叢林なんて今では余り使わない言葉だと思うのですが、そうでもないでしょうか?
確かに今では滅多に使いませんね。
林下の方は今でも耳にすることがありますが…。
> 一休さんは、いろんな説があるんですね。
> それでも、5歳の天才。二十歳の鈍才ではないところがすごい方だったんでしょうね。
天才はいつまでも天才であり続けたと言えますね。
たまに「奇才」と呼べる部分もあったようですが(^^ゞ
黒田裕樹さん
風早 りら 大徳寺の住職が休宗純
一休さんですか
絵本や漫画の一休さんしか知りませんでした
黒田先生のお陰で 歴史だけでなく
一般常識も 覚えることが出来ます
有り難く 思っています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 大徳寺の住職が一休宗純
> 一休さんですか
> 絵本や漫画の一休さんしか知りませんでした
> 黒田先生のお陰で 歴史だけでなく
> 一般常識も 覚えることが出来ます
> 有り難く 思っています
とんちの一休さんは誰しもがご存知ですが、実像となるとなかなか知られていませんからね。
今日もりらさんのお役に立てて光栄です。
そうめん お久しぶりです。
テストがあったもので。。。
一休さんは高僧だったんですか・・
参考になりました(^^;)
そうめんさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。
> テストがあったもので。。。
テストの季節ですからね。お疲れ様でしたm(_ _)m
> 一休さんは高僧だったんですか・・
> 参考になりました(^^;)
歴史に名を残す僧は、やはりそれなりに高い地位を残していることが多いですよ(例外もありますが)。
今回のような知識を増やして、歴史への理解につながればと思います。
本願寺(ほんがんじ)の蓮如(れんにょ)は、応仁の乱の頃に「阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いを信じれば誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)できる」という教えを御文(おふみ)と呼ばれた平易(へいい)な文章で説いて、各地に講(こう)を組織しました。
惣村(そうそん)などへの精力的な布教活動によって本願寺の組織は北陸・近畿・東海地方に広がり、各地域ごとに組織化された門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の集団はやがて強大となり、農村への支配を強めようとした大名などと対立するようになりました。
門徒たちは各地で一向一揆(いっこういっき)を起こし、中には1488年の加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)のように、約1世紀にわたって勢力を保(たも)つものも現れました。
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サクラ 以前、「加賀は日本初の民主国家だった」などという話を聞いたのですが――別にそういうわけではなかったんですよね?
門人の支配と、大名の支配はどう違ったんですか?
仏教といえば壮大な哲学でしたが、民衆に解かりやすくする事だって大切でしたよね。
「詳しい哲学や悟りは浄土で教えてあげるから、とりあえず南無阿弥陀仏を唱えておけ」っていう。
ぴーち こんばんは!
浄土宗(真宗)のお仏壇は煌びやかで
荘厳なイメージがありますが、確かに裏日本のお宅の仏壇は、黄金に輝く豪華絢爛という印象が深いです。極楽浄土をイメージしたもの
なのかもしれませんが^^
室町時代に、広まっていったのですね。
歴史が古いですね。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 > 以前、「加賀は日本初の民主国家だった」などという話を聞いたのですが――別にそういうわけではなかったんですよね?
> 門人の支配と、大名の支配はどう違ったんですか?
「大名による搾取」という固定観念を持っている人々からすれば、門人による支配は民主的な姿に映るのかもしれません。しかしながら、自治的な生活を歩むにしても、警察権などの安全保障を委ねている段階では、大名による支配と、門人による支配との間に大きな差はなかった、とも考えられます。
> 仏教といえば壮大な哲学でしたが、民衆に解かりやすくする事だって大切でしたよね。
> 「詳しい哲学や悟りは浄土で教えてあげるから、とりあえず南無阿弥陀仏を唱えておけ」っていう。
そのとおりです。難解な経典の解釈を簡潔にしたことで、より多くの人々に仏教が広められました。こうした事態は鎌倉時代の頃にすでに起きていましたが、それに拍車をかけたのが室町時代であった、といえるでしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 浄土宗(真宗)のお仏壇は煌びやかで
> 荘厳なイメージがありますが、確かに裏日本のお宅の仏壇は、黄金に輝く豪華絢爛という印象が深いです。極楽浄土をイメージしたもの
> なのかもしれませんが^^
> 室町時代に、広まっていったのですね。
> 歴史が古いですね。
現世ではなく、極楽浄土にこそ幸福がある、という教えは、日々の苦しい生活を送っていた人々には魅力的に思えたことでしょう。だからこそ仏壇も豪華なものを、という考えがあるのかもしれませんね。
黒田先生
風早 りら 浄土真宗
蓮如
阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生できる
これは無学の方が多かった時代には
分かりやすい 仏教だったですよね
今で言う 新興宗教ですね
いつの時代も分かりやすい信仰が
流行するようですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 浄土真宗
> 蓮如
> 阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生できる
> これは無学の方が多かった時代には
> 分かりやすい 仏教だったですよね
> 今で言う 新興宗教ですね
> いつの時代も分かりやすい信仰が
> 流行するようですね
伝統的な浄土真宗でありながら、分かりやすさから爆発的に広がっていく様は、当時の確かに新興宗教のような雰囲気がありますね。
乱世であればあるほど、人々は宗教に救いを求めるものです。
オバrev 加賀の一向一揆は有名ですね。その後100年に渡って加賀の国を支配するわけですが、いったいどのような政治システムで支配していたんでしょうか。
それが民衆にとって良かったのかどうか、どうなんだろうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 加賀の一向一揆は有名ですね。その後100年に渡って加賀の国を支配するわけですが、いったいどのような政治システムで支配していたんでしょうか。
> それが民衆にとって良かったのかどうか、どうなんだろうか。
加賀の一向一揆の場合は、宗教勢力が守護を追い出して約1世紀にわたって加賀国を支配していますが、この背景には、一言でいえば「阿弥陀様の救いで誰しもが極楽往生へ→阿弥陀様の前では誰しもが平等だ」という、宗教から派生した平等思想があります。
蓮如による熱心な布教活動が、ついには一国を支配するまでの平等思想を生んだわけですが、それが強力であるがゆえに、1世紀の間には内紛が起きたり、あるいは周辺の支配拡大を目論んで失敗に終わったりするなど、決して平和が続いたわけではありませんでした。
要するに、平等を標榜しながらも民衆は一向宗による実質的な「支配」を受けていたことになります。とはいえ、平等思想に感化された民衆からすれば、ある意味では満足のいく一生を送ったといえるのかもしれません。それが宗教が持つ側面のひとつでもあります。
例えば、日親が第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)の前で説法(せっぽう)した際には、激怒(げきど)した義教に煮えたぎった熱い鍋(なべ)を頭からかぶせられたという伝説が残っています。
京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗は、他の宗派と激しく勢力争いをするようになりました。1532年には法華一揆(ほっけいっき)を結んで一向一揆と対決し、山科(やましな)の本願寺を滅(ほろ)ぼして町政を自治的に運営しました。
しかし、その自治は長くは続かす、1536年に比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と衝突(しょうとつ)すると、今度は逆に京都を追われてしまいました。この戦いを天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)といいますが、焼打(やきう)ちされた京都の被害は応仁の乱をも上回るものであったと伝えられています。
ちなみに、法華一揆の際に山科を追われた本願寺は本拠地(ほんきょち)を大坂(おおさか、現在の大阪)の石山に移しましたが、法華一揆の反省から防御力(ぼうぎょりょく)を高めた石山本願寺(いしやまほんがんじ)は城のような堅固(けんご)な要塞(ようさい)と化し、戦国大名と並(なら)ぶ大きな勢力を築(きず)き上げることになります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ 宗教戦争なんて飛鳥時代以降ないものと思っていましたが、まんざらでもなかったんですね。
しかも、同じ仏教同士という――。
儒教も何も一緒くたにしようとしていた時代に――不思議です。
TSUNE お久しぶりです!
またブログを変えて再開しようと思います。
高2の男子です!
僕は文系で日本史を選択しているのでとてもためになります!
これからもがんばってください!
ぴーち こんばんは!
日蓮宗は仰るとおり、他の宗派を徹底排除するような攻撃性を持ち合わせていますよね。
けれど、それは絶対的な自信の現れでもあったのではないでしょうか。
けれど、誰しも自分の信じる宗教を頭ごなしに否定されれば、面白く思わないのは当然です。
人の気持ちを配慮した布教活動が存在していたら、また違った結果が生じていたのかも知れません。
けれど、人の業は深いもので、生半可な気持ちでは救われないという宗教理念もあって当然なのかも知れませんが。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 > 宗教戦争なんて飛鳥時代以降ないものと思っていましたが、まんざらでもなかったんですね。
> しかも、同じ仏教同士という――。
> 儒教も何も一緒くたにしようとしていた時代に――不思議です。
飛鳥時代は崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏)の戦争ですね。この場合は仏教を受け入れるか否かの戦いだったわけですが、今回の場合は純粋な宗教戦争というよりも、もっと別の目的があったと考えるべきではと思っております。
以前の講座(第12回など)でも紹介しておりますが、次回(11日)に改めて考察してみますので、ぜひお越し下さい。
TSUNEさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです!
> またブログを変えて再開しようと思います。
> 高2の男子です!
> 僕は文系で日本史を選択しているのでとてもためになります!
> これからもがんばってください!
復活おめでとうございます!
当ブログがお役に立てて、こちらもうれしい限りです。
改めてよろしくお願いしますね(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日蓮宗は仰るとおり、他の宗派を徹底排除するような攻撃性を持ち合わせていますよね。
> けれど、それは絶対的な自信の現れでもあったのではないでしょうか。
> けれど、誰しも自分の信じる宗教を頭ごなしに否定されれば、面白く思わないのは当然です。
> 人の気持ちを配慮した布教活動が存在していたら、また違った結果が生じていたのかも知れません。
> けれど、人の業は深いもので、生半可な気持ちでは救われないという宗教理念もあって当然なのかも知れませんが。
他の宗派を一切認めずに攻撃することが日蓮宗の大きな特徴でしたからね。我が国には八百万の神様を何事もなく受け入れる多神教の精神がありましたから、やはり相当な抵抗があったものと思われるだけに、宗教の両立は難しい面があったといえるのでしょうね。
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これらの利権を維持するため、各宗教勢力は僧兵(そうへい)などの軍事力を強化していきましたが、軍事力の強化は必然的に多額の資金力を必要とするため、宗教勢力は布教地に対する税を増やして利益を上げれば、今度はその利権を守るために武力を強化する―。この繰(く)り返しによって、いつのまにか宗教勢力は政治力や資金力を持った巨大な圧力団体と化してしまったのです。
そして、応仁の乱などの相次ぐ戦乱でかつての勢いは失われつつあったものの、我が国の首都であり、人も物資も集まりやすかった京都こそが最大の「おいしい」布教地だったのですが、そう考えていたのはどの宗教勢力も同じでした。
それゆえに京都のような有力な都市では宗教勢力による争いが絶えず、巻き込まれて苦しむ民衆からは、人々の暮らしに大きな障害と化してしまった宗教勢力を追放して、かつての過ごしやすい世の中に戻してほしいという声が自然と高まっていきました。
まさに世は戦国時代であり、こうした民衆の声なき声をくみ取った一人の武将によって、やがて時代は大きく動くことになるのです。
(※これで室町時代は終了です。明日(10月12日)からは戦国、安土・桃山時代に入ります)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。
最初は崇高で、純粋であったはずの教えが、伝承して行こうとする間には、いつのまにやらそこに人間の欲が絡み、本来の教えが捻じ曲げられたり、宗教を笠に着た悪徳商売などが横行し始めてしますよね。。
やはりそれは悲しいかな、人間があくまでも不完全で
、過ちを犯す存在であるという証拠なんでしょうけれどね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですか。
> 最初は崇高で、純粋であったはずの教えが、伝承して行こうとする間には、いつのまにやらそこに人間の欲が絡み、本来の教えが捻じ曲げられたり、宗教を笠に着た悪徳商売などが横行し始めてしますよね。。
> やはりそれは悲しいかな、人間があくまでも不完全で
> 、過ちを犯す存在であるという証拠なんでしょうけれどね。
仰るとおりだと私も思います。
特にこの時代においては、強大な武力を持っているだけにより大変だったのではないでしょうか。
黒田裕樹さん
風早 りら 室町時代のご説明
大変 楽しく 拝見致しました
応仁の乱はすっかり 学校での勉強を
忘れていましたが また 勉学出来ました
明日からの戦国、安土・桃山時代
楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 室町時代のご説明
> 大変 楽しく 拝見致しました
> 応仁の乱はすっかり 学校での勉強を
> 忘れていましたが また 勉学出来ました
> 明日からの戦国、安土・桃山時代
> 楽しみにしています
有難うございます。
応仁の乱は、政治や文化など、我が国の様々な分野において非常に大きな影響をもたらしていると考えられますね。
いよいよ多くの皆さんが興味を持たれている戦国、安土・桃山時代に入ります。
私自身も皆さんにブログを通じて生き生きとした歴史の事実をご紹介できることを楽しみにしております。