我が国と朝鮮との日朝貿易(にっちょうぼうえき)は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために貿易船の数が非常に多くなりました。
このため、朝鮮は1443年に嘉吉条約(かきつじょうやく、別名を癸亥約定=きがいやくじょう)を結んで、対馬(つしま)の宗氏(そうし)に貿易の統制権を与えたことによって、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われるようになりました。
なお、李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮(こちょうせん)と区別するために李氏朝鮮(りしちょうせん)とも呼ばれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
李成桂が建国したので、李氏朝鮮。
「李氏朝鮮」と言うのは、恥ずかしながら
初めて聞いた言葉です^^;
勉強になりました。ありがとうございます!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 李成桂が建国したので、李氏朝鮮。
> 「李氏朝鮮」と言うのは、恥ずかしながら
> 初めて聞いた言葉です^^;
> 勉強になりました。ありがとうございます!
意外なところに国名の理由がありますよね。
今回のような内容でも、歴史を学ぶ際に役立てれば私もうれしいです(^^♪
こんにちは
冬灯 ごぶさたしております。
ようやく復活しましたので、早速遊びに
参りました^^
更新がストップ状態の時でもお立ち寄り
頂きまして、有り難うございました。
またちょくちょくと、遊びに来させて
頂きたいと思いますので、どうぞ宜しく
お願いします^^
久しぶりに歴史のお勉強をさせて頂きました。
冬灯さんへ
黒田裕樹 復活されましたか、良かったです(^^♪
これからもよろしくお願いします。
歴史のお勉強、いつでも気軽にお越し下さいね(^_^)v
黒田 先生
風早 りら 「朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、当時の室町幕府の第3代将軍であった足利義満が応じたので、日朝両国は国交を開きました」
日朝両国は国交はこ時から始まったのですね
全く知りませんでした
自分が どれだけ 分からないことが多いか
日々 先生の講座で実感します
ありがとうござます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、当時の室町幕府の第3代将軍であった足利義満が応じたので、日朝両国は国交を開きました」
>
> 日朝両国は国交はこ時から始まったのですね
> 全く知りませんでした>
> 自分が どれだけ 分からないことが多いか
> 日々 先生の講座で実感します
> ありがとうござます
李氏朝鮮と我が国との国交はこの頃からですね。
それ以前の高麗とは正式な国交がありませんでした。
日朝の歴史にもいろいろありますので、今後も紹介できればと思います。
日朝貿易は1419年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃(しゅうげき)した応永の外寇(おうえいのがいこう)によって一時は中断しましたが、その後も活発に行われました。
貿易では日明貿易での勘合(かんごう)をまねた通信符(つうしんふ)が用いられ、我が国からは銅や硫黄(いおう)などの鉱産物や工芸品、あるいは琉球貿易(りゅうきゅうぼうえき)で入手した蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、こうりょうのこと)が輸出されました。
また、朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿(もめん)が大量に輸入され、それまでの麻(あさ)に比べて保温性が高く作業衣料に適していたために、人々に広く利用されたことで我が国の生活様式に大きな影響を与えました。
しかし、朝鮮がやがて日朝貿易を厳しく統制したために、これを不満とする三浦に住む日本人と現地の役人との間で1510年に紛争が起きました。この三浦の乱(さんぽのらん)によって、日朝貿易は次第に衰退(すいたい)していきました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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サクラ 応永の外冦は知っていましたが、日朝貿易が衰退する原因ってのがあったんですね。
応永の外冦も三浦の乱も、確か学校では教えてませんでしたが。
はたしてこの二つの事件は、教えないほど価値のないものなのでしょうか。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 応永の外冦は知っていましたが、日朝貿易が衰退する原因ってのがあったんですね。
> 応永の外冦も三浦の乱も、確か学校では教えてませんでしたが。
> はたしてこの二つの事件は、教えないほど価値のないものなのでしょうか。
両方とも日朝の中世史には欠かせない出来事ですから、教わる価値は十分にあるはずです。
ましてこの当時の政治的・商業(あるいは貿易)的対立は、現代とは次元が異なりますし…。
高校の教科書には出てきますので、その際に教わるのではないかと思いますよ。
紗那 当時は、朝鮮との関係も良好だったわけですね。
この前の韓国併合の講座の話と対照的な内容です。
なぜ、朝鮮は貿易を統制したのでしょう……?
紗那さんへ
黒田裕樹 > 当時は、朝鮮との関係も良好だったわけですね。
> この前の韓国併合の講座の話と対照的な内容です。
日朝国交の樹立は倭寇の討伐が前提でしたからね。共通の敵(前期倭寇は日本人が中心なので複雑ではありますが)の存在は両国が手を握るのに役立ったといえるのでしょうか。
> なぜ、朝鮮は貿易を統制したのでしょう……?
当時の日朝貿易では、朝鮮国内における貿易関係者や輸送に関する経費が朝鮮の負担だったため、交易の増大はそのまま朝鮮の負担増につながったんですね。それに耐えかねた朝鮮が貿易の統制をはかりましたが、貿易で生計を立てていた宗氏にとっては深刻な問題になりました。こうした軋轢(あつれき)が三浦の乱の遠因になってしまったんですね。
黒田先生
風早 りら 木綿はこ頃の日本では生産されていなかった
のですね
以外でした
当たり前ように 日本が 原産生産したのだと
思っていました
毎日が感動です
ありがとうございます
ぴーち こんばんは!
(わ!一度書いたコメントが消えてしまいましたTT)
結構長く書かせていただいたんですが、気を取り直して
もう一度^^;(コピペしておくんだった・・)
麻は今でも暑い夏などには、好まれる素材で、肌に付きにくく、涼しく過ごせるので良いですが
やはり四季を通して好まれる素材は、木綿の方が断然頻度は高いですよね。
肌触りの柔らかさからして、今でも愛される素材ですね^^
そうですか。最初は朝鮮から伝わったものだったんですね^^存じませんでした。
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 木綿はこ頃の日本では生産されていなかった
> のですね
> 以外でした
> 当たり前ように 日本が 原産生産したのだと
> 思っていました
> 毎日が感動です
> ありがとうございます
お言葉有難うございます。
我が国で木綿が本格的に栽培されるようになったのは16世紀のことです。それまでは輸入に頼っていたんですよね。現代では安い外国産に押されて衰退しつつあるのは残念ですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > (わ!一度書いたコメントが消えてしまいましたTT)
> 結構長く書かせていただいたんですが、気を取り直して
> もう一度^^;(コピペしておくんだった・・)
私もよくやるんですよ(´・ω・`)
気落ちしてから立ち直るのが一苦労ですよね。
> 麻は今でも暑い夏などには、好まれる素材で、肌に付きにくく、涼しく過ごせるので良いですが
> やはり四季を通して好まれる素材は、木綿の方が断然頻度は高いですよね。
> 肌触りの柔らかさからして、今でも愛される素材ですね^^
> そうですか。最初は朝鮮から伝わったものだったんですね^^存じませんでした。
別の方にも書かせていただきましたが、我が国で木綿が生産されるのは戦国時代の頃です。
木綿の肌触りの良さは、現代においても別格ですよね(^^♪
琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国とも国交を結び、海外貿易を盛んに行いました。これを琉球貿易(りゅうきゅうぼうえき)といいます。琉球貿易は、商船を南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島にまで行動範囲を広げて、東アジアから東南アジア一帯の諸国間における中継貿易(ちゅうけいぼうえき)の方式で行われました。
具体的には、琉球の商船が南方から購入してきた蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、こうりょうのこと)などを我が国の商人が買い取ったり、琉球船自らが博多まで乗り入れてもたらしたりしています。これらの商品は我が国によって中国や朝鮮へと転売されました。
首里の外港である那覇(なは)は、貿易における重要な国際港となって栄え、情緒豊かな琉球文化をもたらしました。なお、琉球王国の民俗の実態をうかがうことのできる史料としては、琉球の古い歌謡である「おもろ」が集められた、琉球における万葉集ともいわれる「おもろそうし」が知られています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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風早 りら 琉球王国が やがて 日本の国となり
沖縄になる過程が 理解出来るのではと
期待していす
以前より 興味があったのですが
よく 分かっていません
宜しく お願いします
サクラ 琉球は貿易の要所だったんですね。
琉球文化は私に爽やかな印象を与えます。
日本の古きよきノスタルジアみたいなものを感じさせるのですけど、ちょっと異国趣味が入ってて不思議な感じです。
中学校の頃の修学旅行は沖縄だったんですが、戦跡しか見させられませんでしたね。
平和学習とやらもいいですけど、それ以外の琉球の歴史的重要性や、琉球文化にもっと触れられないことが残念でした。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 琉球王国が やがて 日本の国となり
> 沖縄になる過程が 理解出来るのではと
> 期待しています
> 以前より 興味があったのですが
> よく 分かっていません
> 宜しく お願いします
琉球王国については、今回は残念ながらここまでなんです。
次回は琉球の歴史が大きく動く江戸時代初期になる見込みです。
「琉球史」のような講座も考えてみたいですね。
これからもよろしくお願いします。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 琉球は貿易の要所だったんですね。
> 琉球文化は私に爽やかな印象を与えます。
> 日本の古きよきノスタルジアみたいなものを感じさせるのですけど、ちょっと異国趣味が入ってて不思議な感じです。
琉球は今も昔も地理上の要所ですから、中継貿易にはうってつけなんですよね。
そんな王国で栄えた文化は、様々な文化が巧みに組み合わされた独自性が見られます。
> 中学校の頃の修学旅行は沖縄だったんですが、戦跡しか見させられませんでしたね。
> 平和学習とやらもいいですけど、それ以外の琉球の歴史的重要性や、琉球文化にもっと触れられないことが残念でした。
そのとおりですね。琉球文化は20世紀だけではありません。今回のような「おもろそうし」などの文化ももっと紹介すべきだと思うのですが…。
ぴーち こんばんは!
沖縄は、私自身は一度も行った事が無いのですが、その代わり子供達は沖縄へ修学旅行へ行きました(娘は来年ですが^^;)
一度くらいは、行ってみたい場所ですが、
息子は一度行っただけですが、とても気に入った様で、帰宅した数日間は、「あっちで暮らしたい」と盛んに言っていました。今でこそ、のんびりとした雰囲気と美しい自然が満喫できるイメージがありますが、観光で数日だけ滞在した位では沖縄の本当の姿は見えてこないんでしょうけれど、歴史を思うとなんとも言えませんね。
「おもろ」とは直接「面白い」と同じ意味なんでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 沖縄は、私自身は一度も行った事が無いのですが、その代わり子供達は沖縄へ修学旅行へ行きました(娘は来年ですが^^;)
> 一度くらいは、行ってみたい場所ですが、
> 息子は一度行っただけですが、とても気に入った様で、帰宅した数日間は、「あっちで暮らしたい」と盛んに言っていました。今でこそ、のんびりとした雰囲気と美しい自然が満喫できるイメージがありますが、観光で数日だけ滞在した位では沖縄の本当の姿は見えてこないんでしょうけれど、歴史を思うとなんとも言えませんね。
私も残念ながら行ったことがないんですよ。この時期は台風が多いですが、美しい自然に恵まれた環境は素晴らしいそうですからね。息子さんの気持ちも理解できそうです。
> 「おもろ」とは直接「面白い」と同じ意味なんでしょうか?
沖縄の方言で「思い」だそうですよ。様々な人々の思いがこもった歌謡という意味なんでしょうか。
やがて奥州(おうしゅう)の住人の中から、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れました。彼らはアイヌから和人(わじん)と呼ばれ、津軽の豪族である安藤氏(あんどうし)の支配に属していましたが、和人の相次ぐ進出は次第にアイヌを圧迫するようになっていきました。
アイヌは1457年に首長(ちゅちょう)のコシャマインを中心に蜂起(ほうき、ハチが巣から一斉に飛びたつように大勢が一時に暴動・反乱などの行動を起こすこと)して和人の館を次々と攻め落としましたが、やがて渡島の領主であった蠣崎氏(かきざきし)によって鎮圧(ちんあつ)されました。この事件によって名を挙げた蠣崎氏は、江戸時代には松前氏(まつまえし)を名乗って蝦夷地を支配する大名となりました。
なお、この当時の和人の館は道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれており、現在の函館市(はこだてし)にある志苔館(しのりたて)が有名です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
アイヌ人は、結局、日本の本土から追い出されるような形で、(追われる?)北海道と沖縄へ分散されてしまったのですね。
(沖縄ではアイヌとは呼ばないのかも知れませんが)
蠣崎氏が松前氏に・・。
この当時は容易に改名することが出来たのでしょうか?
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね☆
黒田先生
風早 りら アイヌの方々を 思う時
私は アメリカ原住民族
または オーストラリアの 原住民族
の方々に 思いを はせます
黒田先生のご意見は如何ですか
佐佐木あつし こんばんわ!
悪名高い松前氏の前史は知りませんでした。
とはいっても、ダメダメになっていくには
先生の講座の時間から徐々に変化していったかもしれませんが一族の隆盛と末路のストーリーの陰にアイヌの方々の苦しみが土台になっている事は本当に悲しい事です。
なにせ、昔、北海道出身のの友人が
アイヌの方に対して差別的な発言をして
非常に憤慨したのを覚えています。
歴史の作った傷跡が
何百年も残る事実は
たまらないものです。
歴史の記憶と現在に現れる症例には
特効薬がない分
先生のお仕事の重要性を大きく感じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > アイヌ人は、結局、日本の本土から追い出されるような形で、(追われる?)北海道と沖縄へ分散されてしまったのですね。
> (沖縄ではアイヌとは呼ばないのかも知れませんが)
平安時代にも蝦夷(えみし)と呼ばれた人々が東北地方から追われていますからね。その後の歴史も非常に重要になっていきますが…。
> 蠣崎氏が松前氏に・・。
> この当時は容易に改名することが出来たのでしょうか?
松前氏の「松」は徳川の旧姓の「松平氏」から、「前」は「前田氏」からとっています。戦国も末期になると、こうした改姓は結構行われていますよ。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > アイヌの方々を 思う時
> 私は アメリカ原住民族
> または オーストラリアの 原住民族
> の方々に 思いを はせます
> 黒田先生のご意見は如何ですか
どの国にも先住民との戦いや虐殺、あるいは同化や共生があります。
我が国の場合は激しい戦いや搾取(さくしゅ)もありましたが、共生の一面もあったと思います。
いずれにせよ、歴史の厳しい事実をしっかりと見つめる必要はあるでしょうね。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 松前氏はアイヌから不当に搾取していましたからね(田沼意次が改めようとしましたが)。
これも悲しい歴史ですが、そういった現実に無知であるがゆえの誤解や曲解も、仰るとおり大いに問題があると思います。
これからも歴史講座を頑張りたいですね。