一方、南北朝(なんぼくちょう)の動乱の頃には、西国の武士や漁民らによって武装した船団が組まれ、朝鮮半島や中国大陸南部の沿岸を襲(おそ)うようになりました。これらの海賊(かいぞく)は倭寇(わこう)と呼ばれて沿岸住民から恐れられました。
ところで、倭寇は襲来(しゅうらい)の時期によって大きく二つに分かれます。南北朝時代の頃の前期倭寇(ぜんきわこう)は対馬(つしま)や壱岐(いき)、あるいは肥前(ひぜん)の松浦(まつら)地方を拠点(きょてん)とし、日本人を中心に構成されていました。
これに対して、16世紀後半からの後期倭寇(こうきわこう)は平戸(ひらど)や五島(ごとう)を拠点としているものの、その大部分は中国人であり、中国沿海での密貿易(みつぼうえき)を主に行っていました。なお、後期倭寇は豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって鎮圧(ちんあつ)されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
昨日はお疲れ様でした^^
黒田さんの中味の濃い生講座を拝聴出来た事、嬉しく存じております。
これからも、益々のご活躍を期待しています^^
それでは、応援でぉ
.
風早 りら 建長寺は1月に行ってきましたが
とても建物が魅力的でした
建長寺船の事は知りませんでした
今日は東京ですよね
今頃は 講座をおえられ
ホテルで ゆっくりされていられるのでしょうか
毎日 暑い日が続いています
お身体 ご大切に!!!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんこそ、お越しくださってありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 建長寺は1月に行ってきましたが
> とても建物が魅力的でした
> 建長寺船の事は知りませんでした
> 今日は東京ですよね
> 今頃は 講座をおえられ
> ホテルで ゆっくりされていられるのでしょうか
> 毎日 暑い日が続いています
> お身体 ご大切に!!!
建長寺の再建費用を捻出するためにも貿易が一番と考えたんでしょうね。
国交がなくても私貿易はできますから。
講座も無事終わり、今日(9日)には帰阪します。
今後ともよろしくお願いいたします。
しー あ、これが最近世界史でやったとこですね!!
(昔の記事にコメ、すみません。。)
世界史の先生が、「最近は日本史に絡めた問題が多い」っておっしゃっていたので…
世界史観点から復習させていただきます^^ゞ
しーさんへ
黒田裕樹 いえいえ、過去記事でも大歓迎ですよ(^^♪
確かに世界史は日本史とリンクしていますからね。
世界史観点からの復習も重要ですから、お役に立ててこちらも嬉しいです(^_^)v
14世紀の半(なか)ば頃までには元の勢力は衰(おとろ)え、1368年に朱元璋(しゅげんしょう)によって明(みん)が建国されました。明は中国にとって伝統的な中華思想(ちゅうかしそう)に基づいて、近隣諸国(きんりんしょこく)に対して朝貢外交(ちょうこうがいこう)を求めると、貿易が生み出す利益を第一に考えた第3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)がこれに応じました。
義満は1401年に国書を明に送って正式な国交を開きましたが、明によって義満が「日本国王」に封(ふう)じられるなどの行為は、聖徳太子(しょうとくたいし)以来続いてきた我が国の中国大陸からの独立性を損(そこ)なうものでもありました。
こうして始まった日明貿易(にちみんぼうえき)ですが、明から交付された勘合(かんごう)と呼ばれた証明書を日明の両国が照合することで私貿易と区別していたので、勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれています。
日明貿易は、朝貢形式を嫌った第4代将軍の足利義持(あしかがよしもち)によって1411年にいったん中断されましたが、幕府の財政確保を優先した第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)によって1432年に再開されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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天然中尉 黒田裕樹どのこんにちは☆
6万hitおめでとうございまする。
勘合貿易とはずいぶんなつかしいです。小学生か中学生の頃以来全くもって耳にしていなかったですww
天然中尉殿へ
黒田裕樹 > 黒田裕樹どのこんにちは☆
> 6万hitおめでとうございまする。
有難うございます(^_^)v
東京遠征中に達成できました(笑)。
> 勘合貿易とはずいぶんなつかしいです。小学生か中学生の頃以来全くもって耳にしていなかったですww
勘合貿易の言葉だけ覚えさせて、中身まで理解させなかったことが多かったのかもしれませんね(´・ω・`)
貿易における我が国からの輸出品は刀剣(とうけん)や>鎧(よろい)などの武具、銅や硫黄(いおう)などの鉱産物(こうさんぶつ)、扇や屏風(びょうぶ)などの工芸品が中心であり、輸入品は銅銭(どうせん)が圧倒的に多く、その他には生糸(きいと)や高級織物などが輸入されました。なお、銅銭は明銭(みんせん)として我が国に普及し、先述(せんじゅつ)のとおり我が国の貨幣の流通に大きな影響をもたらしました。
さて、幕府が衰え始めた15世紀の後半に入ると、貿易の実権は堺の商人と結んだ細川氏(ほそかわし)と、博多の商人と結んだ大内氏(おおうちし)の両者の手に移りました。貿易による利権をめぐって争った両者は、1523年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で武力衝突(しょうとつ)しました。この争いを寧波の乱(ニンポーのらん)といいます。
両者の争いは大内氏の勝利に終わり、以後は大内氏が貿易を独占しましたが、1551年に大内氏が滅亡すると貿易は廃絶(はいぜつ)となり、先述の後期倭寇の活動が目立つようになりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※通常の更新は今回でしばらく中断して、明日[8月11日]からは第17回歴史講座の内容の更新を開始します)




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或世梨音 コメント、感謝です。
今後も宜しくお願いします。
日本史の授業は来年からなので、いまいちここの分野のことはわかっていません。
戦をするほど貿易が盛んなのは喜ぶべきなのかはたまた…
或世梨音さんへ
黒田裕樹 > コメント、感謝です。
> 今後も宜しくお願いします。
いえいえ、ご丁寧なお言葉有難うございます。
こちらこそよろしくお願いします。
> 日本史の授業は来年からなので、いまいちここの分野のことはわかっていません。
日本史は高校2年からというのが多いようですね。
今のうちに理解してしまいましょうか(^^♪
> 戦をするほど貿易が盛んなのは喜ぶべきなのかはたまた…
貿易のうまみは独占したいものですからね。
ましてや戦国時代ですから…。
.
紗那 ・・・・・・!
貿易の利益を争ったという話は、授業でも聞いたことが有りましたし、具体的にどことどこが争ったのかも自分で調べた事があるのですが、なんとその衝突の舞台は海外だったんですか^^;
てっきり国内でやっていたのだと・・・・・・
貿易を新たにしようという大名はいなかったんでしょうか?
紗那さんへ
黒田裕樹 > ・・・・・・!
> 貿易の利益を争ったという話は、授業でも聞いたことが有りましたし、具体的にどことどこが争ったのかも自分で調べた事があるのですが、なんとその衝突の舞台は海外だったんですか^^;
> てっきり国内でやっていたのだと・・・・・・
寧波(ニンポー)は明の町ですからね。
海外で日本人が利権をかけて戦う…確かに印象が薄いです(^^ゞ
> 貿易を新たにしようという大名はいなかったんでしょうか?
1551年は戦国大名が群雄割拠の時代ですからね。日明貿易よりも南蛮貿易の方が魅力的でしたし。
黒田先生.
風早 りら コメント 嬉しかったです
今日は 体調が 悪く
講座が 頭に 入りません
また 明日 伺います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > コメント 嬉しかったです
> 今日は 体調が 悪く
> 講座が 頭に 入りません
> また 明日 伺います
体調がすぐれない中をお言葉いただき有難うございます。
ご回復を待っておりますよ。
mochimochi 日本が刀を輸出していたのですね。
17世紀には朝鮮にも輸出していたと思うのですが。
朝鮮はそれを中国の重要な人物に贈っていたとどこかで読んだことがあります。
ちなみに、それらを記録している書物は残っているのですか?
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 日本が刀を輸出していたのですね。
> 17世紀には朝鮮にも輸出していたと思うのですが。
> 朝鮮はそれを中国の重要な人物に贈っていたとどこかで読んだことがあります。
> ちなみに、それらを記録している書物は残っているのですか?
江戸時代にも我が国と朝鮮との交流はありましたからね。対馬藩が幕府の管理のもとに貿易を行っていました。
仰った件ですが、私は残念ながら書物については存じ上げません。申し訳ないです。