鎌足以降(いこう)も藤原不比等(ふじわらのふひと)や藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)など、彼の子孫が奈良時代(ならじだい)に活躍(かつやく)したほか、平安時代(へいあんじだい)に入ると藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)父子の頃(ころ)に藤原氏の権勢(けんせい)は頂点を迎(むか)えます。
しかし、その後は巻(ま)き返しを図(はか)った皇室によって藤原氏の権力は衰(おとろ)え、やがて武士の世の中になると政治の表舞台(おもてぶたい)から完全に消え去ってしまいました。
その後の藤原氏についてですが、実権は失っていても一時期は皇室よりも優位に立っていたことや、あるいはその末裔(まつえい)が国政の最高責任者にまで出世していた事実を皆さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
我が国の歴史に深くかかわった藤原氏を検証することによって、私たちは大きな歴史の流れをつかむことが出来るのです。今回の講座では、そんな藤原氏の栄枯盛衰(えいこせいすい)について、時間をかけてじっくりと確認していきたいと思います。




いつも有難うございます。
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癒しグマ いつも訪問いただき有難うございます。昨日は私事で訪問できず申し訳ありませんでした。
益々のご活躍お祈りしています。
ポチ4しますね
癒しグマさんへ
黒田裕樹 ご丁寧なお言葉、有難うございます。
今後ともよろしくお願いします。
跡部の詳しい後日談を聞きたかったが・・。
晴雨堂ミカエル 藤原氏に題材が変わりましたか。跡部のその後を知りたかったのですが。
たしか忠邦の側近で江戸町奉行の鳥居の妖怪とはそりが合わず、そのためか忠邦失脚後も実弟であるにも関わらず昇進し、記憶に間違いなければ明治元年で若年寄になったとか。もう旗本ではなく大名クラスですね。
晩年はどうなのか知りませんが、小悪党は上手く立ち回って天寿を全うするものか。
藤原家も皇族に次いで興味深い家系です。信頼できる資料で千数百年も遡れるのは天然記念物。源氏や平家は系図を操作したりと怪しいですし、ローマ皇帝なんか四世紀五世紀で無茶苦茶。
因みに私の家系は祖母の話では菅原、しかし別の日では藤原だったり。都合によって家系を変えている家はたくさんありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 大塩の乱は通史での更新となりますので、跡部については本文でのこれ以上の紹介は不要と判断しました。
跡部のその後については仰るとおりです。ちなみに若年寄は7日で免職となり、同年末に亡くなっています。
藤原氏の家系は皇室についで長く続いていますからね。その歴史を語ることは、我が国の歴史を語ることにつながります。ただ、それ以外の家系は「系図買い」が盛んに行われたことを考えると怪しいのが実情かもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
昨日はコメントにお邪魔させていただくことが出来ずに大変失礼いたしましたm(_ _)m
応援は朝の訪問でさせていただいております。
また午後の記事更新にてコメントはさせてくださいね^^
今朝の応援凸
なおまゆ 私の家系も自称藤原です。家紋は下がり藤を使っています。平安以降の藤原氏について殆ど知らないので楽しみです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつも有難うございます。
次回のご訪問を楽しみに待っております。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 実は私の家系も同じです(^^ゞ
どこまでが本当かは分かりませんが、家系というのは我が国にとってそれだけ重要ということなのでしょうね。
今回の講座もぜひお楽しみ下さい。
戦いに敗れた中臣氏は勢力が一時衰えましたが、蘇我氏の横暴(おうぼう)を許せなかった鎌足は、蹴鞠(けまり)の会をきっかけに中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と知り合い、二人は協力して645年に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺しました。
入鹿の暗殺を聞いた父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は抵抗をあきらめ、翌日に屋敷(やしき)に火をかけて自殺しました。こうして蘇我氏の本家を滅(ほろ)ぼした鎌足は、以後は中大兄皇子とともに新しい政治を行うことになります。
なお、最近では入鹿が暗殺された事件そのものは乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれ、政治改革である大化の改新とは区別されています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
中臣鎌足は中大兄皇子の存在なくしてはその名を轟かす事が出来なかったわけですか・・。
蘇我氏の方は元々、仏教伝来については賛成派だった訳なんですね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 中臣鎌足は中大兄皇子の存在なくしてはその名を轟かす事が出来なかったわけですか・・。
そうですね。皇室の次期天皇有力者だった中大兄皇子の引立てあってこそと思いますが、皇子自身も鎌足の存在なくして大化の改新は実現できなかったことでしょう。
> 蘇我氏の方は元々、仏教伝来については賛成派だった訳なんですね?
仰るとおりです。蘇我氏は仏教の我が国における普及と自己の権力増長とを同時進行させるのに成功しましたが、皇室をないがしろにしたあたりが反発を食らったかたちになりましたね。
キサラ 黒田さんのブログにくると
なぜかパソコンが固まる現象があったので
やっとコメントします(^o^;)
講座の動画見ました!
年下が褒めるのも恐縮ですが
声も聞きやすいし
いきいきと話されますね!
ホワイトボードに貼ってある
藤原氏の絵は黒田さんが書かれたんですか?
キサラさんへ
黒田裕樹 > 黒田さんのブログにくると
> なぜかパソコンが固まる現象があったので
> やっとコメントします(^o^;)
あれ?何でかな?
とりあえず動きやすいようにプラグインを少し調整しましたが、これで大丈夫でしょうか?
> 講座の動画見ました!
> 年下が褒めるのも恐縮ですが
> 声も聞きやすいし
> いきいきと話されますね!
いえいえ、お褒めのお言葉恐縮です。
声については親からの授かりものですが、有難いことだと思っております。
いきいきしているのは、やはり自分が好きでやっていることだからでしょう。
キサラさんが毎日のように絵をお描きになりながらブログを更新されているのと同じですよね(^ω^)
> ホワイトボードに貼ってある
> 藤原氏の絵は黒田さんが書かれたんですか?
絵については私のブロとものクラチーさんに描いてもらっています。
クラチーさんも歴史好きなので、その分イラストがウイットに富んでいますね(^^♪
ブログのURLはこちらですよ。
http://mprkisf.blog40.fc2.com/
ちなみに私は絵が下手くそです(´・ω・`)
年齢
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
恐るべきは
乙巳の変(いっしのへん)の時の中大兄皇子の年齢です。この時、中大兄皇子は19歳です。
やはり、腹心の中臣鎌足の補佐がしっかりしていたから、成功したのでしょうね。
この時
中臣鎌足は、31歳です。
余談ですが
私が19歳の時、同い年の友人と話していて、『中大兄皇子が19歳で、大化の改新をしたのに
俺たちは、何をしてんねんやろう。』とぼやいていました。(苦笑)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに若いですね。
近親婚が続いた場合には極めて優秀な人物が現れるといいますが、かつての聖徳太子もそうでしたし、中大兄皇子も例外ではなかったのでしょう。
私も他人のことを言えないですね(爆)。
鎌足はその後まもなく死去しましたが、鎌足によるこれらの功績が、結果として我が国の歴史に名を残す藤原氏の礎(いしずえ)となったのです。
とはいうものの、鎌足の歴史上の実績だけで藤原氏の存在が大きくなったわけではありません。藤原氏が本当の意味で我が国の歴史に欠かせない重要な地位を占(し)めるようになったのは、むしろ鎌足以下の子孫の生(い)きざまにその理由がありました。
その大きなきっかけになった人物こそが、鎌足の子の藤原不比等だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
こうして伺っていると、自分の歴史に関しての認識の甘さにほとほと嫌気が差して参りますが(^^ゞ
鎌足自身の功績よりも、その息子の功績の方が藤原氏の繁栄に大きく貢献していたというのは、初耳です(゚д゚)!
またこれからの展開を楽しみにしております^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉、こちらこそ恐縮ですm(_ _)m
パイオニアとしての鎌足の功績は大きいですが、不比等がさらに実績を高めたという一面も大きいですね。
信長や秀吉がそうであったように、一代だけではなかなか根付かない、ということでしょうか。
家康の場合は、秀忠や家光が政治を行いやすいようにシステムを構築していましたから別格ですね。
659年に生まれた不比等は、幼(おさな)い頃に父である鎌足を亡くしましたが、成年後には着実に出世していきました。不比等は701年に大宝律令(たいほうりつりょう)、718年には養老律令(ようろうりつりょう)の編纂(へんさん)事業に携(たずさ)わり、朝廷からの厚い信任を受けました。
当時の朝廷は、707年に文武天皇(もんむてんのう)が崩御(ほうぎょ)されると、その後は文武天皇の母親で、天智天皇の娘でもある元明天皇(げんめいてんのう)と、元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く元正天皇(げんしょうてんのう)の二人の女性天皇が相次(あいつ)いで即位されました。
しばらくの間女性天皇が続いたことは、結果として不比等の存在を朝廷内で大きくしました。さらに不比等は、娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁(とつ)がせると、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)には自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)をさらに嫁がせて、皇室と密接な関係を築きました。
こうして不比等は、自分の血を引く娘を皇室に嫁がせることで自らの地位を固めるという、かつての蘇我氏と同じ方法で政治の実権を握(にぎ)ることに成功したのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
蘇我氏で成功を収めた方法を自分も実行することで実権を握ったわけですか。
必ずしも成功例を真似たからといって、自分も同じように成功するとは限らないのが世の常でもありますが、それが成功したという事は、この方法が一番裏切られ辛い方法であるからなのでしょうし、不比等その人の人柄にも関係する事だったのでしょうね・・・。
15万ヒット、おめでとうございます!!
益々のご発展をお祈りしております(*^_^*)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 不比等は蘇我氏の政策で悪いところ(皇室を差し置いて自分が頂点に立とうとしたこと)と良いところ(皇室を立てて自分は外戚として政治の実権を握ること)をよく理解していたと思われます。
もっとも、不比等自身に実力がなければ、やりたくてもできなかったでしょうし、その意味においても不比等の有能さがうかがえます。
> 15万ヒット、おめでとうございます!!
> 益々のご発展をお祈りしております(*^_^*)
有難うございます。今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
なおまゆ 不比等はもっと評価されていい政治家ですよね。
藤原道長ばかりクローズアップされますけど、土台を作るのは大変なことです。
歴史には埋もれている人物がたくさんいて、先生のブログがヒントになって調べたりできて一層歴史が楽しくなりました。
私の娘も先生のブログで勉強させようと思っています。
どうも学校の授業はおもしろくないようで・・・。これから、よろしくお願いします。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 不比等はもっと評価されていい政治家ですよね。
> 藤原道長ばかりクローズアップされますけど、土台を作るのは大変なことです。
私もそう思います。藤原氏繁栄の基礎をつくった不比等はもっと評価されるべきですが、この後お話しする奈良時代の政治のややこしさが不比等の存在を霞(かす)ませているかもしれませんね。
> 歴史には埋もれている人物がたくさんいて、先生のブログがヒントになって調べたりできて一層歴史が楽しくなりました。
> 私の娘も先生のブログで勉強させようと思っています。
> どうも学校の授業はおもしろくないようで・・・。これから、よろしくお願いします。
光栄とともに責任重大ですね(^^ゞ
こちらこそよろしくお願いしますm(_ _)m
オバrev まさに藤原氏の繁栄は不比等によって決定づけられた、と言っても過言ではないでしょうね。
女性天皇が続いたという幸運もあったでしょうが、地位や名誉や権力欲の強い有力者が並み居る中で、どうやってダントツの力を得たのか、その背景が興味ありますね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
女性天皇が続いたのは、皇位継承者である首皇子がまだ幼かったということもあり、中継ぎとして即位されたからと考えられますが、その間に不比等が外戚として活躍の場が与えられ、律令の編纂などで結果を出したことがその後の繁栄につながったのでしょうね。
巻き返しを図りたい藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、首皇子が即位された聖武天皇(しょうむてんのう)の后(きさき)であり、自分らの妹でもある光明子を皇后(こうごう)にしようと計画しました。
皇后は天皇の代わりに政治が行えるほか、場合によっては自らが天皇として即位できるという大変重い地位でした。しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子が皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に四兄弟の願いを退(しりぞ)けました。
このこともあって、長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪(けんあく)になっていきましたが、そんな折(おり)にとんでもない事件が起こってしまうのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
勉強不足で恐縮ですが。。
今でも皇后の権限というのは、この当時と同じような権限が与えられているのですか?
応援凸
当時の日本語。
晴雨堂ミカエル 当時の人名をみるだけで、日本語が現代とかなり隔たっているのが判りますね。
NHKのタイムスクープハンターで平安時代初期の世界が再現されていましたが、まるでウチナグチかアイヌ語のようでした。
一度リアル日本語で額田王を主人公にしたスペクタクル歴史劇を制作してほしいものです。
オバrev 不比等の息子4兄弟は名前も知らないですけど、無理をゴリ押しするあたりでも大したことはなかったんでしょうね。
後の光明皇后?はかなりのやり手だったように記憶していますが、不比等の妹だったんだ(゜o゜;
納得です。
それにしても、この頃の権力闘争は相当激しそうですね^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、何でもご質問下さいね(^^♪
> 今でも皇后の権限というのは、この当時と同じような権限が与えられているのですか?
現在の皇室典範では「天皇は男子のみが継承する」となっていますから、まず天皇になりことはありませんし、天皇に変わって国事行為を行うのは摂政と決められていますからこの点も違いますね。
ただし、皇后は天皇とともに「陛下」という敬称が付く存在ですから(皇太后も同じです)、その地位は非常に重いです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに全く異なりますね。
額田王の物語は私も見てみたいですが、おそらくほとんどの人が言葉を理解できないのでは…。
タイムスクープハンターは良いですね。来年もぜひ放送してほしいです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 藤原四兄弟には焦りがあったと思います。何しろ相手(=長屋王)は皇室の血を引いていますからね。
光明子は不比等の娘で、四兄弟の妹にあたりますね。確かにやり手ですが、優れた施策も行っていますよ。
権力闘争はこの後ますます激しくなります。奈良時代のややこしさを象徴していますね(´・ω・`)
わろ 長屋王と藤原四兄弟!!
長屋王の呪いとかも有名?ですよねw
わろさんへ
黒田裕樹 > 長屋王と藤原四兄弟!!
> 長屋王の呪いとかも有名?ですよねw
もちろんですとも(^_^)v
これから詳しく出てくるかもしれませんね(笑)。
ところが、翌728年に皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、そして四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀(いんぼう)を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪(のろ)ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、結果としてこの讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
729年2月、天皇に対する反逆(はんぎゃく)の罪で邸宅(ていたく)を軍勢(ぐんぜい)に取り囲まれた長屋王は自らの無実を訴(うった)えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を長屋王の変といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
人間の野望というのは恐ろしいものですね(^_^;)
火の無い所に煙は立たないと言いますけれど
火の無い所にも火を付けて、燃やしてしまう程の執念を感じますね( ´゚д゚`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、確かに恐ろしいですね。
そして、無理を通して野望を達成した者には、それ相応の「報い」がやって来るのもまた恐ろしいところです。
詳しくは明日(7日)の更新をお待ち下さいm(_ _)m
なおまゆ ふと思ったのですが、この頃の為政者は『民』に対して何かしら救済をしていたのでしょうか?
寒冷期で飢饉にみまわれ多くの人が苦しい思いをしていたでしょうに・・・。
「善政を敷く」という言葉が似合わない時代ではありますが、其の点で何かしらの記録はあるのでしょうか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 確かに「善政」と言えるような資料は少ないですね。
ただ、光明皇后による「悲田院」や「施薬院」の設立という事実は残されており、何らかの救済は行なわれていたのは間違いないようです。
藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄(はんえい)は長くは続きませんでした。四兄弟には過酷(かこく)な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、都の平城京(へいじょうきょう)でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然(ぐうぜん)に、当時の朝廷は「長屋王のタタリが起こった」と恐怖(きょうふ)におびえました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
まさしくそれは「祟り」としか言いようがない出来事ですね(^_^;)しかも4人揃ってなんて・・・(゚д゚)!
ゆめゆめ人を陥れる様な事は考える事なかれ。。という教訓の様なお話ですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 偶然が重なったとはいえ、当時の人々は恐ろしかったと思います。まさに因果応報ですね。
オバrev これはもう、誰が見ても長屋王のタタリ以外考えられませんね。
まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これはもう、誰が見ても長屋王のタタリ以外考えられませんね。
> まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
偶然にしてはあまりにも出来過ぎていますし、今となっては迷信に過ぎないことも当時は当たり前のように思われていましたからね。
> 光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
正式な記録は残っていませんが、恐ろしかったと思います。ちなみに今回は藤原氏が中心なので紹介していませんが、長屋王のタタリが大仏建立にまでつながったのではないかと私は見ています。
なおまゆ おはようございます。
梅原猛氏が怨霊信仰について提唱されましたよね。長屋王は、その画期なのかもしれませんね。
当時の人は、ものすごい恐怖感だったと思います。今でさえ「祟り」という言葉は恐ろしい響きがあります。どうやってこの祟りを鎮めたんでしょうか?罪なくして陥れられた長屋王の怨念は凄まじいと人々は考えたでしょうね。確か、史書にも長屋王の無実は証明されてた記憶があります。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 この時期は政情不安の他に、疫病や不作による飢饉にも悩まされていました。これらが(無実であると認定したがゆえ、余計に)長屋王のタタリとされたことで、全国に国分寺や国分尼寺が建てられ、東大寺の大仏が建立されたのではないかと思われます。
諸兄による政治に反発した藤原氏は、四兄弟の宇合の子の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしましたが鎮圧(ちんあつ)され、しばらくは政治の表舞台から遠ざかりました。
しかし、749年に聖武天皇の娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)が即位されると、天皇の母親である光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が四兄弟の武智麻呂の子である藤原仲麻呂を重用(ちょうよう)したことで、やがて仲麻呂は政治の実権を握るようになりました。
仲麻呂は755年に諸兄を失脚(しっきゃく)させ、諸兄の子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が乱を起こそうとすると事前に鎮圧しました。こうして自分に不満を持つ政敵(せいてき)を一掃(いっそう)することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 仲麻麿は唐好みで有名ですね。テーブルに椅子の生活、ペルシアのグラスで酒や牛乳を飲んでいたとか。映画などで再現してほしいものです。
孝謙天皇と弓削道鏡の話も興味があります。世間では爛れた関係と見られていますが、道鏡はけっして日本のラスプーチンではなく、いたってプラトニック、皇室の権力を脅かす藤原氏に対抗するために道鏡を側近として重用したとの説を聞いたことがあります。
ここではどの説をとるか楽しみです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、仲麻呂は唐好みで我が国の風習を何もかも中国風に変えました。その性急さと強引な外交姿勢が自滅への道を歩むことになります。
今回はあくまで「藤原氏」が中心ですので、道教と孝謙天皇についての関係には深く触れておりません。ちなみに私はかねてよりプラトニック説を採っており、2年以上前の通史において詳しく分析しております。
ぴーち こんにちは!
橘諸兄などというお名前は今回初めて伺いました(^_^;)
私の場合は歴史全般を通してそんな感じですので、申し訳なく存じます(苦笑)
それでも、特にこの頃に登場する人物は尚更
ですので、黒田さんの所でこれからも勉強させていただきたく存じます。m(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
どうぞお気になさらずに、今後とも当講座で知識をお蓄え下さい。
ぴーちさんをはじめ、皆さんのお役に立てれば幸甚ですm(_ _)m
オバrev この時代は、藤原・反藤原の凄まじい権力欲と権力のドッジボール?で、ある意味面白い(^_^;)
一体何故これほど権力に固執したんでしょうか。天皇を中心に国がまとまるということにはならなかったんですかね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この時代は、藤原・反藤原の凄まじい権力欲と権力のドッジボール?で、ある意味面白い(^_^;)
仰るとおり、藤原氏と反藤原氏の壮絶な戦いですね(^^ゞ
> 一体何故これほど権力に固執したんでしょうか。天皇を中心に国がまとまるということにはならなかったんですかね。
藤原氏の権力がまだ固まらない一方で、天皇親政を行うまでの実力がなかったということでしょうか。ただ、この後になると少し事情が変わってくるようです。
記事を拝見しました。
晴雨堂ミカエル 道鏡が愛人ではなかった説、明快かつ説得力ある根拠を述べておられていましたね。
この時期はまだ黒田氏のブログに出入りしていなかったので未読でした。
私も全く同じ見解です。田沼意次と同様、不自然にでっちあげた中傷が何故か世間の定説と化している事に不満です。
長屋王や橘諸兄など、皇族がまだ権威に祭り上げられる以前の雄々しさを感じる時代ですね。
日本の政治は面白い。皇族から完全に実権を奪った藤原氏も権威に祭り上げられて下位の征夷大将軍が実権を握り、それもほどなく象徴となって更に下の執権や管領や老中が事実上のトップになってしまう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国はいつの間にか「権力の二重構造」が当然のようになっていますね。
「話し合い」を求めて独裁を嫌う一方で、権威を重要視する姿勢が今日まで続いているからかもしれません。
恵美押勝は天皇に準ずる権力を持つまでに出世しましたが、朝廷の官職(かんしょく)を中国風に改めたり、外交に関する強引な姿勢(しせい)を見せたりすることで次第に周囲の反感を買うようになっていきました。
こうした中で、最大の後ろ盾(だて)であった光明皇太后が760年に死去して、孝謙上皇が自らの病を祈祷(きとう)で治した僧の道鏡(どうきょう)とともに政治の表舞台に再び登場すると、恵美押勝の勢力は急速に衰えていきました。
焦(あせ)った恵美押勝は道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑(おさ)えようと764年に反乱を企(くわだ)てましたが事前に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位(はいい)となり、淡路(あわじ、現在の兵庫県淡路島)に追放されてしまいました。この事件を恵美押勝の乱といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
恵美押勝は、中国の文化や、海外に興味を持っていた方だったのですね。この頃というのは、外国の文化を容易く容認出来ない風潮が国内にあったのですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この当時は国内文化が発展途上だったので、唐のような(当時の)先進文化を受け入れる余地はありました。しかし、恵美押勝の場合はあまりにも中国べったりだったことで「やり過ぎ」と思われた節がありますね。
外交にしても下手をすれば大国である唐を敵に回しかねず、そんな危うさがあったところに孝謙上皇や道鏡がつけ入る隙があったといったところでしょうか。
そんな折、769年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位(くらい)につけば天下は太平(たいへい)になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、和気清麻呂(わけのきよまろ)に真偽(しんぎ)を確認させましたが、和気清麻呂は「皇位は神武天皇(じんむてんのう、初代の天皇にあたる)以来の皇統(こうとう)が継承(けいしょう)すべきである」との神託を持ち帰りました。
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触(ふ)れた和気清麻呂は、名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と無理やり改名させられたうえに大隅(おおすみ、現在の鹿児島県)に追放されてしまいました。これを宇佐八幡宮神託事件といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
この頃は神のお告げが一番重要視され、それに従って世の中が動いていたと言っても過言では無かったのですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今となっては迷信であることがさも当然のように受け入れられていましたから、その延長線上といっても差し支えないかもしれません。
その一方で、迷信や偶然と片付けられない不思議な出来事があるのもまた事実ですね。
オバrev 神のお告げで政治が左右されたってことで、へぇ~!と思っていましたが、最近でも前前総理は「米国は必ず譲歩する」という占いを信じて政治をやっていたという噂ですから、当時としたらかなり絶対的な価値があったんでしょうね。
しかし、こうコロコロ政権が代わるというのは、天皇の力が弱かったことと、平和だったことが影響しているように思いますが、どうでしょうか?
それにしても短期間に次から次へと時の権力者が代わって「ええ加減にせいよ!覚える方の身にもなってくれよ」と受験生から文句がでそうな気がしますが(^_^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 神のお告げで政治が左右されたってことで、へぇ~!と思っていましたが、最近でも前前総理は「米国は必ず譲歩する」という占いを信じて政治をやっていたという噂ですから、当時としたらかなり絶対的な価値があったんでしょうね。
そうですね。今回の神託は天皇の資格者を今日まで決定づけたものですから、極めて価値が高く、また重かったものと言えるでしょう。だからこそ称徳天皇のお怒りも凄まじかったと思われます。
> しかし、こうコロコロ政権が代わるというのは、天皇の力が弱かったことと、平和だったことが影響しているように思いますが、どうでしょうか?
この時代は天皇親政でもなかったことや、外交上特に問題とされる国が存在しなかったことも大きいですね。共通の敵がいなければ、権力争いは内に流れる傾向がありますから。もっとも、外敵が存在していても無視するかのように勢力争いを繰り返すこともありますが…。
> それにしても短期間に次から次へと時の権力者が代わって「ええ加減にせいよ!覚える方の身にもなってくれよ」と受験生から文句がでそうな気がしますが(^_^;)
そうなんですよね(´・ω・`)
しかも、まだ終わったわけではないという…(^^ゞ
感謝です
クラチー DVDとメールの記事、
本当にありがとうございます!
今回は三枚もある大作なのですね、わくわく!
時間があるときにまとめて見ますです!
(T∀T)
クラチーさんへ
黒田裕樹 クラチーさんには画像の件でいつもお世話になっておりますからね(^_^)v
今回は24回と長かったこともあって、3枚になってしまいました。
BDなら1枚でもOKなんですが…。
女の情念を感じますね。
晴雨堂ミカエル 和気清麻呂の一件は、この頃の天皇はまだ世俗権力者の側面を強く残していた事ともいえますね。
それにしても「女」を感じます。女性読者には不快なコメントになるかもしれないが、和気氏への仕打ちは女らしい。
和気氏が持ち帰った神託に対して、単に悔しいとかムカつくといった感情ではなく、非常におぞましくて、汚らわしく感じたのでしょう。和気氏が吐いた空気を吸いたくないといった気持ちが処分によく現われています。
この感情は女性に強くあらわれます。実際に私は女性にまつわる事で苦い経験が何度かありますので。
当時の大隅国は遠国というより植民地といった辺境の地、当時従五位くらいの高官だったと思うので、かなり残酷で屈辱的で執拗な処罰だったと思います。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに、仰るとおり女性特有の感情表現を感じますね。
大隅国の件も同感です。名前も含めてかなり厳しい刑罰ですが、その後に復帰できたのは良かったことですね。
ご無沙汰してます
マリリンカ 先生、おはようございます。
記事には関係ありませんが、娘が一応、進路選択科目を日本史で選択しました、もちろん世界史も必須ですが・・・
勉強法など、先にアドバイス頂いた事を伝え・・・
本人も、詰め込みよりも人物理解の方が好きだ~と日本史に決めたようです。
また、何かありましたらご伝授下さい。
宜しくお願いします<m(__)m>
母は、さっぱりです(>_<)
マリリンカさんへ
黒田裕樹 了解いたしました。ブログ上を通じてお役に立てることができれば幸いです。
焦らず、ゆっくりと理解していただければ大丈夫ですよ!
称徳天皇の崩御後、次の天皇に誰を即位させるかについて朝廷内で協議が行われ、最終的に四兄弟の宇合の子の藤原百川(ふじわらのももかわ)や房前の子の藤原永手(ふじわらのながて)が支持した光仁天皇(こうにんてんのう)が即位されました。
光仁天皇は自らのご即位に貢献(こうけん)した藤原氏を重く用いるようになり、その流れがそのまま平安時代にも続くことになります。
こうして鎌足以来の藤原氏は紆余曲折(うよきょくせつ、物事が順調に運ばずに複雑な経過をたどること)の奈良時代を乗り切り、平安時代においてさらに栄華を極(きわ)めるようになるのですが、それまでの道のりも決して一筋縄(ひとすじなわ)ではありませんでした。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
道鏡がこの地で亡くなられていたとは、全く存じませんでした(^_^;)
というか、昔はこの地方は追放場所となるほどの僻地と考えられていたんですね(苦笑)
離れ島ばかりが追放場所だとばかり考えておりました(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今となっては失礼な話ですが、奈良時代の頃の東日本は、都の位置関係から「未開の地」と勝手に認定されていた可能性がありますね。
前回の和気清麻呂も逆の意味で僻地と考えられますし、現代では島流しと考えられる「流罪」の観点が全く違うといえるのでしょうか。
ここ こんにちは、TPPをご存知ですか?緊急なのでコメントさせていただきました。
野田内閣が、11月のAPECまでに参加するかどうかを決めると言って、本格的に議論し始めました。
TPPは、日本の経済を破壊するだけでなく、主権も失わさせる恐ろしいものです。
ニュージーランドも国を挙げて反対しています。
農業、漁業が破壊されるだけでなく、金融、保険、医療、年金、あと全て破壊されます。
かんぽ保険・年金は全て根こそぎ取られます。
交渉の席にも座ってはいけません。ワナです。
絶対、断固反対です。
野田内閣は10/11に、国民との対話の場を設置しました。
しかし、10/11のNHKでのアンケートで恐ろしい結果が出ていたのです。約半数が賛成意見だったのです。逆に、反対が9%しかありません。
参加賛成40%、反対9%、どちらともわからない40%。
このままだと、文字通り日本を失ってしまいます。
どうぞ、各自ポスティング等で反対の意志を示してください。
チラシはネットでも探せます。
直接電話してください。
外務大臣: 玄葉光一郎 TEL 03-3508-7252 FAX 03-3591-2635
経済産業大臣:枝野幸男 TEL 03-3508-7448 FAX 03-3591-2249
youtube:『TPPで日本をぶっ潰せ!!』 ~ 10分で理解できるTPPの問題点 ~
ここ 先程のTPPの件の続き。
自選挙区の国会議員へ「阻止しないと二度と支持しない」との手紙を送ってください。左翼でも有権者の声は無視できないとのこと。
数日置いて複数投函してください。
お願いです。後一ヶ月もありません。
至急お願いします。【拡散希望】
ここさんへ
黒田裕樹 ブログと全く無関係なお言葉ですが、私の判断で掲載させていただきます。
何と親王と后の母親とが「男女の関係」となってしまったのです。その母親こそが藤原氏の式家の血を引く藤原薬子(ふじわらのくすこ)でした。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒(げきど)された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城天皇(へいぜいてんのう)として即位されると薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横(せんおう)が続きました。
809年、平城天皇は病気のために弟の嵯峨天皇(さがてんのう)に譲位(じょうい)されました。平城上皇は旧都の平城京に移られて療養(りょうよう)されましたが、やがて健康を回復されると再び政治に意欲を持たれて嵯峨天皇と対立し始められました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
実際に結婚させようとした相手が、まだ幼子であった事がそもそもの間違いではあったのでしょうけれど、も、母親役である薬子は戦略的に親王と関係を持ったのでしょうか。。それとも、二人の間には本当に愛情が芽生えていったのでしょうかね・・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今となっては詳しいことは分かりませんが、平城天皇は病弱でなおかつ父親の桓武天皇との関係も良くなかったとされていますから、幼い頃から孤独感があったのではないかと考えられます。
そんな寂しさを紛らわすかのように、年上であったと思われる薬子に何とも表現しようのない感情を抱き、深い関係につながったのではないでしょうか。
天皇も人の子
ろっぽん こうやって見てみると天皇とて人の子
なんですね
水島裕が現皇太子に男の子が授かるよう
現代の常識では、違法の側室を作れとと言ってるがそうまでして男系を維持しなければならないんだろうか。この逸話でますます万世一系に疑問視する。伝統ってただ単に受け継ぎ継承するものではない人心の退廃があっては伝統も退廃する。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るようなお考えも、当然主張されてしかるべきでしょう。
天皇を単なる政治の道具としてみなすのか、あるいは我が国の平穏のために長い間ずっと祈り続けておられることや、結果的にとはいえ男系の血統の長さが比類ないことで世界中の多くの国々から我が国が一目置かれている理由となっていることを、個人的にどう評価することではないかと思います。
ろっぽんさんのお考えはもちろん評価しなければいけませんし、言論弾圧は決して許されません。そして、同じことは私のブログにおいても言えます。
810年9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知(さっち)された嵯峨天皇によって阻止(そし)されました。敗れた上皇は出家(しゅっけ)され、仲成は射殺(しゃさつ)され、薬子は毒をあおって自殺しました。この事件を薬子の変といいます。
この結果、藤原四兄弟の宇合を始祖とする式家は没落(ぼつらく)し、房前の子孫である藤原冬嗣が率(ひき)いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。この後、北家の子孫は皇室との結びつきを強めて次第に勢力を伸ばしていくことになるのですが、その背景には「藤原氏以外の他家の勢力が大きくならないうちに潰(つぶ)す」という策略(さくりゃく)もありました。
例えば842年には伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)らが皇太子を東国へ移して謀反(むほん)をたくらんでいるとして処罰(しょばつ)されたり、866年に平安京の応天門(おうてんもん)が炎上(えんじょう)した際には、事件の首謀者(しゅぼうしゃ)として伴善男(とものよしお)が処罰されたりしています。
なお、842年の事件は承和の変(じょうわのへん)、866年は応天門の変(おうてんもんのへん)と呼ばれています。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
お名前が薬子だけに仏教で言う所の
「変毒為薬」は出来なかったんですね(^^ゞ
それにしてもこの頃は随分と争いごとが多かったんですね・・( ´゚д゚`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > お名前が薬子だけに仏教で言う所の
> 「変毒為薬」は出来なかったんですね(^^ゞ
それはできなかったようですが、平城上皇が健康を回復されたのは薬子の持っていた薬学の知識による貢献もあったと考えられているようですね。毒をあおったのもその知識があったからとか。
> それにしてもこの頃は随分と争いごとが多かったんですね・・( ´゚д゚`)
そうですね。権力がまだ確定していなかった分、争いごとの種は尽きなかったようです。
オバrev 藤原氏同士で争うとは、藤原氏の権力に対する執念はすごいですねヮ(゚д゚)ォ!
そんな政治の流れとは関係ないですが・・・
疑問その1:藤原薬子は女性ですが、女性の名前に「子」という字が、この頃既に使われていたのでしょうか?
疑問その2:仲成は射殺されていますが、この頃の既に鉄砲があったんでしょうか、いや無いはずですから何によって射殺されたんでしょうか?
本題とはズレていますが、よろしくお願いしますm(^^)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原氏同士で争うとは、藤原氏の権力に対する執念はすごいですねヮ(゚д゚)ォ!
邪魔する者がいなくなれば、身内同士で争うようになる。権力争いの典型例でもありますね(@_@;)
> 疑問その1:藤原薬子は女性ですが、女性の名前に「子」という字が、この頃既に使われていたのでしょうか?
そうですね。今回の講座で紹介した藤原不比等の娘の宮子や光明子も「子」が使われていますし、昔は男女に関係なく「子」を使っていましたから。
> 疑問その2:仲成は射殺されていますが、この頃の既に鉄砲があったんでしょうか、いや無いはずですから何によって射殺されたんでしょうか?
「射殺」は飛び道具全体に対して使用されますから、この場合は「弓」ですね。
空海。
晴雨堂ミカエル 北大路欣也主演映画「空海」では、平城上皇をステレオタイプな精神薄弱者に描いていました。
薬子は色仕掛けで惑わす妖艶雌狐キャラ。
遷都に反対した既成仏教勢力を絡めての動乱に演出しているものの、大味な三時間超大作でした。
実のところ、平城帝や薬子はどんな人物でしょうね?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 そういえばそんな映画がありましたね。
一部は事実に基づいているとはいえやはりフィクションですから、ステレオタイプな大味になってしまうのは致し方ないのかもしれません。
今回の講座では紹介しきれませんでしたが、薬子の父親の種継は長岡京への遷都を指揮しながら殺されています。この事実に関する複雑な感情が絡み合って、桓武天皇との仲が良くなかった平城天皇との男女関係が生まれていったのかもしれませんね。
さらに良房の養子の藤原基経(ふじわらのもとつね)が884年に関白(かんぱく、天皇の成人後に政治を代行する職のこと)に任じられ、藤原氏はますますその権力を強めることになりました。
その後、菅原道真(すがわらのみちざね)が重用されて藤原氏の勢力が一時は弱まりましたが、901年に道真をウソの密告(みっこく)で陥(おとしい)れ、大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷(させん)させました。この事件は昌泰の変(しょうたいのへん)と呼ばれています。
こうして他家に対する容赦(ようしゃ)ない謀略(ぼうりゃく)を続けた藤原氏でしたが、969年に源高明(みなもとのたかあきら)を謀反の罪で大宰府へ流すという安和の変(あんなのへん)を起こすと、藤原氏に対抗できる他氏勢力がついに存在しなくなり、以後は藤原氏が摂政や関白を独占(どくせん)することになりました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはり一代で財を成すと言う偉業の裏では
その為に命を奪われたり、地位から蹴落とされたり、泣かされる人も大勢いるという事でしょうね。
いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、綺麗事だけでは人間は生きてはいけませんからね。もっとも、藤原氏と言えども永遠に勢力を拡大というわけにもいかなかったのですが…。
> いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
道真は優秀な人間でしたから、それゆえに藤原氏は無実の罪で彼を追放しました。ところが世の中というのは分からないもので、道真の死後に我が国では不穏な出来事が立て続けに起こって、道真のタタリが起きたとして朝廷は彼の名誉を回復し、神様として祀(まつ)ることになります。
そして、これこそが天満宮の由来でもあるんですよね。
太宰府。
晴雨堂ミカエル もともと太宰府帥は三位以上の名誉ある高官なのに、道真の一件で権帥は左遷というより大臣の流刑ポストになってしまいましたね。
道真は太宰府の仕事はせず、殆んど軟禁状態だったとか。
因みに私は菅原道真の末裔だと祖母が言っていましたが、果して?
名字に「菅」の字が入っていれば、若干の説得力がありますが、ありませんから。
藤原の末裔という場合もありますが、これはあり得そうです。藤原家は繁栄した一族で分家や庶流は数えきれない。また私の一族は少なくとも数百年まで遡れる古い家ですので、可能性はあるでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、道真の存在が大宰府の印象を悪くしてしまいましたね。海外への玄関口となる重要なポストのはずだったのですが。
家系というのは色々ありますよね。私の家の家紋は「丸に下がり藤」ですから藤原氏の末裔と言えそうですが、皇室のようにはっきりとした系図が残っていない以上、私の場合は信用できそうもありません。
オバrev 太宰府天満宮へは、長男の中学受験と大学受験の時に行きました・・・次男と長女の時に行ってないのは内緒(^_^;)
その後長男が福岡の大学に通うことになり、また行きました。
しかし菅原道真は、まあ無念だったでしょうね。
しかしまさに藤原氏盤石の構えですね。他の勢力は手も足も出ないって感じでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 私は残念ながら太宰府へは行ったことがありません(´・ω・`)
九州地方にも滅多にいかないのですが、チャンスがあればみずほやさくらを利用したいですね。
道真や源高明の追放に成功した後は、藤原氏を出し抜こうという勢力は現れず、逆にそのおこぼれにあずかろうとしたようですね。まさに日の出の勢い、いや満月といった方がいいでしょうか(^^ゞ
よくわかりませんが
ろっぽん 藤原というのは、皇族でないとすると
貴族なんですかまた、平泉の藤原一族とは関係がないのですかこのへんが学校時代からよく理解してませんでした。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 藤原氏は豪族出身の貴族と言えますね。出自についてはいずれブログで紹介することになります。
なお、奥州藤原氏は俵藤太(=藤原秀郷)の子孫とされていますが、藤原秀郷自身も含めて藤原氏とのつながりには疑問の声もあるようです。
道長は4人の娘を天皇の后として自らは摂政となり、約30年にわたって権力を握り続けました。彼が絶頂の頃に詠(よ)んだとされる「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名ですね。
道長によって全盛期を迎えた藤原氏の権力は、子の藤原頼通にそのまま引き継(つ)がれました。始めは摂政、やがて関白となった頼通は、約50年に渡って政治の実権を握り続けました。
このように10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原氏が摂政や関白を独占して行った政治のことを摂関政治(せっかんせいじ)といい、摂政や関白を出した家柄(いえがら)のことを摂関家(せっかんけ)といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル どちらかなのか、二人ともなのか、糖尿病を患っていたとの話を聞いた事があります。
いくら贅沢三昧だったとしても、当時の摂取カロリーは現代人より少なかったはず、余程の運動不足か、当時の体質は高カロリーに対応していなかったのでしょう。
ふと思ったのは、束帯姿を連想する道長ですが、実際は奈良時代の朝服に近いデザインだったみたいですね。直衣みたいなのはあったらしいが、束帯は源平合戦の頃辺りに確立。道長の時代はまだ朝服に近く、石帯もまだバックルが付いていたらしい。
ところで、我家の家紋は丸に扇です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 道長は糖尿病患者としても有名なようですね。それだけ贅沢な暮らしをしていて、仰るように体質上の問題があったのでしょうか。
国風文化が華やかになった平安中期と言えども、今しばらくは中国の影響を受け続けていたのかもしれませんね。
ぴーち こんばんは!
外敵が誰もいなくなると、今度は内々での骨肉の争うですか・・(^^ゞ
なんとも浅ましいものを感じますね・・
それでもそれによって内乱が治まり、国内が安定して行ったのなら、それはそれで仕方が無い事だったのでしょうか・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに浅ましく見えますね。
この争いはあくまでも宮中での出来事でした。今回は詳しく紹介しませんが、こうしている間に地方の風紀は乱れに乱れまくったのです…。いずれ機会があれば詳しく紹介したいですね。
なぜなら、通常であれば藤原氏のようなややこしい立場をとらずに、前の皇帝や国王を追放(あるいは殺害)して、自身が王位に就(つ)くのが当然だからです。現実に洋の東西を問わず、日本以外の国では何度も同じようなことが行われてきました。
それなのに、なぜ藤原氏は自身が天皇になろうとしなかったのでしょうか。その理由としては、先述した宇佐八幡宮神託事件の際に「皇位は神武天皇以来の皇統が継承すべきである」と決められたことが挙(あ)げられます。
また、事件の以前であっても蘇我入鹿のように皇位を狙(ねら)った人物が目的を達成できないままこの世を去ったように、神武天皇やその祖先である天照大神(あまてらすおおみかみ)の血を引く人物でなければ天皇になれないという不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない法律や約束事のこと)が存在していました。
つまり、藤原氏といえどもその不文律を破ることが出来ず、この後に天下を取った源氏(げんじ)や足利氏(あしかがし)、あるいは徳川氏(とくがわし)も皇室についてはアンタッチャブルのままだったのです。加えて藤原氏には、その出自(しゅつじ)から天皇に逆(さか)らって自身が皇位を継承することが許されない宿命(しゅくめい)がありました。
その根拠(こんきょ)が、実は神話(しんわ)にあるのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
そうですか・・やはり宿命には誰も逆らう事は
出来ないですので、それを何とかしてもぎ取ろうとする野望の強さに脅威さえ感じますね(^^ゞ
アンタッチャブルですか・・英語だとやたらにかっこ良く聞こえますね(´∀`*)ウフフ
私は映画を思い出してしまいました^^
ロバートデニーロのアル・カポネ・・かっこ良かったです(*^_^*)←脱線してしまい、ごめんなさい(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 宿命は意外なところにあるものですよね。
アンタッチャブルの映画は有名ですよね。もっとも、現実のアル・カポネはまた違うようですが、藤原氏の場合はどうだったのでしょうか?
明日(17日)の更新で明らかにしたいと思います。
足利義満は皇位簒奪を考えていた?
晴雨堂ミカエル 足利義満は皇位簒奪を考えていたとの説があります。れっきとした清和源氏の流れですから先祖は天皇、拡大解釈すれば足利家も皇統の端くれといえなくもない。
しかし物理的に権威と権力両方を握るのは負担ですね。余程の能力がなければ、後醍醐天皇のように失策して混乱をまねきます。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 足利義満は皇位簒奪を考えていたとの説があります。れっきとした清和源氏の流れですから先祖は天皇、拡大解釈すれば足利家も皇統の端くれといえなくもない。
仰る説は有力ですね。清盛や頼朝と比べれば数少ない例外といったところでしょうか。あるいは義満の「失敗」を学んだ家康がアンタッチャブルを貫き通したということも考えられます。
> しかし物理的に権威と権力両方を握るのは負担ですね。余程の能力がなければ、後醍醐天皇のように失策して混乱をまねきます。
私もそう思います。義満も正確には「子を天皇にして自分は上皇となる」という考えのようでしたから、天皇の権威を借りるという点では同じかもしれません。
神髄に迫る!
EgloffMeiko 「実は、世界史的に見ればこの形式は有り得ないのです。」そうです!あいつら(失礼)はこのような時間のかかることはしません。
「やっちまえ~」で終わりですから。
この「不文律」の存在、つまり「血で繋ぐ」こそが日本の国柄の神髄であると思います。
大変内容の濃い授業!ありがとうございます。
EgloffMeikoさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
我が国独自の血統による平和的なシステムは、世界に誇れますよね。
藤原氏の「神髄」にも迫ってみたいと思います。
深い英知
EgloffMeiko 黒田先生、こんにちは!
『日本国体学会 天皇とは」
を読んでいましたら、次のような記述がありました。黒田先生のことを思い出しましたので、ここにご紹介させていただきます。
http://www.kokutaigakkai.com/ronbun4.html
『外国の歴史でみれば、幾百年の長きにわたり、藤原氏ほどに実質的大権を連続的に掌握していれば、いつの間にか革命が行われるのが常例である。(中略)まさに、世界的常識である。
しかるに日本は、前後四百年の政権を独裁した藤原氏の勢力ですら、いかにしても、皇統皇位を奉ずるの外に道はなかったのである。
個々の歴代天皇に対して、どのような横暴不臣の態度をとったにもせよ、皇統の一方によって充足、表現、体証される万世一系の天皇を無視することは、絶対的に為し得なかったのである。
これ万世一系の天皇の統治実の不滅なる活動、すなわち日本民族生命体系の内在する自爾(じに)の大法則に服するほかになかったからである。』
自爾(じに)という言葉を始めて目にしました。日本人の深い英知を感じました。
では、お元気で!
EgloffMeikoさんへ
黒田裕樹 天皇という我が国における気高いご存在がよく分かりますね。
お知らせくださって有難うございます。
また、天照大神の命によって皇孫(こうそん)の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から日向(ひゅうが)の高千穂(たかちほ)に天降(あまくだ)りなさったという天孫降臨(てんそんこうりん)の際に、天児屋根命は瓊瓊杵尊に付(つ)き従(したが)ったとされています。
つまり、藤原氏は神話の代から皇室に忠実に仕(つか)える家であると決められていました。そんな思いがあったからこそ、藤原氏の権勢がどれだけ強力なものになろうとも、自分が天皇になろうとは思わない、いや思えなかったのです。
また、武家として初めて政権を握った平氏や源氏も、古くは皇室の血を引いていましたから、本家を侵(おか)すことが出来ずに朝廷をそのまま残しましたし、その考えが足利氏以降の武家政権にも脈々(みゃくみゃく)と受け継がれています。
我が国では長い間神話というものが常に意識されてきました。そんな思いが長年の伝統として自然と皇室を尊敬する気持ちを高めるとともに、藤原氏自らが天皇になるという道を閉ざしてきたのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
今日のお話を伺っていて、私は全く違う事を想像してしまいました(^^ゞ
神話が野望の歯止めになっていたというのなら、
その神話的な存在が今の日本の憲法9条にも該当するように感じました。黒田さんはどう思われますか?
私の見当違いでしたら、お許し下さいm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 神話が野望の歯止めになっていたというのなら、
> その神話的な存在が今の日本の憲法9条にも該当するように感じました。黒田さんはどう思われますか?
なるほど、争いを好まずに話し合いで解決するとすれば確かに一理ありますね。
この場合、国内であれば通用しますが、国外では相手国次第になってしまう可能性があるのが残念ではあります。
なおまゆ こんばんは!
この話は初めて知りました。
天皇家がどうして残ったか、納得です。
いわゆる『革命』が起きなかったのも日本人の潜在意識に『神話』があったからなんでしょうね。
織田信長が天皇家を超えようとしたという説もありますが、私は信じていません。
豊臣秀吉は、明を征服して天皇家を移動させようと計画しましたよね。しかしながら、姓を下賜された事実から、秀吉にも天皇家を超える気はなかったと思っています。
私なりですが、一層、歴史をおもしろく感じました。
ティーグ 初めまして。
神話が日本の歴史に大きく影響している点については私も同感です。
ただ藤原氏が皇室に忠実であったかどうかに関しては疑問に思っています。
平安時代の代表的な建物に平等院鳳凰堂がありますが、これは藤原氏の個人的別荘でした。同時期、平安京の正門である羅城門は荒れ放題でした。
羅城門は天皇家のものであり皇室の忠実な家来であればそれよりも豪華な鳳凰堂のような建物を建造せずに羅城門の修復に力を費やしていたのではないでしょうか。
また道長は法成寺建立の際に羅城門の礎石を盗んだと小右記に書かれていますが、これについてはどのようにお考えでしょう。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、神話は長い間我が国の背骨となって存在していました。
潜在意識の深さが、藤原氏が皇室を超えることを拒んだのでしょう。
信長や秀吉の解釈については、色々なお考えがあって当然と思います。
ティーグさんへ
黒田裕樹 はじめまして。お言葉有難うございます。
藤原氏の祖先が皇室に忠実な豪族であったことは間違いないですが、その意識は時代が流れるにつれて薄くなったことは私も同感です。
小右記における道長の行為も、皇室に対する尊敬の薄さを物語っていると思います。ただ、藤原氏に流れる「皇室に忠実な部下」という血が、皇室を超えることをためらわせて一線を越えさせなかったのではないかと考えております。
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神話の伝承
青田 黒田先生
青田です。
私は、若い頃は、日本の神話について
否定的で、馬鹿にしていた面がありました。
それは、心の中で、
『どうせ、創作』だと思っていたからです。
それゆえ、日本の古代史が、大嫌いでしたが、
最近、古事記を読むとハマってしまいました。
天照大神の『3つの教え』とは
① 人々を大切にする。
② 皇位継承を守る。
③ 平和を愛す。
だったんですね。
これがあるから、藤原氏以降の政権も
● 天皇を越えようとしない。
● 戦いの大義名分が『平和のため』が正義になる。
(西洋では、戦うための大義名分が『自由のため』が正義になっている。)
そう考えると、日本の歴史教育について、根本から、見直しが必要な気がします。
というのも、神話を全く、教えていないからです。
私は、伝承としてでも、絶対に日本の神話は、歴史教育で、教えるべきだと思います。
そうしないと、皇室についてだけでなく、
地名・官職名・建築物などで、辻褄が合わないことがたくさん、出てきます。
青田さんへ
黒田裕樹 私も仰るとおりかと思います。
1068年に藤原氏を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位されると、翌1069年には延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を出されて、藤原氏の大きな財産であった荘園を大幅(おおはば)に削減(さくげん)されました。
また、後三条天皇の子の白河天皇(しらかわてんのう)が幼い実子に譲位されると、お自らは幼い天皇を後見するという名目(めいもく)で新たに白河上皇(しらかわじょうこう)として政治の実権を握られました。
つまり、それまでの摂関家にかわって天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が新たに誕生したのです。院政(いんせい)と呼ばれたこの手法によって藤原氏の権力は急速に没落しました。
さらに院政が始まって約100年後には、平氏や源氏によって武家政権が誕生したことによって藤原氏は政治の実権を完全に失い、摂政や関白は事実上の名誉職(めいよしょく)へと押しやられてしまったのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
藤原氏のこれまで運命に逆らいながらも、突き進んで来た野望も、男子の誕生と言う大きな運命という壁だけは
乗り越える事が出来なかったんですね。
今でも男女の産み分けに関しては神のみぞ知る。。と言った領域を脱してはいないのでしょうけれど、それでもその神の領域にまで人間が手を加えて操作してしまおうという野望は尽きる事はないようですね。
人間の欲というのはつくづく際限の無いものだなと思います(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇子を生めずに外戚になれなかったことが崩壊を招いたのですから、世の中というのは本当に分かりません。
産み分けについては、神の領域に土足で踏み込むような行為は慎まなければいけませんね。もっとも、藤原氏であればどんな犠牲があっても手に入れそうですが…。
なおまゆ 教科書には出てこない後三条天皇の荘園整理令はもしかしたら、土地制度の歴史上画期的な法令なのでは?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 教科書には出てこない後三条天皇の荘園整理令はもしかしたら、土地制度の歴史上画期的な法令なのでは?
後三条天皇による延久の荘園整理令は高校の日本史教科書には登場しますが、仰るとおり我が国の歴史上極めて重要な法令です。
それまでにも何度か荘園整理令は出されていましたが、天皇が藤原氏の身内だっただけに形ばかりのものになっていました。しかし、何と言っても藤原氏を外戚としない後三条天皇ですから、藤原氏の荘園を容赦なく切り崩したのです。
荘園という「カネのなる木」を失った藤原氏は経済面で大きな打撃を受け、次代の白河天皇による院政で政治的にも急速に衰えることになりました。まさしく画期的ですね。
オバrev 中臣鎌足以来続いた藤原氏支配から抜け出る唯一のチャンスをモノにした後三条天皇って、もっと評価されてもいいと思いますね。
その他に後三条天皇の業績って目立ったものはあるんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 中臣鎌足以来続いた藤原氏支配から抜け出る唯一のチャンスをモノにした後三条天皇って、もっと評価されてもいいと思いますね。
仰るとおりだと思います。歴史の流れにうずもれそうな後三条天皇のご功績ですが、藤原氏への大打撃は高く評価されるべきでしょう。
> その他に後三条天皇の業績って目立ったものはあるんでしょうか。
ご在位中に延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん)が起きて、東北地方のすべてに朝廷の支配が及んだのもこの時期です。後三条天皇のお考えが当然反映されていると思います。
すなわち、近衛家(このえけ)・九条家(くじょうけ)・二条家(にじょうけ)・一条家(いちじょうけ)・鷹司家(たかつかさけ)の5家が本姓(ほんせい)は藤原氏をそのまま使用しながらも、一般的には地名や屋敷名(やしきめい)を苗字(みょうじ)として名乗り始めたのです。
なお、明治時代までは本姓と苗字とは明確に区別されていました。例えば徳川氏は正しくは苗字で、本姓は源氏(げんじ)です。
こうしていわゆる五摂家(ごせっけ)が摂政・関白を独占する時代が続きましたが、それらは政治の実権とは全く別の存在であり、有名無実(ゆうめいむじつ、名ばかりでそれに伴う実質のないこと)そのものでした。
しかし、そんな五摂家が一人の戦国武将によってにわかに脚光(きゃっこう)を浴びるようになっていったのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
苗字とは別に本姓という種類が普通に
存在していたというのは
初めて伺いました!
今でも女性は本姓と嫁ぎ先の苗字の二種類を
持つことになるとは思いますが、この時代は
誰でもそういうものだったのですか?
今は、苗字と名前に分かれていますが、
昔は本姓が名前に該当していたのですか?
質問ばかりで申し訳ありません(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本姓と苗字は全く違うものです。
姓はかつては「かばね」といって、朝廷から与えられたものでした。源氏・平氏・藤原氏・橘氏のいわゆる「源平藤橘」が有名ですね。
しかし、姓は種類が少なかったため、時が経つにつれて同じ姓の人が多くなって混乱するようになりました。そこで、同じ姓を持つ人が地名などを名乗って、例えば「足利地方の源さん」「新田地方の源さん」というような感じで苗字を名乗るようになったのです。
なお、明治時代になって国民すべてに苗字を名乗るようになってからは、姓と苗字との区別が事実上なくなっています。
ご質問の件ですが、鎌倉時代の頃は夫婦で違う名乗りをしていましたが(例えば、源頼朝と北条政子)、家が重視されるようになると、女性が(場合によっては男性が)新たに家に入るということで、同じ苗字を名乗るようになり、明治以降もこの慣習が残っています。
従って、本姓が名前になるということもありません。
オバrev そうそう鎌倉時代以降は、それまでの華やかな藤原氏の名前が歴史上から姿を消してしまっているという印象なんですよ。
実際は、権力はないけど摂関家として続いていたんですね。
本姓と苗字の両方を持っていたとなると、例えば近衛文麿の場合は、藤原近衛文麿のような言い方をしたんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > そうそう鎌倉時代以降は、それまでの華やかな藤原氏の名前が歴史上から姿を消してしまっているという印象なんですよ。
> 実際は、権力はないけど摂関家として続いていたんですね。
仰るとおり、鎌倉以後は藤原氏というよりも近衛家などの「五摂家」として、政治的権力はないものの、摂関家としては存続していました。
> 本姓と苗字の両方を持っていたとなると、例えば近衛文麿の場合は、藤原近衛文麿のような言い方をしたんでしょうか?
そのとおりです。正式には「藤原朝臣近衛文麿(ふじわらのあそんこのえふみまろ)」ですね(長い!)。
夫婦別姓をするなら・・。
晴雨堂ミカエル 江戸時代が長く続けば、水戸徳川家も苗字が「徳川」から「水戸」へ変質する可能性も無きにしも非ずですね。
ところで、夫婦別姓論者は欧米が導入していることを論拠に強弁しますが、欧米ではミドルネームがまだ生きています。第三以降の名前があるから、両家のアイデンティティ侵害を最小限に抑えているのを日本の別姓論者は知らずなのかワザとなのか無視しています。
明治の姓名合理化の戸籍制度のまま夫婦別姓にしたら大変な混乱をきたす。
別姓、同姓云々は別にして、私は江戸時代以前のように姓・苗字・通名・諱の四つを復活させても良いと思っています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、「水戸光圀」という別名がそのまま名前として定着した可能性もありますね。
我が国と西洋との事情の違いを理解せずに、強引に押し進めようとする姿勢は確かに良くないですね。
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)の養子になろうとして断られたとも伝えられる秀吉は、自身の弱点を補(おぎな)うために皇室の威光(いこう)を利用しようと考えました。つまり、自らが関白となり、天皇に代わって政治を行おうとしたのです。
しかし、関白は五摂家が交代で就任することになっていました。このため、秀吉は五摂家の一つである近衛家の養子となり、1585年に藤原秀吉(ふじわらのひでよし)として関白に就任しました。
さらに翌1586年には朝廷から新しい姓である豊臣(とよとみ)を賜(たまわ)り、豊臣秀吉と名乗りました。つまり、秀吉は「羽柴」という苗字はそのままで、藤原から豊臣へと改姓したことになります。
なお、豊臣氏は姓であることから、豊臣秀吉の呼び方は「とよとみひでよし」ではなく「とよとみのひでよし」が正しい、という考えもあるようです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
私は「羽柴」→「豊臣」としか認識しておりませんでした(^^ゞ
その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私は「羽柴」→「豊臣」としか認識しておりませんでした(^^ゞ
> その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
有難うございます。この事実は意外と知られていないんですよね。
身分の低い秀吉が出世するには、まず近衛家の養子になることが必要でした。しかし、一旦なってしまった後には養子にならずとも新たな家を立てれば良かったと思われます。
徳川家康(とくがわいえやす)が朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府(えどばくふ)を開くと、家康は朝廷への支配を強化するため、1615年に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定しました。
諸法度の制定の際に徳川氏が何よりも気を配ったのが、幕府の皇室に対する影響力を強めようとしたことでした。その手段として幕府は摂関家の地位を高め、天皇の子である親王(しんのう)よりも上位と定めました。
また、幕府は将軍の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)を摂関家から迎えるなど関係を強化することで、摂関家を通じて朝廷を幕府の意のままにコントロールしようとしたのです。
こうした幕府の姿勢によって、摂関家は政治の実権こそ失われていたものの、幕府とは比較的友好関係を築(きず)くとともに、朝廷での地位を高めることになりました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはり世に名を残す様な人物は、「先見の明」に長けていたんですね。この様なお話を伺っていると
先々の事を考えて、先手必勝とばかりに尽く手を打っていった事に改めて気付かされますね(^^ゞ
応援凸
家康の深謀。
晴雨堂ミカエル 豊臣政権はハク付けは豪華でしたね。身内に摂政を譲って豊臣一門の摂政関白の世襲を確立をはかり、主要家臣も内大臣や大納言を独占、公家たちはポストが無くなって意気消沈だったことでしょう。
家康は朝廷を支配すると同時に権威は譲った形ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。家康が徳川家のために行った政策によって、朝廷をしっかりコントロールすることに成功しました。
言葉は良くないですが、五摂家はそのおこぼれにあずかった感がありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 豊臣政権がハク付けにこだわったのは、自らの身分の低さへのコンプレックスだったのかもしれませんね。ただ、やりすぎたことによって公卿との関係が悪化した可能性もあります。
家康は朝廷に権威をあずけたほうが自己の政権が長持ちすることを、歴史に学んで理解していたのでしょう。