明治23(1890)年に我が国で議会政治が始まると、五摂家は貴族院(きぞくいん)の議員として活躍することになりますが、これは発展途上(はってんとじょう)にあった議会政治や政党政治に対する抑えという意味もありました。
時が流れて昭和(しょうわ)を迎えると、五摂家の筆頭という家柄(いえがら)を持ち、端正(たんせい)な風貌(ふうぼう)かつ颯爽(さっそう)とした長身(ちょうしん)で大衆的(たいしゅうてき)な人気を得た貴族院議長が現れました。
その家の血筋は江戸時代に一旦(いったん)は断絶(だんぜつ)したものの、外孫(がいそん、他家に嫁いだ娘にできた子のこと)として皇室の血統を迎えたことで高貴(こうき)さが強化されていました。
彼はやがて昭和12(1937)年に内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)にまで出世して、血統が違(ちが)うとはいえ、藤原氏の末裔が国政の最高責任者として君臨(くんりん)する日がやって来たのでした。
彼の名を近衛文麿(このえふみまろ)といいます。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ろっぽん 40年前、革新知事候補として皇族から
久我通武という元農林省官僚が立候補しました。
また婦人運動家として伊達家の血筋から伊達たまきさんという人がいます。
皇室で有ろうとなかろうと政治能力があれば
全然構わないと思う。また投票する方も皇族云々のステータスになっていません。
久我通武が落選したことからもわかるでしょう。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰る一例は確かにそのとおりですね。
それと同時に、近衛文麿が当時の国民や各界の期待を一身に浴びて内閣総理大臣にまで出世したのもまた事実です。
一例のみを取り上げて全部とすることは難しいかもしれませんが、近衛文麿に対する当時の期待感は、少なくとも虚構ではなかったと思われます。
わろ 文麿!!
教科書にも載っていて有名ですよね^^
名家出身で総理大臣だと、すごく期待があったのでしょうか?
そういえば、細川さんも名家?出身の総理ということになるのでしょうかw
わろさんへ
黒田裕樹 > 文麿!!
> 教科書にも載っていて有名ですよね^^
> 名家出身で総理大臣だと、すごく期待があったのでしょうか?
当時の国民の期待は相当大きかったようですね。しかしながら…。
> そういえば、細川さんも名家?出身の総理ということになるのでしょうかw
そういうことになりますね。二人には大きな共通点があります。それは何かというと…。
次回の更新までお待ちください(笑)。
しかし、彼が在任中の我が国は決して望ましい状態とはならず、最後の内閣を事実上投げ出した昭和16(1941)年10月からわずか2ヵ月後に、我が国はアメリカとの果てしない戦争の日々を送ることになってしまいました。
昭和20(1945)年に我が国が終戦を迎えると、近衛文麿は連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、別名をGHQ)からの指示による憲法改正に意欲を見せましたが、やがて先の戦争責任を問われて戦犯容疑(せんぱんようぎ)で逮捕(たいほ)が決定的となり、絶望した彼は毒をあおって自殺しました。
ちなみに、戦後の五摂家は伊勢神宮(いせじんぐう)の大宮司(だいぐうじ)など神官(しんかん)を務(つと)めている人が多く存在しています。また近衛家はその後再び血統が途絶(とだ)え、同じく外孫が後継者となりましたが、その兄が平成5(1993)年に内閣総理大臣となった細川護熙(ほそかわもりひろ)氏です。
近衛文麿と細川護熙の両氏がいずれも国民の期待を背負って首相に就任しながら、その途中(とちゅう)で内閣を投げ出した格好(かっこう)となってしまったことは、歴史における何とも言えない皮肉なのでしょうか。
なお、近衛文麿に関する詳(くわ)しい評価につきましては、別の機会に論じる予定です。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
縁者で同じような経緯を辿るとは、本当に皮肉なものですね(^^ゞ
戦犯容疑で逮捕されそうになり、自害の道を選ぶというのも、近衛文麿は最後まで自分の人生に向き合う事無く、責任から逃れようという意識だけが支配してたのですね。。自分で撒いた種は、自分で刈り取らなければ・・ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに近衛文麿には「責任逃れ」のイメージが付きまといますね。
同じように自殺を図りながら死にきれず、裁判が始まってからは堂々と答弁して最期には静かにこの世から退場した東條英機や、逃げようとは絶対されずに、マッカーサーの前で生命を賭けて国民を救おうとされた昭和天皇とは雲泥の差です。
kikuzi ひさしぶりにコメントさせて頂きます。
近衛文麿に関して、責任逃れというのは、少しあてはまらないように感じます。
彼は高貴な身分ですから、生きて虜囚の辱めを受けるくらいならと、潔く自決なされたのだと思います。
確かに、事ここに至っての自決ですから、軍人に比べれば、潔くはないかもしれませんが、戦犯と決定された事に対する抗議の自決と見る事もできます。
名門近衛家の方ですから、東条元首相よりも屈辱の度合いは大きかったでしょう。
こういった出来事の場合、今の自分たちの観点ではなく、当時の、また家柄や職種などの観点で物事を見る事も、時には大事なのではないのかな、と思う今日このごろです。
kikuziさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそういう見方もあるようですね。
近衛文麿の評価については、もう少しじっくりと確認する必要があるかもしれません。
お言葉有難うございます。
その栄枯盛衰ぶりは時代の流れを象徴するとともに、藤原氏の歴史をたどることで、我が国の大きな歴史のうねりを理解することにもつながります。
通常の歴史教育で今回のような流れを振り返ることは、時間などの制約で非常に難しくなっていますが、教師として実践(じっせん)する立場としては当然理解しなければならないことであり、今回のような長丁場(ながちょうば)の講座にも意義があると考えております。
これからも様々な切り口で数多くの歴史講座を展開してまいりたいと思いますので、今後ともお付き合い下さいますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(※第26回歴史講座の内容はこれで終了ですが、次回[10月25日]に補足の記事を載せます)




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
私も一通り、学生時代は歴史を勉強させていただいて
おりましたが、こうしてこの年になるまで全く考えもしなかった歴史上の事実に触れる事が出来た事に、改めて黒田さんには大変感謝いたしておりますm(_ _)m
やはり教育の現場ではなかなか伝えきれない部分というのが多々あり、その現場に再度立たれているお立場上、更にもどかしさを感じられているのでは無いでしょうか。そういう意味でも講座を開催され、歴史を考える場を与えてくださる事に感謝すると共に、これからもどうぞそのモチベーションを保ちつつ、頑張っていただきたく存じます^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 励ましのお言葉有難うございます。
仰るとおり、現場の歴史教育ではなかなか実践できない大きな歴史の流れですが、ブログや講座を通じてさらなる研究を重ねることで、少しでも授業に役立てればと思っております。
こうした作業は時として孤独感にさいなまれるものですから、ぴーちさんのようなお言葉が本当に励みになりますm(_ _)m
なるほど。。
マリリンカ 黒田先生コンバンワヽ(○・▽・○)ノ゛
お久しぶりです・・・
私も学生の頃から平安時代は好きです(^^ゞ
穏やかなイメージが・・・あります~
まだ発展途上みたいな~
実は麻呂って言うのが好きなんです(^^
すいません・・・こんな理由で・・・
知らない事や忘れている事が多いと・・
ここの記事を読むとあ~と思う事が多いです。
勉強になりますね(@^^)/~~~
マリリンカさんへ
黒田裕樹 こちらこそご無沙汰しておりますm(_ _)m
歴史を好きになるのに理由は必要ないですよ。
これからもどんどん参考にして下さいね(^_^)v
オバrev 歴史ってのは、教科書通りに時代をたどることが基本でしょうが、様々な角度から見直すことも、また面白いですね。
今回まさに時代を作った、時代の寵家?とも言える藤原氏が、いつのまにか歴史の上から消えさっていたイメージだったので非常に不思議に思っていましたが、その流れがよく分かりました。
光を当てられていない歴史上のテーマは、まだまだ多く埋もれていそうですね。
この公開講座はさらに続きそうです(^_-)ネ
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な角度から歴史を見直すことによって、埋もれた真実を探り当てることができます。
その楽しさがあるからこそ、歴史教育の実践はやめられません(^^♪
> この公開講座はさらに続きそうです(^_-)ネ
もちろん続けますよ(^_^)v
藤原氏といえばやはり奈良・平安時代の印象が強いと思われますが、政治の実権を完全に失った後も細々と存続していました。そのことが戦国や江戸時代、ひいては我が国の運命を変えた近現代史にまで大きな影響を与えるのですから、歴史というのは本当に分かりません。
また、藤原氏が政治の実権を失った後も武家政権などに滅ぼされることがなかったという、一般的な外国との大きな違いも特筆(とくひつ)すべきではないかと思います。皇室と同様に「権威と権力との絶妙な分配」が、我が国の歴史の伝統なのかもしれません。
私が常々(つねづね)口にしております「歴史の大きな流れを理解することの大切さ」を実感しながら、今後も歴史教育の実践に末永く携(たずさ)わっていきたいと願っております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ろっぽん 権威と権力との絶妙な分配」が、我が国の歴史の伝統なのかもしれません。
ですが、戦前の日本が悪いことだけやったんではないとする議論は語られてはいるけど。
日本史のターニングポイントも教えられて来なかった気がします。
世界史の大づかみの見方は貴族:騎士の対立騎士の勝利=封建社会→大航海時代→帝国主義→産業革命→民主主義革命→社会主義革命
というように革命というように前政権の全否定、
急速な変革というような流れだと思います。
私達の学校時代は唯物史観の研究者が強かった時代ですから、世界的常識的流れで見る先生が多かった。日本的保守的、保守とは単に自民党的というのではなくて、急速に変革というのは危険なことも多いだ。昔からの風習伝統を守って徐々に世の中を変えてゆくのがいいとする保守的風土、
そういう意味では、この藤原氏ことやもっと
南朝:北朝時代、なぜ織田信長は暗殺されたか
織田信長に本当に天下を取らせれば天皇の排除し
西欧的な歴史の流れになっていたかもしれないと思います。今度、橋本氏が大阪市長撰に出るらしいが彼自身も言ってるように「変革に大切なことは独裁だ!」だと言ってるように信長的な考えと
同じくわかりやすい変革論だ!
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かに保守的な風土と変革との違いがありますね。
閉塞感を感じる世では人々は変革を求めますが、新しい枠組みが定着した後には独裁者を排除する傾向があるようです。
それゆえに信長は暗殺され、家康は独資者を出さないシステムで江戸幕府を長持ちさせたのかもしれません。