また、義教は天台座主から還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して将軍になったため、暗殺された当時、二人いた子供がまだ幼かったことが、将軍権力の弱体化に拍車(はくしゃ)をかけました。義教の後を継いだ第7代将軍の足利義勝(あしかがよしかつ)は就任時わずか9歳で政治ができるはずがなく、しかも翌年に急死してしまいました。
義勝の死後は、弟の足利義政(あしかがよしまさ)が8歳で第8代将軍となりました。はじめのうちの義政は、祖父の義満や父の義教にならって将軍権力の復活を図(はか)り、永享の乱の後に鎌倉公方となった足利成氏(あしかがしげうじ)と関東管領の上杉氏との内紛にも積極的に関わりました。なお、1454年に始まった成氏と上杉氏との争いを、当時の年号から享徳の乱(きょうとくのらん)といいます。
しかし、義政の妻である日野富子(ひのとみこ)や実家の日野氏、あるいは有力な守護大名らが次々と政治に介入(かいにゅう)したことで、いつしか義政は政治への関心を失って贅沢(ぜいたく)な暮(く)らしを始めたため、将軍としての人望を失ってしまいました。
政治に興味をなくした義政は、将軍の地位を誰かに譲(ゆず)って気ままに余生(よせい)を過ごしたいと思いましたが、日野富子との間には男子がいませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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アクア 妹が二人いまして、
さっき、4年生が京都ってなにがあんのぉ?
6年生が、ねぇねぇ卑弥呼から藤原さんまで習ったんだよ~
って事で、
足利家と、金閣、銀閣
について、語ってきました。
義政は8代で8才の時になったんだよ。
って言っときますね。
アクアさんへ
黒田裕樹 > 妹が二人いまして、
> さっき、4年生が京都ってなにがあんのぉ?
> 6年生が、ねぇねぇ卑弥呼から藤原さんまで習ったんだよ~
> って事で、
> 足利家と、金閣、銀閣
> について、語ってきました。
> 義政は8代で8才の時になったんだよ。
> って言っときますね。
それはお役に立ててよかったです(^^♪
妹さんたち、そのまま歴史好きになってくれれば良いですね(^ω^)
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ぴーち こんばんは!
「万人恐怖」の将軍でも世の中をまとめていた事は事実ですものね。
何だか今日のお話は、イラクのフセイン大統領を思い起こしてしまいました。時代はこのお話の方が過去ですが、やはり独裁者というのはいつの世にもどこの国にも出現するものなんですね。
フセインもその「万人恐怖」だったのでしょうけれど、いざ、いなくなってしまった後のイラク国内は、まとまりの無い無法地帯となってしまいましたものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「万人恐怖」の将軍でも世の中をまとめていた事は事実ですものね。
> 何だか今日のお話は、イラクのフセイン大統領を思い起こしてしまいました。時代はこのお話の方が過去ですが、やはり独裁者というのはいつの世にもどこの国にも出現するものなんですね。
> フセインもその「万人恐怖」だったのでしょうけれど、いざ、いなくなってしまった後のイラク国内は、まとまりの無い無法地帯となってしまいましたものね。
そのとおりなんですよ。
独裁者であっても、実力が高い分だけ、それなりに国内をまとめることが出来るんですよね。
独裁を嫌う思いは万国共通ですが、その後のことを考えないと、かえって多くの国民が被害にあうというのも皮肉なものだと思います。
義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚(おろ)かな話はありません。しかし、優柔不断(ゆうじゅうふだん、ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと)な義政には、どちらを後継にするかを決めることが出来ませんでした。
義政がいつまで経っても後継を決めないことに業(ごう)を煮やした義視と富子は、義視が管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に、富子が四職(ししき)筆頭の山名宗全(やまなそうぜん・※注)にそれぞれ接近すると、細川・山名の両氏が幕府の政治の実権を握ろうとして争い始めました。
この他にも守護大名の畠山氏や斯波氏(しばし)の家督(かとく)争いがからんで、1467年についに京都で大きな戦いが始まってしまいました。戦国時代(せんごくじだい)の幕開けともいわれる、人世空(ひと・よ・む・な)しい応仁の乱(おうにんのらん)の始まりです。
(※注:山名宗全は出家後の名前であり、それ以前は山名持豊(やまなもちとよ)と名乗っていました。)
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 義教暗殺から応仁の乱までの時代を舞台にした大河ドラマがあります。
「花の乱」で、当時若手の狂言師野村萬斎氏が若き管領細川右京大夫勝元、萬屋錦之助氏が山名宗全、将軍義政は市川海老蔵の父親、そして日野富子の少女時代を松たか子氏が演じています。
萬屋錦之助の美しい殺陣が久しぶりに見れ、萬斎の怪演、十代の松たか子の初々しさなど、なかなか貴重映像です。
ところで、武家として位人身を極めた義満には毒殺説があるようですね。
そして四代目は、何故か義満の覇権主義を嫌い、金閣寺を残して他の豪華な屋敷を壊したり、自身も大納言以上の官位を望まなかったり。
幕府の権威権力を自ら縮小させる事をやったのは、何故だと思いますか?
義教は近年評価が上向きですね。籤引き将軍なので、無能扱いでしたが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 そういえば「花の乱」がありましたね。
今から16年前だったでしょうか。
義満の毒殺説は、天皇の地位を後もう少しで義満の息子の義嗣に奪われそうになったので、それを未然に防ぐためだったのではないかという考えからきているようです。
そして、義満や義嗣と仲が悪かった義持は、義満のすべてを否定するために金閣以外を破却して、義満の「太上天皇」の追贈も拒否し、莫大な利益となる日明貿易も辞めて、それゆえに幕府の権威や権力も縮小してしまった、という説を聞いたことがあります。
義教の再評価については、歴史の真実を探るためには良いことだと思います。
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ぴーち こんばんは!
あ、ここで「応仁の乱」が登場するんですね(^^A
この乱の前後の経緯が今まで全く頭にありませんでしたが、黒田さんの記事を読ませていただき、初めて理解出来た気がします。いつもながら、無駄の無い理路整然とした文章、さすがですね!!
それにしても、優柔不断からこんな大事になるとは、やはり上に立つものは包括的な判断能力が必要不可欠ですね^^;
それでは、明日の講座、頑張ってくださいね^^
応援しています♪
こちらへも応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あ、ここで「応仁の乱」が登場するんですね(^^A
> この乱の前後の経緯が今まで全く頭にありませんでしたが、黒田さんの記事を読ませていただき、初めて理解出来た気がします。いつもながら、無駄の無い理路整然とした文章、さすがですね!!
有難うございます(^^♪
物事には必ず原因がありますからね。いつものことですが、それが理解できなければただの暗記ですから。
> それにしても、優柔不断からこんな大事になるとは、やはり上に立つものは包括的な判断能力が必要不可欠
尊氏もそうでしたし、義政も…。かと思えば義満や義教みたいな怪物(?)もいますし、足利氏には極端な人物が多いですね(笑)。
> それでは、明日の講座、頑張ってくださいね^^
> 応援しています♪
> こちらへも応援凸
頑張ってきますよ!(^o^)丿
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オバrev 将軍職への意欲もなく決断もできないなんて、義政は将軍たる器ではなかったんだろうと思います。
それだけで済めばいいけど、そのことがもたらした罪はあまりに大きすぎましたね。
実は同じように、球団トップが球団を強くしようという気もなく、大胆に戦力を補強するという決断もできないという悲劇のチームを知っています(>_<)
黒田先生.
りら 日野富子
興味あります
映画やドラマに度々 登場
大抵 悪女に扱われています
実際はどうだったのか 楽しみです
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 将軍職への意欲もなく決断もできないなんて、義政は将軍たる器ではなかったんだろうと思います。
就任当初(といっても成長してからですが)はやる気があったみたいですが、途中からまったく無気力になったようです。だったらさっさと将軍の座から去ればよかったのですが…。
> それだけで済めばいいけど、そのことがもたらした罪はあまりに大きすぎましたね。
室町幕府の権力はすでに有名無実化していましたが、白日の下にさらけ出したのは義政ですからね。
どう考えても責任逃れは出来ないでしょう。
> 実は同じように、球団トップが球団を強くしようという気もなく、大胆に戦力を補強するという決断もできないという悲劇のチームを知っています(>_<)
私も知ってますよ(´・ω・`)
真っ赤な情熱はどこへ行ってしまったんでしょうか…・゚・(ノД`)・゚・。
りらさんへ
黒田裕樹 > 日野富子
> 興味あります
> 映画やドラマに度々 登場
> 大抵 悪女に扱われています
> 実際はどうだったのか 楽しみです
「日野富子=悪女=守銭奴」というイメージがありますからね。
今回の講座で詳しくは紹介しませんが、彼女の蓄財力が義政の「文化」を支えていた側面もありますから、一概に「悪女」とは決め付けがたいとは思います。
戦いは京都を中心に果てしなく延々(えんえん)と続き、1473年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲(ゆず)った後も治まりませんでした。ようやく1477年に終戦を迎えましたが、11年の長きにわたった戦いによって、京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
応仁の乱の終結によって、守護大名のそれぞれの領国に戻りましたが、一度火がついた争いは全国に拡大して、各地の荘園も、混乱の中でほとんどが守護大名や地方豪族である国人(こくじん)の支配下に入りました。
また、応仁の乱の頃から、大名の主な兵力の中心となっていた足軽(あしがる)の存在が目立ち始めました。足軽は主に金銭面で大名とつながっていることが多かったために忠誠心が薄く、このため各地で暴徒化(ぼうとか)して掠奪(りゃくだつ)を繰り返しました。




いつも有難うございます。
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けん爺ちゃん こんにちは(^ワ^)
お久しぶりです。
応仁の乱は京都を荒廃させる
凄惨な戦いだったようですね。
戦国の幕開けが中央の求心力低下(経済も含めて)から
始まった経緯を再度勉強させて頂きました。
比叡山の焼き討ちの話は初耳でした。
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > こんにちは(^ワ^)
> お久しぶりです。
ご無沙汰しております。
お元気でしたか?
> 応仁の乱は京都を荒廃させる
> 凄惨な戦いだったようですね。
> 戦国の幕開けが中央の求心力低下(経済も含めて)から
> 始まった経緯を再度勉強させて頂きました。
お言葉有難うございます。
仰るとおり、応仁の乱は長く続いた分、影響も大きかったようですね。
戦国の世への直接の引き金であったことは間違いないようです。
> 比叡山の焼き討ちの話は初耳でした。
義教がもたらした影響も意外と大きいと思います。
あまり知られていないのが不思議なのですが…。
1485年、京都に近い南山城地方の国人の指導によって分裂していた畠山氏の軍を国外へ追放し、8年間にわたる一揆の自治支配を実現させました。これを山城の国一揆(やましろのくにいっき)といいます。このように、身分の下の者が上の者の勢力をしのぐことを下剋上(げこくじょう)といい、この時代の大きな特徴になりました。
また、蓮如(れんにょ)による布教(ふきょう)で広まった浄土真宗(じょうどしんしゅう)の門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)たちが、信仰による大きな力によってしばしば一揆を起こしました。浄土真宗は別名を一向宗(いっこうしゅう)ということから、浄土真宗の門徒が起こす一揆のことを一向一揆(いっこういっき)といいます。
なかでも加賀国(かがのくに、現在の石川県南部)の門徒たちは国人と協力して、1488年に守護であった富樫政親(とがしまさちか)を倒した後に、本願寺の僧侶(そうりょ)と門徒の農民を中心として、織田信長に滅ぼされるまで約1世紀にわたって支配を続けました。これを加賀の一向一揆といいます。
※明日(6月28日)からは第15回歴史講座の内容の更新を開始します。




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佐佐木あつし こんばんは(≧∇≦)b
いよいよ、歴女さん達萌え上がりの時代ですね。
僕の大好きな北条早雲ももう少し待てば・・・(  ̄▽ ̄)
ってところで引っ張るのは流石
先生です(笑)
第15回歴史講座も楽しみにしてます!!
.
紗那 まさに下克上の連鎖ですね……!
この時代はある意味、近世以前で民衆が最も大きな力を持っていた時代とも言えるのではないでしょうか。
これ以前もこれ以後も、幕府の一方的な統治が行われるわけですし。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > いよいよ、歴女さん達萌え上がりの時代ですね。
> 僕の大好きな北条早雲ももう少し待てば・・・(  ̄▽ ̄)
> ってところで引っ張るのは流石
> 先生です(笑)
いや、そんなつもりはないのですが…(^^ゞ
まぁこればっかりはタイミングですので(笑)。
> 第15回歴史講座も楽しみにしてます!!
ご期待下さい( ´∀`)bグッ!!
紗那さんへ
黒田裕樹 > まさに下克上の連鎖ですね……!
> この時代はある意味、近世以前で民衆が最も大きな力を持っていた時代とも言えるのではないでしょうか。
下剋上の名のごとく、民衆といえども力を持っていた時代といえるでしょうね。
その分、生命の危険に絶えずさらされるのですが…。
> これ以前もこれ以後も、幕府の一方的な統治が行われるわけですし。
そうですね。戦国の世の異常さがうかがえます。
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.黒田先生
りら 約1世紀にわたって支配
こんなに 長くに渡って
宗教の影響の強さがあったのですね
驚きました
信長に滅ぼされなかったら
どんな事になっていたでしょう
りらさんへ
黒田裕樹 > 約1世紀にわたって支配
> こんなに 長くに渡って
> 宗教の影響の強さがあったのですね
> 驚きました
> 信長に滅ぼされなかったら
> どんな事になっていたでしょう
諸外国がそうであるように、宗教の力は決して侮れません。
しかし、宗教は時として信仰の自由その他の人間の生活を脅かしかねないものですから、我が国の場合は信長がいてくれてよかったといえるのかもしれませんね。