南北朝の合一は、今後も持明院統(=北朝)と大覚寺統(=南朝)とが交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)を行うことや、諸国の国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)を大覚寺統の所有とすることなどを条件に、三種の神器を南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)から北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に譲(ゆず)るというものでしたが、いざ三種の神器が北朝側の所有となると、義満は約束を守ることなく、この後も北朝の子孫が代々皇位に就(つ)かれることになりました。
怒った南朝側は、皇統の子孫や南朝の遺臣らによる抵抗を続けましたが、後には子孫が殺害されるなどの悲劇を生むことになりました。これを後南朝(ごなんちょう)といいます。義満は自らの約束を反故(ほご)にするという非常に醜(みにく)い手段で南北朝の合一を実現したわけですが、それまで二つあった朝廷が一つにまとまったことで、混乱が収まって世の中が平和に向かうという皮肉な結果になりました。平和というのは綺麗事(きれいごと)だけでは実現できないということなのでしょうか。
さて、自らの手で朝廷を動かし、平和を実現させたことで自信を深めた義満は、幕府の体制を強化するとともに、内に秘めた自らの野望に向けて動き出しました。




いつも有難うございます。
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りら 以前から 疑問に思ってきた事が 今回の講座で お話聞けました
今の天皇家は 正当な お血筋なのでしょうか
と言う事です
勿論 天皇制に反対ではありません
むしろ 賛成です
総理の外交より 皇室外交のほうが
遥かに 効果的な場合が多いと思います
りらさんへ
黒田裕樹 > 以前から 疑問に思ってきた事が 今回の講座で お話聞けました
> 今の天皇家は 正当な お血筋なのでしょうか
> と言う事です
現在の皇室は北朝の血を引いておられますし、少なくとも第26代の継体天皇からは間違いなく同じ男系の血が流れていますから、正当な血統であることは疑いないでしょう。
> 勿論 天皇制に反対ではありません
> むしろ 賛成です
> 総理の外交より 皇室外交のほうが
> 遥かに 効果的な場合が多いと思います
もちろん私も賛成ですし、万が一の場合は大変なことになります。
以前にも書きましたが、天皇陛下の国際上における地位は、ローマ法王と肩を並べる程の最高クラスですから、総理大臣とは比べものになりませんね。
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佐佐木あつし 先生こんにちは(≧∇≦)b
佐佐木です。
義満の行いを
どう見るか・・
非常に大きなテーマですね。
アニメの一休さんでは
人のよさそうな
好々爺として描かれてましたが(;・∀・)
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 義満の行いを
> どう見るか・・
> 非常に大きなテーマですね。
そうですね。混乱が続いた南北朝をまとめるあたりの政治手腕はさすがですが、その後が…。
> アニメの一休さんでは
> 人のよさそうな
> 好々爺として描かれてましたが(;・∀・)
アニメですからね(笑)。
一休さんが成長する頃は、義満はすでに出家していたみたいですよ。
義満は、南北朝の合一で朝廷を一つにまとめて政権の安定化を図るとともに、大きくなった守護大名の弱体化を目指して、1390年に美濃(みの、現在の岐阜県南部)・尾張(おわり、現在の愛知県西部)・伊勢(いせ、現在の三重県北部)の守護を兼ねた土岐康行(ときやすゆき)を滅ぼしました。これを土岐康行の乱といいます。
翌1391年には、西国11ヵ国の守護を兼ね、六分一殿(ろくぶんのいちどの)と呼ばれた山名氏の内紛(ないふん、内輪もめのこと)が起きると、義満はこれに乗じて山名氏清(やまなうじきよ)を滅ぼしました。この戦いを、当時の年号から明徳の乱(めいとくのらん)といいます。
さらに義満は、中国の明(みん)と勝手に貿易を行っていた、周防(すおう、現在の山口県東部)の守護大名である大内義弘(おおうちよしひろ)を1399年に滅ぼすことに成功しました。この戦いは、当時の年号から応永の乱(おうえいのらん)と呼ばれています。
こうして国内の守護大名の力を抑えた義満は、自らの野望に向けてさらに前進していきました。その野望とはいったい何のことでしょうか?




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りら 室町に豪華な邸宅を造営し政治を行ったことから 室町幕府と呼ばれるようになったのですね
有名な室町幕府の名前の由来 初めて理解出来ました
とても 嬉しいです 有難う御座います
りらさんへ
黒田裕樹 > 室町に豪華な邸宅を造営し政治を行ったことから 室町幕府と呼ばれるようになったのですね
> 有名な室町幕府の名前の由来 初めて理解出来ました
> とても 嬉しいです 有難う御座います
有難うございます。
鎌倉に幕府を開いたから鎌倉幕府。
江戸に幕府を開いたから江戸幕府。
室町幕府も同じといえば同じなのですが、義満の時代になって室町に築いたところが違うんですよね。
意外と知られていない歴史の事実。これからも折に触れて皆様にご紹介できればと思います。
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ぴーち こんばんは!
「花の御所」
名前だけは頭の片隅に
うっすらと記憶しておりました^^
が、そこから足利氏+室町幕府という図式に繋がる経路が断線して
いましたが、今日は黒田さんのお陰で、無事開通することが出来ました!
ありがとうございます☆
しかも、応永の乱と「応仁の乱」
こちらは、未だにショートしております^^;
それでは今日も「応援の乱」で
押しまくりますw
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「花の御所」
> 名前だけは頭の片隅に
> うっすらと記憶しておりました^^
> が、そこから足利氏+室町幕府という図式に繋がる経路が断線して
> いましたが、今日は黒田さんのお陰で、無事開通することが出来ました!
> ありがとうございます☆
「花の御所=室町」という計算式(?)はなかなか印象に残りにくいですからね。
ぴーちさんのお役に立てて光栄です(^_^)v
> しかも、応永の乱と「応仁の乱」
> こちらは、未だにショートしております^^;
> それでは今日も「応援の乱」で
> 押しまくりますw
確かに「応永」と「応仁」は紛らわしいですよね(^^ゞ
「応援の乱」…。物凄いパワーを感じるのは私の気のせいでしょうか(爆)。
中国の皇帝から「国王」に任じられ、暦を受け取るという行為は、中国を宗主国(そうしゅこく)と認め、屈辱的(くつじょくてき)な朝貢外交(ちょうこうがいこう)を行うことを意味しました。
これは、聖徳太子以来続いてきた我が国の中国大陸からの独立性を損(そこ)なうものでしたが、義満は自らを「日本国王臣源道義」(にほんこくおうしんげんどうぎ)と称して貿易を行いました。なお、道義とは出家した義満の法号(ほうごう)です。
なぜ義満は朝貢外交を受け入れてまで貿易を行ったのでしょうか。主な理由として考えられるのは、貿易による莫大(ばくだい)な利益を得るためには、対等であろうが朝貢であろうが問題ないという経済重視の姿勢ですが、もうひとつの隠された理由がありました。
実は、義満は自らが「天皇を超える存在」として君臨(くんりん)するという大きな野望を持っており、明から「日本国王」に任じられること、つまり明からの「お墨付き」を得ることによって、野望達成の近道になると確信していたからでした。




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りら 明からの「お墨付き」をもらって
までの義満の野望
情けない話です
日本が属国になったかも知れません
こんな 危険は常に 歴史上
ありましたね
独立が守れて ほっとします
りらさんへ
黒田裕樹 > 明からの「お墨付き」をもらって
> までの義満の野望
> 情けない話です
> 日本が属国になったかも知れません
> こんな 危険は常に 歴史上
> ありましたね
経済と引き換えに我が国を属国扱いにしようとした義満でしたからね。
「国王」として君臨することは、天皇を超えようとした野望にはさぞ心地よかったことでしょう。
結果的に彼がやったことは「売国奴」「不敬」ですね。その末路は…。
> 独立が守れて ほっとします
全くです。ひるがえって現代は大丈夫でしょうか…。
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ぴーち こんばんは!
義満は「野心満々」であったのならまだしも、お話を伺っていると
まるで「垂涎三尺」ですね(><)
野心の度を超えて、野望になってしまうと、
醜く映りますし、結局は己の首を
絞める結果にもなるような気がします。。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 義満は「野心満々」であったのならまだしも、お話を伺っていると
> まるで「垂涎三尺」ですね(><)
> 野心の度を超えて、野望になってしまうと、
> 醜く映りますし、結局は己の首を
> 絞める結果にもなるような気がします。。
義満の場合は南北朝の合一を果たしたことで自信過剰になり、それがやがてとてつもない野望へと結びついたのでしょう。
仰るように、非常に醜く感じますね。この話は次回(16日)まで続きます。
こうして自らの地位を固めた義満は、妻である日野康子(ひのやすこ)を天皇の生母と同じ地位を与えられる准母(じゅんぼ)とするなど、身内にも皇室に近い待遇を与え始めました。さらに義満の子の足利義嗣(あしかがよしつぐ)が成人した際の儀式である元服(げんぷく)の際には、宮中(きゅうちゅう、ここでは朝廷の中という意味)で天皇の子である親王(しんのう)に準じた形式で行いました。
つまり、義嗣は親王と同じ待遇になったのです。ということは、近い将来には義嗣が天皇になり、義満自身は天皇の父、つまり上皇に準ぜられ、「治天の君」(ちてんのきみ)として朝廷を支配することになる―。皇室にとってはまさに最大の危機でしたが、義満の野望は、結局は実現することはありませんでした。
なぜなら、義嗣が元服した直後の1408年に義満は病に倒れ、急死してしまったからです。なお、義満の死後、朝廷は太上天皇(だいじょうてんのう)、つまり上皇の地位を追贈(ついぞう)しましたが、幕府は辞退しています。




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りら 義嗣のあつかましさに驚愕します
急死してくれて よかったです
朝廷は太上天皇つまり上皇の地位を追贈しましたが
これは朝廷の真意では無く
仕方無くの事だと思います
辞退したのが せめて救いです
りらさんへ
黒田裕樹 > 義嗣のあつかましさに驚愕します
> 急死してくれて よかったです
現代では死語になりつつありますが、義満や義嗣の行為は皇室をないがしろにする「不敬」そのものですからね。義満はバチがあたったというところでしょうか。
> 朝廷は太上天皇つまり上皇の地位を追贈しましたが
> これは朝廷の真意では無く
> 仕方無くの事だと思います
そうですね。当時は義満がタタリを起こす可能性も考えられましたから、やむを得ないという一面もあったと思います。
> 辞退したのが せめて救いです
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ぴーち こんばんは!
「悪の栄えた試しなし」とは良く言った言葉ですが、その典型的な例でしょうか。実際的には「悪徳政治家」はなかなか世の中からは消えてはくれませんが(^^A
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「悪の栄えた試しなし」とは良く言った言葉ですが、その典型的な例でしょうか。実際的には「悪徳政治家」はなかなか世の中からは消えてはくれませんが(^^A
そうですね(^^ゞ
今回の場合はまさに勧善懲悪(?)でしたが、現実の世界はそう簡単にはいかないようです。
とはいえ、現代では選挙という民主的な手段がありますからまだ良いほうかもしれません。
もっとも、国民のための政治を期待して政権交代したはずなのですが…。